以前に仏教とキリスト教のアプローチの違いについて
記事で触れた事があります。
元々は同じ天使達が与えた教えであっても
なぜに両者が極端に異なる教えとなっているのか?
一つにはそれを聞いて後の人間に伝えた人間達が
解釈を誤って趣旨を歪めてしまっている事や
私達が聖人達の語ってくれた言葉を形式的に理解していて
事の本質を理解できていないと言う実態にも原因があります。
さらに、仏教が心の暴走を抑える事を主とした目的としているのに対して
キリスト教は創造主の意志を求める事を目的としているからだと想像しています。
例えば仏教では108つの煩悩があるという取り上げ方をして
その煩悩を如何に抑えるかと言う事が
得てして主たる目的となっているかと思います。
108の煩悩と言う数に関しては
それをお釈迦様が語ったかどうかは判りませんが、
涅槃寂静を創造主の方で捉えれば
”心の暴走を止める事で魂の経路を意識する行為”であると認識できます。
一方キリスト教は”信仰”に重きを置いていて
神が存在する事とその意志が存在する事を前提に
それを求めること、神との対話を果たす事を主たる目的としています。
こちらは魂からの意識ををじかに求める行為ともいえます。
両者に共通しているのは、結局はそれが”悟り”と言う言葉であろうが
”啓示”という言葉であろうが、求めているものは同じだと言うこと。
つまりはアプローチが”心”の改善に重きを置いているのか
”魂”を求める事に重きを置いているのかと差があると言うだけで
究極的に辿り着くところに関して両者には差はない事になります。
先日、宗教関連のスレッドで、国内の仏教徒と
韓国系のクリスチャンが争っているのを見ました。
キリスト教が神を掲げているために
クリスチャンは神を意識しているのに対して、
仏教とは神を前提とはしておらず
自分の悟りを目的としていると言う違いもありますし
アプローチの違いがそのまま思想の違い
価値観の違いとなって現れ、
ましてそこに人間の価値観まで織り込んだ価値観を正しいとしている両者は
自分の価値観が正しいと信じて疑わないわけです。
更に民族意識をも価値観として持っている彼らは
その事含めて相手を罵倒していました。
しかし創造主の法に置いては肉体は仮のフォームであって
誰もがすべてを経験するという話にも繋がりますし
血や国籍で人間の間に差は存在しませんし、
仏教もキリスト教も、どちらも極めれば到達点は同じものです。
見た目に拘り影響を受ける傾向の強い私達は
形式的な上辺に拘りすぎるために、
元の教えの根底が同じものであると言う事が
認識できないのだと思います。
そしてこのように宗派の違い、
そして民族や血の違いは得てして争いの原因にもなります。
(国家や民族によって持っている思想にも差がでるので)
彼ら太陽系の天使達の話では、
孔子や老子と言われた賢者達の中にも
彼らの仲間が存在していたと言う事でした。
それは地球社会の偉人を片っ端から自分達の仲間として
その教えを美化している地球社会の独自の宗教のような主張ではなくて
すべてが本当の事だと思います。
時代が違えば、そしてその人間達の住んでいる地域の習慣が違えば
それに対して与える教えや効果的なアプローチも
当然異なってくる事は想像がつくのです。
しかし彼らの教えの本質的な目的、
そして彼らが実質的に教えたかった事が何であるかを認識できず、
それを後の人間が独自の価値観と独自の解釈で判断した事で
その教えの本質がねじ投げられてしまったのだとも理解すべきです。
例えば儒教の教えは人間間の道徳です。
キリスト教と仏教と儒教の違いにしても
それがマスター(指導者)となっている人間の教え方の違いだと理解できれば
聖人と言われた人間達の教えが
結果的には私達の心のあり方を通じて創造主の法を教えたものであると
解釈する事もできるはずです。
ただ、私達の理解すべきは
私達は聖人になろうとしているわけではないと言う事です。
この地球社会の人間は創造主の法の劣等生です。
それを理解出来きていないために
そして創造主の法を実践出来ていないからこそ
私達はここに存在していて
この地球社会の中で転生を繰り返している事を
自覚しなければならないと言う事です。
そして私達に創造主の法を説いた人間達は
天使達の中でもマスターと呼ばれるような指導者的な存在なのです。
地球社会の人間と天使達との精神的な進化の差を考えても、
ましてその中で指導者として信頼されている人間達の領域に
私達は今の一回の生だけでは到底達する事はできないのです。
その見た目を模倣する事はできても
自分ではそれに近づいているつもりでも
私達と彼らの差は歴然として存在します。
その事に気がついて
自分が大した存在ではないのだと言う意識を持って
自分は創造主の法に関して何も理解してはいないのだと言う意識を持って、
そこから学び始めなければ
聖人の教えを学び、それを模倣している自分を美化して、
自分を大きな存在であると勘違いする事にも繋がる事でしょう。
そして”正しい”と称する自分の価値観を絶対であるとして
その尺度で他人を図るから
先述のような争いにもなるのだと思います。
繰り返せば私達は創造主の法を学んでいる幼稚園児です。
私達が、大学院に在籍していて、
