2013年2月10日 (日)

2013年:春節以降の中国経済

 今日、2月10日は、旧暦の元旦(春節)です。

 月刊誌「中央公論」の最新号(2013年3月号)にアジア経済研究の大御所である渡辺利夫氏(拓殖大学総長・学長)が「日本企業は対中投資戦略を再考せよ~中国経済ハードランディングの危機~」と題する論文を掲載しています。

 中国経済は、1978年の改革開放政策開始以降、「世界の工場」としての地位を確立し、農業生産や工業生産において、実体経済としての実力を強大なものにしてきたのは事実ですが、一方で、中国共産党が支配する社会主義的土地制度に基づいて、農民が使用している農地等を安い賠償金で接収し、その土地を工業団地やマンション等に開発することによって多額の利益を得るという「土地成金」的性質も多大に含むものであることが長年指摘されてきています。渡辺利夫氏も、現在の中国経済における投資の占める比重が大きすぎ、家計の占める大きさが少なすぎることを指摘して、投資効率の低い過大な土地への投資が「バブル」として崩壊する危険性を指摘しています。

 同様のことは私もこのブログで過去に書いたことがあります。

(参考URL1)このブログの2008年11月28日付け記事
「『史上最大のバブル』の予感」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2008/11/post-793d.html

 昨年あたり、多くのメディアでも、「中国土地バブル崩壊(特に地方政府によって設立された金融機関の土地に対する投資に起因する金融バブルの崩壊)」の懸念が指摘されてきました。

(参考URL2)ニュースウィーク日本語版2012年10月18日付け記事
「不良債権 中国金融が抱える時限爆弾」
http://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2012/10/post-2728.php

 最近では、中国が発表する統計データなどを基にして、この「土地バブル」の規模がどの程度かを推定する試みもなされています。

(参考書籍)「データで読み解く中国経済~やがて中国の失速がはじまる~」(川島博之著:東洋経済新報社)(2012年11月22日発行)

 「中国経済はバブルなのではないか」「中国経済のバブルはまもなくはじけるのではないか」といった話は昔から何回も繰り返されてきました。「2008年の北京オリンピックがが終わったらはじける」「2010年の上海万博へ向けての建設ブームが終わったらはじける」とも言われましたが、実際ははじけませんでした。従って、中国経済はバブルのように見えているのですが、本当にはじけるのか、はじけるとして、それがいつなのかは、誰にもわかりません。ですが、上記に掲げた記事や書籍・論文等に見られるように、今年は「そろそろ危ないのではないか」と思う人が増えてきているように思えます。

 私は、今年2013年については、春節明け(2月下旬~3月上旬)がひとつの「節目」だと思っています。その理由は以下の三つです。

(1)ヨーロッパ経済危機のあおりを受けた輸出不振から成長率が鈍っていた中国経済も2012年8月頃を底にして回復基調にあるが、2012年9月以降の日本との関係悪化によって日本との間の経済関係が冷え込んでいる。日本からの投資にブレーキが掛かるほか、反日デモに見られるような動きを「中国リスク」と捉えて、欧米各国も対中投資に慎重になる可能性がある(※)。

※下記のレポートによれば、2012年の中国の外資利用は、既に対前年比マイナス3.7%になっているとのことです。

(参考URL3)日中産学官連携機構特別研究員田中修氏の2013年1月28日付けレポート
「2012年の主要経済指標」
http://www1a.biglobe.ne.jp/jcbag/tanaka_report130128.pdf

(2)2012年末以来、日米欧の株式市場が明確に回復基調にあり、日米欧の経済が不振であるために中国に流れ込んでいた投機マネーが日米欧に復帰し、その結果として、中国に対する外国からの投資の引き上げが起こる可能性がある。このことは、中国において長年にわたり続けられてきた(特に2008年のリーマン・ショック対応で打ち出された4兆元の投資により更に加速された)土地開発投資によって造成された工業団地等に外資による工場が建たなくなることを意味する。これは、土地開発のために融資された資金が不良債権化することを意味し、同時に、補償金をもらって農地を手放した大量の農民が就職口を得られなくなることを意味する。

(3)3月の全人代で、行政組織のトップが交代するとともに、2000年代の中国マクロ経済の舵取りを担ってきた中国人民銀行の周小川総裁も交代する。中国のマクロ経済マネジメントは、優秀な官僚組織によってコントロールされているので、トップが交代しても変わらないという見方もできるが、新しい指導者たちの政治的な手腕が未知数である現時点においては、中国マクロ経済の舵取りの方向性も未知数であると言わざるを得ない。

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 私は2008年の北京オリンピックの年には北京に駐在していました。この年(2008年)の春節明けには、内陸部での経済発展に伴い、春節で帰京した農民工がそのまま地元企業に就職してしまい、春節が明けても沿岸部に戻って来ず、沿岸部では「人手不足現象」が起き、沿岸部における人件費が高騰して、沿岸部を中心に立地した中国の輸出産業が打撃を受けた、ということがありました。「春節」は、毎年恒例の年間行事のひとつですが、経済活動の変質のひとつのきっかけにはなり得ると思います。また、毎年、全人代が3月上旬に開かれますから、春節明けから全人代までの期間は、今後の中国を見通すに際して、注目すべきタイミングだと思っています。

 今、日本経済にとって、中国は、部品等の大きな輸出先であるし、多くの企業にとって消費財の大きな市場です。中国経済が混乱することは、日本経済に直接的な打撃となります。

 一方、上記の田中修氏のレポート中にもありますが、中国は1兆1,701億ドルのアメリカ国債を有しています。これは世界第一位です(第二位は日本の1兆1,328億ドル)。この金額は、外国で保有されるアメリカ国債の約2割に当たります。中国経済が混乱し、中国政府が保有するアメリカ国債を大量に売りに出すような事態になれば、アメリカの財政にも大きな影響を与えます。従って、アメリカにとっても中国経済が混乱することはぜひとも避けねばなりません。

 ただ、1990年代後半に金融危機に見舞われた日本に続き、2008年にリーマンショックに襲われたアメリカ、2009年以降経済危機に翻弄されているヨーロッパを考えれば、中国経済だけが何も起きないとは考えにくいところです。

 冒頭に書いた「中央公論」2013年3月号における論文「日本企業は対中投資戦略を最高せよ」の中で、渡辺利夫氏は、「新規投資にはよほど慎重たるべきだろう。」とまで述べて警告を発しています。

 日本経済は、安倍内閣発足をきっかけにして、株高・円安の方向に動いていて、回復の方向に向かいつつように見えますが、中国経済が混乱して回復の足下をすくわれないようにする必要があります。上にも書きましたが、今や世界は相互に関係し合っており、誰かが混乱すると、みんなが被害を被る状況になっていますから、渡辺利夫氏が指摘するような「中国経済ハードランディングの危機」が急激に起こらないように(できるだけ時間を掛けてゆっくりとランディングできるように)、日本もアメリカ等と協調して、中国との関係をコントロールしていくことが重要だと思います。

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2013年1月14日 (月)

「新京報」ホームページから「新聞検閲と『中国の夢』」へのリンク

 今日(2013年1月14日)、久し振りに下記の「新京報」のホームページを見てみたら、「熱門網事(ネットにおけるホット・トピック)」の欄にフィナンシャル・タイムズ中国語版に1月8日にアップされた中国語の社説「新聞検閲と『中国の夢』」へのリンクが張ってありました。

 このフィナンシャル・タイムズ中国語版の「新聞検閲と『中国の夢』」には、「南方周末」(日本語表記だと「南方週末」)が掲載しようとしてできなかった社説「中国の夢、憲政の夢」の一部が引用されています。フィナンシャル・タイムズは西側メディアですから、客観的にこの事件を論評してますけど、このページって、中国国内から閲覧できるのかなぁ。もし、中国国内からネットでこのフィナンシャル・タイムズ中国語版の記事が読めるのだとしたら、私の感覚からしたら「とんでもない大進歩」だと思います。

(参考URL1)「新京報」ホームページ
http://www.bjnews.com.cn/

(参考URL2)フィナンシャル・タイムズ中国語版2013年1月8日16:53アップ記事
「新聞検閲と『中国の夢』」
http://www.ftchinese.com/story/001048364

 「グレイト・ファイアーフォール・オブ・チャイナ」(「敏感なサイトを遮断する中国大陸部と外部を隔てるファイアーウォール」)によってこのフィナンシャル・タイムズ中国語版の記事が読めないのだとしたら、ホームページにおいて「読めないサイト」にリンクを張っている「新京報」の「勇気」は、それはそれで「すごい」と思います。

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2013年1月 9日 (水)

「南方周末」の「中国の夢、憲政の夢」の日本語訳

 中国広東省広州の週刊紙「南方周末」(日本語式に表記すれば「南方週末」)の2013年新年号(1月3日号)に掲載予定だった社説が、共産党宣伝部の指導で書き換えられた件については、日本でも報道されています。

 私が北京に駐在していた2007~2009年頃、「南方周末」は1部3元(約45円)で、北京の地元日刊紙「新京報」の1部1元に比べて高い感じでしたが、北京の新聞スタンドでも売っていました。広州で発行された新聞を北京に運賃を掛けて輸送して売っている、ということは、売れてるからでしょう。面白い記事が多かったので、私も愛読していました。私が北京にいた2007年4月~2009年7月の期間やその後の出張時に買った「南方周末」に載った記事には次のようなものがありました。

○対談記事:ロシアの改革に比べて中国は成功したと言えるのか(2008年7月10日号)

○民主法制を提唱し、封建主義に反対する~葉剣英の30年前の講話を再び考える~(2008年10月2日号1面トップ記事)

○「経済のため? 国防のため? それとも中華復興のため?」中国有人宇宙プロジェクトの意義(2008年9月25日号の評論)
※解説:中国の有人宇宙飛行成功に沸く中国国内にあって、冷静に「国際宇宙ステーション計画に参加するのもひとつの選択」と論じた論説

○三鹿(メラミン粉ミルク事件)発覚までの隠された10か月(2009年1月8日号1面トップ記事)
※解説:2008年に発生した河北省石家庄市に本社を置く三鹿乳業のメラミン入り粉ミルク事件は、2007年12月には消費者から疑義が出され、2008年8月2日に三鹿乳業が調査結果を河北省石家庄市政府に報告したものの、北京オリンピック開幕直前だったため、北京オリンピック終了後の9月13日まで公表が延ばされたいきさつについて書かれた記事

○記者会見がどうして一人芝居になってしまうのか(2009年3月19日号の評論)
※解説:地方政府が行う記者会見では、地方政府側が「官製メディア」ばかりを指名して、記者との問答が「用意されたもの」に見えることを批判した評論

○異なる意見に寛容になることこそ、揺れ動く状況を安定させることになる(2010年4月29日号の評論)

 2013年1月3日号に掲載予定だったという社説「中国の夢、憲政の夢」は、書いた記者たちがネットに掲載した、とのことですが、既に当局によって削除されているようです。ただし、次から次へと転載されているので、検索サイトで「南方周末」で検索すると、多くは削除されたものですが、削除されていないものも見ることができます(1月8日夜現在)。転載なので、「本物」かどうかは私には確認できないのですが、複数のサイトに同一文章が載っていたので、「たぶん本物だろう」と思われる文章を私は入手しました。下記にポイントとなる一部分を和訳してみましょう。

 内容は、非常に文学的な(つまり婉曲な)表現になっており、日本で報道されているような「憲政を求める」「民主化を求める」といったストレートな表現にはなっていません。

 例えば、次のような表現になっています。

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「今日では、既に夢をみることができるようになった中国は、既に夢を実現できる時代になっている。憲政が失われていた『文革』の悪夢の時代を経て、我々は三十数年の時間を費やして、徐々に常識的な物の見方、一般的な人情を回復してきている。」

「我々は、ついに厚く積もった歴史の塵の中から顔を上げ、煩わしい日常生活の中から頭を上げ、先輩たちが歩んだ憲政の長い道のりを再び歩み、先輩たちの抱いた偉大な夢を再び温めよう。」

「今日、我々は断じて物質的な豊かさのみを夢見ることに留まってはならず、精神的な豊かさを希望する。我々は、国力の増強のみを夢見ることに留まってはならず、国民が自尊心を持つことを希望する。新しい国民と新しい国を滅亡から救い啓蒙することについては、誰とても誰からも離れては考えられない、誰とても誰をも圧倒することもできない。憲政こそ、これらいっさいの美しい夢の根本なのだ。」

「憲政を実現することによってこそ、権力を限定し、権力を分散させ、国民は大声を出して公権力を批判することができ、各個々人は心の中の信ずるところに従って自由な生活を送ることができ、我々は自由で強大な国家を建設することができるのだ。」

「傑出した者だけが夢を見られるのではない。夢を見る者だけが傑出するのだ。」

「あなたは天から与えられた権利として、夢を見ることができ、その夢を実現することができるのだ!」

「(アヘン戦争から)170年の縷々転々、美しい夢は何と難しいことか。170年後、人は依然として良識の新しい芽が出ることを渇望し、天命がいわんとするところを反芻(はんすう)している。人は依然として、ひとつひとつ落ちてしまった権利を要求し続けており、政治を正しく復活させ、公の正義が自在に流れることを要求している。」

「憲政の夢を実現するためには、当然ながら、世界の経験を吸収しなければならない。即ち、ギリシャの民主主義を考え、ローマの法治主義を検討し、イギリス・アメリカの憲政を借りて、現代の科学技術文明を追わなければならない。しかし、これは、西洋文明が優等生であると言っているのではなく、西洋人には西洋人がたどってきた軌跡があるのだから、我々はこれらのいっさいを直接我々に適用させる必要はない。」

「我々は、我々がいる大地の上に立脚して、各国人民とともに、古きものと新しいものを融合させた新しい生活を見いだし、一種の中国と西洋が融合した新文明を導き出さなければならない。古今東西の激動の中において、人類共通の価値を尊重し、はばかることなく自らの新しい夢を作らなければならない。」

「中国人は、もともと自由人である。であるから、中国の夢は、もとから憲政の夢でなければならない。」

「万物は速く朽ちてしまう。しかし、夢は永遠である。万物は生まれる。なぜなら夢は不滅だからである。夢は生き続ける。もし、あなたが100回失敗しても、101回目にはあなたの心の中にある決して死なない希望が実現されるだろう。」

「ひとつの真実の話は、世界よりも重い。ひとつの夢は、生命から光を発散させるだろう!」

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 上は全文訳ではなく一部のポイントの訳だし、私が持っている中国語の文章も「本物」かどうかの確信はありません。しかも、表現自体がものすごく難解な「文学的表現」なので、誤訳している部分もあるかもしれません。だけど、おそらくは、上の表現からも、書いた人の「熱意」が感じられるのではないかと思います。まぁ、私の感覚から言っても、今の中国共産党宣伝部ならば上の表現を新聞に載せようとすればならば削除するだろうなぁ、という表現だと思いますが、こういった「文学的表現」ですら許されない、という中国の現状を示す意味で、ポイントを紹介してみました。

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2011年3月 6日 (日)

消された言葉たち:検閲と「人民に主張させよ」論

 チュニジアとエジプトでの政権崩壊の後、2011年2月20日から、インターネット上で中国の各都市で日曜日の14時に集まって集会とデモをやるような呼び掛けがなされています。今のところ集会もデモも起きていませんが、大勢の見物人と外国の報道陣が集まったたり、いくつかの場所では数人の人が公安当局に連行されています。

 ネット上で呼び掛けは行われていますが、現在のところ見物人や報道陣が集まるだけで、肝心の集会やデモは起きておらず、「革命」と呼べるようなものは片鱗すらありませんが、多くの人々の間には「中国ジャスミン革命」という言葉が登場しています。中国の大手検索サイト「百度」(バイドゥ)では、「中国茉莉花革命」は、最高級の敏感な単語にされているようで、「中国茉莉花革命」で検索を掛けると、「関係法令と政策に基づき検索結果を表示することができません」という表示が出て、検索結果が全く表示されません。

 下記の百度のサイトでそれを確認するきことができます。中国語と日本語の漢字は異なりますが、「百度」には優秀な「類推機能」が搭載されているので、日本語ソフトで日本の漢字を打ち込んでも検索結果は表示されます。中国におけるネット検閲を実感できると思います。

(参考1)中国最大の検索サイト「百度」(バイドゥ)
http://www.baidu.com/

 「中国」を付けずに「茉莉花革命」だけで検索すると、冒頭に「関係法令と政策に基づき、一部の検索結果は表示できません」と表示されて、中東のジャスミン革命のサイトなどの検索結果が表示されます。

 中国では、毎年恒例ですが、3月3日から「全国人民政治協商会議」が、昨日(3月5日)からは「全国人民代表大会」(中国では両方を合わせて「両会」と呼ばれます)が開幕しました。先週の日曜日(2011年2月27日)の午前中、温家宝総理が「人民日報」ホームページ上にある掲示板「強国論壇」に登場して、約2時間にわたり、ネットワーカーと会話しました。温家宝総理がネットワーカーとやりとりするのは2009年の「両会」の時期から始まった、これも一種の「恒例行事」ですが、今年は集会やデモの呼び掛けがなされている中でのネット掲示板への総理の登場なので、私も約2時間にわたりネット上で「傍聴」させてもらいました。

 ネット上には、それこそ「玉石混交」の様々な質問・意見がアップされましたが、温家宝総理は、その中からいくつかの質問を選んで答えていました(実際は、画面を見て、温家宝総理が口頭で答えるのを、隣にいるオペレーターがキーボードで打ち込む、という作業でした。その様子の写真は新華社のホームページなどで公開されています)。

 いろいろな発言が飛び交う中、「ジャスミン」(茉莉花)とか「政治体制改革」といった言葉は出てきませんでした。おそらくはそういった直接的な単語は、「敏感な語」フィルターで遮断しているのだろうと思います。自動検閲フィルターをくぐり抜けた発言はいったんは掲示板にアップされますが、人間の管理人が「まずい」と気づいた発言は、すぐに(明らかに「まずい」ものは数分後、削除するかどうか迷うような微妙な発言は場合によっては20分くらい経ってから)削除されます。温家宝総理が登場していた時間帯では、総理を批判するような発言はすぐに削除されていましたが、そのほかにも次のような発言が削除されていました。

○なんか一番関心があるであろうと思われる敏感な単語が出てきませんね。

○政0治0体0制0改0革の話はいつ出るんでしょう。

○正治改革が進んでいないことに対するネットワーカーの提議に対する答えは旧態依然としていますね。

 後の二つは、単語に余計な記号をわざと割り込ませたり、わざと誤字を使ったりする、自動検閲機能をくぐり抜けるための常識的テクニックですが、やはり「政治改革」という単語は、この場では「使ってはならない敏感な語」だったようです。

 ただ、先頃、鉄道大臣が解任された件(汚職が背景にあるとされる)については、温家宝総理は、きちんと答えていました。その際のネットワーカーとのやりとりは次の通りです。

ネットワーカー:「先頃、鉄道部の劉志軍部長が解任され、広東省の茂名市の羅蔭国も審査を受けています。ネットワーカーの中にはこのことに対して拍手をしないものはいませんでした。でもこれは大臣や市の幹部が権力を一手に掌握して権力を乱用していることが問題なのではありませんか?」

温家宝総理:「この事件は、我が党と政府がどんなに地位が高い者であっても容赦はしないことを示している。私は、もし物価の上昇と汚職腐敗現象が同時に起これば、人民の不満を引き起こし、重大な社会問題に発展すると考えている。我が党と政府はそれを重視し、今回のような処置を行ったのである。」

 温家宝総理は、幹部の腐敗に関する答の中で、ネットワーカーが聞いてもいないのに「物価上昇」を取り上げて、幹部の腐敗と物価上昇が同時に起こると重大な社会問題に発展する、という認識を示しました。これは本音でしょう。温家宝総理自身、中国共産党弁公庁主任として、1989年、六四天安門事件の処理に当たった人ですから、二重価格制度廃止の失敗により急激に進んだ当時の物価の上昇が「党・政府幹部の腐敗反対」という形で吹き出して第二次天安門事件に発展したことをよく認識しているのだと思います。言葉でごまかしたりせず、「本音」を素直に言葉にするところが、温家宝総理が現在の中国共産党幹部の中では一番と言っていいほど人民から人気を得ている理由のひとつだと思います。

 「強国論壇」は、中国共産党機関紙「人民日報」のホームページ上にある掲示板ですから、ネット上の掲示板の中でももっとも「権威ある」掲示板だと思います。そこでも様々な発言に関して何が「検閲」で消され、何が許されているか、を私はいつも注目して見ています。

 3月3日に「中国人民政治協商会議」が始まって以降、例えば、次のような発言は一度アップされましたがすぐに「検閲」によって削除されました。

○私と代表とは全く関係ないのだけれど、あの代表たちは、誰を代表してるんでしょう? 私を代表しているわけではない! なぜなら私は投票用紙をもらっていないからだ!

○正確に問いたい。選挙を通じて選ばれた代表なのか?

○民主がまだ疎外されているなか、法律体系が基本的に成立していると言えるのか?

○38名は億万長者である。アメリカ議会の最も裕福な議員よりも金持ちである。

 最後の発言は、外国のメディアで全国人民代表大会に参加する代表の中の38名が億万長者と言える大富豪であると報じられたことに対する発言です。中国共産党中央の幹部を名指しで批判したり、デモや集会を呼び掛けたりするような発言はすぐに削除されますが、上記のような発言は「微妙なところ」です。私が見ることができた、というのも、アップされてから削除されるまで、管理人が「迷って」いたので削除されるまでの間、少し時間が掛かり、その間に私が見ることができた、ということなのでしょう。

 今日(2011年3月6日)見た「強国論壇」では、次の発言が削除されずに残っていました。

●西側の民主制度にはまだ足りない点が残っているけれども、それは有史以来、最も民主的で、最も公務員に対する拘束力を与え監督するための最も強固な制度である!

 これに対するコメントとしては以下のものが、これも削除されずに残っていましたが、数時間後に見たら「○」の発言だけ削除されていました。

●腐敗した官員は西側の民主制度を最も嫌悪している。

○官員が一番西側民主主義の実行をいやがっているのだ。

●全面的な西側化には反対する、と人民日報評論員は言っている。

●この件については、私はそうは思っていない。なぜならアメリカの社会最底辺の人々は現在でも苦しんでいることを私たちは知っているからだ。いろいろな方法を研究し、やり方を探すべきだ。

(上記のコメントに対する再コメント)●世界の3分の2の苦しみを受けている人民は、我々が解放されるのを待っている。

 最後のコメントは、「中国ジャスミン革命」をけしかけているようにも見えるのですが、削除されていません。上記のうち「○」は、検閲を担当している検閲官が自分自身が批判されているように感じて削除した、というのが本当のところかもしれません。これらのうち、どれが削除対象でどれが削除対象でないか、は、おそらくは検閲担当官一人一人によって判断が異なると思います。

 いずれにせよ、中国の状況が中東などと異なるのは、こういった「検閲の実態」のようなものが、外国人である私にも簡単にわかってしまう、というある意味での「中国的いい加減さ」です。中国の多くの人々にとっては、こういった「制限はあるけれども、検閲をかいくぐって表現する方法がいくつかある」という状況が、一種の「ガス抜き」になっているのでしょう。

 「検閲をかいくぐる」という意味では、最近、下記の二つが話題となりました。

 一つは今年(2011年)の春節(旧正月)映画の「譲子弾飛」(姜文監督作品)です。この映画は、当然のことながら中国当局の検閲を経た上で中国国内で上映された作品ですが、興行成績はよく、ヒット作品と言える、とのことです。私は見ていませんが、カンフー・アクションあり、お色気あり、ギャグあり、パロディありといった娯楽作品なんだそうですが、2011年2月18日に配信されたネットニュースのサーチナによると、この映画には政治的な暗喩が含まれているのではないか、と評判になっているそうです。

 というのは、この作品は、民国8年(辛亥革命後8年目)の中国において匪賊のボスが庶民とともに悪者と戦う、という話なのだそうですが、冒頭で匪賊とその義兄弟が馬に引かれた列車を転覆させる、という場面が出てくるそうです。「馬列車を転覆させる」という部分に関し、「いくら民国8年の時期だといっても、馬が列車を引っ張る、という設定は不自然ではないのか。『馬列車』って『馬克思・列寧主義』(マルクス・レーニン主義)のことじゃないのか?」と観客は思うのだそうです。もし、これが「マルクス・レーニン主義を転覆させる」という意味だったら、今の中国においては「とんでもないこと」です。

 映画の最後の方では、「馬列車」が上海の浦東へ向かう、というシーンがあるそうですが、民国8年当時は、上海の浦東には何にもなかったことから、これは巨大開発が行われ上海万博が行われた上海浦東地区を「資本主義の象徴」と捉え、「マルクス・レーニン主義が資本主義へ向かう」という暗喩ではないか、という見方もあるとのことです。

 「譲子弾飛」が政治的暗喩を含むのではないか、という話は、ニューズ・ウィーク2011年2月21日号でも取り上げられています。姜文監督自身は、「考えすぎだ。映画をどう見るかは観客の勝手だ。」と言っているそうです。しかし、姜文監督(俳優でもあり映画監督でもある)は、1980年代に、時代の流れに従って風見鶏的に右に左に世を渡る中国共産党員を冷ややかに描いた映画「芙蓉鎮」に出演し、2000年には中国当局の検閲を得ないで映画「鬼が来た!」(鬼子来了!)を撮影し、7年間にわたり映画撮影を禁止された、という経歴を持ちます(「鬼が来た!」は2000年度カンヌ国際映画際で審査員特別賞を受賞しています)。それを考えると、姜文監督が映画に何らかのメッセージを混ぜたことは、おそらくは間違いないことだと思います。興味深いのは、この映画「譲子弾飛」が検閲をパスし、中国国内でヒットした、ということです。

 私は1988年に北京で映画「ラスト・エンペラー」(1987年:ベルナルド・ベルトルッチ監督作品)の試写会を見たことがあります。この中で、満州国皇帝の溥儀が日本から帰国した時、総理大臣が出迎えに来なかったことについて、溥儀が「なぜだ」と側近に聞いたところ、側近が「息子が共産党員に殺されてしまったものですから。」と答える場面があります。この場面で中国の観客はドッと受けました。中国共産党員が「偽満州国」の総理大臣の息子を殺すことは「正しい愛国的行為」なので中国国内でも何の問題もない場面ですが、「共産党員が人を殺す」という直接的な表現は中国の映画ではあり得ないセリフなので、観客は「ドッと受けた」のでした。だから、「暗喩」とは言え、「譲子弾飛」の中で、「日頃言えないこと」が表現されていると、観客は「ドッと受け」たので、この映画がヒット作品になったのでしょう。

 「政治的暗喩」としては、劉暁波氏が受賞者不在のままノーベル平和賞を受けた次の週末に「南方都市報」に載った「空椅子と鶴の写真」(「鶴」は「賀」と同じ発音)があります。これも「南方都市報」では、「(政治的暗喩と考えるのは)考えすぎだ」とコメントしているようですが、こういった案件は「検閲」をかいくぐる方法はいろいろあることを示しています。

(参考URL2)このブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))
2010年12月19日付け記事
「『南方都市報』の『空椅子』と『鶴』の写真」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/12/post-9b5f.html

 もう一つの「検閲をかいくぐった」例として、小説「李可楽の立ち退き抵抗記」(李承鵬著)があります。これについては、2011年3月3日付けの毎日新聞が記事を書いていました。中国では、土地が公有制であり農民に土地の所有権がないことから、地方政府が農民から土地を強制収容して、それを開発業者に売って巨大な利益を得ることが広く行われています。農民には補償金が支払われますが、農民はしばしば土地収用に反発し、数多くの争乱事件を起こしています。「李可楽の立ち退き抵抗記」は、小説の形でその実態を描いた作品で、30万部のヒット作になっているそうです。上記の毎日新聞の記事によれば、作者の李承鵬氏は「検閲の際にいくつかの語を修正したが、出版はできた。数年前だったら、このような作品は中国では出版できなかっただろう。」と語っていたそうです。

 報道や言論の自由を一定程度認めて、地方の党・政府が行っている「とんでもないこと」を是正しない限り、一般人民の不満は中国共産党体制そのものへの反対として吹き出す恐れがある、という考え方は、中国共産党中央の認識でもあり、そういった危機感が土地の強制収容を指弾するような小説の出版が認められた背景にあるのだと思います。

 最近、北京大学憲法学教授の張千帆氏が「人民に有効に改革に参画させよ」と題する論文を書き、それがいくつかのネット上に転載されています。この中で張千帆教授は、2007年に福建省厦門(アモイ)で住民の「集団散歩」がPX工場(有毒なパラキシレンを製造する化学工場)建設を止めさせたこと、同じような行動で磁気の影響を心配する周辺する住民が上海のリニア・モーターカー路線の延長を止めさせたこと、などの例を取り上げて、人々が主張をすることにより、返って事態が平和裏に解決されたことと指摘して、安定的に改革を進めるためには、むしろ人々に主張させ、執政者がその声を聞くことが重要であると指摘しています。そして、その点は、まさに中華人民共和国憲法が第35条で各種の言論の自由が保障されている理由である、と指摘しています。

※最近の中国の住民運動の例としては、このブログの下記の発言をご覧ください。

(参考URL3)イヴァン・ウィルのブログ(ココログ)2008年1月16日付け記事
「上海のリニア延長反対の住民が『集団散歩』」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2008/01/post_cd3c.html

(参考URL4)イヴァン・ウィルのブログ(ココログ)2008年1月28日付け記事
「中国における最近の住民運動の例」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2008/01/post_a9b2.html

 様々な検閲があり、公安当局が集会やデモはさせない、といった態度を取っている中で、ネット上で、検閲の間を抜けて、こういった議論が交わされていることは、むしろ、現在の中国が一定の「まともさ」を持っている証拠だと思います。

 今日(2011年3月6日)も中国の各地で集会やデモが呼び掛けられているようですが、公安当局は、厳重な警戒で実際に集会やデモが起きないように警戒しているようです。また、外国メディアに対しても、そういった人々が集まる様子や公安当局の取り締まる様子を取材しないように指示しているようです。しかし、今は、メディアがなくても、ほとんどの人が動画機能を持った携帯電話を持っている世の中です。検閲や取材規制には限界があります。上記の張千帆教授のようなまじめな議論は、もはや封じ込めません。また、上記の小説「李可楽の立ち退き抵抗記」に対する検閲の態度に見られるように、党中央の多くの人々自身も、全ての言論を封じ込めることは無理だし、むしろ全てを封じ込めることは体制の維持にとってマイナスだ、と考えていると思います。

 遅いか早いか、ゆっくりと穏健な方法であるか、急激な激しい方法であるか、の別はともかくとして、歴史は確実に前へ進んでいくと思います。

以上

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2011年2月13日 (日)

「革命の波の時代」の始まり

 チュニジアにおいて2011年1月14日に起きた「ジャスミン革命」に引き続き、2月11日、エジプトで反政府デモに追い込まれてムバラク大統領が辞任しました。

 今回の中東での「革命の波」は、インターネットやツィッターなどで独裁的な政府に対する反感が多くの民衆の間に広まった結果だと言われています。

 多くのメディアは、今回の中東アラブ諸国における「革命の波」を1989年~1991年の「東欧・ソ連での民主化革命の波」に重ねて報道しています。「東欧・ソ連革命」は、当時普及し始めた衛星テレビが大きな役割を果たした、と言われています。旧ソ連・東欧圏の人々も衛星テレビの普及によって、容易に西側の情報を手に入れることができるようになったからです。

 そして、これも多くのメディアでは「東欧・ソ連革命」の初期、1989年春~初夏に起こった中国での「第二次天安門事件」とそれが人民解放軍の投入により武力で鎮圧されたことを想起させています。

 中国では1989年~1991年の「東欧・ソ連革命の波」を宋代の詩人になぞらえて「蘇東波」と呼んでいます(中国語ではソ連のことを「蘇聯」と書きます)。

 現在、中国当局は、中東の動きを、中国とは全く関係がないにもかかわらず、相当に神経質に見ています。昨日(2月12日)、人民日報ホームページにある掲示板「強国論壇」では、例えば「ムバラクは強硬な手段で人民を鎮圧することはせずに自ら辞任することを選択した。彼は鎮圧することは無理だと思ったからだろうが、一定のベースラインを持った人だったとは言える」といった書き込みが削除されました。この文章は、中国政府や中国共産党を全く批判していないのだけれども、1989年6月4日の「第二次天安門事件」の際の中国当局の対応を非難したものだ、とも取れる内容だったので削除されたのでしょう。

 1989年~1991年の「東欧・ソ連革命の波」と今年(2011年)の「中東革命の波」とは、中国との関係においては、いくつか類似点と相違点があります。それを整理してみたいと思います。

○「東欧・ソ連革命」は「社会主義体制からの民主化」という意味で、中国共産党による一党独裁体制にある中国とは全く同じ問題から発生しているのに対し「中東革命の波」の背景には「社会主義的体制に対する反発」という点はなく、中国とは類似点がない。

○ソ連は中国とは長い国境線を接する隣国であり中国にとって影響が大きいが、中東諸国は中国とは地理的に完全に離れており中東諸国の動きが中国に直接的に影響する可能性は少ない。

○中東諸国ではリーマンショック後の経済的停滞で貧困層に不満が溜まっていたが、中国ではリーマンショック後も経済刺激策により早い時期に経済成長が復活しており、富裕層と貧困層との格差は大きくなり続けているものの、貧困層でも一定程度は経済成長の恩恵を受けていて、貧困層においても現在の体制をひっくり返すことが自分たちにとってプラスになるとは思っていない人たちがたくさんいるだろうと思われる。

 また、中国自身の状況を見ても、1989年時点と現在(2011年)とでは、似ている点と異なる点があります。

【似ている点】

○急激な物価上昇が起こっていること。

○富裕層と貧困層との格差の拡大が続いていること。

○政府や中国共産党幹部の腐敗がなくならないこと。

【異なる点(1989年と比べて現在は変革が起こりにくくなっていると思われる点)】

○1989年時点では、中国政府自体が資本主義的経済運営に慣れておらず、(趙紫陽氏が「趙紫陽極秘回想録」で述べている通り)1988年当時は十分な準備をしないまま二重価格政策の撤廃を告知したため、多くの人々に「将来物価が上がる」というインフレ心理を起こさせ「買い溜めと売り惜しみによる更なる物価上昇」を招いたのに対し、現在の中国政府は過去の経験や日本のバブル期など外国の経験をよく学んでおり、慎重にマクロ経済政策の管理ができるようになっている。

○1989年当時、大学生は卒業後は国が指定する就職先に行くことが原則であり政府のあり方は自分の人生に直結していたが、現在は大学生の卒業後の就職先は自分の意志で自由に選択することができ、政府のあり方と自分の人生とは直接関係しなくなったことから、学生が政府のあり方に対して「物言い」を言うインセンティブは弱くなった。

○1989年当時、北京大学・清華大学など「国の将来を担う」という自負を持った一流大学の大学生たちは、自分たちの人生の将来と中国政府の将来とを重ねて運動を起こしたが、現在は北京大学・清華大学など一流大学の学生たちは、一流大学に入った時点で既に「勝ち組」であり、現在の体制をひっくり返すことはむしろ自分たちにマイナスになるため、一流大学の大学生が社会を変革する運動をリードするとは考えにくくなった。

○現在では、一定の検閲を受けているとは言え、検閲で許されている範囲内で相当ギリギリのラインまで政策運営に批判的論評をする都市報系新聞が多数あるとともに、当局による削除を受けつつも、当局の削除作業が追い付かないスピードで情報を伝達することが可能であるインターネット等のIT情報ネットワークが発達しており、社会に対する「物言い」は一定程度現状でもできること(この点は、むしろ下記の「変革が起きやすくなった」変化であるとも言える)。

○外国に渡航経験がある知識階層は、中国共産党の一党独裁体制に疑問を持っていたとしても、企業経営などにより現行体制により利益を享受しており、現在の社会体制をひっくり返そうという意志は働かないこと(そもそも外国へ渡航し、中国共産党の一党独裁体制には我慢ができない、と思っている人は、外国に留まり、中国へ帰国していない)。

○世界経済は、中国の経済状況に大きく依存しており、多くの中国人民が変革を望んでも、国際社会は中国の急激な変化を望まず、各国政府は現状を維持しようとする中国政府を後ろから支える可能性がある(ただし、アメリカがエジプトのムバラク親米政権を支えられなかったように、中国のあり方は中国の人民が自ら決めることであり、外国政府が支えられることには限界がある点には留意する必要がある)。

【異なる点(1989年よりも現在の方が変革が起こる可能性が強くなっていると思われる点)】

○1989年当時はトウ小平氏という強力な指導者がいた。トウ小平氏は、文化大革命を終わらせて改革開放路線を開始し、経済活動を活発にして人民生活を豊かにし、世界における中国の地位を高めた、という点で、知識人及び軍の内部で強力に支持する人たちが多かった。それに対し、現在の胡錦濤・温家宝指導部は人気はあるものの(結局は2002年に胡錦濤体制になった後も大きな改革は実施できなかったことから)トウ小平氏のような絶大な支持を受けているとまでは言えず、ましてや2012年にスタートする予定の新指導部については、誰がトップになっても知識人や軍をひとつにまとめる求心力は持ち得ないことは明らかである。

○人々の権利意識は1989年当時とは比べものにならないほど高まっており、多くの人々は「政府や党の意向だから従うしかない」とは思わなくなった。

○1989年当時にも経済バブル的傾向はあったが、現時点での経済バブルははじければほとんどコントロール不能なほど巨大なものになっていること(従って、経済的に不動産バブルなどがはじけたりすると、社会の矛盾が一気に吹き出す危険性は1989年当時とは比べものにならないほど大きくなっている)。

○(これは私の個人的印象であるが)1980年代は、まだ文化大革命時代の理想主義的発想が残っていたほか、中国全体がまだ貧しかったせいもあり、政府機構の末端でも「清廉潔白さ」が相当程度残っていた。しかし、その後の経済成長の中において「正直者はバカを見る」「権力にうまく取り入った者が莫大な利益を得ている」という実例が積み重ねられたことにより、政府・党と経済主体との癒着は、1989年当時より現在の方がむしろ巨大化・悪質化していると思われる。

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 私は1980年代後半(「第二次天安門事件」の直前まで)と2007年~2009年の2回中国駐在を経験しています。1980年代の中国の街には、ニセもの売りやヤミの外貨兌換を呼び掛けるブローカーなどはうろうろしていましたが、こどもの乞食はいませんでした。私が2000年代に中国へ行って一番びっくりしたのは、こどもの乞食がいることでした。悪い組織がこどもに乞食をやらせているのだ、と言われていますが、これだけ経済が成長しているのに、中国政府は何をやっているのだ、と私は思いました。

 今でも、こどもを誘拐して(ひどい場合には人為的に身体障がい者にして)乞食をやらせている組織が中国にはあるそうです。最近、中国のある学者がこどもの乞食を見たらそのこどもを携帯電話で撮影してネットに掲載しよう、と呼び掛けたところ、数千人のこどもの乞食の写真がアップされ、それがきっかけで救出されたこどもも出ているそうです。

 中国の政府は、中央政府はそれなりにしっかりとしていてちゃんと機能していると思いますが、地方政府については、何をやっているのかわかりません。汚染物質垂れ流しの企業やニセもの作りの企業と地方政府・地方の警察が癒着し、地方の司法(裁判所)もグルになっている、という例は数多くあるのではないかと思います。

 一方で、中国の多くの人々は「それではいけない。何とか直さなければならない。」と真剣に思っていることも事実です。上記のようなこどもの乞食をネットを使って救出しよう、という運動もその現れでしょう。

 私はエジプトへは行ったことがないので、ムバラク政権下で、多くの人々がどのくらい「抑圧された」という感触を持っていたのかはわかりません。エジプトの人々が「抑圧されていた」という印象は私にはありませんでした。しかし、ムバラク大統領の辞任によって、多くの人々が外国のテレビ局のインタビューに対して「Egypt is free!」と叫んでいました。

 中国は、私は合計4年半暮らした経験があるので、中国の人々の間にあるであろう相当の「抑圧感」を身をもって知っています。町中で大声で叫んだり、プラカードを掲げる自由がない、インターネットへの書き込みが削除される、という実態からは、経済的豊かさでは償えない「抑圧感」を感じます。私は、日本へ帰ってきた時はもちろん、一時的にシンガポールへ行った時でさえ、「自由にものが言える!」という解放感を味わい、べらべらと異常なほどに饒舌(じょうぜつ)になった自分に気がつきました。中国の国内、即ちインターネット上にある検閲防護壁「グレート・ファイアー・ウォール・オブ・チャイナ」の中にいると、言いようのない抑圧感を感じていたからこそ、そこから出ると(そこがシンガポールのような外国であったとしても)自由な解放感を感じたのだと思います。

 私の個人的感想ですが、この「抑圧感」は、1980年代よりも、今の方が強くなっています(1980年代には「文化大革命の抑圧から解放された」「外国からの情報をどんどん取り入れてよい」という開放感がありました)。

 過去の歴史を見れば、世界の歴史は、ひとつの国の動きが他の国へと次々に移っていくことがよくあります。1989年~1991年の「東欧・ソ連革命」はその典型例です。古くは1960年頃、アフリカ各国が次々に独立した、ということも起きました。中国に関して言えば、紅衛兵の文化大革命が、フランス・カルチェラタンの学生運動や「いちご白書」で描かれたアメリカの学生運動、そして日本の東大安田講堂攻防戦へとつながっていた、という「若者の社会運動」という「世界を巡る波」を引き起こしていたと言えるのかもしれません。

 中国の政治をどうするかは、中国人民が決めることですが、2011年の今年、世界においては「革命の波」が起き始めているのは確かなことだと思います。

以上

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2010年12月26日 (日)

改めて「『氷点』停刊の舞台裏」を読む

 最近、「『氷点』停刊の舞台裏」(李大同著。三潴正道監訳、而立会訳;日本僑報社)を読みました。この本は、日中対訳本で、「氷点週刊」停刊事件が起きた2006年の6月に出版された本ですが、中国国内(大陸部)では「発禁本」なので、私は北京駐在をしていた期間中は、読みたいとは思っていましたが読むのは控えていました。中国国内でこういう本を持ち歩いているのが見つかったらあまりよろしくない、と思ったからです。

 「『氷点週刊』停刊事件」(2006年1月)については、このブログの中にある「中国現代史概説」に第4章第2部第7節として、ひとつの節を起こして書きましたのでご覧ください(このページの左側に「中国現代史概説の目次」があります)。

(参考URL)「中国現代史概説」第4章第2部第7節「『氷点週刊』停刊事件」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-0bd3.html

 この本では、中山大学の袁偉時教授による「現代化と歴史教科書」という論文を掲載されたことにより、中国青年報の中の週刊特集である「氷点週刊」が停刊となり、編集長を解任された李大同氏が、この停刊と自らの解任について、法律や中国共産党規約に違反し、中国公民の「言論の自由」を保障している中華人民共和国憲法に違反している、と指摘しています。李大同氏は、この本の中で、そうした自分の主張を掲げるとともに、この停刊事件によって李大同氏のもとに送られてきた多くの激励の手紙やメール(人民日報などにいた言論界の元幹部からのものも含む)を紹介しています。おそらく李大同氏は、自分の考えを主張したかったのと同時に、こうした数多くの人々の激励文を「歴史の証言」として記録して後世に伝える義務が自分にはある、と感じて、この本を出版したものと思われます。

 「『氷点』停刊の舞台裏」は、2006年1月に起きた停刊事件の前後の状況をまとめて、2006年6月に日本において急きょ出版されたものです。日本において出版されたとはいいながら、「日中対訳」になっており、当局からの指示文書や多くの人々からの激励文などは全て中国語の原文が掲載されており、李大同氏がこの主の本を大陸で出版できない状況の中で、貴重な「歴史の記録」として、中国の人々自身に読んで欲しいと思ってこの本を出版したことは明らかです。重要な点は、国外での出版とは言え、こういった本が現実に出版することが可能だった点です。

 そもそも「氷点週刊」停刊事件が起きた際、李大同氏は、メールで国内外の関係者に状況を報告し、外国の報道陣からの質問に対してもメールで返事を出しています。李大同氏が書いていたブログはすぐに当局によって閉鎖されてしまいましたが、これだけネットが発達している現代においては、自分の意見をネットによって外部に伝える方法はいくらでもあるため、当局もすれらを全て封鎖することはできなかったのです。

 また、李大同氏がこの本で「最高指導者」の指示により、袁偉時教授の論文に反論する論文を掲載することを条件に、「氷点週刊」が2006年3月1日を持って復刊することが決定したことを紹介しています。「最高指導者」とは、前後の文脈からすれば胡錦濤総書記・国家主席であることは明らかです(胡錦濤氏は、「氷点週刊」を掲載している「中国青年報」の発行母体である中国共産党青年団の出身)。李大同氏が、外国での出版、という形であったにせよ、このような形で「ことの顛末(てんまつ)」の詳細を本として出版できたのは、中国共産党指導部の中にも李大同氏を支持する勢力がかなりの強さで存在していることを意味していると思われます。

 このブログの前回の発言(2010年12月19日付け)で、劉暁波氏のノーベル平和賞受賞を圧殺しようとしている中国共産党指導部のやり方を批判すると思われるような「南方都市報」の「空椅子と鶴の写真」の話を書きました。従前だったら、こうした中国共産党の方針にあからさまに反発していることがミエミエの記事を掲載した場合、編集長の解任や当該新聞停刊の措置が執られるのですが、「南方都市報」に関しては、現在のところ「おとがめなし」のようです。おそらくは、中国指導部の中にも、人々の反発の高まりを考えると、新聞メディアを力で抑え付けるのは得策ではなく、一定の報道の自由は認めるべきだ、という考えを持った人々がおり、例えば「南方都市報」を停刊にしたり編集長を解任したりすれば、そうした「報道の自由擁護派」の人々の支持の下、「『氷点週刊』停刊の舞台裏」のように停刊や解任を強要する中国共産党宣伝部の動きの詳細について、世界に発表されてしまう、という懸念が中国共産党内部にもあるものと推測されます。

 最近、中国の動きを見ていると、「強硬な面」と「柔軟な面」の両方があり、その間を揺れ動いているように見えます。「強硬な面」は、尖閣諸島問題における日本に対する態度や劉暁波氏のノーベル平和賞受賞に対する国際社会への態度の中に見えます。12月18日に起きた韓国の排他的経済水域における中国漁船による韓国海洋警備船への衝突事件において、中国が韓国に損害賠償を請求した件などは、中国の「強硬な面」を端的に表した事件でした。一方、北朝鮮の韓国ヨンピョン島への砲撃事件(11月23日)に対する中国の外交努力は、国際社会の中で中国としても最大限の努力をしていることを見せたい、という「柔軟な面」を示していると思います。これらの動きは、中国国内における「強硬派」(国際的には自国の権益を主張し、国内においては報道の自由を強権を持って抑圧しようと考えている勢力)と「柔軟派」(国際社会の中での調和を重視し、国内においては人民の不満は鬱(うっ)積させないように新聞報道にある程度の自由度を与えるべきと考えている勢力)が拮抗している証拠であると思われます。

 こういった二つの勢力の拮抗は、個別具体的な政策の実施の中にも影響を与えます。

 報道によれば、12月23日、北京市当局は、増え続ける北京市内の自動車台数を制限するため、ナンバープレートの提供を抽選制によって3分の1に制限するという政策を発表しました。この政策は翌24日から実施され、23日中に購入した車には適用されない、とのことだったので、23日の夜、北京市内の自動車販売店には「駆け込み購入」を求める市民が殺到したとのことです。中国では、人々の権利や義務に密接に関連する政策も議会(全人代)ではなく行政府(国務院や地方政府)に委任されています。そのため、人々の生活を直接縛る政策が突然発表され、準備する間もなくすぐに実行されてしまう、ということがよくあります。

 普通の民主主義の国では、国民の権利や義務に関する規定は、議会が決める法律や条例によって決められる(行政府は勝手に決められない)ので、議会での議論がなされている期間中は、多くの人々はその政策に対する準備をすることができます。多くの人々がその議論されている政策に反対しているならば、報道機関がそれを論評して、政策を批判します。議会の議員は、次の選挙で落選しては困るので、人々が反対しているような政策には賛成しません。

 民主主義におけるこういった政策決定プロセスは、時として時間が掛かり、「まどろっこしい」のですが、こういった民主的な議論のプロセスは、その政策の影響を受ける人々が政策を受け入れるための「納得のプロセス」であり、議会で多数決で決まった政策については、人々は「議論して決まった結論ならば従わざるを得ない」と「納得する」のです。ところが、中国では、こういった「納得のプロセス」なしで政策決定が行われるので、迅速な政策決定ができる反面、大きな影響を受ける人々の側はその政策について全く納得しておらず、そういった政策を強行することに対する不満を鬱積させる結果となります。多くの人々が決まった政策に納得してないので、表面上は決まった政策に従ったフリをしているが実際はウラで抜け道を使って政策を守らない、という事態が発生してしまうのです。

 中国経済は、輸出依存から国内市場依存へと転換しつつあります。国内市場依存が強まると、国内市場の消費者、即ち、中国の一般人民の動向が中国経済の行方を左右することになります。そういった経済状況になれば、中国の経済施策は中国の一般人民の意向を無視して決めることはできなくなります。つまり、経済の国内市場依存度の高まりは、政治プロセスにおける民意の反映、即ち、政治の民主化が必然的に求められることになります。

 現在、中国指導部の中にある「強硬派」と「柔軟派」の勢力争いは、経済面における国内市場依存傾向の高まりの中で、次第に「柔軟派」が力を持たざるを得ないことになるでしょう。多くの人民の意向を無視した経済政策は、国内市場において経済政策として成功しないからです。「強硬派」のバックには軍がいますが、来年(2011年)は「強硬派」と「柔軟派」の勢力争いが、平和的な形で決着がつく方向へ向かうことを願いたいと思います。

以上

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2010年12月19日 (日)

「南方都市報」の「空椅子」と「鶴」の写真

 先週、12月14日付けの朝日新聞ほかの日本の新聞で、12月12日付けの広東省の日刊紙「南方都市報」の1面についての記事が報道されました。12月12日付けの「南方都市報」の一面トップの見出しは「今夜、アジア大会パラリンピック開幕」という文字ですが、その背景にある写真には、「空席の椅子」と「鶴」が写っている写真でした。朝日新聞の記事では、この写真について「見出しとは全く関係のない写真」と紹介していましたが、ほかの報道によれば、広州アジア大会パラリンピックの開会式では、ツルを使った場面があり、この写真は、開会式のリハーサルの写真だということです。「空席の椅子」は、関係者以外の立ち入り禁止を示すテープを張るために置かれていただけで、「南方都市報」の関係者は、「単なるリハーサルの一場面を写した報道写真であり、変な『深読み』はしないで欲しい。」と言っているそうです。

 しかし、「空席のイス」は、受賞者の劉暁波氏が出席できなかった12月10日のノーベル平和賞の授賞式を意味しているのは明らかです。朝日新聞の記事では、「鶴」と同じ一面に載っている「平らな台」と「手のひら」を組み合わせると、中国語の「ノーベル賞」と同じ発音になると解説しています。一方で、日本のほかの報道では「鶴」(he)が「賀」(he)と同じ発音であることから、この写真は、「空席の椅子」と「鶴」の組み合わせで、「劉暁波氏のノーベル平和賞を祝賀する」という意味である、とする見方も紹介されています。

 「南方都市報」の関係者が「深読みはしないで欲しい」と言っていますが、開会式のリハーサルの中の鶴の場面だけを1面に掲載する必然性はなく、「南方都市報」が劉暁波氏のノーベル平和賞受賞を批判する党中央の方針を皮肉ったことは明らかでしょう。中国の新聞がこれほど直接的に党中央の意向に反する紙面を出すことは画期的だと思います。

 以前、私が北京駐在時代の2008年7月24日、北京の新聞「新京報」は、元AP通信記者の Liu Xiangcheng (劉香成)氏(中国生まれ:米国籍)のインタビュー記事を載せ、このカメラマンが過去に賞を獲った写真として「傷者」というタイトルの写真とソ連のゴルバチョフ氏がソ連解体の書類にサインする場面の写真とを掲載しました。「傷者」の写真は、紙面には説明書きはありませんでしたが、1989年6月の「第二次天安門事件」の時、怪我した学生を仲間が自転車三輪車の荷台に載せて大急ぎで運ぶ場面の写真で、当時の報道では有名な写真だったので、説明書きなしでも、当時を知る人には何の場面の写真かわかるものでした。1989年6月4日の「第二次事天安門事件(六四天安門事件)」は、現在の中国では触れることすら「タブー」です。しかも、それを「ソ連解体の書類に署名するゴルバチョフ書記長」の写真と同じ紙面で掲載することは、見方によっては、中国共産党に対する強烈な批判を意味します。日本での報道によれば、この日の「新京報」は、発売後、直ちに回収措置が執られたとのことです。当時、北京に駐在していた私は「『新京報』の『擦辺球』(エッジ・ボール)」というタイトルで知人にこの件を知らせしたことを覚えています。

 「擦辺球」(エッジ・ボール)とは、卓球用語で、ボールがテーブルのエッジに当たって角度が変わるボールのことで、「違反ギリギリの行為」という意味で中国ではよく使われます。これに比べれば、今回の「南方都市報」の1面の写真は、劉暁波氏のノーベル平和賞を非難する党中央の方針に真っ向から反対を表明するもので、もはや「エッジ・ボール」ではなく、完全にラインの内側を意図的に狙った「ストレート・スマッシュ」だと思います。実際にこの写真が広州アジア大会パラリンピック開会式のリハーサルの写真であるならば、検閲を行う当局もこれを削除することは不可能であり、「南方都市報」の意図は完全に成功したものと思います。現にこの写真は紙面掲載1週間後の現在でも「南方都市報」のホームページにおいて閲覧可能であり、「『南方都市報』よくやった!」といった読者のコメントも見ることができます。

(参考URL)「南方都市報」電子版2010年12月12日付け1面
http://epaper.oeeee.com/A/html/2010-12/12/node_523.htm

※なぜかこのページは Internet Explore でしか閲覧できないようです。

 私は「南方都市報」の編集長の解任、あるいは「南方都市報」の停刊命令等が出る可能性があると思ったのですが、1週間後の今日になってもインターネット上の写真が削除されずに残っているので、たぶん大丈夫でしょう。

 私が、1986~88年の一回目の北京駐在と、2007~09年の二回目の北京駐在とで、最も異なると感じているのは、ひとつはインターネットの存在であり、もうひとつは様々な「縛り」の中で賢明に取材し記事を書こうとする新聞ジャーナリズムの存在です。「南方都市報」は、私が北京にいたときに愛読していた週刊紙「南方周末」(日本語表記では「南方週末」)やNHKが「激流中国」の中で検閲当局と苦闘する状況を描いた雑誌「南風窓」と同じグループに属する新聞です。重要なのは、こういった「検閲の縛りの中でもギリギリの主張をする新聞」がよく売れている、つまり共感する読者が大勢いる、ということです。

 今回の「南方都市報」の「ストレート・スマッシュ」は、「中国は本当に変わるかもしれない」ということを予感させるものだと私は思います。

以上

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2010年12月12日 (日)

中国の民主化の日本・世界における重要性

 一昨日(2010年12月10日)、ノルウェーのオスロにおいて、中国の民主化運動を進めてきた劉暁波氏に対するノーベル平和賞の授賞式が行われました。

 中国の民主化の問題は、中国の内政問題であり、あくまで中国人民が自ら決める問題ですが、以下の点において、日本及び世界に極めて重要な影響を与えている問題であることは認識する必要があると思います。

1.「労働者・農民からの搾取」「環境破壊」による経済秩序の破壊の「輸出」

 最近の中国の経済発展の多くは、外国からの資金と技術の導入に基づいて、中国の労働者による勤勉な労働と、石炭、レアアースをはじめとする中国が持つ天然資源がもたらしたものでありますが、それ以外に以下の要素がかなりの部分を占めています。

○「土地が公有である」という社会主義的原則に基づき、地方政府が農民から非常に安い補償金で農地を取り上げ、工場用地として整備し、企業に安価な土地を提供することが可能であった。

○農村戸籍の者は、都市部で労働していても子女の教育、医療保険等の行政サービスが受けられないことから、農村戸籍を持つ都市労働者(いわゆる「農民工」)は数年で故郷の農村に帰らざるをえないのが現状である。このため、都市部の工場では常に労働賃金の安い若い労働力を確保し続けることができた。(年数が経って賃金を上げざるを得ない年齢に達した「農民工」の多くは、企業側がリストラしなくても、中国側の「戸籍制度」に基づいて故郷の農村に帰らざるを得なかったから)。

○民主制度(選挙や報道の自由)がなく、地域住民の声が地方行政に反映されないことから、地方政府は利益を優先する企業の環境破壊を黙認している。そのため、中国の多くの企業は環境保護に必要なコストを必要とせず、大幅なコストダウンが可能となる。

○中国政府の為替政策(人民元を実勢レートより低く設定する)ことにより、為替レートに基づく国際的な労働コストを低く抑えている。これにより外国資本は、中国への投資にメリットを見い出しているが、一方で、労働者は高い輸入品を買わされることになる。

○政府の政策に対する人々の不満の表明を政治的に抑制することにより、労働者による賃上げ運動を抑制することが可能となり、低賃金を維持することが可能となる。

 このような企業側にとって大幅なコストダウンが可能な環境により、中国は「世界の工場」と化しました。このような「特殊状況」の下で生産された「安い」中国製品は世界を席巻しました。安い中国製品と対抗するため、世界各国では、労働者のリストラなど(日本において多くの労働者を正規労働者から派遣労働者に切り替える、など)が起こりました。こういった現象について、ある中国の学者は「中国は『労働者・農民・市民の権利を守るための革命を世界に輸出する国』ではなく、『労働者・農民・市民からの搾取を世界に輸出する国』になってしまった」と評していました。

 中国において民主化が進めば、労働者・農民の権利の主張がその政策に反映されるようになり、環境破壊を取り締まれない地方政府も成り立たなくなります。中国人民の賃金が為替レート的に不当に低く設定され、その反面で高い輸入品を買わされている現在の為替政策も変わるかもしれません。中国が民主化されれば、「労働者・農民・市民からの搾取の世界への輸出」もなくなり、世界の価格競争は公正な競争原理に基づくものになり、結果的に世界各国の労働者・農民・市民の福利も向上することになるでしょう。つまり、中国の民主化の問題は、実は世界の問題なのです。

2.安全保障における「文民統制」の問題

 中国の人民解放軍は中国共産党の軍隊であり、中華人民共和国政府の軍隊ではありません。従って、国務院総理の温家宝氏には人民解放軍の指揮権はありません。日本の国会に相当する全国人民代表大会も人民解放軍へ軍事面で指示をする権限はありません。胡錦涛国家主席は、国家軍事委員会及び中国共産党軍事委員会の主席でもありますので、胡錦涛氏には人民解放軍の指揮権はあります。中華人民共和国政府の機関として国家軍事委員会というのがありますが、そのメンバーは主席の胡錦涛氏をはじめとして中国共産党軍事委員会のメンバーと同じであり、人民解放軍は中国共産党の指揮は受けますが、実質的に中華人民共和国政府によるコントロールを受けません。これは、政府が軍隊をコントロールできなかった戦前の日本の状況と同じです(戦前の日本では、軍隊の統帥権は天皇にあり、軍隊は政府の指揮は受けないという考え方でした(いわゆる「統帥権問題」))。そのため、戦後の日本国憲法では、政府による自衛隊のコントロール(いわゆる「文民統制」)が徹底しているのです。

 戦前の日本において「軍隊の統帥権は天皇に属しているので、軍は日本国政府の指示は受けない」という主張がまかり通っていた実情に即して言えば、現在の中国においては「人民解放軍の統帥権は中国共産党に属しているので、人民解放軍は中国政府の指示は受けない」ということになります。現在の中国では「中国政府=中国共産党の指導下にある」ので、人民解放軍が党の軍隊か政府の軍隊かという問題は結局は同じことだ、とも言えますが、「中国人民の意志」と「人民解放軍の統帥権」とがつながっていない、という意味では、現在の中国の軍隊に関する状況は戦前の軍国主義時代の日本と同じであるということができます。

 従って、仮に中国政府が軍事的緊張を避けようと考えたとしても、中国共産党が戦争を始めようと思えば、戦争が始まってしまうのです。これは外交と軍事統帥権が一元化していない(形式上、国家主席=軍事委員会主席、という形でかろうじて一元化はしていますが)ことを意味します。これは中国を巡る安全保障上の極めて不安定となる要素のひとつです。

 中国が北朝鮮をしきりに擁護するのは、韓国との間に緩衝地帯を設けたい、という地政学上の理由とともに、「先軍思想」と称して軍隊が全てをコントロールしている北朝鮮にシンパシーを感じていると思われる人民解放軍の意向が中国外交の自由度を縛っている可能性が非常に大きいと思います。

 中国の政府は、中国人民がコントロールできているわけではないのですが、人民解放軍は、そういった中国政府ですらコントロールできない、という政治状況は、世界の安全保障の観点では不安定要素であると言わざるを得ません。(大多数の人民がコントロールしている政府が軍隊をコントロールしているならば、軍隊はそう極端なことはできません。「大多数の人民がコントロールしている」という部分で、一定の合理性(大義名分、と言ってもよい)がないと軍隊は動けないからです)。

 1989年の第二次天安門事件の時、天安門前広場にいた学生・市民を排除するために戒厳令が出されましたが、当時の中国共産党総書記の趙紫陽氏は、戒厳令の発令に反対でした。当時の中国共産党軍事委員会の主席はトウ小平氏だったので、実質的にトウ小平氏の「ツルの一声」で戒厳令発令が決まりました。中国政府の公式な記録では、1989年5月17日の夜、中国共産党政治局常務委員会の会議が開かれて、その場で多数決で戒厳令発令が決まった、ということになっています。しかし、趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」の中で、この日の夜の会合は「政治局常務委員による状況報告会」であった、としています。政治局常務委員会を招集する権限のある総書記(趙紫陽氏自身)が政治局常務委員会を招集していないのだから、この会議は政治局常務委員会ではなかった、と言いたいのでしょう。つまり、第二次天安門事件で多数の犠牲者を出すに至る戒厳令は、正式な手続きを経て出されたものではなく、実質的にトウ小平氏一人の意志決定によって決まったのでした。

 法律に基づく政府が確立していない、多数の人民の意向が軍の行動に反映されない、という状況においては、予想もできない軍事的な決定が突然になされてしまう、というリスクは常に存在します。

3.様々な国際共同作業における自由度の問題

 政治的な自由度がない、報道の自由がない、ということは、国際的な共同事業の自由度、という点でも制約を受けます。例えば、国際共同科学研究において、中国国内では気象データなどを許可なく測定できない、といったこともそのひとつです。中国では、国家プロジェクトに異を唱えるような研究論文は実質的には書くことはできません。これは国際共同研究の観点から言えば致命的です。例えば、人工の水路を造って揚子江の水を黄河以北へ移送するという「南水北調」プロジェクトは、生態系や地域の気象に影響を与える可能性がありますが、このプロジェクトによりマイナスの影響が出る、というような研究論文は中国では発表できません。砂漠地帯の緑化事業も、地下水を汲み上げることにより地中の塩分を地表面にもたらすといった悪い影響もあるはずなのですが、そういった「政策に反対するような論文」は書けないのが実情です。そういった国では「科学」の信頼性に疑問がある、と言われてもしかたがなく、そういった国と本当の意味での科学的国際共同研究ができるのか、という疑問が生じます。

4.法律遵守意識の問題

 中国は知的財産権では「無法地帯」と言われています。多くの人々の「遵法意識」に問題があるのがその原因のひとつですが、その背景には「そもそも政府自体が法律を守っていない」ことが挙げられます。今般の劉暁波氏のノーベル平和賞受賞に関連して、受刑者である劉暁波氏に出国許可を出さなかったのは法律上は理解できるとしても、劉暁波氏の親族や同調者、あるいは同調者の親族すら出国許可が出ていないことについて、そういった出国拒否に法律上の根拠があるのか、という疑問が湧いています。中国の憲法には、中国公民の基本的人権が定められていますが、「国家の安全確保上問題が生じる」という理由があれば、政府がそういった基本的人権を制限することが可能である、というのでは、憲法の規定が有名無実である、ということになります。

 中国では、多くの法律において、行政府に国民の権利・義務に関する決定を大幅に委任しています。例えば、毎年の祝日は、日本では国会の議決を経た法律において規定されますが、中国では祝日の設定は行政府に委任されているため、中国の「法定休日」は全人大の議決を経ずに政府機関である国務院が決めています。

 中国では多くのケースで「法律には原則論が書いてあるだけであって、実際の決定は行政府が政府の都合で自由に決めている」のが実情です。こういう状況があるので、多くの中国人民は、「法律は原則論であって、実態に合わせて運用することは問題ないのだ」と思ってしまうのです。法律論は「原則」なので、幅広く法律を解釈して実体的にはかなりいろんなことができる、という考え方が現在の中国の政府及び人々の意識の底流にあるのです。従って、立派な法律はあるけれども、実際は全然守られていない、というケースがあちこちで見られます。人民日報にも載った話ですが、中国の土地管理法違反案件の約8割は地方政府による法律違反なのだそうです。

