用途 | 陸軍将校倶楽部 |
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建築年代 | 明治40年(1907)11月 |
構法 | 木造平屋建て・瓦葺寄棟屋根 |
小屋組 | キングポスト・トラス構造 |
規模 | 約930㎡ |
施工者 | 堀江組(堀江佐吉、堀江彦三郎、堀江金蔵他) |
明治37年(1904) | 偕行社新築の計画 |
明治40年(1907) | 第八師団偕行社が完成 |
昭和20年(1945) | 弘前女子厚生学院が移転 |
昭和55年(1980) | 弘前女子厚生学院記念館 |
平成12年(2000) | 「県重宝」に指定(4月19日) |
平成13年(2001) | 「国の重要文化財」指定(4月20日/県内98件目)
指定対象/建造物1棟・棟札1枚門柱及びレンガ塀 |
藩政時代は、「九十九森」とよばれ、鷹狩場の一つであった。
九代藩主寧親公が文化12年(1815)に、
別邸と庭園(前庭と後庭からなる武学流)をつくった。
明治29年(1896)に弘前市南郊の富田に駐屯した陸軍第八師団の親睦・厚生組織である
「偕行社」の新築計画が明治37年(1904)に持ち上がった。
設計担当者は当時の陸軍関係施設を一手に引き受けてきた
弘前を代表する棟梁「堀江佐吉」である。
九代藩主津軽寧親別邸跡地(約22,000㎡)に明治40年(1907)に
イタリアルネッサンス風デザインを基調とした第八師団偕行社が完成した。
簡素な玄関ポーチに翼棟を広げたデザインは、
当時の軍関係施設の特徴を顕している。
戦前は、主に将校の社交場や物販・厚生施設として活用された。
明治41年(1908)皇太子嘉仁親王(大正天皇)がここに一泊したとき、
この庭園を「遑止園」と命名し、記念植樹をされた。
大正4年10月(1915)大正天皇の行幸の際、行在所となった。
終戦後、偕行社は解散し、
昭和20年9月20日(1945)弘前女子厚生学院が旧偕行社に移転、
昭和24年12月9日(1949)には弘前女子厚生専門学校地並びに校舎が
大蔵省より払い下げられた。
昭和55年まで弘前女子厚生学院及びみどり保育園(設置認可昭和23年6月30日)の
保育舎として使用してきたが、弘前市教育委員会と相談の上、
弘前女子厚生学院記念館として自主的に保存することとなり、
修復には、設計者堀江佐吉の流れを汲む堀江組が当たった。
外壁の塗り替え、屋根瓦の葺き替え、縁側屋根トップライトの修復、
室内の漆喰壁・腰板などの修復を行っている。
イタリアルネッサンス様式を基調とした翼棟付き木造平屋建て・
瓦葺寄棟屋根の偕行社が敷地ほぼ中央に建つ、
ポーチ付き玄関と翼棟が突出した正面性を重視した配置である。
東西に長い主体部は、桁行き48.8mの規模を持ち、
正面玄関にルネッサンス風車寄とポーチがあり、
玄関ポーチの角にモルタル擬石によるコーナーストーンや
玄関上部にルネッサンス風ドーマーウインドー(屋根窓)が格調を高めている。
その一方で玄関ポーチペディメントには
「八」をもじった「蜂」の鉄製飾りを付けるユーモアがあった。
玄関両脇及び翼棟の窓は円形ペディメントのローマ風デザインの上げ下げ窓があり、
主棟の窓は三角形ペディメントのギリシア風上げ下げ窓である。
軒の破風はバージボード(切り抜き板飾り)仕上げで、
鉄製の星型換気口は第五十九銀行(青森銀行記念館)と同じである。
片廊下に縁側付きの集会室は腰板に漆喰仕上げで、
漆喰によるシャンデリア付き円形の中心飾りに天井繰型がある。
暖炉には、外国製と思われるタイルが張ってある。
暖炉付き現記念室や会議室は縦長の上げ下げ窓に
腰板・漆喰壁・天井は当時の様子をよく残している。
構法は、木造平屋建て・瓦葺寄棟屋根にキングポスト・トラス構造に
平瓦下地のモルタル仕上げの外壁、
煉瓦による布基礎は明治期の洋風建築の特徴である。
旧弘前偕行社(弘前厚生学院記念館)
〒036ー8185 青森県弘前市御幸町8-10 TEL.0172-33-0588
■開館時間/午前9:00~午後4:00
■休館日/土曜・日曜・祭日
旧弘前偕行社紹介ムービー(クリックするとスタートします。)