未だにそこで学び続けている聖人達に
いきなり追いつくことなどできるはずがありません。
私達は、彼らを自分と同じ地球の人間だから
自分もそうなる事が出来るのだと勘違いしているのだと思います。
その聖人達の教えを受けたはずの人間が
この社会には大量にいるはずなのに
彼らに肩を並べることの出来るような人間がこの社会には出てきていない事は
この世では混乱と争いが絶えていない事からも理解できるはずです。
形だけをまねて実践しても私達は聖人になどなる事はできない。
それがクリスチャンでも仏教徒でもです。
そしてこの社会の中の順列は
時には逆転するのだと言うことを
イエスキリストが語っていたことをも思い出してください。
後のものが先になる。
この世において褒め称えられるものは
天国に行くべき資質を持たない。
誰よりも偉くなりたいと思うのならば
一番末席について誰もに奉仕する存在になりなさい。
何度も私が繰り返し記事の中で紹介している言葉です。
昨日説明した内容を、
以前、質問を受けてそれに対して答えた内容を引用して、
ここでもう一度取り上げておきます。
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質問は”涅槃”についてです。
諸行無常と諸法無我に関してはこちらで記事にしたことがあります。
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11362816099.html
涅槃に関してはWIKIより抜粋すれば
涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされる。
しかし、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、
すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。
その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。
また、涅槃は如来の死そのものを指す。
涅槃仏などはまさに、死を描写したものである。
「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」
という意味で涅槃寂静といわれる。
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悟りと言われる状態が”煩悩”や”苦しみ”
から解放された状態だと認識して考えて見ます。
煩悩や苦しみの原因が何かを生命の科学に照らして考えれば、
まず、私達が経験から作り上げた既存の価値観や
私達の脳機能の本来持つ自己防衛的な意識が
心を甘やかしたがために、
外部から心が何かの刺激を受け止めた時に
それを不快と感じるその感覚が”苦しみ”だと言えると思います。
更にそんな心の価値観と、私達が生まれ持っている本能とが結びついて
作り上げた一切の欲求が煩悩だと思います。
それを全て消すと言うことは、つまり私達が生命の科学を学ぶ中で
心のエゴと本能を抑えるために努力している行為を
究極まで実現した状態になること。
つまりは一切の心のエゴの意識に囚われる事の無くなった状態であり
イエスキリストで言えば
「自分が為しているのではなくて父が私の体を持って為している」
と言っていた、まさにその状態を指し示しているのではないでしょうか。
創造主の分身でもある魂からの意識にのみ
従った状態になる事だと思います。
その時、私達は一切の心の負の想いを感じることなく
創造主の意識から与えられる想いのみによって行動する事になります。
つまりは涅槃寂静とは、
イエスやお釈迦様だからこそ可能であった、
限りなく心のエゴを抑えることで創造主の意志に従って行動している状態、
もしくは創造主の暖かい意識を感じ続けている状態と
説明できるのでは無いでしょうか。
残念ですが、私達が到達出来る領域では無いと思います。
一時的に心の暴走を抑える状態であれば、多くの方でも可能でしょうし、
その時には創造主の意志を閃きや想念として受け止め易いと思いますが
かと言って私達が、自分達の心の意識でなく創造主の意志だけで動けるかといえば
そこまではっきりと創造主の想いを受け止める事が出来る人は
この社会には居ないと思います。
天使達という進化した人間達の中で
更にマスター(指導者)でもあった高い意識を持った人間達だったからこそ
到達し得た領域であり、
悟りを目指している方には怒られそうですが、
創造主の法の落第生である地球社会の私達がそこに到達する事は
1万年早いという話になると思います。
(実質的な時間で言えば彼らはもっと長い時間を
記憶を持った転生を繰り返しているはずです)
私達は逆立ちしても聖人にはなる事は出来ません。
先ずはその域へと進むためのスタート地点に
立つ事こそが求められているはずです。
イエスキリストやお釈迦様のような太陽系のマスター達は
限りなく創造主に近づくために今でも進化の真っ最中でしょうし
意識は常に高いところにあるのだと思いますが
私達の悟りは、まず覚醒(真理に目覚めること)、
宇宙的覚醒(宇宙意識への覚醒)を目指す所から