 中国では、「中国共産党といえども、憲法や法律を守らなければならない」という「おふれ」がしょっちゅう出ます。これなど、「中国共産党の決定だ」と称して、法律違反の行為がしょっちゅう行われている証拠でしょう。元中国共産党総書記の趙紫陽氏は、「総書記を解任されたのは中国共産党の決定だからしかたがないが、自分を自宅軟禁にする法律的根拠は一切ないはずだ」と「趙紫陽極秘回想録」の中で憤慨しています。2006年1月に突然停刊になった「中国青年報」の中の週刊特集ページ「氷点週刊」について、当時の編集長で後に編集長を解任された李大同氏は、その著書「『氷点』停刊の舞台裏」の中で、この停刊が、法律に基づく処置ではなかっただけでなく、出版の自由を保証している憲法に違反している、と糾弾しています。

 劉暁波氏の妻を自宅軟禁にしたり、支援者の出国を止めている現在の中国の現状を見れば、中国政府自身が「憲法に基本的人権に関する規定はあってもそれは厳密に守らなくてよいのだ」と内外に宣言しているに等しいと言わざるを得ません。そうした政府自身が「憲法や法律には立派なことが書いてあるが、実態はそれに忠実に従う必要はないのだ」という態度を示している状況において、中国の人々に「知的財産権に関する法律を守りましょう」と呼びかけても詮ないことであることは明らかです。

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 以上掲げたように、中国が、法律に基づく、民主的な政治体制にならない限り、様々な経済的、国際的な「あつれき」は今後とも引き続き起こる可能性があります。従って、中国の国内政治体制は中国人民が決めるものであって、外国人がああだこうだと言うべきではない、という原則はあるものの、外国人の我々としても、中国の民主化については、利害関係者の一人として重大な関心を持って見守って行かざるを得ない、と言えると思います。

以上

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2010年12月 5日 (日)

黄海での米韓合同軍事演習と中国外交

 先週(2010年11月28日~12月1日)、黄海においてアメリカ海軍の原子力空母ジョージ・ワシントンも参加して米韓合同軍事演習が行われました。今回の軍事演習は、もともと計画されていたシリーズの米韓合同演習の一環、ということのようですが、去る11月23日、北朝鮮が韓国のヨンピョン(延坪)島へ砲撃を行い、民間人を含む4名の死者が出た直後だけに、緊張感が高まりました。

 この北朝鮮砲撃問題について中国がどう対応するのか、世界が注目しました。

 中国は、1978年にトウ小平氏の主導により、文化大革命の時代から脱して、改革開放路線を始めました。その頃、ソ連は、ソ連共産党による支配の硬直化が進んでいました。トウ小平氏は、外交的にはアメリカや日本をはじめとする西側諸国と接近し、ソ連を「覇権主義」として批判することによって「対ソ包囲網」を形成し、中国の国際社会における発言力を高めました。

 トウ小平氏の「対ソ包囲網作戦」は成功し、中国は日本をはじめとする西側諸国の対ソ戦略意識をうまく活用して、西側から資金と技術を導入して、文化大革命中に停滞した中国経済にカツを入れ、その後の急速な中国の経済発展の基礎を築きました。また、イギリスとの交渉により、香港返還を実現させました。

 1986年~1988年、私は一回目の北京駐在を経験しましたが、その頃、中国の街角では、赤地を白で染め抜いた中国共産党のスローガンは次々と撤去され、各地にあった毛沢東主席像もその多くは撤去されました。それは、トウ小平氏が、文化大革命的なスローガン主義や個人崇拝主義を嫌って、近代的な経済建設を進めたいと考えていたことを表していました。

 しかし、そういった1980年代の自由を希求する雰囲気の中で天安門前広場で盛り上がった1989年の北京の学生・市民の運動は、人民解放軍の投入により武力で鎮圧されてしまいました。1992年のトウ小平氏による「南巡講話」により、中国は、経済的には高度経済成長時代に入りますが、政治的には1980年代に比べれば、むしろ文革時代に近いような雰囲気に戻ってしまいました。

 日本との間では、改革開放期に入る前から尖閣諸島問題はありました。しかし、1978年の日中平和友好条約の批准書交換式に出席するため訪日したトウ小平氏は、尖閣問題について問われたとき、「我々の世代はまだ知恵が足りないのです」と述べて問題を棚上げすることによって日本との関係を進めることに成功しました。

 日中間には、いわゆる「歴史問題」もありましたが、1980年代の中国指導者は「日本人民も日本の軍国主義者の被害者であった」と述べており、多くの中国人民も実際そう思っていて、今の日本に対する「反日感情」はありませんでした。むしろ、人々は「おしん」や「山口百恵」に見られるような日本の文化を取り入れ、企業は日本の進んだ技術や経営方策を取り入れようとしていました。

※このあたりの経緯については、左側の欄にある「中国現代史概説の目次」をクリックして、このブログの中にある該当部分をご覧ください。

 しかし、2007年4月に二回目の北京駐在のため赴任した私は、1980年代とは違う雰囲気に戸惑いました。街には赤地に白で染め抜いたスローガンがたくさんありましたし、外国企業の大きな広告看板と同じように、人民解放軍の兵士が描かれた「軍民が協力してオリンピックを成功させよう」といった1980年代の開放的雰囲気とは異質の看板も目立ったからです。

 テレビでは、夜7時のニュース「新聞聯報」の中に「紅色記憶」と題する中国共産党の歴史を解説するコーナーがありました。赴任したのが4月末で、メーデーが近いせいもあったのですが、テレビでは「労働者之歌」という歌番組が放送されており、人民解放軍の軍服を着た女性歌手が祖国を讃える歌を歌っていました。祖国を讃える歌は結構なのですが、率直にいって「テレビ番組の雰囲気が北朝鮮みたいじゃないか。中国は北朝鮮みたいになって欲しくない。」と感じたのを覚えています。

 中国は、2001年のWTOへの加盟、2008年の北京オリンピックの開催、2010年の上海万博の開催、というふうに国際社会の中に溶け込むためのイベントが続いたのですが、実際問題としては、中国が外交的に国際社会の中への溶け込みが進んだとは見えませんでした。

 特に、最近の中国は、9月の尖閣諸島問題に対する対応や、10月の劉暁波氏へのノーベル平和賞受賞に対して、諸外国に対して強硬な態度に出て、むしろ自ら国際社会における「対中包囲網」を自分で招来するような姿勢を示していました。

 11月23日(火)に北朝鮮が韓国のヨンピョン島を砲撃した事件に関しても、中国は北朝鮮を非難せず、「関係各方面に冷静な対応を求める」とだけ述べていました。温家宝総理も、訪問先のモスクワで「いかなる軍事的挑発も許さない」と述べて、北朝鮮を非難しているのか、米韓合同演習をしようとしている米韓側を非難しているのか、わからない情況が続いていました。このままでは、1980年代に「ソ連包囲網」の中で「包囲する各国の中の主要な一員」だった中国が、2010年にはむしろ国際社会によって「包囲される側」に回ってしまうのではないか、という恐れがあります。

 11月26日(金)の時点で、「人民日報」のホームページ上にある掲示板「強国論壇」では、掲示板の管理人により「朝鮮・韓国砲撃戦の背後に見えるアメリカの陰謀」と題する個人ブログの文章が掲載され、多くの参加者のコメントがこれにぶら下がっていました。この文章のポイントは、「北朝鮮は、自分が主張する自国の領海内で韓国が軍事演習をやったから反撃したまでのこと。」「これを機にアメリカが空母を出して黄海で米韓軍事演習をやるのは、日本による釣魚島(尖閣諸島の中国名)占領と同じように、アメリカによる中国封じ込め策の一環である。」というものです。

 「強国論壇」では、盛り上がるような話題については、根っことなる発言を提示して、そこにコメントを集中させるような掲示板の整理をすることがあります。この「朝鮮・韓国砲撃戦の背後に見えるアメリカの陰謀」という文章も、そういった掲示板の中の整理の一環として議論の根っ子として紹介しただけであって、「強国論壇」の考えを代表するものではありませんが、この発言には「北朝鮮を支持する」「アメリカはけしからん」といった発言が多数ぶら下がっており、まるで「強国論壇」が北朝鮮擁護と反米の感情を煽っているかのようにさえ見えました。米韓合同軍事演習が北京・天津の目と鼻の先である黄海で行われようとしている状況を前にして、「強国論壇」には11月27日(土)、28日(日)の周末に「反米デモ」が起きるのではないか、というほどの「熱気」がありました。

 しかし、11月26日(金)以降、中国は早手回しに外交上の対策を行いました。

 まず、11月26日(金)、中国外交部の楊潔チ部長(「チ」は「竹かんむり」に「がんだれ」に「虎」)は、北朝鮮の在北京駐在大使と会談し、ロシアと日本の外務大臣と電話会談を行いました。

 同じ11月26日(金)、中国外交部のスポークスマンが「黄海の中国の排他的経済水域では中国の許可なしにいかなる軍事的行動も許さない」という発言をしました。日本のいくつかの新聞等は、この発言について「中国は黄海での米韓合同軍事演習に反対を表明した」と報じました。しかし、この外交部スポークスマンの発言は、「たとえ黄海であっても、中国の排他的経済水域(いわゆる200カイリ水域)の外であれば、外国が軍事演習を行っても黙認する」という意図表面である、とも読めます。黄海は中国からの大陸棚が続いているので、中国と韓国との排他的経済水域の境界については、中国と韓国とで主張が異なっており、「中国の排他的経済水域の外にある黄海」とは具体的にどの海域を指すのかは明確ではないのですが、外交部スポークスマンの発言が「海域を選べば、黄海で軍事演習をやっても中国は文句は言わない」という意味だととらえれば、これは米韓に対する「歩み寄り」を示す重要なメッセージでした。

 こういった中国の動きとの関連は不明ですが、27日(土)、北朝鮮は「砲撃により民間人に死者が出たのだとしたら遺憾」という軟化を匂わせる見解を発表しました。

 11月27日(土)午後、中国の戴秉国国務委員(外交担当で副首相級。外交部長よりランクは上)が急きょ訪韓して韓国の外交通商相と会談しました。戴秉国国務委員はその夜はソウルに泊まり、翌28日(日)の午前中に韓国のイ・ミョンバク(李明博)大統領と会談しました。イ・ミョンバク大統領とにこやかに握手する戴秉国国務委員の映像は、世界に「北朝鮮問題について、中国は積極的に外交的努力をしている」との姿勢をアピールしました。

 さらに、戴秉国国務委員とイ・ミョンバク大統領の会談直後、中国政府は、30日(火)に北朝鮮の朝鮮労働党書記のチェ・テボク(崔載福)書記が訪中する、と発表した。

 同じくイ・ミョンバク-戴秉国会談の直後、中国外交部は同日北京時間16:30(日本時間17:30)から北朝鮮に関する「重要情報」を発表する、と予告しました。

 「重要情報を発表する、という予告」は、普通はないことなので、「人民日報」ホームページ上の掲示板「強国論壇」では、「何だろう?」「米韓に対抗して中国も山東半島沖で軍事演習をやる、という発表か?」「アメリカに宣戦布告でもするのだろうか?」「そういう話なら軍が発表するだろう。外交部が発表するのだから軍事的な話ではないはずだが。」といった憶測が乱れ飛びました。

 実際、17:40になって戴秉国国務委員に随行してソウルへ行っていた中国外交部朝鮮問題特別代表の武大偉氏が北京に戻ってから発表したのは、「中国は12月上旬に六か国協議の首席代表による会議を行うことを提案する」というものでした。外交上の提案としては十分ありうる提案ですが、「重要情報を発表する、と予告するほどの内容ではない」というのが一般的な見方でしょう。「強国論壇」では、「待ってて損した!」「外交部は何考えてるんだろう」といった声がわき上がりました。

 実は、この時点で、「強国論壇」に11月26日(金)に「発言の根っこ」として置かれていた「朝鮮・韓国砲撃戦の背後に見えるアメリカの陰謀」というアメリカを非難する内容の文章は、「黄海で米韓が合同軍事演習を実施」という中立的な文章に差し替えられていました。

 明らかに、中国の姿勢が11月26日(金)から28日(日)の間に、「だんまり」から「北朝鮮、韓国と同じ距離を保ち、中立の立場から対話を促す」という立場に変わったのです。北朝鮮問題に関して「だんまり」を決めこむことは、結局は北朝鮮の行為を是認することになり、北朝鮮に対する影響力を持つという中国が何もしないことは、中国が国際社会から非難を浴び、中国と北朝鮮を同一視されて中国自身が国際的に孤立してしまう、という危機感が中国にもあったのでしょう。そのため、一転して活発な外交的動きを見せて、「中国は努力している」という姿勢を国際社会に見せたのだと思います。

 六か国協議の首席代表による会議の提案を「重要情報を発表する」と予告した上で発表したことについては、戴秉国氏や武大偉氏がソウルから北京に帰国し、指導部にイ・ミョンバク大統領との会談結果を報告した上で中国としての立場を発表したのですから、発表のタイミング自体は全く不自然さはありません。ただ、発表についてなぜ「重要情報を発表する」と予告したのか、という疑問は残ります。可能性としてあるのは、六か国協議の首席代表による会議開催の提案は、誰でも考えつくようなあまりパッとしない提案だが、中国としてもほかに打つ手がなかったので、「中国は重大な決断をした」という「格好」を見せるために「重要情報の予告」をして世界の注目を集める方策を採ったのだ、ということです。また、北京時間16:30(日本時間17:30)という時刻は、今の時期だと日没であたりが暗くなるタイミングですので、日が暮れるまで北朝鮮側、米韓側ともに軍事的な起きないように「軍事的動きをさせないためのハッタリだった」のかもしれません。また、アメリカの原子力空母が黄海に入っていることによって熱くなっている中国の若者が「反米デモ」を起こさないように、衆人の目を集める「重要情報発表予告」を行い、実際に発表したときには既に日曜日の日が暮れており、デモをやりたくても、次の週末まで人が集まらない、という状況を作るのが目的だった、のかもしれません。

 訪中した北朝鮮のチェ・テボク書記は、12月1日、中国の呉邦国政治局常務委員(中国共産党のランクナンバー2で、全人代常務委員会委員長)と会談しました。チェ・テボク書記は北朝鮮の最高人民会議(国会に相当)の議長なので、呉邦国氏は中国におけるカウンターパートですので、この会談に不自然な点はありません。しかし、国家安全保障上の重要事項を話し合うのだったら、相手は全人代常務委員会委員長の呉邦国氏ではなかったはずです(呉邦国氏は、日本で言えば「国会議長」であって、外交を担当している行政のトップではない)。発表されたニュースでは、この会談では「中朝関係は東アジア地域の安定にとって重要であるとの認識で一致」といった当たり前の話ばかりで、具体的にどういったことが話し合われたは発表されていません。また、チェ・テボク書記が北朝鮮のキム・ジョンイル(金正日)総書記の特使として派遣されたのならば、胡錦濤主席(中国共産党総書記)と会談してもおかしくないのですが、胡錦濤主席とチェ・テボク書記が会談した、という報道はなされていません。

 いずれにせよ、一連の外交的活動により、中国は「北朝鮮の擁護者として国際社会から孤立する道」を選ばずに、「北朝鮮問題については、北朝鮮とは一定の距離を保ち、できるだけの外交上の努力はする」という姿勢を国際社会にアピールすることには成功したと思います。今の中国の国内政治においては、10月の五中全会で習近平氏が党軍事委員会副主席に選ばれたことでわかるように、人民解放軍の発言力が大きくなっていて、中国が人民解放軍が親近感を持っている「先軍主義」の北朝鮮を擁護せざるを得ないような状況になっている(胡錦濤-温家宝体制は既にレイム・ダック化している)という可能性があります。もし、そうだとすると中国は今まで考えられていた以上に北朝鮮を擁護する動きをする可能性があります。しかし、北朝鮮を擁護する態度を明確に出すと、尖閣問題、劉暁波氏ノーベル平和賞問題で国際社会の中で「異質な存在」として国際的に孤立化しつつある中国が、ますます国際社会から取り残されてしまう恐れがあります。今回の外交上の動きを見ていると、そういう最悪の事態は避けられたようです。

 しかし、ロシアですら北朝鮮を非難している状況において、北朝鮮を非難しない中国の姿勢は、「中国はやはり『ふつうの国』ではない」という印象を国際社会に与えたのも事実だと思います。朝鮮戦争の時に50万人にも上る「人民義勇軍」を派遣した中国には、当時の関係者(または戦死者の遺族)がまだたくさん残っており、北朝鮮を見限ることは現政権への批判につながる可能性もあるし、また韓国との間の「緩衝地帯」としての北朝鮮の中国にとっての地政学上の重要性は変わっていないので、中国の国内政治状況において、北朝鮮問題は非常に神経を使う問題であることは今後も変わらないと思います。

以上

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2010年11月21日 (日)

上海での高層マンション火災と地方政府批判

 去る11月15日(月)、上海にある28階建てのマンションがほぼ全焼し、現在までに58名の死亡が確認され、なお56名が行方不明だとのことです。この火災の原因は、外壁工事をしていた作業員の安全管理が不十分であったことだとされ、作業関係者8名が拘束されて取り調べを受けているとのことです。

 この火災については、5時間にわたって燃え続け、10階付近が出火場所だったにもかかわらず、28階建てのビルが全焼してしまったことに対して、消火・救出作業が遅かった、と中国国内でも非難が出ているようです。

 高層ビル全体が全焼してしまう、という火災は諸外国ではあまり例がないのですが、中国には前例があります。2009年2月9日にあった供用開始前だった北京の中央電視台新社屋北配楼の火災がそれです。今回の上海の高層マンション火災の延焼の経緯は今後の調査を待つ必要がありますが、2009年2月の中央電視台新社屋北配楼の火災については、その後の調査で、出火原因と延焼の経過がほぼ明らかになっています。

 中央電視台新社屋北配楼の火災は、旧暦1月15日の「小正月」だったこの日、中央電視台の職員が新しくできた社屋ビルを背景にして花火を打ち上げ、それを映像に撮影しようとしていたところ、花火の一部がビルの屋上に落下し、着火した、というものです。屋上に着いた火がビル全体に燃え広がってしまった経緯については、次のように考えられています。このビルは、外観をよくするためにアルミ系の金属化粧板が取り付けられていました。また、このビルの外壁にはある種の断熱材が取り付けられていました。金属化粧板は、融点が低く、通常の火災で溶けてしまう程度のものだったのだそうです。また、断熱材は燃えやすい素材で、その発火点(火が点く温度)は金属化粧板の融点より低い温度だったのだそうです。屋上に着火した火は、金属化粧板を溶かし、溶けた金属が下の階に流れ落ち、その温度が階下の断熱材の発火点より高かったことから断熱材が燃え出し、周囲の金属化粧板を溶かし、それがさらに下の階に流れ落ちて階下の断熱材を発火させた結果、ビル全体が燃えてしまった、ということのようです。中央電視台新社屋北配楼は、建設直後の内装工事中で、共用前だったためビルの内部にいた人は少なく、ビル内にいた人に被害はありませんでしたが、消火作業に当たっていた消防士が1名殉職しています。

 この北京の中央電視台新社屋北配楼は、私が北京に駐在していた時に住んでいた場所から400メートル程度しか離れていない場所だったので、この火災は私自身、この目で見ました。鉄筋コンクリートのビルがこれほど激しく燃えるものか、と思えるほど炎と黒い煙を出して燃えていました。

(参考URL1)
このブログの2009年2月9日付け記事
「中国中央電視台の新ビルの北隣のビルで火災」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2009/02/post-6c05.html
このブログの2009年2月12日付け記事
「中国中央電視台新社屋敷地内ビル火災組写真」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2009/02/post-d5c5.html

 今回の上海での高層マンションの火災については、直接の出火原因となった工事関係者が逮捕されたわけですが、中国のネットワーク上では、燃えやすいビルの構造や上海市当局の対応が遅かったことなどに批判が集まっています。出火の原因を作った労働者ではなく、工事の責任者を逮捕せよ、といった意見もネット上にはありました。また、「新京報」の報道によれば、今回の改装工事を請け負っていた業者が「二級」のレベルであり、過去に安全管理の点で二度当局から注意を受けていたのに、上海市関連の多くの工事を請け負っていた、という疑問点も指摘されています。

 この火事について、広州の週刊紙「南方周末」(日本語表記は「南方週末」)の特約評論員の林楚方氏は「上海:そこには推敲を禁じられた都市がある」と題するコラムを書いています。

(参考URL2)「南方周末」林楚方のブログ2010年11月17日付け記事
「上海:そこには推敲を禁じられた都市がある」(上海 ナ里有禁得起推敲的城市)(「ナ」は「くちへん」に「那」)
http://linchufang.z.infzm.com/
あるいは
http://column.inewsweek.cn/column-275.html

 「推敲」とは、もちろん中国の故事に基づく言葉で、文章や詩歌をよりよいものにするためにブラッシュ・アップすることです。このブログの記事の中で林楚方氏は、中国の都市は高層・超高層化されているが、「推敲」、即ち安全や効率化のための向上努力がなされていないし、誰もそれをしようとしていない、と指摘しています。

 この記事のちょっと刺激的なところは次のように呼びかけているところです。

「市長の皆さん、書記の皆さん。我々の都市をもっと強固なものにしてもらえないでしょうか。さらに省エネを推進し、防災対応能力をアップさせ、効率をアップさせ、それらに違反する者にはあらかじめ有効な制裁を加えることはできないのでしょうか。これは要求が高すぎますか? そうすることが国家政権に危害を加えることになるのですか? 災害が起きてから、緊急通知を出し、緊急に指示を出し、網羅的な検査を行って、何人かのかわいそうなスケープ・ゴートを引き出すことしかできないのでしょうか。そのような劇を演じることは、あまり意味がない、というよりは、大いに恥ずべきことです。」

 これは明らかに「地方政府批判」です。「国家政権に危害を加えること」を持ち出しているのは、たぶん「国家政権転覆罪」で服役中のままノーベル平和賞受賞が決まった劉暁波氏を念頭においた、相当にきつい「皮肉」だと思います。

 中国では「中央政府」を批判することは認められませんが、「地方政府」を批判すること(特に特定の地方政府を名指しで批判するのではなく、一般的に地方の政府のあり方全体に対して批判すること)は認められます。従って、上記のような「地方政府批判」は、中国でも認められている範囲内なのですが、問題は、今回の火災が上海で起きたことです。この上海での火災に関連して地方政府を批判する、ということは、上海市や上海市党委員会を批判することに直結します。上海市・上海市党委員会は、いわゆる「上海閥」(上海グループ)の本拠地です。次期国家主席の座をほぼ確実にしたといわれる習近平氏は、2007年10月の党大会で政治局常務委員になる前は上海市党委員会書記をしていました。習近平氏は、「上海閥」のトップグループの一人と言われ2006年9月に汚職の疑いで失脚した陳良宇氏の後任として上海市党委員会書記になったのだから、むしろ「上海閥」直系ではない、と考えるのが一般的ですが、上海市当局の上層部には「上海閥」系の人物が多数いることは明らかであす。いずれにせよ、中国第二の都市である上海市当局を批判することは、中国では政治的には極めて「敏感な」問題です。

 上記の林楚方氏のブログの文章には、結構過激なコメントも削除されずに掲載されています。昨日(11月20日)の日本テレビ系、TBS系のテレビのニュースでは、香港からの報道として、中国当局が上海での大火災の報道については新華社が配信する記事に一本化し、ネット上での報道もそれ以外は削除するように指示している、と伝えていました。しかし、少なくとも私が今日(11月21日)時点で見たところでは、上記の林楚方氏のブログの発言やそれに対するコメントは削除されていません。

 一方で、昨日(11月20日)、上に書いた2009年2月の北京の中央電視台新社屋ビルの火災の原因を作った中央電視台職員等に対する裁判において、「ビル自体に燃えやすい材料が使われていた」という「特殊情況」に配慮して、その罪を軽減することになった、と報じられました。これに対してはネットでは「『特殊情況』とは何だ」「罪の軽減は中央電視台職員という『特権階級』だからではないか」といった批判が起きています。「人民日報」ホームページ上の掲示板「強国論壇」では、この件に関する特集欄を作ったりしており、制限するどころか、「どんどん議論しようぜ」という雰囲気です。そもそも、このタイミングを狙って2年近く前の北京の火災の関係者の罪状を「軽減する」というニュースを流すことには、何かわざとらしい「意図」を感じます。

 これらの情況を踏まえると、上海市当局が火災に関する報道を抑制しようとしているのに対し、北京側(=中国共産党中央の一部の勢力)が「批判すべきところはきちんと議論して批判する」という態度に出ているように見えます。つまり、ひとことで「中国当局」と言っていますが、その実態は、中国の内部にもいろいろな勢力(はっきり言えば「上海閥」対「反上海閥」)がおり、それらが勢力争いを繰り広げているのが現状だと思います。

 APECの際、胡錦濤主席は11月13日に行われた横浜での日中首脳会談で「平和、友好、協力」を強調しました。その旨は中国国内でも報道されていますので、「反日デモ」はもう収まると思います(胡錦濤国家主席がそう言っているのに、さらに「反日」を主張することは、即、国家主席に反対することになるので、中国では、そういった動きが許されるはずがありません)。

 今後は、何か急に動き出すことはたぶんないと思いますが、上記に垣間見える「上海閥」対「反上海閥」といった内部勢力争いと、最近特に目立ってきた物価高騰に対する庶民の怒りとが、徐々に2012年秋の党大会へ向けての「次の動き」に対する土台を作っていくことになるのだと思います。

以上

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2010年11月 7日 (日)

尖閣・ノーベル平和賞:対中国包囲網への警戒

 2010年9月7日に起きた尖閣諸島(中国での呼称:釣魚島)での中国漁船衝突事件と、10月8日に発表された民主運動家・劉暁波氏へのノーベル平和賞授賞決定とは、全く別次元の全く関係のないできごとです。しかし、かなり多くの人が、尖閣諸島事件によって盛り上がった中国の若者たちの間の「反日デモ」が、劉暁波氏へのノーベル平和賞授賞決定で元気の出た民主化運動と結びついて、中国の大衆による民主化運動へ発展するのではないか、といった見方をしています。この見方については、国際世論が勝手にそういった見方をしているのではなく、中国当局自身がそういった「二つのできごとの結び付き」に強い警戒感を持っていることで裏付けられています。

 尖閣諸島での漁船衝突事件のビデオがネットに流出して騒ぎになる直前の11月5日付けの「人民日報」の2面の紙面に、「ノーベルの遺志に背く平和賞」と題する郭述という人の署名入りの評論が掲載されました。この評論では、ノーベル平和賞を非難するものですが、ノーベル平和賞も含めた最近の一連の動きを「西側各国による中国包囲網の一環だ」として警戒しています。

 実際は、尖閣問題ではレア・アースの輸出制限をして日本以外の国からの警戒感を惹起したり、ノーベル平和賞に関してはノルウェー政府にプレッシャーを掛けたりして、「中国警戒すべし」と各国に思わせているのは、中国自身の行動が原因であり、「西側諸国が中国を包囲しようとしている」というのは、中国側の一方的な一種の被害者妄想だと私は思いますが。

 この評論「ノーベルの遺志に背く平和賞」のポイントは以下のとおりです。

(参考URL1)
2010年11月5日「人民日報」2面
「ノーベルの遺志に背く平和賞」(郭述)
http://opinion.people.com.cn/GB/13142332.html

--評論「ノーベルの遺志に背く平和賞」(郭述)のポイント--

○ノーベルの遺志は、各国の友好を推進し、各民族の融和を願うものだった。しかし、近年、ノーベル平和賞はノーベルの意志からかい離し、特に冷戦終結後は、西側の「人権至上主義」の旗を世界に広げる役割を果たしてきた。

○特に1970年代~90年代には、ノーベル平和賞は「ソ連解体のための黒い手」となった。1975年には自分の国家に反対を唱えたサハロフに平和賞がノーベル平和賞が与えられ、1990年には自分の国家を解体に導いた元ソ連共産党書記長のゴルバチョフにノーベル平和賞が与えられた。これは欧米国家による政治的弾丸であり、「平和」の意図とは完全に相反するものである。

○今まで中国人では、二人のノーベル平和賞受賞者がいる。一人はダライ・ラマであり、もうひとりは劉暁波である。1989年3月、ダライ・ラマ集団はチベット自治区ラサにおいて重大な流血事件を起こし、6月には西側の某勢力の教唆と支持の下、北京で政治風波を発生させ、その後、中国を西側世界から孤立させた。ノーベル委員会委員長は「ダライ・ラマを表彰することは北京政府を懲罰することである」とさえ言った。ダライ・ラマのノーベル平和賞受賞は、中国に圧力を掛け、中国を分裂させようとする一連の動きのひとつであることは明らかである。

(訳注:「政治風波」とは第二次天安門事件のこと。なお、1989年3月のラサ暴動を鎮圧したチベット自治区党書記は、現国家主席の胡錦涛氏。ダライ・ラマ16世へのノーベル平和賞授賞は1989年10月に決定された。)

○劉暁波のノーベル平和賞受賞の理由について、ノーベル委員会は「長年にわたる非暴力による中国での基本的人権闘争を行ったこと」と述べており、このこともノーベル平和賞受賞と人権とが直接関係していることを明示している。ところが劉暁波がやったことと言えば、誹謗・中傷の方法によって、他人を扇動して一緒に署名して、インターネット上に、現有政治を変え、現政権を転覆させようと宣伝することだった。劉暁波のいわゆる「人権闘争」とは、現政権と現在の制度を転覆させ、西側の民主と制度にしようとするものであり、中国の憲法と法律に反するものである。それこそが国家政権転覆扇動罪になった理由であり、同時にノーベル平和賞受賞の主要な理由であった。

○ダライ・ラマと劉暁波のほか、ラビア、胡佳、魏京生もノーベル平和賞候補のリストに載っているという。劉暁波のノーベル平和賞受賞は、西側による一連の長期にわたる組織的で詳細に仕組まれた中国に対する西欧化、分裂化を企む政治的謀略が継続していることを示している。

(訳注:ラビア・カーディル氏はウィグル族指導者(アメリカに滞在中)。胡佳氏は、エイズ患者保護などを訴えた民主活動家で、現在服役中。魏京生氏は、1979年の「北京の春」の時に共産党支配を批判したとして現在服役中。これらの人々の名が人民日報の紙面に登場することは極めて異例。)

○ノーベル平和賞による繰り返される中国に対する非難は、西側の中国の勃興に対するおそれを反映している。中国は社会を安定させながら大きな経済発展を遂げているが、逆に西側諸国は活力を失っている。西側は、西側と異なる政治制度を有する中国がこのように強大になり、多方面で成功していることを望まないのである。だからこそ、北京オリンピックの機会を借りた2008年3月14日のチベット争乱、2009年7月5日のウィグル争乱、グーグル問題から釣魚(尖閣の中国側呼称)問題に至るまで、様々な方法が行われたが、いずれも中国に対して効果がないことから、今度はノーベル平和賞という政治的道具を使ってきたのである。

○西側のこうした反中国勢力の手法には何も効果がないことは事実が証明している。前途にいろいろ雑音はあることは避けられないが、我々は社会主義近代国家の建設と中華民族の大復興を世界と手を携えて進めていく。

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 この評論が中国共産党機関紙である「人民日報」に掲載されたことは、現在、中国共産党指導部が持っている「恐怖心」を非常に正直に表現していると思います。「ノーベル平和賞がソ連解体の『黒い手』だった」という表現がそれを端的に示しています。ゴルバチョフ氏の「ペレストロイカ(改革路線)」と「グラスノスチ(情報公開方針)」を出発点として、ソ連共産党とソビエト連邦の解体に終わった1989年~1991年の「ソ連・東欧革命」の道を中国共産党は最も恐れているからです。1980年代、社会主義国における「改革開放」では世界の最先端を走っていた中国共産党は、その恐怖心の故に、1989年6月、天安門広場周辺に人民解放軍を導入し、武力で「ソ連・東欧革命」が中国に及ぶことを拒否したのでした。

 2008年3月のチベット自治区での争乱、2009年7月の新疆ウィグル自治区での争乱、今年初めのグーグルが中国から撤退すると表明した時の騒ぎ、そして今回の尖閣問題とノーベル平和賞について、諸外国では現在の中国共産党による支配体制の「きしみ」と見ていますが、上記の論文を見れば、中国共産党指導部自身、同じ見方をしていることがわかります。

 また、上記の評論については、従来は「無視」するのが通例であったダライ・ラマ氏や劉暁波氏、ラビア氏、胡佳氏、魏京生氏の名前を列記していることは、内容は非難になっていますが、中国人民に事実を知らせる、という意味で、この記事は有意義な記事だったと思います。「政治風波(第二次天安門事件)」に対する記述を見ても、「完全無視」から「無視しないできちんと非難する」というふうに、対応方針が明らかに変化しているように見えるからです。

 その「変化」を示すもう一つの例として、11月3日に「法制日報」に掲載された劉暁波氏を批判する評論「刑法の専門家が劉暁波と言論の自由との関係について語る」(張正儀という署名入り)があります。

 この評論のポイントは以下の通りです。

(参考URL2)
「法制網」ホームページ2010年11月3日10:02アップ記事
「いわゆる『言論により罪を得る』は劉暁波の判決に対する誤読である~刑法の専門家が劉暁波と言論の自由との関係について語る~」(張正儀)
http://www.legaldaily.com.cn/index_article/content/2010-11/03/content_2337624.htm

--「刑法の専門家が劉暁波と言論の自由との関係について語る」(張正儀)のポイント--

○劉暁波は国家政権転覆罪で懲役11年、政治的権利はく奪2年の刑を受け、今年2月に結審した。一方、ノーベル委員会は今年のノーベル平和賞を劉暁波に与えると発表した。中国内外で、劉暁波は「言論によって罪を得た」と議論されている。そういった議論が正しいかどうか、記者は高名な刑法学者の高銘セン教授に取材した(「セン」は「日」へんに「宣」)。高銘セン教授によると次のとおり。

○劉暁波は「社会を改変することによって政権を改変する」と題する論文をBBCネット中国語版等を通じて発表したり、「ひとつの党が壟断する執政特権を廃止する」「中華連邦共和国を設立する」などの主張をインターネット等で発表したりした。劉暁波は、「これらは政治的評論であり、国家政権転覆罪には当たらない」と主張している。

○「国家政権転覆罪」という犯罪を形成するのか、政治的論評なのか、を判断するには、発表された文章の内容を検討する必要がある。劉暁波は「中国共産党独裁政権は、国と人民に災いを及ぼしている」とし、「政権の改変」「中華連邦共和国を設立」等を主張している。これは明らかに民衆を扇動し、中国共産党が指導する人民民主主義独裁と社会主義に基づく合法的な現行の政権を転覆させよう、という情報を伝達するものであり、一般的な政治批評を逸脱しており、社会に危害を加えようとするものである。

○現行政権に変更を求める評論が全て刑法で罰せられるのか、という点については、国家に危害を与える扇動を防止させるために刑罰を科すという手段を用いる必要があるか、に掛かっている。判断には「扇動、誹謗、中傷が行われているか」ということと「社会に与える影響が重大であるか」ということが基準となる。劉暁波は「1949年に成立した『新中国』は、名義上は『人民共和国』であるが、その実態は『党天下』である」「現在の世界の大国の中において、中国だけが唯一、権威主義的政治形態によって絶えることなく人権を侵害し社会的危機を造成している国である」と主張している。これこそ扇動、誹謗、中傷である。また、その社会的影響も重大である。また、署名人として他人の同意を求めてインターネットに文書を発表しており、これは「言論」の問題ではなく、刑法が禁止する「行為」の問題である。

○多くの国においても、武力による反乱や国家の重要人物を暗殺を扇動するような行為は禁止されている。また、諸外国においても、言論の自由は、社会に与える危害の程度と言論の自由の権利とのバランスによって判断されるとされている。劉暁波の案件も、この判断基準を適応して判断されたものである。

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 中国当局は、2008年12月9日に「零八憲章」がインターネット上で発表された時には、徹底的にこれを削除しまくりましたが、上記の評論では非難の対象とは言いながら「新中国は、名前の上では『人民共和国』だが、実体的には『党天下』である」といった、この「零八憲章」の最も重要なポイントを中国の人々の前に提示しています。「無視する」「触れない」のではなく、「取り上げた上で批判する」というふうに路線を変更したことが明確に見て取れます。

 「とにかく削除」ではなく、「議論してよい」となれば、ネット上の掲示板などでは議論になりそうですが、「人民日報」ホームページ上の掲示板「強国論壇」は、どうやら最近「事後検閲(アップされた発言が問題であれば削除する)」から「事前検閲(アップして差し支えないと判断された発言のみがアップされる)」に変更になったようです。私も正確にはわかりませんが、発言のタイムスタンプを見ると、タイムスタンプからアップされるまで、ちょっと時間が掛かっているようですし、発言者の中から「システムの故障?」「管理人にお尋ねしますが、全部審査されることになったんですか?」といった声が上がっていますので、掲示板「強国論壇」ではたぶん何らかのシステムの変更があったのだと思います。

 紆余曲折はあるのでしょうが、「無視する」「触れない」といった「臭いものにフタをする」といった態度から、表に出して議論する、という方向に変わったのだとしたら、「半歩前進」と言えるかもしれません。

 一方で、世論のコントロールを失うことへの警戒感を強く出す評論も出ています。

 11月2日に理論雑誌「求是」のホームページに掲載された「世論のコントロールを失うこと:ソ連解体の促進剤」と題する評論が端的にそれを表しています。

(参考URL3)
「新華社」のホームページに2010年11月2日09:35にアップされた「求是」の記事
「世論のコントロールを失うこと:ソ連解体の促進剤」
http://news.xinhuanet.com/politics/2010-11/02/c_12728261.htm

 この評論では、下記の点を指摘しています。

--「世論のコントロールを失うこと:ソ連解体の促進剤」のポイント--

○ゴルバチョフによる「メディア改革」により、各種のメディアがソ連共産党の指導から離れ、情報公開の促進によって世論の多元化が進んだことにより、民衆の中にある政府に対する不満と国内の民族対立を激化させた。

○1987年、ゴルバチョフの指示により、ソ連が西側からの放送に対する電波妨害を停止したことから、西側は絶え間なくBBCやVOAやテレビによる「平和的なソ連社会の改変」が進んだ。

○これらの事実は、ゴルバチョフのメディア改革によって数十年にわたる努力によって築かれた社会主義の防波堤が、わずか数年で内部から崩壊してしまったこと示している。ある学者は、「メディア改革--メディアの開放--外部からの介入--マイナス面が表に出る--民衆の不満が累積する--政府によるコントロールが無力化する--世論が徹底的にコントロールを失う--政権を失い国家が解体される」といったモデルを提示している。

○千里の堤も蟻の一穴から。ソ連解体後、ロシアはその後10年間、衰退の道を歩み、かつての超大国は、西側の圧力を受ける一つの国家になってしまった。中国が中国の特色のある社会主義の道を正しく歩むについては、この経験に学ぶことは非常に重要である。

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 「ソ連解体の経験に学べ」という議論は以前からなされてきていますが、この時点で上記のような主張が改めて中国共産党の指導思想を議論する理論誌「求是」に掲載されたことは、尖閣問題やノーベル平和賞授賞といった「西側からの中国包囲網」に対し、中国共産党指導部が今のタイミングで非常に警戒感を高めている証拠であると言えるでしょう。

以上

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2010年10月31日 (日)

「反日デモ」と「人民日報」「強国論壇」

 尖閣諸島での中国漁船船長の逮捕をきっかけとして、中国内陸部で「反日デモ」が起き、10月29日にハノイで行われるだろうと思われていた日中首脳会談がなくなるなど、日中関係がぎくしゃくしています。私は今、日本にいて、報道されている以外に中国の状況を知る立場にはありませんが、「人民日報」のホームページ(紙媒体の新聞として印刷される「人民日報」そのものもネットから見ることができる)を見ていて気がついたことを書いてみたいと思います。

 特に「人民日報」ホームページ上には、「強国論壇」と呼ばれる掲示板があり、ネットワーカーが様々な書き込みがなされるので、これも参考になります。当局に不都合な発言は管理人が削除しますが、書き込まれてから「不適切」と判断して削除されるまで数分~30程度タイムラグがあるので、運がよければ、削除されるような発言を削除される前に見ることもできます(ただし、もちろん全て中国語です)。

 「人民日報」ホームページ、「人民日報」の紙面に載った記事、掲示板「強国論壇」に掲載されたネットワーカー発言(削除された発言)で気がついたものを書いておきます。

(1)劉暁波氏のノーベル平和賞受賞

○受賞決定直後の反応

 10月8日にノーベル委員会は、中国共産党による支配を批判した文書「零八憲章」を起草した一人とされる劉暁波氏にノーベル平和賞を授与することを決定しました。これは中国国内に居住する中華人民共和国国籍を持つ初めてのノーベル賞受賞者が誕生したことを意味しますが、中国のメディアはこの時点では全く報道しませんでした。しかし、掲示板「強国論壇」では、発表直後からノーベル平和賞に関する発言(賞賛と反対と両方ありましたが)があふれ、中国のネットワーカーたちはネット経由ですぐにこの情報を得たことがわかりました。ただし、受賞を祝う発言は、すぐに削除されました。

○「人民日報」等の反論

 10月17日付け「人民日報」は3面の国際評論の欄に「ノーベル平和賞は政治的目的に走っている」という評論文を掲載しました。この評論文では、服役中の劉暁波氏にノーベル平和賞が与えられることになったことを報じた上で、そうした決定をしたノーベル委員会について「ノーベル平和賞を政治的に利用するものだ」と非難していました。この評論を「人民日報」が掲載したことを日本のマスコミは報じていないようなので、多くの日本の人たちは劉暁波氏がノーベル平和賞を受賞したことを中国の人は知らない、と思っている人がいるようですが、これは誤りです。

 その後、10月26日14:05付けで「中国網」が劉暁波氏を批判する文章「劉暁波:その人そのやったこと」をアップしました。「人民日報」のホームページもこの文章にリンクを張りました。この文章のポイントは以下のとおりです。

---「劉暁波:その人そのやったこと」のポイント---

(参考URL1)人民日報ホームページ
「劉暁波:その人そのやったこと」
(「中国網」2010年10月26日14:05アップ)
http://world.people.com.cn/GB/13053039.html

○劉暁波は「人を驚かすこと」で頭角を現した人物である。

○「1989年の政治風波」(第二次天安門事件)の時には、「名を上げるチャンスだ」として当時滞在していたアメリカから帰国し、「六四動乱」の首謀者となった。

(筆者注1:「1989年の政治風波」「六四動乱」は、ともに「第二次天安門事件」のこと。)

○彼は「香港が100年植民地だったのだから、中国は300年植民地でいても足りないくらいだ」と言ったり、「中国人は創造力が欠けている」と評したりしている。

○「六四」動乱の後、起訴され、涙を流して「懺悔書」を書いたが、その後もいわゆる「民主化運動」を続けた。

○アメリカのCIAが後ろにいるアメリカ国家民主基金会が補助する「民主中国」社に職を得て、年収23,004ドルを受け取っていた。

○2008年にいわゆる「零八憲章」をインターネットを使った扇動、誹謗の方法で発表した。「零八憲章」は中国の現行の憲法と法律を完全に否定し、党の指導と現行の政治体制の一切を否定し、西側の政治制度に変えることを主張して、段階的に民衆に混乱を起こさせ、「暴力革命」を吹聴する主張である。彼は2008年12月、国家政権転覆扇動罪で懲役11年、政治的権利剥奪2年の刑に処せられた。

(筆者注2:劉暁波氏は、2008年12月に起訴され、一審、二審の裁判の結果、2010年2月に刑が確定した。上記の記述は、起訴された時点で刑が決まり、裁判なんかどうでもよいのだ、という中国の現状を表していると言える。)

○彼は次のように主張している。「アメリカ人民によって確立され全世界を覆った自由秩序のためならば常を越えた代価が必要である」「自由の女神が持つ火が全地球を焼き尽くすことを想像する必要がある。全ての人は対テロリズム戦争に対する責任を有する」。

○劉暁波は、西側が中国を変革させようとする企みの「馬の前の兵卒」であり、中国人にとって唾棄すべき存在である。

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 上記の非難文の中で「零八憲章」がどんなものであるかを紹介していますが、ここで紹介するのだったら、「零八憲章」が発表された後、様々なサイトに転載されているものを片っ端から削除しまくっていたのはなぜなのか、という疑問がわきます。また、マルクス、レーニンや毛沢東が「資本主義を倒し共産主義を打ち立てるには『暴力革命』しかない」と主張していたことを考えると、「零八憲章」について「暴力革命を吹聴する主張だ」と非難することには大きな違和感を感じます。

 なお、劉暁波氏個人については、その主張に一部過激なものもあり、アメリカによるイラク戦争に賛意を表するなど、西側にも批判的に見る人もいるのは事実です。

(2)中国内陸部における若者らによる「反日デモ」と「人民日報」の反応

 10月16日(土)に四川省成都、陝西省西安、河南省鄭州で「反日デモ」が起きました。このデモは中国国内では報道されませんでしたが、16日夜の時点で、掲示板「強国論壇」には以下のような発言がアップされていました。

○「散歩」があったみたいだけど、どこ?

(筆者注:「散歩」とは「集団散歩」のことで、「デモ」と書くと削除される可能性があるので、それを避けるために掲示板などでよく使われる隠語)

○成都、西安、鄭州ですよ。

○今回の「散歩」は当局も支持していたんですかね、不支持だったんですかね? 御存じの方、教えて。

○当局も一枚岩っていうわけじゃないのかも。

 上記の発言は削除されずに残っていましたが、以下の発言はアップされてから30分程度後に削除されました。

○今回の「散歩」は単なる反日ではないのではないか。性質が変わる側面があるのではないか。政治改革への反対に対するひとつの反面教師を提示したのではないか。

 上の発言が削除された、ということは、ある意味では、この発言が当局の痛いところを突いた発言だったことを示すものだ、ということもできると思います。

 翌10月17日(日)には四川省綿陽で、次の週末の10月23日(土)には四川省徳陽で、24日(日)には陝西省宝鶏で、26日(火)には重慶市で「反日デモ」がありました。16日の成都、17日の綿陽でのデモでは、一部が暴徒化し日本車や日本関係の店舗の破壊が行われましたが、その他のデモは大きいものでも1,000人規模のもので、「民衆運動」と言えるような規模のものではありませんでした。

 ただ、注目されるのは24日に起きた宝鶏のデモです。このデモでは、「反日」の横断幕のほか、「複数政党と協力せよ」「住宅が高すぎ」「格差是正を」「報道に自由を」「英九兄貴、大陸へ歓迎します」といった党・政府批判の横断幕もありました(「英九兄貴」とは、台湾の馬英九総統に親しみを持って呼びかけた言葉)。反日の横断幕は紅い布に、その他の横断幕は緑や青の布に書かれており、デモの主催者は明らかに「反日以外の主張」をスローガンとして掲げることを意図したものと思われます。この四川省宝鶏でのデモは、外国メディアは注目していなかったため当日は報道されませんでしたが、翌25日になってフジテレビ系列がその映像を放映しました(ネットでも見られました)。これは現場で撮影した一般市民が報道関係者に映像を提供した可能性があります。映像を映せる携帯電話は世界全体に普及していますので、こういったことはありうることです。

 この宝鶏のデモで使われた直接的に党や政府の政策を批判するスローガンは、今までの中国ではあり得なかったことです。1989年の第二次天安門事件に関する情報が遮断されている中、過去の中国共産党や中国の中央政府に反対する大衆運動に対する当局の反応の恐さを知らない若者だからこそできた行為なのかもしれません。

 26日(火)には、ネット上で重慶市での「反日デモ」が予告されていました。重慶は内陸部の大都市であり、日本の総領事館もあり外国人報道関係者もたくさんいるので、ここでデモが起きれば世界に大きく報道されることになります。こうした若者たちの動きに対して、「人民日報」は10月26日付け紙面の4面に「愛国の熱情は法に従い理性によって発揮しよう」という評論を掲載しました。この評論は24日(日)15:56(北京時間)に「人民日報」ホームページ上に掲載されていたものです。

(参考URL2)「人民日報」ホームページ
「愛国の熱情は法に従い理性によって発揮しよう」
(2010年10月26日付け「人民日報」4面)
http://society.people.com.cn/GB/13046902.html

 しかし、26日の重慶市の「反日デモ」は起きました。人数的には1,000人ということですので、それほど大規模なデモでもなかったし、破壊行為等も起きませんでした。こういった動きに対応してかどうかわかりませんが、翌27日(水)の「人民日報」では、1面下の方に「正確な政治的方向に沿って積極的かつ穏健に政治体制改革を推進しよう」という署名入り評論を掲載しました。

 この評論のポイントは以下のとおりです。

---「正確な政治的方向に沿って積極的かつ穏健に政治体制改革を推進しよう」(鄭青原)のポイント---

(参考URL3)「人民日報」ホームページ
「正確な政治的方向に沿って積極的かつ穏健に政治体制改革を推進しよう」(鄭青原)
(2010年10月27日付け「人民日報」1面)
http://opinion.people.com.cn/GB/40604/13056137.html

○これまでも政治体制改革は進めてきた。

○トウ小平氏は、政治体制改革には「政局の安定性」「人民の団結と人民生活の改善」「生産力の発展に寄与できるか」がポイントであると述べていた。

○社会主義制度政治の優位さは、人民の力を集中させることにおいて、四川大地震などの自然災害、経済的ショック、政治風波の試練を通して、我々を円満に組織し、国際活動の場に対し、中華の大地のおける奇跡を示すことができた。

○正確な政治的方向に沿い、積極的かつ穏健に政治体制改革を進めるには、中国共産党による指導を確固たるものにすることが必須であり、党による指導を放棄するものであってはならない。

○中国の歴史と国情に立脚すれば、政治体制改革を進めるにあたっては、我々独自の道を歩まねばならない。決して西側のモデルに従ってはならず、多党制による権力のたらい回しや三権分立ではなく、ひとつにまとめなければならない。

○政治体制改革は13億の人口を抱える中国の実情から出発しなければならない。生産力、経済体制、歴史的条件、経済発展のレベル、文化教育水準のレベルを踏まえて、秩序だって一歩づつ進まねばならず、実情から離れたり、ステップを飛び越えたり、実現できないスローガンを唱えたりしてはならない。

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 三つ目の○の中にある「政府風波」とは、1989年の「第二次天安門事件」を示す言葉ですが、こういった文脈で「第二次天安門事件」をにおわせる表現を使うことは異例です。

 この「正確な政治的方向に沿って積極的かつ穏健に政治体制改革を推進しよう」という評論については、翌28日付け「人民日報」では「ネットワーカーが熱く議論」と称して、掲示板に掲載されたこの評論に対するネットワーカーの意見を載せています。載せられている発言は全てこの評論の論旨に賛意を表するもので、実際は「議論」になっていないのですが、「人民日報」としてはネットワーカーも「党の指導の堅持」や「西側をモデルとした政治制度導入に反対」といった党の方針を支持している、と言いたかったのでしょう。

 各地で起きている若者のデモはそれほど大規模なものではなく、北京、上海、広州など沿海部の大都市では起きていないので、最近の若者の動きが中国の政治体制に影響を与えるとは思えないのですが、「人民日報」がこういった「政治体制改革」に関する評論を連日掲載するところを見ると、中国の指導部の内部に相当な懸念があることを伺わせます。

 その懸念とは、尖閣諸島での漁船船長逮捕事件をきっかけとして起こった「反日デモ」と劉暁波氏へのノーベル平和賞受賞とが共鳴しあって、若者らの運動が反党・反政府あるいは民主化運動へと高まることです。それは上に述べたように「『散歩』は反日ではなく、性質が変わる可能性があるのではないか」との掲示板の発言を削除したことでもわかります。連日起きているのが「反日デモ」であるにもかかわらずが「人民日報」が「政治体制改革」に関する評論を連日掲載していることは、中国の指導部も「反日デモ」の背景に「現在の政治体制への反発」があることをよく理解しているのでしょう。

 実は、最近の掲示板「強国論壇」では、「一人一票」という言葉が流行っています。「一人一票」は、反党・反体制を意味しませんから削除対象にはなりません。数から言えば、反日や尖閣諸島(中国名:釣魚島)の案件よりも、この「一人一票」関連の発言の方が多いと思います。

 「社会会主義とは何か、資本主義とは何か。韓国と朝鮮(北朝鮮)を比較すれば一目瞭然じゃないか。」といった書き込みは削除されません。ただし、「あなたが貧乏人ならば、貧困の原因は『憲法』があなたの利益を代表していないからだ、ということは明白にわかるだろう。団結して闘争に立ち上がり、部分的な民主しかない『憲法』ではなく全人民がみんなで決めることを要求しよう!」といった書き込みは削除されます。直接的に党の方針に反対したり「体制をひっくり返そう」と呼び掛けたりしない範囲ならば、一定程度の発言は認めよう、というのが現在の中国のネットワーク・コントロール方針ですが、それで多様化する中国の若者たちを前にしてどこまで対応可能なのでしょうか。

 今日(2010年10月31日)で上海万博が終わります。「中国では、いろいろ問題があるけれども、『北京オリンピック』と『上海万博』という国際的大イベントが終わるまでは、社会の安定を崩すわけにはいかないから、何も動きはありませんよ。」とよく言われてきました。その「国際的大イベント」が終わった今、次の時代の新しい動きが始まりつつあるのかもしれません。

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2010年10月16日 (土)

「08憲章(零八憲章)」全文の日本語訳

 劉暁波氏が2010年度のノーベル平和賞を受賞することが決まりました。中国に在住する中華人民共和国国籍の人がノーベル賞を受賞するのはこれが初めてです。劉暁波氏がノーベル平和賞を受賞するひとつのきっかけとなり、また同氏が拘束されて懲役11年(政治的権利剥奪2年)の刑を受けたきっかけとなったのは、同氏が2010年12月にインターネット上で発表された「08憲章(零八憲章)」の主要な起草者であるからである、とされています。

 既に「08憲章」の概要は日本の新聞等にも掲載されていますが、「08憲章」は、現在の中国が抱える問題点を網羅的に指摘していると考えられますので、下記に全文の日本語訳を掲載します。この文章は、インターネット上に掲載されていた原文(中国語)を私が翻訳したものです。中国現代史にお詳しくない方にはわかりくい文言については、私が「訳注」をつけました。

 なお、劉暁波氏については、私のこのブログにある「中国現代史概説」の「第二次天安門事件」や「インターネット規制と『08憲章』」の項目をご覧ください。

(参考URL)私のブログの2010年5月18日付け記事
「『中国現代史概説』の目次と参考資料等のリスト」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-a7df.html

 この「08憲章」は2008年12月9日にインターネット上で公表されたものです。現在、「08憲章」が掲載されているインターネット上のサイト(外国語のものも含む)の多くは、中国大陸からはアクセスできないように規制が掛かっています。このブログを書いているニフティ社のブログサイト「ココログ」は、2009年暮ないし2010年初の段階で中国大陸部からのアクセスができない状態になっています。従って、下記の文章を中国大陸から見ることはできませんが、中国大陸以外にいる日本語のわかる方に御一読いただきたいと思ってアップしました。

 中国政府は「08憲章」に反対の立場を取っていますが、「08憲章」のどこが問題であるか、といった議論をすることすら許されていません。「08憲章」が中国の社会の分裂を招くよくない文章だと思うのならば、その問題点を指摘して堂々と反論すればよいのですが、賛成をすることのみならず「議論をすること」が禁じられているのです。

 現在(2010年10月15日~18日)、中国では中国共産党第17期中央委員会第5回全体会議(第17期五中全会)が開催されています。この会議で、胡錦濤総書記(国家主席)の後継者となる指導者の人事が決まるかもしれない、などと報道されています。このタイミングで「08憲章」を起草した中心人物とされる劉暁波氏へのノーベル平和賞授賞が決まったことは、「中国現代史」との中でのひとつの「エポック」と言えることになるかもしれません。その意味もあり、私がシリーズで書いてきた「中国現代史概説」の延長線上の参考資料として「08憲章」の全文の日本語訳をアップしようと思った次第です。(なお、日本語として読みやすいように、原文では一段落になっている部分についても、日本語訳では段落をつけてある部分がありますので、その点はご了承ください)。

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【08憲章】(零八憲章)

1.まえがき

 今年(2008年)は中国で立憲制度ができて100年(訳注1)、「世界人権宣言」が発表されて60周年、「民主の壁」が誕生して30周年、中国政府が「国民の権利と政治的権利に関する国際条約」に署名して10周年である。

(訳注1)清王朝の末期の1908年8月に「欽定憲法大綱」公布された。

 長期的な人権侵害と曲がりくねった困難な抗争の歴史を経て、目覚めた中国国民は、自由、平等、人権という人類共通の普遍的価値、即ち、民主、共和、憲政という現代政治の基本的な制度機構について、日に日に明確に認識するようになってきている。この普遍的な価値と基本的な政治機構を離れた「近代化」とは、人の権利を奪い、人間性を腐食させ、人間の尊厳を傷つけるという災難に満ちたプロセスである。21世紀の中国がこれから向かう方向はどこなのか。このような権威主義的統治の下での「近代化」が継続していくのか? はたまた普遍的価値を認識し、主流となっている文明を導入し、民主的政治体制を成立させるのか? これは、ひとつの避けることのできない選択である。

 19世紀中期の歴史的大変革において、中国の伝統的専制政治制度が腐敗し、中華の大地に「数千年見ることがなかった大変化」が除幕した。洋務運動(訳注2)では、物質の側面においての革新を追求したが、日清戦争において体制が既に時代遅れになってしまっていることが再び暴露されてしまった。戊戌の変法(訳注3)においては、制度の側面において革新を図ろうとしたが、結局は頑迷派による残酷な鎮圧により失敗してしまった。辛亥革命では、表面上、2000年以上続いた皇帝制度を葬り去り、アジアで最初の共和国を成立させた。当時の内憂外患の歴史的条件の中において、共和制度による政治体制は一瞬花を開いたが、すぐにまた専制主義による巻き返しを受けた。

(訳注2)「洋務運動」とは、1860年のアロー号戦争の後、危機感を持った曾国藩、李鴻章、左宗棠ら清朝の開明派の官僚が起こした運動で、積極的に西洋の技術を学ぼうとするもの。そのスローガンは「中体西用」(中国の体制の下で西洋の物資や技術を利用する)というものだった。

(訳注3)「戊戌の変法」とは、1894~1895年の日清戦争に敗れた清朝の進歩派官僚(康有為、梁啓超、譚嗣同ら)が光緒帝の賛同を得て、軍隊の洋式化、科挙の廃止、立憲君主制の構築などを目指して1898年に行った改革運動。当時、清朝の実権を握っていた西太后をはじめとする旧守派の前にわずか100日足らずで瓦解した。

 物質面での模倣と制度面での革新に失敗し、中国の人々は、文化的病根に対して深く反省し、遂に「科学と民主」を旗印とする「五四」新文化運動を開始した(訳注4)。しかし、国内にしきりに起こる戦乱と外敵の侵入により、中国政治の民主化の過程は中断を迫られた。抗日戦争に勝利した後、中国は再び憲政の過程を開始したが、国共内戦の結果、中国は現代版権威主義の深みに落ち込むこととなった。1949年に成立した「新中国」は、名前の上では「人民共和国」であるが、実質上は「党天下」である。執政党が全ての政治、経済、社会、資源を壟断(ろうだん)している。反右派闘争、大躍進、文革、六四(訳注5)、民間宗教活動や人権保護活動に対する弾圧など一連の人権侵害によって、数千万の命が失われ、国民と国家は、悲惨な対価を支払うことになった。

(訳注4)「五四運動」とは、直接的には、第一次世界大戦後のヴェルサイユ講和会議において、山東半島からの日本軍の撤退等を要求した中国の要求が却下されたことに怒った中国の学生らが1919年5月4日に始めた愛国(反日)、反軍閥、反買弁資本家運動であるが、現在では、この頃進められていた諸外国の思想を紹介する啓蒙運動や魯迅などが進めていた文化面での改革運動など幅広い国民運動を含めて「五四運動」と呼んでいる。

(訳注5)「六四」とは、1989年6月4日に人民解放軍による武力弾圧によって幕を閉じた一連の学生や市民らによる運動、即ち「第二次天安門事件」のことである。

 20世紀後期における「改革開放」は、中国を毛沢東時代にあった広範な貧困と絶対的な権威主義から脱却させ、民間における財産と大衆の生活レベルを大幅に向上させ、個人の経済的自由と社会的権利の一部を回復させ、国民社会の成長を開始させた。この時期、民間における人権と政治的自由に対する要求は日に日に高まりを見せた。執政者は、市場化と私有化の経済改革へ向かって進むと同時に、人権を拒絶する状態から抜けだし、人権を段階的に変化させていくことを承認し始めた。中国政府は、1997年と1998年にそれぞれ2つの重要な国際人権条約に署名し、全国人民代表大会は2004年に憲法を修正して「人権を尊重し保障する」という文言を憲法の中に書き入れ、今年(2008年)、「国家人権行動計画」を承認しその実施を推進した。

 しかし、これらの政治の進歩は、今までのところほとんどは紙面上のことに留まっている。法律はあるけれども法治はなく、憲法はあるけれども憲政はなく、依然として政治の現実は誰の目にも明らかなものとなっている。執政集団は、依然として権威的統治を堅持しており、政治を改革することを拒絶している。これにより行政の場に腐敗が生じ、法治が確立ことは難しくなり、人権は明確にならず、道徳は衰退している。社会は両極端に分化し、経済は奇形的発展を遂げ、自然環境と人間文化環境は多重的な破壊を受け、国民の自由と財産及び幸福を追求する権利に対しては制度的保障が与えられず、各種の社会的矛盾は絶え間なく累積し、不満の感情は継続的に高まっている。特に、官民の対立激化と集団性事件の激増は、これらの問題がコントロールを失う情勢になりつつあり、現行体制は既に改革が避けられない段階にまで至っていることを明確に示している。

2.我々の基本理念

 この中国の未来の命運を握る歴史的節目に当たり、100年来の近代化の過程を反省する必要がある。我々は、次のような基本理念を掲げる。

自由:自由は、普遍的価値の核心が存在している部分である。言論、出版、集会、結社、引っ越し、ストライキ及びデモ等の権利は、全て自由を具体的に体現させたものである。自由を唱えないならば、即ち、現代文明ではない、ということができる。

人権:人権は国家から与えられるものではなく、各個人が生まれながらにして享有している権利である。人権を保障することは、即ち政府の第一の目標であり、公共の権力が合法性を持つ基礎であり、「人をもって基本となす」(訳注6)が内的に持っている要求である。中国の歴代の政治が受けた災難は、執政当局が人権を無視してきたことと密接に関係している。人は国家の主体であり、国家は人民のために尽くし、政府は人民のためこそ存在するのである。

(訳注6)「人をもって基本となす」(中国語で「以人為本」)は胡錦濤総書記が常々掲げているスローガンのひとつ。

平等:社会的地位、職業、性別、経済的状況、民族、肌の色、宗教あるいは政治信条に関係なく、一人一人の個人が持つ人格、尊厳、自由は全て平等である。法律は全ての人の前に平等であるということを必ず実現しなければならない。国民の社会的、経済的、文化的、政治的権利の平等の原則を確立しなければならない。

共和:共和とは「みんなでともに治める、平和のうちに共生する」という意味である。即ち、権力の分散とバランス、利益のバランスである。様々な種類の利益集団、異なった社会集団、多元的な文化や信仰を求める集団が全て平等に参加し、公平に競争し、共同で協議して政治を行うという基礎の上に立って、平和的な方法で公共事務を処理することである。

民主:最も基本的なその意味するところは、主権在民と人民に選挙された政府である。民主が持つ特徴は以下のとおりである:(1) 政権の合法性は人民に由来し、政治権力の源は人民にある (2) 政治統治は人民による選択を経て行われる (3) 国民は真正な選挙権を享有し、各レベルの政府の主要な政治を執り行う公務員は定期的な競争選挙を通じて選ばれなければならない (4) 多数の人による決定を尊重すると同時に、少数の人の基本的人権も保護する。ひとことで言えば、民主とは、政府を「人民が保有し、人民が統治し、人民がその利益を享受する」という近代的な公器にすることである。

憲政:憲政とは、法律の規定と法治を通じて、憲法が定めている国民の基本的自由と権利の原則を保障し、政府の権力とその行為の限界を定めて範囲を限定するとともに、それに相応する制度と措置を提供することである。

 中国においては、皇帝が権力を握っていた時代は既に過ぎ去っており、それを復活させてはならない。世界においては、権威主義体制は、黄昏(たそがれ)の日を迎えつつある。国民を真の意味での国家の主人にしなければならない。「名君」や「清廉な官僚」を待ち望むような「臣民意識」をぬぐい去り、権利を基本とし、参与することに責任を持つという国民意識を発揚し、自由を実践し、民主を自ら行い、法治を尊重することによってしか、中国にとっての根本的な出口はない。

3.我々の基本的な主張

 このような考え方に基づき、我々は、責任を持った建設的な国民精神に基づき、国家の政治体制と国民の権利及び社会発展に関する各方面の人々に対して以下のように具体的に主張する。

(1)憲法改正:前述の価値観と理念に基づき憲法を改正する。現行憲法の中にある主権在民とは合致しない原則や条文を削除し、憲法を真に人権の保証書、公的権力の許可状とする。憲法を、いかなる個人、団体または党派であっても違反してはならない最高の法律として実施し、中国における民主化のための法律権限を制定する基礎となるようにする。

