競馬を愛した人々

競馬を愛した人々 #2 舟橋聖一


昭和28年秋 第32回中山大障碍 モモタロウ(1番)
 舟橋聖一は戦前から戦後にかけての昭和の大流行作家である。昭和23年には「新聞に4つ、雑誌に13ほど連載ものを書いているので朝から晩まで書きづめ。週末に競馬場に行くのだけが愉しみ」と語っている。大の競馬好きだった。

 舟橋は当時の文人には珍しく碁将棋、麻雀には興味がなく、関心のあるスポーツも競馬と相撲だけだった。相撲の方は横綱審議委員となり後には委員長を務めている。先輩の作家菊池ェの薫陶で始めた競馬も、府中・中山の開催時には皆勤するほど熱心だった。府中では英国風の洋服にハンチング、一転して中山では和服姿と使い分けたりする洒落者だった。夫人や娘さんを帯同することも多かった。

 舟橋は日本の競馬小説の先駆者である。早くも昭和17年に『躍動』を、昭和22年には『遠い花』を日本中央競馬会(当時は日本競馬会)機関誌『優駿』に連載している。

 昭和22年の随筆では「この頃、人に、馬をもつては、とすすめられるが、當分は馬主になるつもりもない。しかし、菊池さんや吉川さんの馬が勝てば、ひとごとならず嬉しいし、力も入る」と『優駿』に書いている。文人の馬主の草分けは菊池ェである。『宮本武蔵』で名高い吉川英治も菊池に勧められてすでに戦前から馬主となっていた。舟橋はまだだった。「文学がおるすになりそうな心配があるから」と躊躇していたが、やがて馬主になる。


昭和34年 多摩ハンデキヤツプ
ヒカルゲンジと舟橋聖一氏ご家族
(右から2人目が舟橋聖一氏)
 舟橋の代表的持ち馬にモモタロウがいる。昭和25年、中山の新馬戦には息子夫婦と三人で駆けつけた。モモタロウ快勝に作家であり同じく馬主でもある吉屋信子から「永年競馬のことを小説にお書きになつた功労が報われて、おめでとう」と声を掛けられる。後にモモタロウは昭和28年の秋の中山大障碍を大差で勝つ。昭和31年に中山グランプリ(昭和32年から有馬記念に名称変更)が創設されるまでは、中山大障碍は皐月賞と並ぶ中山競馬場の看板レースだった。『優駿』に寄せた観戦記で、舟橋は「女房は、馬が障碍を飛ぶ毎に落涙し、勝つときまると、更に泣いた」と、その感激を綴っている。

 昭和35年有馬記念。勝ち馬はスターロツチ。4歳(現3歳)牝馬のグランプリ制覇は今も唯一である。その血は、サクラユタカオー、サクラスターオー、ウイニングチケットへと続いている。この有馬記念に舟橋の馬も出走していた。ヒカルゲンジ。12頭中10着だった。

 昭和41年頃から眼病が悪化する。晩年の舟橋は目が不自由だった。それでも口述筆記で執筆活動を継続する。競馬はラジオを聞いて楽しんだが、亡くなる前年となる昭和50年にも夫人とともに競馬場に来場し、耳で雰囲気を楽しむほどの愛馬家であった。昭和51年急逝。享年71歳。(文中敬称略)

舟橋聖一(ふなばし・せいいち)

明治37(1904)年12月25日、東京生まれ。小説家。代表作『花の生涯』は昭和38(1963)年のNHK大河ドラマ1作目の原作、『新・忠臣蔵』を原作とした大河ドラマ(元禄繚乱)も平成11(1999)年に放送された。主な作品に『ある女の遠景』(毎日芸術賞受賞)、『好きな女の胸飾り』(野間文学賞受賞)がある。昭和51(1976)年1月13日死去

JRA発行の『優駿』は昭和16年に創刊され、昨年70周年を迎えました。通巻では800号を超えており、これまでさまざまな作家・文化人の方々にご寄稿いただきました。

2012.3.24 レーシングプログラム掲載

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