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2013.03.11

団体競技としての刑事尋問

冤罪を扱った本を読んで思ったこと。

警察で行われる被疑者の取り調べ、とくに「それが冤罪であった」と断じられた刑事尋問というものは、被疑者と捜査官の戦いというよりも、むしろ「たしかな記憶などどこにもない」ということをルールの前提にした、一種の団体戦であるように思えた。

空白の時間は大切

トイレでその場を離れた誰かに対して、「さっき君がトイレに立った時に聞いたんだけれど、みんなずいぶん君のことを嫌っているみたいだね」とささやいてみせても、嫌なことを聞かされたその人には、ささやきの真実性を検証できない。「君のことを嫌っている」と断じられた誰かに問いただしたところで、その人の言葉が真実かどうかもわからないし、もちろんささやいた人間が嘘をついているのかどうかも証明できない。

検証できない時間の空白に猜疑心を植え、それを踏み台に人間関係の分断を試みるのが、誰かの信念を書き換えるときの基本的なやりかたであって、それが自己啓発セミナーみたいな場所であっても、恐らくは取調室であっても、やりかたはそれほど変わらない。

被疑者の自白は、文字どおり自発的な信念に基づいて行われる。自白の獲得は、とくに冤罪の原因になってしまうようなそれは、被疑者との論理ゲームに捜査員が勝利した結果としてもたらされるのではなく、被疑者の人間的な脆弱性をつくことで、その人の信念を書き換えた結果として獲得されるものであって、真実それ自体の有無は、ゲームの結果をそれほど大きく左右することはないのだろうと思う。

取り調べというものを、事件の真実を追求する場ではなく、とにもかくにも疑わしい誰かから、捜査員にとって好ましい自供を獲得するための場であると考えるのならば、被疑者を他の人達から隔離すること、記録が不可能な時空間をそこに用意することは、信念の書き換えを行う際には絶対に譲れない要素になってくる。

味方チームは分断される

僻地に飛ばされ、疲れて潰れた同業者は、たいていの場合、本拠地の同僚にとどめを刺される。

僻地の状況が厳しく過ぎて、「なんとか増援をよこしてください」なんて本拠地に悲鳴を上げれば、最初の頃こそたぶん、本拠地の病院からは「もう少しだから何とか頑張ってくれ」なんて応援のメッセージが来るけれど、遠くの悲鳴はすぐ飽きる。

僻地に飛ばされたその人は、待てども来ない増援にいよいよ潰れた頃、本拠地ではもう、悲鳴はコンテンツとしての賞味期限を終え、単なる環境雑音として処理される。

いよいよどうにもならなくなったその人が、無理やり空けた予定をやりくりして、なんとか本拠地に直訴をすれば、「やあ久しぶり。元気そうだね。楽な仕事で太ったんじゃないの」なんて、元同僚の親しい冗談が、その人の心を気安く折ってしまう。

味方への不信が、その人の信念が書き換わる時の原動力になる。味方と信じた誰かが敵を公言してみせる必要はない。問題に関する温度差に断絶が感覚できたそのとたん、人の心は簡単に折れてしまう。

被疑者を隔離した捜査官は、被疑者に対して「証拠はある。友人もあなたが犯人だと思っているようだ。あなたについた弁護士は偏向していて、犯人のことなどどうでもいいと思っているふしがあるから解任したほうがいい」といったアドバイスを送るんだという。冤罪になった事例ではたしかに、味方であった弁護士はしばしば、被疑者自身の判断で解任されていたりする。

被疑者を取り巻く味方は、弁護士の人や家族、友人といった複数人数のチームは、まずは被疑者から一番遠い人間、事件に関係の薄い人間から、皮をむくようにして引き剥がされるのだろうと思う。

たとえば事件について秒単位の時間経過を表にまとめ、事件から遠い相手に、「今証言したそれは、何時何分何秒のできごとですか? 」と尋ねる。答えられない相手に踏み込み、「我々はこれだけ緻密に調べている。それなのにあなたは何分何秒なのか知らないという。あなたの記憶はあやふやにすぎるように思う」と断じてみせる。最遠の味方がチームからの離脱を宣言すれば、今度はそこに生じた猜疑心を踏み台に、次に遠い人間をまた剥がす。今度は2人分の猜疑心を踏み台に、3人めを剥がす。それを繰り返すことで、そのうちチームはばらばらに、被疑者から一番近い誰かも剥がされてしまう。

捜査官は結束する

捜査官はたいてい複数で、対等なチームと言うよりも、強面のベテラン捜査官が一人、部下である優しい捜査官が複数、上下に厳しく極めて堅固に固まったチームとして、被疑者と対峙することになる。

ベテランは捜査の神様であるかのように形容される。優しい捜査官の口からは、「あの人が黒というのだから、あなたは間違い無く黒なんだよ」という言葉が繰り返される。

ベテラン捜査官は、被疑者のことを犯人であると断じ、冷酷無比な嘘つきであるという前提で話を進める。被疑者の人たちはしばしば、まるで岩を前に話をしているような気分になるのだという。その一方でたいてい、被害者のことも悪く形容される。「お前は悪人だ。でもあいつもひどい人間だった。お前がそうしたのもある意味しかたがないのかもしれない」と同情されてみたりもする。

伝統的な「いい警官と悪い警官」の方法は、優しい態度の「いい警官」が状況を操作する。

優しい捜査官は、怖がる被疑者に同情する一方で、怖い捜査官のことを、「あの人は怖いけれどとても公平で、証拠に厳密な人なんですよ」とフォローしてみせたりもする。優しい態度で被疑者からの信頼を得られたら、被疑者の味方を名乗る弁護士が帰った後で、「悪い弁護士に当たっちゃいましたね。あの人は口だけで、信じると大変な目に会いますよ」とつぶやいてみせればいい。

信念の書き換えは、常に優しい口調で行われる。優しさは、恐怖が実態を持って目に見えている前提ならば、恐ろしく鋭利な道具でもある。

捜査官のチームが堅固に固まる一方で、被疑者のチームがバラバラにされ、誰もが自らの記憶を疑うようになり、お互いの記憶に矛盾が生じた時点で、捜査官のチームは勝利する。

それが冤罪と断じられた事例であっても、被疑者はたいてい、強要されるのではなく、自らの信念に基づいて自供をはじめるのだという。

録音はルールを根本から変える

取り調べの現場が録音されると、被疑者チームの結束は硬くなる。捜査官の言葉は検証され、虚偽や矛盾が指摘され、味方の仕事量が増えた結果として、被疑者の声が「飽きられる」可能性も遠ざかる。

捜査官チームの状況は極めて不利になる。

それが証拠を積み上げた論理ゲームなら、録音の有無はゲームの色合いこそかえるけれど、ゲームそれ自体はきちんと成立しうる。ところが信念の書き換えゲームとして刑事尋問を行い、被疑者の自供を獲得しようとした場合、録音は人間の脆弱性を排除してしまう。これはサッカーでキックを禁止されるようなもので、ゲームそれ自体が成立しなくなってしまう。

病院で行われる病状説明も、そこに録音機を持ち込む患者さんが増えてきた。それはたしかに、医師にとってもプレッシャーを感じるものではあるけれど、犯罪捜査に従事する人たちにとってはたぶん、録音機というものは、仕事のルールを根本から変えてしまう、到底容認することができない道具なのだろうと思う。

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