ある晩、ニュース番組の途中で居眠りをしてしまった。目が覚めたとき、ニュースはまだ続いていて、ちょうど飼い主から見捨てられ苦しむロバが今増え続け、それらを動物愛護団体が確保した保護区で受け入れ世話している、との報道をしていた(英国やニュージーランドの団体がその例)。私がそのルポルタージュの内容を正しく理解したなら、世界各地の農村地帯の近代化のあおりで、現在数十万頭にも及ぶロバやラバがもう不要になったとのことで、飼い主から捨てられているそうだ。
これらの動物は、世界各地で何千年もの間農作業に従事したり、飼い主の負担を軽減するために重い荷物を運んだりして、人間と共存してきた。経済発展が発展途上国の農村地帯に到達するには大分時間がかかるが、遠隔地の村々にも現在トラクターや自動車といった現代技術が徐々に導入されている。どうやら、この機械化のあおりを受け、ロバがだんだん必要とされなくなっているのだそうだ。報告によれば、多くのロバ達は長年粗末に扱われ、重荷を運ばされるという過酷な労働のお陰で健康を損ねているとのこと。そのことが又捨てられてしまうというリスクを高くしているのだ。飼い主は不要になったロバ達の世話やそれらに十分な治療を施すことができないとの理由だそうだ。それにしても、過酷な労働を長年強いられた後、粗末に扱われ、捨てられてしまうロバ達が可哀そうでならない。
このルポルタージュは、25年以上前のロバに関しての私の記憶を蘇らせた。その数年前、私はスイスのジュネーブに本部を置く、労働問題を扱う国連の専門機関の職員として採用されたのだが、ちょうどその時ある局から雇用局に配属され、人口と雇用に関する仕事をしていた。ある日、事務局長(DG)の官房室が、農村地帯の雇用問題を扱っていた私の先輩男性職員にある手紙を転送し、DGに代わって返事を起草するよう求めてきた。
その手紙の差出人は働くロバの保護に従事する団体で、世界中の数百万頭のロバが十分な食物や休養を与えられないまま過酷な条件のもとで労働を強いられており、その為健康が害されていると訴えていた。更に、世界の何百万人もの農村の人々の生活がそれらロバの働きに依存している為、動物たちの健康を維持することが、動物にとっても農村の人々にとっても最重要課題だと続けていた。最後に、それら働くロバの現状把握の為の研究に、我々の機関からの資金援助を求めていた。
返答の起草を依頼されたその職員が、実際どのような内容の文章をしたためたかは知らないが、私たちの組織が資金提供機関(funding agency)ではなかったという事実を考慮すると、否定的な応答だったに違いない。更に彼は、我々の機関の任務が、労働の世界での社会正義促進であるが、それは働く動物を対象としていないことも確認した。彼が懸念したのは、そのグループに少しでも援助をすれば、他の働く動物(例えば象、馬、牛等)の保護団体から要請が終わりなき続くであろうとのことだった。
彼は又、最終的な返答を起草する前、我々の限られた資金で組織内の多くの馬鹿達(asses:assとdonkeyは「ロバ」という同義語であるが、この場合は「馬鹿」とか「とんま」という意味)を守らなければならないので、働くロバ達の保護にまで回らないよ、と悪戯っぽく言っていた。彼がどの様な人々を念頭において “asses”と呼んでいたのかは分からなかった。国際労働基準の下で保護を必要とする労働者が大勢存在することを思えば、我々の組織が彼らの問題に集中して取り組まねばならないことは十分承知出来た。
それでも、私たちすべては、人生のさまざまな段階で労働者にも雇用者にもなる。我々が労働者として正義と思いやりを期待するなら、他者に対しても親切で慈悲深く接すべきだ。これは我々の生活を快適で楽しいものにする為に一生忠実に働いてくれた動物に対する態度も同じだと思う。このような動物達の働きや貢献の恩恵を受けてきた人達は、少なくとも彼らがまともな最後を迎えられるよう、大きな心を持つべきではなかろうか。