始めなければならないと思います。
私達は背伸びをすることなく
身の丈のあったところから進んでいきましょう。
自尊心や過信は私達の進化の妨げにもなります。
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11009631713.html
宇宙の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11362816099.html
続・宇宙の法則番外編 釈迦の教え
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11361245976.html
アプローチの違い 仏教と覚醒
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11361455669.html
アプローチの違い 仏教と覚醒 後書き
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ここでは私はツイッターで質問された仏教の涅槃寂静を取り上げて
それが究極的には心の暴走とエゴを抑えることで
創造主の意志によって行動すること、
つまりは聖書のイエスキリストが語っていた
「私が為すのではなくて私の肉体を通じて父が為している」
と言う状態と同じものであると説明させて頂きました。
涅槃寂静が心の暴走から解き放たれる事である以上
その時に私たちが受け止めて行動する指針となる意志は
自分の心の中の価値観であればそれがエゴから出たものではないもの
もしくは魂から受け止めた創造主の意志と言う事になりますし
一方ではイエスキリストは肉の想い(心の意識)ではなくて
御霊の意識(魂の想い)によって生きる事を実践し
それを自分の意志でなくて父の意志を実践していると語っていたのですから
両者が同じものである事は明らかなのです。
キリスト教徒と仏教徒の違いは、
いってみれば富士山の登山において静岡県ルートと山梨県ルートが存在していて
それぞれ進んでいる最中は別の道を歩いているわけですが
辿り着く最終的な目的地は富士山の頂上であり
そこに到達した時には両者は実は同じ目的を持っていて
それを共に果たしたという事に気がつく事になります。
つまりクリスチャンであっても仏教徒であっても
覚醒者同士は間違いなくお互いを理解しあえることになります。
仏教徒とクリスチャンの争いは
途中過程で違う道を進んでいるからと、
自分の進んでいる道こそがを正しいとしては
相手の道を誤りだと指摘しているようなものだと言うことです。
言わせて頂ければ、
生命の科学=創造主の法を学んでいる私達は
キリスト教と仏教のアプローチの両方を
同時に使用している事になります。
一方では自らに戒律を課して心のエゴの暴走を抑える事を勤め
一方では魂の意識から創造主の意志を引き出し
それを実践しようと勤めているからです。
更に言えば私達が果たすべきは、聖人を模倣する事でも
それを美化して褒め称える事でもなくて
彼らが語ってくれた創造主の法を理解して実践する事だと言うことです。
宇宙の法則の中でお釈迦様の教えとイエスキリストの教えを引用して
両者がとても良く似ていると言う指摘もさせて頂きました。
キリスト教と仏教は別々の聖人によって語られ
しかも異なる民族によってその後信仰され発展していく事になりますが
結局はその後それを理解していると証した人間達の価値観が
そこに付け加えられて行った事で
大元の聖人達が私達に伝えようとした趣旨が
ずれてしまっているのだと思います。
ユダヤ教と言う形式的な戒律に人々が囚われるのを恐れ
そこに心のあり方の大切さを教えようとしたイエスと
カースト制度の身分階級の差が存在していたインドの風潮の中で
人の心のあり方を教えようとした釈迦が、
それぞれの置かれている社会環境の中で
効果的な説明をしようとすれば
同じ事を同じように表現できなかったのは当たり前だという事です。
そして私が主張したように、同じ創造主の法を教えて説明するにも
天使達の教えは私達人間の進化と認識の違いに合わせて変化してきてもいます。
アダムスキーは、イエスキリストと言われた人間の魂は
それ以前にはエリアであって更に以前にはモーセであったと語っていました。
それは同じ聖人がこの社会に何度も
地球社会を導くために繰り返し転生し続けてきた事の表れです。
でもモーセとイエスでは民に与えた戒律も異なります。
その差を額面どおり受け止めると
私達はこれからも同じ間違いを繰り返す事になるのです。
元々は奴隷階級に甘んじていて
放置しておけば盗みに殺し合いをも当たり前にしかねない
そんな野蛮な意識を持っていた古代の人間に対して
イエスキリストがやってきて愛を語っても
効果が得られない事は一目瞭然なのです。
殺してはいけない盗んではいけない。
時には刑罰をも設けて、そんな基本的な事を与えるに
とどまることにもなります。
それが進化した人間で道徳的な意識を持つ事ができる相手であれば
今度はそれに対して形式だけでなく
心のあり方が大切なのだと教える事もできます。
更に知的レベル・現実での科学的知識の増えた人間に対してであれば
