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津波被災せんべい店、焼き型再生
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娘の真由美さん(手前左)が生地を延ばし、清吾さん(同右)が時々、鏡で生地の様子を確認しながら焼く。幸さん(後方左)がパートの女性と袋詰めを担当していた |
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海水につかり、落としても落としてもさびが出るせんべいの焼き型(右)。3カ月以上酢につけ、ようやく塩が抜けて元の姿に戻った |
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春の気配が日ごと濃くなる八戸市館鼻岸壁の近く、香ばしい匂いが漂う工場(こうば)で、在家清吾さん(73)と妻・幸さん(72)、長女の岩織真由美さん(53)が忙しく手を動かしていた。せんべい店「ザイケ真幸堂」は東日本大震災の津波で工場兼住宅が大きな被害を受けた。きれいに修復して同じ場所で再開、爪痕はほとんどないが、当時は「もう続けていけない」と絶望の底にいた。そこから立ち直れたのは、多くの人の善意と励まし、そして家族の絆があるからだ。
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震災当日は約5千枚のせんべいの出荷準備をしていた。午後2時46分、大きな揺れ。真由美さんを避難させ、「車だけでも高台に」と幸さんに促され、2人で車に乗り高台に向かった直後、津波が工場を襲った。夕刻に戻ると、流されてきた車がシャッターを突き破って何台も重なり、がれきとヘドロが床を覆っていた。
1.4メートルの津波が工場から1階住居部分を突き抜け、すべてが海水につかった。「片付けにどれほどかかるのか」。脱力感と絶望感に押しつぶされそうだった。
そんな時、助けに駆けつけたのが、せんべい汁研究所のメンバーだ。
「そのまま商売をやめてしまいそうな顔だった」と同研究所事務局長の木村聡さん(48)が当時を振り返る。都合のついたメンバー10人ほどで高圧洗浄機などを持ち寄った。いくら洗っても砂が出る。それでも工場のコンクリートが見えた時、清吾さんの表情が明るくなった。「ここまでやってもらったんだから、何とかしなきゃ。商売を続けよう」。約2カ月半後に工場を再開。たくさんの人からひっきりなしに激励が届いた。「本当にありがたい。感謝以外ありません」と幸さん、真由美さん。とはいえ、仕事が元のペースに戻るまでもっと時間を要した。
海水の塩分のせいか、焼き型に熱が十分伝わらず、最初はせんべいと呼べない代物ができた。落としても落としても型にさびが出る。試行錯誤の末、地元漁師の包丁の手入れをヒントに、酢に3カ月以上つけ込み煮沸、元に戻すことに成功した。幸さんは精神的ダメージが大きく、体調不良で体重が35キロまで落ちた。身体に異常がないことを確認し、元気を取り戻したのは今年に入ってからだ。
昨年のB−1グランプリで「せんべい汁」が最高賞に輝いたおかげで、仕事が途切れることはない。全国に、八戸の味が認められたことは誇らしい。だが同時に「半端な品物は出せない」と気を引き締める。味にこだわり、時には農家の麦の育て方にも注文を付けてきた。せんべいを焼く機械のあらゆる部品を見直し、自ら手を入れ、他ができない味、食感をつくり出してきた自負がある。清吾さんはさらに「ご支援に報いるには、もっといいものをつくらなければ」と誓う。
1915(大正4)年創業の幸さんの実家「山田せんべい店」を30年ほど前に引き継いだ際、清吾さんは妻と娘の名前から店名を「真幸堂」と名付けた。7年前、売市から現在地に移転し被害に遭ったが「家族がそろっているから、安心して働ける」と3人は言う。真由美さんは嫁いでおり、跡を継ぐか分からないが、清吾さんは「誰が引き継ぐにしても、早く、きちんとした形にしてから若い人たちに渡したい。何しろ、年は待っていてくれませんから」。震災から2年、清吾さんは穏やかに笑いながらアイデア実現へ、さらに前へ踏み出す思いを強くしている。
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