競馬を愛した人々 #1 菊池寛
当時の東京競馬場の様子
昭和11年にモダン日本社から発刊された菊池の著書『日本競馬読本』は現代競馬にも通じる格言が多い。その一部の「我が馬券哲学」はJRAホームページの競馬コラムにも掲載されている。
馬主としての菊池は、昭和15年春の帝室御賞典(現在の天皇賞)をトキノチカラで勝っている。昭和13年から18年まで春の帝室御賞典開催地は阪神競馬場。7頭立て2番人気。レコードタイムの快勝だった。
日本中央競馬会(当時は日本競馬会)機関誌『優駿』は昭和16年5月に創刊された。太平洋戦争の始まる年である。戦時下、競馬場へ自動車で行くことが禁止されたことから菊池は競馬を辞めるのではないかと噂された。所有馬も2頭ほどに減っていた時期である。『優駿』創刊号に寄せた「競馬近ごろ」と題した随筆で菊池は「競馬はやめない」という小見出しを設けて競馬を続けることを宣言している。その後も電車とバスを乗り継いで府中に通った。
この年の東京優駿競走(日本ダービー)を勝ったのはセントライト。横濱農林省賞典四歳呼馬(皐月賞)に続いての二冠制覇。馬主は加藤雄策。出版社非凡閣を経営する菊池の同業者である。加藤を最初に競馬場に連れていったのが菊池だった。昭和16年6月号の『優駿』に菊池は「無事之名馬」と題する文を寄せた。競馬関係者や競馬ファンが現在も口にすることの多い菊池の名言「無事之名馬」が活字となった最初になる。加藤の相馬眼を讃えた文中で菊池は「加藤君に一般競馬知識を教えたのは僕である」と記している。セントライトは京都農林省賞典四歳呼馬(菊花賞)も制し我が国初の三冠馬となる。天皇賞馬オーエンス、菊花賞馬セントオー等を輩出、種牡馬としても成功し、「セントライト記念」にその名を残している。
昭和19年の東京優駿は「東京能力検定競走」として行われた。出走馬は18頭。馬券の発売もない非常時のダービーである。入場者は関係者300人程度。その中に愛馬トキノチカヒを出走させる菊池の姿があった。勝ち馬はカイソウ。トキノチカヒは9着だった。
昭和23年、菊池は59歳で没した。後輩の作家であり菊池と同じく馬主でもあった舟橋聖一は「競馬場で菊池寛先生をお見かけしなくなって残念」と『優駿』誌上で偲んでいる。菊池の馬券哲学は今も競馬ファンの胸に響く。
「堅き本命を取り、不確かなる本命を避け、たしかなる穴を取る。これ名人の域なれども、容易に達しがたし」(文中敬称略)
明治21(1888)年12月26日、香川県高松生まれ。小説家、劇作家。文藝春秋社を創設した実業家でもあり、「芥川賞」「直木賞」「菊池寛賞」「日本文藝家協会」を設立した。主な作品は『父帰る』『無名作家の日記』『恩讐の彼方に』『真珠夫人』。昭和23(1948)年3月6日死去。
※「我が馬券哲学」はこちらからご覧ください。
JRA発行の『優駿』は昭和16年に創刊され、昨年70周年を迎えました。通巻では800号を超えており、これまでさまざまな作家・文化人の方々にご寄稿いただきました。
2012.2.18 レーシングプログラム掲載