(2)権力の分散とバランス:権力の分散とバランスを持った近代的な政府を構築し、立法、司法、行政の三権分立を保障する。法律に基づく行政と政府の責任を確立し、行政権力が過大に膨張することを防止する。政府は納税者に対して責任を負い、中央と地方政府との間の分権とバランスの制度を確立する。中央の権力は憲法により明確にその授権される範囲を限定し、地方においては十分な自治を実行する。

(3)立法民主:国及び地方の各レベルの立法機関は直接選挙により選出されることとする。立法は公平正義を原則とし、立法による民主政治を実行する。

(4)司法の独立:司法は党派を超越していなければならず、いかなる干渉も受けず、司法の独立を実行し、司法の公正さを保障しなければならない。憲法法院を設置し、違憲審査制度を設立し、憲法の権威を守る。国家の法治制度に著しく損害を与えている各レベルの党の政法委員会を撤廃し、公器の私物化をさせないようにする。

(5)公器の公用:軍隊の国家化を実現する(訳注7)。軍人は憲法に忠実であり、国家に忠実でなければならない。政党組織を軍隊の中から退出させ、軍隊の職業化レベルを向上させなければならない。警察内部の全ての公務員は政治的中立を保持しなければならない。公務員の採用における党派による差別を撤廃し、党派によらない平等な任用を確保しなければならない。

(訳注7)現在の人民解放軍は、中国共産党の軍隊であり、中華人民共和国の軍隊ではない。

(6)人権の保障:人権の保障と人格の尊重を守ることを確実に行う。最高民意機関に対して責任を負う人権委員会を設置し、政府の公権乱用による人権侵害を防止する。特に、国民の人身の自由を保障し、何人たりとも法律によらずに逮捕され、拘禁され、召還され、審問され、処罰されることがないようにする。労働矯正制度(訳注8)は廃止する。

(訳注8)現在の中国の労働矯正制度は、公安などの行政機関の判断により、労働しながら教育を行う行政罰であり、司法手続きを必要としていない。

(7)公職の選挙:全面的に民主的な選挙制度を推進し、一人一票の平等な選挙権を実現する。各レベルの行政機関の首長の直接選挙制度を段階的に推進する。定期的な自由選挙と国民が法律を制定する公共の職務に参加することは、奪うことのできない基本的な人権である。

(8)都市と農村との平等:現行の都市と農村の二重戸籍制度(訳注9)を廃止し、国民が一律に平等な憲法に基づく権利を有するようにする。国民が自由に引っ越しする権利を保障する。

(訳注9)現在、中国では生まれによって農村戸籍と非農村戸籍のどちらかに編入される。長年都市部で働いていたとしても農村戸籍の者がその都市の非農村戸籍に編入することは極めて難しい。農村戸籍の者及びその子女は、どんなに長い期間、都市で働き、生活をしていたとしても、都市の政府から教育、医療、老後保障などの行政サービスを受けることができない。

(9)結社の自由:国民が自由に結社する権利を保障し、現行の社会団体登記審査制度を届け出制に改正する。党派による禁止事項をなくし、憲法と法律によって政党の行為の規範を定め、ひとつの党が政策遂行を担当する特権を廃止する。政党活動の自由と公平競争の原則を確立し、政党政治の正常化と法制化を実現する。

(10)集会の自由:平和的な集会、行進、デモ、表現の自由は、憲法が規定する国民の基本的な自由である。この自由が執政党と政府による法律に基づかない憲法違反の制限を受けないようにしなければならない。

(11)言論の自由:言論の自由、出版の自由、学術の自由を実行し、国民の知る権利と監督する権利を保障する。「新聞法」と「出版法」を制定し、新聞に関する禁止事項を廃止し、現行の刑法の中にある「国家政権転覆煽動罪」の条項を廃止し、言論が犯罪とされることがないようにする。

(12)宗教の自由:宗教の自由と信教の自由を保障する。政教分離を実行し、宗教信仰活動が政府による干渉を受けないようにする。国民の宗教の自由を制限するあるいは剥奪する行政法規、行政取り決め及び地方レベルの法規定については、審査し撤廃する。行政や立法によって宗教活動を管理することを禁止する。宗教団体(宗教活動を行う場所を含む)について必ず登記して合法的地位を先に許可を得なければならないという現行の制度を廃止し、審査を必要としない届け出制に改める。

(13)国民教育:一党による統治のために行われ、濃厚なイデオロギー的色彩を帯びた政治教育と政治テストは廃止する。普遍的な価値と国民の権利を基本とする国民教育を幅広く推進し、国民意識を確立し、社会に貢献する国民の美徳を提唱する。

(14)財産保護:私有財産の保護制度を確立し、自由で開放的な市場経済制度を実行し、創業の自由を保障し、行政による壟断を排除する。最高民意機関に対して責任を負う国有資産管理委員会を設置し、合法的かつ秩序をもって財産権制度の改革を推進し、財産権の帰属と責任者を明確にする。新しい土地運動を展開し、土地の私有化を推進し、国民、特に農民の土地所有権をしっかりと保障する。

(15)財政税制改革:民主的財政と納税者の権利を確立する。権限と責任が明確になった公共財政制度システムを構築して規制を実施し、国及び地方の各レベルの政府において合理的で効率的な財政と分権の体系を成立させる。課税制度について大きな改革を行い、税率を引き下げ、税制を簡素化し、税の負担の公平化を図る。社会の公共的な選択プロセス、即ち民意を受けた機関の議決を経ずして、行政機関が恣意的に課税をしたり新しい税金を創設したりすることができないようにする。財産権制度の改革を通して、多元的な市場主体による競争原理を導入し、金融に参入するための障壁を緩和する。民間における金融創造を発展させるための条件を整え、金融システムが十分に活力を発揮できるようにする。

(16)社会保障:国民全体をカバーする社会保障体系を作り、国民の教育、医療、養老及び就業等の方面において最も基本的な保障がなされるようにする。

(17)環境保護:生態環境を保護し、持続的な発展を提唱し、子孫の世代及び全人類に対する責任を果たす。国家及び地方の各レベルの政府の公務員は、明確にそれぞれが負っている責任を果たす。環境保護活動の中において民間組織を参与させ監督の役割を発揮させる。

(18)連邦共和:平等、公正の態度をもって各地区の平和的な発展を図り、全体の国としての責任を負う形を作り上げる。香港とマカオの自由制度を維持する。自由と民主主義の前提の下、平等の立場で協議とお互いに協力し合う方式をもって、海峡両岸(大陸と台湾)の和解方策を追求する。各民族が共同で繁栄可能な道程と制度設計を探るための知恵をもって、民主的憲政システムの下に、中華連邦共和国を設立する。

(19)正義の転換:過去の歴代の政治運動の中で政治的に迫害を受けた人たちとその家族のために、名誉回復と国家賠償を行う。全ての政治犯と良心犯を釈放する。全ての信仰に基づいて罪を得た人々を釈放する。真相調査委員会を設置し、歴史的事件の真相を調査し、責任を明らかにし、正義を実行する。そして、その基礎の上に立って、社会における和解の道を探求する。

4.むすび

 中国は世界の大国として、国連安全保障理事会の5つの常任理事国の一つとして、国連人権理事会のメンバーとして、当然のこととして、人類の平和のための事業と人権の進歩に対して自分自身が貢献しなければならない。しかし、多くの人を残念だと思わせているのは、現在の世界の全ての大国の中において、ただ一つ中国だけが依然として権威主義政治の状況の中にあり、それによって連綿として絶えることのない人権侵害と社会的危機が作り出され、中華民族自身の発展が阻害され、人類文明の進歩に制約を加えていることである。この局面は、必ず変えなければならない! 政治の民主化は、もはやもう、先延ばしにすることはできない。

 このため、我々は、勇気を持って実行するという国民精神に則り「08憲章」を発表した。我々は、同様の危機感を持ち、責任感を感じ、使命感を感じている全ての中国国民が、政府部内にいるか民間にいるかにかかわらず、その身分の如何にかかわらず、意見の違うところがあってもそこはそのまま残して共通点を見つけ出し、積極的に国民運動を起こし、共同して中国社会の偉大な変革を起こすことに参加することを希望する。それをもって、一日も早く、自由で、民主的な憲政国家を設立し、我が国の人々が百年以上にわたってねばり強く追い求めてきた夢が実現されることを希望する。

(以下、署名人リスト)

以上

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2010年5月18日 (火)

「中国現代史概説」の目次と参考資料等のリスト

 今年(2010年)1月4日からアップし始めた「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」は昨日(2010年5月17日)をもって完結しました。この文章は、基本的に2007年4月~2009年7月まで北京に駐在していた間に書き溜めていた文章ですが、最近得た情報に基づき、適宜、修正及び書き足しを行いました。特に今年(2010年)1月に「趙紫陽極秘回想録」の日本語版が出版されたことから、これを参考として1980年代以降の記述の一部を追加しました。

 2010年5月現在、残念ながらこのココログ・サイト全体が中国大陸部からアクセスできない状態になっており、この「中国現代史概説」は中国大陸部からは見ることはできませんが、世界にとって、中国の存在はますますその重要度を増すなか、中国を理解するために、この「中国現代史概説」は多くの人々に読んでいただければ、と思っています。

 以下に、今年(2010年)1月4日付けの記事に掲げたものと同じ「中国現代史概説」の目次と参考資料リストを掲げます。それぞれの目次の項目にリンクを張ってありますので、お読みになりたい部分をクリックしてお読みください。最初からお読みになれば、アヘン戦争以降、中華人民共和国が現在に至るまでの経緯をたどることができると思います。

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【中国現代史概説】~中国の新しい動きを理解するために~

まえがき:この文章を書こうを思った動機~意外に知られていない中国の現代史~

第1章:中国革命の背景
 1.中国における「社会主義革命」とは何だったのか
  (1)そもそも「社会主義」とは何を目指したものだったのか
  (2)「社会主義」と農民・土地との関係
 2.辛亥革命以前の中国社会の特長
  (1)19世紀の中国・ロシア・日本の状況
  (2)列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(1/2)
  (2)列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(2/2)
     【コラム:最新技術の導入とそれに対する「抵抗勢力」】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ
 1.日本の大陸への進出から辛亥革命の勃発へ
  (1)日清戦争から戊戌の変法まで
  (2)義和団事件
     【コラム:新興宗教に基づく民衆運動に対する評価の変化】
     【コラム:義和団事件の賠償と清華大学】
  (3)辛亥革命(清王朝の終焉)
     【コラム:中国の人々の日本に対する見方】
 2.孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生
  (1)袁世凱政権と日本による対華21か条の要求
     【コラム:「軍閥」とは何か】
  (2)五四運動と中国共産党の誕生(1/2)
     【コラム:儒教に対する考え方】
  (2)五四運動と中国共産党の誕生(2/2)
     【コラム:天安門前広場】
     【コラム:東交民巷】
     【コラム:中国国民党について】
     【コラム:「中国共産党第一回全国代表大会」の出席者について】
  (3)第一次国共合作
     【コラム:「蒋介石」という呼び方について】
  (4)中国革命の父・孫文の死
     【コラム:孫文に対する評価】
 3.日本による大陸進出と中国による抗日戦争
  (1)国共分裂・北伐の完成と張作霖爆殺事件
     【コラム:ロシア革命と中国共産主義革命との違い】
  (2)中華ソヴィエト共和国の樹立と満州事変
     【コラム:溥儀と映画「ラスト・エンペラー」】
  (3)中国共産党による「長征」と毛沢東による指導体制の確立
     【コラム:三大規律と八項注意】
  (4)西安事件と第二次国共合作
     【コラム:張学良氏について】
  (5)廬溝橋事件から日中戦争へ
     【コラム:「南京大虐殺論争」について】
  (6)日本の敗戦(1/2)
  (6)日本の敗戦(2/2)
     【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(1/4)
     【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(2/4)
     【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(3/4)
     【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(4/4)

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史
 1.中華人民共和国の建国期
  (1)国共内戦
  (2)中華人民共和国の成立
  (3)国際情勢に翻弄(ほんろう)される建国期の中華人民共和国
     【コラム:イギリスとフランスの中国に対する立場】
  (4)人民解放軍のチベットへの進出(チベット現代史)
  (5)「中華人民政治協商会議共同綱領」と「過渡期の総路線」
  (6)土地改革から本格的な社会主義化へ
 2.社会主義化の深化と路線闘争
  (1)急激な社会主義化の進展と「百花斉放・百家争鳴」
  (2)反右派闘争
  (3)大躍進政策と人民公社の成立(1/2)
  (3)大躍進政策と人民公社の成立(2/2)
     【コラム:中国における社会的セーフティ・ネット】
     【コラム:大躍進時期の悲惨な記録に関する記述について】
  (4)フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立(1/2)
  (4)フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立(2/2)
     【コラム:ソ連の中国への核兵器技術移転は本気だったのか】
     【コラム:フルシチョフとアイゼンハワーの「平和共存」の舞台裏】
  (5)「大躍進政策」の結果を受けた権力闘争
  (6)「経済調整政策」に対する毛沢東の反撃
3.文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)
  (1)中ソ論争と文化大革命前夜
  (2)四清運動と「海瑞免官」批判~文化大革命の開始~
     【コラム:「修正主義」という言葉】
  (3)紅衛兵の登場と狂乱
     【コラム:文化大革命と大学紛争】
  (4)文化大革命下の政治と社会の混乱
  (5)「七・二○武漢事件」をはじめとする「武闘」
  (6)「文革」に翻弄(ほんろう)される有力者たち
  (7)国家主席・劉少奇の失脚と死
  (8)中ソ軍事衝突
  (9)ニクソンによる米中接近への動き(1/2)
     【コラム:アメリカにとってのベトナム戦争】
  (9)ニクソンによる米中接近への動き(2/2)
     【コラム:その後のベトナム】
  (10)謎の林彪墜落死事件(1/3)
  (10)謎の林彪墜落死事件(2/3)
  (10)謎の林彪墜落死事件(3/3)
 4.文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)
  (1)ニクソン訪中
  (2)日中国交正常化
     【コラム:「日中国交正常化」「台湾当局」という表現について】
     【コラム:日中国交正常化時のエピソード】
  (3)トウ小平の復活と批林批孔運動(1/2)
  (3)トウ小平の復活と批林批孔運動(2/2)
     【コラム:「孔子批判」に対する日本のマスコミの反応】
     【コラム:「批林批孔運動」と兵馬俑坑】
  (4)文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(1/2)
  (4)文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(2/2)
  (5)「四つの近代化」の提唱と水滸伝批判
  (6)周恩来の死と「第一次天安門事件」(1/2)
  (6)周恩来の死と「第一次天安門事件」(2/2)
     【コラム:「第一次天安門事件」の記憶】
  (7)毛沢東の死、そして「四人組」の逮捕
 5.改革開放政策への大転換
  (1)華国鋒政権下でのトウ小平氏の再復活
     【コラム:コラム:中国現代史の現在における不透明性】
  (2)トウ小平氏と「すべて派」との対立
  (3)西単(シータン)の「民主の壁」
     【コラム:論文「実践は真理を検証する唯一の基準である」の扱い】
  (4)トウ小平氏による改革開放方針の提示
  (5)改革開放と「四つの基本原則」で終わった「北京の春」
  (6)改革開放政策決定前後の中国の外交政策(1/2)
  (6)改革開放政策決定前後の中国の外交政策(2/2)
  (7)「歴史決議」~「文革は誤りだった」との正式な自己批判~(1/2)
  (7)「歴史決議」~「文革は誤りだった」との正式な自己批判~(2/2)

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国
 1.改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発
  (1)具体化する改革開放政策とまだ残る「文革のしっぽ」
  (2)改革開放政策下の1980年代の日中協力(私の経験)
  (3)中国指導部内部での路線闘争とイギリスとの香港返還交渉
  (4)対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(1/2)
  (4)対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(2/2)
  (5)1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(1/2)
  (5)1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(2/2)
  (6)中国の社会・経済で進む微妙な変化
  (7)「第二次天安門事件」直前の世界情勢
  (8)「第二次天安門事件」の伏線
  (9)「第二次天安門事件」(1/5)
  (9)「第二次天安門事件」(2/5)
  (9)「第二次天安門事件」(3/5)
  (9)「第二次天安門事件」(4/5)
  (9)「第二次天安門事件」(5/5)
     【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】
 2.「第二次天安門事件」以後の中国
   (1)東欧・ソ連革命(1/2)
   (1)東欧・ソ連革命(2/2)
  (2)「第二次天安門事件」の後遺症
  (3)トウ小平氏の最後のメッセージ~南巡講話~
  (4)国有企業改革と「世界の工場」の実現(1/2)
  (4)国有企業改革と「世界の工場」の実現(2/2)
  (5)江沢民総書記による「三つの代表論」の本質(1/2)
  (5)江沢民総書記による「三つの代表論」の本質(2/2)
  (6)第一期胡錦濤政権の勢力分布
  (7)「氷点週刊」停刊事件
  (8)「上海閥」と第二期胡錦濤政権の課題
  (9)インターネット規制と「08憲章」(1/2)
  (9)インターネット規制と「08憲章」(2/2)
  (10)少数民族政策破綻の危機
  (11)経済対策バブルと「抵抗勢力」の肥大化

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(1/3)
あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(2/3)
あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(3/3)

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【中国現代史概説:参考資料リスト】

(1)「中華人民共和国史」(天児慧著:岩波新書)1999年12月20日第1刷発行

(2)「韓国併合」(海野福寿著:岩波新書)

(3)「近代交通体系と清帝国の変貌」(電信・鉄道ネットワークの形成と中国国家統合の変容)(千葉正史著:日本経済評論社)2006年12月15日第1刷発行

(4)「そうだったのか!中国」(池上彰著:集英社)2007年6月30日第一冊発行

(5)「中国現代史」~壮大なる歴史のドラマ~(新版)(中嶋嶺雄編:有斐閣)1996年3月10日新版第1刷発行

(6)「中国の頭脳 清華大学と北京大学」(紺野大介:朝日新聞社)2006年7月25日第一刷発行

(7)増補版「中国近現代政治史年表」(家近亮子編:晃洋書房)2004年6月10日増補版第一刷発行

(8)中国の歴史(11)「巨龍の胎動」(天児慧著:講談社)2004年11月10日第一刷発行

(9)「毛沢東語録」(竹内実訳:角川文庫)1971年10月25日初版発行

(10)「南京事件~『虐殺の構造』~」(秦郁彦:中公新書)1988年2月10日第5版発行

(11)「中国現代史」(建国50年、検証と展望)(小島朋之:中公新書)1999年7月25日発行

(12)「北京三十五年」~中国革命の中の日本人技師~(上・下)(山本市朗:岩波新書)1980年7月21日・8月20日発行

(13)「当代中国的核工業」(中国社会科学出版社・1987年)
※日本語訳は出版されていない

(14)「文化大革命十年史」(上・中・下)(厳家祺、高皋著、辻康吾監訳:岩波現代文庫、現代文庫版は2002年1月16日第一刷発行。岩波書店から日本語版が発行されたのは1996年12月)

(15)「河北新報」1966年(昭和41年)8月25日付け夕刊1面
「紅衛兵旋風 上海・天津にも波及~反革命分子宅を襲う、ラマ教寺院も破壊される(北京)~」「輪タクは客が踏め、ビラに埋まる北京~預金利息停止せよ~」

(16)朝日新聞1972年9月26日、29日、30日付け紙面

(17)(4)「トウ小平秘録」(伊藤正著:扶桑社)2008年発行

(18)「朝日新聞」1976年9月10日付け記事

(19)「朝日新聞」1978年8月13日付け記事「日中新時代へ調印」

(20)「中国問題の内幕」(清水美和著:ちくま新書)2008年2月10日第一刷発行

(21)2005中国経済年鑑(中国経済年鑑社)2005年11月

(22)「中国 第三の革命」(朱建栄著:中央公論新社)2002年8月25日初版発行

(23)「世界史事典」(歴史教育研究所編:旺文社)1969年1月20日重版発行

(24)「(3訂増補)ポータブル日本史辞典」(小葉田淳、時野谷勝、村山修一、岸俊男編:数研出版)1967年2月1日3訂増補第1刷発行

(25)「趙紫陽極秘回想録」(趙紫陽 バオ・プー/ルネー・チアン/アディ・イグナシアス:光文社)2010年1月25日初版第一刷発行

(26)「天安門事件の真相」上巻(矢吹晋編著:蒼蒼社)1990年6月4日発行
http://www18.big.jp/~yabukis/chosaku/shinso1.pdf

(27)「天安門事件の真相」下巻(矢吹晋編著:蒼蒼社)1990年9月30日発行
http://www18.big.jp/~yabukis/chosaku/robin-munro.pdf


(主なネットワーク上の参考資料)

(1)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「資料センター」
「中国共産党簡史」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/index.html

(2)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「党史人物記念館」-「トウ小平記念館」-「著作選集」-「トウ小平文選」
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/index.html

(3)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「中国共産党歴代全国代表大会アーカイブス」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/index.html

(4)「新華社」ホームページ「資料」
「党史文献」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/23/content_2609668.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

(5)東京大学東洋文化研究所・田中明彦研究室がアップしたデータベース「世界と日本」
「日中関係資料集」
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/JPCH/index.html

(6)渡辺格個人ホームページ「北京よもやま話」
http://homepage3.nifty.com/itaru_watanabe/beijing/mokujib.html

(7)「中国統計年鑑」2008(中国国家統計局のホームページ上にある)
http://www.sei.gov.cn/hgjj/yearbook/2008/indexch.htm
※このページで数字を見るためにはブラウザとしてインターネット・エクスプローラーを使う必要があるようです。


(映像・音声資料)

(1)ドキュメンタリー映画「東京裁判」(東宝東映:小林正樹監督)1983年

(2)NHKスペシャル「映像の世紀 第6集 独立の旗の下に ~祖国統一に向けて、アジアは苦難の道を歩んだ~」NHK・アメリカ・ABC国際共同取材:1995年9月16日放送

(3)「映像でつづる昭和史」NHK:1989年1月8日放送

(4)CNN制作のドキュメンタリー・シリーズ
"Cold War" (1998, Turner Original Productiond; Warner Home Video)

(5)ドキュメンタリー番組「イスラエル秘められた核開発」
2002年イスラエル・トゥラ・コミュニケーション制作
(2008年7月16日、17日:NHK-BS1「BS世界のドキュメンタリー」で放送)

(6)北京放送(日本語版)1976年9月9日放送
毛沢東の死去を伝える「全党・全軍・全国各民族人民に告ぐる書」

(7)DVD「歴史をして未来を語らしめる(四)」「文革十年」(中国唱片総公司出版)(出版年は不明:ISBN 7-7999-1760-1)

(8)NHK・BSドキュメンタリー「証言でつづる現代史~世紀の外交・米中接近~」
(前編)2008年3月9日放送、(後編)2008年3月9日放送

(9)NHKラジオ1976年9月9日日本時間18:00からのニュース

(10)NHK・BSドキュメンタリー「証言でつづる現代史~こうしてベルリンの壁は崩壊した~」(前編:ライプチヒ市民たちの「反乱」、後編:首都が揺れた)

(11)「NHKスペシャル 張学良がいま語る 日中戦争への道」(NHK1990年12月9日放送)

(12)「張学良・磯村尚徳対談 私の中国・私の日本」(NHK1990年12月10日放送)

以上

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2010年5月17日 (月)

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(3/3)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(3/3)

 2008年8月、中国は悲願だった北京オリンピックを成功裏に終了させた。2008年9月以降のリーマン・ブラザーズ破綻に始まる世界的経済危機の中においては、中国は大きく発展した経済力を背景として、世界の中で大きな発言権を示した。こうした状況を踏まえると、この「あとがき」の冒頭に書いた中国革命が目指した3つの目標:

(1)封建的な束縛から脱して、近代的な国家を築くこと。

(2)中国が外国による支配から脱して、自らの将来を自ら決めることができるようになること。

(3)多くの人々が貧しさを脱して一定の生活レベルを送れるような経済水準に達すること。

は、北京オリンピックが終了した時点で全て達成した、と考えてよいのでないかと思われる。トウ小平氏が改革開放政策を始めたのは、中国革命を完成させて、上記の3つの目標を達成するためであった。「トウ小平氏が目指した改革開放政策の目標」が既に達成できたのであるのならば、「トウ小平氏が目指したもの」の次に来るものは一体何なのだろうか。

 トウ小平氏は、改革開放政策を進めるにあたって「先富論」を主張した。「先に豊かになれる人、先に豊かになれる地域があれば、そういう人や地域は先に豊かになってよい。」というものである。この主張に従って、「新社会階層」と呼ばれる一部の人々や上海、広州、北京といった沿岸部の都市は先に豊かになった。しかし、「先富論」には「後半部分」があるはずである。

 「先に豊かになれる人や地域は先に豊かになったよい。次に先に豊かになった人や地域が遅れている人や地域を引っ張り上げればよいのだから。」

 今まで「先富論」の後半は行われてこなかった。「今はまだ前半の『先に豊かになれる者から豊かになればよい』の時代だからだ」と思われていたからだった。しかし、中国が「世界の工場」と呼ばれるようになり、北京オリンピックが終わり、上海万博が開催され、国際社会の中で大きな発言力を持つに至った現在、「先富論」の前半の時代は既に終了した、と見るべきではないのか。そうであれば、次に来るのは「先に豊かになった人や地域が遅れている人や地域を引っ張り上げる」時代である。

 しかし、中国の政治システムはそういった「次の時代」にまだ対応していない。「三つの代表」論は、「先に豊かになった人」の意見を政治に反映させるシステムである。しかし、「豊かになり損ねた」大多数の人々の意見を具体的な政策として吸い上げるシステムは、残念ながら中国にはまだできていない。

 2008年9月以降発生した世界的経済危機に対して、中国政府は2008年11月に合計4兆元(約56兆円)に上る景気刺激策を発表した。この多くは内陸部など「豊かになり損ねた地域」に集中的に投資を行う、という政策である。その意味では「先富論」で取り残された地域を政策的に後ろから支えよう、という政策であり、この景気刺激策は「次の時代」に対応したものと考えられる。

 一方、この景気刺激策は、鉄道や高速道路の建設といった社会インフラの整備が中心となっており、地方の党や政府と地方の企業とが結びついた癒着の構造をさらに強化することになるのではないか、と懸念する人も多い。党中央は、この景気刺激策が腐敗の原因とならないよう厳重に監視するという姿勢を示しているが、腐敗防止のための具体的なシステムは、規律委員会による監視、といった従来の制度のままである。最も効果的な「地方政府幹部を地元住民が直接選挙により選ぶことによる監視」というシステム、即ち地方レベルにおける選挙の導入が実現する見込みは現在のところ全くない。

 現在の中国の政治状況は、これまで述べてきたように、胡錦濤総書記が「抵抗勢力」(既得権益グループ)とどれだけ決別できるか、という動きを基軸にして動いている。「抵抗勢力」(既得権益グループ)は、民主化に反対し、特定の政治グループと特定の経済界との結びつきを容認するグループであり、そのあり方は、「第二次天安門事件」の再評価に反対し、「三つの代表論」を打ち出した江沢民氏のグループとだぶって見える。政治的背景と軍の内部に基盤を持たない胡錦濤総書記が「抵抗勢力」(既得権益グループ)に対抗するのは相当に困難を伴うと思われる。2008年5月の胡錦濤主席の日本訪問や四川大地震対応においては、胡錦濤氏側が、かなり力を得たように見えた。しかし、2008年9月以降の大規模な景気刺激策の発動で、地方の「抵抗勢力」(既得権益グループ)は地方における行政権限による経済活動の推進という錦の御旗を得て、また大きく力を復活させてきているように見える。

 多くの組織に残っている共産党組織の存在が今後どうなるか、も今後の不確定要因のひとつである。今でも国有企業や大学、公的研究機関には、それぞれの組織のトップとは別に「党書記」という人が存在している。組織によって異なるが、人事や予算などは「党書記」が握っていると考えられている。しかし、市場経済に基づく組織トップの判断自主権と党書記の存在とは基本的に矛盾している。この矛盾が、各組織内の党組織不要論にまで広がった時、現在の中国の原則である「中国共産党による指導」が実態的にどうなるのか、不透明である。

 繰り返すが、「トウ小平氏が目指した改革開放政策の中国」は、2008年8月の北京オリンピックの開催で一応の目標達成を成し、今、中国は、「トウ小平氏が目指した改革開放政策の中国」に続く「次の時代」へ向けて模索をしている段階にいると言える。しかし、この文章を書いている2010年5月の時点では、まだ、当面の政治課題は世界的な経済危機からの脱出であり、民主化などの政治システムに関する議論は、今すぐに起こるとは思えない。ただ、次の党大会がある2012年には、おそらくは世界的経済危機は一段落している可能性があるし、2012年には香港で行政庁長官と議会の選挙があるので、それまでに政治システムについて何らかの議論が行われる可能性はある。

 2012年の香港の選挙では従来通りの選挙のやり方で住民による直接選挙は行わないことは既に決まっているが、香港住民による行政長官と立法議会議員の直接選挙への要請は強く、香港での次の選挙、即ち2017年の選挙が大きなポイントになるであろうと思われる(逆に言えば、このことは、2017年までは、大陸部において、民主化の動きが具体化するとは考えにくいことも意味する)。

 中国は、改革開放政策によって30年間でその経済を飛躍的に発展させた。しかし、一方で、経済成長を最優先させるために後回しになっていた政治システムの改革については、むしろ「文化大革命」に対する虚心坦懐な反省が色濃く残っていた1980年代よりむしろ後退しているように見える。旧ソ連においては、市場経済の導入による経済発展より先にソ連共産党による政権が崩壊してしまい、1990年代には経済的困難を経験した。西側の中には、先に民主化の苦しみを経験した旧ソ連諸国の方が今後の発展の可能性がある、と見る人がいる。一方で、分裂した旧ソ連諸国では、国によっては民族紛争の種が尽きず、旧ソ連の中の最大の国であるロシアですら国際的発言力の低下は免れておらず、1991年のソビエト連邦の崩壊は、旧ソ連諸国の人々にとってはむしろマイナスだった、と考える人もいる。

 中国における政治システムの民主化は、いかに時間が掛かろうとも、避けては通れない道程である。民主化されていない政治システムは、フィードバック機能が働かず、常に振り子のように許容限度を超えて大きく揺れ動く危険性をはらんでいるからである。また、経済的観点から見ても、国内の世論が政策決定に反映されるような政治システムができていないと、スムーズに内需適応型の経済政策が採れない、という欠点が露呈することになる。

 経済が急速に発展してしまった分、現在の中国における経済状況と政治システムのアンバランスは、既に限界点を越えてしまった、と見る人も多い。特に2009年春に展開された「愛国=中国共産党を愛すること」といった主張や「『中国共産党はすばらしい』と大合唱しよう」というスローガンは、1991年8月に失敗したソ連共産党保守派の反ゴルバチョフ・クーデターのような「時代錯誤」の感覚すら覚える。ただ、その後、「第4章第2部第9節:インターネット規制と『08憲章』」の最後に述べたように、2010年に入って、中国の新聞紙上ではやや自由な評論が復活してきているようにも見えることから、中国は旧ソ連に比べれば相当にしたたかな竹のような強靱さを持っているのではないか、と考えることはできると思う。

 トウ小平氏は、中国には国家を安定的にまとめるための「求心力」が必要であり、その求心力を「中国共産党による指導」に求めようとした。それが今でも続いているのであるが、ひとつのポイントは、中国共産党がなくなると中国はほんとうに「求心力」を失いバラバラに分解してしまうのか、ということである。2008年5月12日14:28、四川大地震が発生したとき、全中国の心はひとつになって、被災地への救援・復旧に当たった。それは私が全く知らなかった大きな「求心力」だった。地震発生から一週間後の2008年5月19日、中国政府は「全国哀悼の日」を設定した。その日の14:28、鳴り響くサイレンの中、全中国で黙祷が行われた。その日の夕方、天安門前広場には、手に手にロウソクを持った多くの市民が自然発生的に集まってきた。それは中国共産党の存在とは全く関係のないことだった。当局は、むしろそういった自然発生的な市民の集まりに警戒して、いつもより多くの警備人員をその日の夜、天安門前広場に集めた。

 四川大地震は、多くの地震災害の経験を持つ台湾の人々からも多くの支援を呼び寄せた。それは、中国共産党でも中国国民党でもない、まさに同じ「中国人」としての一体感の表れだった。私は、四川大地震に対する対応を見て、既に中国は中国共産党という「求心力」を必要としなくなっているのではないか、と思った。一方で、2009年7月の新疆ウィグル自治区の暴動は、少数民族問題において、中国共産党が「求心力」「仲介役」としての役割を果たしてないことを露呈してしまった。中国の人々自身がどう考えているのかはわからないが、今後とも中国共産党に「求心力」を求めていくのかどうかは、中国の人々が自ら決めることである。要は中国人民が自らの国の行く末を自ら決めるシステムをどうやって確立するかである。

 日本にとって、中国は隣国として大きな影響を受けざるを得ない位置にいる。日中関係は、既にお互いに経済的には相手抜きには考えられないほど密接な関係になっており、日本としては、中国の今後の動きに強い関心を持たざるを得ない。1980年代の改革開放政策が打ち出された直後の中国は、若葉のような若々しい心を持っていた。当時の中国は、社会主義体制の旧弊に苦しむソ連・東欧諸国に対して、改革開放政策の明るい未来へと続くひとつのモデルを提供していた。1980年代の中国は、まだ貧しかったが、世界の歴史の先頭を走っており、1989年~1991年のソ連・東欧革命の先導役を果たしたのである。しかし、中国自身は、1989年の「第二次天安門事件」によって、政治的・社会的改革の歩みを止めてしまい、逆に急速に進んだ経済的発展と社会・政治体制との間の乖離(かいり)を拡大させてしまった。

 1980年代の若々しい希望に満ちた中国を知っている私としては、経済と政治との矛盾した関係が既に臨界点を越えている言われる厳しい現状においても、中国が「文化大革命」や毛沢東主席の誤りすら認めた真剣かつ謙虚な1980年代にはあった「改革開放の原点」に立ち返って、次の新しい時代を切り開いて欲しいと願っている。

【「中国現代史概説」完】

以上

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2010年5月16日 (日)

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(2/3)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(2/3)

 1989年の「第二次天安門事件」と江沢民氏の総書記就任により、中国の政策は大きく変わった。「第二次天安門事件」の前後の大きな変化は以下の3点について見られる。

(i) 党と国家の権力が分散から集中へ

 改革開放当初は、「文化大革命」時代に全ての権力が毛沢東に集中していたことの反省として、党のトップの総書記、国家のトップの国家主席(1983年に復活)、軍のトップの党軍事委員会主席は別々の人物が就任していた(総書記:胡耀邦→趙紫陽→江沢民、国家主席:李先念→楊尚昆→江沢民、党軍事委員会主席:トウ小平→江沢民)。江沢民政権になって、この三つの職務は全て江沢民氏が就くことになった。権限がバラバラになっていたことにより、強い判断ができず、「第二次天安門事件」を招いた、という反省に基づくものと思われる。2002年に胡錦濤氏が党総書記になって以降も、この権力を一人の人物に集中させるという方針は変わっていない。

(ii) 毛沢東の復権(個人崇拝の復活)

 改革開放は、「文化大革命」の否定から始まった。それは、中国共産党の中では非常に苦しみながら導き出した「毛沢東も晩年には誤りを犯した」という判断から出発している。従って、改革開放政策は、もともとは「個人崇拝」の否定から始まっていた。このため1980年代のお札には毛沢東の肖像はなく、1980年代、各地にあった毛沢東像の多くは撤去された。しかし、政治と軍の世界で強いバックボーンを持っていなかった江沢民氏は、毛沢東の偉大なカリスマ性に頼らざるを得ず、全てのお札に毛沢東の肖像を復活させたほか、多くの場所で再び毛沢東像が造られた。1997年の第15回党大会では、「毛沢東思想」に引き続き「トウ小平理論」という言葉を作り、トウ小平氏自身が嫌っていたトウ小平氏への個人崇拝を前面に押し出した。さすがに江沢民氏自身はスターリンのように自分に対する個人崇拝までは求めなかったが、多くの大型建築物に残る江沢民氏の揮毫(きごう)は、江沢民氏の個人崇拝的指向の気持ちが込められているように思われる。

(iii) 反日感情の醸成

 1980年代までは、中国の指導者は「戦前の日本軍の中国での行為は、日本の軍国主義者が起こしたものだ。日本人民も日本軍国主義者の被害者だった。」という立場を取っていた。多くの中国人民もそういった指導者の考え方を受け入れていた。従って、日本人が戦前の中国での日本の行為を正当化しようとする場合には中国政府も中国の人々も怒ったが、1980年代の中国には、現在の日本政府や日本人に対する反発感情は全くなかった。

 ところが1990年代以降、多くの中国の人々、特に1990年代以降に教育を受けた若い人々の中に現在の日本政府や現在の日本人に対する反発感情が根付いてしまった。これは2007年4月に私が20年ぶりに北京に赴任してとまどったことである。

 もっとも、この反日感情の醸成は、単に江沢民政権の反日愛国主義教育によるものだけだと考えるのは単純過ぎるであろう。中国経済が成長し、経済面で日本と中国が国際社会においてライバル関係になりつつあることも背景にあるからである。また、日本の政治家が、たびたび中国や韓国から伝えられる懸念を無視する形でA級戦犯が合祀されている靖国神社に参拝していることも、中国における反日感情の醸成に大きく寄与していることは間違いない。

 江沢民氏は、経済成長に伴って政治的発言力を増してきた私営企業経営者や会計士、弁護士等の裕福市民層、いわゆる「新社会階層」に対して、中国共産党に反対する勢力に回らないよう「三つの代表」論を打ち出し、「新社会階層」も中国共産党の中に取り込む方針を採った。よく言えば、これは「中国共産党を革命党から執政党に脱皮させた」と言うこともできるが、この方針は、「中国共産党を社会主義を目指す政策集団から、政権運営により特定の集団の利益を擁護する利権集団」に変質させる危険性もはらんでいた。

 中国共産党が利権集団化する危険性は、地方レベルではかなり以前から存在していた。中国の社会主義革命では、かつて政治と生産の場を一体化させていた「人民公社」が存在していたことから、政治権力と経済的生産主体の一体化はごく自然なことだったからである。中国の場合、農村地域の農地は「国有」ではなく、今は地方行政単位である「集団」の所有、という形式になっている。この「集団」は「集団所有制企業」という公有企業も所有している。改革開放政策で、「人民公社」が解体され、政治組織と生産組織は分離され、農業については各個別農家単位の責任で農業を行う「生産責任制」に移行したが、農地の「所有権」は「集団」に残ったままになった。地方組織が所有していた工場等の「集団所有制企業」は、「人民公社」からそれぞれの地方行政単位に経営主体が移転した。

 中国の地方行政単位では、そのトップは選挙で選ばれるわけではなく、共産党の地方組織が指名することになっているので、実質的には地方の有力者が地方の党と行政単位のトップになっているケースが多い。農地の所有権が地方行政単位にある以上、農地を収用して工業団地に開発する、などという場合の土地収用権の発動は、地方行政単位のトップが行うことになる。結局は、地方の党と行政単位の幹部個人が、地方行政を握ると同時に、農地の開発や工業などの生産活動を牛耳ることになる。地方の党と行政単位の幹部をコントロールしているのは中国共産党の地方組織である。中央から派遣された清廉潔白な党員が党の地方組織をきちんと引き締めている例も多いと思うが、革命が成功して既に60年以上経過している現在においては、現実には地方の中国共産党幹部が「赤い帽子を被った地方ボス」としてその地域に君臨しているケースも多いと思われる。こういった「地方ボス」のグループは、現在の体制が続くことにより今後とも引き続き権益を維持できることを強く望んでいる「既得権益グループ」と呼ぶこともできる。

 「第4章第2部第11節:経済対策バブルと『抵抗勢力』の肥大化」で述べたように、こういった行政と生産現場を牛耳っている地方の党と行政単位の幹部にとって、一番避けたいのは、その地域の住民の選挙によって自分たちの地位が脅かされることである。従って、こういった行政と生産が癒着した地方の末端の幹部は、「既得権益グループ」であるとともに、中国の政治システムの民主化に対する最も強力な「抵抗勢力」となっているのである。

 1990年代初め、中国でも最も末端の地方組織である村民委員会において住民による直接選挙制度が試験的に導入され始めた。しかし、「人民日報」(日本語版)2008年8月4日付け記事「2010年までに都市社区の50%で直接選挙を実施」によると、2008年の段階において、農村部での村民委員会の選挙実施率は平均80%前後、都市部の居民委員会の直接選挙実施率は22%とのことである。

 農村部の村民委員会や都市部の居民委員会は、居住住民の自治組織で、行政単位というよりは町内会的組織に近い。行政単位の日本の「村」にあたる「鎮」やその上のレベルの「県」といったその上のレベルの地方行政組織においては、住民による直接選挙は行われていない。ましてや国家レベルで法律を決定する全国人民代表(国会議員)は、何層にも及び人民代表の間接選挙で決まっており、国会議員を人民による直接選挙で選ぶ、といった制度は中国にはない。

 中国の政治システムにおいて、民主化が全く進んでいないのは、地方末端レベルにおける民主化に対する「抵抗勢力」の存在と、「第二次天安門事件」の武力鎮圧の過程で成立した江沢民政権が民主化を凍結し経済建設に集中してきたことの相乗効果によるものであった。江沢民氏が自らの政権の最後に提起した「三つの代表」論は、私営企業経営者などを含む幅広い階層を政治に参加させることになる、というプラスの側面もあるが、地方末端レベルにおける政治的権力構造と地方経済の有力者との癒着を党中央レベルでも公認する、という意味で、地方の「抵抗勢力」に理論的根拠を与える、という側面も併せ持っていた。

 胡錦濤政権の誕生とほぼ時を同じくして、21世紀に入ってからの中国ではインターネットが急速に普及し始めた。現在の党中央は、中国共産党による政権維持を批判する見解については、新聞報道をコントロールし、インターネットについても強力な規制を掛けているが、一方で、地方の党や行政組織の無軌道なやり方を新聞メディアやインターネットやが伝えてこれを監視する役目を果たすことを肯定している(「肯定せざるを得なくなっている」と表現する方が正しいのかもしれないが)。実際に、新聞メディアやインターネットで不正を指摘されて更迭された地方の党・政府の幹部は少なくない。

 地方において、共産党地方組織と地方行政組織が警察など公安当局や司法当局が地元の企業と一体になっていて、腐敗や環境汚染を防止できない、という状況を何とかしなければ、地方の人々の党に対する支持を失わせることになる、という危機感は、現在の党中央の多くの人々は持っていると思われる。その解決のためのひとつの方法は、地方政府幹部に対する選挙制度の導入であることから、おそらくは中国共産党の内部においても、地方末端レベルにおいて自由選挙制度を導入すべきではないか、という議論は行われているのではないかと推測される。

 2007年前半には、知識人の間で、中国共産党も、一定の選挙制度を導入して、スウェーデンの社会民主党のような社会民主主義の手法も取り入れてはどうか、という議論が行われていたようである。

 最も直接的に腐敗防止のためには選挙制度を導入する必要があるとの主張を述べたのが、経済専門週刊紙「経済観察報」2007年5月21日号の社説「根本は政治体制改革にある」である。

(参考URL1)「経済観察報」ホームページ2007年5月18日アップ社説
「根本は政治体制改革にある」
http://www.eeo.com.cn/observer/pop_commentary/2007/05/18/63695.html

 この社説のポイントは以下の通りである。

○我々は、党の規律委員会が行ってきた改革と革新には肯定する価値があると認識している。しかし、党規律委員会の努力には一定の限界があると考える。

○トウ小平同志が見抜いていたように、腐敗は、権力と制度的設計の中にこそ病原がある。

○腐敗の源は、権力が発生するシステムと権力が授与される過程の不当性にある。

○腐敗防止のための制度や機構の改革も重要であるが、明確に言えば、更に根本的なのは政治体制改革である。権力の源を更に民主的にし、透明性を高め、権力を持つ者はより広範な監督を受けるようにし、権力本体が有効なチェック・アンド・バランスを受けるようにしなければならない。

○「絶対的な権力には、絶対的な腐敗が付いてくる」という言葉を知っている人の中には、もう既に、民主、自由、人権、法治が資本主義の専属品である、などという近視眼的な見方をしている人はいない。

○もう政治家に「現在の社会制度がまだ十分に完全なものではなく、成熟しきっていない」などという言い逃れを言わせてはならない。

○「多くを言って、少ししかやらない」「少し言うが、全くやらない」という時代は既に終わっている。既に多くのことが言われてきた。多くのことがなされる時が、今、来ている。

 さらに「経済観察報」では、この直後の2007年6月18日号の「観察家」(オブザーバー)という欄に経済改革体制研究会副会長の楊啓先氏が書いた「一編の遅れてやってきた『検討の要約』」という論文を載せている。楊啓先氏は、スウェーデン社会民主党を紹介するとともに、スウェーデン社会民主党が歩んできた道とソ連共産党の歩んでみた道を比較して論じている。

(参考URL2)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2007年6月24日付け記事
「スウェーデン社会民主党を紹介した意味」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2007/06/post_c5b0.html

 ここではソ連共産党が政権を失ったことを指摘し、暗に中国共産党に対しても、社会民主党的歩むことを検討すべきことを提起している。

 しかし、現在(2010年5月)の時点でも、地方行政幹部を住民による直接選挙で選ぶ、とか、地方行政を地方の住民の選挙によって選ばれた地方議会に監視させる、といった直接的な議論は、新聞等で見ることはできない。このことは、中国共産党内にまだそれを許さない勢力が残っていることを示している。

以上

次回(最終回)「あとがき~『トウ小平氏による改革開放路線』後の中国とは?~(3/3)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-0d31.html
へ続く。

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2010年5月15日 (土)

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(1/3)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(1/3)

 そもそも中国において革命が起きた時、多くの人々が考えた最終目標とは次の事柄であったろう。

(1)封建的な束縛から脱して、近代的な国家を築くこと。

(2)中国が外国による支配から脱して、自らの将来を自ら決めることができるようになること。

(3)多くの人々が貧しさを脱して一定の生活レベルを送れるような経済水準に達すること。

 抗日戦争と国共内戦を経て、中華人民共和国が成立したことにより、(1)と(2)については一応の目的を達することができた。中華人民共和国成立後の大きな課題は、経済建設を進め、貧しさから脱することであった。また、(2)についても、単に「外国から干渉を受けない」ことに留まらず、国際社会において、その人口比率に見合った国際的発言力を持つことも中国の課題として残された。

 1950年代における社会主義の建設やその後の「文化大革命」の経験により、毛沢東が理想とした平等主義社会においては、巨大な人口を抱える中国の経済を発展させ、人々の生活を豊かにすることには限界があることが明らかとなった。世界経済の中では、一定の経済力を持たない限り、国際政治の中で大きな発言権を持つことも難しい。そのため、トウ小平氏は、「文化大革命」を否定し、自らの従来からの信念、即ち「白い猫でも黒い猫でもネズミを捕る猫をよい猫だ」という考え方に基づき、一定の自由な経済活動を認めることにより人々の意欲を引き出し、それによって強力な経済発展を図ろうとする改革開放政策を発動した。社会主義的であろうと、資本主義的であろうと、経済活動を活発にし、人々を豊かにする政策がよい政策なのだ、というトウ小平氏独特の現実的な考え方である。

 トウ小平氏は、経済発展を強力に推進するためには、中国国内における政治的安定が最も重要である、と考えていた。トウ小平氏は「文化大革命」期の政治的混乱が経済発展の足かせとなったことを痛いほど知っていたからである。従って、トウ小平氏は、経済の面では大胆な自由化を進める一方で、政治面では「四つの基本原則」を堅持することを強く求めた。「四つの基本原則」とは、「社会主義の道」「プロレタリア独裁」「中国共産党による指導」「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」の四つである。

 このうち「プロレタリア独裁」は1992年頃から「人民民主主義独裁」と呼ばれるようになった。「社会主義の道」と「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」は、基本的には同じものである。トウ小平氏は、株式市場の開設など、「社会主義の道」や「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」に合致しないような政策も大胆に導入した。要は「四つの基本原則」とは言っているが、「四つの基本原則」の中で重要だったのは「中国共産党による指導」を堅持すること、即ち、中国共産党による政権担当を堅持すること、だったのである。極端な言い方をすれば、採用する政策が社会主義的であろうがなかろうが、「中国共産党による政権維持」の原則だけは守らなければならない、とトウ小平氏は考えていたのである。

 中国の場合、「中国共産党による政権維持」は単に「自らの権力を維持したい」というどんな政権でも持つ自己保存意識に留まらない。中国の場合は「国の統一を維持する求心力を維持する」という別の意味も合わせ持つ。国土が広く、多数の民族を抱える中国にとって、社会の安定を維持するためには、「何らかの求心力」が必要であった。近代以前は、皇帝権力がその「求心力」であった。皇帝権力が消滅した新しい中国でも、中国を中国としてひとつにまとめる「求心力」が必要である。毛沢東が生きていた時代には、毛沢東のカリスマ性が一種の「求心力」となっていたが、毛沢東が死去した後の改革開放時代においても「求心力」は必要だと考えられていた。トウ小平氏は、歴史的経緯に基づけば、「中国共産党が政権を維持する力」を「求心力」にするほかはない、と考えたのである。

 この「国家における求心力」は、近代国家においてもその意義を失っていない。イギリスにおける王(女王)もそうであるし、日本の天皇もそうである。日本国憲法第一条にある「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」という規定は、「国家における何らかの求心力」が現在の国民主権に基づく民主主義国家においても、政治的に一定の意義を持っていることを端的に表現している。

 しかし、中国のようなひとつの党による強力な政権の維持は、政権を腐敗させやすい。また、社会主義は、政府が経済を計画しコントロールする、という点で、本質的に政府と企業経営者との癒着を産みやすい構造を持っている。中国共産党もそのことはよく認識していた。中国の歴代王朝が政権の腐敗で崩壊したことは皆が知っているし、最も身近な例として、中国国民党が多くの人民から支持を失った大きな理由のひとつに、政府の有力者と経済界の資本家とが癒着する腐敗が蔓延したことが挙げられることは、中国共産党自身が一番よく知っていた。従って、中華人民共和国成立後も、中国共産党は腐敗の防止には常に神経質になっていた。幾度となく行われた「整風運動」とか「整党運動」といった運動は、党幹部の腐敗を厳しく戒めるものだった。

 一方、政府のトップを有権者の選挙で選ぶ民主主義制度は、報道の自由が確保されていれば、政府の腐敗に対して一定の浄化能力を持っている。有権者は、腐敗した政府の幹部を選挙で落選させることができるからである。従って、「腐敗防止」という観点で、政府幹部の選任に有権者による選挙制度を導入するのは有力な政治的オプションのひとつである。社会主義は、公有経済を主体とするという一種の経済制度であり、民主主義は政府のトップと政策のあり方をどうやって決めるかという政治システムであって、社会主義と民主主義とは相反するものではなく、同時に成立させることも可能である。選挙制度を通じて社会主義を実現しようという社会民主主義は、まさに社会主義と民主主義を融合させたものである。

 ただし、民主主義制度を採用した場合、有権者が社会主義を選択しない、という可能性は常に存在する。「文化大革命」が終わった直後の1980年代においては、共産党幹部のみならず、多くの中国の人々は、選挙によって政権が交代するような制度を中国で採用すれば、再び「文化大革命」のような大混乱が起こるおそれがある、と考えていたものと思われる。

 しかしながら、改革開放政策により諸外国の情報がどんどん流入するようになると、「中国共産党が政権を担当する」という基本路線を維持して社会の安定を保ちながらも、政治システムの一部に民主主義制度を取り入れることも可能ではないか、と考える人々も多くなってきた。1986年暮れの学生運動の際、一部の学生が「我々の市長を我々が選ぶことがどうしてできないのか」と主張してたことにそれは現れている。胡耀邦氏や趙紫陽氏も、中国共産党が政権を担当するという前提の下で、一部(特に末端地方レベル)では有権者による直接選挙制度の導入を検討してもよいのではないか、と考えていた可能性がある。

 趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)において、次のように明確に述べている。

「じっさいのところ、西側の議会制民主主義体制ほど強力なものはない。民主主義の精神をはっきりとあらわし、現代社会の要請に応じることができる、たいへん成熟した制度である。」

「もちろん、将来、議会制民主主義よりも進んだ政治体制が登場する可能性もあるが、それは未来の話だ。現代において、他に優れた体制は存在しない。」

「これに基づいて言えるのは、国家の近代化を望むなら、市場経済を導入するだけでなく、政治体制として議会制民主主義を採用すべきだ、ということだ。」

 失脚後、長く続く軟禁状態の中で客観的に考えを巡らせることによってこういった考え方に到達したのだとしても、元中国共産党総書記だった趙紫陽氏がこのような考え方に到達していたことは注目に値する。

 トウ小平氏自身は、社会の不安定化を避けるため、中国共産党による政権維持は絶対に譲れない条件だと考えていた。トウ小平氏は、経済的発展が最優先課題であり、当面(少なくとも自分の寿命が尽きるまでの間は)中国における民主主義導入に関する議論は、経済的発展のためにマイナスであると考えていたようである。「趙紫陽極秘回想録」の中で趙紫陽氏が述べているところによれば、1987年の第13回党大会における政治報告を議論する過程において、トウ小平氏は、趙紫陽氏が経済分野において大幅な市場経済原理を取り入れる「社会主義初級段階論」を展開することに大いに賛意を示す一方で、政治体制改革については、「何があろうとも『三権分立』のような形にしてはならない」と主張し、「『ほんのちょっとでも』そのような性質が含まれてはならない」と言っていた、という。(趙紫陽氏が「極秘回想録」でこのような話を披露している、ということは、趙紫陽氏自身は、1987年の第13回党大会の時点で、既に「三権分立」や「議会制民主主義」の優位性について認識していたことを暗示している)。

 政治体制改革に対するこのようなかたくななトウ小平氏の考え方は、「第二次天安門事件」に対する対処方針を決める際に明確になる。1989年4月、「第二次天安門事件」の運動が始まった後、トウ小平氏は学生運動に対する李鵬氏らの強硬な対応方針を支持し、「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」という社説を書かせた。

 トウ小平氏の政治体制に対するこのようなかたくなな考え方は、結局は1989年6月4日、学生らの運動に対して人民解放軍を導入して武力鎮圧する道を選ばせた。「第二次天安門事件」の武力による鎮圧は、「中国における民主主義制度の導入」に関する議論を「タブー」にし、政治的議論を停止させ、確かに全ての勢力を経済発展に集中させる役割を果たした。しかし、一方で、国内に大きな亀裂も残した。性急な民主主義制度の導入に必ずしも賛成していなかった人々の中にも「武力による鎮圧はやり過ぎで、ほかの解決方法があったはずだ」と考える人々もいた。

 そもそも「第二次天安門事件」の鎮圧に当たって、人民解放軍は、東西南北の四方向から進軍して天安門広場を制圧することを命令されていた。しかし、市民による抵抗を武力で排除して天安門前広場にまで進軍したのは、西から入った部隊だけであり、北、東、南から入ろうとした部隊は市民の抵抗の前に進軍をあきらめている。このことは、この時点で、人民解放軍の中にすら「人民に対して発砲すべきでない」と考えていた人々がいた(むしろその方が多かった)ことを示している。武力による進軍をあきらめた部隊の司令官は、おそらく後で何らかの処分を受けたものと思われるが、武力による鎮圧が本当に正しかったのか、という思いは、後々まで、そして現在でも、中国共産党内はもちろん、人民解放軍の内部にも残っているのではないかと思われる。

 「トウ小平秘録」(参考資料17)によれば、「第二次天安門事件」の際の国家主席で、武力鎮圧を指示した側だった楊尚昆氏自身、1998年の時点で、この事件について「わが党が歴史上犯した最も重大な誤りだった。いまとなっては、私にはそれを正す力はないが、将来必ず正されると思う」と述べたという。

 現在、「人民日報」ホームページにある過去の重大事件の解説の中で「第二次天安門事件」は「1989年の政治風波」というタイトルで表示され、以下のように解説されている。

○5月19日の晩、中国共産党中央は首都と一部の地域に戒厳令を敷くことを決定した。しかし、少数の暴乱分子が一部の人々を煽動して戒厳令部隊に対抗した。

○同時に、上海、広州等においても連続して暴徒が党や政府の機関を攻撃し、交通施設を破壊する重大な事件が発生した。これに対し、党中央、国務院、中央軍事委員会は果断な処置を執り、暴乱を収束させた。

○動乱と反革命暴乱に勝利したことは、我が国の社会主義が獲得したものと10年の改革開放の成果を確固たるものとするとともに、党と人民に有益な経験と教訓を与えた。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ「共産党新聞」-「重大事件」
「1989年の政治風波」
http://cpc.people.com.cn/GB/33837/2535031.html

 しかし、現在、中国の政治家は公の席で「第二次天安門事件」の武力鎮圧は正しかった、と明確に発言することはない。そう明言することが中国国内でも反発を呼ぶことをよく知っているからである。現在、中国の政治家が誰かから「第二次天安門事件」についてのコメントを求められた時には、「その問題については、既に党中央の結論は出ている」と述べるのが「公式答弁」となっている。そして仮に中国の政治家が外国のメディアからそのような質問を受け「公式答弁」をしたとしても、そういった問答があったこと自体、中国国内では報道されない。

(参考URL2)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2009年3月4日記事
「公式見解」すら報道されない微妙な案件
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2009/03/post-b929.html

 「第4章第2部第9節:インターネット規制と『08憲』」で詳しく述べたように、ネットワーク上で「第二次天安門事件」に関する情報は検索できないようになっている。現在の中国においては「第二次天安門事件」については、「あの運動は正しかった」「武力による鎮圧は誤っていた」という趣旨の情報はもちろん、事件に関する公式情報以外の情報にはアクセスできないようになっている。おそらくそれは、この問題に触れることが、即ち、中国国内の亀裂を再び浮き立たせてしまうことになり、当局がそれを恐れているからだと思われる。

 趙紫陽氏に代わって政権を担当した江沢民氏は、「第二次天安門事件」によって急きょ抜擢され、総書記となり、その後国家主席となったことから、「第二次天安門事件において武力による鎮圧をしたことは誤りだった」と主張することは、江沢民氏の総書記・国家主席としての存在意義を疑問視することに等しい。従って、江沢民政権の時代には、「第二次天安門事件」における学生らの運動を肯定したり、武力による鎮圧を疑問視したりすることは、即、政権批判に繋がると考えられていた。

 胡錦濤氏は、その経歴において「第二次天安門事件」そのものとは直接関係していないので、胡錦濤政権になってからは、もっと客観的に「第二次天安門事件」について評価できるはずである。むしろ、胡錦濤氏は、中国共産主義青年団出身の胡耀邦氏の直系の人物であることから、思想信条的には胡耀邦氏や趙紫陽氏に近いと考えられる。また党中央弁公庁の幹部として胡耀邦氏や趙紫陽氏の下で働いていた温家宝現国務院総理も、思想信条の上では胡錦濤総書記に近いと考えられている。胡耀邦氏については、2010年4月15日付けの「人民日報」で温家宝総理が胡耀邦氏を偲ぶ文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を発表するなど、その功績は公式に評価されるようになってきているが、趙紫陽氏についての名誉回復はまだなされていない。それはおそらくは、中国政界において、まだ江沢民氏の勢力がかなり強力に残っていることを証明しているものと思われる。

以上

次回「あとがき~『トウ小平氏による改革開放路線』後の中国とは?~(2/3)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-5e8b.html
へ続く。

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2010年5月14日 (金)

4-2-11:経済対策バブルと「抵抗勢力」の肥大化

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第11節:経済対策バブルと「抵抗勢力」の固定化

 2008年5月初旬、胡錦濤主席は日本を訪問し、江沢民政権時代の歴史認識問題で鋭く対立する関係から新しい戦略的互恵関係を築こうとする関係へと、対日関係方針の転換を図った。

 胡錦濤主席が日本から北京へ帰った直後の2008年5月12日、四川省アバ・チベット族チャン族自治州ブン川県(「ブン」は「さんずい」に「文」)を震源とするマグニチュード8.0の巨大地震が中国を襲った。7万人近い犠牲者が出た未曾有の自然災害だった。この巨大地震の救援・復旧活動を通じて、多くの中国の人々はボランティアで働き、多くのNGOが活動し、台湾も含めて世界の中華系の人々が救援の手を差し伸べ、世界各国も様々な形で支援し、中国はそれを受け入れた。中国内外のマス・メディアが現地に入り、リアルタイムの情報を世界に発信した。中国にとって、多くの痛ましい犠牲者と被災者を出した不幸な自然災害であったが、この自然の猛威に立ち向かうことを通じて、中国では新しい「何か」が始まったように思えた。

 そうした中、2008年8月8日~8月24日、中国の人々にとって念願だった北京オリンピックが開催された。オリンピック運営は滞りなく行われ、インターネット規制もオリンピックを契機として一部が緩和された。

 一方で、この頃までに中国経済は過熱し、株と不動産については「バブル」がはじけかけていた。株については、上海市場の総合指数が2007年10月には6,000ポイントを超えていたものが、2008年4月には3,000ポイントを下回るまでに下がっていた。不動産についても、沿岸部の主要都市については、2007年末頃から販売にブレーキが掛かり、2008年に入って販売価格が下がるところが出始め、一部の不動産業者の破産も伝えられた。

 中国の急速な経済成長の牽引車だった沿岸部の製造業にもかげりが見え始めていた。2008年7月上旬、中央の指導者が手分けして沿岸部の製造業地帯を視察した。輸出産品製造業の中に倒産や経営者蒸発といった事態が発生し始め、リストラされた労働者たちや賃金未払いの労働者たちに不満がうっ積する傾向があったため、中央の指導者が実情を把握するために手分けして視察を行ったのではないかと考えられている。

(参考URL1)サイエンス・ポータル・チャイナ
「JST北京事務所快報」(File No.08-007)
「2008年上半期の中国経済とイノベーション」(2008年7月23日)
http://www.spc.jst.go.jp/experiences/kaihou/b080723.html

※この記事の筆者はこの「中国現代史概説」を書いている私である。

 2007年までの株と不動産価格の上昇は明らかに過熱気味であり、中国政府は金融引き締めの方向にマクロ経済政策の舵を取り始めていた。一方で、中国の経済成長に伴う中国人労働者の賃金上昇により、安い賃金と豊富な労働力に頼った労働集約型産業においては、中国はバングラディシュ等の他の発展途上国との関係において、国際競争力を失いつつあった。こういった中国経済の「バブル経済の頂点を過ぎた印象」により、北京オリンピック終了後、2008年の秋に一気に中国経済の変調が表面化する兆候があった。2008年前半までの中国政府による金融引き締め政策は、株や不動産のバブルが大きくなりすぎることを警戒したものであったが、それによって輸出産業にブレーキが掛かったと感じた一部の人々は、「今はまだ引き締めをする時期ではない」と反発していたようである。

 ところが、北京オリンピック終了直後に、予想していなかった外的状況の変化が起こった。2008年9月15日にアメリカの名門投資銀行のリーマン・ブラザーズが連邦破産法の申請をしたことに端を発した世界的な金融危機の発生、いわゆるリーマン・ショックである。中国における北京オリンピック終了後のバブル崩壊が来る前に、中国の外の世界経済の方がはじけてしまったのである。中国の輸出産業は、欧米などの輸出先の経済危機の影響をまともに受けた。広東省や上海周辺など沿岸部の労働集約型輸出産業では、工場閉鎖等が相次いだ。

 世界各国がリーマン・ショック対策を議論する中、中国は金融引き締め策を急きょ転換し、素早く大きな経済対策を発表した。このスピーディーな対応は、一党独裁政権ならではのものだったと言える。2008年11月9日、中国政府は2010年末までに総額4兆元(約60兆円)に上る景気刺激策を実施する旨を発表したのである。この中国の巨大な景気刺激策の発表は、世界の株式市場に大きなプラスの影響を与えた。このことは、既に中国が世界経済の牽引車となっていることを内外に印象付けることになった。

 この総額4兆元の景気刺激策の発表においては、住宅などの民生、農村・農民対策などが掲げられていたが、金額的なパーセンテージで見ると、この景気刺激策は、鉄道、道路、空港等の建設や災害被災地の復興・復旧で全体の7割を占めるなど公共投資型のものであった。

(参考URL2)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2008年11月10日付け記事
「中国の景気刺激策は世界を救うのか」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2008/11/post-cce7.html

(参考URL3)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2008年11月28日付け記事
「『史上最大のバブル』の予感」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2008/11/post-793d.html

 2008年前半までバブルを警戒して金融引き締めの方向へ向かっていた中国のマクロ経済政策は、ここ一気に景気刺激型へと転換したのである。

 このリーマン・ショックに対する中国の景気刺激策は、中国の政治の動きを大きく変えた、と私は考えている。というのは、現在の中国の政治勢力は、「とにかく猛スピードで経済成長を成し遂げ、社会の最下辺の人々の生活をも向上させることにより、社会に不満を溜めないようにすべきである」と考える勢力と、「経済成長のスピードをやや抑え気味にしてでも経済格差を是正するとともに社会のセーフティ・ネットを充実させて社会の最下辺の人々の不満に対応すべきである」と考える勢力の二つの勢力がある、と考えられるからである。どちらかと言えば、前者が江沢民政権の考え方を引き継いだものであり、後者が「和諧」を強調する胡錦濤主席が主張している政策である。前者の考え方は大きなバブルを招く可能性がある、として、後者の立場に立つ人は、常にバブルがはじけないように経済をコントロールしようとする。2008年前半までの引き締め傾向にあったマクロ経済政策は、後者の立場に基づいたものであり、それを批判していたのは前者の立場に立つ人であった。

