塩野七生「紀宮様のご結婚に想う」
塩野七生の「日本人へ リーダー篇」(文春新書)を書店で手に入れ、目次を開いて眺めていると「紀宮様の御結婚に想う」のタイトルが目についた。そこで、そのページから読みはじめると、ハタと膝を打ちたくなるような一文に出会った。ちょいと長いが引用を許されたい。
「その日は他の多くの日本人同様にテレビの前にいることの多かった私だが、その間にもわきあがってきた想いが二つある。その一つは、結婚式を終えられて記者会見の席に出てこられたときの、黒田氏と新夫人の御二人。もはや皇室から離れ一民間人になられたとはいえ、先を進むのは黒田氏で、元宮様はその一歩か二歩後を歩かれていた。三歩遅れて夫の影を踏まず、だったか忘れたが、今では誰もそのようなことはしない。それに、見た眼のも不自然である。黒田氏は、皇女でも今は自分の妻になった女人を、背に手をまわすなどしてエスコートする形で人々に紹介するのでよかったのではないか。この頃の日本男子でも、女がいても平気で先を進むなんて、六十以上でなければやりませんよ。
と思いながら今朝のテレビを見ていたら、海の記念日とかに出ておられる両陛下が映っていたのだが、階段を登られるときに天皇様が、皇后様の背に軽く手をまわされ、実に自然にささえていらっしゃるのが見えたのだ。あれでいいんではないかと、ヨーロッパに住んでいて各国の王室を見ることの多い私には思える。品位を保つことと自然に振舞うことは、少しも矛盾することではないのだから。
想いの二番目は、一言で言ってしまえば、紀宮をこのまま完全な民間人にしてしまうのでは、あまりにもモッタイナイということだ。これまでは数多く果たされてきた公式行事も以後はいっさいなくなり、となれば一公務員の妻としてスーパーやコンビニへの出入りもすることになるのだろうが、あそこまで皇女として育てられた方なのに、それではモッタイナイというわけです」
慎ましやかな披露宴
2005年の紀宮様の結婚式当日、わたしはタイのバンコクにいた。だから、テレビではなくパソコンのインターネットのニュースで披露宴の様子などを知ったのだった。そのニュースによれば、帝国ホテルでの結婚披露宴は、両陛下がご出席のもと、百名ほどの招待客で、乾杯にはドン・ペリニョンがふるまわれたが、「慎ましやか」なものだったと報じていた。わたしは仕事柄、帝国ホテルでの結婚披露宴の料理と飲み物がどんなものであったかを知りたくなり、日本へ帰るとすぐに、ホテルの知人に聞いてみた。すると、報道されていない意外な事実がいくつも分かってきた。遅まきながら、それをここでご紹介しようと思う。
披露宴でのメニュー
まずは、料理。メインディッシュに供されたのは、子羊の料理で、牛肉料理ではなかった。外国の賓客を招いての宮中での晩餐会では、主菜は牛肉と決まっていて、それ以外の肉は出されたことがない。なぜ、今回、帝国ホテルでの披露宴とはいえ、牛肉ではなく子羊肉がメイン料理としてサーヴィスされたのか。黒田さんと紀宮様がホテルで前もって試食された結果のことだという。ホテル側は4種の肉料理を用意し、3種は牛肉で子羊は言ってみれば当て馬のひと皿だったらしい。それが、牛肉を選ばれずに、子羊に決められたことに、わたしはとても新鮮な勇気を感じたのだった。披露宴の代表撮影はシャンパンがサーヴィスされている場面だったから、だれもがそのシャンパンの姿から、ドン・ペリニョンだとわかったはずである。
主菜に添えたワインは?
では、主菜の仔羊の料理には、どんなワインがサーヴィスされたのか。子羊料理なら、常識的にいえば、ボルドーのメドックの赤ワインがよいと言われている。宮中ならば、赤は牛肉料理の調理法が何であれ、ボルドーの最高峰シャトー・ラフィットと決まっている。ところが、この披露宴ではラフィットどころかボルドーではなくブルゴーニュの赤ワインが合わせられたのである。それがなんと、ブルゴーニュはコート・ド・ニュイ地区シャンボール・ミュジニー村の「レ・ザムルーズ」だった。「レ・ザムルーズ」を直訳すれば「恋する乙女たち」。ホテルの方に伺えば、このワイン、紀宮様のご希望だったという。
なんと素敵なセレクション! わたしはこのワインの選択を紀宮様がなされたことを聞いて、胸を打たれ、いっぺんに宮様、いや黒田夫人のファンになってしまった。このところ、日本では2月のヴァレンタインデーともなると、チョコレートとは別に、ハートのマークがワインのラベルに記された、ボルドーはメドック地区サンテステーフ村の「シャトー・カロン・セギュール」が大人気である。子羊料理ならば、このワインを選んでもよいところ、それではポピュラーになりすぎるので、そのちょっと一歩先を行かれて、こういうロマンティックな名前の素敵なワインもありますよと、さりげなく示されたのではなかろうか。「レ・ザムルーズ」は小さな葡萄畑の名前で、ホテルは同じ畑の同じヴィンテージ(年号)のものを集めるのにとても苦労したらしいが、これが皇女から民間人になられる際の紀宮様のメッセージだったのである。ところが、このことはどこにも報道されなかった。
フランスの「エリゼ宮」では?
フランスでは、外国の賓客を招いての正餐はエリゼ宮で開かれる。その内容は、前菜、主菜、チーズ、デザートの四皿構成である。ワインは、まず白ワインではじめ、主菜のときに赤ワインがサーヴィスされ、それがチーズのときまで続き、そのあとシャンパンとなって、このとき互いにステートメントが交わされ、杯を挙げることになっている。余談だが、食事の前の別室でのアペリティフは、70パーセントの客がミネラルウォーターを飲むのだという。また、食卓につくとまずミネラルウォーターが注がれるのだとのこと。食事を通しての外交を得意とするフランスのエリゼ宮での正餐を、克明に調べてまとめた「エリゼ宮の食卓」(西川恵著)に、それらが詳しく紹介されている。
つまり、前菜、主菜、チーズ、デザートの四皿構成のコースメニューは、正統派であって、簡略化されたコース料理ではないのだ。紀宮様の結婚披露宴では、前菜、主菜、デザートでチーズが省略されたが、これは、御二人が御招待したお客様たちと歓談する時間を設けたいところから、やむを得ずカットしたものだという。このインテリジェンスが豊かでロマンティックなメッセージの溢れる披露宴をどうして「慎ましやか」などと評するのか。皇后様から受けただろう教養を、民間人になられても外交などに生かしていただきたいというのは、わたしも塩野さんの意見に全く同感である。本当に、もったいない。