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第六章:ベンチと乳母車
 結局手元に1枚の絵が残ったまま、僕は宿屋に帰ってきた。
 売る前と同じように、ベットにその絵を投げ出す。そして同じようにフルトンの箱書斎を机に置く。
「……?」
 が、フルトンが顔を出すことはなかった。
 夕食の準備をしても、ちょっと目を離した隙になくなっている。書斎の明かりはついているので中にはいるようだが、姿は見えない。
「フルトン……?」
 声をかけても反応さえない。こんなことは始めてだった。1つだけわかったのは、今フルトンは僕と話したくはない、あるいは話せない理由があるということだ。
 仕方なく、僕はベットに横になる。ランプのちらちらとした明かりを吹き消すと、本当の静寂が部屋に落ちた。
 よくよく考えたら、ここ数日は眠る前に必ず誰かと話していた。今日はフルトンと話していないまま眠るので、フルトンと出会う前の夜と同じような夜だ。
「……………」
 1人の夜が怖かった。1人じゃない夜を、思い出してしまったから。



 鏡のような水面の湖。そのほとりの小さな家。真っ白なペンキで塗られた、本当に小さな家。
 生い茂る木々に囲まれた湖の傍に、小さなベンチがあった。そこに、1人の女性が腰かけているのが見える。
 女性はこちらに気づくと、聖母のような優しい表情で、こちらに向かってほほ笑んだ。
 さらに、家の中からは割腹のいい男性が歩いてきて、女性の肩に手を置くと、彼もまたこちらに向かってほほ笑んだ。
「ブナ……パトラ……?」
 僕が2人に向かって歩き出すと、2人はまたほほ笑んで、そして……歪みながら、暗がりへと吸い込まれていった。
「父さん! 母さん!」
 僕が追いかけても、もうそこには暗がりしかない。
「……………」
 そこには、古びた乳母車が倒れていた。



「うわあぁぁっ!」
 飛び起きると、体中汗びっしょりになっているのが一瞬で伝わってくる。まったく、とんでもない夢を見ていたようだ。
「ユジーン、大丈夫か?」
 突然の声に驚いて振り向くと、箱書斎からフルトンが顔を出していた。どうやら眠っていたのだろう、非常に驚いた様子だった。
「うなされていたが、悪い夢でも見たのか?」
「あぁごめん、大丈夫だよフルトン」
「そうか? ならいいが……」
 フルトンは何かを察したように表情を曇らせ、また書斎の中に滑り込んだ。書斎の明かりは、もうついていなかった。
「……あ、喋った、フルトンと」
 思えば、くだらないことを気にしていたようだ。フルトンと話さず眠ったからって、さみしいだなんて。まるで子供のようじゃないか。
 そう思うと、なんだか気恥ずかしさがこみあげてきて、僕は布団を頭からかぶって横になった。ところが、今度は不思議とさみしくない。
 フルトンと喋ったから? だとしたらますます単純で、子供だ。
 そんなことを思いながら、僕の意識はストンと暗がりに落ちて行った。


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