 2008年9月に始まったリーマン・ショックでは、こういった立場の違いによる議論を無意味にした。とにかく緊急の対応策が必要となったからである。そのため、後者の立場の人も、バブルを警戒した引き締め政策を当面は封印せざるを得なくなった。前者のいわば「高度経済成長至上主義派」の人たちは、中央政府が景気刺激策を打ち出したことにより、自分たちが「錦の御旗を得た」と考えて、急速な投資活動に走るようになった。それが結果的に、中国内陸部における消費の拡大に繋がり、2010年5月現在、中国経済全体の復活を引っ張り、結果的にそれが世界経済の回復を大きく押し上げているのである。

 しかし、上記「参考URL3」の「『史上最大のバブル』の予感」で書いたように、現在の中国の景気刺激策に基づく急速な消費の拡大は、公共投資型景気刺激策が効いているものであって、バブル的な不動産価格の高騰を伴っているものであり、バブルがはじける危険性を常にはらんでいる。

 そもそも、この20年間の中国の急速な経済成長には、様々な要因があったと考えられるが、それらを大まかに分類すると以下のとおりになると私は考えている。

(1)外国からの資本と技術の導入による製造業の成長と豊富で優秀な労働力の活用

(2)石炭などの天然資源の開発の推進

(3)環境汚染を気にしない設備による製造など他の国ではできないコスト・ダウンを行ったことによる国際競争力の獲得

(4)農地を工業用地に変えることによる価値創造

 (1)と(2)は中国経済の「実力」であり、中国の急速な経済成長を支えている背骨である。これらがある限り、中国経済のパワーは空虚なものとはならない。(3)は報道の自由や民主主義が定着していないことにより実現できていたものであり、中国の地域住民の権利保護を進めていけば、やがては失われていくことになる。

 (4)は、中国が建前上「社会主義」を標榜していることから生じる特殊な「価値創造」である。中国では、土地の私有は認められておらず、都市の土地は国有であり、農村の土地は集団所有(村などの所有)である。農地は村が所有している土地について農民に耕作する権利(土地使用権)を許諾して農業を営ませているものであるので、村が必要だと考えれば、合理的な補償金を農民に支払うことによって土地使用権を回収して、それを工業用地として転売することが可能となる。合理的な補償金の金額は、例えば、その農地で過去3年間に収穫された農作物の価格、などというふうに定められているが、中国の場合、農作物買い取り価格は政策的に低く設定されているので、補償金を支払って農民から土地使用権を回収し、工業用地として高く転売すれば、多くの場合「儲け」が出る。例えば、工業用地として売れば、農民に支払う補償金の十倍の値段で売れる、というケースが多くあるという。

 農地は、「村」という「集団」の所有物であって、特定の人が勝手に処分できるものではないが、「中国共産党が全てを支配する」ことが原則である中国においては、村の党委員会の幹部は地方政府の幹部と一体になっており、実質的に個人の意志で補償金を支払って農民から農地を取り上げて工業用地として転売することが可能である。もちろん、農地を工業用地に変えるには、その地方の土地利用計画に従う必要があり、上部機関の許可を必要とする。しかし、許可を取らずに(許可手続きは後でやる、という言い訳を付けて)農地を工業用地に変える例が後を絶たないと言われている。中国中央政府の国土資源部が2007年に記者会見で述べたところによれば、土地の違法な利用の80%は地方政府または政府関係機関が主体となって行った違法行為である、という。

(参考URL4)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2007年7月13日付け記事
「中国の地方政府による無秩序な土地開発」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2007/07/post_1c55.html

 最近の報道によれば、上海万博が行われている上海市の財政収入の4割は土地の使用目的を変更したことにより得た収入である、という。こういった農地の工業用地への転換は、一時的な経済価値を生み出すが、もしこの工業用地に工場が建たなければ、土地を開発した費用は回収されず、不良債権化することになる。また、数年間経って補償金を使い果たした「元農民」は失業者と化して、社会の底辺に溜まってしまうことになる。

 住民による地方政府幹部の選挙が行われず、報道の自由も認められていない中国においては、地方の政府や党の幹部が土地開発を巡って土地開発業者と結託すれば、土地売却代金と農民へ渡した補償金の差額を地方の党・政府の幹部と土地開発業者とで折半することも可能である。そういった腐敗・不正が数多く行われているのではないか、というのが、現在の中国の多くの人々の不満である。

 今、中国では「裸官」という言葉が流行っている。不正蓄財行為を働いている地方の党・政府の幹部の中には、自分の家族を海外に住まわせ、海外に財産を移転しながら、自分だけが中国に残って「官」として不正行為を続けている者が多くいると言われている。彼らが「裸官」と呼ばれる人々である。

 こういった腐敗し不正を行う地方の党・政府の幹部は、公共事業投資型の高度経済成長政策が続くことを望み、金融引き締め政策に反対する一方で、報道の自由と地方における自由選挙の導入に対する強力な「抵抗勢力」となっている。報道の自由は自分たちの不正行為をあばき、自由選挙の実施は住民たちの投票により自分たちがクビになることを意味するからである。中国経済は、現在、かなりの部分市場経済化しているが、中国が自国の制度を「社会主義」だと称している元になっている「公有経済」のかなりの部分が、こういった地方の党・政府の幹部によって私物化された「形式的公有経済」である可能性がある。つまり、現在の中国においては、「社会主義を守る」という思想は、「腐敗し不正を行う地方の党・政府の幹部を守る」ことに結びつきやすい。

 過度の高度経済成長を避け、社会の経済格差を是正しようとする試みは、こういった「抵抗勢力」の抵抗に会うことになる。2008年前半までは、バブルを警戒してマクロ経済を引き締め方向に持っていこうとしていた中央政府と地方の「抵抗勢力」との間で綱引きが行われていたと思われるが、リーマン・ショックを受けた巨大な景気刺激策の発動により、地方の「抵抗勢力」は「景気刺激のために投資は増大させてよい」という「錦の御旗」を一気に獲得した。従って、結果的にリーマン・ショックは、中国の地方における「抵抗勢力」を再活性化させることになったと言ってよい。現在、世界経済は中国内陸部の経済発展に引っ張られているといっても過言ではないが、その牽引力のかなりの部分を中国の地方の「抵抗勢力」が担っていることを世界の人は認識しておく必要がある。

 やみくもな高度経済成長路線は、やがて土地開発事業の不良債権化という形のバブル崩壊をもたらすことになる。今、「裸官」と呼ばれている人々は、バブルがはじける直前まで「儲け仕事」を続け、バブルがはじける直前に海外に「勝ち逃げ」しようとしているのである。

 2008年後半のリーマン・ショック以降の景気刺激策は、現在、中国に大きなバブルを膨らませているが、そのバブルが何をきっかけにして「はじける」のかを現時点で見極めるのは極めて難しい。ただし、農地を闇雲に工業用地に変えることによる農地の減少や農業生産の衰退がひとつのきっかけになる可能性はある。中国では2005年~2009年までは5年間連続して食糧生産の増産が続いており、ここのところ食糧問題は中国においては発生していなかった。しかし、2010年は前半が天候不順であったため、2010年の夏収穫作物(6月に収穫期を迎える冬小麦が中心)においては、減産となる可能性がある。中国の外貨保有量は世界一であるので、中国での食糧生産が減れば外国から輸入すればよいので、中国国内で食糧危機が起こることは考えられないが、もし中国が大量の食糧を輸入することになれば、別の意味で世界経済に大きなインパクトを与えることになる。2010年後半においては、中国における食糧生産高が次の世界的経済変動のひとつのきっかけになる可能性がある。

 いずれにせよ、2008年9月のリーマン・ショックは、「北京オリンピックが終わったら中国でも新しい時代が始まる」という「淡い夢」をもろくも打ち砕いた。中国における「抵抗勢力」は、北京オリンピック終了後に衰退するどころか、さらに肥大化してしまったのである。任期があと2年ちょっとしかない胡錦濤主席・温家宝総理のコンビによる政権は、任期中にこの「抵抗勢力」を押さえ付ける有効な政策が打てるのであろうか。それとも、その課題は次の政権に引き継がれるのであろうか。もし、胡錦濤主席・温家宝総理が任期中に適切な措置が講じられない場合、「抵抗勢力」グループが次期政権の指導者選定の過程に介入し影響を及ぼすことも考えられる。もしそうなれば、中国における「改革」はさらに遅れ、バブルはさらに大きくなる危険性がある。

 胡錦濤氏の中国共産党総書記としての任期は2012年秋に行われるであろう第18回党大会まで、温家宝氏の国務院総理としての任期は2013年3月に行われるであろう第12期全人代第一回全体会議までである(任期は二期10年間まで、という現在のルールに従えば、であるが)。これから胡錦濤主席・温家宝総理体制の任期が切れるまでの2~3年間が、中国の今後を占う重大な転換期になる可能性が大きい。日本としても、その動きを刮目して注視していく必要がある。

以上

次回「あとがき~『トウ小平氏による改革開放路線』後の中国とは?~(1/3)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-5fdd.html
へ続く。

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2010年5月13日 (木)

4-2-10:少数民族政策破綻の危機

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第10節:少数民族政策破綻の危機

 少数民族政策は、中国にとって最重要課題のひとつである。民族間対立の問題は、中国に限らず、それを抱える国にとって非常に困難な問題であり続けている。大多数の民族単位を中心としてひとつの国を形成している日本、韓国・朝鮮、モンゴル、ベトナムとは異なり、中国には多民族国家としての悩みがある。旧ソ連は、ソ連共産党による「縛り」がなくなった後、民族単位で分裂した。民族が居住する地域ごとに国を分離独立させたからといって民族問題が解決するわけではないことは、旧ソ連諸国や旧ユーゴスラビア諸国の現状が端的に物語っている。

 中国は、古代から人口の大多数を占める漢族とその他の少数民族との間の抗争、対立、協調、融合、場合によっては支配と被支配との関係を繰り返してきた。逆にいうと、こういった複雑な民族間の関係があってこその「中国」なのであって、こういった各民族間の関係がなくなってしまったら、それは既に「中国」とは言えない社会になってしまう。漢族とその他の少数民族との関係は、中国にとって永遠のテーマであり、これら漢族を中心とした複数の民族との集合体が中国を中国たらしめている根本状態なのである。従って、中国共産党は中華人民共和国成立前から、漢民族と少数民族との融和を最重要課題のひとつとして取り上げてきた。その姿勢は、今も変わっていない。

 中国共産党は、「民族間の融和」を最重要課題に掲げてはきたが、「中華人民共和国建国期」「大躍進時代」「文化大革命時代」においては、共産主義の理想と古い習慣の打破をそれよりも重要な旗印として掲げてきた。従って、時として共産主義のシステムを導入するに当たって、各民族が伝統的に守ってきた宗教的なしきたりや社会システムを破壊することもあった。しかし、改革開放が始まると、文化大革命時代の教条主義的な政策に対する反省に基づき、アメリカや日本、西欧諸国などの資本主義諸国との協調関係を重要視するようになるにつれて、「異なった価値観を尊重した上で相手と協調する」ことが強調されるようになった。それに伴って、少数民族が持つ伝統的なシステムについても、強圧的に変更を迫るのではなく、それぞれの価値観を尊重しつつ、封建的で近代的な人権思想に反するようなものは徐々に変えていく、というふうにやり方を変えていった。

 しかし、1990年代以降、改革開放政策が進展し、経済発展が進むと、少数民族の漢族との対立は融和するのではなく、むしろ先鋭化する方向へ向かってしまった。改革開放経済政策下の経済発展は、「豊な者」と「豊かになり損ねた者」との経済格差を拡大したが、多くの場合、「豊かな者」とは漢族であり、「豊かになり損ねた者」は少数民族だったからである。 

 漢族には、もともとビジネスに才能を発揮するタイプの人が多く、東南アジア諸国など、多くの中華系民族が住む中国以外の国でも、漢族がその国の経済を牛耳っているケースが多い。民族や宗教によっては、ビジネスで活躍するよりも民族の伝統を守ったり宗教的精神生活に重きを置くことを重要視する人々がいる。そういった人々とビジネス好きの漢族とが自由競争をすれば、漢族が経済的に優位に立つことになるのは、容易に想像できるところである。それは経済発展のための「能力」の問題ではなく、「意志」や「価値観」の問題である。

 1990年代以降の改革開放政策は、政治については思考停止状態に陥ったこともあり、「経済成長第一主義」に変質した。「経済成長第一主義」は、ビジネスで成功することを求めない生き方や価値観を無視する政策でもあった。

 私は、1980年代の中国には、改革開放政策の中でも、ビジネスで成功すること以外の価値観も認められるべきだ、という考え方が残っていた、という印象を持っている。

 1986年11月、私は、仕事の関係で雲南省のビルマ国境に近い騰冲(日本語読みで「トウチュウ」)というところへ行ったことがある。当時、この周辺は、外国人の立ち入りが禁止されていた「非開放区」だった。中国側からは仕事上必要な写真以外は、周辺の風景や街の様子などを写真に撮らないように、と注意を受けていた。

 騰冲は、雲南省の省都・昆明からプロペラ機で約1時間の保山というところへ行き、そこから車(ランド・クルーザー)で6時間くらい掛けて3,000メートル超級の峠を三つ越えてやっと到着する奥地である。そのあたりには、漢族のほか、ミャオ族、タイ族、イ族などの少数民族が多数住んでいる地域だった。

 案内してくれた中国側の人たちは「あまりに貧しい地区なので外国人の人たちに見せるのは恥ずかしい」と言っていた。実際、靴を履いていない裸足のこどもたちもたくさんいたし、夜になると家には裸電球が1個だけ、という家がほとんだった。峠を越える道路にはトンネルがひとつもなく、全て山の上を越えるものだったが、舗装はされていなかった。延々と続く道路は、近くの村人が石を割って引き詰めた砂利道だったのである。

 近代化された沿岸部の中国に比べれば確かに「貧しい」と言えたが、農地では作物が青々と茂り、農作業をしている牛はまるまると太っていた。行ったのがちょうど11月だったので、農作業が一段落した時期であり、農民たちは近くの温泉に遊びに行っていた。「温泉」といっても、地中からわき出る温泉水をパイプでバスタブに入れるだけの施設だが、それでも農民たちは「1年に一度の楽しみ」という感じで、温泉を楽しんでいた。これだけの奥地に、こういった一定程度の「豊かさ」をもたらした、という点で、「中国共産党は偉大だ」ということは誤りではない、とその時私は本気で思った。

 街には「少数民族用品専用デパート」が建っており、各民族が身につける様々な民族衣装や小道具が売られていた。車の中から見た畑で働くタイ族の農民は、未婚の女性は華やかな色の腰巻きを、既婚の女性は黒い腰巻きをして作業をしていた。それは、タイ族の習慣なのだそうだ。タイ族の村のお寺に案内されたが、タイ国のお寺と同じように「高床式」のお寺で、靴を脱いで中に入るようになっていた(日本の高床式住居や靴を脱ぐ習慣は、稲作とともにタイ地方から伝来したと言われている)。案内してくれた中国側の人は、「文革時代にはこういったお寺も破壊されたのですが、改革開放後、政府の政策によって再建されました。村の人たちはお参りにきていますよ。」と説明していた。

 私が見た雲南省のこのあたりは外国人非開放区なので、外国人観光客に見せるためにこうしたことをやっているわけではなかった。その時の私は「中国政府は少数民族対策に相当に気を使っているなぁ」という印象を強く受けた。「非開放地区なので写真を撮るな」と言われたので、写真は撮らなかったが、これだけ少数民族を支援する政策を採っている、ということを中国政府は対外的にもっと宣伝してもいいのに、とその時私は思った。

 そういった中国政府の姿勢(基本的考え方)は、たぶん今でも変わっていないはずである。

 少数民族政策について、2007年4月からの二回目の北京駐在の最中に印象に残ったのは寧夏回族自治区へ行った時のことである。しかし、2008年に寧夏回族自治区へ行った時の印象は、1986年に雲南省の少数民族地域へ行った時との印象とはだいぶ異なるものだった。

 寧夏回族自治区は、乾燥した農耕に適さない黄土高原が続く地域であり、中国でも最も貧しい地域と言われている。ここは、草の根まで食べ尽くしてしまう羊の放牧によって、かつての草原が砂漠化し、山の上まで森林を伐採して耕地にしてしまったために、表土の流出が問題になっている地域である。住民の生活を守り、国土の荒廃を防ぐために、政府は羊の放牧を禁止し、遊牧民は定住させて畜舎で羊を飼うようにさせ、「退耕還林」と言って、山の上の方に開墾された耕地では耕作をやめて植林し、森林を再生させようというプロジェクトを展開していた。乾燥地帯で農業ができない山間地区の村については、黄河の水を人工的に汲み上げて乾燥した土地を灌漑し、人工的に灌漑された地区に村ごと移住させるという「生態移民」の政策も採られていた。一方で、農牧業では支えきれなくなった産業構造を転換させるため、石炭探鉱の開発や石炭を使った化学工業の開発も進められていた。

(参考URL)サイエンス・ポータル・チャイナ
「JST北京事務所快報」(File No.008-08)
「寧夏回族自治区の『退耕還林』プロジェクト」(2008年9月18日)
http://www.spc.jst.go.jp/experiences/kaihou/b080918.html

※この記事の筆者はこの「中国現代史概説」を書いている私である。

 こういったは寧夏回族自治区における政策は、「貧しい人々の生活を経済開発で救う」という意味では、決して間違った政策ではないと思われる。ただ、それまで遊牧によって生活していた人々に遊牧をやめさせて定住させ、住み慣れた村を離れて遠くの灌漑設備の整った地域へ村ごと移住させる、といったことは、その人たちが伝統的に守ってきた暮らしや民族としてのアイデンティティを破壊することになる。貧しい生活から人々を脱却させる、という意味で、目的や目指すべき方向は、たぶん間違ってはないのだろうと思われるが、そういった政策の対象となる人々に対する「納得のプロセス」は果たして行われたのだろうか、と私は疑問に思った。

 中華人民共和国建国時と1959年の「大躍進」の時期に起きたチベットでの騒乱は、「中国共産党の理想」を「押しつけた」ことが原因だ、と私は思っている。1959年の人民解放軍のチベットへの進出については、「チベット仏教僧らの支配層が人民を支配していたという封建的体制を改革したのだ」と中国政府は説明しているが、たぶんそれは間違ってはいないのであろう。ただ、実施された政策が仮に「正しい理想」に基づくものだったとしても、人々との間での「納得のプロセス」なく押しつけられた「正しい理想」は、人々の反発を招くだけである。

 少数民族地域で進められる大々的な経済開発プロジェクトは、辺境地域の経済発展のために行われているのであり、その地域に住む人々のためを思って行われている、というのはウソではない。しかし、「納得のプロセス」なしに進められるそういった経済開発は、下手をすると地元に人にとっては単なる「経済侵略」と受け取られかねない。しかも、多くの経済開発の主体は漢族が経営する企業等により行われるため、地元の少数民族の人々に「漢族に経済的に侵略された」という印象を与え、経済開発政策が民族間対立を先鋭化させるおそれがある。

 中国では「少数民族は一人っ子政策の対象とはしない」「大学入試統一試験に際しては少数民族の受験者に対しては一定の枠を与える(あるいは点数に「ゲタを履かせる」)」といった少数民族優遇政策が採られている。これらの政策に対しては、逆に漢族の人たちには「逆差別だ」として反発がある。多くの漢族の人たちは「少数民族地域に大規模な経済開発投資を行って、実際に辺境地域の経済レベルは急速にアップしている。その上、少数民族に対する各種優遇政策を採っているのに、暴動を起こすなんてけしからん」という気持ちが強いと思われる。しかし、その考え方の背景には「経済が発展すれば他の価値観は考慮する必要はない」という「カネ儲け至上主義」がある。「民族のアイデンティティや伝統的な生活を大事にしたい、という価値観も大事にすべきだ」という発想が欠けているのである。

 1980年代は「文化大革命に対する反省」が政策の根底にあった。「文化大革命に対する反省」には「異なる価値観の存在を認める」ということでもあった。しかし、1989年の「第二次天安門事件」は、「異なる価値観の存在を認める」という寛容性をも圧殺してしまったのである。その結果、金儲けをすることが誰もが求める目的であるという価値観以外の価値観を認めない、という風潮が広まってしまった。

 多数決で物事を決める民主主義は、少数民族問題の解決には、必ずしも有効ではない。多数決だけで政策を決めてしまったら、多数派民族の考え方だけが取り上げられ、少数民族の人々の意見は無視されがちだからである。本来ならば、中国共産党は、「中国は少数民族の権益を守ることによって成立している。多数決に基づく西欧型民主主義の導入は、漢族優遇政策を招き、少数民族の権益を損ねる。だから中国では西欧型民主主義を導入するのはなじまない。」といった主張もできるはずなのであるが、そういった主張はあまり見掛けない。そのことは中国共産党自身が、現在の少数民族政策について、「少数民族の権益を守っているとは言えない」と自覚しているからなのかもしれない。

 改革開放から30年が経過し、沿岸部では急速な経済発展が進み、中国経済が世界経済を引っ張ると言われる状況にすらなった。しかし、少数民族政策については、北京オリンピックを前にした2008年3月に起こった争乱に見られるようなチベットにおける争乱は、一向に治まる気配はない。それどころか、それまであまり表立った大規模な争乱はなかった新疆ウィグル地区でも、2009年7月5日、ウルムチで数百人規模の死者を出す大規模な暴動が起こった。改革開放政策は、中国全体の急速な経済成長については成功したが、少数民族政策については、むしろ失敗したと言わざるをえない。

 西欧型民主主義が多数決原理に基づくものでありながら、少数民族政策において時として有効に機能するのは、西欧型民主主義が「異なる価値観を認める」ことに立脚しており、政策決定の過程に一般大衆による「納得のプロセス」を内包しているからである。

 もし、少数民族政策に失敗するのであれば、それは、中国共産党による政治運営が西欧型民主主義より優れている、という根拠が完全に失われることを意味する。中国共産党自身、そのことはよく自覚している。そのことは2010年4月14日に発生した少数民族地域の青海省で大きな地震が発生した際、胡錦濤主席が外国訪問を切り上げて帰国して対応に当たるなど、最大限の努力で救援・復旧作業に当たったことでもわかる。

 今後の中国において、少数民族政策がうまく行くかどうかは、沿岸部を中心とする「経済発展で豊かになった部分」を少数民族などの「豊かになり損なった部分」へ均てんすることができるかどうかに掛かっている。そのことは、少数民族対策だけでなく、社会全体における経済格差の是正にも繋がる部分であり、それがうまくできるかどうかが、今後の中国の安定にとって大きな鍵になるものと思われる。

以上

次回「4-2-11:経済対策バブルと『抵抗勢力』の肥大化」
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へ続く。

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2010年5月12日 (水)

4-2-9(2/2):インターネット規制と「08憲章」(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第9節:インターネット規制と「08憲章」(2/2)

 外国からの衛星テレビに対する検閲やインターネット規制などが行われている中、2008年12月9日、中国のインターネット上に「08憲章」(漢字で書けば「零八憲章」)という文章が発表された。これは国連人権憲章60周年、「北京の春」(民主の壁)運動30周年を記念して、中国の将来あり得べき姿をまとめた一種の「政治綱領」で、民主的選挙の実施、特定政党を特別扱いすることの廃止、三権分立、教育の政治からの中立性の確保、国軍の成立(注:人民解放軍は中国共産党の軍隊であって中華人民共和国の軍隊ではない)などを述べたものである。日本の新聞では「中国共産党の一党独裁の廃止を唱えるもの」などと報じられたが、「08憲章」自体では慎重な表現が使われており、「中国共産党」という言葉は一切出てこない。しかし「1949年に成立した『新中国』は、名前の上では『人民共和国』であるが、実質上は『党天下』である。執政党が全ての政治、経済、社会、資源を壟断(ろうだん)している。」としており、「執政党」という言葉を使って現在の体制を批判している。

(注)「民主の壁」(北京の春)運動については、「第3章第5部第3節:西単(シータン)の『民主の壁』」「第3章第5部第5節:改革開放と『四つの基本原則』で終わった『北京の春』」参照。

(参考URL1)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2010年10月16日付け記事
「『08憲章(零八憲章)』全文の日本語訳」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/10/post-c6ae.html

 この「08憲章」は、報道等によれば、もともとは12月10日の国連人権憲章60周年の記念日に発表される予定だったのだが、主要執筆者を当局が拘束する可能性があったため、1日前倒しして12月9日にインターネット上にアップされた、とのことである。この「08憲章」は、見付かり次第、当局によって削除の措置がなされたが、あっと言う間に多数のネット上のサイトや個人ブログ等に転載が繰り返されたため、当局による削除が間に合わず、数日間は検索エンジンを使えばどこかのサイトで本文を見ることができた。しかし、そのうちに検索エンジン(バイドゥ、ヤフー、グーグル)自体が自主規制をして、「関連法令の規定に基づき検索結果の一部は表示されません」などといった注意書きとともに、検索することが難しくなった。しかし、例えば「08県長」(中国語で「県長」は「憲章」と同じ発音)といった「隠語」で検索すると本文を閲覧できるような状態は数か月に渡って続いた。

 「08憲章」の中身は、民主的選挙や三権分立を唱えたもので、多くの国の憲法に書かれているような政治の基本原則であるが、中国当局は、この文書の主要起草者である劉暁波氏を拘束した。「08憲章」の起草時の署名者は303名であり、その後、転送が繰り返されるたびに署名者が増え、最終的には署名者は数千名に達したと言われている。その中で劉暁波氏のみが拘束された理由は不明であるが(他の署名者の中にも拘束された者がいる可能性もあるが明らかにされていない)、劉暁波氏は、「第二次天安門事件」の際、6月4日未明の最後の時点まで天安門広場におり、運動の指導者的立場だったことから、当局が「08憲章」の動きにおいても「首謀者」と見て拘束したと考えられている(「第二次天安門事件」の際の劉暁波氏の動きについては「第4章第1部第9節:『第二次天安門事件』」参照)。劉暁波氏については、二審制による中国の裁判を経て、2010年2月11日に「国家政権転覆煽動罪」により懲役11年、政治的権利はく奪2年の判決が確定している。

 「08憲章」は、将来の中国の政治体制のあるべき姿のひとつのひな形・理念を提示したものであるが、そのためにどういった行動が採られるべきか、といったことは何も書かれていない。従って、「08憲章」がネット上に掲載されたことによって、多くの人々が行動を起こす可能性はほとんどないものであった。にも係わらず、中国当局がこの文書をネット上から削除し(外国のネット上にあるものについてはアクセス制限を掛け)、首謀者とされる劉暁波氏を逮捕・起訴したことは、中国当局は、中国の将来のあるべき姿や理念について、議論することすら許さない、ということを示した、ということができる。

 一方で注目されるのは、「08憲章」がネット上で公表される前日の2008年12月8日の「人民日報」において、「なぜ今も中国共産党なのか」について論じた評論が掲載されていたことである。

(参考URL2)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2008年12月8日付け記事
「『なぜ今も中国共産党なのか』に対する答」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2008/12/post-f9f3.html

 上記の記事の中で紹介している人民日報2008年12月8日付けの評論「改革開放以来の我が国の多数党協力理論と政策における革新と発展」(改革開放30周年を記念して)(杜青林)では、下記の「6つのなぜ」が提起されている。

(注)杜青林氏は、全国政治協商会議副主席・中国共産党中央統一戦線部部長

・なぜマルクス主義に思想上の指導的地位を与えるのか。思想の多元化を図ってはならないのか。

・なぜ社会主義だけが中国を救うことができ、中国の特色のある社会主義だけが中国を発展させることができるのか。民主社会主義や資本主義ではダメなのか。

・なぜ人民代表大会制度を堅持しなければならないのか。「三権分立」をやってはダメなのか。

・なぜ中国共産党の指導の下での多党協力と政治協商制度を堅持しなければならないのか。西側のような多党制ではダメなのか。

・なぜ公有制経済を主体とした多種類の経済を協同させることにより発展させる方法を基本的な経済制度にしなければならないのか。経済の私有化を図ってはダメなのか。また逆に純粋な公有経済制度にしてはダメなのか。

・なぜ改革開放制度を揺るぎなく堅持することが必要なのか。昔たどった道へ戻ることはなぜダメなのか。

 「人民日報」では、翌2009年4月に掛けて、上記の「6つのなぜ」に対する回答とも言える評論を次々に掲載した。これは「08憲章」が述べている中国共産党による一党支配を廃し三権分立の確立を図る主張に反論を「人民日報」紙上で展開したということができる。これは、「08憲章」の頒布は禁止する一方で、「08憲章」の存在を党としても相当に気にしていることを表しているのではないか、と私は思っている。

(参考URL3)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2009年4月10日付け記事
「6つの『なぜ』」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2009/04/post-a1d0.html

 一方で、2009年春の「人民日報」の論調は、まるで文化大革命の時代に戻ったかのような古い論調の評論が目立った。極めつけは、2009年4月27日付けの「人民日報」1面トップ記事「新中国60周年慶祝を巡って深く群衆の中に入って愛国主義教育活動を行おうとすることに関する意見」である。この意見では次のように呼び掛けられている。

○「共産党はすばらしい」「社会主義はすばらしい」「改革開放はすばらしい」「偉大な祖国はすばらしい」「各民族人民はすばらしい」という現代の主要なメロディーを大声で合唱しよう。

○「中国共産党を熱愛すること」「社会主義による新中国成立の重大な歴史的意義」「新中国成立60年、特に改革開放30年の輝かしい成果」「中国の特色のある社会主義」「民族精神と時代精神」「基本的国情と現在の状況に対する政策」の6つについて宣伝教育を行う。

○顔と顔を合わせた対面方式の教育活動を幅広く展開し、特長のある大衆活動や先進的モデル活動を力を入れて展開し、豊富で多彩な文芸活動を積極的に展開する。

○事実を用い、モデルを用い、データを用い、吸引力、影響力、納得性のある教育活動を展開し、形式主義に陥ることを避け、無駄な浪費が拡大することは戒める。

 これは2009年10月1日に行われる中華人民共和国成立60周年を記念する国慶節の式典へ向けて、国内を盛り上げていこう、という趣旨の呼び掛けであるが、一方で、「第二次天安門事件」20周年にあたる2009年の春から夏へ掛けて「08憲章」に見られる民主化の動きを警戒するためのものであると思われる。「『共産党はすばらしい』というメロディーを大声で合唱しよう」などという呼び掛けを21世紀の中国人民が素直に受け入れるとは考えられないから、こういった評論が「人民日報」の1面に登場したことは、むしろ党内で民主化を進めるべきとする意見とそれに対抗する意見が戦わされていることを表していると見た方がよいのかもしれない。

 2009年10月1日の中華人民共和国成立60周年記念式典が無事に終了した後もインターネット規制は相変わらず続いているが、中国国内の新聞報道には若干の自由度が増した雰囲気が感じられる。日本での報道によれば、2010月3月2日付けの中国の13の新聞は、全人代全体会議の開催を前にして、戸籍制度を改革し、都市と農村の区別なく、人々に医療・教育・自由な転居など憲法が保障している自由・民主・平等の権利を与えるよう主張する共同社説を掲載したという。その後、この「共同社説」を掲載したことによって、各新聞の編集長が更迭された、というような報道はないことから、新聞に対する「締め付け」は2009年の春頃に比べれば少しは緩和しているように思われる。

 私はたまたた2010年4月末に北京に行ったが、北京で買った2010年4月29日号の「南方周末」(日本語表記だと「南方週末」)の評論面のコラム「方舟評論」の欄には、常連評論員の笑蜀氏による「異なる意見に寛容になることこそ、揺れ動く状況を安定させることになる」と題する評論が掲載されていた。2月に「08憲章」の主要起草者である劉暁波氏の懲役11年の有罪確定といったニュースはあったにしても、4月15日付けの「人民日報」に温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」が掲載されたことなども踏まえれば、2010年春は、一年前の2009年春頃の雰囲気とはだいぶ変わってきてるように思える。そのことが2010年4月30日夜に行われた上海万博の開幕式に「上海閥」と言われる江沢民氏、呉邦国氏、賈慶林氏は出席しなかった(温家宝総理も出席しなかったが)ことと連動しているのかどうかは、現時点ではわからない。

以上

次回「4-2-10:少数民族政策破綻の危機」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-a40e.html
へ続く。

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2010年5月11日 (火)

4-2-9(1/2):インターネット規制と「08憲章」(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第9節:インターネット規制と「08憲章」(1/2)

 改革開放政策の進展に伴って1980年代半ば、中国は外国のラジオ放送に対して掛けていた妨害電波の発信を停止した。1988年には台湾から発信される英語の短波放送すら北京で受信できるようになっていた。1980年代後半においては、中国の改革開放政策はうまく行っており、少々外国から情報が入ってきても、体制には全く影響しない、という自信が中国当局にもあったからと思われる。

 しかし、1989年6月の「第二次天安門事件」以降、状況は一変した。まず、外国から「第二次天安門事件」に対する中国当局の対応を批判するような情報をシャットアウトする必要があったからである。中国当局が最も神経を使ったのは、発達するインターネットにどのように対処するかだった。現在の経済活動においてインターネットの利用は不可欠であり、光ファイバー網の設置など、インターネット環境の整備は中国政府にとっても重要な課題だったが、一方で外国から中国当局を批判する情報がインターネット経由で入ってくるのをどう防ぐのかが重要な課題だった。

 2000年代の前半までの状況については、私も詳細には把握していないが、少なくとも2003年1月に北京に出張で行った際、私はホテルからダイヤルアップでインターネットに接続したが、特段、障壁のようなものは感じなかった。しかし、2007年2月に出張で北京へ行き、ホテルからLANケーブル経由でパソコンにつなげた時、厳然と存在するインターネット規制に私は愕然とした。まず、ニフティ社が経営するブログサイト「ココログ」(この文章を掲載しているサイト)に北京から接続できなかった。また、日本語ウィキペディアへもアクセスができなかった。

 中国当局が構築しているインターネット規制機構は、「金盾プロジェクト」と呼ばれたり、「グレート・ファイアー・ウォール・オブ・チャイナ」(中国語で「防火長城」)と呼ばれたりする。後者は、万里の長城を英語で「グレート・ウォール・オブ・チャイナ」と呼ぶことにちなむ一種の「シャレことば」である。私は2007年4月~2009年7月の二度目の北京駐在期間中、西は新疆ウィグル自治区ウルムチや青海省南寧から南は広東省深センまで、中国各地でインターネットにアクセスしたが、どの地域においても全く同じようなインターネット規制が行われていた。しかし、広東省深センのわずか数キロ南にある香港に出ると、このインターネット規制は行われていなかった。

 中国のインターネット規制は、2008年の北京オリンピックや2010年初めにグーグル社が中国大陸部における検索事業から撤退するに際して世界的に有名になったが、2010年5月現在、厳然と存在している。一番わかりやすい例が、最近話題になった中国大陸部からグーグル香港へアクセスした場合の反応である。今、中国大陸部からグーグル中国に接続すると、グーグル社の方針に従ってグーグル香港に自動的に転送されるようになっている。中国大陸部からでも、グーグル香港からあたりさわりのない単語を入力して検索しようとすると、通常通りに検索できるが、「六四天安門事件」「零八憲章」などの「敏感な語」を検索しようとすると、検索ボタンをクリックした瞬間に(検索結果のリストが出る前に)グーグル香港へのアクセスが遮断されて、検索結果のリスト自体を見ることができない(「零八憲章」(「08憲章」)については後述する)。グーグル香港以外の別のサイトは見ることができるので、インターネット接続そのものが切断されるわけではない。その後、数分間はグーグル香港自体へのアクセスができなくなる。数分経過してから再びグーグル香港へアクセスすると、アクセス可能になり、あたりさわりのない単語ならば検索できるようになる。しかし、「敏感な語」を入れて検索しようとすると再びグーグル香港へのアクセスが遮断される。

 中国のインターネット規制は、状況に応じて様々に変化する。ニフティ社のブログサイト「ココログ」へは2007年5月初め頃からアクセスが可能になり、2009年終わりか2010年初め頃に再びアクセスができなくなった(従って、今書いているこの「中国現代史概説」は中国大陸部からは見ることはできない)。日本語版ウィキペディアについては、2007年6月中旬~9月中旬頃まで一時的にアクセスできるようになり、その後アクセス制限が掛かっていたが、2008年4月初以降アクセスできるようになっている(中国語版ウィキペディアについては、一貫してアクセスできない状態が続いている)。2008年4月以降アクセスできるようになった日本語版ウィキペディアについても、「四五天安門事件」(第一次天安事件)は検索できるが、「六四天安門事件」(第二次天安門事件)にアクセスしようとするとアクセスが遮断される状態が続いていた。しかし、2008年12月1日、日本語ウィキペディアの「六四天安門事件」の項目も北京から閲覧が可能になった。こういうふうに時期によってアクセスできる範囲が変化するのはなぜなのかは、よくわからない。

 BBCの中国語サイトについては、従来アクセス禁止であったが、北京オリンピック開幕直前の2008年7月末にアクセスできるようになった。その後、BBC中国語サイト内にある掲示板については、「敏感な話題」が掲載されるとその掲示板だけアクセスできないような事態が続いていたが、2008年12月頃以降は、再びBBC中国語サイト全体にアクセスできないような状態になっている(これは、下記に述べる「08憲章」がネット上に発表されたことと関係している可能性が大きい)。

 中国のインターネット規制は、おそらくは「六四天安門事件」のような「敏感な語」をキーワード検索で引っかけて自動で規制する方法と、人海戦術による個別チェックでアクセス禁止サイトを設定する方法とを組み合わせていると思われる。例えば、ダライ・ラマ14世がアメリカ大統領に会ったりすると、その時期だけホワイトハウスやアメリカ国務省のサイトにアクセスできなくなったりする。これは、中国のインターネット規制が全て自動的な規制によるものではなく、人が個別にその時期の状況を踏まえて、アクセス制限の仕方をコントロールしていることを表している。

 インターネットだけではなく、外国の衛星テレビ放送に対する検閲規制も存在する。中国では、衛星テレビ受信装置の設置は許可制で、許可された衛星テレビ受信装置には、外国の放送は受信できないようなソフトが組み込まれているらしい。外国人が泊まるホテルやアパートメントでは、NHK国際放送やCNN、BBCなどの衛星テレビが入っているが、これらの放送は、パラボラアンテナで衛星からの電波を受信した後、ケーブルテレビで映像を配信している。北京などの沿岸部に近い都市の日本人が多く住むアパートメントでは、日本のBS放送の直接受信をやっているところもあるのでわかるのだが、ケーブルテレビ経由で配信される外国のテレビ番組は「生中継」であっても、30秒ほど時間が遅れている。チベット問題、ウィグル問題、第二次天安門事件に関すること、など中国にとって「敏感な」映像が流れる時には、NHK国際放送やCNN、BBCなどの放送は検閲により真っ黒な画面になる。北京オリンピックの前に聖火リレーが諸外国で妨害を受けていた頃には、この「検閲によるブラックアウト」が頻発した。

 NHKやCNN、BBCだけでなく、フランス語の放送、ドイツ語の放送でも「検閲ブラックアウト」が行われていたから、おそらくは英語、日本語、フランス語、ドイツ語のわかる「検閲官」が常時監視していて、問題と思われる映像が流れた場合には映像の配信をカットしているものと思われる。外国語のテレビ放送を見ている中国人は、ほとんどは外国の様子をよく知っている知識人階層だと思われ、「大多数の一般庶民」がこういった外国語のテレビ放送を見るとは思えないし、各国の言語を理解できるような人材がこのようなところで使っているのはそもそも人材の浪費だとも思われるが、中国当局としては、今でも外国衛星テレビ放送の検閲は重要だと思っているらしい。

(注)ただし、外国衛星テレビ放送に「検閲ブラックアウト」を掛けている背景には若い人(外国語を習っている学生など)に見せたくない、という配慮があるのかもしれない。ちなみに、北京の有名大学の学生寮で使える無料のインターネットでは外国のサイトへはアクセスできないようになっているとのことである(大学内には有料のインターネット・サービスもあるし、街にはインターネット・カフェもあるが、使えるお金が少ない学生が有料のインターネット・サービスを気軽に利用することはないと思われる)。

 2009年7月に新疆ウィグル自治区ウルムチで暴動が起きた時は、外国にいるウィグル人組織のリーダーであるラディア・カーディル女史が映った場面が検閲によりブラックアウトされていた。2009年7月8日の夜7時からのNHKニュースでは、同日正午のNHKニュースの一部が中国国内で検閲ブラックアウトになったことを伝えていたが、中国国内で配信されたNHK国際放送では、その「中国国内ではNHKにも検閲ブラックアウトが掛かった」というニュース自体に検閲ブラックアウトが掛かっていた(私は、ケーブル経由のNHK国際放送とNHK-BSを直接受信していたものを同時に見ていたので、どこが検閲ブラックアウトされていたのかがわかった)。

 さらに、多くの在留邦人がいる諸外国では、衛星版の日本の新聞を発行しているが、中国当局は大陸部での日本の新聞の衛星版の印刷を許可していない。従って、中国国内にいる邦人が見る日本の新聞は日本から直接持ち込んだものか、香港で印刷した衛星版を大陸部に持ち込んだものかのいずれかである。持ち込みに際しては、中国当局にとって不都合な部分は検閲切り抜きが行われている(一般に、中国人が見てもすぐわかるような写真や風刺マンガの類が検閲で引っ掛かるケースが多いようである)。

 本稿の参考資料である「トウ小平秘録」は、産経新聞社が発行している本であるが、産経新聞中国総局が取材に協力してくれた人に贈呈しようと50冊を日本から北京あてに送付したところ、中国の税関で没収されてしまった、とのことである。このため、産経新聞社では、「トウ小平秘録」の前文をインターネットに掲載して中国国内からも読めるようにしたが、現在のところ、この「トウ小平秘録」を掲載したインターネットのサイトにはアクセス制限が掛かっていないようである。そうした意味で、中国当局の情報規制は不徹底で、「抜け穴」が数多く存在している。ただ、後述するように、こうした「抜け穴だらけ」の情報規制でも、「関心があまり高くない一般人民」が受け取る情報をコントロールしている、という意味では、それ相応の効果を上げているようである。

 当局による規制にも係わらず、様々な情報はネット上を駆けめぐっている。例えば、2008年6月28日に貴州省黔南プイ族ミャオ族自治州甕安(日本語読みでは「おうあん」)県で起きた群衆による暴動事件では、暴動の状況を撮影した大量の写真がネット上にアップされた。中国では、携帯電話の契約件数が6億件を突破しており、一般大衆がカメラ付き携帯電話を持っている時代である。当局の対応に怒った群衆は、自分の目の前で起こっているできごとを携帯電話で撮影して、すぐさまネットにアップするのである。私はこの事件が起こった後、毎日のようにこの事件に関する写真がネットで見付かるかどうか調べてみた。ネットを見るたびに、先ほど見られた写真がなくなっているなど、当局が必死になってアップされた写真を削除していたことがわかった。しかし、アップされる写真の量の方が圧倒的に多かったため、事件が起きてから数日間の間は、ネット上で事件現場の写真を見ることができた(しかし、数日経つとほとんど全ての写真は削除されて見られなくなった)。

(参考URL1)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2008年7月3日付け記事
「貴州省甕安県の暴動事件の真相」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2008/07/post_ef2a.html

 また、携帯電話を使ったメールは、数が圧倒的に多いために、実態的に当局が全てを検閲することは不可能である。私が持っていた携帯電話にも「成人番組が見られます」といった明らかに違法だと思われる衛星テレビ受信装置の設置を勧める広告ジャンク・メールがしょっちゅう入っていた。従って、携帯電話メールを使ったチェーン・メールのような手法を使えば、デモの呼び掛けなどを当局側の規制が掛かる前に広げることは可能である。また、中国のネットワーカーも検閲の存在は常に意識しており、検閲で問題にされないような様々な工夫をしている。そのため、中国のネット上では、キーワード規制を避けるための工夫、例えば「中0国0共0産0党」といった表記や同音異義語を使った言い換えなどを頻繁に見掛ける。

 中国では、ネットやメールでデモへの参加を呼びかけること自体違法である。例えば、ある大学院生は、物価値上げが続くことに怒ってネット上でデモを呼びかけたところ、当局に拘束されたとのことである。

(参考URL2)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2007年8月24日付け記事
「ネットで集会を呼びかけた大学院生が拘束」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2007/08/post_2a32.html

 例え、ネットで匿名で呼び掛けを行ったとしても、インターネット・プロバイダーは中国では公安当局から要請があれば必要な個人情報は提供するので、当局が集会の呼び掛けをした人を特定して拘束することは可能である(上記、ブログの記事の場合、呼び掛けを行った大学院生は、そういった規則があることは知らず、反省していたとして、14日間の「行政拘留」処分だけで済んだとのことである)。

(注)中国には、公安当局の判断により裁判抜きで身柄を拘束できる「行政拘留」という制度がある。

 こういった中国当局によるインターネットをはじめとする各種情報ソースの規制は、情報の全てを規制するのは難しいにしても、総体的に見れば、それなりの効果は上げている。例えば、2008年2月に日本で発生した冷凍ギョウザに殺虫剤のメタミドホスが混入しているのが見付かった事件に対する中国国内における報道を見てもそれはわかる。この事件について、中国のメディアは本体の事件のそもそもの扱い方が小さかった。一方で、日本各地で冷凍ギョウザに対するチェックが行われている中、徳島県のある店で冷凍ギョウザに見付かった殺虫剤成分はその店内で行った殺虫剤の散布が原因であることがわかったという案件があったが、中国国内では、この徳島県の案件をことさらに取り上げて大々的に報道した。そのために、多くの中国の人々は「冷凍ギョウザの殺虫剤は中国国内ではなく日本国内で混入された」と思い込むようになった。この件について、中国のメディアの報道は「ウソ」を報道したわけではないけれども、報道する情報を選択することにより、中国の多くの人々の中に一定のイメージを形成することに成功したのである。おそらくは、その他の案件についても、中国当局の情報規制は、功を奏していると言ってよいと思われる。

以上

次回「4-2-9(2/2):インターネット規制と『08憲章』(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-f712.html
へ続く。

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2010年5月10日 (月)

4-2-8:「上海閥」と第二期胡錦濤政権の課題

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第8節:「上海閥」と第二期胡錦濤政権の課題

 胡錦濤総書記は、2005年9月3日の「抗日戦争・反ファシズム戦争勝利60周年記念大会」の講話において、抗日戦争期において国民党軍が果たした役割も評価する発言を行った。これは当時進められていた民進党政権下における台湾における国民党との融和方針の一貫だと思われる(この大会は、1945年9月2日に日本が降伏文書に署名してから60周年を記念して開かれた大会)。

(参考URL)「人民日報」ホームページ2005年9月3日17:32アップ記事
「胡錦濤総書記の抗日戦争勝利60周年記念大会での講話」
http://politics.people.com.cn/GB/1024/3665666.html

 「『中国問題』の内幕」(参考資料20)の中で著者の清水美和氏は、「これに対し公然と異を唱えたのは、最高指導部で思想・宣伝を担当する李長春政治局常務委員であった。」と指摘している。抗日戦争中の国民党の働きを再評価すること(国民党も日本を追い出すのに貢献したと評価すること)は、市場経済化する現在の中国において中国共産党が政権を担当していることの正当性を「抗日戦争期において外国勢力を排除したのは中国共産党である」ことに求めるという「愛国主義」と「中国共産党への支持」を同一視する発想に立った歴史教育を掲げる江沢民氏の政権の考え方に反するからである。

 「愛国主義」と「中国共産党への支持」を同一視する発想は、現在も続いている。「人民日報」2009年4月15日付け紙面では、1面下の方に論文「愛国主義を時代の光として輝かせよう」を掲載した。この論文では「愛国主義は、国を愛し、党を愛し、社会主義による統一を愛することであり、社会主義価値体系の核心と中国の特色のある社会主義を統一することであり、民族精神と時代の精神とを統一することである。」としており、「愛国主義=中国共産党を支持すること」であると主張している。この論文は、「第二次天安門事件」の運動がスタートして20周年目に当たるこの日に「愛国主義」と「中国共産党への支持」を強調することによって、「第二次天安門事件」20周年を記念する動きは許さないぞ、という党中央の意志を示した、ということができる(一方で、1年後の2010年4月15日付け「人民日報」が温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を掲載したことは、中国指導部内部において「第二次天安門事件」を回顧する動きを圧殺しようとする力に反抗する勢力もあることを示している、とも言える)。

 上に述べたように、「愛国主義=中国共産党への支持」という発想は、江沢民政権が強く打ち出した方針であり、江沢民氏をヘッドとする「上海グループ」(「上海閥」)の旗頭的思想のひとつである。しかし、インターネットが発達し、情報化された現在の中国において、こういった「愛国主義は中国共産党への支持である」といった主張に中国の人々が付いていくことは段々困難になりつつあることは明らかであり、総体的には時間が経過するにつれ、「上海閥」の根幹にあるこの考え方に対する支持は徐々に弱まりつつあると考えられている。

 「上海閥」にとって最も大きな打撃だったのは、2006年9月24日、「上海閥」のトップグループの一人と考えられていた上海市党書記の陳良宇氏が私営企業に対する不正融資の疑いで突然逮捕されたことだった。党中央政治局は、翌25日、陳良宇氏の党書記解任と党政治局委員、中央委員の職務を停止することを発表した。「『中国問題』の内幕」(参考資料20)では、これを「上海政変」と呼んでいる。

 「『中国問題』の内幕」によれば、陳良宇書記の逮捕に当たったのは、上海市の公安当局ではなく、隣の江蘇省の武装警察であったという。江蘇省の党書記は胡錦濤総書記と同じ共青団出身の李源潮氏(2010年5月現在党中央組織部長)が党書記をしていたからである。上海市公安局長は呉志明氏であったが、呉志明氏は、江沢民氏の妻の王治平氏の甥であり、上海市の公安当局を使ったのでは党書記を逮捕することはできないと考えられたからだと思われる。この事件は、現在においても、中国の地方政府においては、政府・党のトップから公安関係者までが全て一族など極めて近い人々に占められており、地方政府内部での自浄作用が全く働かないことを如実に物語っている。

 政治局常務委員ナンバー6の副総理で陳良宇氏の前任の上海市党書記の黄菊氏は、2006年初めから病気を患っており療養中だった。「『中国問題』の内幕」によれば、黄菊氏もこの事件への関連を疑われたが、2007年の党大会で引退することを約束し捜査に協力することを条件に政治局常務委員の職務に留め置くことを許された、という。なお、私としては真偽について判断する材料を全く持っていないが、「『中国問題』の内幕」では「上海疑獄についての最大のターゲットは、実は黄副首相や陳書記でさえなく、江沢民の長男、江綿恒だったようだ。」と記している。江綿恒氏は、現在、中国科学院副院長を務めている。

 さらに「上海閥」にとって痛手となったのは、2007年6月2日、江沢民氏、陳良宇氏とともに「鉄の三角形」の一角をなすとも言われていた病気療養中の黄菊政治局常務委員が死去したことである。この時、私は2回目の北京駐在を始めていたが、6月2日の朝の中央電視台のテレビのニュースでは、アナウンサーが黒いネクタイを付けて黄菊氏の死去を伝えていた。黄菊氏の葬儀は6月5日に行われた。この葬儀を伝える新聞記事では、胡錦濤総書記と江沢民氏の写真が同じ大きさで掲載されていた(中国科学院副院長の江綿恒氏は、6月3日から日本訪問を予定していた。黄菊氏の死去は、江綿恒氏の日本訪問の前日だったが、江綿恒氏は予定通り日本訪問を行い、黄菊氏の葬儀には参加しなかった)。

 黄菊氏の死去により、政治局常務委員は8名となり、「江沢民氏派」と「非江沢民派」の人数は4対4で拮抗することとなった。

 2007年10月に開かれた第17回党大会に引き続いて開かれた第17期中国共産党中央委員会第1回全体会議(第17期一中全会)で、新しい政治局常務委員が決まった。新しい政治局常務委員は、胡錦濤氏、呉邦国氏、温家宝氏、賈慶林氏、李長春氏、習近平氏、李克強氏、賀国強氏、周永康氏の9名である(李長春氏、習近平氏、賀国強氏、周永康氏の4氏は新任)。

 新任の4人のうち、習近平氏は、陳良宇氏が汚職事件で解任された後を受けて2006年9月から上海市党書記を務めていた。習近平氏は、改革開放初期、経済特区を最初に提唱した習仲勲氏の息子であることから、歴代幹部二世を意味する「太子党」と呼ばれることが多い(習仲勲氏については「第3章第5部第7節:『歴史決議』~『文革は誤りだった』との正式な自己批判」参照)。

 「太子党」は、親が築いた既得権益を引き継いでいることから、保守的な既得権益グループとみなされることも多いが、日本でも与野党双方に世襲議員がいることでもわかる通り、有力者のこどもだからという理由だけで「太子党」といった派閥グループに色分けすることは妥当ではない。そもそも習近平氏の父親の習仲勲氏は改革開放政策の功労者であり、習近平氏が父親と同じ考え方を持っているのだとすれば「保守派」に分類するのは妥当ではないし、心情的には改革開放を推進した胡耀邦氏に近い可能性もある。

 また、習近平氏が、直前に上海市党書記を務めていたころから「上海閥」に色分けする場合もあるが、江沢民氏との関係の強さは必ずしも明確ではなく、私としては習近平氏を「上海閥」に分類することには抵抗がある。

 李克強氏は、遼寧省党書記から政治局常務委員に抜擢されたが、共青団出身であり、明らかな胡錦濤派であると言われている。

 賀国強氏は、中央規律検査委員会書記を兼ね、呉官正氏の後任にあたる。ただし、呉官正氏が江沢民氏とも胡錦濤氏とも等距離にある中立の立場であるとみなされていたのに対し、賀国強氏は、賈慶林氏の後任として北京市書記になり、曾慶紅氏の後任として党中央組織部長を務めて来たことから、江沢民氏に近いと見られている。賀国強氏の後任の党中央組織部長(党内人事を取りまとめる役職)には、上記に書いたように2006年9月の上海市党書記陳良宇氏の逮捕に動いたとされる江蘇省書記だった李源潮氏(共青団派で、胡錦濤総書記に近いと言われる)が就任した。

 周永康氏は、中央政法委員会書記を兼ね、羅幹氏の後任にあたる。それまでは公安部長を務めていた。羅幹氏の配下にいたので「自然な昇進」とも言えるが、前に書いたようにそもそも羅幹氏自体が「中立」というよりは江沢民氏に近いとも言われており、一応、「公安担当の中立的な立場」にいるとは言え、内実は江沢民氏に近いのではないかと言われている。

 もし仮に習近平氏を「江沢民派」に分類するとすれば、第二期胡錦濤政権における政治局常務委員の勢力分布は以下のようになる。当初、政治局常務委員は7名になるのではないか、との観測もあったが、結局は前期と同じ9名となった。曾慶紅氏を引退させる代わりとして江沢民氏の勢力によって賀国強氏と周永康氏が押し込まれた、との見方もある。

 いろいろ見方が分かれるところであるが、習近平氏、賀国強氏、周永康氏の3人も「江沢民派」だとすれば、第17期の政治局常務委員の勢力分布は以下のようになる。

江沢民派:呉邦国氏、賈慶林氏、李長春氏、習近平氏、賀国強氏、周永康氏の6人

非江沢民派:胡錦濤氏、温家宝氏、李克強氏の3人

 注目された次世代総書記候補の習近平氏と李克強氏については、習近平氏の方が序列が上になり国家副主席にも就任したことから、2007年の第17回党大会では江沢民氏の「上海閥」が勝った、という見方をする人もいる。しかし、上に述べたように私は習近平氏を「江沢民氏派」「上海閥」に分類することは単純過ぎる、と考えている。

 江沢民氏は、多くの記念碑的大建造物を次々造り、それに自分の名前を揮毫することが多かったため、多くの人々から必ずしも快く思われておらず、2010年5月時点で83歳になっている江沢民氏の政治的影響力もさすがに弱りつつあるのではないかと見る人も多い。いずれにせよ、現在進行形の中国政界の内部を現時点で思い描くことは困難である。

 ただ、江沢民氏の影響力の低下を象徴するできごとが2008年5月に相次いで起きた。

 ひとつは胡錦濤総書記の日本訪問である。胡錦濤総書記は、日本との戦略的互恵関係を強調した。早稲田大学における講演では、胡錦濤氏は「日本軍国主義は中国に重大な災難をもたらしたが、日本人民も軍国主義により被害を強いられた」「歴史は忘れてはならないが、これを怨みに思ってはならず、歴史を教科書として未来へ向かって平和を愛し平和を維持しなければならない」と強調した。前半は江沢民氏が中央政界に登場する前の1980年代までの中国の指導者が繰り返し述べてきた日本観であり、後半は1998年の訪日時に歴史問題を強調した江沢民前主席の路線を転換したことを宣言しているのに等しかった。この胡錦濤総書記の日本訪問は、少なくとも対日政策に関しては、中国は江沢民路線を捨て去った、という宣言したものだったと言える。

 胡錦濤主席が日本へ出発した日(2008年5月6日)の人民日報の1面には「胡錦濤総書記、『人民中国』の日本の読者に謝辞を述べる」という記事と全く同じ大きさで「『江沢民文選』が出版されることになった」というニュースが載っていた。こういった「人民日報」の記事の掲載の仕方は、2008年になってもなお、「人民日報」が胡錦濤総書記と江沢民氏とのパワー・バランスに配慮していることを表していると言えるが、別の見方をすれば、胡錦濤主席の日本訪問が「江沢民路線との決別」を意味することの証拠であるとも言える。「『江沢民文選』が出版されることになった」というニュースは、江沢民氏は既に過去の人になった、と読むことも可能だからである。

 もうひとつは2008年5月12日に発生した四川大地震に対する対応である。四川大地震は2008年5月12日14:28に発生したが、地震発生1時間後には、現地の様子がまだよくわからなかったにも係わらず、胡錦濤主席は温家宝総理に現地へ飛ぶように指示を出している。この後、国家指導者は、4~5日づつ交代で四川省で救援・復旧作業の指揮に当たったが、四川省入りした指導者は、順番に、温家宝総理-胡錦濤主席-李克強副総理-温家宝総理(2回目の現地入り)であり、地震後の約1か月間、中国の人々はテレビを通じて悲惨な被災地において陣頭指揮を取るこの3人の映像を毎日見ることになった。職責として国務院総理の温家宝氏と李克強副総理が現地で指揮を取るのは当然であり、別に政治的な意味合いはなかった、と言えばそれまでだが、結果的に胡錦濤主席、温家宝総理、李克強副総理の3人が中国を動かしているとの印象を中国の人々は持ったに違いない。

 被災地の四川省に入った指導者の順番は以下の通りである。

温家宝総理
胡錦濤主席
李克強氏
温家宝総理(2回目)
呉邦邦氏(5月26日~)

 なお、このほか下記の人々が四川省に隣接する地域に入っている。

周永康氏が5月15日に甘粛省に
習近平氏が5月20日にセン西省に
賀国強氏が5月21日に重慶市に

 習近平氏は、地震発生後1週間以上経ってから四川省の隣にあるセン西省に入ったので、あまり目立たなかった。宣伝担当の李長春氏は、北京で震災報道にあたる報道機関を激励したりしているが、すぐには現地へは行かなかった。賈慶林氏に至っては、地震発生時にはたまたま東ヨーロッパ訪問中であったが、地震発生後も外国訪問を続け、地震から3日たった5月15日になってようやく「予定を切り上げて」帰国している。地震発生後1時間後の時点で四川省へ飛んだ温家宝総理との対応の違いは際立っている。

 これらの指導者たちの動きは「人民のために奉仕する胡錦濤-温家宝-李克強ライン」と「緊急時には何もできない他の国家指導者たち」を印象づけるための胡錦濤主席側の作戦、と見ることもできるが、四川大地震対応で、中国の人々の間に胡錦濤主席と温家宝総理への人々の信頼が高まったことは間違いない。ネット上では「什錦宝飯」(「五目御飯」の意味だが、「飯」は「ファン」と発音することから「胡錦濤主席と温家宝総理のファン」という意味)という言葉が流行ったりした。

 これらのことを総合すると、胡錦濤総書記が温家宝氏、李克強氏ととともに「江民沢前総書記の遺産」のグループと戦っている(少なくとも多くの人々にはそう見えている)という構図が見て取れる。「江民沢前総書記の遺産」たる「上海閥」は、「三つの代表」論と高度経済成長によって成長してきた経済界の有力者と政治権力が結びついたいわば「既得権益グループ」とかなり重なっているものと思われる。この「既得権益グループ」の基盤は、末端の地方政府において政府・党が警察・公安当局や司法当局と一体化し、地元企業と癒着している姿である。これら末端地方組織にとって、地方における報道の自由や自由選挙によって政府のトップが交代させられることが最も致命的ダメージを受けることから、これら末端地方組織が報道の自由や政治改革、司法改革の最も大きな抵抗勢力になっているものと思われる。

 一方、2008年8月に開催された北京オリンピックの開会式・閉会式では、江沢民氏は、役職的には無職であるにもかかわらず、胡錦濤主席と政治局常務委員ナンバー2で全人代常務委員会委員長の呉国邦氏との間の席次に座っていたし、2009年10月1日の中華人民共和国成立60周年を記念する国慶節の式典では、江沢民氏は胡錦濤氏と並んでカメラに写されていた。これらのできごとは、江沢民氏とそのグループが現在でも中国指導部内で大きな勢力を持っており、胡錦濤主席が権力の全てを統括できていないことを内外に示している。

 胡錦濤総書記は、政権を担当してから既に8年半以上が経過しているが、政治体制改革等については、まだ前進と言える具体的な成果を出していない。胡錦濤政権は、任期はあと2年あまりしかなく、任期中に具体的な政治体制改革の方向性が打ち出せるのはおそらく難しいだろう。現在の中国は、2008年秋に始まった世界的経済危機の中で、景気底支えのため、強力な財政出動を行って政界経済を引っ張っているのが現状であるが、政治権力による強力な財政出動は、政治権力と経済界との癒着を助長させる。政治権力と経済活動による癒着を防ぎ、人民の支持をつなぎ止めていくことができるか、が胡錦濤政権の課題である。

 そのためには、胡錦濤主席は、将来へ向けての政策ビジョンを示す必要がある。胡錦濤主席は「科学的発展観」というスローガンを掲げているが、それが何を目指し、具体的にどういった政策を採ろうとしているのかは必ずしも明確ではない。それを中国人民に明確にアピールできるかどうかが、今後の中国の動きを左右する大きな鍵になるだろうと思われる。

 2010年4月15日付けの人民日報に胡耀邦氏を偲ぶ温家宝総理の文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」が掲載された。また、2010年4月30日夜に行われた上海万博の開幕式に江沢民氏、呉邦国氏、賈慶林氏は出席しなかった(温家宝総理も出席しなかった)。これらのことが現在の中国指導部内部の勢力分布に変化があったことを表しているのかどうかは、現時点では、まだわからない。

以上

次回「4-2-9(1/2):インターネット規制と『08憲章』(1/2)」
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へ続く。

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2010年5月 9日 (日)

4-2-7:「氷点週刊」停刊事件

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第7節:「氷点週刊」停刊事件

 2002年の第16回党大会で総書記となった胡錦濤氏は、政治局常務委員を自分に近い人物で固められなかったが、もうひとつ軍をどうやって掌握するかも大きな課題だった。1989年以降、党軍事委員会主席は一貫して江沢民氏であり、軍の幹部は江沢民政権時代に任命された人々が占めていたからである。中国共産主義青年団出身の胡錦濤氏には、軍を把握できる背景がなかった。江沢民氏は、それを見越して、自分が影響力を行使できる人物をできるだけ軍の内部に任命し続けたいと考えて、2002年の第16回党大会の時点では党軍事委員会主席は退任しなかったとの考え方も可能である。

 党軍事委員会主席のポストについては、その後いろいろな攻防戦があったことが想像されるが、結局、2004年9月、第16期中国共産党中央委員会第16回全体会議(第16期六中全会)において江沢民氏は党軍事委員会主任のポストも退き、胡錦濤氏に譲った。この時、江沢民氏は既に78歳に達し、自らが設定した「任期中に73歳に到達したら引退」というルールを一期分(5年間)オーバーしていたことから、さすがにこれ以上職に留まることは難しかったものと思われる。

 江沢民氏が党軍事委員会主任を退任した後も、胡錦濤氏は江沢民前総書記の影響力と戦い続けることになる。胡錦濤氏は、1992年の第14回党大会で、トウ小平氏から「次世代の後継者候補」として指名されていたという「お墨付き」があったし、その指導力については党内でも高く評価されていたことから、2002年の第16回党大会で大きな議論を呼ぶことなく総書記に就任することができたが、政治的バックボーンはそれほど強くはなかった。出身母体の中国共産主義青年団(共青団)の関係者には理想主義的な理論派が多いが、高度経済成長を続ける中国にあっては、高尚な政治理念よりも、政治力、即ちカネを動かす力が必要だった。共青団出身者にはそういった「泥臭さ」が欠けている。それに対して、江沢民氏には総書記は辞任したとは言え、それまでの高度経済成長路線で築いてきた多くの経済界有力者との強いパイプがあった。自らがトップにいた時代に任命した軍の幹部も江沢民氏の味方だった。