今度は三次元と四次元と言う話含めて
創造主の本質的な話まですることも出来ますし、
アダムスキーとスペースブラザーズは
この社会に生命の科学を紹介することで
更なる理解を私達にあたえようとしたのです。
幼稚園児に大学の教科書を与えて
「この問題を解きなさい」
と言うことが如何に愚かであるかという事を
私達は理解できるはずなのです。
私達の進化の程度に応じて
それに対して与える創造主の法の教材も進化させた。。
天使達の教えは私達の認識力の進化に合わせて
こちらも進化し続けて来たのだと私達は認識すべきです。
イエスが古き契約を無効として新しい契約を語ったのも
私達がいつまでも私達の昔の資質に対して与えられた価値観を
習慣や規範として延々と引きずる事がないように
私達に更なる進化の切欠を与えたものだと認識すべきです。
しかし私達は時にはその古き教えを
そっくりそのまま今の時代に適用しようと勤めます。
それがこの社会に悲劇をもたらしている原因の一つでもあると思います。
残念なのは私達が彼らの教えの実質を理解していれば
私達は進化と共にそして社会の変貌にもそれを適応して
生きてくることが出来たはずです。
しかし形式的な上辺の理解にとどまったために
時代の変化ごとに私達は自ら戒律を作り上げる必要にも
追われることになりました。
そして形式的な戒律はその時代にしか適用しないものであることに
気がつくこともなく、物事の実質を考えない私達は
その古きさび付いた戒律を後生大事に持ち続けることにもなっています。
更に今の社会の中では、
イエスキリストがサタンの会派と呼んだ人間達の意識を組む人間達が
天使達の教えに自分達の価値観をも付け足して
意図的に創造主の法からかけ離れさせたり、
思想ごとの争いの原因にまで仕立て上げてもいます。
私達はそんな枝葉を払いのけて
聖人達が語った創造主の法の実質こそを理解して
実践していかなければならない。
そしてそのためにも誰が何を語ったのかを
重視するのではなくて、語った人間を信奉するのでもなくて
その語られた内容こそを重視していくべきだと言う話にもなってきます。
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生命の科学=創造主の法を学んでいる私達のもう一つの強みは
私達が想いというものを理解していることです。
私達は創造主の法の元、単に想いを発するだけでなくて
一方では想いを受け止めることの大切さを学んでいます。
魂からの意識やテレパシーに関しては
これは想いを受け止める行為に他ならないからです。
そして想いを受け止めるときに障害となるのは
私達が自らの意志で想うことです。
つまりクリスチャンのようにひたすら創造主に
想いを語るのも
仏教徒の様にお経や念仏を唱えるのも
これは想いを発する行為だと言うことです。
私達は想いを発するだけではなくて
その一方で想い魂を通じて受け止めることが
大切なのです。
そして心を持って思っているばかりの状態では
私達は創造主の想い、創造主の法を受け止めることも出来ない
そのためにも私達は時には自分の心の想いをとめて
想いを受け止めることが求められていることにもなります。
これも以前からの繰り返しになりますが
パウロやイエスキリストの言っていた”信仰”とは
単に神をおもって想いを発する行為でもありませんし
神やイエスキリストを信じることでもありません。
私達は創造主の想いを強く受け止めたのであれば
その想いを肉体を持って表現することにもなります。
つまり信仰には実践が伴わなければならないと言うことです。
自分が信頼している神の想いを感じたのであれば
それを実践してこそ信仰だと言うことです。
そしてそんな行動が私達の魂の意識の経路を
更に強くすることもにもなります。
そして私達は創造主の法を信頼することにもなります。
心と魂の存在、更には三次元と四次元の存在
そして想念というエネルギーの存在をも理解し
想念を発するだけでなくて
受け止める事の必要性も併せて理解すれば
同じ聖人の教えであっても私達が実践すべき事が
また異なって見えてくると言うことです。
そして私達の生きている目的は
この今の社会の中で幸せになる事ではないと言うことを
忘れてはいけないと思います。
私達の魂の進化を妨害している社会の中で
私達が幸せと感じる事は得てして心のエゴが
求めているものだからです。
私達は魂の想いを持って幸せと感じるような
そんな状態へと心を改善していかなければならない。
万物に奉仕して、社会の改善を幸せと受け止めるようになる事を
私達の目標としていきたいです。
【貴方に無限なる力の祝福がありますように】
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宇宙の法則
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進化する天使の教えと逆行する地球環境
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指導者の導きと共に進化する
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