 2005年4月、中国に反日運動が吹き荒れた。現在の中国では、当局が不都合であると思われる大衆運動は抑圧されるので、この反日運動は、主体が学生らの若者だったとはいうものの、当局側が「黙認していた」という意味で、中国当局の意向が反映していた、と見る見方が一般的である。客観的に言えば、この反日運動には、小泉総理の靖国参拝問題と日本の国連常任理事国入り運動に対する牽制という外交上の意味があったと思われるが、そもそも「反日愛国主義教育」は市場経済下における共産党支配を正当化させるために江沢民政権が始めたとの見方に立てば、この反日運動においては、江沢民氏を背後に持つ宣伝担当の政治局常務委員である李長春氏が主導してコントロールしていたと見ることもできる。後の行動を見れば、胡錦濤総書記は、反日一本槍の江沢民氏の路線から決別して、1980年代のような日本との密接な関係を回復したいと考えていたと思われることから、2005年に反日運動が盛り上がった時点では、胡錦濤総書記は党内で十分にリーダーシップを発揮できていなかったのだ、という見方もできる。

 このように、2005年頃でも、江沢民氏の影響力はまだまだ大きいものがあったと思われる。しかし、年齢的な問題もあり、いずれは権力は江沢民氏からやがては胡錦濤氏に移るだろうと考える見方もこの時点で既に根強いものになっていたことは間違いない。そこで、次第に江沢民氏と胡錦濤氏とを天秤に掛けながら、胡錦濤氏とも接近していく者が多くなっていく。江沢民氏の腹心といわれた曾慶紅氏もそうした一人だったと思われる。

 2005年1月、1989年の「第二次天安門事件」で失脚した趙紫陽氏が死去した。「『中国問題』の内幕」(参考資料20)によると、曾慶紅氏は趙紫陽氏が死去に立ち会ったという。趙紫陽氏の葬儀には、胡錦濤総書記は出席しなかったが、党中央の主催で、革命烈士が眠る八宝山墓地で行われ、政治局常務委員ナンバー4の賈慶林氏が参加した。1989年の「第二次天安門事件」で趙紫陽が失脚し、その代わりに江沢民氏が総書記にになったことを考えると、趙紫陽氏の扱いは極めて神経質にならざるを得ないものだったはずである。この趙紫陽氏の葬儀に関して、曾慶紅氏が江沢民氏と胡錦濤氏の間に入って調整役を果たした可能性がある。

 また、2005年11月、胡錦濤総書記は自らの元上司であり共産主義青年団の先輩でもある胡耀邦氏の生誕90周年をきっかけにして胡耀邦氏の再評価を行うことを考えていた。「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、胡錦濤総書記は2004年2月の春節(旧正月)の際、胡耀邦元総書記の自宅を訪問し、李昭夫人らに対して、胡耀邦氏生誕90周年を盛大に祝い、名誉回復すると約束したという。既にこれまで述べてきたように、胡耀邦氏は1986年暮れの学生運動に同情的だったとして総書記を解任され、その死が1989年の「第二次天安門事件」のきっかけとなった人物である。胡耀邦氏の名誉回復は「第二次天安門事件」の再評価に繋がり、「第二次天安門事件」の再評価は、その武力弾圧をきっかけにして総書記に抜擢された江沢民氏の否定に繋がりかねない。「トウ小平秘録」によると、胡錦濤総書記による胡耀邦氏の名誉回復の動きを江沢民氏は厳しく批判したという。

 結局、2005年11月の胡耀邦氏生誕90周年には「記念大会」は開催されず、規模を縮小して「記念座談会」が開催された。この「胡耀邦氏生誕90周年記念座談会」には胡錦濤総書記は出席せず、座談会は曾慶紅氏が主宰した。「トウ小平秘録」によると、曾慶紅氏は、2004年9月の時点で江沢民氏の党軍事委員会主席の続投に賛成しなかったのだという。曾慶紅氏は2007年の第17回党大会直後の第17期一中全会で政治局常務委員に再任されなかった。表面上は年齢上の理由によるとされているが、もしかするとこういった曾慶紅氏の動きに対する江沢民氏側からの反発があったためかもしれない。

 翌2006年になると、指導部内部の対立が原因と見られる事件が発生する。日刊の中国青年報に週一回掲載される評論特集「氷点週刊」の停刊事件である。中国青年報は、中国共産主義青年団(共青団)の機関紙である。ことの発端は、2006年1月13日付けの「氷点週刊」に中山大学の袁偉時教授による「現代化と歴史教科書」という論文が掲載されたことであった。この論文では、従来、中国の歴史教科書で「反帝国主義の愛国運動」と評価されている1900年の義和団事件(「第2章第1部第2節:義和団事件」参照)について、多くの外国人らを殺害した事実等をあげて、この事件は反動的で反文明的なものであった、と指摘していた。そして、この論文では「反右派闘争、大躍進、文化大革命の三大災難を経て人々が沈痛に目覚めたのは『われわれが狼の乳を飲んで育った』ことにある点だ。」「中学歴史教科書を見て大いに驚いたのは青少年がいまだに狼の乳を飲み続けていることだ。」と指摘していた(「『中国問題』の内幕」)。

 中国共産党中央宣伝部は、この論文を問題視し、「氷点週刊」を停刊にした上、編集長の李大同氏を解任した。

 義和団事件が「反帝国主義の愛国運動」ではなく、反動的な側面もある、という指摘は、現在の中国の歴史学会の中にある見解のひとつであり、違和感のある見解ではない。義和団運動が「扶清滅洋」(清を助けて西洋を滅亡させる)というスローガンを掲げ、西太后が支配していた当時の清朝政府を擁護する立場に立っていたからである。

 特に、1999年に新興宗教集団「法輪功」のグループが中国共産党に反対するグループであるとして非合法化されて以降、義和団も当時の新興宗教が民衆を「惑わせた」という側面もある、との指摘もあり、義和団事件を「反帝国的の愛国運動」として一方的に持ち上げるのは正しくない、もっと客観的に評価すべきだ、というのは、現在の中国の歴史学会では、むしろ定説となっていた(「第2章第1部第2節:【コラム:新興宗教に基づく民衆運動に対する評価の変化】参照)。従って、「氷点週刊」に掲載された袁偉時教授の論文は、現在の中国の歴史学界の見解を逸脱しているものではなく、ましてや排撃されるような性質のものではない。また、袁偉時教授の論文の中に「反右派闘争、大躍進、文化大革命の三大災難を経て」との表現があるが、これらの3つが「災難」であったことは、既に改革開放政策を確定させた1981年6月の「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」で指摘されていることであり、論文のこの部分が党の方針に反するものである、というわけでもない。

 とすると、党宣伝部がこの論文を問題視したのは、この論文が歴史教科書を批判し「愛国主義歴史教育」を批判しているからだ、と思われる。これまで何回も述べたように、「愛国主義歴史教育」は、江沢民政権が経済政策が市場経済を大幅に容認していく中で「なぜ中国共産党のみが政権を担っていることが正当化できるのか」の根拠を「抗日戦争等の革命期を通じて、中国共産党による指導があってこそ、外国勢力を撃退し、中国を植民地的支配から救った」という歴史的事実に求め、それを人々に納得させるために始めたものである。つまり「愛国主義歴史教育」批判は、江沢民政権の政策を批判することにほかならないのである。

 この「氷点週刊」停刊事件は、袁偉時教授の論文がひとつのきっかけになったものの、伏線があったと言われている。袁偉時教授の論文が掲載される1か月前の2005年12月7日付けの「氷点週刊」が、胡耀邦元総書記の生誕90周年を記念して、胡耀邦氏の後継者として中国共産主義青年団の第一書記を務め1980年代に政治局常務委員になり1989年の天安門事件で失脚した胡啓立氏が書いた追悼文「わが心の中の胡耀邦」(原題:「我心中的耀邦」)を掲載したことを党宣伝部が快く思っていなかったことが伏線になっていた、というのである。胡耀邦氏-胡啓立氏-胡錦濤氏は、それぞれ歴代の中国共産主義青年団の第一書記であった(同じ「胡」姓ではあるが親戚関係ではない)。胡錦濤総書記は、胡耀邦氏、胡啓立氏を先輩として尊敬していた。胡啓立氏が書いた追悼文「わが心の中の胡耀邦」を党宣伝部が快く思わなかった、ということは、党の宣伝部が党総書記の考え方を快く思わなかった、ということを意味している。

 この「氷点週刊」事件は、停刊と編集長の解任だけで終わらなかった。それまでの中国では前代未聞のことであるが、「氷点週刊」の編集長を解任された李大同氏は、そのまま沈黙することをせず、内外にメールで実情を報告するとともに、外国メディアの取材にも応じ、ついには日中対訳本「『氷点』停刊の舞台裏」(三潴正道監訳、而立会訳;日本僑報社)を刊行して内幕を暴露した(「『中国問題』の内幕」による)。李大同氏は、1989年の「第二次天安門事件」の時は「中国青年報」の記者だったが、1989年5月9日に出されたジャーナリスト1000人による政府との対話要求に署名した一人だった(「第4章第1部第9節:「第二次天安門事件」参照)。李大同氏の一連の行動は、自らのジャーナリストとしての信念に基づくものであると思われるが、現在の中国においては、党宣伝部による処分を批判する本を(国外における出版とは言え)出版するというようなことは、党内の一定の勢力の支持がなけれができない行動である。この「『氷点』停刊の舞台裏」は、日本で出版されたとは言え、「日中対訳本」という形式を採っており、中国国内の人々に読んで欲しいと考えて出版されたことは明らかである。

 「氷点週刊」は編集長を交代させた後、停刊2か月後の3月に問題となった袁偉時教授の論文を批判する内容の論文を掲載して復刊した。「『氷点』停刊の舞台裏」によれば、復刊を指示したのは「最高指導者」であったという。「『氷点』停刊の舞台裏」では実名を掲載することをはばかっているが、「最高指導者」が胡錦濤氏を指すことは明らかである。「『氷点』停刊の舞台裏」では、停刊を指示したのは劉雲山中央宣伝部長と共青団を指導する王兆国政治局員であったと実名を掲げている。これを紹介した「『中国問題』の内幕」(参考資料20)の中で著者の清水美和氏は、ここまで実名を掲げるのは大胆だとしながらも、実はこの二人の実名を上げたのは、彼らの上に立つ政治局常務委員の名を挙げ、国家指導部内部での対立を表に曝すことを避けたからではないか、と推測している。中央宣伝部の上にいる宣伝担当の政治局常務委員とは、即ち李長春氏である。

 この問題は、胡耀邦氏の再評価、ひいては「第二次天安門事件」の再評価に係わる問題である。これら一連の動きを見れば、胡錦濤総書記が胡耀邦氏の名誉回復と最終的には「第二次天安門事件の再評価」(学生らの行動は正しかった、とまではいかなくても、武力に鎮圧は誤りだった、とする再評価)を考えていることは間違いない。しかし、「第二次天安門事件」の再評価は、江沢民前総書記が就任した根拠を否定することであり、江沢民氏が率いる「上海閥」(上海グループ)との全面戦争を意味する。

 胡耀邦氏の再評価問題は、2010年4月15日付けの人民日報に温家宝氏が現職総理としては異例の寄稿「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を掲載したことでわかるように、現在に直結している問題である(第4章第1部第9節:【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】参照)。

以上

次回「4-2-8:『上海閥』と第二期胡錦濤政権の課題」
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へ続く。

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2010年5月 8日 (土)

4-2-6:第一期胡錦濤政権の勢力分布

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第6節:第一期胡錦濤政権の勢力分布

 2002年11月の第16回中国共産党全国代表大会で、江沢民総書記が退任し、後任の総書記として胡錦濤氏が就任した。この党大会直後に行われた第16期中国共産党中央委員会第1回全体会議(第16期一中全会)で、政権の中枢を握る中国共産党中央政治局常務委員に任命されたのは、胡錦濤氏、呉邦国氏、温家宝氏、賈慶林氏、曾慶紅氏、黄菊氏、呉官正氏、李長春氏、羅幹氏の9名であった。

 胡錦濤氏(現在の総書記(党のトップ)・国家主席)は、清華大学水利工学部出身で、大学卒業後、内陸部のダム工事の現場における党組織で働いていた。その過程で中国共産主義青年団(共青団)に入り、1980年代胡耀邦総書記の下で共青団第一書記を勤めていた。その後、貴州省とチベット自治区という中国の中でも最も貧困で少数民族問題を抱える難しい地区の書記を務め、1992年にトウ小平氏に抜擢されて政治局常務委員となった。中央政治局委員を経ずに地方政府(チベット自治区)党書記からいきなり政治局常務委員に抜擢されたことで、当時から「次世代の総書記候補」と見られていた(同様に、2007年の第17回党大会で、上海市党書記から抜擢された習近平氏、遼寧省党書記から抜擢された李克強氏も、中央政治局委員を飛ばしていきなり政治局常務委員になっており、一般には、この二人が胡錦濤氏の次の世代の総書記候補である、と言われている)。

 呉邦国氏(現在の政治局常務委員ナンバー2;全国人民代表大会常務委員会委員長)は、清華大学無線電機電子学部を卒業した後、上海市の電子部品企業の中で企業の中国共産党組織の中で頭角を現した人物である。その関係で、1980年代前半、電子工業部長を勤めていた江沢民氏とも関係が深く、江沢民氏が上海市長と上海市党書記を務めていた1980年代後半から1990年代初頭に掛けて上海市党副書記を務め、1989年の「第二次天安門事件」で江沢民氏が中央の党総書記にいきなり抜擢された後に上海市党書記を勤めた朱鎔基氏の後任として上海市党書記となった。その後、1992年に中央政治局委員になっているが、経歴を見れば、江沢民氏の後押しがあったことは明らかである。

 温家宝氏(現在の政治局常務委員ナンバー3;国務院総理)は、北京地質学院大学院の卒業で、1980年代から国務院の地質鉱産部を皮切りにして、中央省庁で頭角を現してきた官僚出身の政治家である。1989年の「第二次天安門事件」の時には、党中央弁公庁主任(中国共産党事務局のトップ)として趙紫陽総書記や李鵬総理とともにハンストを行う学生らの前に現れたことは前に述べた(「第4章第1部第9節:『第二次天安門事件』」参照)。温家宝氏は、経歴上、江沢民氏との接点はない。一方、胡錦濤氏とも過去の経歴からすると接点はなかった。

 賈慶林氏(現在の政治局常務委員ナンバー4;中国政治協商会議主席)は、河北工学院を卒業後、機械関係の企業の中の党組織で頭角を現し、1990年に福建省長、その後福建省の党書記となった。「参考資料20:『中国問題』の内幕」によれば、江沢民氏は賈慶林氏夫妻の仲人を務めたとのことであり、個人的に江沢民氏と非常に近い関係にあるらしい。私は真相は知らないが、「『中国問題』の内幕」によれば、賈慶林氏は福建省時代にある密輸事件で政治責任を問われたが、江沢民氏の力により北京市長・党書記に抜擢された、とのことである。その後、北京市のトップとして江沢民氏肝入りの国家大劇院や中華世紀壇(北京市西部、軍事博物館の北側、メディアセンターの前にある奇抜な格好をした建築物)といった「記念碑的事業」を強力にバックアップした、とのことである。従って、江沢民氏との関係は深いと見るのが一般的である。

 曾慶紅氏(2007年の第17回党大会で政治局常務委員を退任)は、江沢民氏が上海市長と上海党書記をしていた時の直属の部下で、1989年の「第二次天安門事件」の際、江沢民氏が総書記として中央に呼ばれた時に江沢民氏と一緒に北京政界入りした江沢民氏の腹心である。「第二次天安門事件」の際、死去した胡耀邦氏を追悼する座談会を開催し胡耀邦氏の功績を評価する内容の記事を載せた「世界経済導報」を発行停止にさせたときに上海市党委員会宣伝担当副書記が曾慶紅氏であった(「第4章第1部第9節:『第二次天安門事件』」参照)。江沢民氏が総書記に抜擢された時、曾慶紅氏が一緒に中央政界に進出できたのも、この功績があったからだと考えられている。

 しかし、下記に述べるように、曾慶紅氏は江沢民氏が総書記を退任した後、次第に江沢民氏と一定の距離を保ち、胡錦濤氏とも接近して、この2人の間を取り持つ役割を果たしていたようである。そのため、第一期(2002年から2007年まで)の胡錦濤政権は、胡錦濤氏と温家宝氏に曾慶紅氏を加えた3人が中心となって運営されていた、という見方もあった。2002年の第16回党大会の直前に書かれた「参考資料22:中国 第三の革命」の中で、著者の朱建栄氏は、胡錦濤氏、温家宝氏とともにこの曾慶紅氏を次の世代を担う重要人物として掲げていた。

 しかし、曾慶紅氏は2007年の第17回党大会で政治局常務委員に再任されなかった。表向きの理由は、第17回党大会の時既に68歳であり、任期(5年間)を終えるときには73歳になる、という理由であった。

 「参考資料20:『中国問題』の内幕」によれば、「68歳定年制」は、1997年の党大会において1980年代後半から党政治局常務委員で江沢民氏のライバル的存在だった全人代常務委員会委員長の喬石氏(1924年12月生まれで、1998年3月までの全人代常務委員会委員長の任期中に73歳になる))を引退させるため江沢民氏が作った「任期中に73歳になる場合は引退」というルールである。このルールを適用されて2002年の第16回党大会で当時68歳(2007年の第17回党大会までに73歳になる)李瑞環常務委員も引退させられた。李瑞環氏は、共青団出身で胡錦濤氏に近かった、と言われる。

 曾慶紅氏も、形式的には「任期中に73歳に達するような場合は再任しない」というこのルールを適用されたことになっているが、もともと江沢民氏の腹心だった曾慶紅氏が2007年に再任されなかったのは、江沢民氏から一定の距離を置き始めて胡錦濤総書記に接近するようになったため、江沢民氏から疎まれた、との見方もある。「『中国問題』の内幕」では、胡錦濤総書記が賈慶林氏を政治局常務委員として残す見返りとして江沢民氏に腹心の曾慶紅氏の引退を認めさせた、との見方を示している。

 黄菊氏は、清華大学電機工程学部卒で、上海の企業に勤務し、企業の党組織で頭角を現した。江沢民氏が上海市長をしていた時の副市長で、江沢民氏の次の上海市長となった朱鎔基氏の後の上海市長、江沢民氏の3代後(朱鎔基氏、呉邦国氏の次)の上海市党書記となった。その意味では、江沢民氏直系の人物だった。2006年初めから公式の会議を欠席することが多くなり、病気であると伝えられ、2007年6月2日に死去した。なお、黄菊氏の後任の上海市党書記が、下記に述べるように2006年9月で汚職で摘発された陳良宇氏である。

 呉官正氏は、武漢市長、江西省長、山東党書記などを勤め、1997年に中央政治局委員となり、2002年に中央規律委員会担当の政治局常務委員となった。江沢民氏、胡錦濤氏とも特段の密接な係わりはなく、中立の立場の人物として党員の腐敗防止を担当する中央規律委員会担当を任されたと言われている。2007年の第17回党大会では、年齢が69歳に達していたことから引退した。

 李長春氏(現在の政治局常務委員ナンバー5)はハルビン工業大学電機学部卒で、瀋陽市長、遼寧副省長、河南省党書記、1998年からは広東省党書記を勤めた。上海市において江沢民氏とは関係していないが、「参考資料20:『中国問題』の内幕」では、李長春氏が広東省党書記になったのは、江沢民政権に対抗して独立志向にあった広東省において、江沢民政権に反対する勢力を排除するために江沢民氏が李長春氏を広東省に送り込んだもの、としている。その意味では江沢民氏に近いとされる。下記に述べるように「氷点週刊」停刊問題では、胡錦濤と対立関係にあったとされる。2002年以降、党の宣伝担当の政治局常務委員であることから、インターネットへのアクセス制限や2005年の反日運動においても、李長春氏の意向が働いたと言われている。2009年3月末に日本政府が李長春氏を日本に招へいし1週間も滞在させたのは、そういった日本に対する見方を和らげるため、と言われている。

 羅幹氏は、1988年に国務院秘書長となり李鵬氏を支えた。その意味では「李鵬派」であり、江沢民氏とも胡錦濤氏とも等距離にあると言える(ただ、李鵬氏が保守派として江沢民政権の下で国務院総理を務めていたことを考えると、胡錦濤氏よりは江沢民氏に近いと見るのが自然であろう)。2002年の第16回党大会で司法・公安を束ねる中央政法委員会書記を兼ねる政治局常務委員となったが、2007年の第17回党大会では、年齢の関係で引退した。

 以上を総合して、江沢民氏に近い人物を「江沢民派」、それ以外を「非江沢民派」と呼べば、仮に李長春氏を「江沢民派」に分類するとすれば、第一期胡錦濤政権下の党政治局常務委員9人の勢力分布は以下の通りとなる。

江沢民派:呉邦国氏、賈慶林氏、曾慶紅氏、黄菊氏、李長春氏の5人

非江沢民派:胡錦濤氏、温家宝氏、呉官正氏、羅幹氏の4人

 ただし、上に述べたように、呉官正氏は規律担当、羅幹氏は司法・公安担当でそれぞれ「中立派」と考えられる人々であり、特に胡錦濤氏に近いわけではない。特に羅幹氏は、李鵬元総理の影響が強く、胡錦濤氏よりも江沢民氏に近かった、と考えた方がよいので「非江沢民氏派」と分類するのは適切ではないかもしれない。従って、2002年に江沢民氏が総書記を胡錦濤氏に譲った後も、党内には江沢民氏の影響力が大きく残ったと言うことができる。こうした情勢の中、温家宝氏は、経歴としては、特段、胡錦濤氏と近いわけではなかったが、胡錦濤政権発足後、「非江沢民グループ」として胡錦濤氏に協力していくことになる。

 「江沢民派」に分類した5名のうち、李長春氏については、地方政府における実績と経験が豊富であるが、他の4人については、政治的な実績によって昇進したというよりは、基本的に江沢民氏に個人的関係が近かったことよって江沢民氏によって引き上げられたと見るのが一般的である。このように江沢民氏に近かったことによってその地位を上げていったグループは「上海グループ」「上海閥」などと呼ばれるようになった。

 江沢民氏に近い人物が政治的に地位を向上させていったのと同時に、江沢民氏が「三つの代表」論を提唱し、私営企業経営者、会計士、弁護士等の高収入で資産を持った「新社会階層」を中国共産党に入党する道を開いたことは、資産を持った「新社会階層」を江沢民氏の周辺のグループに引きつけることとなった。このように、特定の人物に個人的に親しい人々が強力な政治権力を持つようになり、その人たちの周辺に多額の資産を持った人々が集まる、という状況は、ある意味ではかなり「危うい状況」である。一歩間違うと中国共産党と中国の政権を「腐敗」という泥沼に落とし込むことになりかねないからである。このことは、下記に述べるように2006年9月、上海党書記だった「上海閥」のトップグループを形成していた陳良宇氏が汚職で摘発されたことで、一気に表に出ることになる。

 なお、江沢民氏政権下で1992年から2002年まで政治局常務委員(1993年から2003年まで国務院総理)を務めた朱鎔基氏は、上海市長と上海市党書記の職に関して、いずれも江沢民氏の後任であったので江沢民氏に近いと見られがちであるが、朱鎔基氏はもともとは中央官庁の経済官僚出身であり、彼が出世したのもその政策執行能力が高いことをトウ小平氏が評価したからだと言われている。当時の中央の方針では、中央政府の省庁幹部を務めた後、地方政府の幹部に転出し、その後中央に戻ってもっと上のポストに就く、というのがひとつの出世コースだった。朱鎔基氏もその出世コースに乗っただけであって、特段、江沢民氏によって引き立てられたわけではない。朱鎔基氏は江沢民氏とは年齢も近く、朱鎔基氏は江沢民氏に対して特段恩義を感じる立場ではなかったと思われる。

 朱鎔基氏は、強引な国有企業改革で多くのリストラを行うなど、一般人民からの人気はないが、清廉潔白な政治家だった、という評判は定着している。2003年の任期終了後、全ての公職から完全に引退したことにもそれは現れている。総理引退後、大学教授にすらならなかったのは、2002年に政界を引退せずに引き続き党軍事委員会主席に留まり、政治的影響力を残そうとしていた江沢民氏の態度に怒ったためだと「参考資料20:『中国問題の内幕」の著者の清水美和氏は見ていることについては既に前節で書いた。従って、朱鎔基氏を江沢民氏の影響下に集まった「上海グループ」に入れるのは正しくない。

以上

次回「4-2-7:『氷点週刊』停刊事件」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-0bd3.html
へ続く。

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2010年5月 7日 (金)

4-2-5(2/2):江沢民総書記による「三つの代表論」の本質(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第5節:江沢民総書記による「三つの代表論」の本質(2/2)

 今まで私営企業経営者、会計士、弁護士などについて「新社会階層」という言葉を用いてきた。「新社会階層」は、別の言葉で言えば「ニューリッチ」と表現することもできる。「中国~第三の革命~」(参考資料22)の中で著者の朱建栄氏は、「ニューリッチ」層とは具体的には次のような人々を指す、と指摘している。

○一部の私営企業経営者
○外資系企業や国際機関に勤める高級職員
○不動産関係者
○一部の個人経営者
○一部の国営企業の請負人と技術を持って経営に参加している人
○有名な俳優や歌手などのスター、モデル、作家、スポーツ選手
○一部の弁護士、ブローカー、会計士
○有名な経済学者
○政府の局長クラス
○一部の違法経営者(密輸、売春)
○少数の腐敗役人

 「ニューリッチ層」、即ち「新社会階層」としてこのような人々がいると指摘することは彼らに対する具体的なイメージを描きやすい。本来は中国共産党の党員の中には上記に列記する人々のうちの下の方に掲げてある「正しくない人々」はいないはずなのであるが、かなりの数の党員が毎年摘発・処分されている現状を見れば、現実的には「正しくない人々」の範疇に入ってしまう党員も実際には相当の数いるのであろう。

 これらの人々は、基本的に中国共産党が指導する改革開放政策の受益者であり、社会の大きな変革は望んでいない。一方で、時として中国共産党の指導による様々な規制が自分たちの活動範囲の拡大希望と衝突する場合があり、そういった時には彼らは規制の修正を希望する。従って、「中国共産党はプロレタリアートの党だ」という旧来の考え方に縛られて、これらの「新社会階層」の人々の入党を拒み続ければ、「新社会階層」の人々は自らグループを形成し、中国共産党に対抗する政治勢力に成長する可能性を持っている。だから、逆に彼らを中国共産党の内部に取り込み、必要に応じて彼らの要求を踏まえた制度の修正を加えていけば、今後とも中国共産党による安定的な政権運営が可能となる。そういう考え方が、「三つの代表」論により「新社会階層」を中国共産党に入党させるようにさせた背景にある。

 一方、中国共産党の側が「門戸を開いた」とは言え、中国経済の発展により急速にその数を増す「新社会階層」の中には、共産党に入党しようとしない人々も増えてきた。これら党外の「新社会階層」を放っておくと、これも中国共産党に対する反対勢力に成り得る。そのため、共産党員ではない党外の「新社会階層」の人々の様々な政策に対する要求を吸収するシステムも必要になってくる。「新社会階層」の中国共産党への入党に門戸を開いた2002年の第16回党大会から5年が経過した2007年の頃には、党に入らない有力な「新社会階層」の人々を「人民代表」(国会議員)という形で政策決定に参画させてはどうか、という考え方が登場し始めた。それを端的に示すのが2007年6月11日付けの「人民日報」の記事である。

(参考URL)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2007年6月22日付け記事
「新しい社会階層の台頭」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2007/06/post_6737.html

※この記事の中でポイントを紹介している「人民日報」2007年6月11日付け記事「新社会階層~その影が日に日に明らかに見えてきている~」の記事そのものは、「人民日報」が最近、過去の記事については有料化を図ったため、現在は無料では閲覧できないようになっている。

 この記事では、中国共産党統一戦線部の陳喜慶副部長は、「新社会階層」の人々を適切に評価する体制を確立し、これらの階層の人々の中から党外(共産党以外の)人民代表(=国会議員)になれるような人々を養成しようとしている、と説明している。2007年10月に開催された中国共産党第17回全国代表大会の後、第11期の全国人民代表が選出されたが、新しい全国人民代表の中には、こういった方針に基づいて、中国共産党から推薦を受けて人民代表となった共産党員ではない「新社会階層」の人々が一定の数含まれているものと思われる。

 こういった「新社会階層」の人々を中国共産党の内部に取り込んだり、党員ではない「新社会階層」の人々を「人民代表」として政策決定に参画させたりすることは、「新社会階層」の人々を政策決定システムの中に取り込むことにより、中国共産党の指導による政権運営を安定化させる役割も果たすことになるが、実質的に政策を決定する人々の意見を多様化させ、従来の中国共産党の中心部にいた人々だけの意志では自由に政権運営の舵取りができなくなっていくことも意味している。

 従来から、全人代全体会議では政府が提出する最高人民法員工作報告と最高人民検察院工作報告に対しては一定の割合の反対票・棄権票が出ていたが、2009年3月に開かれた第11期全人代第2回全体会議では、最高人民法院工作報告と最高人民検察院工作報告についての反対票・棄権票は、全体の4分の1近くに達した。これは、全国人民代表の中にも、相当数、現在の政権運営のあり方に批判的な人々がいることを示している。

 2009年の全人代全体会議は、前年の14日間より5日間も短い9日間で終了した。会期が短かった理由は不明であるが、様々な意見が出て、議事が混乱することを避けるために期間を短縮したのではないか、とも考えられる。2009年4月に開催された第11期全国人民代表大会常務委員会第8回会議では、議事規則が22年ぶりに改訂され、全体会議での発言時間は10分間を超えないこと、分科会では同じ議題についての発言は最初は15分間、二回目は10分間を超えないこと、といったルールが追加で規定された。このことも第11期(任期は2008年からの5年間)に至って、全国人民代表大会常務委員会の中ですら、様々な意見が出され、議論が紛糾する事態が多くなったことを想像させる。

(注1)2009年4月24日第11期全国人民代表大会常務委員会第8回会議による修正に基づく「中華人民共和国全国人民代表大会常務委員会議事規則」については「人民日報」2009年4月25日付け紙面に掲載されている。

 第11期の全国人民代表は全部で約3,000名いるが、全国人民代表が一同に会する全体会議は毎年3月頃に1度開かれるだけなので、全体会議で選出される常務委員による会議(常務委員会)が2か月に1度程度の頻度で開催されて、法律案について議論する。実質的に法律を議論し、採択するのはこの全人代常務委員会である(注2)。全人代常務委員会委員は、せいぜい百数十名であり、以前はそのほとんどを中国共産党の「有力者」が占めていたので、たいていの法律案はそれほどもめることもなく決められていた。

(注2)正式には、中国の法律は全人代全体会議(年に1回開催される)で採択されてはじめて法律となるが、法律の中には全人代常務委員会で採択された後、全人代全体会議で議論する前に施行されるものがある。つまり、実質的には、中国においては全人代全体会議ではなく、約160名の委員からなる全人代常務委員会が立法権限を持っていると言って差し支えない。(いずれにせよ、中国の政策は、全て中国共産党が決めているのであるから、手続き上、全人代のどの会議に最終決定権限があるか、といったことはあまり意味のある話ではない)。

 現在の第11期の全人代常務委員の数は160名であるが、160名の「選びに選ばれたエリート議員たち」による議論でも、議事規則で発言時間を制限する必要に迫られるほど議論が紛糾するようになった、ということは、全国人民代表常務委員が単なる名誉職ではなく、常務委員自身が自分の意志で法律決定に参与したいと考えるようになり、その考え方も多様化してきていることを表しているものと思われる。これも「三つの代表」論に始まる「新社会階層」の意見の取り込みのひとつの結果であると考えられるが、こういった状況の変化は、もしかすると、全国人民代表大会という大枠の制度は変えないままで、実質的に全人代が実際の多くの中国人民の声を率直に反映する西側のような議会に近い性質を持つように変質していくのではないか、との期待も抱かせる。

 江沢民総書記は、2002年11月の第16回党大会で「三つの代表」論を党規約に盛り込み、「新社会階層」を中国共産党に取り込む、という従来にない改革を実行して、総書記の座を後任の胡錦濤氏に譲った。この政権交代については、中国共産党のトップが、トップ自身の死去や失脚などによらず、初めて平和的に交代したことを評価する見方が主流である。一方、江沢民氏が政権を譲る党大会で党規約に持論である「三つの代表」論を毛沢東思想、トウ小平理論に並ぶ形で盛り込んだことは、江沢民氏が総書記の座を胡錦濤氏に譲った後も党内での自らの影響力を保持しようとしたものだ、とする見方もある。

 実際、2002年11月の党大会で江沢民氏は中国共産党総書記の職は胡錦濤氏に譲ったが、軍のトップである党軍事委員会主席の職は譲らなかった。江沢民氏が党軍事委員会主席の職を胡錦濤氏に譲ったのは2年後の2004年9月の第16期中国共産党中央委員会第6回全体会議(第16期六中全会)であった。総書記と党軍事委員会主席の職の委譲が2年ずれた理由は必ずしも明らかではないが、自らの勢力を極力残そうとする江沢民氏と、できるだけ早く自分の体制を築きたいと考えていた胡錦濤氏との間での主導権争いがあった、と見るのが一般的である。「『中国問題』の内幕」(参考資料20)の中で著者の清水美和氏は、江沢民氏は2002年の党大会の時には既に76歳になっていたが、この党大会を前にして総書記留任を画策していた、とさえ書いている。

 江沢民氏の下で国務院総理を務めていた朱鎔基氏は、2003年3月の全人代で後任の温家宝氏に総理の職を譲った後、一切の公職に就かず、完全に引退した。「『中国問題』の内幕」によれば、朱鎔基氏は2001年頃までは「総理を辞めた後は母校の清華大学で教鞭を取りたい」などと言っていたが、実際は大学へも戻らず、完全に公の場から姿を消した、とのことである。著者の清水美和氏は、これは、江沢民氏が引退後も自分と自分の息の掛かった「上海グループ」(上海閥)の勢力を保持しようとしていることに対して、朱鎔基氏が不信感を持った、というより怒りを覚えたからだ、と指摘している(朱鎔基氏は、国務院総理として国有企業改革を断行し、多くの国有企業労働者のリストラを行ったため、国民的人気はないが、彼の清廉潔白な態度については、多くの人々が認めている)。

 江沢民氏は、総書記と党軍事委員会主席の職を辞して、公職を離れた後も、しばしば公の場に姿を見せている。2008年8月に行われた華国鋒元主席・元総理の葬儀など有力者の葬儀には、胡錦濤総書記に次ぐナンバー2の序列として参列している。また、2008年8月の北京オリンピックの開会式・閉会式における席次も胡錦濤主席に次いでナンバー2だった。オリンピックの開会式において、中国のテレビは胡錦濤主席に続いて、江沢民氏の映像を放映したが、海外へ向けて送られた国際映像では、江沢民氏が映っている時は入場行進する選手など別の映像が差し替えられて送られていた。2009年10月の中華人民共和国60周年を記念する式典を報じる「人民日報」の1面には、役職についていない江沢民氏の写真と国家主席で党総書記の胡錦濤氏の写真が同じ大きさで掲載されていた。中国のメディアに対する江沢民氏の影響力がまだ小さくないことを物語っている。

 2010年4月の青海省での地震に対する哀悼式への参列者の名前のリストにおいても、胡錦濤氏に続いて江沢民氏の名前が掲げられており、江沢民氏が無役の現在でもトップの「国家指導者」としての地位にあることを内外に知らしめている。

(注3)後に述べることになるが、それが故に2010年4月30日に開催された上海万博開幕式に「上海閥」のトップである江沢民氏が出席しなかったことは、中国指導部内部における権力構造の変化を表している、とする見方がある。

 江沢民氏が打ち出した「三つの代表」論について、「中国~第三の革命~」の著者である朱建栄氏は、中国共産党がプロレタリアートによる革命党から「新社会階層」をも含んだ社会の幅広い階層からなる執政党へ脱皮した、と高く評価し、これは中国における第三の革命(毛沢東による中華人民共和国の建国とトウ小平氏による改革開放に続く3つめの革命)と呼んで、今後の中国の脱皮に期待を寄せていた。「中国~第三の革命~」は2002年8月(第16回党大会の直前)に書かれた本であり、実際、その当時、そういったポジティブな捉え方をする人も多かったようである。この本の中で朱建栄氏は、中国共産党は、革命党から執政党に性質を変えたのだから、党の名称を例えば「中国社会党」というふうに変えるべきだ、といった議論すらなされていたことを紹介している。「三つの代表」論が、歴史の中において、そういったポジティブな面を持つことについては、私も否定するつもりはない。

 「三つの代表」論が提示された2001年は、中国がWTO(世界貿易機関)に加盟した年でもあり、2008年の北京オリンピックの開催が決まった年でもある。従って、この「三つの代表」論が出され、「新社会階層」が中国共産党に参加して政策決定に関与できるようになったことは、中国の新しい明るい時代の到来を期待させるのに十分なものだった。

 しかし、本稿執筆時点で振り返ってみれば、2001年以降の10年間は、「北京オリンピック」や「上海万博」の開催が実現したとは言え、必ずしも中国が新しい時代へ向けて大きく転換した期間だったとは言えなかった。

 私は、「三つの代表」論の本質は、以下のように多面的なものであると考えている。

○中国経済の発展に伴って生まれた「新社会階層」(「ニューリッチ層」とも言える階層)を中国共産党に取り込むことによって、中国共産党が真に幅広い中国人民の代表となる執政党に生まれ変わる切っ掛けとなった(朱建栄氏が言う「第三の革命」という見方)。

○勢力を増す「新社会階層」を党外に置いておいて中国共産党に対する反対勢力に成長することとを恐れた中国共産党が、彼らを党内に取り込むことによって中国共産党による政権支配の継続を目論んだものである。中国共産党は「新社会階層」に門戸を開いたものの、「新社会階層」の中には中国共産党に加わろうとしない勢力も存在した。そのため、中国共産党は、彼らを「党外の全国人民代表」として政策決定プロセスに取り込もうとしたが、その結果、全人代が中国共産党の意のままにならなくなる危険性をはらむようになった。中国共産党による政権の維持を目論んで「新社会階層」を取り込んだことが逆に従来の中国共産党中央にいた人々だけでは政権運営をコントロールできない状態にする可能性を生じさせたのである。このことは、政治的リスクを招く可能性もあるが、逆に、大きな混乱なく、中国共産党を変質させ、あるいは中国の政権制度を変質させる可能性も生じさせた。

○「三つの代表」論は、江沢民氏が、自ら提案した政策を毛沢東思想、トウ小平理論とともに政策運営指針の中枢に残すことにより、江沢民氏が総書記辞任後も自分及び自分が形成した「上海グループ」(上海閥)の影響力を維持しようと目論んだものである。江沢民氏は、自らの影響力を保持するために実態経済において力を持つ「新社会階層」の人々に擦り寄ったのである。これは権力を持つ中国共産党と経済を牛耳る資産家階層との癒着を招く危険性をはらんでいる。

 朱建栄氏は「中国~第三の革命~」の中で、2002年時点でのその後の5年間に期待されるものとして、戸籍制度改革、市長・県長(中国の「県」は「市」より小さい地方行政単位)レベルでの直接選挙の実施などを掲げているが、実際にはそのいずれも実現しなかった。2010年の時点では、戸籍制度については一部の地域で試験的に改革の試みはなされているが実際に実現するかどうかは不透明であるし、市長・県長レベルの直接選挙に至っては試みどころか検討すらなされている様子はない。

 2000年春に画期的な、革命的とも言える「三つの代表」論が提示されながら、2000年代の10年間は、中国は経済的には驚異的な急成長を続けたものの、社会制度、政治制度の面では期待されていたほどの進歩は見せなかった。そこには総書記は引退したもののまだ大きな影響力を維持している江沢民氏ら「上海グループ」(上海閥)と胡錦濤主席らのグループ(共青団派:中国共産主義青年団関係者による派閥)との力関係が拮抗しており、胡錦濤主席が具体的で明確な政策を実行できない状況が背景にあるものと思われる。

以上

次回「4-2-6:第一期胡錦濤政権の勢力分布」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-0bef.html
へ続く。

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2010年5月 6日 (木)

4-2-5(1/2):江沢民総書記による「三つの代表論」の本質(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第5節:江沢民総書記による「三つの代表論」の本質(1/2)

 国有企業の経営資金を株式化し、その一部を株式市場で売買することを認めたことは、中国国内に個人株主を生み出した。個人株主は、自らは労働せず、資本を動かすことによってその資本を拡大することができる「資本家」である。

 また、中国では土地の私有は認められていないものの、土地の「使用権」を売買することは認められるようになったため、人口増加に伴う住宅数の絶対的な不足を背景として、多くの企業が住宅建設を行うようになった。

 中国の高度経済成長に伴う住宅政策においては、日本の住宅公団のような公的機関が比較的安価な住宅を大量に建設する、という政策は採られなかった。住宅建設は、もっぱら市場原理に基づいた企業によって進められた。これは、大きな需要が見込める住宅建設を民間企業に行わせることにより経済の活性化を狙った朱鎔基氏の高度経済成長政策の一貫である。このため、特に住宅需要が大きい都市部においては、様々な企業や機関がマンション建設に投資し、中国の各都市には雨後の竹の子のようにマンションが林立するようになった。

 しかし、これらのマンションは、自分で住むというよりは、投機目的で売買行われるケースも多かったため、実際の住宅に対する需要と比較すると、利潤の小さい一般庶民が買えるような低価格の住宅よりも、利潤率の高い高級マンションや別荘が数多く建設される傾向が強かった。事業に成功したり、株で少しお金を儲けた人たちは、今度は投機目的でマンションや別荘を買うようになり、マンションや別荘の価格は急騰した。そうしたマンションや別荘を転売することにより、また巨額の富を手にする「資産家」の数が増えてきた。

 一方、市場経済の浸透に伴って、企業経営のコンサルティングを行う会計士や、法律トラブルを解決するために必要な弁護士に対する社会的需要が大きく高まったことを背景として、高度な教育を受け、高い能力を持った会計士や弁護士が多数輩出するようになった。彼らの一部も顧客の企業から多額の報酬を受け取りようになった。

 これら株や不動産で資産を増やした人、私営企業の経営者や会計士・弁護士などからなる階層は、ぞれまでの労働者・農民とは全く異なる次元のレベルで高い収入を得て、高いレベルの消費生活を送る人々であった。彼らはその数を増やすに連れて「新社会階層」と呼ばれるようになり、中国社会の中で無視できない存在になっていった。

 中国共産党は、もともとは資産を持たない労働者・農民、即ちプロレタリアート(中国語で「無産階級」)による党であるから、こういった多くの資産を持っていたり高い収入を得たりしている人々が入党することは認められなかった。しかし、現実の経済においては、こういった「新社会階層」の政治的発言力が極めて大きくなってきたことは、中国共産党にとっては大きな脅威となった。

 そこで、江沢民総書記をはじめとする中国共産党幹部は、これら「新社会階層」を中国共産党の外に放置することによって反共産党勢力に転化することを防ぐため、彼らを中国共産党の中に取り込む方法を模索するようになった。

 2000年2月、江沢民総書記は広東省を視察した際、結党以来70年以上にわたって中国共産党が人民の支持を集めてきた理由として、次の3つを指摘した。即ち、中国共産党は、(1)中国の先進的な社会生産力の発展の要求を代表し、(2)中国の先進文化の前進の方向を代表し、(3)中国の最も幅広い人民の根本的な利益を代表する存在だったからである、と指摘したのである。この考え方は、中国共産党は、過去から現在に至るまで、三つの点で中国を代表してきた、という意味で「三つの代表」論と呼ばれるようになった(江沢民総書記が広東省視察の際にこういった新しい考え方を打ち出したのは、1992年にトウ小平氏が行った「南巡講話」を形式的に真似たものだったと思われる)。

 江沢民総書記は、さらに翌年2001年7月1日の中国共産党創立80周年記念演説の中で「三つの代表」論こそが中国共産党の基礎であり、21世紀の党建設や中国の特色のある社会主義の発展における基本的な役割であると指摘した。

(参考URL1)「新華社」ホームページ「指導者活動報道特集」
「中国共産党成立80周年慶祝大会における講話」(江沢民:2001年7月1日)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2001-12/03/content_499021.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 ただし、この時点では、江沢民総書記は「労働者・農民の連盟を基礎とする人民民主主義独裁を堅持する」とも述べており、トウ小平氏が提唱した四つの基本原則の中にある「プロレタリア独裁」の旗印は降ろしていない姿勢を示していた。

 さらに、江沢民総書記は、2002年5月31日、中央党校での幹部の研修終了式典で、「三つの代表」の考え方が、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、トウ小平理論を継承して、新しい情勢に対して党や国が対応していくための強力な理論武装である、と指摘した。この後「三つの代表」論は、「三つの代表重要思想」と呼ばれ、毛沢東思想、トウ小平理論と並んで、今後の政策の基軸となる重要な考え方であるとの位置付けを与えられるようになった。

(参考URL2)「人民日報」ホームページ(人民網)日本語版
「用語:三つの代表」(2002年11月6日13:53アップ)
http://j.peopledaily.com.cn/2002/11/06/jp20021106_22956.html
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 当初は「三つの代表」論は、具体的にどういう意味を持つのか必ずしも明確ではなかったが、次第に3つの視点のうちの三番目の点、即ち「中国共産党は幅広い人民の根本的な利益を代表する」という部分が「中国共産党はプロレタリアートではない人々の利益も代表する」という形で表面化してくることになる。つまり「新社会階層」の人々を中国共産党の中に取り込むための理論がこの「三つの代表」論だったのである。

 具体的には、2002年11月8日~14日に開催された中国共産党第16回全国代表大会において党規約の改正が行われ、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、トウ小平理論と並んでこの「三つの代表重要思想」が中国共産党の行動指針であることが明記された。また、それまで党員要件としてとして規定されていた「満18歳以上の中国の労働者、農民、軍人、知識分子その他の革命分子」という規定の部分が「満18歳以上の中国の労働者、農民、軍人、知識分子及びその他の社会階層の先進分子」という表現に改正された。これにより、私営企業経営者、会計士、弁護士等からなるいわゆる「新社会階層」も中国共産党の党員となれることが明記されることになった。

(参考URL3)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「中国共産党歴代全国代表大会データ・アーカイブス」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64568/index.html

※この中から第15回党大会(1997年)で決まった党規約と第16回党大会(2002年)で決まった党規約を比較すると違いがわかる。

 「新社会階層」の人々は明らかに「プロレタリアート」(中国語では「無産階級」)ではない。トウ小平氏が1979年3月述べて以来、中国共産党による政策の最も重要な柱は「四つの基本原則」であるが、そのうちのひとつは「プロレタリア独裁」であった。「プロレタリア独裁」が原則であるのに、プレレタリアート以外の人々を共産党に入れてもよいのか。「四つの基本原則」はどうなったのか。この点について少し解説したい。

 1979年3月30日、トウ小平氏はこの時行われていた「理論会議」で、「社会主義の道」「プロレタリア独裁」「共産党による指導」「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」の4つを堅持することを主張した。これがその後の中国共産党の路線の最も重要な柱となった「四つの基本原則」である。

(注)「プロレタリア独裁」の「独裁」は、中国語では「専政」である。日本語の「独裁」という言葉は「ヒットラーによる独裁」という言葉で代表されるように特定の個人による強権的な政権運営も意味するが、共産主義用語でいう「独裁」とは、「ある特定の階級が政権運営を担当する」という意味であり、「ヒットラーにる独裁」の「独裁」とは意味が異なる。このため、日本の共産主義運動に関係する人々の中には日本語の「プロレタリア独裁」という訳語は適切ではなく「プロレタリア執政」と表現すべきだ、という人もいる。しかし、一般には、日本では「プロレタリア独裁」という言葉が定着しているので、本稿でも従来通り「独裁」という言葉を使うこととする。

(参考URL4)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「党史人物記念館」-「トウ小平記念館」-「著作選集」-「トウ小平文選第二巻」
「四つの基本原則を堅持する」(1979年3月30日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69695/4949681.html

 「第二次天安門事件」で学生らの運動が武力で鎮圧された際にも、学生らの動きの中に「四つの基本原則」を覆そうとする動きがあったことが理由とされたことでわかるように、「四つの基本原則」は、最も重要で揺るがすことのできない基本路線なのである。トウ小平氏の「四つの基本原則」の提示を受けて、第5期全国人民代表大会第5回全体会議で1982年11月4日に採択された憲法には前書きの部分に「労働者階級が指導し、労働者・農民の連盟による人民民主主義独裁、即ち実質的にはプロレタリア階級独裁を確固たるものにし発展させる。」との規定が盛り込まれた。

(参考URL5)「新華社」ホームページ「新華資料」
「中華人民共和国憲法」(第5期全国人民代表大会第5回全体会議1982年11月4日採択)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2003-01/24/content_705980.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 中華人民共和国憲法のここの部分は現在でも修正されていない。ところが「中国共産党規約」の方では、1992年10月18日に第14回党大会で採択された党規約以降「プロレタリア独裁」の文字は消えている。

(参考URL6)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「中国共産党歴代全国代表大会データ・アーカイブス」
「中国共産党規約」(中国共産党第14回全国代表大会で一部修正、1992年10月18日採択)
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64567/65446/6415682.html

 この頃(1992年春のトウ小平氏による「南巡講話」の頃)から、四つの基本原則の「プロレタリア独裁」の部分は「人民民主主義独裁」と言われるようになった。かつては、文化大革命までの革命運動によってブルジョア階級は消滅し、全ての中国人民はプロレタリアートになったのだから、「プロレタリア独裁」と「人民民主主義独裁」は実質的には同じ意味であった。しかし、1990年に上海と深センで「実験的に」とは言いながら株式市場が開設され、中国国内に「株主」即ち「資本家」が存在するようになった以上、中国人民の中にも「プロレタリアートではない人々」が発生したことは明らかであり、改革開放政策の進展に伴って「プロレタリア独裁」と「人民民主主義独裁」とはイコールではなくなったのである。

 そうした時代の変化に伴って、中国共産党は、四つの基本原則のうちのひとつ「プロレタリア独裁」をいつのまにか「人民民主主義独裁」という言葉にすり替え、その中身を実質的に変えていったのである。それにも係わらず、中国共産党は「四つの基本原則を堅持することは動揺させない」と言い続けてきた。確かに「四つの基本原則を堅持すること」は動揺していないが、基本原則のうちのひとつが大きく変わったのだから、基本政策は実は大きく変わったのである。「それでは言葉で人民を騙していることになるのではないか」との見方もあるはずだが、中国における政治スローガンはそもそもそういったもの、という認識が人民の側にもあるので、誰も気にはしていないようである。

 憲法の方は現在でも「即ち実質的にはプロレタリア独裁を確固たるものにし発展させる」という文言が残っているのに、中国共産党の規約から「プロレタリア独裁」の言葉が消えて「新社会階層」の入党も認めているということは、現在の政治の指導原理である中国共産党の方針と憲法の規定とが一致していないことを意味している。「法律の規定ではこう書いてあるのだが、実際の運用ではなんとでもなる」という中国社会の現状、即ち中国社会は「法治」ではなく「人治」であるという現状は、こういった中国共産党の方針と憲法との規定のずれ、という最も社会の根源のところから出発しているのである。おそらくはこういった根本的な「ずれ」を直さない限り、中国社会が「人治」を脱却し「法治」の社会になることは不可能であると思われる。

以上

次回「4-2-5(2/2):江沢民総書記による『三つの代表論』の本質(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-bb64.html
へ続く。

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2010年4月28日 (水)

4-2-4(2/2):国有企業改革と「世界の工場」の実現(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第4節:国有企業改革と「世界の工場」の実現(2/2)

 1997年2月にトウ小平氏が死去し、1997年7月にアジアの自由経済の拠点である香港が中国に返還された。積極的に進められる国有企業の大改革方針は、1997年9月12日~18日に開催された第15回中国共産党全国代表大会においても再確認された。香港の経済活力を最大限に活用する意味でも、大胆な市場原理の導入は、中国にとっては、もはや逆戻りできない方針であった。既に中国大陸部の経済は市場経済を導入して怒濤の如く走り始めており、トウ小平氏という改革派の統帥が死去したとしても、昔のような保守派と改革派の論争などは現実的には不可能となっており、既に経済の現実が保守派の存在を許さない状況になっていたのである。

 問題は、市場原理の大胆な導入という実際に進めている政策と、中国共産党が掲げ続ける原則「マルクス主義を指導原理とし社会主義を進めること」というタテマエとの間のギャップをどう埋めるか、であった。

 中国の株式市場では、個人投資家向けの分も中国人だけが買える株(A株)、外国人に開放されている株(B株)等があるなど、様々な規制が設けられており、その意味では、中国の株式市場は、西側の株式市場のような自由度はない。しかし、それでも企業レベルはもちろん、個人レベルでも株式の保有と売買ができるようになったことは、中国自身が国内に「資本家」が存在することを認めたことにほかならない。

 自らは労働せずに資本のやりとりだけで儲けることのできる資本家の存在を認めたことは、「労働者を搾取するもの」として資本家を排除することを目指した「社会主義の根本原理」から外れるし、マルクス主義から外れることも明らかである(「第1章第1部第1節:そもそも『社会主義』とは何を目指したものだったのか」参照)。中国は、現在でも、自国のシステムを「中国の特色のある社会主義」であると主張し、「マルクス主義を指導原理としている」と主張しているが、客観的に言えば、現在の中国の経済システムが社会主義ではなくマルクス主義に沿ったものでもないことは明らかである。多くの中国人民が中国共産党による政策運営に期待を寄せていた中華人民共和国の建国期を知らない若い世代にとっては、なぜこれだけ市場原理を導入した経済システムを運営していながら、マルクス主義を標榜して社会主義を目指す中国共産党が政権を担っており、中国共産党を批判することが許されないのか、を理解するのは困難になりつつあった。

 そこで、江沢民総書記が持ち出したのは「愛国主義教育」であった。これはもともと「第二次天安門事件」において、多くの若者たちが運動に参加したことから、当時の党の幹部が「若い世代に対する教育の仕方が間違っていた」と考えていたことから出た考え方であった。1992年10月の第14回党大会における報告において、江沢民総書記は「全国各民族人民、特に青少年の中において、党の基本路線に対する教育、愛国主義、集体主義及び社会主義思想教育、近代史、現代史の教育と国情教育をさらに一歩強化し、民族の自尊心を高め、資本主義や封建主義が思想を腐食させることを防ぎ、正確な理想と信念、価値観を樹立しなければならない。」と述べている。革命によって封建主義を否定し、抗日戦争によって民族の自立を達成したのが中国共産党であるのだからこそ、中国共産党が全てを指導することが正しいことなのだ、という主張である。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
中国共産党歴代全国代表大会の記録
「中国共産党第14回全国代表大会における江沢民総書記の報告(3)」
(1992年10月12日)
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64567/65446/4526312.html

 「愛国主義」「国情教育」といった言葉は、かつて胡耀邦氏や趙紫陽氏が総書記だった時には使われたことはなかった。さらに「民族の自尊心」と言った言葉も開放政策を進めていた1980年代にはなじみのない言葉だった。むしろ改革開放政策は「自力更生」を主張してた「文化大革命」を否定することから始まっていたことを考えると、「愛国主義」を強調し「民族の自尊心」を高く掲げることは、改革開放以前に時代を逆転させるような雰囲気さえ感じる。

 さらに江沢民総書記は、1997年9月の第15回党大会では、大胆な改革開放を打ち出したトウ小平氏の考え方を「トウ小平理論」と名付け、毛沢東思想とともにこの「トウ小平理論」を重要な思想的指導指針とすることを提唱した。

(参考URL2)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
中国共産党歴代全国代表大会の記録
「中国共産党第15回全国代表大会における江沢民総書記の報告(2)」
(1997年9月12日)
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64568/65445/4526287.html

 これは、この年の2月にトウ小平氏が死去し、抗日戦争、国共内戦から中華人民共和国の建国に実際に参画した世代がほとんどこの世を去った中で、現在進めている改革開放政策に対する求心力を保持するため、「毛沢東思想」と並ぶもう一つの柱が「トウ小平理論」であると強調したかったためと考えられる。江沢民総書記が「トウ小平理論」を打ち出したことに対して、トウ小平氏の次女で2010年現在中国科学技術協会常務副主席・党書記を務めているトウ楠氏は、「私の父は個人崇拝を否定していた。従って、父の考え方に対して父の固有名詞を付けることはやめて欲しい。我が党の指導原理は毛沢東思想だけで十分なはずだ。」という趣旨の発言をしたという。この発言は、暗に江沢民氏が「トウ小平理論」を打ち出したことに対する批判である、と多くの人に受け取られたという(「トウ小平秘録」(参考資料17))。

 「愛国主義」や「トウ小平理論」を打ち出したことは、文革時代後期からトウ小平氏の「懐刀」として改革開放思想の定着に尽力した胡耀邦氏や、四川省党書記時代「飯が食いたければ趙紫陽のところへ行け」と言われたほど改革政策の実践経験を経てきた趙紫陽氏と異なり、これといった党務や行政面での実績がないままに「第二次天安門事件」という「突発事件」によって急きょ総書記に抜擢された江沢民氏が、自分自身や自分の政策に対する求心力がないことを自覚していたことの裏返しなのではないか、と私は考えている。

 タテマエと実際とのギャップは、思想やスローガンだけの問題ではなく、多くの人々にとって、現実の生活上の問題でもあった。

 本来、社会主義社会では、農村においては農地は公有であり、農民は国から提供された農地を耕作して生活するのが原則であった。しかし、1990年代の中国の農村では、一人っ子政策を採る前の「文化大革命」の時期に生まれた膨大な人口が就労年齢に達してきており、農地が必要とする以上の多くの余剰労働力を抱えていた。一方、沿岸部には外資系製造業企業が立地して多くの労働力を必要とし、工場建設や都市化建設のため建設業界でも労働力が不足していた。このため農村部の多くの農民は「出稼ぎ」という形で沿岸にある都市部へ流れ、製造業企業や建設業で働いた。この農民による出稼ぎは「農民は農村に住む」という社会主義的な原則を無視した「やみくもな」動きだったことから、この農村部から沿岸都市部への農民労働力の移動は、当初「盲流」と呼ばれていた。中国語では労働者のことを「工人」と呼ぶことから、これら農民の出稼ぎ労働者はやがて「農民工」と呼ばれるようになった。

 「農民工」の農村から都市部への移動は、社会主義の原則の枠をはみ出るものだったが、経済成長には必要なものであったことから、中国政府はその動きを黙認した。しかし、住宅、教育等の社会制度は「タテマエ」のままであったことから、都会に働きに出た「農民工」は都市部では政府から住宅を提供されることもないし、「農民工」のこどもは都会では公立学校に入ることもできなかった。「中国共産党の理念やスローガンと実際に採用されている政策とのギャップ」は巧みな言葉を駆使して辻褄を合わせれば済むのであろうが、「農地と農民はパッケージ」という社会主義の原則と「農民工が都会で働かなければ経済が回転しない」という市場経済の現実とのギャップは、農民工の現実問題としての日々の暮らしの上に重くのしかかったのである。

 この状況は1990年代に始まり、2000年代の最初の10年が終わった現在においても、何ら解決されないまま続いている。

 こういった思想面でのギャップ、現実上の生活でのギャップがあったとしても、経済が高度成長を続け、自分の生活レベルが向上している限りは、多くの人民は政策運営に不満を言わない。逆に言えば、こうしたギャップが存在する以上、経済成長が鈍化することは、即、政権に対する批判を惹起しかねない危機をはらんでいる。従って、民主主義という政治のフィードバック・システムを持たない中国共産党の政権にとっては、大胆な市場経済の導入という選択肢を選んだ上で自らの政権を維持しようとするためには、高度経済成長路線を継続することによって人民に不満を抱かせないようにすることが至上命題となった。

 経済の弱い部分を切り捨て、市場原理、別の言葉で言えば弱肉強食の原理で経済成長を続けていくと、必然的に最先端部分と最も遅れた部分との間での格差が広がる。最も遅れた部分にいる人々からも不満が出ないようにするには、全体の経済成長を高いレベルに維持し、最も低いレベルにいる人々の生活レベルも常に向上させるようにしなければならない。最も低いレベルにいる人々の生活レベルをも向上させるような経済成長率とは中国ではGDP成長率にして8%以上と考えられているようであり、中国政府は、常に「8%以上の経済成長」を至上命題として掲げざるを得ない状況となっている。

 現実の経済成長率は、1992年~1994年まで13%以上が続いた後、1995年は10.9%、96年は10.0%、97年は9.3%だったが、98年は7.8%、99年は7.6%と8%を下回った。このため、江沢民国家主席と朱鎔基国務院総理の政権は、さらに強力に高度経済成長政策を採ることになる。1993年に一度失敗した北京オリンピックの誘致を2001年に成功させたこともそのひとつと言われているし、メーデーと国慶節の連休を7日連続の大型連休とし、地方の観光地の活性化を図ったことも高度経済成長路線のひとつと言われている。さらに、2000年代に入ってから大学の入学定員を大幅に増やしたことも、人々の大学進学熱を刺激して、家庭に眠っている資金を大学授業料として徴収し、それによって大学関連施設を建設することによる景気刺激を狙ったものだ、と指摘する人もいる。

 江沢民氏個人は、揮毫(きごう)することが好きだったようで、江沢民氏が政権を担当していた時代に建設が決まった数多くの大型建築物に江沢民氏自身が書いた文字が飾られている。そういったことも、多くの中国人民に対して、江沢民氏の政権の政策が大型建築物の建造等に見られるような「ハコモノ建設」中心の高度経済成長路線だったことを印象付ける結果となっている。毛沢東と江沢民氏を除けば、歴代の中国の国家のトップは、建物に自分の名前を揮毫して残すことはほとんどしていない。現在の胡錦濤主席の揮毫も私は見たことはない。これはトウ小平氏が個人崇拝に批判的だったことことによるものと思われる。従って、多くの建築物に江沢民氏の揮毫が残されていることは、私に江沢民氏政権の時代に1980年代の改革開放路線が失われてしまったという印象を与えている。江沢民氏の政権の時代(1989~2002年)は、経済政策としてはトウ小平氏の改革開放路線を継承しながら、「愛国主義」の推進により文化大革命期の「自力更正」の精神を引き継いでいるように見える上に、あたかも毛沢東時代のような個人崇拝が復活しているように見えるからである。。

 経済の実績を見れば、江沢民政権時代、即ち朱鎔基氏が政治局常務委員及び国務院総理として経済政策を担当した時代は、外資導入の奨励と国有企業改革をはじめとする高度経済成長政策の時代だった。その結果、経済成長率は2000年には8.6%、2001年は8.1%に回復した。その後も、江沢民政権の時代を基礎として、2002年は9.5%、2003年~2007年にはいずれも10%を越える高度経済成長が続くこととなった。

 この中国の高度経済成長は、主に安い労働賃金による労働集約・輸出型製造業によってもたらされたものである。中国の輸出額は1990年の620.9億ドルが1995年には1,487.8億ドル、2000年には2,492億ドル、2005年には7,629.5億ドルに達した。15年間で12.3倍に膨れあがったのである。また、2009年12月末現在の中国の外貨準備高は2兆3.991億ドルに達するまでになっている。2000年の頃には、中国は「世界の工場」と呼ばれるようになっていた。

(参考URL3)「中国人民銀行ホームページ」
「調査統計」-「統計データ」
http://www.pbc.gov.cn/diaochatongji/tongjishuju/

 これらの経済改革路線は、中国国内の経済構造をも変えた。従来は中国経済は国有企業・公有企業が中心であったが、現在は、国有企業・公有企業の比率は減少しつつある。具体的な数字を示すと以下の通りである。

1978年:都市部労働者数9,514万人(うち国有企業7,451万人(78.3%)、集体企業2,048万人(21.5%)、個人経営企業15万人(0.2%))、農村部労働者数3億638万人(都市対農村:23.7対76.3)

1995年:都市部労働者数1億9,040万人(うち国有企業1億1,261万人(59.1%)、集体企業3,147万人(16.5%)、株式会社・私営企業等2,415万人(12.7%)、外資系企業513万人(2.7%)、農村部労働者数4億9,025万人(都市対農村=28.0対72.0)

2007年:都市部労働者数2億9,350万人(うち国有企業6,424万人(21.9%)、集体企業718万人(2.4%)、株式会社・私営企業等1億967万人(37.4%)、外資系企業1,583万人(5.4%)、農村部労働者数4億7,640万人(都市対農村=38.1対61.9)

※1995年は国有企業の労働者数がピークだった年。この後、効率の悪い国有企業は破産させられ、国有企業で働く労働者の数は減少していく。なお、このデータのうち都市部労働者数とは都市で登録された労働者の数であり、農村に戸籍を持ち、都市部に出稼ぎに出てきている「農民工」は含まれていない。「農民工」は株式会社・私営企業等や外資系企業で多く働いていると考えられることから、国有企業・公有企業(集体企業)の比重は上記の数字より小さいものと考えられる。

 現在の胡錦濤政権は、プラスの面とマイナスの面を含めて、江沢民氏が政権を担当していた時代の遺産を引き継いで、それに対応する政策を打ち出すことを迫られている。

以上

次回「4-2-5(1/2):江沢民総書記による『三つの代表論』の本質(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-e2eb.html
へ続く。

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2010年4月27日 (火)

4-2-4(1/2):国有企業改革と「世界の工場」の実現(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第4節:国有企業改革と「世界の工場」の実現(1/2)

 「南巡講話」で示された政策が党の方針となる過程で、既に政界を引退したはずのトウ小平氏の「最高実力者」としての発言力は完全に復活していた。そうした中、1992年10月、第14回中国共産党大会が開催された。この党大会直後に開かれた第14期中国共産党中央委員会第1回全体会議(第14期一中全会)で党の幹部の人事が決められ、江沢民氏を総書記とする新しい体制が確立した。この時の人事は、トウ小平氏の意向に沿って決められたものだと言われている。

 この第14期一中全会で、経済官僚出身で改革開放路線の強力な推進者である朱鎔基氏が政治局常務委員に入った。朱鎔基氏は、トウ小平氏が李鵬氏の後任の国務院総理として想定していた人物である。私が1983年2月中国の工場近代化に協力するための代表団の一員として中国を訪問した時、歓迎宴を主催してくれたのが朱鎔基氏(当時国家経済委員会副主任)であったことは前に述べた(「第4章第1部第2節:改革開放政策下における日中協力の実態(私の経験)」参照)。朱鎔基氏は1980年代、国家経済委員会で当時急速に進められていた経済面での改革開放政策の実務を担当し、その後、江沢民氏の後継者として上海市長、上海市党書記を歴任していた。経済政策の実務に明るいことと、上海での後任者として江沢民氏としても使いやすかったことが中央に抜擢された理由であると思われる。

 ただ、朱鎔基氏は、あくまで実務官僚タイプの人物であり、将来出世したとしても、思想面で党務を統括する必要のある総書記には向かないタイプの人物だった。自分の後継者として指名していた胡耀邦氏、趙紫陽氏を自らの手で事実上解任してしまったトウ小平氏にとっては、将来の党のトップとしてリーダシップを発揮できる人物を別に指名しておくことが必要だった。

(注)朱鎔基氏は江民氏の後任として上海市長と上海市党書記を歴任しているが、これは江沢民氏の意向によるものではなく、朱鎔基氏の経済政策実行能力をトウ小平氏が高く評価していたからだ、と考えられている。従って、朱鎔基氏は江沢民氏に恩義を感じるような立場にはなく、現在の中国指導部内の勢力図の中で、朱鎔基氏を江沢民氏をヘッドとする「上海グループ(上海閥)」の中に含めるのは適切ではない、と考えるのが一般的である。

 1989年にトウ小平氏が党の総書記に抜擢した江沢民氏は、「第二次天安門事件」の際に党中央の政治局常務委員という党務の中枢のポストを経験せずに総書記に抜擢されたため、党を総括する実力については未知数の部分があった。トウ小平氏は、江沢民氏を「第二次天安門事件」により混乱した時期を乗り切るための「ピンチヒッター」として登用したつもりだったのかもしれない。トウ小平氏としては、しばらくの間は江沢民氏が総書記を務めるとしても、その後のために、党と国家をしっかりと掌握するリーダーシップを持った次世代の指導者を指名し、活躍の場を与え、「試してみる」必要があった。そこで抜擢されたのが当時チベット自治区の党書記を務めていた49歳の胡錦濤氏だった。胡錦濤氏は、チベット自治区の前は、少数民族の割合が多く経済的にも大きく遅れた貴州省の党書記を務めていた。胡錦濤氏は、チベット自治区党書記時代の1989年3月に1959年のチベット争乱30周年に当たって争乱が起きたとき、自ら先頭に立って現場に出動して事態を収拾させたことが評価されて異例の抜擢をされた、とも言われている。

 翌年1993年3月の全国人民代表大会(全人代)では、李鵬氏が国務院総理として再任された。李鵬氏は一貫して保守的な立場をとってきたが、この後、中国政府はトウ小平氏の「南巡講話」を受けて中国政府は第14回党大会で決まった方針に基づき、大胆な経済改革を進めていく。第14回党大会の後に政治局常務委員となった朱鎔基氏は、インフレ傾向が顕著になった1993年7月から1995年8月まで、自らが中国人民銀行総裁を兼務してマクロ経済の舵取りを担った。この時期、国務院総理は李鵬氏であったが、後に1998年3月の全人代で朱鎔基氏が李鵬氏の後任の国務院総理になってから表に出てくる経済面での「朱鎔基改革」は、実際は1992年の第14回党大会以降、政治局常務委員になった朱鎔基氏により、李鵬総理の下で既に始まっていた、と考えてよい。

 中国の企業は、もともとは計画経済の下で国が経営する国営企業(「全人民所有制企業」ともいう)と公営企業(地方行政組織が経営する企業で「集体所有制企業」ともいう)から成り立っていた。1978年に始まった改革開放経済により、これに加えて外国の資金を導入した合弁企業(「中外合資経営企業」)、外国から技術等の提供を得て共同で経営する企業(「中外合作経営企業」)、外国資本100%で中国国内に設立された企業(「外商独資企業」)が認められるようになった(「中外合資経営企業」「中外合作経営企業」「外商独資企業」の三つを合わせて「三資企業」と呼ぶ)。

 さらに小規模な個人商店や個人経営手工業の工場から始まって、個人が資金を提供して経営する個人経営企業や数人の個人が集まって経営する私営企業も次第に設立が認められるようになっていった。個人経営企業や私営企業は、業種や経営規模などに関して当初は様々な制限が設けられていたが、これらの企業が中国経済を活性化するのに役立つことが認識されるようになり、制限は徐々に緩められていった。

 「三資企業」や「個人経営企業」「私営企業」の利益に対しては法人所得税が課せられた。経営がうまく行き、利益が上がれば、税金を納めた後の利益については、経営者が自分の判断で利益を配分したり、次の経営に対する投資に回したりできるので、常に積極的な経営判断が行われ、これらの企業は次第に中国経済の中で活力を発揮していった。それに対して、数の上では圧倒的多数を占めていた国営企業と公営企業では、企業経営者は公務員であり、改革開放政策が始まった当初の頃は企業の利益は「上納金」として国家や地方政府などに納めていたことから、企業経営者にとって積極的な企業経営を行うインセンティブはほとんどなかった。このため国営企業・公営企業は「大釜の飯を食う」(中国語で「鉄飯碗」。鉄のお椀は、落としても割れないことから、こういう言い方をする。日本語でいう「親方日の丸」に当たる。)と呼ばれていた。中国経済が活力を得るためには、国営企業や公営企業の活性化が最大の課題であった。

 農業分野においては、1980年代前半、「人民公社」が解体され、個々の農家に農業生産の責任を負わせ、一定量の請け負い量を超えた生産物は自由に売りさばいて自分の利益にしてもよい、という「生産請負制」が農民の意欲を引き出し、農業生産を大幅に向上させることに成功していた。それに習って、国営企業や公営企業についても、次第に経営自主権が各企業の現場のトップに移譲されるようになっていった。利益についても「上納金制度」を改め、「三資企業」や「私営企業」と同じように法人所得税制度を採用し、納税した後の収益については、各企業経営者の判断により、次の時代のための投資に回すことができるようになった。さらに、1980年代後半になると、企業の外からの資金を求め、それとともに経営の合理化や効率アップのインセンティブが働くよう、国営企業や公営企業についても、経営資金の一部を調達するための株式の発行も実験的に行う試みが検討され始めた。

 しかし、国営企業や公営企業の経営資金の一部として株式の発行を認め、その株式を売り出し、中国国内に「株主」を産むことは、中国国内に「資本家」を産むことと同じであり、社会主義の原則に反する、という反対論が根強かった。国営企業や公営企業の株式発行を認めるかどうかは前節でも触れた「姓社姓資論争」(社会主義を名乗るのか、資本主義を名乗るのか)と呼ばれる保守派と改革開放派との論戦の重要なテーマであった。

 「中外合資経営企業」と「中外合作経営企業」は、外国から資本や技術を導入して国営企業・公営企業の活性化を図ろうというものであったが、1980年代も後半になると、国営企業・公営企業が「合資企業」「合作企業」という形で外国側パートナーとの協力により大幅な経営効率の向上に成功する例が多数出始めていた。外部からの出資者を経営に参加させることがよい結果を生むのであれば、出資者を外国からだけでなく国内から募ってもよいではないか、と考えるのは自然な成り行きだった。一方、中国国内においても、農村における小さな企業の経営に成功した「万元戸」と呼ばれるような農家など、企業に出資できるようなまとまった資金を持つ人々も出始めていた。こうした状況を踏まえ、トウ小平氏の持論である「まずは実験的に始めてみればよい。問題があればやめればよいのだから。」という考え方に基づき、1990年11月にまず上海で、続いて12月には深センで、証券取引所が開設され、国営企業・公営企業の資金を株式発行という形で調達することが実験的に始められた。

 前節で述べたように、1991年までは「姓社姓資論争」が戦わされており、国営企業・公営企業の株式発行は実験的な程度に留まっていた。しかし、1992年春のトウ小平氏の「南巡講話」により、改革開放派が勝利する形で「姓社姓資論争」に決着が付くと、国営企業・公営企業の改革についても、大きな弾みがつくことになる。

 1992年10月12日~18日に開催された第14回中国共産党大会における報告において、江沢民総書記は「国営企業」「公営企業」という言葉を使わずに「国有企業」「集体企業」という言葉を用いた。これは、国営企業・公営企業については、もはや国や地方政府が経営するのではなく、その資本を国や地方政府が所有はするものの、経営には口を出さず、経営の主体はあくまでも各企業の経営者に判断に任せる、ということを意味していた。国有企業、集体企業の資金の一部を株を発行することによって調達するやり方は、上記のように1990年末から実験的に開始されていたが、この1992年の第14回党大会以降、段階的に拡大していった。

 トウ小平氏は、1992年10月の党大会以降は、既に88歳を超える高齢になっていたこともあり、実質的にも政界から引退するようになった。1992年春の「南巡講話」と10月の党大会での人事決定により、既に自らが示すべき路線は敷かれた、と考えたからであろう。

 1992年にトウ小平氏の「南巡講話」により国内の路線闘争に決着が付き、改革開放路線が確定したことは、1989年の「第二次天安門事件」の後、西側諸国の中にあった中国政治の不安定さに対する警戒感を大幅に和らげた。この当時の西側各国は、自国内における人件費の高騰を背景として、生産現場の海外への移転を模索していた。特に1993年以降の日本の製造業企業では、バブル崩壊後の経済的苦境と為替レートが急激に円高に振れていたことから、生産拠点を海外に移転することが不可避の課題だった。こういった海外の企業側と、外資導入により経済発展への弾みを付けたい中国との意図は一致し、「第二次天安門事件」により一時的に頓挫していた外国から中国への投資は、1992年以降、1980年代にも増して急激に拡大した。1993年の外国企業による中国への直接投資は1988年の20倍以上に達した。

 ただし、この1993年の外国からの直接投資額はあまりにも急激な拡大だったことから、国内にインフレを招き、それ以後、外国からの投資に対しては一定のコントロールが掛けられることになる。1990年代の中国は、経済の様々な分野で急激な拡大とそれに対する引き締めが繰り返されて、経済がなかなか安定しなかったが、一方でそういった経験を積み重ねる事により、中国は次第にマクロ経済コントロールの仕方を学ぶことができた。そういった経験が2000年代に入ってからの中国の経済政策に大いに活かされている。

 「第二次天安門事件」後の1990年に3.8%にまで落ち込んだ中国のGDP成長率は、1992年には14.2%、93年は14.0%、94年には13.1%と急速に回復した。ただこれらの経済成長は、外資導入による外資系企業の活性化が中心であり、国有企業の効率化はなかなか進まなかった。外資系企業の活動が活発なのは、企業経営が市場原理に基づいているからであることは明らかである。このため、上に述べたように、中国政府は、国有企業の企業経営に市場原理を導入することを意図して、それまで実験的にごく一部に限られていた国有企業の資産の株式化を急速に進めていったのだが、国有企業の株を全て売却してしまえば、もはや社会主義とは言えなくなる。そのため、業種や経営規模によって異なるが、経営が安定している優秀な企業については、例えば、全体の3分の1の株式を国が所有し、3分の1を国が指定する機関または他の国有企業が保有し、残りの3分の1が個人投資家向けの分として株式市場で売買される、といった形を導入した。一方で、経営が思わしくなく、非効率的な国有企業は、一定の手続きに従って破産措置が取られ、従業員は解雇された。

 これらの国有企業改革については、現在、様々な評価がなされている。一部の国有企業では、経営者が市場原理を導入し、マーケットの動きを的確に捉え、マーケットの需要に沿った商品を売り出すようになり、国有企業の活性化に繋がった、とする見方もある。一方で、一部の株式を公開にしたといっても、3分の2の株式は国または国が指定する機関が保有しており、企業の人事や重要な経営上の決定権も実質的には国または株を保有する機関に握られていて、個人株主の意見が経営に反映される形態にはなっていない、という指摘も強い。また、株の大半を国有または国が指定する機関が所有する、という形態になっているものの、国または持ち株機関による国有企業の人事や経営への関与の仕方が不透明であり、実際は国または持ち株機関の中にいる特定の個人が実質的に国有企業の人事や経営をコントロールしているのではないか、との疑惑は尽きない。

 また、計画経済時代と同じように、国有企業には企業ごとに中国共産党委員会があり、また工会(労働組合)もある。国有企業の党委員会や工会が企業経営者の人事や経営方針の決定にどの程度関与しているのか、必ずしも明らかではない。このため、個人株主の権益がフェアな形で守られるのかどうか不透明である、との指摘もある。さらに、経営が思わしくない国有企業が破産措置を受けたことによりリストラされた従業員の権利が十分に守れていないのではないか、との指摘もある。

 1997年2月、トウ小平氏は93歳で死去した。7月1日には1984年に出された日英共同声明に基づき、香港が中国に返還された。トウ小平氏の香港返還の日をこの目で見たい、という希望は叶わなかったが、中国はトウ小平氏の敷いた路線の上を確実に歩んでいた。

以上

次回「4-2-4(2/2):国有企業改革と『世界の工場』の実現(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-477e.html
へ続く。

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2010年4月26日 (月)

4-2-3:トウ小平氏の最後のメッセージ~南巡講話~

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第3節:トウ小平氏の最後のメッセージ~南巡講話~

 精神的な「傷」だけではなく、「第二次天安門事件」は、ようやく離陸しつつあった中国の改革開放路線の経済に大きな挫折を与えることになった。暴力を使わないデモや座り込みを行っていた学生らに対して人民解放軍が発砲して武力でこれを鎮圧したことに対し、日本を含め、西側諸国は一斉に反発し、中国に対する経済協力の停止を決めた。従業員の安全を心配する多くの外国企業は中国からの人員の引き上げを行った。6月9日に行った首都戒厳令本部幹部への慰問における講話で、トウ小平氏は「改革開放路線はいささかも変わらない」と強調したが、突然、首都の中心部に戦車部隊が現れた事態に、多くの外国企業は中国の政治状況の不安定さを見て、当然のことながら中国への投資に慎重な態度を示すようになった。外国からの資本導入と外国企業との技術協力で成長しつつあった中国経済はここで大きな転換点を迎えたのである。

 軍による実力行使により、政治的には、共産主義の原理を主張し、公有経済の重要性を強調する保守派が主導権を握るようになった。6月23日の中国共産党第13期中央委員会第4回全体会議(第13期四中全会)で正式に趙紫陽氏の後任として総書記に就任した江沢民氏は、9月29日に行った建国40周年記念式典での講話の中で次のように述べている。

「今年、春から夏にかけて動乱と暴乱が起きた。これは、国際的な『大気候』と国内的な『小気候』が結合してもたらしたものである(注:国際的な「大気候」とはソ連・東ヨーロッパでの動きを指す)。国内外の敵対勢力がこの風波をもたらした。その目的は、中国共産党による指導をやめさせ、社会主義制度を転覆させ、中国をブルジョア階級の共和国に変え、西側資本主義大国の属国にしようとするものであった。この闘争は、四つの基本原則とブルジョア自由化との先鋭な対立であり、我々の党、国家、民族の生死存亡を賭けた闘争であり、ひとつの重大な階級闘争であった。我々はこの闘争に勝利し、百年以上にわたって無数の先人たちが戦ってきた中華民族の生存と解放のための闘争の成果と、半世紀にわたる新民主主義革命、社会主義革命の成果を守り、40年来の社会主義建設と10年来の改革開放の成果を守った。」

(参考URL1)「新華社」ホームページ「新華資料」
「中華人民共和国成立40周年記念大会での講話」(1989年9月29日:江沢民)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/23/content_2608708.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 改革開放政策の開始時、「文化大革命」は誤りだった、と認めるに際して否定した「階級闘争」という言葉が、ここへ来て復活したのである。

 江沢民氏は、この後、2002年には、資本家層も中国共産党に入ることを認めるという画期的な「三つの代表論」を展開することになる。1989年に「階級闘争に勝利した」と述べた江沢民氏と2002年に「三つの代表論」を掲げた江沢民氏が同一人物だとはとても思えない。この13年間の江沢民氏の変化については、「1989年の江沢民氏は、総書記になったばかりで党内での実権はなく、上記の講話はただ保守派が書いた原稿を読まされただけなのだ」と見るべきなのか、「江沢民氏は、時代の変化に応じて柔軟に方針を変化させたのだ」と見るべきなのか、「江沢民氏は、政治的定見がなく、その時の状況に応じて巧みに変化して対応していただけなのだ」と見るべきなのか、については、後世の歴史家が判断することになるであろう。江沢民氏は、少なくとも、迫害されようとも失脚しようとも、「打倒されても懲りない実権派」として常に「大胆に市場経済を導入すべきだ」という信念を一貫して守り通したトウ小平氏とは、全く異なるタイプの人物であることは確かである。

 11月6日、トウ小平氏は、中国共産党第13期中央委員会第5回全体会議(第13期五中全会)で、最後まで就任していた中央軍事委員会主任を退任し、全ての公職から引退した。11月13日の日中経済協会代表団との会見では「これが最後に会見する外国代表団だ」と述べて、全ての政治活動から引退することを宣言した。この時、トウ小平氏は85歳だった。胡耀邦氏は死去し、趙紫陽氏は失脚し、トウ小平氏が引退すると、党中央にはほとんど保守派しか残されていなかった。

 「第二次天安門事件」によって、西側は中国に対する経済協力を停止したが、この頃中国は、既に西側経済圏にとって重要なパートナーになっていた。また、中国は核兵器を保有する国連の常任理事国のひとつであり、中国の国際的孤立化は、国際社会を不安定化させるものだった。従って、表面上は、中国を制裁する姿勢を見せながら、世界各国は、中国の孤立化は避けるような行動に出る。アメリカのブッシュ(父親)大統領は、「第二次天安門事件」から3週間も経たない6月21日、極秘裏にトウ小平氏に対して「特使を派遣したい」旨の書簡を送り、7月1日にはスコウクロフト補佐官が極秘裏に派遣された(「トウ小平秘録」(参考資料17))。これらが極秘裏に行われたのは、対中制裁の声が高まる米国議会を刺激したくなかったからである。また、10月には「私人」という立場でニクソン元大統領が、11月にはキッシンジャー元国務長官が訪中し、中国が国際的に孤立化しないよう配慮を示した。

(注1)以前書いたように、共和党のブッシュ(父親)大統領は、同じ共和党のニクソン政権下で、米中国交正常化前に中国に置かれていた在中国アメリカ連絡事務所の二代目の所長として北京に駐在していた経験があった。

 しかし、アメリカ国内には人権問題に厳しい勢力も強かったし、反体制派の活動家の方励之夫妻が6月5日に北京のアメリカ大使館に保護を求めてきていたことから、表向きの外交上、アメリカは中国との関係改善を図ることは難しかった。そこで、中国は、日本に対して西側との関係改善の突破口となることを期待し、上に述べた日中経済協会代表団をはじめ、多くの日本の官民の代表団を招待した。そして、1989年12月6日、日本は凍結していた1989年度の対中無償助50億円を実施する交換公文に署名し、経済協力を再開した。

 私は日本の中では「親中派」に分類されるのであろうが、この日本による経済協力再開のニュースを聞いて私は「あまりに早すぎる」と憤慨したことを覚えている。まだ「第二次天安門事件」から半年しか経っていなかったからである。中国が既に日本経済にとって重要な役割を果たしていたのは事実であったが、経済のために許していいことと悪いことはあるはずだ、と私は思っていた。その当時私自身が中国関係の仕事に携わっていなかったせいもあるが、1989年以降、2007年4月に北京に再び赴任するまで、私と中国との関係は、気分的にも基本的に「切れて」いた。

 なお、この時期、米中関係が冷却化した状態の中、日本が率先して対中関係改善の意向を示したため、アメリカに行こうとして行けなかった留学生の多くが行き先を変更して日本に留学する、という現象が生じた。私は「本当はアメリカに行きたかったのだが行けなかったので日本に留学した」という1990年度日本留学組の研究者を複数知っている。

 国際的に「中国を孤立させてはならない」という動きがある中、中国は、あくまで1989年6月の武力行使は正当だったと内外に対して主張し続けた。しかし、日本による経済協力の再開があったとは言え、中国政界で保守派が主導権を握ったことと、外国企業が「チャイナ・リスク」を改めて認識した結果、中国の外国との経済関係はこの時期急速に冷え込んだ。改革開放政策がスタートした1978年以降、GDPの対前年比伸び率は高い水準を維持していた。1986年は対前年比8.8%増、1987年は11.6%増、1988年は11.3%増だった。しかし、1989年は4.1%増、1990年は3.8%増と伸び率が半分以下に落ち込んだ。トウ小平氏は改革開放政策当初「2000年のGDPを1980年の4倍にする」という目標を掲げていたが、20年間で4倍にするには平均年7.2%の成長率が必要である。1989年、1990年のレベルがその後も続けば、4倍増の目標達成は困難となる。1989年と1990年の経済指標を見て、トウ小平氏は「まずい」と思ったに違いない。

(注2)「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)の中で、趙紫陽氏は、1989年と1990年に経済成長にブレーキが掛かったのは、「第二次天安門事件」のせいではなく、1988年に起きた急激なインフレに対抗するために採られた経済的引き締め政策が効いたためだ、という経済政策の専門家らしい冷静な分析をしている。

 改革開放派のブレーンである経済学者の呉敬璉氏は、この頃(1989年~1991年)、保守派の中には「国内を壟断し始めている資産階級と党内の修正主義分子を打倒し」「第二次文化大革命を起こすべきだ」とまで主張していた人たちがいた、と指摘している(「経済観察報」2007年12月10日号)。当時の保守派と改革開放派の論争は「姓社姓資」論争(社会主義を名乗るのか、資本主義を名乗るのか、の論争、という意味)と呼ばれていた。

(参考URL2)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))の2007年12月8日付け記事
「『経済観察報』の論調」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2007/12/post_1622.html

 こうした中、1991年2月~4月、上海で発行された「解放日報」に「皇甫平」という署名入りの改革開放政策を進めるべきとする論文が連載された。「皇甫」は上海市内を流れる「黄甫江」のことであり、「平」はトウ小平氏の「平」を取ったものと推測され、この論文の後ろには既に「政界を引退した」と宣言したはずのトウ小平氏がいる、と多くの人々が推測した。呉敬璉氏は2008年9月2日付けの「経済観察報」に掲載されたインタビュー記事の中で、この「皇甫平論文」は、1991年の春節期間中にトウ小平氏が上海滞在中に上海市党書記の朱鎔基氏ら上海市幹部に語った談話を元にして周瑞金氏(「解放日報」副編集長)らが書いたものだ、と証言している。

(参考URL3)「経済観察報」2008年9月2日付け記事
「『呉市場』から『呉法治』へ(3)」
http://www.eeo.com.cn/observer/dajia/2008/09/02/112308_2.html

 このトウ小平氏の動きに対して、保守派の重鎮である陳雲氏も理論雑誌の中で保守派の論客・トウ力群氏らの論文を使って主張を展開していく。陳雲氏は、1980年代から「市場経済は公有制経済というカゴの枠の中でのみ自由に羽ばたかせなければならない」という「鳥カゴ経済論」を展開して、トウ小平氏の大胆な市場経済導入政策に反対していた。この時期(1991年)は、前回述べたようにソ連の中でエリツィン-ゴルバチョフ-ソ連共産党保守派の勢力争いが展開されていた時期であり、中国の「姓社姓資」論争も、そういったソ連での動きに大いに影響を受けていた可能性が高い。

 当時、保守派の編集長が牛耳っていた「人民日報」は、ソ連で保守派クーデターが失敗した直後の1991年9月1日号で、陳雲氏の言葉を引用した論文「徳才兼備は徳が主~幹部選抜の標準」を掲載した。幹部の選定基準としては、「徳(=思想)」と「才(=経済的能力)」の両方が大事だが、主としては「徳(=共産主義の思想)」の方が大事である、という保守派の主張を述べたものだった。一方、翌9月2日付けの人民日報では「改革・開放をさらに一歩進めよう」という社説を掲載したが、そこには党中央が批准した文章にはなかったある一文が加えられていた。加えられていたのは「改革・開放においては、『姓社姓資』を問い、社会主義の方向を堅持しなければならない。『姓社姓資』を問う目的は、公有制中心を堅持するためである。」という文章だった。保守派の「人民日報」編集長が書き加えたことは明らかだった。

 この社説は一度新華社が配信したが、党中央が批准した社説の文章が改ざんされたことを知った改革派で宣伝担当の政治局常務委員・李瑞環氏は激怒し、この部分を削除した上で、新華社に再配信させたという(「トウ小平秘録」(参考文献17))。

 1989年から1991年に掛けてのソ連・東欧における民主化の動き(風波)は、当時の中国では、北宋時代の詩人・蘇東坡になぞらえて「蘇東波」と言われていた(中国語ではソ連のことを「蘇聯」と書く)。保守派の陳雲氏は、ソ連・東欧における反社会主義的な動きを武力を使わないで社会主義を崩壊させるという意味で「和平演変」と呼んで批判していた。

 1991年9月25日の「人民日報」には、こういった保守派の主張を背景にした江沢民総書記の言葉「国際敵対勢力は1日たりともわれわれに対する和平演変をやめていない。ブルジョア自由化は彼らが進める和平演変に呼応したものだ。」を太線囲み記事として掲載した。この記事を見たトウ小平氏は、保守派の態度が西側諸国との経済的協力を困難にすることを懸念し、江沢民総書記らに対し「党の基本路線は経済建設が中心だ。反和平演変を語るのは少なくせよ。」と話したという。これを受けて江沢民総書記は直後に開かれた中央工作会議で、自分の言葉を引用した「人民日報」の記事を批判し、「私は反和平演変だけの総書記ではない」と述べたという。トウ小平氏は、こうした発言が揺れ動く江沢民氏に失望していたが、胡耀邦氏、趙紫陽氏に引き続き三代続けて総書記を辞めさせるわけにはいかないと考えていたという(「トウ小平秘録」(参考資料17))。

 年が明けた1992年の春節の時期、トウ小平氏は保守派に対する最後の反撃に出る。トウ小平氏は1月17日、列車で北京を出発し、武漢、深セン、珠海、上海などを回り経済開発の状況を視察し、各地の指導者と話をした。トウ小平氏の南方への視察は、1984年以来8年ぶりだった(1984年春のトウ小平氏の南方への視察については「第4章第1部第2節:改革開放政策下における日中協力の実態(私の経験)」参照)。沿海部の経済発展が進んだ地域を視察して、「やはり改革開放はよい」というのが講話の内容だったが、トウ小平氏は、今回の南方視察は休息が目的である、として講話を報道することを禁じた。トウ小平氏の講話の中には「改革開放に反対する人には眠ってもらうほかはない」といった保守派に対する露骨で厳しい攻撃の言葉もあった。

 トウ小平氏は深センでは工場視察をしたほか、民俗文化村を訪問するなど、幅広く活動した。「報道禁止」の指示は出していたが、香港の目と鼻の先にある深センにおいて、民俗文化村など一般客が多くいる場所への訪問を秘密裏に行うことは困難だった。1992年1月22日、香港の新聞「明報」が深センの民俗文化村を視察するトウ小平氏一行の写真を掲載した。その後、香港発のトウ小平氏の動向に関する報道が世界を駆け巡った。しかし、トウ小平氏は中国国内での報道は許さなかった。

 香港の隣にある深セン市の観光地を視察したら香港の新聞が嗅ぎつけることは始めから予想されていたことである。これは香港の新聞がスクープすることを見越したトウ小平氏の作戦だったのである。「自分は既に引退したのだから黙っている」という格好をしながら、北京にいる保守派に対して外国からの報道を通じて自分の動向と考え方に関する情報を流し、外堀を埋めようという作戦だったのである。1965年11月から1966年7月まで、劉少奇国家主席とトウ小平氏が牛耳る党中央に対し、毛沢東が北京を留守にして上海・杭州・武漢を回り、そこで述べた講話が北京に非公式に流れることによって党中央に圧力を掛けようとした時と同じ作戦、1971年夏に毛沢東が地方を回って講話を行って北京にいる林彪一派にじわじわと圧力を掛けた時と同じ作戦を、今度はトウ小平氏自身が用いたのである。

 経済発展の恩恵を受けていた深セン、珠海、上海等の沿海部の人々は改革開放を讃えるトウ小平氏の講話を歓迎していた。中国が改革開放路線を進めることによってビジネス・チャンスが増える西側各国もそれを歓迎した。2月21日、トウ小平氏は1か月以上にわたる南方視察を終え、北京に帰着した。トウ小平氏は、この時点では既に全ての公職を引退していたから、中国共産党内では形式上ただのヒラ党員でしかなかった。しかし、沿海部の人々の支持と外国からの期待を後ろ盾として、党中央は、2月28日、トウ小平氏の南方での講話を取り上げて、その要点を党の文書として各地の党組織に通達した。3月20日に始まった全国人民代表大会の冒頭、政府工作報告を行った李鵬総理は、トウ小平氏の「南巡講話」の言葉を用いて改革開放政策を推進することを宣言した。実質的にトウ小平氏が「最高実力者」に復帰したのと同じだった。

 中国共産党内にくすぶっていた保守派と改革派の争いはこれで最終的に決着した。これ以降、中国は、保守派の主張に揺れ戻ることはなく、改革開放路線一本槍で、急速な経済成長を遂げることになる。

 既に87歳になっていて、政界引退を宣言してから3年近く経っていたトウ小平氏がこの時点で(1992年春の時点で)強烈な「最後のメッセージ」を出したのには4つの理由があると思われる。

 一つ目は、1991年8月のソ連共産党保守派によるクーデターの失敗と12月のソビエト連邦の崩壊に見られるように、もはや世界は保守的なガチガチの共産主義の原理主義的主張を受け入れる時代ではなくなっており、中国人民もまるで文化大革命時代に戻るかのような保守派路線は欲していなかったことをトウ小平氏はよくわかっていたのである。トウ小平氏には、これ以上保守派の色彩を強めると、ソ連共産党と同じように中国共産党も中国人民からの支持を失うとの懸念があったと思われる。

 二つ目は、上に述べたように、保守派勢力が強くなった1989年と1990年は経済成長が鈍化したことである。中国はまだ貧しく、人民を豊かにするという目標をないがしろにすることはできないし、高い経済成長を持続させて人民を豊かにできないのであれば、共産党は人民から見放される、とトウ小平氏は考えたからと思われる。

 三つ目は、香港返還が5年後の1997年に迫っていたことである。「第二次天安門事件」以降、香港の多くの人々は北京政府の保守化に大きな懸念を持つようになり、中国への復帰を前に香港を脱出する人が増えたほか、残った住民の間でも中国への復帰に反対する運動が強まるおそれがあった。もし香港での「一国二制度」の実現に失敗すれば、「香港モデル」を使って将来台湾統一を図る、というトウ小平氏の構想は根底から崩れてしまう。だから、保守派の勢力を抑え、改革開放路線の継続を鮮明にすることによって、香港住民の中国復帰への支持を繋ぎ止めようとしたものと思われる。

 四つ目は、この年(1992年)の秋には第14回党大会の開催が予定されていたことである。トウ小平氏は、保守派と改革派の論争状態が続いたままで党大会を迎えれば、事態が混乱し、経済建設がさらに遅れるおそれがあると考えていたと思われる。また、秋の党大会で自分の意中の人物を次世代の後継者候補として指名しておくためには、「最高実力者」としての発言権を1992年春の時点で確保しておく必要がある、とも考えたのかもしれない。

 このトウ小平氏による「最後のメッセージ~南巡講話~」の作戦は成功した。「南巡講話」により「第二次天安門事件」で揺らいだ中国の改革開放政策の方針が、また確固たるものとして固まった。そして、この年の秋に開かれた第14回党大会で、保守派の李鵬総理に代わる後継者の国務院総理候補となる改革派の朱鎔基氏、江沢民氏の次の総書記候補となる胡錦濤氏が政治局常務委員入りすることになったのである。(この経緯を見れば、現在の党総書記・国家主席の胡錦濤氏は、トウ小平氏が見込んだ改革派の若手のホープだったことがわかる)。

以上

次回「4-2-4(1/2):国有企業改革と『世界の工場』の実現(1/2)」
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へ続く。

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2010年4月25日 (日)

4-2-2:「第二次天安門事件」の後遺症

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第2節:「第二次天安門事件」の後遺症

 中華人民共和国成立の前、国民党との内戦末期の1949年1月31日、人民解放軍は西から北京(当時は首都ではなかったので「北平」と呼ばれていた)に入城した。「北京三十五年」(参考資料12)の著者の日本人技師・山本市朗氏は、この時、長安街の天安門から約2km西にある西単の交差点から北へ伸びる西四大街の人ごみの中にいた。山本市朗氏は、「北京三十五年」の中で、この時の様子を次のように描写している。

「『何がはじまるんだ』と、道端のお爺さんにきくと、『今、中共軍が、西直門から入城してくるそうだから、それを見物しようと思っているのだ』といった。これは面白い、と思って、さっそく輪タクを人込ごみの中につっこんで止めて、私も道端の人々にまじって見物することにした。

 するとそのうちに、道の両側の見物の人々の間から、若い女学生たちが三々五々勝手に大通りの真ん中へとび出していって、北京の解放を祝う歌をうたいながら踊りはじめた。はじめは、それぞれの仲間同士の、ちいさなグループだけで輪を作って踊っていたが、それがだんだんと合流して、踊りの輪が大きくなり、見物人の中から、労働者らしい中年の男女たちも加わって、とうとう大通りの幅いっぱいに、厚い大きな輪を作って踊りまわった。

 彼女たちは、ほんとうに内心から溢れ出る解放の喜びを、それぞれ各人思い思いの歌と踊りにたくして力いっぱい表現した。(中略)それは、彼女たちの解放に対する喜びが、じーんと私の胸に直接伝わってくる踊りであった。そして、私は、若い人たちの国民党に対する嫌悪と、共産党に対する期待を、この踊りの中に見た。

 遠くから、ラッパの音が聞こえて、解放軍(中国共産党軍)が入城してきた(中略)。

 軍楽隊のラッパは、どれもこれもみな、ぴかぴかに磨き立てられて光っており、アメリカ製の戦車は、すっかり草色に塗り直されて、横腹には、星形の枠の中に「八・一」と赤く塗りだした解放軍の軍章が、大きく書き出されていた。」(「北京三十五年」より)

 それから40年後の1989年6月3日深夜、人民解放軍はその日もやはり西から北京市内に入ってきた。人民解放軍は、市民が作ったバリケードを次々に突破しながら天安門前広場へ向かって東へ進軍していた。西単の交差点でも多くの市民がバリケードを築いて人民解放軍の戦車の進軍を阻止しようとしていた。6月4日0時頃、共同通信記者だった伊藤正氏は西単付近にいたカメラマンから「軍が発砲した。市民はバスに火を付けて抵抗している。軍は天安門方向に向かった。」という電話を受けた(「トウ小平秘録」(参考資料17))。

 6月4日の日曜日、「第二次天安門事件」のニュースを聞いた私は耳を疑った。「人民解放軍が中国人民に対して発砲するなんてあり得ない」と思ったからである。しかし、それは事実だった。私は戒厳令の発令と人民解放軍の待機は天安門前広場に陣取る学生たちに対する「おどし」「威嚇」であり、もし仮に当局が学生たちを実力で排除することがあるのだとしても、それは警察力による排除だと思っていた。1976年の「第一次天安門事件」の時も天安門前広場に集まった大勢の市民たちを排除したのは棍棒・鉄パイプや皮ベルトを持った警察隊や民兵であり、人民解放軍は登場しなかったからである。おそらくはこの時天安門前広場に集まっていた学生や市民たちも私と同じように考えていたのではないだろうか。

 しかし、テレビのニュースでは、戦車や装甲車に先導された人民解放軍の兵士が機関銃を持って進軍し、兵士たちが「空へ向けた威嚇射撃」ではなく明らかにデモ隊を狙った水平射撃で実弾を発射している場面を映し出していた。前々節で書いたように「天安門広場の中では死者は出ていない」のは事実のようであるが、人民解放軍の戦車が出動し、人民に対して直接銃口を向け、解放軍の兵士が実弾で水平射撃を行ったこともまた事実であった。「人民解放軍が中国人民に対して発砲した」という事実は、癒すことのできない深い傷として、現在に至るまで中国を苦しめている。

 私は1989年のこの日、テレビ・ニュースを見て「時代が20年逆転した」と思った。そして、20年後の2007年4月北京に再び赴任した時、逆転した時間が実は20年以上だったことを知り愕然とした。もし1989年に逆転した時間が20年だったのだとしたら、20年経過して再び駐在員として北京に降り立った私は、1980年代と同じ雰囲気を味わったはずだからである。しかし、2007年の北京は、確かに経済発展により高層ビルは建ち並んではいたが、1980年代には次々に撤去されつつあった党と軍を支持するよう呼びかけるスローガンが街にあふれ、テレビのニュースの時間には1980年代にはあり得なかった「紅い記憶」というタイトルの中国共産党の歴史を讃えるコーナーが放送されていた。2007年は、1980年代より「古い時代」だったのである。

 逆転した時間は20年ではなかった。逆転したのは40年だったのかもしれない。いや、過去に人民解放軍が人民に対して発砲した、ということは紅軍創設以来なかったことであるから、長い時間を掛けても取り返しの付かない「逆転」が1989年6月4日に起きてしまったのかもしれない、と2007年の北京で私は思った。

 2007年4月に二度目の北京駐在を始めるに際して、「北京は20年ぶりですか。中国の発展振りにさぞ驚かれたことでしょう。」と私は何回も言われた。私はそのたびに「変わったところと変わらないところ、両方ありますね。」と寂しく微笑むしかなかった。貧しいけれども明るい未来へ向けて頑張っていこう、という若葉のような1980年代の中国は、2007年にはもはやなかったからである。

 私は、前節で述べたような1989年以降にソ連がたどった道を考えれば、トウ小平氏が1989年の学生たちの動きを放置できなかった、という理由は理解できる、と考えている。当時の中国においては、国内経済の発展と国際的な発言力の強化が最大の課題であり、当時は国内で政治論争をやっている場合ではなかった、という考え方にも一定の説得力があるからである。

 ソ連の場合、ロシア民族が数多く住む地域が「ロシア共和国」として独立・分離することは可能だったかもしれないが、中国の場合は、そういったことは不可能である。中国は、大多数を占める漢民族と他の少数民族とが、時には対立し、時には協力し融合し合いながら連綿と歴史を綴ってきた国である。そういった各民族の係わり合いがあってこそ「中国」という世界が成り立つのであり、各民族がバラバラになったのでは、もはやそれは「中国」ではなくなってしまう。漢族は確かに人口の大部分を占めているが、「ロシア共和国」のように漢族を主体とする地域だけを選んだ「共和国」というのは存立しえない。各民族が対立しながらも共存している状態こそが中国を中国たらしめているゆえんだからである。従って、政治的混乱が続き、ある特定の民族が独立を主張しはじめたら、「中国」という社会自体が消滅してしまうおそれがある。それがソ連と中国の大きな違いである。

 それは共産党が支配するかしないかの問題ではない。共産党による支配があろうがなからろうが、求心力を失い、バラバラになって混沌の政治的混乱に陥った中国は、もはや中国という社会を保つことすらできなくなってしまう。1989年の時点では、経済的にまだまだひ弱な中国においては、中国共産党が求心力となるしかない、とトウ小平氏は考えたのである。共産党政権が続くかどうか、という以前の問題として、1989年の時点では、政治的混乱をどこかで収束させなければ、中国という社会自体の維持が危ぶまれる、とトウ小平氏は考えたのだと思われる。だから、学生らの民主化要求デモは、どこかの時点で収拾させる必要があったとトウ小平氏は考えたのだと思われる。

 しかし、そのために人民解放軍の戦車部隊を投入する必要が本当にあったのか。事態を収拾しようとすればできたかもしれないタイミングと解決の手法はほかにもいくつかあったのではないのか。そういう疑問を、私は、というより当時を知るほとんどの人々は持っていると思う。

 まず、4月18日の「新華門事件」の時にうまく対応はできなかったのか。学生たちが中国共産党本部に突入しようとした「新華門事件」は、治安上、極めて大きな問題であり、この時点で警察力を投入して突入しようとした学生たちを解散させ、天安門前広場での集会を禁止することができたのではないのか(1987年1月1日に私自身が見たように、警備当局による天安門広場の占拠も可能だったのではないのか)。

 次に、4月22日に胡耀邦氏追悼大会が終わった時点で対処できなかったのか。追悼大会が終わった時点で「追悼行事はこれで終了した」ことを宣言し、天安門前広場で花輪を捧げるなどの追悼行動を禁止する、などの措置を取ることはできたのではないか。

 さらに問題だったのは、4月26日の「人民日報」に社説「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」を掲載したことである。なぜこの時点で「動乱」ということさら学生らを刺激するような言葉を使ったのか。また、もし仮に「動乱」という言葉を使う強硬路線を取るのであれば、この社説を掲載したのと同時に警察力で天安門広場の学生らを排除する動きを取るべきだったと思われるが、この時、当局は、社説を掲載したのみで、学生らを強制排除する動きは見せなかった。それはなぜなのか。北朝鮮を訪問中の趙紫陽総書記がこの時点で北京に戻らなかった理由とともに、疑問が残る。

 次のタイミングは5月3日の「五四運動70周年記念大会」での講話と5月4日のアジア開発銀行理事会出席者に対する演説において趙紫陽氏が学生らの動きに対して理解を示す姿勢を示した時である。この時、多くの学生は趙紫陽氏の演説を評価して、大学へ戻っている。天安門前広場に居残った強硬派の学生もいたが、この時点で警察力を使って残った学生らを広場から強制排除することはできたのではないかと思われる。当局側には、5月15日にゴルバチョフ書記長が訪中し、公式行事のために天安門前広場を使う必要がある、という格好の「大義名分」があった。「君たちの気持ちは理解できるが、外交上、国賓の歓迎行事も国家としては重要だ。天安門前広場を明け渡して欲しい。」と説得すれば、学生らも強硬には反対できなかったはずである。

 しかし、これらのタイミングは、ことごとく何事もなされずに無為に過ぎてしまった。それはなぜなのか、については、後世の歴史家の分析に待つしかない。李鵬氏ら保守派・強硬派と、趙紫陽氏ら改革派・対話路線派の勢力争いが拮抗していて、党として的確な判断ができない状態だった、というのもひとつの理由かもしれない。しかし、いつもは的確な読みで鋭い判断をしてきたトウ小平氏が、なぜゴルバチョフ書記長訪中の前に警察力の導入による学生たちの広場からの強制排除という指示をしなかったのか、私としては理解に苦しむところである。

 ひとつの理由として、中国の警察当局には、放水銃や催涙弾のような「デモ鎮圧用」の装備を持った部隊が十分に備わっておらず、多人数のデモ隊の鎮圧や広場で座り込みを続ける学生たちを排除する能力がなかった、という見方もできる。しかし、1976年4月の「第一次天安門事件」の際には、相当の数の市民が天安門前広場に集まったにもかかわらず、当時の当局(この時は「四人組」の勢力が党中央を支配していた)は、警棒、革ひも、鉄パイプで武装した警察部隊や民兵を動員して、市民の強制排除を行っている。「四人組」の政権にできたことが、もっと権力基盤が磐石であるはずのトウ小平氏の政権にできなかったはずはない、というのが私の率直な感想である。私の知らない何か別の事情があったのだろうか。

 保守派と改革派の抗争の中で、実はトウ小平氏も絶対的な決定権を発揮することができなかったのではないか、との見方もある。例えば、6月4日に天安門前広場から学生らが排除された後、新華社は、6月7日に建国門橋上にいる人民解放軍の戦車と建国門外にある外交公寓(外交官用アパート)との間で銃撃戦があり、四人の兵士が死傷したという事件を伝えたが、これは何らかの権力闘争があったことを物語るとの見方もあるからである(この建国門橋における銃撃戦の背景に何があったのかは、今でも明らかにされていない)。この銃撃戦で、日本大使館員の住居3戸も被弾したため、日本大使館は北京の在留邦人の国外退去を行っている(「トウ小平秘録」(参考資料17))。

 いずれにせよ、私は(そしておそらくは天安門前広場に集まっていた学生たちも)まずは警察力による強制排除が試みられ、それでも事態が収拾されない場合には人民解放軍が出動するかもしれない(ただしその可能性はほぼゼロである)と思っていたところ、警察が出てくる前に、いきなり人民解放軍の戦車部隊が天安門前広場に突入し実弾を発射したことは、全くの予想外のできごとだったのである。

 1981年の「歴史決議」で「文化大革命」の誤りを認め、タブーとも思われていた毛沢東についても「晩年に誤りを犯した」と率直に認めた中国共産党は、何か誤った政策を採ったとしても、自分で修正する能力を持っている、と信じていた私の気持ちは、この「第二次天安門事件」で完全に崩壊した。多くの中国の人々も同じではないかと思う。困難な道だろうが紆余曲折をたどりながら中国は少しづつ前進していくだろう、という私の期待と、そういった中国に対して抱いていた30歳代の私の希望は、1989年6月4日、完全に押しつぶされた。同じような思いを抱いたであろう中国の若者たちを思うと、今でも心が痛む。

 学生運動のリーダーたちはもちろん、方励之氏、厳家祺氏らの多くの知識人がこの事件をきっかけにして国外へ逃れた。国内に残った知識人たちもこの事件をきっかけにして「自由な議論」はできなくなった。芽生え掛けていた中国の「思想の自由」も、この日、死んだのだった。

以上

次回「4-2-3:トウ小平氏の最後のメッセージ~南巡講話~」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-492d.html
へ続く。

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2010年4月24日 (土)

4-2-1(2/2):東欧・ソ連革命(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第1節:東欧・ソ連革命(2/2)

 1968年に「プラハの春」を経験していたチェコスロバキアでは、「ベルリンの壁」崩壊の後、市民の民主化運動が活発化し、1989年12月に自由選挙が行われて、1977年に人権擁護を求める「憲章77」を発表したハヴェル氏が大統領に選出され、共産党政権は流血の事態なく退陣した(これを「ビロード革命」という)。なお、チェコスロバキアは、この後、話し合いにより1993年1月1日をもってチェコとスロバキアに平和裡に分離した。

 ポーランドでは1989年6月に行われた選挙で自主管理労組「連帯」が勝利し、「連帯」の幹部も加わった政権運営がなされた。その後、1990年12月に行われた選挙では、「連帯」のリーダーだったワレサ氏が大統領に選出され、統一労働者党による一党支配時代は平和裡に終了した。

 既に複数政党制になっていたハンガリーでは、1990年に行われた自由選挙で非共産党系の「民主フォーラム」が勝利し、実質的にも共産党政権が終了した。

 東ヨーロッパにおける1989年の動きの中で唯一流血の事態になったのはルーマニアである。ルーマニア共産党書記長で大統領のチャウチェスク氏は、ベルリンの壁崩壊後も民主化を求める国民の動きを武力で弾圧した。1989年12月21日、チャウチェスク氏は自分を支持する官製集会を開いたが、そこに動員されて集まった民衆は口々にチャウチェスク氏に対する非難を叫び始め、官製集会は反チャウチェスク集会への転化した。チャウチェスク氏は、軍に国民の反対運動を鎮圧するよう指示したが、軍はこれに反発し、チャウチェスク氏を支持する秘密警察と反チャウチェスク派の軍隊とが衝突した。この衝突で多数の死傷者が出た。チャウチェスク氏は夫人とともに国外脱出を計画したが、実権を握った反チャウチェスク派の「救国戦線」が12月22日にチャウチェスク夫妻を逮捕した。「救国戦線」は、12月25日、チャウチェスク夫妻を裁判に掛け、即刻死刑の判決を下し、そのまま処刑した。処刑の場面は、テレビで全ルーマニアに放映された。

 このような動きの中、ソ連のゴルバチョフ書記長は、1989年12月2~3日、アメリカのブッシュ(父親)大統領と地中海のマルタ沖の船上で会談し、冷戦の終結を宣言した。

 上記のように東ヨーロッパ諸国は次々に非共産主義政権に移譲していったが、ゴルバチョフ氏は、ソ連国内では、ソ連共産党による政権の維持に自信を持っていた。ゴルバチョフ氏は、ソビエト連邦内部の引き締めを図るため、ソビエト連邦大統領の職を創設し、1990年3月、自らそれに就任した。ゴルバチョフ大統領は、東ヨーロッパは「外国」であるからソ連が各国それぞれの動きに介入することはしない、と宣言していたが、ソビエト連邦の内部に対してはそういう方針は採らず、ソビエト連邦の解体は断固として阻止するつもりだった。しかし、東ヨーロッパ諸国の動きは、ソ連内部の各共和国へも及んだ。最も鋭敏に反応したのはバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)だった。

 バルト三国はもともとロシア帝国に支配されていたが、ロシア革命の後、独立していた。しかし、独ソ不可侵条約基づき、1939年9月のナチス・ドイツがポーランドに侵攻し(第二次世界大戦の開始)、ナチス・ドイツがポーランドの西半分を支配下に置くとともにソ連がポーランドの東半分に進駐すると、その勢いを持って、ソ連はバルト三国をソビエト連邦の中に併合した。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの独ソ不可侵条約破棄によりナチス・ドイツとソ連は激しく戦ったが、その過程で、両国によるバルト三国の争奪戦が行われた。ナチス・ドイツが第二次世界大戦で敗れると、戦後はバルト三国はソ連内部の共和国としてソビエト連邦の中に留まることになった。しかし、バルト三国では、民族的にはロシア人は少数派であり、ソ連からの離脱を指向する動きがその後もくすぶり続けていたのである。

 東ヨーロッパでの改革とベルリンの壁の崩壊を受けて、まず、1990年3月、リトアニアがソ連から離脱して独立を宣言した。しかし、ソ連のゴルバチョフ氏はこれを認めなかった。

 一方、ソビエト連邦の中の最大の共和国であるロシア共和国でも問題が発生する。1990年5月、民主化を掲げるエリツィン氏がロシア共和国最高会議議長に就任したのである。エリツィン氏は、ゴルバチョフ氏が進めるペレストロイカによっても経済を立て直すことが全くできていなかったことから、共産党が政権を担当することはもはや無理だと考えていた。全く考え方の違う政治家であるエリツィン氏がソ連最大の共和国であるロシアのトップになったのは、ゴルバチョフ大統領にとって政治的に脅威となった。ソ連共産党によるソ連の維持を主張するゴルバチョフ氏に対し、エリツィン氏は1990年7月にはソ連共産党を離党すると宣言し、共産党に見切りを付けた。

 そうした中、1990年8月2日、フセイン大統領が率いるイラク軍がクウェートに侵攻し、クウェートを占領した。イラクはかつてソ連の同盟国だったが、この時、ソ連はアメリカなどの世界各国と協調して、国連安全保障理事会でイラクのクウェート侵攻を非難する決議に賛成した。クウェートは、1991年1月17日に始まった国連決議に基づくアメリカ軍を中心とする多国籍軍による攻撃(湾岸戦争)で、イラクの占領から逃れ、独立を回復した。ソ連は多国籍軍には参加しなかったが、国連決議には賛成しており、国際的にはソ連はもはやアメリカの敵ではなくなったことが明らかとなった。

 国際的には評価の高かったゴルバチョフ氏であるが、国内での政権運営は困難を極めた。ゴルバチョフ大統領は、独立を要求するバルト三国に対し、ソ連からの離脱を断念するよう働きかけたが、三国とも独立の意向は変えなかった。また、ソ連国内の経済は日に日に悪化し、国民のゴルバチョフ氏に対する不満は高まった。逆に「何かをやってくれるかもしれない」との期待がエリツィン氏の人気を高めた。ゴルバチョフ氏は、ソビエト連邦の維持と経済の立て直しを図るため一部の共産党保守派勢力との妥協を図った。それに抗議して、グルジア出身で改革派のシュワルナゼ外相は「独裁が近付いている」と警告して、1990年12月、突如辞任した。改革の盟友を失ったゴルバチョフ氏は、保守派を政治局に入れて、政権を維持するほかはなかった。

 共産党保守派勢力が強くなったソ連政権は、ソビエト連邦の崩壊を阻止するため、バルト三国に対して強硬路線に出る。1991年1月、圧力を強めたソ連軍の下で、リストニア共和国政府とソ連軍との間で軍事衝突が起き、14名の死者と数百人の負傷者が出る事態が発生した。軍事的圧力なしにソビエト連邦を維持することは困難な状況になりつつあった。

 1991年になってもソ連の経済は好転しなかった。国際的には人気の高かったゴルバチョフ大統領は、外国を訪問するたびに西側諸国に対しソ連経済への援助を要請していた。政権内で発言権を増していたソ連共産党保守派は、そういったゴルバチョフ大統領に対して危機感を持つようになる。ゴルバチョフ大統領は、国民の人気を背景にして政治的発言権を強めるエリツィン氏との妥協を図るため、1991年8月20日をもってソビエト連邦内にある共和国の独立性を認めた上で、ソ連大統領による外交、軍事政策の下で連合することを約するという新しい連邦条約に署名することに合意していた。

 1991年8月中旬、ゴルバチョフ大統領(ソ連共産党書記長)は、クリミア半島の避暑地で休暇を過ごしていた。政権内にいたソ連共産党保守派は、新連邦条約はバルト三国の独立を承認し、ソ連の解体を進めることになるとして、新連邦条約に反対していた。ソ連共産党の保守派幹部は、8月18日の夕方、クリミア半島に滞在中のゴルバチョフ大統領に会い退陣を要求したが、ゴルバチョフ氏はこれを拒否した。そのため保守派はゴルバチョフ大統領をこのクリミア半島の別荘の中に軟禁した。そして保守派は、8月19日早朝、「国家非常事態委員会」の発足を宣言し、「ゴルバチョフ大統領は病気となったためヤナーエフ副大統領が職務を引き継ぐこととなった」との声明を発表した。また、「国家非常事態委員会」はソ連軍に出動を命じ、放送局やロシア連邦共和国ビル(通称「ホワイト・ハウス」)を占領するよう指示した。明らかなソ連共産党保守派による反ゴルバチョフ・クーデターだった。

 戦車の出動に驚いたモスクワ市民は次々にホワイト・ハウスの周辺に集まって、戦車の進軍を阻止しようと試みた。エリツィン氏は「国家非常事態委員会」の動きは憲法に違反する不当なものだと主張して、大勢の市民とともにホワイト・ハウスへ向かった。ホワイト・ハウスへ向かっていたソ連軍の戦車に乗っていた兵士たちは、圧倒的な数の市民の動きを前にして「国家非常事態委員会」の命令に従わないことを決め、戦車を進めるのを止めた。このソ連軍兵士の決定にモスクワ市民は歓呼をもって応え、戦車の大砲の銃口に花束を差して、兵士たちの勇気ある判断を讃えた。この時、CNNのドキュメンタリー「Cold War」(映像・音声資料4)に登場した年老いたモスクワ市民の女性は、「市民の側に立った我がソ連軍の兵士を誇りに思う」と涙を流して語っていた。

 エリツィン氏は、「ホワイト・ハウス」の前に停止した戦車の上によじ登って、市民に向けて演説し、「国家非常事態委員会」の動きを非難し、ゴルバチョフ氏を救出することを宣言した。この映像は世界に配信されたが、この映像を見て、私は「現在の政治家は、こういった『テレビ向けのパフォーマンス』ができることが重要だ」と強く感じたのを今でも覚えている。一方「国家非常事態委員会」を形成する保守派のメンバーもテレビ・カメラの前で記者会見をしたが、発言の内容が強気なものであったにもかかわらず、彼らの態度は何となく落ち着かず、あるメンバーはクーデターが失敗に終わるかもしれないという恐怖のためか手が震えていた。テレビの画面を見ているだけで、クーデターの成否は明らかだった。

 8月20日、多くの市民によるデモ、ストライキが発生し「国家非常事態委員会」に対するソ連国民の非難は高まった。「国家非常事態委員会」の命令に従う一部の軍隊と市民との間で衝突も発生し、3名の死者が出たほか、多数の負傷者が出たと言われている。

 8月21日、軍の大半は「国家非常事態委員会」と距離を置く判断をした。保守派はクーデター続行は不可能と判断し、ゴルバチョフ氏との話し合いを申し出た。同日エリツィン氏は、クリミア半島にゴルバチョフ氏救出のための飛行機を飛ばし、8月22日未明、ゴルバチョフ氏はモスクワに帰還した。モスクワに戻ったゴルバチョフ氏が記者会見する様子をテレビの生放送で見たことを私はよく覚えている。

 ゴルバチョフ氏は、テレビ・カメラの前で、クーデターが発生してから救出されるまでの72時間をソ連国民と全世界に向けて率直に話した。ゴルバチョフ氏は、外界と完全に通信が断絶された状態で軟禁されている間、アンテナを張ってラジオでBBCやVOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)を聞いて情報を集めていた、と語っていた。軟禁中、誰も話し相手がいない中、ゴルバチョフ氏は死をも覚悟して、ホーム・ビデオ・カメラに向かって「遺言」を語り、録画した(この録画された「遺言」は、CNNのドキュメンタリー番組「Cold War」の中で使われている)。私は、ゴルバチョフ氏の記者会見の直後、FEN(日本でアメリカ軍により放送されているラジオ放送)でブッシュ大統領(父親)のコメントを放送しているのを聞いた。私は、まさにテレビと放送メディアにより、世界がリアルタイムで繋がっていることを改めて実感した。

 このクーデターでゴルバチョ氏は負けはしなかったが、ゴルバチョフ氏救出に尽力したエリツィン氏の政治的求心力は一気に高まった。また、ソ連共産党保守派によるクーデターの失敗は、ソ連国民のソ連共産党に対する信頼を完全に失墜させた。このクーデター失敗の直後、バルト三国のうち既に前年に独立を宣言していたリトアニアに続いて、ラトビアとエストニアも独立を宣言した。ゴルバチョフ氏自身も、8月24日にはソ連共産党書記長を辞任し、自らソ連共産党の解散を勧告した。ゴルバチョフ氏は、ソビエト連邦大統領の職には留まっていたが、9月に入り、ゴルバチョフ大統領もバルト三国の独立を承認した。

 ゴルバチョフ大統領は、なおも連邦の維持に努めようとしたが、最終的にウクライナが連邦維持を拒否して独立することを宣言し、12月8日にはロシア、ウクライナ、ベラルーシのソ連内部の三つの大きな共和国が独立国家共同体(CIS)を設立することで合意した。ロシア共和国のエリツィン大統領は、この三つの共和国の合意成立についてゴルバチョフ・ソビエト連邦大統領より先にアメリカのブッシュ大統領に連絡したという。ゴルバチョフ大統領は激怒したが、このことはもはやソビエト連邦が有名無実の存在となったことを示していた。三つの共和国に引き続き、ソ連内のほかの共和国も相次いでCISに加盟した。12月23日、ゴルバチョフ氏はエリツィン氏と会談し、ソ連大統領を辞任することに合意した。

 1991年12月25日、ゴルバチョフ大統領は、ソ連大統領職としての最後の仕事としてアメリカのブッシュ大統領に挨拶の電話をし、大統領を辞任した。その日、モスクワのクレムリンからソ連国旗が降ろされ、ソビエト社会主義共和国連邦は消滅した。ブッシュ大統領はこの日、国民に向けたクリスマスのテレビ演説の中で、長きにわたって続いてきた米ソ対立がこの日完全に終了したことを告げた。

以上

次回「4-2-2:『第二次天安門事件』の後遺症」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-e7ea.html
へ続く。

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2010年4月23日 (金)

4-2-1(1/2):東欧・ソ連革命(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第1節:東欧・ソ連革命(1/2)

 ここで中国の動きを離れてこの頃の東ヨーロッパとソ連の動きを見てみよう。というのは、「第二次天安門事件」以後の東ヨーロッパとソ連の動きを見てみれば、トウ小平氏が何を恐れて武力による民衆の弾圧を敢えて実行したのかがある程度理解できるからである。トウ小平氏は、極めて先読みのできる政治家であり、もし民主化を求める大衆の動きをそのまま放置すれば、中国共産党による支配体制が崩壊するのはもちろん、中国という国家自体が分裂・崩壊しかねない、と恐れていたものと思われる。果たせるかなトウ小平氏が恐れていた事態が、「第二次天安門事件」の後、社会主義の祖・ソ連で起きることになる。

 ゴルバチョフ書記長と趙紫陽氏は、たぶん同じような考え方を持っており、共産党による支配体制内での改革を進めることで民衆の支持を繋ぎ止めることは可能であり、改革を進めることによってこそ、共産党による支配の長期継続を図ることができると考えていたに違いない。しかし、この後、ソ連が歩んだ道を見てみれば、ゴルバチョフ書記長の見通しが甘かったことがわかる。

 ゴルバチョフ書記長がソ連の中で改革を進めるとともに、東ヨーロッパ諸国に対しては、内政に干渉しない、という態度を表明したことから、東ヨーロッパ諸国では、それぞれの国ごとの事情に応じた改革が進められてきたことはこれまでも述べてきた。「第二次天安門事件」が起きた1989年6月の時点で、ハンガリーでは改革派が政府の主導権を握り、ハンガリー・オーストリア国境における違法越境者に対しても強硬な手段は取らないようになったこと、ポーランドにおいては、ポーランド統一労働者党のヤルゼルスキー第一書記が反体制派の自主管理労組「連帯」との対話路線へ転じていたことも、既に述べた。ヤルゼルスキー第一書記は「連帯」も含めた様々の勢力とポーランドの将来について議論する「円卓会議」を開催していた。「円卓会議」の議論により、ポーランドでは6月に自由選挙が行われることが決まっていた。

 違法越境者に対する強硬手段を停止したハンガリーは、1989年5月になって、オーストリアとの国境に張り巡らされていた鉄条網を撤去した。こうして、1946年にイギリスのチャーチル首相が「鉄のカーテン」と呼んだ東側諸国を囲っている囲いの一部が物理的になくなったのである。

 東ヨーロッパでこうした状況が起こっている中、北京での「第二次天安門事件」は起きた。この事件は、多くの西側報道陣によって、映像として世界に伝えられたことから、世界全体に大きな衝撃を与えた。特に東ヨーロッパの人々に対しては、「共産党による支配がとことんまで追い詰められると大変な流血の惨事が起きる」との印象を与えたに違いない。「第二次天安門事件」は、その頃底流に流れつつあったソ連と東ヨーロッパの人々の気持ちの中の「共産党離れ」を急速に加速させた可能性がある。

 「第二次天安門事件」が起きた1989年6月4日は日曜日で、ポーランドで戦後初の自由選挙が行われた日でもあった。時差の関係で、この日の未明、北京で起きた事態は、ポーランドでも選挙の投票が始まる前に報道されたと思われるが、「第二次天安門事件」がポーランドの選挙結果に直接的にどの程度影響を与えたのかはわからない。いずれにしても、このポーランドの選挙では、非共産党系の自主管理労組「連帯」が圧倒的な勝利を収めた。

 中国の「第二次天安門事件」の映像が東ヨーロッパ諸国の国民に具体的にどの程度の影響を与えたのかは定かではないが、少なくともこの頃の東ヨーロッパとソ連における政治の動きにおいては、テレビの影響が非常に大きかった、と言われている。この頃、ヨーロッパ大陸では衛星テレビ放送がかなり普及しつつあり、パラボラ・アンテナと衛星放送受信機があれば、他の国のテレビ放送でも簡単に受信できるようになっていたからである。国によって異なるが、多くの国ではゴルバチョフ書記長が進めるグラスノスチ(情報公開)政策により、衛星受信機の所持制限のような規制は緩和されつつあった。西側のテレビ放送を簡単に受信できるようになった東側の人々は、西側の豊かな経済と自由な文化に直接触れることができ、それに強く憧れるようになった。それが東ヨーロッパとソ連の歴史を大きく進めることになる。

 この衛星テレビが社会に与えた影響については、衛星放送開始当初から認識されていた。日本のNHKのBS放送は1987年6月に試験放送開始、「第二次天安門事件」直前の1989年6月1日に本放送を開始したが、BS本放送開始の頃の衛星放送普及のためのNHKのキャッチ・コピーに「衛星テレビは世界を変えた。人類は確かに進歩した。」というものがあった。東ヨーロッパ情勢を念頭に置いた時、私は、このコピーを聞いて実感を持って「そのとおりだ」と思ったことを覚えている。

 ハンガリー政府によるハンガリー・オーストリア国境の鉄条網の撤廃は、ハンガリー人のオーストリア経由での西側への渡航制限を大幅に緩和したことにより、国境での鉄条網の存在意義がなくなったから行われたのであった。この頃、東ドイツのホーネッカー国家評議会議長率いるドイツ社会主義統一党の政権は、以前のソ連のような秘密警察を使った国民に対する締め付け政策を続けていた。厳しい監視の目を逃れて西ドイツへ行きたいと考えた東ドイツ国民は、ハンガリー・オーストリア国境経由で西側へ逃れることを期待して大量にハンガリーに旅行するようになった。このため自国民のハンガリー経由での流出を懸念した東ドイツ政府は、ハンガリーへの渡航にも制限を掛けるようになった。そうなると、東ドイツ国民は、ハンガリーと東ドイツの中間にあるチャコスロバキアへ行き、プラハにある西ドイツ大使館に亡命申請を行うようになった。

 1989年の夏休みの旅行シーズン、休暇旅行の名目でチェコスロバキアを訪れた多数の東ドイツ国民が、プラハの西ドイツ大使館周辺に亡命申請手続きするために集まった。あまりに多数の東ドイツ国民が集まり手続きが間に合わなくなったことから、待ちきれない東ドイツ国民の中には庭の柵を乗り越えて西ドイツ大使館の中庭に侵入する者が相次いだ。やがてプラハの西ドイツ大使館の中に入り込んだ東ドイツ国民の数は7,000人に達し、プラハの西ドイツ大使館の中庭は、さながら難民キャンプのような様相を呈するようになった。

 夏の暑さの中、多数の人々が集まって健康上の問題が発生することも懸念されたことから、西ドイツ政府は人道的立場から善処するよう東ドイツ政府と交渉を行った。ゴルバチョフ書記長のソ連は、各国は各国のやり方で社会主義を進めるべき、という態度であり、もやはソ連は東ドイツのホーネッカー政権の後ろ盾としては動かなかった。人道的立場からの国際社会からの圧力もあり、東ドイツ政府は、東ドイツ国籍を取り消すことを条件に、プラハの西ドイツ大使館に集まっていた人々の西ドイツへの出国を認めた。人々は喜んで東ドイツ国籍を証明する身分証明書を東ドイツ当局に突き返して、西ドイツへ出国していった。

 ハンガリー、ポーランドの例やプラハの西ドイツ大使館に集まった東ドイツ国民に対する国際社会からの圧力の前にソ連が介入しなかったことを見て、東ヨーロッパ諸国内における民主化の動きにソ連が介入しないことが明確になった。このため、9月になると、東ドイツ国民の中には、西側へ逃れるのではなく、東ドイツに留まって政府に改革を要求しようと考える人が増え始めた。まず東ドイツ国民にとって最も切実な具体的要求は、西側への旅行証発給手続きの緩和だった。

 東ドイツのライプチヒの聖ニコライ教会では、毎週月曜日に教会の集会が持たれていたが、教会での集会に集まる人々は旅行証発給手続きの緩和を求め、教会は次第に政治的な運動を行う場に転化していった。人々は毎週月曜日の夜の集会が終わると、街を一周するデモ行進を行うようになった(「月曜デモ」)。ライプチヒ市当局は、デモに対する警官隊による警戒を強めたが、月曜デモは週を追うごとにその規模を拡大させていった。

 こうした中、1989年10月7日、ソ連のゴルバチョフ書記長が東ドイツ建国40周年記念式典に出席するため東ドイツを訪問した。東ドイツ当局は、建国40周年を祝うスローガンを叫ばせるため大衆を動員した。集まった大群衆の前に出てきたホーネッカー議長とゴルバチョフ書記長の二人に対して、東ドイツ国民が上げた声は東ドイツ建国40周年を祝う言葉ではなく、「ゴルビー!ゴルビー!」というシュプレヒコールだった。この「ゴルビー!ゴルビー!」という東ドイツ国民の叫び声は、ホーネッカー議長の退陣を要求していることは明らかだった。この東ドイツ訪問時、ゴルバチョフ書記長はホーネッカー議長と3時間に渡り会談し、改革を進めるよう説得したが、ホーネッカー議長は頑としてそれを拒んだという。

 2日後の10月9日は月曜日だった。この日もライプチヒの教会では月曜集会が開かれていた。ベルリンでの人々の「ゴルビー!」コールを受けて、ライプチヒのこの日の「月曜デモ」には多数の市民が参加することが予想された。ライプチヒ市当局は、治安部隊のデモ隊鎮圧の準備をさせて待機させた。

 この日、ソ連政府はベルリンのソ連大使館を通じてライプチヒ周辺にいるソ連軍に対して「全ての活動を停止して静穏を保ち、いかなる事態が発生しても介入しないように」という指示を与えていた。この日、街頭に繰り出したライプチヒ市民は7万人に達した。やがて大規模な「月曜デモ」が始まった。市内は一触即発の緊張感が高まった。ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者クルト・マズア氏ら市民に人望のある有力者たちは、市当局に対して声明を出し、流血の事態は避けるよう要請した。市当局は、これら市の有力者たちの要請を受け入れ、武力によるデモの鎮圧を中止した。デモ隊も過激な行動はせず、多数の市民が参加したこの日の「月曜デモ」は流血の事態に至らずに平和裡に終了した。これが東ドイツにおけるひとつのターニング・ポイントだった。

 この時、ライプチヒのデモに参加した市民の側、デモ隊を鎮圧しようとした当局側の双方は、「4か月前の北京の天安門前での悲劇をここで繰り返してはならない」という同じ思いを持っていたという。

 東ドイツ国民の運動の盛り上がりの前で、ドイツ社会主義統一党の内部では、ソ連の後ろ盾がなくなった今、国民の要求に背を向けた姿勢を続けることは党の支配体制自体を崩壊させかねない、との危機感が高まった。強硬路線を貫こうとするホーネッカー議長を続投させていたのでは、政権の維持が困難になると考えたドイツ社会主義統一党の多くの幹部は、10月18日の政治局会議で、突然、ホーネッカー議長の解任の動議を提出した。多くの政治局員が自分を解任したいと思っていると感じたホーネッカー議長は、とっさに状況を理解し、自らも自分自身の解任案に賛成した。この日の政治局会議は結局、全会一致でホーネッカー議長を解任する決定を行った。ホーネッカー氏の後任としてクレンツ氏が国家評議会議長に選出された。

 クレンツ氏は、国民の不満を緩和し、段階的な民主化を進めようとする方針を採った。最も国民の不満が高かった西側への旅行許可については、11月9日、大幅な手続き緩和を定めた旅行自由化令を公布し、即日施行した。この政令は、一定の手続きに基づく許可を得た上で西側への旅行を認めるというもので、翌11月10日から許可手続きが開始されることになっていた。しかし、記者会見でこの政令の制定について説明した党のスポークスマンは、政令制定の議論に参加していなかったため、政令の施行のタイミングを正確に把握していなかった。記者から「西側への旅行が許可されるのはいつからか」と質問されたのに対し、「この政令は即日施行だから、今からだ。」と発言した。この記者会見はテレビで生中継されていたため、このスポークスマンの発言を聞いた東ベルリン市民は、ベルリンの壁のところにある国境検問所に殺到した。

 検問所にいた国境警備隊員は、この政令について何の指示も受けていなかった。東ベルリン市民は、党のスポークスマンが今から西側への旅行が許可されることになった、と発言したのだ、と国境警備隊員に詰め寄った。国境警備隊員は本部に電話を入れて確認したが、本部からの指示は、ただ状況を監視せよ、というものだけだった。しかし、テレビを見た東ベルリン市民は次々に国境検問所に押し掛けた。国境警備隊員はいつものように武装していたが、少人数の国境警備隊員だけでは対処することは困難なのは明らかだった。国境検問所周辺は制御不能の状態となり、押し寄せる大量の市民は、ついに国境のゲートをこじ開けて、西ベルリン側にあふれ出た。国境警備隊員は、もうどうすることもできなかった。市民に向けて発砲する国境警備隊員は誰もいなかった。

 国境のゲートがこじ開けられたけれども何事も起きないことを知った東ベルリン市民は、さらに次々と国境ゲートに押し掛けた。国境ゲートは人々の圧力で次々に押し開かれ、多くの東ベルリン市民がどっと西ベルリンに流入した。西ベルリン市民は歓喜してこれを迎え入れた。東西ベルリン市民は、歓喜の渦の中で一緒になってベルリンの壁に殺到し、ある人々は壁にペンキで落書きを描き、ある人々は壁によじ登り、ある人々はハンマーやツルハシで壁を壊し始めた。東ドイツ当局は、この動きを見守るだけで何もしなかった。やがて大型の重機が持ち込まれて、本格的な壁の撤去作業が始まった。

 こうして、1961年に東西冷戦の中で築かれた「ベルリンの壁」は、この日、1989年11月9日、東西ベルリン市民の手によって崩壊した。アメリカの雑誌「タイム」誌は「今後、歴史の教科書では『冷戦:1945年~1989年』と書かれることになるだろう」と書いた。東西ドイツはこれから1年も経たない1990年10月3日、ひとつの国として統一されることになる。

以上

次回「4-2-1(2/2):東欧・ソ連革命(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-2db4.html
へ続く。

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2010年4月21日 (水)

4-1-9:【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第9節:「第二次天安門事件」

【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】

 「第二次天安門事件」のきっかけとなった胡耀邦氏の死去から21年目の2010年4月15日、「人民日報」は2面に温家宝総理の文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を掲載した。

(参考URL1)「人民日報」2010年4月15日付け2面
http://paper.people.com.cn/rmrb/html/2010-04/15/nbs.D110000renmrb_02.htm

※最近、人民日報のバックナンバーは有料化されており、時間が経過すると上記のページも有料の会員登録をしないと見られなくなるようになる可能性がある。なお、このページはインターネット・エクスプローラー以外のブラウザには対応していないようなので、閲覧する際にはブラウザの選択に注意する必要がある。

 この温家宝総理の文章は、1986年2月に胡耀邦総書記が貴州省の興義などの貧困地区を視察した際、胡耀邦氏は体調を崩して熱を出していたにもかかわらず、真剣に地区の人々の実情を知ろうとしていた、として、胡耀邦氏を懐かしみ、その業績を讃えるものとなっている。

 胡耀邦氏が1987年1月、前年末に起こった学生運動に対して同情的であり対応が緩かったとして党総書記を辞任(実質的な解任)したこと、その死が1989年の「第二次天安門事件」のきっかけになったことはこれまで述べてきたとおりである。また、「第二次天安門事件」に関する対応の過程で、当時、江沢民氏が党書記をしていた上海市党委員会の指示により、胡耀邦氏の業績を讃える座談会を実施してその記事を掲載しようとした「世界経済導報」が発禁となり、その編集長が解任されたことが、多くのジャーナリストの反発を招き、それが「第二次天安門事件」の拡大のひとつの要素であったことも述べた。また、趙紫陽氏が失脚した後、この「世界経済導報」に対する措置を評価されて江沢民氏がトウ小平氏により二階級特進して党総書記に抜擢されたことも述べてきた。

 胡耀邦氏をどう評価するか、については、現在の中国においては、極めて政治的に微妙な問題である。後に「第4章第2部第4節:胡錦濤主席は新しい道を切り開けるか」で書くことになるが、「第二次天安門事件」の時の政治局常務委員で趙紫陽氏と同じ立場に立っていた胡啓立氏が2005年12月に書いた胡耀邦氏の業績を讃える論文「我が心の中の胡耀邦」が2006年1月に中国青年報の週刊特集ページ「氷点週刊」の停刊を招いたと言われている(「氷点週刊」停刊事件)。

 胡耀邦氏の業績を讃えることが現在の中国において「政治的に微妙」なのは、趙紫陽氏の後任の党総書記となり、国家主席にもなった江沢民氏がトウ小平氏に抜擢された直接の理由が、「第二次天安門事件」において、胡耀邦氏を讃えた「世界経済導報」を発禁処分にするという「厳正な措置」を採ったことだからである。胡耀邦氏を讃えることは、江沢民氏が党総書記・国家主席に抜擢された根拠を否定することと直結することになる。

 「氷点週刊」停刊事件のきっかけとなった2005年12月の胡啓立氏の「我が心の中の胡耀邦」と今回(2010年4月15日)の温家宝総理の「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」は、内容的にはともに同じように胡耀邦氏を偲び、その業績を讃える、というものである。温家宝総理は、胡耀邦氏、趙紫陽氏、江沢民氏の三代に渡る党総書記の時代に党弁公庁(党の事務局)の幹部として働いていたのだから、温家宝氏が胡耀邦氏を懐かしむ文章を書いても不自然ではないが、この時期に(「趙紫陽極秘回想録」が出版された後の現時点において)書かれた温家宝総理の文章は、胡啓立氏の文章に比べて、以下の点において、より「刺激的」である。

○胡啓立氏は「元政治局常務委員」とは言え、文章を執筆した時点では既に引退しており、身分的には「一般の人」である。それに対して温家宝氏は現役バリバリの政治局常務委員であり、国務院総理である。

○文章が掲載されたのが、胡啓立氏の場合は中国共産主義青年団の機関紙「中国青年報」の週刊特集ページ「氷点週刊」であったのに対し、温家宝総理の文章は中国共産党の機関紙「人民日報」に掲載された。「人民日報」は中国共産党の公式な機関紙であり、「中国青年報」より権威があるのは当然のことである。

○論文の内容が胡啓立氏の「我が心の中の胡耀邦」では、胡耀邦氏の業績を称え、懐かしむのにとどまっているのに対し、温家宝総理の「再び興義へ戻って胡耀邦を思う」の方では、温家宝氏は、胡耀邦氏が1989年4月8日に政治局の会議の途中で心臓発作で倒れた時にはすぐに病院まで送り届け、4月15日に亡くなった時には真っ先に病院に駆け付け、(「第二次天安門事件」の後の)1990年12月に江西省の共産党青年団の葬儀には自分が胡耀邦氏の遺骨壺を持っていき、その後も毎年春節(旧正月)には追悼のために胡耀邦氏宅を訪れたりしていることが述べられている。これは温家宝氏が「第二次天安門事件」の前後において、胡耀邦氏に対する尊敬の念を一貫して変えていなかったことを表しており、温家宝氏が「第二次天安門事件」に関して、何ら「自己批判」をしていないことを表明したのに等しい。

○「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)は中国国内では発禁本であるが、温家宝氏は、中国の政治運営を担う責任者の一人であるから、今後の中国情勢に影響を与える可能性がある本として「趙紫陽極秘回想録」を読んでいることは間違いない。「趙紫陽極秘回想録」の中で、趙紫陽氏は、胡耀邦氏が1983年秋に始まった「精神汚染キャンペーン」に反対し、1984年6月時点でトウ小平氏から「反自由化に対してあまりに弱腰だ」と批判されながら態度を改めず、1986年夏には既にトウ小平氏は胡耀邦氏の党総書記職を解く腹を決めていた、と語っている。趙紫陽氏は、トウ小平氏は、1987年秋の第13回党大会では胡耀邦氏を解任するつもりであり、1986年末の学生運動の結果、1987年1月に胡耀邦氏が党総書記が辞任したのは、辞任のタイミングが数ヶ月早まっただけに過ぎない、と語っているのである。温家宝総理が、そういった経緯を承知の上で、1986年2月の胡耀邦氏の地方視察の際の事例を引き合いに出して胡耀邦氏の業績を賞賛した、ということは、江沢民前総書記・国家主席の就任根拠を否定するのみならず、トウ小平氏が先導した1983年の「精神汚染キャンペーン」や1987年の「ブルジョア自由化反対運動」をも批判することに繋がり、1989年の「第二次天安門事件」における運動を引き起こした学生・市民・ジャナーナリスとの考え方を支持するものと捉えられても不思議ではない。

※1989年5月19日早朝に趙紫陽総書記が天安門前広場へ行ってハンストを行っている学生らの前でハンドマイクを持って「我々は来るのが遅すぎた」と述べた時の趙紫陽氏の右隣に当時党弁公庁主任の温家宝氏が映っている写真はあまりにも有名である。この写真は「趙紫陽極秘回想録」(日本語版)の表紙を飾っている。この写真は、温家宝氏が単に党弁公庁主任という職務上やむなく趙紫陽氏に同行した、というよりは、温家宝氏が心情的には趙紫陽氏と同じ考えを持っていた、という印象を与えている。今回の「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」という文章は、その「印象」が単なる「印象」ではなく「事実」であると確信させるのに十分である。

○現職の国家指導者は、いろいろなところで演説や講話をするチャンスがあるので、自分の考えを述べたいのだったら「演説」「講話」の形で発表すればよいのだが、温家宝総理は、わざわざ追悼文を「人民日報」に「寄稿」している。この点は極めて奇異に映る(現職の温家宝総理が新聞に文章を「寄稿」することは、オバマ大統領や鳩山総理が新聞に「寄稿」するののと同じことであり、極めて「異例」である)。このことから、この文章の発表は、温家宝氏の一定の「決意」を表しているとも考えられる。

 本節において、「第二次天安門事件」を述べる冒頭で「時として、歴史の中で、単なる偶然の一致が大きな動きのきっかけになることがある。」と書いた。胡耀邦氏の死去のタイミングが「第二次天安門事件」のような大きな動きのきっかけとなったのが、ゴルバチョフ書記長訪中のちょうど1か月前という絶妙なタイミングだったからである。今回の「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」が掲載される前日の2010年4月14日、チベット族が多く住む青海省玉樹において大地震が発生し、大きな被害が出たのも、あるいはそういったひとつの「偶然」なのかもしれない。この文章が「人民日報」に掲載された4月15日には温家宝総理自らが現地へ飛び、救援活動の指揮に当たった。その後、外国訪問中の胡錦濤主席や李長春政治局常務委員も急きょ帰国した。

(注)李長春氏は、宣伝担当で、「人民日報」をはじめとする出版物を管理・監督する立場の政治局常務委員である。2006年の「氷点週刊」停刊事件は、胡耀邦氏の業績を讃えたいと考えている胡錦濤総書記と江沢民前総書記に近い李長春氏の二人の現職政治局常務委員の争いが背景にある、との見方がある。今回、「人民日報」に温家宝氏による胡耀邦氏を追悼する文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」が掲載された時、胡錦濤総書記も李長春氏も、外国訪問中で北京を留守にしていた。これが単なる偶然なのかどうかは、わからない。

 2008年5月の四川省大地震の時もそうであったが、困難な事態において陣頭指揮する温家宝総理を多くの中国人民は尊敬し、支持している。もし仮に、ある政治勢力が「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を書いたことによって温家宝総理を批判するようなことがあったら、中国人民はそういった政治勢力を許さないであろう。

 1年前の2009年4月15日の人民日報には、「愛国主義を持って時代の光を放とう」という論評が掲げられ、この後「愛国主義」の運動が展開された。

(参考URL2)2009年4月15日付け「人民日報」1面
「愛国主義を持って時代の光を放とう」
http://paper.people.com.cn/rmrb/html/2009-04/15/nbs.D110000renmrb_01.htm

※最近、人民日報のバックナンバーは有料化されており、時間が経過すると上記のページも有料の会員登録をしないと見られなくなるようになる可能性がある。なお、このページはインターネット・エクスプローラー以外のブラウザには対応していないようなので、閲覧する際にはブラウザの選択に注意する必要がある。

 これは2009年は「第二次天安門事件」20周年の年であり、20周年を記念して「第二次天安門事件」を起こした市民・学生・ジャーナリストの主張を支持する勢力が力を吹き返すことを警戒した当局が、「愛国主義」という形でそれを抑え込もうとしたことの表れであったと思われる。その1年後、現職総理の温家宝氏が2009年とは全く別のベクトルの文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を発表したことは注目に値する。もしかすると、これは、趙紫陽氏の再評価、ひいては「第二次天安門事件」の再評価に繋がることになるのかもしれない。

以上

次回「4-2-1(1/2):東欧・ソ連革命(1/2)」
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へ続く。

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2010年4月20日 (火)

4-1-9(5/5):「第二次天安門事件」(5/5)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第9節:「第二次天安門事件」(5/5)

 5月20日午前0時、李鵬総理が同日午前10時から戒厳令を敷くことを予告する放送を行った。18日の長老会議では21日午前0時を持って戒厳令を敷くことを決めていたが、「事態が急変したので戒厳令実施を繰り上げた」と後に楊昆尚氏が明らかにしたという(「トウ小平秘録」(参考資料17))。李鵬総理は、放送の中で「党中央、国務院を代表して」と述べた。党の代表は本来は総書記の趙紫陽氏のはずであることから、この放送により中国の人々は趙紫陽氏が失脚したことを知った。

 「トウ小平秘録」によると、戒厳令が発表された直後から、多くの人々が人民解放軍の動きを阻止する行動に出始めたという。多くの人々の進軍阻止の動きに対し、多くの若い兵士が動揺を示したほか、5月18日に出された進軍命令に対し、第38軍の徐勤先司令官は命令を拒否したという。「トウ小平秘録」に掲載されている1989年12月に行われた全軍工作会議で明らかになった数字によれば、「第二次天安門事件」の作戦中、将校111人が「重大な軍紀違反」を犯した、という。また、5月21日、張愛萍元国防部長ら8人の上将(大将に相当)が「絶対に人民に発砲し、流血を起こしてはならない。事態のさらなる悪化を回避するため、軍隊は北京に進軍してはならない」という声明を発表したという。こうした動きの中、戒厳令は出されたものの、戒厳部隊は北京市内へは進軍できない、という状況が続いた。

 客観的に言って、丸腰の学生や市民らの動きに対して、戒厳令を発令し、人民解放軍を動かすことは過度な反応だ、ということもできる。これに関して、「天安門事件の真相」(参考資料26、27)では、人民解放軍の内部に学生や市民の運動に対して同情的な人々もおり、軍の一部が党中央の決定に対して反旗を翻す軍事クーデターの懸念も払拭できなかったことから、人民解放軍に出動命令を出したのだ、という見方もあることが指摘されている。

 学生や知識人たちが最後の可能性として期待したのは、この時、カナダ・アメリカを訪問中だった万里全国人民代表大会常務委員長だった。万里氏は、趙紫陽氏に近く、事態打開に動いてくれるのではないか、と思われたからである。特に、新華社が、5月17日、万里氏が訪問先のカナダで学生らの運動を「愛国的運動」だと評価する発言をしたと伝えていことから、多くの人々が期待を抱いていた。万里氏は、委員長として全人代常務委員会を招集する権限を持っている。中国共産党の決定が全てである中国においては、全人代が党の決定をひっくり返すことはあり得ないが、万里氏が全人代常務委員会を招集し、決定を覆すことはできなくても全人代常務委員会で戒厳令に反対する意見が多く出れば事態が好転するのではないか、と淡い期待を寄せる人もいた(中国の全人代は、政府提案議案を否決することはないが、議案によっては相当数の反対票・棄権票が出ることもあり、いつも満場一致で可決という完全な「スタンプ機関」ではないことは前に述べた)。

 万里氏は予定を繰り上げて、5月25日に帰国した。しかし、到着先は北京ではなく上海だった。新華社電はその理由について「病気療養のため」と伝えた。万里氏は、帰国した二日後、党中央決定を支持すると表明した。全ての可能性は失われた。万里氏にトウ小平氏の意向が伝えられていた結果だという。

 当時、北京に駐在していた私の後任者から聞いた話では、そもそも北京では天安門広場周辺は騒然としていたものの、そのほかの地域では通常の日常生活が続いており、ビジネスも通常通り行われていたという。天安門前広場に集まる人の数もゴルバチョフ書記長が訪中していた5月中旬頃がピークで、その後は運動は退潮していた、と見る人もあった。5月下旬になると、運動は下火になったという見方も出たという。

 運動をする側の人々にとっても、4月26日の社説も撤回されず、政府との対話も実現せず、時間だけが流れていた。5月29日、中央美術院の学生らが発砲スチロールと石膏で作った「張りぼて」の「自由の女神」を模した像が天安門前広場に持ち込まれた。人々はこれを「民主の女神」と呼んだが、事態は膠着状態となった。

 6月2日、趙紫陽氏以外の政治局常務委員と八長老が参加した「八老会」が再び開かれた。多くの参加者から「神聖な天安門前広場をこのまま放置しておくわけにはいかない」との意見が出され、トウ小平氏が「戒厳部隊は今夜排除計画を実行に移し二日以内に完了する」と提案して会議は終了した(参考資料8:中国の歴史(11)「巨龍の胎動」)。

 戒厳部隊は、東西南北から北京への進軍を開始した。しかし、北京市民は道路にバリケードを築くなどして軍の侵入を阻止した。この時、各部隊には武器の使用は極力控えるよう指示が出されていた。軍の本体の市内侵入を容易にするため、前もって私服の兵士を市内に移動させようとしたところ、それも市民に阻止される事態も起きたという。その際、軍と市民らとの間で小競り合いも生じていたようである。

 予想外に激しい市民による抵抗を前にして、6月3日午後4時、中央軍事委員会が開かれて対処が協議された。李鵬総理は「昨日深夜以来、反革命暴乱が発生した。暴乱平定に果断な措置を取るべきだ」と、武力行使を主張したという(「トウ小平秘録」)。同日午後6時、テレビ、ラジオが「緊急通告」として「反革命暴乱への反撃」を予告し、市民に外出しないよう呼びかけた。「反革命暴乱」という言葉が使われた最初だった。

 「天安門事件の真相」(参考資料26、27)では、私服の兵士を市内に移動させたのは、当時の状況では、学生・市民からの抵抗は容易に想像できたことから、武器を持たない兵士に対する投石などの行為をやらせ、それを「反革命暴乱」と名付けるための一種の「謀略」だった、という見方もあることを指摘している。暴力行為がない状況では、人民解放軍を投入する理由が成立しないからである。

 「緊急通告」は市民に外出をしないよう呼び掛けるものだったが、逆に、この放送により、多くの市民が軍の市内への侵入を阻止するために市内に繰り出した。この時、共同通信記者として取材に当たっていた「トウ小平秘録」の著者の伊藤正氏は、6月4日午前0時、西長安街西単付近にいたカメラマンから「軍が発砲した。市民はバスに火を付けて抵抗している。軍は天安門方向に向かった。」という電話を受けたという。

 天安門に最初に到着した軍隊は、西から市内に入った第38軍を中心とする北京軍区の主力部隊で、6月3日夜9時過ぎに長安街の西端にある公主墳に入り、天安門前に付いたのは6月4日午前1時頃だったという。この間の約8キロを4時間掛けて進んでいることから、途中で市民による相当の抵抗があったものと思われる。「トウ小平秘録」によれば、最初の衝突は木犀地(公主墳の東約2キロの地点)で起き、市民はバスや車両に放火して抵抗したという。こうした市民の抵抗に対して、軍は発砲しながら前進した(上に書いた西単は天安門の約2キロ西にある)。

 「トウ小平秘録」によれば、南から入ろうとした部隊(済南軍区第54軍)は、空へ向けた威嚇発砲はしたが市民に対する発砲はしなかった、という。北部方面部隊(北京軍区第24部隊)と東部方面部隊(瀋陽軍区第39軍など)は市民の抵抗に対して発砲せず、北京市内への入城を断念したという。

 天安門前広場に到着した戒厳部隊は6月4日午前3時までに広場の周辺をほぼ制圧し、午前4時に強制排除を実施するとの最後通告を出した。この時、天安門広場の中心にある人民英雄記念碑の周辺には約3,000人の学生らがいた。ハンストを行っていた北京師範大学講師の劉暁波氏らは、もはやこれ以上の抵抗は無理と判断し、戒厳部隊指揮官と交渉して、無抵抗撤退をする場合の安全の確保を約束させる一方、学生らに退去するよう説得した。しかし、学生らは納得せず、撤収しなかった。戒厳部隊は午前4時半、天安門広場の照明を付け、実力行使を行う予告をスピーカーで行った。学生たちは、最後のこの場面で、発声による投票を行い、ついに撤収することを決めた。午前5時半、学生たちはインターナショナル(革命歌)を歌いながら天安門前広場から退去した。張りぼての「民主の女神」は装甲車によって押し倒された。

(注)劉暁波氏は、この後も民主化運動を続け、2008年12月にインターネット上に出された「08憲章」の主要発起人の一人となった。その後「08憲章」を発表したことで「国家転覆罪」で逮捕され、二審制の裁判の結果、2010年2月、懲役11年、政治的権利はく奪2年の刑が確定している。

 学生らが天安門前広場を撤収する場面は、外国のテレビ局により撮影されており、私は1991年頃、NHKの番組で見た記憶がある。この時撮影された映像を見る限り、学生たちが最終的に天安門前広場から撤収した場面においては発砲は起きなかった。中国側当局は、今でも「天安門前広場では死者は出ていない」と主張しているが、西側報道機関関係者の話などを総合すると、「広場の中」で死者が出なかったのは事実のようである。

 しかし、戒厳部隊が市内に入るのを阻止するために抵抗した市民に対する発砲や、広場周辺を戒厳部隊が制圧する過程において、多数の死傷者が出たことは間違いがない。具体的な死傷者の数は今でも明らかではないが、「トウ小平秘録」によれば、1989年9月に訪中した自民党の伊東正義氏に対して李鵬総理が「死者319人(10数人の兵士を含む)。うち学生は36人で、大半は市民、労働者だった」と語ったという。「そうだったのか!中国」(参考資料4)では、別の数字として、1996年になって香港の雑誌が、中国公安部の報告として民間人の死者523人、軍・警察の死者45人と伝えている、と記している。「参考資料5:中国現代史」では、中国紅十字会(赤十字会)の話として、6月4日の未明の銃撃だけで2,600人前後が死に、1万人が負傷した、という数字を紹介している。

 「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)によれば、5月19日に三日間の「休暇届け」を出し、その後は完全に「蚊帳の外」に置かれていた中国共産党総書記の趙紫陽花氏は、6月3日の晩、自宅に家族と一緒にいて、聞こえてきた銃声によって、事態が始まったことを知ったという。

 天安門広場は戒厳部隊によって完全に制圧された。多数の学生や市民が広場を占拠する戒厳部隊に抵抗を試みるが、銃による威嚇で解散させられた。これらの様子は海外のメディアで広く報道された。ある学生らしき若い男が長安街で戦車の隊列の前に立ちはだかり戦車を立往生させるシーンが、当時、北京飯店にいた複数の外国報道機関により撮影され、世界に配信された。6月7日には、建国門橋の上にいる戦車と近くの外交公寓にいる何者かとの間で銃撃戦が行われ、その様子も外国で報道された。しかし、このような写真や映像を今中国では全く見ることができない。世界中のネット上の多くの場所に「第二次天安門事件」に関する写真や映像は掲載されているが、これらのウェブ・ページは中国国内(香港等を除く大陸部)からはアクセス制限が掛かっており閲覧できないからである。従って、1989年6月初めに起こったこれらの出来事については、世界中の人々は知っているのに、中国の人々だけが知らない、という状態が今でも続いている。

(注)6月7日に起きた建国門橋上での銃撃戦については、6月4日の天安門前広場制圧の3日後のタイミングであることなどを踏まえ、誰と誰がどういう理由で銃撃戦を行ったのかは今でも明らかにされていない。

 6月9日、トウ小平氏は共産党本部のある中南海で戒厳令部隊幹部を慰問し、武力鎮圧を正当化するとともに、今後とも改革開放路線を継続することを宣言する講話を行った。

(参考URL)「人民日報」ホームページ「党史記念館」-「トウ小平記念館」-
「著作選集」-「トウ小平文選第三集」
「首都戒厳令部隊幹部接見時の講話」(1989年6月9日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69696/4950037.html

 この講話で、トウ小平氏は「4月26日の『人民日報』の社説で、今回の問題について『動乱』という二文字を使った。一部にこの二文字を使ったことに反対し、修正すべきだという人がいたが、実際を見てみれば、この判断は正しかったことが証明された。」と述べている。やはり4月26日の社説の取り扱いが党内で大きな問題であったことを伺わせる講話である。

 当時、北京市内でも天安門周辺と戒厳部隊が突入した経路にあたる部分では激しい衝突が起こったが、それ以外の場所では、比較的平穏が保たれていた。北京の運動は中国各地に飛び火していたが、市民や学生の運動が行われている場所以外では平静は保たれており、経済活動は通常に行われていた。「第二次天安門事件」発生直後、多くの外国企業は職員の安全のため中国からの引き上げを行ったが、北京以外の場所にいた外国人にとっては国外へ待避する必要性を全く感じない人も多かったようである。北京での武力鎮圧の模様が中国国内では報道されなかったためと思われる。

 「第二次天安門事件」の直接の影響を受けた地域はごく限られた地域であり、トウ小平氏も改革開放路線は継続すると宣言したが、人民解放軍の投入による民衆の運動の鎮圧は、西側各国の反発を呼び、これから数年間、外国との経済関係は冷却化し、実質的に「開放路線」は一時的に頓挫することになる。諸外国が政治的に中国との交流をストップさせたからでもあるし、外国企業の中にも「やはり中国はとんでもないことをする国である」という「チャイナ・リスク」のイメージを持ったところが多かったからである。こういった経済的なダメージだけでなく、「第二次天安門事件」は中国や関係した人々に計り知れない傷跡を残すこととなった。

 6月23日、中国共産党第13期中央委員会第4回全体会議(第13期四中全会)が開催され、「動乱を支持し、党を分裂させた」として趙紫陽氏の総書記の職を解く決定がなされた。「趙紫陽極秘回想録」によれば、会議の当初、趙紫陽氏は総書記の職と政治局委員の職は解任されるものの、中央委員の職には留まる旨が提案されていたという。しかし、趙紫陽氏は「自己批判」せず、提示された解任する理由に反論する演説を行った。そのため、最終的には中央委員の職も解任された(党籍剥奪はされなかった)。趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」の中で、会議の中で自分の考えに従って解任理由に反論したことをもって当初提案されていたのよりも厳しい措置が採られるとは、甚だしく党の規約に違反している、と憤慨している。

 趙紫陽氏は、この後も「審査のため」として軟禁状態に置かれ、形式上の審査が終わった後も軟禁状態は継続された。趙紫陽氏は、総書記の解任は党の決定であるのでやむを得ないとしても、反論の場を与えられないことと、自分を自宅軟禁状態にすることの法的根拠はどこにもないと考えていた。そして、そういった不合理な扱いについて記録に残し、後世に伝える必要があると考えて、自分が国務院総理、党総書記を歴任し、その後解任されて軟禁状態に置かれている状況を口述してテープに録音するという形で「回想録」を残すことにした、と語っている。

 趙紫陽氏の後任の総書記として、上海市党委員会書記だった江沢民氏が総書記に選出された。政治局常務委員ではなくヒラの政治局委員だった江沢民氏が党のトップに選出されたのは、二階級特進の異例の措置だった。「世界経済導報」の発禁や編集長解任などの迅速な措置が評価されたためだ、と言われている。前にも書いたように1986年暮の学生運動の際、上海市長として早いタイミングで学生の前に現れて「君たちの行動は理解できる」と述べた対応の迅速さが評価されたことも背景にあるのではないか、と私は見ている。ただし、これから見ていくように、江沢民氏は、保守派でも改革派でもなく、その政治理念は必ずしも明確ではない。トウ小平氏からすると、ガチガチの保守派ではなく政治的には無色透明だった、ということも江沢民氏を抜擢した理由なのかもしれない。トウ小平氏としては、保守派の李鵬氏(国務院総理)を党総書記にすることは、改革開放路線継続の観点でよくないと判断したと思われるからである。

 「第二次天安門事件」以降の中国について述べる前に、次節では、この「第二次天安門事件」も大きな影響を与えた東ヨーロッパとソ連の動きについて述べることとしたい。

以上

次回「4-1-9:【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-9ab9.html
へ続く。

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2010年4月19日 (月)

4-1-9(4/5):「第二次天安門事件」(4/5)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第9節:「第二次天安門事件」(4/5)

 5月16日、ゴルバチョフ書記長は昼前にトウ小平氏と会談し、夕方に趙紫陽総書記と会談した。「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、趙紫陽総書記はゴルバチョフ書記長に対し「午前中の書記長とトウ小平氏との会談で中ソ関係は正常化した」と話した後、そう考える理由を次のように説明したと公表した。

「1987年10月の第13回党大会で、トウ小平同志は中央委員会から退いたが、(大会後の)中央委員会総会(一中全会)で『最重要問題についてはトウ小平同志の舵取りが必要だ』と決定した。以来、われわれは重要問題の処理に当たってはトウ同志に報告し教えを求めている。この重要決定はあなたに初めて話した。」

 この発言は、中国の最終意志決定権者は党総書記たる自分ではなくトウ小平氏である、ということを対外的に宣言したのに等しかった。これは、それまでの混乱の原因となった決定の責任は自分にはなく、トウ小平氏にあるのだ、という宣言でもあった。趙紫陽氏自身がどう考えていたかはともかく、周囲の人々はそうこの発言をそう捉えた。当時秘密とされていた「重要事項はトウ小平氏に相談する」という決議を党の総書記自身が外国の首脳に暴露したことは、極めて異常なことだった。

 1987年10月の第13回党大会の直後に開かれた第13期中国共産党中央委員会第1回全体会議(第13期一中全会)は、決定した人事の中で、トウ小平氏、李先念氏、陳雲氏ら古豪幹部が中央委員会から退き、指導部幹部の若返りを図ったことが、決定事項の目玉のひとつだった。当時の「人民日報」は、老幹部が退任して、指導部の若返りが図られたことは画期的なことで、この決定は重大な一歩である、と賞賛する社説を掲げている。

(参考URL)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「中国共産党歴代全国代表大会アーカイブ」
「第13期中国共産党中央委員会第1回全体会議」
「社説:重大な一歩の意義」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64566/65383/4441833.html

 この第13期一中全会の決定における指導部の若返りは、1980年代前半のソ連に見られた「老人支配」の轍を中国は踏むことはない、という宣言だった。しかし、その第13期一中全会において「重要事項はトウ小平氏に相談する」という秘密決議が行われていたことは、実態的には「老人支配」が終わっていなかったことを意味する。そのことをソ連において「老人支配」を脱するために書記長となったゴルバチョフ氏に対して告げたことは、趙紫陽氏にとって、老人支配の最高権力者、即ちトウ小平氏に対する捨て身の「最後の抵抗」だった、と周囲の人々からは見られた。

 この時のゴルバチョフ書記長との会談において、第13期一中全会において「最重要問題についてはトウ小平同志の舵取りが必要だ」ということを決議したことを伝え、それを公にしたことについて、趙紫陽氏自身は、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)の中で、次のように弁明している。

○この時期に様々な決定は最終的にはトウ小平氏の判断によってなされたわけだが、それは第13期一中全会の決定に基づくものであり、トウ小平氏の地位は完全に合法的なものであることを内外に示したかった。それは、今回の事態に対する一連の党の決定が、非合法な手続きに基づくものではなく、第13期一中全会の決議に基づく、きちんとした根拠のあるものであることを示したかったからである。今までも外国の要人との会談においては、同様のことを話したことがあった。

※趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」の中で、「第二次天安門事件」後に自分が軟禁状態に置かれたことについて、法的根拠がないと抗議している。そして、文化大革命の反省に基づいて、改革開放後は、中国共産党と言えども、法律と党の規則に則って運営されるべきはずである、と再三に渡って主張している。自分に対する軟禁処置が非合法なものであることを主張するにあたって、趙紫陽氏は、「第二次天安門事件」の処理の過程における様々な党の決定が合法的に行われたものであったことを主張したかったのだろうと想像される。

○自分は、一貫してトウ小平氏の対する尊敬の念を抱いているからこそ、トウ小平氏の言動の法的根拠を世の中に明示しておきたかったのである。

○しかし、自分の意志に反して、このゴルバチョフ書記長に対する自分の発言が、多くの人に、特にトウ小平氏自身に、自分(趙紫陽氏)が党総書記としての責任を回避して、全ての問題への対処の決定の責任をトウ小平氏に押し付けている、という印象を与えてしまったことは非常に残念であり、そうなった結果を踏まえれば、ゴルバチョフ書記長にああいった発言をしたことを後悔している。

 「趙紫陽極秘回想録」で語られた趙紫陽氏の「真意」は、にわかには信じがたいが、軟禁中の趙紫陽氏が極秘裏に「回想録」を録音していたのは、この問題を含めて、世間に流布している自分に関する「誤解」を解きたい、という一念があったからこそだ、と考えれば、この趙紫陽氏の「弁明」は、素直に受け取るべきなのかもしれない。

 趙紫陽氏の「真意」がどこにあったのだとしても、事実としては、この趙紫陽氏のゴルバチョフ氏に対する発言が報道されると、学生・知識人・市民たちは、全ての決定がトウ小平氏によって行われたことを知り、怒りの矛先はトウ小平氏に向かうようになった。そして、この後、トウ小平氏に対する批判のスローガンが公然と出るようになる。悲劇的なことだが、このことが結果的に、この頃やや迷いの見えていたように思えるトウ小平氏に対し最も強硬な選択肢を選ぶことを決断させる原因となったと言える。

 一方で、ゴルバチョフ書記長訪中前に天安門広場から人々を立ち退かせることに失敗し、しかも全ての責任をトウ小平氏に被せるかのような発言をした趙紫陽氏に対しては、急速に党内で失望の念が広がっていく。

 「趙紫陽極秘回想録」によれば、趙紫陽花氏は、ゴルバチョフ書記長との会談が行われた5月16日夜に政治局常務委員会を招集した。この会議で、趙紫陽氏は、学生たちのハンストを中止させるため、「学生諸君の熱烈なる愛国精神は賞賛に値し、党中央委員会と中国国務院は彼らの行動を評価する」という表現を含んだ声明を出すことが議論された。李鵬氏は、「賞賛に値する」という表現だけで十分であり、「評価する」という表現は削除すべきだ、と主張した。しかし、保守派の楊尚昆氏(国家主席)も「評価する」という表現を入れることに同意し、結局は声明は原案通り承認された。趙紫陽氏は、この会議で、4月26日の社説の判断に対して修正を加えるよう提案したが、李鵬氏が強硬に反対し、4月26日の社説に関する件については、この会議では決められなかった。トウ小平氏の意見を聞くため、趙紫陽氏はトウ小平氏に電話を掛け、翌日の5月17日午後、トウ小平氏の自宅で会議を行うことになった。

(注)この時の政治局常務委員は、趙紫陽氏、李鵬氏、姚依林氏、胡啓立氏、喬石氏の五人である。楊尚昆氏は国家主席ではあるが政治局常務委員ではない。「トウ小平秘録」によれば、この当時、1987年の党中央委員会の決議に基づき、長老の楊尚昆氏と薄一波氏は政治局常務委員会にオブザーバーとして参加できることとされていた、とのことである。

 一方、ゴルバチョフ氏がトウ小平氏や趙紫陽総書記と会談した翌日の5月17日、趙紫陽氏の発言によって、人々のトウ小平氏に対する反発はますます強まっていた。この日、厳家其氏(中国社会科学院前政治研究所長。この文章の参考文献である「文化大革命十年史」の筆者)ら知識人グループは「5・17宣言」を発表した。この宣言では「中国には皇帝の肩書きのない皇帝、老いて凡庸になった独裁者がいる」「老人政治は終わらさせなければならない。独裁者は引退せよ。」と述べられていた(「トウ小平秘録」)。知識人たちの攻撃目標がトウ小平氏自身に向けられるようになったことは、もはや明白になった。

 5月17日午後、トウ小平氏の自宅で会議が開かれた。この日の会議について「トウ小平秘録」では「党政治局拡大会議」と称しているが、「趙紫陽極秘回想録」ではそうした会議の名称は記されていない。そもそも党の正式会合ならば総書記の趙紫陽氏が招集すべきものであるから、当の趙紫陽氏がそう認識していないのだったら、この日の会議を「党政治局拡大会議」と称するのは正しくない。また、党の正式な会議がトウ小平氏の自宅で行われた、というのもおかしい。おそらく、戒厳令の発令、という極めて重要な決定がこの会議でなされたことから、現在の党内の記録上は、この5月17日午後にトウ小平氏の自宅で行われた会議を「党政治局拡大会議」と称して、党の正式な決定ができる会議であった、と位置付けているものと思われる。

 この5月17日のトウ小平氏の自宅における会議では、趙紫陽氏は、4月26日の社説に対する判断の変更を求めた。「趙紫陽極秘回想録」の中で、趙紫陽氏は、自分が意見を述べている間、トウ小平氏は「とてもいらいらして不愉快そうだった。」と述べている。趙紫陽氏が社説を変更すべきとの意見を述べたのに対し、李鵬氏と姚依林氏がそれを非難した。胡啓立氏は社説は修正すべきだと述べた。喬石氏は言葉を濁した。楊尚昆氏(国家主席)は社説の修正に反対した。

 最終的にトウ小平氏が発言した。トウ小平氏は、趙紫陽総書記の5月3日の「五四運動70周年記念大会での演説」と5月4日のアジア開発銀行理事会参加者への発言で柔軟路線を示したことが、かえって学生らの動きをひどくしたことを指摘し、これ以上は妥協はできない、と述べ、戒厳令を発令すべきだ、と主張した。「トウ小平秘録」によれば、趙紫陽総書記は戒厳令発令に反対したが、他の参加者は賛成し、趙紫陽氏は多数による決定に従うと答え、戒厳令発令が事実上決まった、とされている。「趙紫陽極秘回想録」において、趙紫陽氏は、「総書記として、この決定内容を推進し、効果的に実行することは私には難しい。」と述べたという。「趙紫陽極秘回想録」で、趙紫陽氏は、「会議はこれで一旦休会となり、私(趙紫陽氏)はすぐにその場を立ち去ったので、トウ小平氏が誰かに残るよう指示したとか、残った者たちで他の問題が話し合われたとかは私は知らない。」と述べ、趙紫陽氏自身、何人かの人がトウ小平氏の自宅に残って、趙紫陽氏の去就について議論が行われた可能性を示唆している。

 この日(5月17日)の夜、再び会議が開かれた。「トウ小平秘録」では、この夜の会議を「政治局常務委員会」と称しているが、「趙紫陽極秘回想録」では趙紫陽氏はこの会議を「常務委員会の状況報告会」と称している。総書記たる自分が招集した政治局常務委員会ではないのだから、党の正式会議としての「政治局常務委員会」ではないのだ、というのが趙紫陽氏の主張であろう。

 戒厳令の発令には、正式には政治局常務委員会での決定が必要である(トウ小平氏や楊尚昆氏は政治局常務委員会のメンバーではない)。5月17日の夜の会議(「トウ小平秘録」では「政治局常務委員会」と称されているが「趙紫陽極秘回想録」では「常務委員会の状況報告会」と称されている会議)には、趙紫陽氏、李鵬氏、姚依林氏、胡啓立氏、喬石氏の5人の政治局常務委員と、表決権のないオブザーバーの薄一波氏と楊尚昆氏(国家主席)が参加していた。「トウ小平秘録」によると、この会議の経緯はおおよそ以下の通りである。

「趙紫陽総書記は戒厳令発令に反対した。トウ小平氏宅では賛成していた胡啓立氏は翻意して反対を表明した。喬石氏は『支持、不支持も表明できない』として態度を保留した。李鵬氏と姚依林氏は賛成だった。賛否同数ならばトウ小平氏に裁断を仰ぐことになるので、結論は明らかだった。ここに至り、趙紫陽氏は総書記辞任を申し出た。薄一波氏と楊尚昆氏は慰留したが趙紫陽氏の辞意は固かった。」

 しかし、趙紫陽氏は「趙紫陽極秘回想録」でこれと違うことを書いている。

○政治局常務委員会で3対2で決まった、という風説があるが、これは違う。

○4月26日の社説の修正について(戒厳令の発令について、ではない)、常務委員のうち自分(趙紫陽氏)と胡啓立氏は賛成し、姚依林氏と李鵬氏は反対し、喬石氏は明確な見解を述べず、中立の立場を示した。

○昼間のトウ小平氏の会議では、政治局常務委員ではないトウ小平氏と楊尚昆氏を混ぜれば、強硬な意見を言う人の方の数が多かったのは確かだが、戒厳令の発令について「投票の結果3対2で決まった」というのは事実ではなく、正式な政治局常務委員会による正式な投票は一切なかった。

 現在の党の記録上は、5月17日夜に開かれた会議を「政治局常務委員会」と称し、戒厳令の発令がその「政治局常務委員会」での票決で決まった、ということになっているのかもしれないが、「趙紫陽極秘回想録」で趙紫陽氏が語ったことが事実であったとすれば、戒厳令の発令は、実際は昼間の会議でトウ小平氏の「ツルの一声」で決まったことになる。しかし、このような重大な決定が党の正式機関の決定ではない、というのはまずいので、5月17日夜に開かれた会議を正式な「政治局常務委員会」と位置付け、その場で票決で戒厳令発令が決まった、という形に記録上はしてある、ということだと思われる。しかし、政治局常務委員会を招集する責任者である党総書記の趙紫陽氏が「戒厳令発令について政治局常務委員会の票決による投票は一切なかった」と言っているのだから、おそらくそれが事実としては正しいのであろう。

 5月17日夜の上記の会議の後、趙紫陽氏は、党中央弁公庁(党の事務局)のアレンジで、ハンスト中に倒れて入院している学生を病院に見舞った(この時の党中央弁公庁の主任が現在の国務院総理の温家宝氏である)。

 趙紫陽氏は、5月17日の昼間のトウ小平氏の自宅での会議で「総書記として、この決定内容を推進し、効果的に実行することは私には難しい。」と述べ、辞表を用意した。夜の会議でも総書記辞任の意向を示したが、楊尚昆氏から強く慰留されたため、5月18日、趙紫陽氏は辞表の常務委員会への提出にストップを掛けた。「趙紫陽極秘回想録」によれば、5月18日、趙紫陽氏は、トウ小平氏に対して、4月26日の社説を修正し、強硬手段を採るのを回避するよう手紙を書いたが、返事はなかった、とのことである。

 「趙紫陽極秘回想録」では、趙紫陽氏は、5月17日のトウ小平氏宅での会議において戒厳令発令が決まった時に辞意を固めた、ということになっているが、もしかすると、趙紫陽氏はゴルバチョフ書記長と会談した時点で、既に、自分は辞任するほかはない、と覚悟していた可能性がある。ゴルバチョフ書記長との会見時に既に辞任を覚悟していたとすれば、ゴルバチョフ書記長との会談で「全ての重要事項の決定はトウ小平氏に相談して決めている」と発言しそれを公表した理由もわかりやすいからである。

 戒厳令発令決定と趙紫陽総書記の辞意を受けて、トウ小平氏は5月18日、党の古参幹部を招いて長老会議を開催した。長老会議には「八長老」と呼ばれたトウ小平氏、陳雲氏、李先念氏、彭真氏、トウ穎超氏(周恩来夫人)、楊尚昆氏、薄一波氏、王震氏と趙紫陽氏を除く政治局常務委員(李鵬氏、姚依林氏、胡啓立氏、喬石氏)が参加した。長老会議では、戒厳令発令を支持し、5月21日午前0時をもって戒厳令を施行することが決定された。これを受け、人民解放軍に出動命令が出され、5月19日には実際に一部の部隊が北京へ向けて移動を開始した。長老会議は党の正式な会議ではないから、「長老会議で戒厳令施行が決定された」という言い方は正式には正しくないが、実態的にはこの会議で正式に全てが決まったと言ってよい。これも中国共産党の決定がルールに則って行われているわけではないことを示す一例である。

 この「長老会議」の決定について、党総書記である趙紫陽氏には何も知らされなかった。

 「長老会議」で戒厳令発令が決められた翌朝の5月19日未明、午前5時前、ハンストを続けている学生たちの前に、趙紫陽氏、李鵬氏が突然現れた。「趙紫陽極秘回想録」によると、李鵬氏は趙紫陽氏が天安門前広場へ行くことに反対したが、趙紫陽氏は「私は絶対に行く。私一人でも行く。」と強硬に主張した、という。しかたなく李鵬氏は趙紫陽氏とともに天安門前広場へ行ったが、広場へ到着するとすぐに李鵬氏は姿を消してしまった。

 趙紫陽氏は、いつも着ている背広ではなく、中山服(日本のマスコミ用語でいう「人民服」)を着ていた。当時、党中央弁公庁主任(中国共産党事務局の事務局長に相当する)だった温家宝氏(現国務院総理)も同行していた。趙紫陽氏はハンドマイクを使って学生たちに呼びかけた。

「我々はここへ来るのが遅すぎた。我々は既に年老いていて先がない。しかし君たちはまだ若い。未来がある。国のためによかれと思ってやっていることでも、各方面に大きな影響を与える。冷静に考えて、ぜひハンストを中止して欲しい。」

 軍隊が動き始めようとしていたこの時期、総書記自らが「既に戒厳令発令が決定された」と言うことはできないので、趙紫陽氏は、人民服を着ることによって事態が緊迫していることを学生たちに伝え、戒厳令発令の可能性をも暗に伝えようとしたのであろうか。しかし、趙紫陽氏自身が言っているように、この時点では既にあまりにも「来るのが遅すぎた」。既に天安門広場が多くの人々で埋め尽くされ、トウ小平氏批判のスローガンも飛び交うようになったこの時点で、学生たちがハンストを止めることはなかった。

 この時点における温家宝氏の立場は必ずしも明確ではない。党の事務局のトップ(党弁公庁主任)として党総書記の趙紫陽氏に随行しただけだ、と考えるのが冷静な見方なのだろうが、ハンドマイクを持ち学生たちに訴える趙紫陽氏のすぐ右隣りに立っている温家宝氏の写真は、西側のジャーナリストによって世界に配信された。しかし、「第二次天安門事件」に関する写真や映像は中国では見られない(インターネット上でも多くの関連サイトにはアクセス禁止措置が掛けられている)ので、中国の人々の中にはこの写真を見たことのある人は意外に多くないかもしれない。温家宝氏もこの日のことを今まで黙して語ったことはない。温家宝氏が、この日、どういう気持ちで趙紫陽氏の隣に立っていたのか、本当のところを素直に語れる日が来ることを望みたい。

(注)「温家宝氏もこの日のことを今まで黙して語ったことはない。」のは事実である。しかし、一方で、つい最近、2010年4月15日付けの「人民日報」に温家宝総理が胡耀邦氏を偲ぶ文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」が掲載された。もしかするとこの文章の発表は、温家宝総理が、任期2年あまりを残す2010年に至って、ようやく1989年の事態に対する「思い」を語り始める気持ちになったことの表れかもしれない。この点については、この後【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】で書くことにする。

 趙紫陽氏が学生らに訴えかける様子は、中国のテレビでも5月19日朝のニュースの時間に放映された。この頃のテレビに対する報道規制がどうなっていて、中国のテレビ局がどういうつもりでこの場面を放映したのかは不明であるが、「トウ小平秘録」によると、トウ小平氏自身は、この映像を見て激怒したという。この頃、中国中央電視台や人民日報社の中にも学生らに同情的な意見の人が多く、報道規制は必ずしも統一された考え方の下でコントロールされていたわけではなかったようである。

 趙紫陽氏が公の場に姿を見せたのは、この天安門前での学生らへの説得が最後となった。趙紫陽氏自身、5月19日、政治局に三日間の休暇を申請した。そして李鵬氏に政治局常務委員会の議長を務めるよう提案した。辞表の提出にはストップを掛けていたものの、趙紫陽氏自身、この休暇願いの提出により、事実上、この時点で全ての動きから身を引いたことになる。

 一部の知識人たちの中には、この趙紫陽氏の5月19日朝の学生らへの訴えかけの行動を「戒厳令の発令の口実をなくすための必死の訴え掛けだ」と察知した人もいた。彼らは必死になって学生らに対してハンスト中止を説得し始める。「トウ小平秘録」によると、5月19日午後9時、学生運動リーダーの柴玲氏が学生の説得に成功し、ハンスト中止を宣言した。しかし、その30分後、北京市西郊外の国防大学で開かれた党・政府・軍幹部会議で戒厳令実施が発表され、事態は動き始めてしまった。

以上

次回「4-1-9(5/5):『第二次天安門事件』(5/5)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-6902.html
へ続く。

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2010年4月18日 (日)

4-1-9(3/5):「第二次天安門事件」(3/5)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第9節:「第二次天安門事件」(3/5)

 5月7日、杭州で静養していた保守派の重鎮の陳雲氏が北京に戻った。この後の一週間、4月26日の社説の修正を含め学生らとの対話路線によって事態を収拾しようとする趙紫陽総書記らの柔軟路線と李鵬総理ら保守派の強硬路線が対立し続け、ソ連のゴルバチョフ書記長の訪中という歴史的イベントを迎えることになる。

 ちょうどこの時期、即ち1989年のゴールデン・ウィークの頃、私はオーストリアのウィーンに出張していた。出張に行く前は、私は、天安門前でデモ隊が座り込みを続ける状態でゴルバチョフ書記長を北京に向かえることは、メンツを大事にする中国政府の幹部にとって容認できない事態なので、日本のゴールデン・ウィークが終わり、私がウィーン出張から戻る頃には、警官隊による実力を行使してでも、天安門前広場から学生らは排除されているだろう、と思っていた。しかし、そういった実力行使は行われなかった。

 5月3日及び4日の趙紫陽総書記の演説により、学生らの怒りはかなり治まったが、日本のゴールデン・ウィークが終わっても、一部の少数の学生らは天安門前広場で座り込みを続けていた。それを見て、私は、中国当局の対応が「いつになく中途半端だ」という印象を受けた。逆に言うと、なぜ実力行使をしないのだろうか、と思った。

 この頃、私が思い描いていた「当局による実力行使」とは、日本や韓国で学生デモに対して警備当局が行うような実力行使、即ち、盾と警棒を持った警官隊が放水銃を備え付けた車両に援護されながら、時には催涙弾を使いつつ、座り込みを続ける学生たちを排除する、という光景だった。しかし、後になって思い知ったのは、中国の警備当局には、放水銃や催涙弾といった「デモ鎮圧用の機器」が装備されていない、あるいは装備されていてもその規模は非常に小さい、ということである。後に、例えばチベットにおける争乱に対する当局の対処を見ても、放水銃や催涙弾が使われている様子はない。従って、現在でも、中国の警備当局では、こういった「デモ鎮圧用機器」はあまり数多くは装備されていないものと思われる。そもそもデモを行うこと自体が許されていない中国においては、「デモ鎮圧用の機器」が必要となる事態は想定されず、そのための装備は準備されていない、ということなのかもしれない。

 「第二次天安門事件」において何が行われたのかを1年後の時点で検証した矢吹晋氏の「天安門事件の真相」(参考資料26及び27)では、6月3日夜から6月4日未明に掛けての武力弾圧に際して、当局側は最初は催涙弾を使用していたが、多数の群衆の前に催涙弾はすぐに使い尽くしてしまったことが記されている。従って、中国の警備当局が催涙弾を装備しているのは間違いない。また、2008年6月の雲南省での民衆暴動において、当局側から「ゴム弾を使用した」との発表があった。従って、中国の警備当局でも、デモ鎮圧用の非殺傷性の「武器」を装備しているものと思われるが、1989年の「第二次天安門事件」では、繰り出した学生・市民は圧倒的な数に上り、通常の「デモ」鎮圧用の装備だけではとても足りない状態だった、ということは言える。

(注)催涙弾やゴム弾は「非殺傷性」と言われるが、至近距離からまともに被弾すると死に至る怪我をする場合がある。デモ隊が抵抗の道具としてよく使う投石や火炎瓶についても、それが警備要員にまともに当たると警備要員が死亡するケースがあることは、過去のデモ隊と鎮圧当局との衝突の経験から広く知られているところである。

  私は、この時(1989年5月初)のウィーン出張の期間中、ウィーンに駐在する日本人からこの頃の東ヨーロッパ情勢を聞いた。ハンガリーでは改革派が政府の主流派を占めるようになり、国境警備隊が無断で越境する者に対して銃撃等の強硬手段を採らなくなったため、ハンガリー・オーストリア国境地帯において、ハンガリー側から違法に中立国であるオーストリアに入国する者が後を絶たなくなった、とのことだった。ハンガリーからオーストリアへの違法越境に際しての生命の危険がなくなったことから、ハンガリー人だけではなく、東ヨーロッパ各国からハンガリーとオーストリアを経由して西側へ脱出する人が相次いでいる、とのことだった。私は、この後も、仕事の関係で、1989年~1991年、毎年1回程度ウィーンに出張する機会があり、この後もウィーンに行くたびに激変するソ連・東欧情勢を肌で感じることになる。

 趙紫陽総書記は、学生たちの要求に具体的に応えるため、5月8日及び5月10日に党政治局常務委員会を開催して、全国人民代表大会常務委員会を早期に開催して改革案を検討することを決定した。これを受け、改革派の全人代常務委員会の万里委員長は、6月20日前後に全人代常務委員会を開催することを決め、議題として、集会・デモ法草案や新聞法草案の起草状況の聴取も含めることとした。この決定の後の5月12日、万里氏は、かねてから予定されていたカナダ・アメリカ訪問へ出発した。

 保守派の重鎮・陳雲氏が北京に戻り、改革派の有力者・万里氏が外遊のため北京を離れる、といったわずかなパワーバランスの変化が、この後の動きに微妙な影響を与えることになる。

 この時点(5月4日の趙紫陽氏のアジア開発銀行代表団を前にしての演説以降)で、多くの学生は大学に戻っていた。しかし、1989年春のこの時の動きは1986年末の学生運動とは違っていた。学生だけでなく、知識人や多くの新聞人たちが動き始めていたのである。ソ連・東欧や韓国の状況の変化を知り、改革開放によって活躍の場が増えた知識人たちや新聞人たちは、社会の中における自分たちの役割を自覚し始めていた。学生たちが大学に戻った後も、4月26日の社説に反対し、「世界経済導報」の発禁と編集長解任に抗議する知識人・新聞人たちが動き続けるのである。

 趙紫陽総書記は、「四つの基本原則」を堅持する(=社会主義制度と中国共産党による指導を変えることはしない)が、政治改革を進める姿勢を示すことで、学生たちの運動は治まる、と考えていた。方向性としては、趙紫陽総書記の考えは間違ってはいなかったと思われるが、問題はそう単純ではなかった。そもそも運動を行っている人たちは、一枚岩ではなく、いろいろな立場の人々が、いろいろな思いを胸に運動していたため、趙紫陽総書記の柔軟姿勢に納得して運動をやめた人もいれば、もう少し運動を進めればもっと具体的な成果が得られるかもしれない、と考える人もいたからである。

 最もネックだったのは、趙紫陽総書記が、4月26日の「人民日報」の社説において学生たちの運動が「動乱」だと決めつけられたことを否定せず、胡耀邦氏を再評価する発言を掲載しようとして発禁となり編集長が解任された上海の「世界経済導報」の事件についても、上海市当局の対応を否定しなかったことである。一部の学生は4月26日付け社説の撤回を要求し続け、一部の知識人・新聞人は「世界経済導報」に対する処分の撤回を要求した。

 この頃デモに加わるようになっていた知識人や新聞人の中には「人民日報」社の記者すら含まれていた。多くの「人民日報」の記者たちも、この頃既にジャーナリストとしての自覚と自負を持ち始めていたのである(このことは「第6節:中国の社会・経済で進む微妙な変化」で述べた)。中国共産主義青年団(共青団)の機関紙「中国青年報」の記者だった李大同氏もそうしたジャーナリストの一人だった。李大同氏らジャーナリスト1,000人余は、5月9日、政府に対話を要求する書簡を発表した。

(注)李大同氏は、その後「中国青年報」の編集長となった。李大同氏が「中国青年報」が編集長をしていた2006年1月、「中国青年報」の中の週刊の評論特集ページ「氷点週刊」が掲載した義和団運動を論評する記事について、中国共産党宣伝部がクレームを付け「氷点週刊」は停刊となり、李大同氏は「中国青年報」の編集長を解任された(「氷点週刊事件」)。この問題は、直接の原因は義和団運動に対する評論を掲載したことであるが、背景として、その直前に胡啓立氏による胡耀邦氏の業績を評価する文章「我が心中の胡耀邦」を掲載したことが原因ではないかと言われている。これについては「第4章第2部第4節:胡錦濤主席は新しい道を切り開けるか」で述べることとする)。

 この時期、胡耀邦氏の功績を評価する座談会の状況を掲載したとして、当時の江沢民氏をトップとする上海市党委員会の指示により、「世界経済導報」が発禁処分になり編集長が解任されことがジャーナリストたちが街頭へ繰り出した大きな理由の一つだったことと、江沢民氏のそういった措置を評価して、トウ小平氏が、趙紫陽氏が失脚した後、江沢民氏を二階級特進で中央の党総書記に抜擢したことを考えると、2010年4月15日(胡耀邦氏死去21年目の命日)の「人民日報」に温家宝総理が現職の総理として異例の胡耀邦氏を偲ぶ文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を発表したことは、政治的に極めて大きな意味を持つと思われる。これについては、この節の終わりに【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】で改めて述べることにする。

 「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、1989年5月6日、趙紫陽氏が党政治局常務委員の胡啓立氏に対し、「報道を少し緩和してよい」と指示し、これを受けて、5月8日には、人民日報社内で銭立仁社長が「胡啓立氏から、趙紫陽講話の精神を実行し、どんな要求を提出してもよいと電話があった」と話していた、とのことである。こういった話は、強硬な社説を掲載した人民日報社内でも、趙紫陽総書記の対話路線を受け入れようという雰囲気があったことの表れである。

 こうした様々な動きの中で、多くの学生は大学に戻ったものの、まだかなりの数の学生たちや知識人・新聞人たちは天安門前広場に残っていた。5月15日にはソ連のゴルバチョフ書記長が北京に到着する予定であり、ゴルバチョフ書記長の歓迎式典は、他の国の国賓と同じように、人民大会堂東側にある天安門前広場の西側で行われる予定だった。従って、5月15日には、座り込みを続ける人々を天安門前広場から排除する必要があった。しかし、5月10日を過ぎても、趙紫陽総書記は天安門前広場から人々を排除するよう命令を出さなかったし、トウ小平氏もこの時点では強制排除を指示しなかった。それはなぜか。これも「第二次天安門事件」の謎のひとつである。

 趙紫陽総書記は、政治改革を行う、という対話路線により、天安門前広場の人々はゴルバチョフ書記長が到着する前に説得に応じて自主的に退去すると考えたのであろうか。トウ小平氏は、この時点で実力による強制排除を強行すべきかどうか迷っていたのであろうか。もしトウ小平氏が迷っていたのだとすると、いつも状況を的確に把握し果敢に決断するトウ小平氏としては極めて珍しいことである。

 いずれにせよ、趙紫陽総書記の「対話路線」の演説により、天安門前広場にいる人々がゴルバチョフ書記長の北京訪問の前に自主的に退去するだろう、という見方は完全に甘かった。事態はむしろ逆だった。ソ連共産党書記長の中国訪問は、中ソ対立前の1959年以来初めてであり、それ自体が歴史的出来事だったので、世界のマスコミの関心を呼ばずには置かなかった。天安門前広場にいる学生たちは、世界から集まるマスコミに対して、自分たちの主張を知ってもらおうと思ったのである。また、この当時の多くの東ヨーロッパの人々がそうだったように、ゴルバチョフ書記長に自分たちの行動を見せ、ゴルバチョフ氏に自分たちに対する支持を表明してもらいたいと願っていたのである。従って、ゴルバチョフ書記長の訪中が迫るにつれ、自分たちの主張を世界の人々とゴルバチョフ書記長に見てもらうために、むしろより多くの人々が天安門前広場に集まるようになった。

 この頃、学生運動の中心となって動いていたのは、北京大学の王丹氏、北京師範大学のウアルカイシ氏(ウィグル族)や柴玲氏らだった。しかし、多くの学生らの考え方は様々であり、彼らは多くの学生の支持を集めて運動をリードしていたのは確かだが、彼ら自身、運動を行っている人々の全てを一定方向に動かすことは困難だった。

 趙紫陽総書記の演説により多くの学生が大学に戻りつつあった状況の中で、学生らの中にいた「もっと強く4月26日付け社説の撤回と政府との対話を要求すべきだ」と考えるグループは、ゴルバチョフ書記長訪中のために世界の関心が北京に集まる中、ハンガー・ストライキを決行することを決めた。5月13日、約1,000人の学生が天安門前広場に座り込んでハンストを開始した。学生・知識人の中には絶食戦術には賛成しないグループも多く、この時期、多くの人々がハンストの中止を説得した。しかし、強硬な学生グループはハンストを中止しなかった。そして、そのままゴルバチョフ書記長が北京へ到着する5月15日を迎えることになる。結局「対話により天安門前広場から人々を退去させる」という趙紫陽総書記の希望は実現しなかった。

 ゴルバチョフ書記長が到着した5月15日までの間、結局、警備当局による天安門前広場からの人々の強制排除は行われなかった。強制排除が行われなかった、という事実は、警備当局はまだ人々の活動を許している、という感覚を生み、さらに多くの人々を天安門前広場に駆り出すことになる。人々は、世界のマスコミに向け、ゴルバチョフ書記長を歓迎するプラカードを掲げた。この日、天安門前広場には50万人もの人々が集まったという。当然、ゴルバチョフ書記長の歓迎式典の場として天安門前広場を使うわけにはいかなくなり、歓迎式典は北京空港で行われた。メンツを大事にする中国において、国賓の歓迎行事を政府が予定していた場所で行えなかったことは大きな失態だ、と党と政府の幹部は感じたに違いない。

以上

次回「4-1-9(4/5):『第二次天安門事件』(4/5)」
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へ続く。

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2010年4月17日 (土)

4-1-9(2/5):「第二次天安門事件」(2/5)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第9節:「第二次天安門事件」(2/5)

 「新華門事件」が起きたのと同じ4月19日、上海で発行されていた週刊の雑誌「世界経済導報」は胡耀邦氏の追悼座談会を開催した。この座談会の参加者であった厳家其氏(中国社会科学院前政治研究所長。この文章の参考文献である「文化大革命十年史」(参考資料14)の筆者)らは、この座談会で胡耀邦氏の行動を再評価する発言をしていた。

 趙紫陽総書記が北朝鮮へ向けて出発した4月23日、上海市党委員会(この時の上海市党書記は江沢民氏)は、胡耀邦氏の業績を評価する内容を含んでいる追悼座談会の発言を掲載した「世界経済導報」に当該部分の削除を命じた。この措置を採った上海市党委員会の宣伝部長は陳至立氏、宣伝担当副書記は曾慶紅氏である。陳至立氏は、1990年代に教育部長などを歴任し、この文章の執筆時点(2010年)では教育担当国務委員である。曾慶紅氏は2007年の第17回党大会で退任するまで政治局常務委員を務めていた。この「第二次天安門事件」の際における迅速な対応が評価され、それが彼らを20年以上にわたり中央で高い地位を占める原因となったのである。そもそも江沢民氏がいまだに大きな政治力を持っていることでもわかるように、1989年の「第二次天安門事件」は、現在に至るまで、中国の勢力分布の基礎となっていると言える(だからこそ、現在の中国において、「第二次天安門事件」を再評価することは、政治的にはタブーなのである)。

 「世界経済導報」編集長の欽本立氏は、座談会記事の一部の削除命令を拒否して、輪転機を回し続けた。このため上海市当局は、4月24日、「世界経済導報」の発刊停止を命令した。

 4月24日、北京では、多くの大学の代表が集まり、授業ボイコットを決めた。北京だけで39もの大学で学生のストが起きたという。複数の大学に横断的に運動が広がったことに対し、党内部には「ごく少数の者が裏で画策し操縦している」との認識を高めた。実際に誰かが裏で画策していたのかどうかは不明であるが、仮に誰かが裏で動いていたにせよ、多くの大学生の間に深い不満が溜まっていなければ、ちょっとしたきっかけでこれだけの運動にはならない。「誰かが画策している」との認識だけが先走り、学生たちにとって何が不満であり、何を求めているのかを知ろうとしなかったことが、当時の中国共産党幹部の失敗だった。

 この学生たちの動きを受けて、趙紫陽総書記から留守中の案件処理を託されていた李鵬総理は、同日(4月24日)、政治局常務委員会の非公式会議を招集した。この会議では、「ごく少数の者の操縦と画策の下で、計画もあり組織もある反党・反社会主義との政治闘争に直面している」との認識で一致し、今回の動きを「動乱」と呼び、党中央に「動乱制止小組」を設置することを決めたという(参考資料17:「トウ小平秘録」)。問題は、この重要な決定が党のトップである趙紫陽総書記が不在の場で決められたことである。この決定に際して、北朝鮮訪問中の趙紫陽氏に対しては、帰国要請はなされなかった。この4月24日の政治局常務委員会非公式会議には、趙紫陽氏に近い改革開放派の万里氏や田紀雲氏も出席していたが、趙紫陽氏がいない場においては、李鵬氏や楊尚昆国家主席ら保守派の意見に押し切られたものと考えられている。

 このことを考えると、この学生たちの動きに対する対処方針の決定を巡る党内の動きは、改革推進派の趙紫陽総書記が不在の間に李鵬総理ら保守派が党内の動きを牛耳ろうとしていたという派閥闘争的色彩が強かった、との見方も可能である。

 トウ小平氏は、この政治局常務委員会非公式会議には出席していなかったが、会議の翌日の4月25日、李鵬総理と楊尚昆国家主席がトウ小平氏の自宅を訪問し、会議の結果を報告した。トウ小平氏は、会議の結果を全面的に支持し、「旗幟を鮮明にして、強い措置をとって動乱を制止せよ。」と指示した。そしてその線に沿って「人民日報」に社説を出すよう指示したという。この時点で、この重大な決定に了承を与えるに際して、トウ小平氏も、党総書記の趙紫陽氏を帰国させるような指示はしなかった。

 トウ小平氏は、この時点で、既に趙紫陽氏を、党の運営を任せる責任者としてみなしていなかった可能性がある。前年(1988年)の二重価格廃止問題の対処に失敗した責任を取る形で、趙紫陽総書記の求心力はこの頃既にかなり低下しており、そういった趙紫陽氏の党内での位置付けをトウ小平氏もよく認識していたのかもしれない。しかし、「趙紫陽極秘回想録」で趙紫陽氏が述べているところによれば、趙紫陽氏が北朝鮮を訪問する直前にトウ小平氏を訪問した際、トウ小平氏は趙紫陽氏を支持し、二期連続で総書記を続けてもらいたい、との意向を示していた、とのことである。であれば、トウ小平氏は、なぜ4月25日の時点で最終責任者として緊急事態の対処に当たるべき趙紫陽総書記を北朝鮮から呼び戻さなかったのか疑問が残る。

 トウ小平氏は、自らのイニシアティブで趙紫陽氏を党のトップである総書記に任命しながら、この重大な党の危機の処理に当たっていた李鵬氏に対して趙紫陽総書記に相談するよう指示しなかった。李鵬氏は、行政府たる国務院のトップの総理であり、趙紫陽氏から留守中の案件処理を任されていたのは事実であれるが、重大な方針を決める最終決定権限者ではない。このことは、総書記とか国務院総理とかいう役職が事実上は名ばかりのものであり、重要事項がその時その時の時点で党内で誰が実力を保持しているかによって決まることを意味しており、中国共産党は、ルールに基づき組織の意志を決定する組織としての意志命令系統が機能していなかったことを示している。「ルールに基づいて決定が行われず、人によって決定が行われる」(法治ではなく人治である)という状況は、現在に至るまで中国の組織に深く根ざしている特徴である。この特徴は、組織の意志決定を柔軟にするが、「人」が誤った判断をした場合の修復が困難になる欠点を持っている。

 政治局常務委員会非公式会議で決定され、トウ小平氏の了承を得た対応方針は、事後的ではあるがその日(4月25日)のうちにピョンヤンにいる趙紫陽氏に伝えられた。趙紫陽氏は、翌4月26日朝、「完全に同意する」と返答したという。「趙紫陽極秘回想録」で趙紫陽氏が語っているところによれば、北朝鮮にいて十分な情報が得られていない状況で、トウ小平氏が同意した決定に反対することはできないことから、趙紫陽氏はこの時「完全に同意する」と答えたとのことである。しかし、「強い措置を持って動乱を制止する」とのトウ小平氏の指示は、趙紫陽氏が北朝鮮へ出発する前に指示した「学生に対しては各レベルで対話を行う」という方針とは全く異なることから、趙紫陽氏が異論を唱えてもおかしくなかった。従って、趙紫陽氏としては、北京での決定事項の知らせに対し、「完全に同意する」と答えないで、さらに状況報告を求めるなり、北朝鮮訪問を中止して急きょ帰国する判断もあり得たであろう。「完全に同意する」と返答したのは、趙紫陽氏が、トウ小平氏の指示したことならば誰も逆らえない、と考えたからであろうか。あるいはトウ小平氏と異なる意見を総書記たる自分が表明することによって党内が分裂するようなことになってはならない、と考えたからであろうか。

 1989年4月26日付けの「人民日報」は、トウ小平氏の指示に基づき、「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」と題する社説を掲載した。趙紫陽総書記がピョンヤンから「完全に同意する」と返事を出した4月26日朝には、既にこの社説を載せた「人民日報」は発行されていたのだった。それを考えると、あたかもピョンヤンにいる趙紫陽総書記に決定を知らせたのは、最終決定権限者たる党総書記に同意を求めたのではなく、総書記抜きで決定を行ったわけではない、という形式を整えるための「単なる形作り」だけの意味しかなかったようにも見える。

 以前「第3章第5部第3節:西単(シータン)の『民主の壁』」で書いたように、1978年5月、「二つのすべて」を主張していた華国鋒氏を追い落とすため、華国鋒氏(当時、党主席であり、国務院総理だった)が北朝鮮訪問中に「二つのすべて」を批判する論文「実践は真理を検証する唯一の基準である」が「人民日報」に掲載された。この論文掲載がトウ小平氏や胡耀邦氏ら当時の「反すべて派」の「策略」であったのかどうかは定かではないが、1989年4月、李鵬氏らがトウ小平氏の同意を取り付けた上で、趙紫陽総書記の北朝鮮訪問中を狙ったかのようなタイミングで、学生らの運動を「動乱」と決めつける社説を「人民日報」に掲載したことは、1978年5月に華国鋒氏を追い落とすために「反華国鋒派」が用いた手法を思い起こさせる。

 趙紫陽氏は「趙紫陽極秘回想録」の中で、李鵬氏ら保守派は、学生らの運動の中にあった散発的な過激な部分をことさら選んでトウ小平氏に報告して過度に激しい反応を示させた、として李鵬氏らを非難している。

 上記に「トウ小平氏は、4月24日の政治局常務委員会非公式会合の結果の方向を受け、それを全面的に支持し、『旗幟を鮮明にして、強い措置をとって動乱を制止せよ。』と指示した。そしてその線に沿って『人民日報』に社説を出すよう指示した。」と書いた。しかし、「趙紫陽極秘回想録」の中で趙紫陽氏は、異なることを述べている。トウ小平氏は、李鵬氏と楊尚昆氏から4月24日の政治局常務委員会非公式会合の結果を聞き、それに同意し、「旗幟を鮮明にして、強い措置をとって動乱を制止せよ。」と発言したが、これらの李鵬氏らとトウ小平氏との発言のやりとりは本来表に出ないものだったのであり、トウ小平氏の発言をそのまま社説にしたのは李鵬氏らの判断であり、トウ小平氏自身は自分の言葉がそのまま「人民日報」の社説になったことについて快く思っていなかった、と趙紫陽氏は述べている。トウ小平氏の言葉がそのまま社説になったことにより、トウ小平氏自身が学生たちからの反発の矢面に立たされることになったからである。

 ここの部分は趙紫陽氏が語っていることが事実であるのか、あるいは趙紫陽氏が自分を引き立ててくれたトウ小平氏をかばい、全ての責任は李鵬氏ら保守派にある、ということを言いたいために「趙紫陽極秘回想録」でそう語っているのかは、定かではない。

 いずれにしても、この時点に至っても趙紫陽氏は北朝鮮での日程を切り上げて北京に戻ろうとしなかった。この判断についても、後世の歴史家からは、趙紫陽氏に対する批判が出るものと思われる。

 この1989年4月26日付けの「人民日報」の社説「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」に対し、学生たちは大いに驚き、反発した。大きな暴力的な騒動にまで発展していたわけではないこの時点で、学生たちの動きに対し「動乱」という言葉が使われたことが唐突で意外だったからである。「動乱」という言葉は、文化大革命時代に「四人組」が自分たちに反対する勢力の動きを表現するのによく使われた。それを当時の人々はよく覚えていたため、この社説は、平和的な手段で主張をしているだけだ、と自分たちでは思っていた学生たちを大きく刺激した。「第4章第1部第5節:1986年の学生運動と胡耀邦総書記の解任」で述べた1987年1月6日付け社説「旗幟を鮮明にしてブルジョア自由化に反対しよう」と同じように「旗幟を鮮明にして」という用語があることは中国共産党の強い意志を表すことは学生たちもわかったが、それが「動乱」という言葉と連なっているのを見た時、学生たちは、中国共産党が自分たちに対して宣戦布告を発した、と感じたに違いない。1987年1月6日付けの社説では「旗幟を鮮明にして」という言葉は使われていたが、「動乱」という言葉は使われていなかった。

 おそらくはトウ小平氏は、1987年1月6日付け社説「旗幟を鮮明にしてブルジョア自由化に反対しよう」が党の断固たる意志を学生たちに伝え、それによって学生たちもことの重大性を認識してデモをやめたように、今回も強い社説を掲げることによって、学生たちが「ここが限界だ。これ以上運動を拡大したらまずい。」と気付くだろう、と期待していたのかもしれない。しかし、この二つの社説の間にある2年4か月という時間の流れは、トウ小平氏が想像していた以上に大きかった。この2年4か月の間に世界は大きく変わっていたのである。学生たちは「あと20日すると北京に来るソ連のゴルバチョフ書記長は、自分たちの行動を支持してくれるだろう」「韓国の学生たちは運動を繰り返すことによって大統領選挙の実施を勝ち取ったが、同じようなことは自分たちにもできるはずだ」と思っていたに違いない。この2年4か月の間に世界が変わり、テレビや改革開放によってもたらされた外国メディアによる情報によって、学生たちが外の世界の変化をしっかり知っていたことに、トウ小平氏は気が付いていなかったのかもしれない。

 この4月26日付け「人民日報」の社説「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」は、学生の動きを沈静化させるどころか、むしろ反対に、それまで具体的な要求の点で必ずしも一本化されていなかった学生たちに「4月26日付け社説を撤回せよ!」という統一目標を与えることになってしまったのである。

 この1989年4月26日付けの「人民日報」社説「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対しよう」は、現在でも、新華社のページで見ることができる。

(参考URL)「新華社」ホームページ「新華資料」
「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対しよう」(1989年4月26日付け「人民日報」社説)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/23/content_2609426.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この社説の冒頭に「一部の不法分子が、打ち壊し、焼き討ちするひどい事件が発生している」という表現が出てくる。これは2008年3月14日に発生したチベット自治区ラサでの争乱事件を報じる新華社の報道と全く同じ表現である。20年間、中国の公式報道の表現が全く進歩していないことを示していると言える。なお、1989年の「第二次天安門事件」においては、少なくとも西側報道で見る限り、4月26日以前の段階で打ち壊しや焼き討ち事件と言えるほどの事件は起きていなかったはずであり、その意味では上記の1989年4月26日付けの社説は、客観的に見ても表現が過激すぎるように思える。

 なお、西側報道機関が報道していない場所、例えば、どこかの大学のキャンパス内で打ち壊しや焼き討ち事件があった可能性は否定できず、上記の「人民日報」の社説が「事実に基づかない誇張である」と断言することは今の私にはできない。しかし、当時はあちこちに西側ジャーナリストが北京にもいたので、4月26日以前の時点で実際に焼き討ちや暴力事件が起きていたのだとすると、誰かがそれを見聞きして報道していたはずであり、4月26日以前の段階においては、「人民日報」社説が指摘しているような焼き討ち・暴力行為は起きていなかった、と判断するのは妥当なことだろうと思われる。

 同じ4月26日、上海市党委員会の江沢民書記は、胡耀邦氏追悼座談会記事の一部削除命令を拒否した「世界経済導報」の欽本立編集長を解任した。この北京の動きと呼応した迅速な動きが江沢民氏が異例の抜擢をされる理由となるが、欽本立編集長の解任は、多くの知識人や新聞人を憤らせた。「第4章第1部第6節:中国の社会・経済で進む微妙な変化」で書いたように、胡耀邦氏が総書記を解任された1987年頃から、多くの新聞人は従来の「党の舌と喉」の役割をはみ出して、社会の様々な問題について自ら取材し記事を書くことに使命感を持ち始めていた。そうした中、学生らの声を全く聞こうとせず、学生らの動きを「動乱」と決めつけた「人民日報」と、胡耀邦氏の業績を評価する記事を載せようとした新聞を発禁処分にしその新聞の編集長を解任した上海市党委員会の決定は、多くの知識人や新聞人たちの気持ちを党から離反させた。

 このような知識人や新聞人たちの動きもトウ小平氏ら党幹部の想定を超えたものだった可能性がある。中国が始めた中国の改革開放政策は、ソ連・東欧諸国の人々に従来からの体制の頑迷さを思い知らせた。そして、ソ連に改革派のゴルバチョフ書記長を誕生させ、東欧諸国でも改革が急激に進められた。そういった諸外国の情報は、改革開放政策の進展により、中国にどんどん逆流してくるようになっていた。ソ連・東欧諸国での動きは、改革開放政策の発信源である中国の知識人たちに自信と自負を与えていたに違いない。そういった中国の知識人たちの意識の変化に、トウ小平氏や中国共産党の幹部は気付いていなかったのかもしれない。

 社説「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」が掲載された翌日の4月27日、北京の学生3万人が社説の撤回を求めてデモ行進した。多くの市民がデモを支持する姿勢を示した。この動きを見て、党幹部も強硬な姿勢を採り続けることは得策ではない、と考えるようになり、4月28日、党幹部は学生たちとの対話を行う決定をした。

 4月29日に党幹部(袁木国務院報道官)と学生たちの代表との会談が行われた。しかし、袁木氏が会見した学生代表45名のうち、43名は官製の学生会の代表だったことから、運動の主体となった学生たちの不満は、この会見によって返って増した、という(「トウ小平秘録」)。李鵬総理ら保守派は追い詰められつつあった。

 こうした困難な状況の中、4月30日、趙紫陽総書記がようやく北朝鮮訪問を終えて帰国した。趙紫陽総書記は、党の分裂だけは避けたいと考えていた。趙紫陽総書記は、北京に着くとすぐ、翌5月1日に党政治局常務委員会を開くよう指示した。4月26日の社説を出させた李鵬総理ら保守派は、趙紫陽総書記が自分たちのやり方に反対し、学生たちの側に付くことを恐れていた。ここ数日の北京市内の状況を踏まえれば、党の総書記が運動をしている学生・市民の側に立てば、李鵬総理ら保守派は一気に追放されかねない状況だと思われたからである。

 5月1日に開かれた党政治局常務委員会の内容は必ずしも明らかではないが、「トウ小平秘録」によると、この日の会議の内容はおおよそ次のようなものだった。

・趙紫陽総書記は、4月24日の党中央に「動乱制止小組」を設置することを決めた党常務委員会非公式会議の決定と、4月25日の「旗幟を鮮明にして、強い措置をとって動乱を制止せよ。」というトウ小平氏の講話を支持する旨を表明した。これは4月26日に北朝鮮で「同意する」と表明したことの再確認を意味した。

・趙紫陽総書記は、4月26日の「人民日報」の社説については言及しなかった。

・胡啓立政治局常務委員が、上海での「世界経済導報」の発行禁止と編集長解任について知識人たちが怒っている、と報告した際、趙紫陽総書記は「上海の動きは軽率で性急すぎた。」と批判した。しかし、上海の動きは既に党中央の了承を得ていたことから「上海の決定は維持されなければならない」とも述べた。

・楊尚昆国家主席が「5月4日に北京で開かれるアジア開発銀行(ADB)の理事会と5月中旬に予定されているソ連のゴルバチョフ書記長の訪中を混乱の中で迎えるわけにはいかない」と発言した。

・楊国家主席の発言を受け、趙紫陽総書記は、5月3日に行う予定の「五四運動70周年記念大会」における演説で「(1)改革開放と四つの基本原則をしっかりやる、(2)社会主義の民主と法制建設に取り組む。西側の多党制はやらないが、民主化は世界の潮流であり、主体的に取り組むべきだ。」と主張し、政治改革を進める方針を打ち出すという案を出した。

 最後の趙紫陽総書記の案に出てくる「四つの基本原則」とは、「第3章第5部(2)『北京の春』と改革開放路線の決定」で述べたように、「民主の壁」(北京の春)の運動が盛り上がって華国鋒氏ら「すべて派」が実権を失い改革開放路線への転換がなった後の1979年3月30日にトウ小平氏が打ち出した方針である。この方針は「社会主義の道」「プロレタリア独裁」「共産党による指導」「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」の4つを堅持するというものである。要するに民主について議論したとしても、この4つを逸脱してはならない、というトウ小平氏の宣言だった。

 つまり、趙紫陽総書記の提案は、従来の党の方針を再確認する、というものであった。ただ、学生たちの理解を得るために、「四つの基本原則」を堅持する、という枠の中ではあるが、政治改革を進める、という方針を示そう、というものだった。これに対し、李鵬総理ら保守派は、デモをやっている学生たちの中には社会主義制度自体に反対している者もおり、学生たちに妥協して「政治改革を進める」との方針を示すのは危険だ、と主張した。しかし、趙紫陽総書記は、学生たちの動きに理解を示し、政治改革を進めるとの方針を示せば、学生たちも理解してくれるはずだ、と考えていたようである。

 この5月1日の政治局常務委員会の様子について、「趙紫陽極秘回想録」の中で、趙紫陽氏は、自分のとった態度について次のように語っている。

・(方針をいきなり180度転換するわけにはいかなかったので)やや漠然とした形で李鵬の仕事にある程度賛意を表した。

・民衆の多数派の支持を得ることが大切だ、と主張した。

・4月26日の社説で表明された意見が、民衆の大多数、学生、知識人、民主諸党派の考えから著しくかけ離れたものであるという事実を、われわれは冷静に受け止めなければならない。

・4月26日の社説で用いられた表現を活かして、ごく一部の反共産党的、反社会主義的な者たちが混乱を助長しようとしていると示唆すれば、社説の影響が和らぐことが期待される。

・学生たちには教室に戻るよう勧めるべきだ。

 トウ小平氏がどう考えているかが重要だったが、「趙紫陽極秘回想録」によれば、5月2日と5月3日、趙紫陽氏は、秘書を通じて、あるいは楊尚昆国家主席を通じて、トウ小平氏と会いたいと頼んだが、トウ小平氏は会わなかった。楊尚昆氏は、仮にトウ小平氏と会ったとしても、トウ小平氏は自分の態度を改めて主張するだけであり、事態を好転させることはさらに難しくなる、と述べた、という。

 こうした一連の動きを見ていると、趙紫陽氏は、この時点でも自分が最終決定権限者であり、トウ小平氏と相談した上で、自分が全てを決めるべきだ、と思っていたようであるが、もしかするとトウ小平氏は、この時点(4月26日ないし5月1日の時点)で、既に趙紫陽氏を「見限って」いたのかもしれない。「趙紫陽極秘回想録」では、趙紫陽氏は、この時期、トウ小平氏は体調がよくなかった、と記しているが、それにしも、この重大な国家的危機に際して、党総書記の趙紫陽氏が最高実力者のトウ小平氏と会って相談することができない、という状況は、どう考えても異常である。

 5月3日、趙紫陽総書記は「五四運動70周年記念大会」で上記の方針に従った演説を行った。趙総書記は、社会の安定が必要だと訴えたが、その一方で、学生たちの運動を「動乱」とは呼ばなかった。この演説では、反対に「安定こそが大事である」と主張し、過去の帝国主義の時代や文化大革命のような動乱の日々を指摘した上で、「もし再び動乱が起きれば、幅広い人民や青年学生が希望する建設、改革、民主、科学が全てできなくなる」と述べで、今起こっている現象は「動乱」ではないことを示唆していた。さらに、この演説では、「学生たちを含めた一般大衆の民主政治への要求については、中国共産党の主張と同じであり、党の心は、人民の心、青年の心と一緒である。」と述べていた。

 さらに5月4日、人民大会堂では、アジア開発銀行理事会が開催された。各国代表と会見した趙紫陽総書記は学生デモについて「政策の運営上の欠陥を批判しているのであり、社会主義に反対しているものではない」と述べた。

 多くの学生たちはこれらの演説を歓迎した。5月4日、学生たちは天安門前広場に集まって、政府との対話を要求した後、授業ボイコットの中止を宣言した。

 李鵬総理も対外的な発言では趙紫陽総書記と同じような発言をしていたが、4月26日付けの「人民日報」の社説に対しては、李鵬氏と趙紫陽氏は鋭く意見を対立させていた。趙紫陽氏は、4月26日付け社説を修正しようと考えていた。社説掲載時に北京にいて全体の指揮を採っていた李鵬氏はこれに強く反対した。4月26日の社説の修正を認めることは、社説掲載の誤りを認め、自らの失脚を意味するからである。学生デモが収まり掛けつつある現状を見て、多くの党内幹部が趙紫陽総書記の演説の路線を支持したが、4月26日付け社説をどうするか、については、党内での意見が分かれていた。

以上

次回「4-1-9(3/5):『第二次天安門事件』(3/5)」
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へ続く。

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2010年4月16日 (金)

4-1-9(1/5):「第二次天安門事件」(1/5)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第9節:「第二次天安門事件」(1/5)

 現在、中国では「天安門事件」と言えば、1976年4月5日の「第一次天安文事件」(「四五事件」「四五天安門事件」ともいう)のことを指す。これから述べる「第二次天安門事件」は、中国語では「六・四」「六四事件」「六四天安門事件」などと呼ばれるが、現在の中国では、触れることすらほとんど「タブー」であり、新聞紙上などにこの案件について登場することは滅多にない。話の文脈上、触れざるを得ない場合には「1989年の政治風波」と表現される。「第二次天安門事件」に関するネット上の情報、写真、映像等は削除されるかアクセス禁止措置が採られているし、外国のサーバー上にある「第二次天安門事件」に関する情報(特に言葉がわからなくても何があったのか理解できる写真や映像等)にはアクセス禁止措置が採られている。1989年当時の中国の新聞・テレビはこの事件については報じていない。従って、1989年当時現場にいて事の成り行きを直接見聞きしたか、直接見聞きした人から人づてに聞いたことがある人でない限り、今の中国にいる人々は「第二次天安門事件」について知らない。

 これまで「第二次天安門事件」について、当時の世界情勢や伏線に関する記述が長くなったが、ここから「第二次天安門事件」の経緯を時系列的に述べていくことにしよう。時点を、1989年4月15日、即ち、胡耀邦氏が死去した日から始めることにする。

 前節で述べたような私の知らない「伏線」があったためか、4月15日以降の動きは、私の予想を超えて激しいものになった。ただし、その事態の変化は急激に始まったわけではなかった。

 4月16日夕方、「トウ小平秘録」(参考資料17)の筆者の伊藤正氏(当時、共同通信記者。本稿執筆時の2010年4月時点では産経新聞中国総局長)は、北京大学の「三角地」と呼ばれる広場へ行ったとのことである。北京大学の中でよく壁新聞が張り出される場所である。この時点で、伊藤正氏は、北京大学の中にデモをやるような雰囲気はなかったと「トウ小平秘録」で書いている。

(注)北京大学の名物だった「三角地掲示板」は2007年10月末に撤去された。最近は広告ばかりが張り出されており、近くに翌年開催が予定されていた北京オリンピックの競技会場となる施設もあったことから、構内環境の浄化を行う、というのが理由だった。北京大学の多くの関係者は、この「三角地掲示板」の撤去に抗議の意志を示した。そういった抗議が起きたことは、今述べているような「三角地掲示板」の歴史を「誇り」に思っている北京大学関係者が今でも多いことを物語っている。

 前節で述べたように、胡耀邦氏の死去後ほどなく、4月22日に「追悼大会」を開催することが発表された。胡耀邦氏は「失脚」同様の形で1987年1月に辞任したのであるが、党としても哀悼の意を表することが「追悼大会の開催」という形で表明されたわけである。

 4月17日、中国政法大学の職員と学生600~700人によるデモが天安門前広場へ向けて行われた。スローガンは「胡耀邦追悼」と「民主と法制の要求」だった。デモ隊はインターナショナル(革命歌)を歌いながら行進した。インターナショナルを歌ったのは、共産党に反対しているわけではないことを示すためだった。このデモ隊は人民英雄記念碑に献花したが、このことが後に「反革命煽動」の発端とされることになる。花輪に追悼のためにマオタイ酒の小瓶をつるしたからである。小瓶は中国語で「シャオピン」と発音する。トウ小平氏の「小平」と同じ発音である。これがトウ小平氏を侮辱し、攻撃した、とされたのだ、と「トウ小平秘録」には記されている。

 この動きを受けて、北京大学、人民大学、清華大学の学生らも4月17日深夜から18日未明に掛けて、天安門広場へ向けてデモを行った。規模は数千人に達したが、大半はデモ終了後、ほどなく大学に戻ったという。ただ、数百人が天安門広場に残って、7項目の要求事項をまとめた。まとめられた7項目は「トウ小平秘録」によると次の7つである。

(1) 胡耀邦の政治功績の公正な評価

(2)「反精神汚染キャンペーン」「反ブルジョア自由化」運動の否定

(3) 国家指導者とその子女の資産公開

(4) 民間新聞の発行の許可、報道禁止の解除、新聞法の制定

(5) 教育予算増と知識分子の待遇改善

(6) デモ規制を定めた北京市条例の廃止

(7) 今回の活動の公開報道

 趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)の中で、運動を起こした学生らが、もし政府の方針に反対する目的で運動を起こしたのだとしたら、要求項目の中に、この当時、最も人々が不満に思っていたインフレ問題を含めたはずだ、それが入っていないのは、彼らが政府の方針に反対しようと思っていたわけではないことを示している、と指摘している。

 この北京の胡耀邦氏を追悼する動きは上海などの他の都市にも広がった。

 北京での学生らの動きは、約2,000人の学生が中国共産党本部がある中南海の正門「新華門」に集まる動きに発展した。1989年4月18日深夜、中国共産党本部がある中南海の正門「新華門」の前に学生たちが集まり、李鵬総理との面会を要求した。学生たちは「新華門」の中へ突入しようと試みたが警備当局に阻まれた。学生たちはいったんは解散するが、19日の午前になるとまた集まり突入を試みた。しかし、20日未明には、学生たちは警備当局によって実力で排除された。この事件は「新華門事件」と呼ばれる。

 「趙紫陽極秘回想録」によれば、趙紫陽氏は、この4月18日及び19日の「新華門事件」の様子を公安省が撮影したビデオを見たという。このビデオでは、先頭にいる学生が「秩序を守れ!」と仲間たちに繰り返し叫んでいたほか、後の方にいた群衆が前に出ようとして混乱が起き始めると、いくつかの学生のチームが警備員のように群衆を押し戻そうとしていたという。この公安省が撮影したビデオは、党内ではおそらくは「極秘」扱いのものであり、総書記である趙紫陽氏だからこそ見ることのできたビデオ映像なのだろうと思われる。趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」で、このビデオでわかるように、後に述べるように4月26日に学生たちを刺激するような社説が「人民日報」に掲載される前は、学生たちの動きはそれほど激しいものではなかった、と述べている。

 この当時、改革開放の流れの中で、北京には多くの外国人報道関係者がいた。外国人報道関係者により、北京の様子は海外で報道された。しかし中国国内では「街頭行動は報道しない。特に天安門広場の写真は報道してはらなない。」という指示が出されていたという(「トウ小平秘録」)。

 4月20日には、新華社が「社会の安定擁護が当面の大局」と題する評論を発表し、新華門での学生たちの動きを批判した。前に「第4章第1部第5節:1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任」で述べたように、1986年12月、安徽省合肥で始まった民主化を求める学生デモが上海に波及した時、当時の江沢民上海市長は学生たちの前に姿を現し「腐敗幹部を批判する君たちの主張は理解できる。政府も腐敗幹部追放に全力を尽くす。しかし、デモを行っても問題は解決しない。冷静に考えて大学に戻って欲しい。」と学生たちを説得した。しかし、1989年4月、「新華門事件」が起きた時点で、当時の幹部は、趙紫陽氏も含めて誰も学生や市民の前には姿を現さなかった。そういう状態で出された国営通信社「新華社」の学生たちの動きを批判する論文は、逆に、学生たちを挑発する役割を果たした。

 当時、党の幹部の多くは「学生たちの背後に黒幕がいる」「学生を利用する下心のある連中を暴くべきだ」と言っていたという。この種の発言は、中国において、学生や市民の運動が起こると必ずなされる発言である。1976年の「第一次天安門事件」においても、当時権力の座にいた「四人組」周辺の人々は同じようなことを言っていた。2008年3月のチベット争乱や6月に貴州省甕安(日本語読みでは「おうあん」)県での民衆暴動においても「大多数の人々は真相を知らない純粋な人々なのだが、一部の腹黒い連中が多くの人々を煽動している」といったフレーズが繰り返された。2009年7月の新疆ウィグル自治区ウルムチの暴動でも「外国勢力に煽動された一部の連中が引き起こした」と伝えられた。この種の見解は「騒ぎを起こしている一般大衆は無知だ」という認識から出発している。その認識が正しくないことは、繰り返される大衆による騒擾事件で証明されているのであるが、中国の支配層の人々の認識は昔も今もほとんど変わっていない。

 「多くの一般大衆は真相を知らない」「民衆が騒いでいるのは一部の悪意を持った連中が煽動しているからだ」という事実とは異なる認識は、結果として問題解決のための正しい選択を妨げ、事態を悪化させることになる。

 こうした騒がしい状況の中、1989年4月22日、人民大会堂で胡耀邦氏の追悼大会が挙行された。トウ小平氏をはじめ、党、政府、軍の幹部が出席し、趙紫陽総書記が追悼演説を行った。胡耀邦氏が1987年1月に中国共産党総書記を辞任した経緯には触れられなかった。従って、この追悼大会は、党が胡耀邦氏に対して一定の敬意を表したことを表すものだったが、胡耀邦氏の名誉回復を意味するものではなかった。天安門広場には、胡耀邦氏を追悼する3万人規模の人々が集まった。

 この追悼大会の翌日の4月23日、趙紫陽総書記はかねてから予定されていた北朝鮮訪問へ出発した。趙紫陽総書記が帰国したのは1週間後の4月30日である。この間に事態は急転回するのだが、なぜこの時期に党のトップである総書記の趙紫陽氏が北京を空けたのかは、謎に思える。この当時、北朝鮮と中国との間には差し迫って緊急に解決すべき案件はなかった。この当時、北京と北朝鮮との間の移動には列車を使うことが多かったが、それにしてもすぐ隣の隣国へ行くのに1週間も北京を空ける必要はなかったはずである。いくら前から決まっていた外交日程だったとしても、この時の北京の状況を考えれば、訪問日数を短縮したり、訪問を延期したりしてもおかしくはなかった。

 趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」で4月26日の「人民日報」の社説が事態を急変させた、と述べており、4月23日の時点では、以下に述べるような指示を出しておけば事態には対処できると考えていたようであり、自分の北朝鮮訪問を中止する必要はない、と考えていたようである。

 趙紫陽総書記は、北朝鮮への出発に際して、

(1)学生デモは阻止して学生を大学に戻らせる。

(2)破壊行為については法に基づいて厳しく処罰する。

(3)学生に対しては指導を主とし各レベルで対話を行う。

との対応方針をトウ小平氏に説明し、トウ小平氏もこれに同意した。趙紫陽総書記は、李鵬総理にこの3つの方針に沿って対応するよう依頼して、予定通りに北朝鮮へ出発することにした。

 趙紫陽総書記には、北朝鮮訪問の日程変更をすると、国際的に北京の状況は深刻だ、との印象を与えることになるため、それを避けたい、と考えたのかもしれない。しかし、結果的には、北京の状況は総書記の外国訪問の日程を変更しなければならないほど深刻になったのである。将来の歴史家は、北朝鮮訪問を中止しなかったこの時の趙紫陽総書記の判断について、情勢に対する判断が甘かった、と批判するかもしれない。

 「トウ小平秘録」によると、趙紫陽総書記は4月23日午後に北朝鮮へ向けて北京を出発したが、23日の午前中は、北京郊外のゴルフ場でゴルフをしたとのことである。趙紫陽氏のゴルフ好きは、私が北京に駐在していた1986年~1988年頃には既に有名になっていた。趙紫陽氏自身、「趙紫陽極秘回想録」の中で、失脚後軟禁状態に置かれていた頃のことについて「ゴルフにすら行かせてもらえない」と何回も述べていることを見ても、相当のゴルフ好きだったのは事実のようである。当時、北京郊外の日系企業が経営するゴルフ場の名誉会員として登録されていた。もし、4月23日の午前中、北朝鮮へ向けて出発する前に本当にゴルフをしたのだとすると、趙紫陽氏は、将来の歴史家から「状況判断が甘すぎた」と批判されるのは避けられないかもしれない。

 実は、この時点(4月22日の追悼大会が開かれた頃)では、東京で北京からの報道に接していた私も「そんなに大変なことにはならないだろう」と思っていた。というのは、1976年の「第一次天安門事件」の時も最後は警官隊の導入で群衆は解散させれているので、いよいよとなったら、そういう警備当局による実力行使があって、多少のけが人は出るかもしれないが、それ以上のことにはならない、と思っていたからである。天安門広場に集まっている人たちの要求事項は、「胡耀邦氏の追悼」以外の点では統一した確固たる要求があるわけではなかったし、共産党に反対しているわけでもなく、デモに参加している人々自身、デモを続けても何の事態の進展も図れないことはわかっているはずだ、と私は思っていたのである。

以上

次回「4-1-9(2/5):『第二次天安門事件』(2/5)」
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へ続く。

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2010年4月15日 (木)

4-1-8:「第二次天安門事件」の伏線

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第8節:「第二次天安門事件」の伏線

 時として、歴史の中で、単なる偶然が大きな動きのきっかけになることがある。1987年1月に総書記を辞任した胡耀邦氏が1989年4月15日に死去したことも、そういった「偶然」のひとつである。

 4月15日という日付は、極めて微妙なタイミングだった。それは予定されていたソ連のゴルバチョフ書記長訪中のちょうど1か月前だった。しかも、死者を哀悼する習慣がある(日本の「お彼岸」に相当する)「清明節」の10日後だった。「清明節」は、1976年に「文化大革命」による抑圧に反発した一般市民が周恩来総理を哀悼して起こした「第一次天安門事件」が起きた日である。そして4月は、北京においては、長い冬が終わって人々が外へ出て活発に活動しようという気分になる季節でもある。胡耀邦氏が亡くなったのが4月15日だった、というこの単なる偶然が、歴史の歯車を動かし出す第一歩となった。

 亡くなった時点で、胡耀邦氏は、実権を持たないヒラの政治局委員であり、亡くなったこと自体の政治的な重要性は全くなかった。しかし、胡耀邦氏が亡くなったことに対して、一般大衆がどう反応するのか、を当時の幹部は神経質に心配していた。「トウ小平秘録」(参考資料17)によれば、当時「人民日報」副編集長だった陸張祺氏は「大衆は極めて強く反応するだろう」と予感したと2006年に香港で出版された「六四内部日記」に記しているという。

 胡耀邦氏はいわば「失脚」同然の形で辞任したが、「長い試練を経た忠誠な共産主義戦士、偉大なプロレタリア革命家、党の卓越した指導者」(死去した日に発表された訃告の表現)として4月22日に「追悼大会」を開催することが決まった。党の指導部も党として胡耀邦氏の追悼をないがしろにしたのでは、一般大衆の反発を買うことになる、と思っていたから、きちんとした「追悼大会」をやる決断をしたものと思われる。「失脚」同然の扱いを受けていた幹部の死に対して「追悼大会」を実施することは異例だった。

 胡耀邦氏が死去した翌日の4月16日には、一部市民により天安門広場にある人民英雄記念碑に追悼の花輪が捧げられた。そのニュースを東京で聞いた私は、即座に1976年の「天安門事件」を連想したことを記憶している。多くの人々もそう思ったに違いない。

 しかし、私は、この時点では1976年の「天安門事件」を連想はしたが、1976年のような大きな運動にはならない、と考えていた。これまで書いてきたように、「文化大革命」時代末期と異なり、人々の間に体制をひっくり返そうと思うほどの不満が溜まっているとは思っていなかったし、党が「追悼大会を開催する」ことを決定したことでわかるように、党も人々の気持ちを受け止めながらうまく対処するだろうと思っていたからである。しかし、実際には、事態が大きくなる要因として背景に当時の私が知らなかった「伏線」があったようである。

 その「伏線」のひとつは、前々節で述べた1988年5月から8月に掛けての二重価格問題に対する対処策の失敗に対する保守派からの趙紫陽総書記への批判である。この頃、二重価格問題の対処に失敗した趙紫陽総書記の政権内での発言力は低下し、市場における政府のコントロールを強めるべき、と考える保守派の発言力が大きくなっていた。

 もうひとつの「伏線」は一種の「歴史認識」に対する路線対立だった。事の起こりは、1988年6月に中国中央電視台で放送されたテレビ・ドキュメンタリー番組「河殤(かしょう)」(全6回シリーズ)だった。私はこの番組を見ていないので適格には評論できないが、この番組は、中華文明の封建制や暗黒面を描いたものであったという。ある意味で、封建的な時代を批判し、改革開放の必要性を訴える番組だった。放送当初は、中国メディアも賞賛したが、1988年7月以降批判が始まり、保守派の王忍之氏が部長を務める党宣伝部の指示で再放送申請が却下されるようになったという。趙紫陽総書記はこの作品を絶賛したが、保守派長老の王震国家副主席は「中華民族への侮辱だ」としてこの作品を攻撃したという(参考資料17:トウ小平秘録)。もしこれが事実だとしたら、この時点(1988年夏以降)で、趙紫陽氏は、党の宣伝部をコントロールできていなかったことを意味しており、党のトップたる総書記として、党内を統括する力を既に失っていたと言える。

 この「河殤」問題については、趙紫陽氏自身は、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)の中で、自分(趙紫陽氏)が、「河殤」の制作を指示したり、ビデオを全国に配ったり、「河殤」に対する批判を抑え込もうとしたりした、と随分新聞に書かれたが、それらはまっ赤な嘘だ、と語っている。

 この「河殤」問題において保守派が「中華民族への侮辱だ」と反発したことは、1990年代に「愛国主義」に政治的求心力を求めることになる保守派の原点をなしている、とも見ることができる。

(参考URL1)「日本財団」図書館(「日本財団」が著者と発行元の許可を得て掲載している電子図書館)
「1988年11月7日付け朝日新聞社説:気になる風が中国を吹く」
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00241/contents/021.htm

 さらにもうひとつの「伏線」と言える動きは、1986年12月の学生運動の動きに同情的だったとして1987年1月に党籍を剥奪された天体物理学者(学生運動発生当時の中国科学技術大学副学長)の方励之氏の動きである。方励之氏は、党籍を剥奪された後も民主化運動を続けていた。「トウ小平秘録」(参考資料17)の筆者の伊藤正氏は、1988年12月に方励之氏を訪ねたが、彼はその時も意気軒昂で、トウ小平氏を批判し、民主化は必ず実現する、と話していたという。

 その方励之氏は、1989年1月、服役中の魏京生氏の釈放を求めるトウ小平氏あての公開状を発表した。魏京生氏は、1978年12月、「民主の壁」に「第五の近代化~民主およびその他」と題する壁新聞を張り出して中国共産党による30年来の独裁の現状を述べ、自由も民主もない現状を見つめるよう呼び掛けて、翌1979年3月29日に「反革命罪」で逮捕された民主活動家である(「第3章第5部第5節:改革開放と『四つの基本原則』で終わった『北京の春』」参照)。方励之氏は、1989年2月に訪中したアメリカのブッシュ大統領(父親)主催の夕食会に招待されたが、当局は方励之夫妻の夕食会への出席を阻止した。

 魏京生氏は、1979年3月に逮捕された後、懲役15年の判決を受けて服役中だった。「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、胡耀邦氏はそのような厳罰は望んでいなかったが、トウ小平氏の意向に押し切られたのだという。おそらくはそういった話が当時の知識人たちの間には広がっており、4月の胡耀邦氏の死去によって、抑圧されていると感じていた知識人たちの気持ちが一気に吹き出したものと思われる。

 胡耀邦氏が実際に民主化運動にどのくらい理解を示していたかは不明な点も多いが、1986年末の学生運動の盛り上がりの後、その事態に対する対処に関して「詰め腹を切らされる」形で辞任させられた胡耀邦氏は、多くの民主化活動家の間では、一種の「殉教者」的な扱いを受けていたものと思われる。

 この時のブッシュ大統領の訪中期間中の1989年2月26日、トウ小平氏はブッシュ大統領との会談を行っている。その時にトウ小平氏が語った言葉が「トウ小平文選」第三巻に収録されている。

(参考URL2)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「党史人物記念館」
「トウ小平記念館」-「著作選」-「トウ小平文選第三巻」
「一切を圧倒するものは安定である」(1989年2月26日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69696/4950030.html

 このブッシュ大統領との会談の中でトウ小平氏は次のように述べている。

「中国の問題において、一切全てを圧倒して必要としているものは安定である。中国は必ず改革開放を堅持しなければならない。しかし、改革をやるためには政治環境の安定が絶対に必要である。総体的に言って、中国人民は改革政策を支持しており、絶対多数の学生は安定を支持している。彼らは国家の安定を離れては改革開放を語ることはできないことを知っているからである。

 我々は既に建国以来の歴史的事件の是非、特に『文化大革命』の誤りについて適切な評価を行ってきた。毛沢東同志の歴史と思想についても適切な評価を行ってきた。毛沢東同志の晩年の誤りに対する批判については過度に行ってはならず、常軌を逸してはならない。なぜならばこのような偉大な歴史上の人物を否定してしまっては、我が国国家の重要な歴史を否定しまうことを意味し、思想の混乱を招き、政治的不安定をもたらすからである。

 中国は特に今は経済発展に注意力を集中させなければならない。形式上の民主を追求したら、結果的に民主は実現できず、経済的発展もまた得られず、国家の混乱を招く。私は『文化大革命』のひどい結果をこの目で見てきた。中国では人が多いから、もし今日デモをやり、明日デモをやることにしたら、365日毎日デモをやることになり、経済建設などできなくなってしまう。もし我々が現在10億人で複数政党制の選挙をやったら、必ず『文化大革命』の『全面内戦』のような混乱した局面が出現するだろう。民主は我々の目標だが、国家の安定は絶対に保持しなければならない。」

 この談話には、この2か月後にトウ小平氏が下す判断の根拠となる考え方が凝縮されている。「文化大革命」を否定し、1981年6月の「歴史決議」で、それまで「タブー」と考えられていた毛沢東の歴史評価にさえ切り込んで「毛沢東も晩年には誤りを犯した」と断言したトウ小平氏を考えると、私から見れば、「あまり毛沢東を批判しすぎるのはよくない」とする上記のトウ小平氏の発言は一種の変節のように見える。全てをタブーしすることなく、毛沢東の言動も含めて、誤っている部分はきちんと誤っていると認識し、正すべきことは正す、というのが「改革開放の原点」だと私は考えているからである。おそらく「全てを虚心坦懐にタブーなく批判して正すべきは正す」という考え方を突き詰めると、「『中国共産党による指導』を堅持することを含む『四つの基本原則』に対して批判してもよい」という考え方に通じることを、トウ小平氏はこの時点で強く意識し始めていたものと思われる。

 私はこの談話がなされた時点では既に日本に帰っていて、この談話については知らなかった。私は、2007年に19年振りに北京に駐在するようになって1989年以降「改革開放の原点が失われた」という感覚を感じた。この談話を読んで感じることは、「改革開放の原点を失わせた」のは、ほかならぬ「改革開放の原点」を自ら切り開いたトウ小平氏自身だった、ということである。この時点で、おそらくは当初は自らの後継者と考えていた胡耀邦氏や趙紫陽氏の考え方から、トウ小平氏自身の考え方の方が変化してずれてしまっていたのだと思われる。少なくとも、この時点で私が持っていた「トウ小平氏が始めた改革開放」のイメージからトウ小平氏自身がずれてしまったことは確かである。

 トウ小平氏が「中国共産党による指導」に対する批判を許さなかったのは、それを許すと、国土が広く、人口の多い中国においては、政治的に混乱が起き、収拾がつかなくなると考えていたからであろう。そのあたりの考え方は、上記のブッシュ大統領との会談の際に話した言葉から十分に読みとることができる。

以上

次回「4-1-9(1/5):『第二次天安門事件』(1/5)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-617d.html
へ続く。

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2010年4月14日 (水)

4-1-7:「第二次天安門事件」直前の世界情勢

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第7節:「第二次天安門事件」直前の世界情勢

 はじめにお断りしておくが、私は1988年9月30日に北京駐在を終えて帰国し、その後は、中国とは関係のないセクションで勤務していた。従って、これから述べるもののうち1988年10月以降の事項については、私が実際に体験したものではなく、一般の日本の人々と同じように、当時、報道を通して知ったり、後から本などを読んで知ったことをまとめたものである。

 ただ、1988年9月30日まで北京で生活していた実感からすれば、当時の中国において、人々が社会の体制をひっくり返そうと考えるほどの不満がうっ積していたとは考えられない。確かに市民が「物価が上がりすぎる」とか「官倒(官製ブローカー)や腐敗地方政府幹部はけしからん」といった怒りを覚え、大学生が「自分たちの就職先は自分で決められないのはおかしい(当時の大学卒業生の就職先は原則として国家が決めていた)」といった不満を持っていたのは事実である。しかし、改革開放政策により中国は高度経済成長を始め、人々の生活は農村部も含めて確実に向上しつつあった。むしろ、食べること、生きることに対する不安がなくなったことにより、社会にある様々な矛盾や不満な点について異議を申し立てる余裕が出てきた、と捉えた方がよい。

 ほとんど全ての人が改革開放政策による経済成長の恩恵を受けており、政治闘争によって再び文化大革命のような混乱が起こることは誰も望んでいなかった。問題は、社会に対していろいろ意見を言いたい(それは自分たちの社会を少しでもよくしたい、という素直な感情だった)という人々の気持ちを、中国共産党が受け留めることができなかった点にある。中国共産党は、1976年4月に「第一次天安門事件」として噴出した人々の「文化大革命」に対する不満を、結果的には率直に受け止め、それを肯定して、改革開放へと政策の舵を切った。それができたことを知っていた私としては、1989年の中国共産党にそれができなかったことが残念でならない。

 1989年の中国での動きを述べる前に、まずそれに影響を与えたと考えられる諸外国の状況について触れておきたい。

 「第4章第1部第4節:対外経済交流の深化と外国の情報の流入」で述べたように、ソ連においては、1980年代前半は「老人支配」により、若い世代への政権移譲がうまく実現せず、有効な政策判断ができない機能不全状態に陥っていた。それを改善すべく、1985年3月にソ連共産党書記長になったのがゴルバチョフ氏である。ゴルバチョフ氏にとっては、改革開放政策により、西側からの技術と資本を導入して共産党の指導的立場を維持しながら急速に経済成長を始めていた当時に中国の状況は、大いに参考になったことは間違いない。

 中国は、1979年2月の中越戦争以降、外交面では、どの国とも対立することを避け、米ソ間のパワーバランスを巧みに利用しながら、自らは自国の経済成長に専念してきた。現実主義的なトウ小平氏は、中越戦争でベトナム軍に苦しめられた経験も踏まえ、軍事面でも、「人民戦争論」に立つ毛沢東が理想とする人海戦術的戦法中心主義から脱却し、人数的には少数精鋭化しつつ、装備は近代化・機械化を進める方向で軍隊の変革を進めた。このため1985年には、人民解放軍の100万人の大幅な人員削減を行った。また、経済発展のために軍事技術を活用することにも躊躇(ちゅうちょ)せず、むしろ転用可能な軍事技術の民間での活用を進めた。巧みな外交戦術によって、諸外国の技術と資本を利用し、過度の軍事的負担を避けて、国の力の大部分を経済成長に集中できるようにしたのである。

 一方のソ連にとっては、アメリカとの対抗上必要な核兵器や軍隊の維持と東欧諸国やソ連の影響下にある国々での権益の維持が重荷になりつつあった。特に1979年12月に軍事介入を始めたアフガニスタンは、かつてのアメリカがベトナムで苦しんだのと同じように泥沼化しつつあった。

 このためゴルバチョフ氏は、国内においてはペレストロイカと呼ばれる改革とグラスノスチと呼ばれる情報公開を進めるとともに、対外的には、アメリカとの間で協調路線を進め、外交的な圧力を減少させて、周辺諸国に対するソ連による支援を徐々に減らし、ソ連国内の経済建設に集中できるように政策を進めた。

 具体的には、米ソは1982年から戦略兵器削減条約(START)の交渉を始めていたが、条約の妥結へ至る最初のステップとして、1987年12月、ゴルバチョフ書記長はアメリカを訪問し、レーガン大統領との間で中距離核兵器全廃条約(INF全廃条約)に署名した。このINF全廃条約の調印に関するニュースを、私は北京の中央電視台のテレビで見ていたが、レーガン大統領が「現在、行っている交渉は、核兵器について制限するもの(Limitation)ではなく、削減するもの(Reduction)であり、今日調印した条約は核兵器の一部である中距離核兵器を全廃するもの(Elimination)である」と感慨深げに演説して、ゴルバチョフ氏とやや大げさな感じで固く握手したのを印象深く覚えている。映画俳優出身のレーガン大統領はプロの「役者」であるが、私はこの時、ゴルバチョフ氏も相当な「役者」であると感じた。

 当時、中国中央電視台の第一チャンネル(総合チャンネル)では、夜21時半からの「夜のニュース」と天気予報に引き続いて22時10分頃から「英語の時間」を放送しており、こういった国際ニュースは英語で放送されていた。従って、レーガン大統領の演説は大統領の肉声がそのまま中国中央電視台のテレビで流されていたのである。こういったテレビでの英語ニュースの放送は、中国の人々を国際化しよう、という中国政府の方針によるものであろうが、この当時の中国の人々には、諸外国のリーダーの肉声に直接触れる機会があったのである。

 現在、中国中央電視台には、英語チャンネルが独立して存在しているので、第一チャンネル(総合チャンネル)には英語放送はない。今は、中央電視台には英語チャンネルのほかにスペイン語専門チャンネルもあるので、中国のテレビの国際化は進んだと言うべきなのだろうが、普通の中国の人々は英語チャンネルにチャンネルを合わせることはまずないので、テレビを見ている印象からすると、一般の人々が外国要人の英語での発言を直接聞くチャンスは、現在は1980年代より減ったのではないかと思う。

 同じ頃、北京にいて目に入ったニュースは、韓国の大統領選挙だった。1980年に軍事クーデターで大統領になっていたチョン・ドゥファン(全斗煥)氏は、1988年のソウル・オリンピックの誘致に際し、オリンピック前に退陣することを表明していた。そのため韓国では次の大統領は国民による直接選挙で選ぶべきだとの運動が盛り上がっていた。学生らによる民主化要求デモや、それを放水銃や催涙弾で鎮圧する当局側との激しい攻防のニュースは、中国のテレビで繰り返し放映された。結局、次期大統領候補として名乗りを挙げていた軍人出身のノ・テウ(盧泰愚)氏は、1987年6月、民主化宣言を発表し、複数候補者と国民の直接選挙による大統領選挙が行われることになった。

 これらの韓国の民主化運動のニュースについては、中国政府当局は「南朝鮮の軍事独裁政権の混乱ぶり」を中国の人々に見せようという意図もあったと思われるが、韓国における大統領選挙実施へ向けての動きは、中国の人々に、こういう意見の主張の仕方もあるのだ、こうやって民主化を実現させることも可能なのだ、という印象を与えたに違いない。

 韓国初の大統領選挙は1987年12月16日に実施された。結局、ノ・テウ(盧泰愚)氏が最高得票を得て、大統領に選出された。ノ・テウ氏は軍人出身だったが、国民の直接選挙で選出された初めての大統領となった。歴史的に中国の人々の認識の中には、中国はアジアの大国であり、ベトナム、モンゴル、朝鮮・韓国、日本などの周辺諸国は「少数民族」が独立して作った国、という印象を持っているが、そのひとつの韓国で国民の直接選挙による大統領選挙が行われ、次の年にはオリンピックが開催される、という事実を、中国の人々は複雑な感情を持って受け止めていたかもしれない。

 さらにこの頃、中国ではあまり報道されなかったが、東ヨーロッパでは、次の時代へ向けた大きな「うねり」が起きつつあった。

 上に述べたように、ソ連のゴルバチョフ書記長は、アメリカとの協調路線を進めることによって、外交的な圧力を緩和し、東ヨーロッパ諸国からできるだけ手を引いて、自国内の経済建設に力を集中させたい、という考え方を持っていた。このため東ヨーロッパ諸国に対しても、ぞれぞれの国々の政治は、それぞれの国の共産党政権に任せ、ソ連は介入しない、という方針を採った。

 東ヨーロッパの国々では、かつて、1956年のハンガリー動乱(「第3章第2部第2節:反右派闘争」参照)、1968年のチェコスロバキア事件(いわゆる「プラハの春」。「第3章第3部第8節:中ソ軍事衝突」参照)に見られるように、時折、ソ連による抑圧に対する人々の反対運動が起きたが、これらの動きはソ連軍の介入により鎮圧されていた。1980年にはポーランドにおいてワレサ氏をヘッドとする自主管理労働組合「連帯」の運動が起きたが、ヤルゼルスキー第一書記をヘッドとするポーランド統一労働者党は「連帯」を非合法化し、1983年には戒厳令を出して、人々の動きを抑圧した。

 しかし、ゴルバチョフ書記長による「ソ連は各国の内政に介入しない」という方針の表明は、これらの国々の人々に、自らの国の将来をソ連による介入なしに自らの手で決められるかもしれない、という希望を与えた。特に、1988年3月、ゴルバチョフ書記長がユーゴスラビアのベオグラードで「それぞれの国はそれぞれのやり方で社会主義を進めてよい」と明言したことが、一気に東ヨーロッパ各国の独自の動きを後押しすることになる。

 ゴルバチョフ書記長の登場の後、最も早く具体的な動きを始めたのは、1956年に市民がソ連に武力で対抗した経験を持つハンガリーだった。ハンガリーでは、ソ連でのゴルバチョフ書記長の登場後、ハンガリー社会主義労働者党による一党独裁体制の範囲の中での選挙が行われるようになった。選挙が行われるようになると、党内で次第に改革派の勢力が強くなっていった。1989年2月には複数政党の存在が認められ、ハンガリー社会主義労働者党自体、ハンガリー社会党と改名された。また、国名も「ハンガリー人民共和国」から「ハンガリー共和国」に改められた。

 ポーランド統一労働者党のヤルゼルスキー第一書記も、こういった周囲の状況を受けて、自らの政権維持のためにはむしろ話し合い路線に転換すべきだと判断し、1989年2月には自主管理労働組合「連帯」など反体制派との間で「円卓会議」を開くことに合意した。

 こうした中、中国ではトウ小平氏はゴルバチョフ書記長の訪中の実現へ向けて動き出した。これは戦略核兵器削減交渉を進め、INF全廃条約を締結して、アメリカと協調路線を歩みつつあったソ連に接近することにより、アメリカを牽制しよう、という戦略があったものと思われる。トウ小平氏による対ソ接近戦略は、1989年2月1日、ソ連のシュワルナゼ外務大臣の訪中として実を結んだ。ソ連の外務大臣が中国を訪問するのは、実に中ソ対立前の1959年以来のことだった。トウ小平氏とも会談したシュワルナゼ外務大臣と中国政府は、ゴルバチョフ書記長が5月に訪中することで合意した。

 この頃、ゴルバチョフ書記長は東ヨーロッパ諸国を訪問するたびに、訪問先の人々から「改革者」として熱烈な大歓迎を受けていた。ゴルバチョフ書記長が中国を訪問すると同じようなことが起こるかもしれない、とトウ小平氏が考えなかったのかどうかは不明である。中国では改革開放がうまく行っており、経済的に豊かになりつつあった中国人民が自分(トウ小平氏)を差し置いてゴルバチョフ氏を「改革者」と賞賛することはあり得ないだろう、という自信があったのかもしれない。あるいはトウ小平氏は東ヨーロッパで始まりつつあった動きを単なる「ソ連離れ」とだけ捉え、「社会主義離れ」とは捉えていなかったのかもしれない。

 なお、私は、1988年1月7日付けで北京から本社あてに報告した「中国一般情勢に関する1988年年頭所感」の附録として「1988年の予測(予言)」と題するメモを書いていた。その中で「1988年中には中ソ両国の両国首脳の相互訪問の話が進展する。李鵬総理、ゴルバチョフ書記長の相互訪問が決定する(実際の訪問は1989年)」と書いた。ゴルバチョフ書記長の訪中はこの「予言」の通りに実現した。1988年初頭の時点で、ゴルバチョフ書記長は、既にアフガニスタンからの撤退方針を表明していたし、東ヨーロッパ諸国における自主性の尊重(言葉を換えればソ連の影響力の削減)の方針を明確にしていた。

 「第3章第2部第4節:フルシチョフによる『平和共存路線』と中ソ対立」「第3章第3部第8節:中ソ軍事衝突」などで書いてきたように、中ソ対立のそもそもの原因のひとつは、ソ連が自分の周囲の国々に軍事的圧力を掛けて、周辺諸国をソ連の影響下に置こうとしていることに対して、ソ連と長い国境線を挟んで隣接している中国が反発したことにあった。つまり、ゴルバチョフ書記長がアフガニスタンや東ヨーロッパにおけるソ連の影響力を縮小させ、自国の経済建設に専念しようという政策に転換したことは、中ソ対立の原因が解消されたことを意味していた。中ソ関係の改善は時間の問題だったのである。だからこそ、私は1988年初頭の時点で、ゴルバチョフ書記長の訪中を「予言」することができたのである。

 しかし、天才的に「先読み」能力に優れたトウ小平氏も、1989年2月の時点で決めたゴルバチョフ書記長の訪中が、2か月後、自らが最も重要視していた中国共産党による支配体制に大きな影響を与える事態を引き起こす誘因のひとつになる、とは考えもしなかったと思われる。

以上

次回「4-1-8:『第二次天安門事件』の伏線」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-4b70.html
へ続く。

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