※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。
「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
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【中国現代史概説】
第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国
-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発
--第9節:「第二次天安門事件」(2/5)
「新華門事件」が起きたのと同じ4月19日、上海で発行されていた週刊の雑誌「世界経済導報」は胡耀邦氏の追悼座談会を開催した。この座談会の参加者であった厳家其氏(中国社会科学院前政治研究所長。この文章の参考文献である「文化大革命十年史」(参考資料14)の筆者)らは、この座談会で胡耀邦氏の行動を再評価する発言をしていた。
趙紫陽総書記が北朝鮮へ向けて出発した4月23日、上海市党委員会(この時の上海市党書記は江沢民氏)は、胡耀邦氏の業績を評価する内容を含んでいる追悼座談会の発言を掲載した「世界経済導報」に当該部分の削除を命じた。この措置を採った上海市党委員会の宣伝部長は陳至立氏、宣伝担当副書記は曾慶紅氏である。陳至立氏は、1990年代に教育部長などを歴任し、この文章の執筆時点(2010年)では教育担当国務委員である。曾慶紅氏は2007年の第17回党大会で退任するまで政治局常務委員を務めていた。この「第二次天安門事件」の際における迅速な対応が評価され、それが彼らを20年以上にわたり中央で高い地位を占める原因となったのである。そもそも江沢民氏がいまだに大きな政治力を持っていることでもわかるように、1989年の「第二次天安門事件」は、現在に至るまで、中国の勢力分布の基礎となっていると言える(だからこそ、現在の中国において、「第二次天安門事件」を再評価することは、政治的にはタブーなのである)。
「世界経済導報」編集長の欽本立氏は、座談会記事の一部の削除命令を拒否して、輪転機を回し続けた。このため上海市当局は、4月24日、「世界経済導報」の発刊停止を命令した。
4月24日、北京では、多くの大学の代表が集まり、授業ボイコットを決めた。北京だけで39もの大学で学生のストが起きたという。複数の大学に横断的に運動が広がったことに対し、党内部には「ごく少数の者が裏で画策し操縦している」との認識を高めた。実際に誰かが裏で画策していたのかどうかは不明であるが、仮に誰かが裏で動いていたにせよ、多くの大学生の間に深い不満が溜まっていなければ、ちょっとしたきっかけでこれだけの運動にはならない。「誰かが画策している」との認識だけが先走り、学生たちにとって何が不満であり、何を求めているのかを知ろうとしなかったことが、当時の中国共産党幹部の失敗だった。
この学生たちの動きを受けて、趙紫陽総書記から留守中の案件処理を託されていた李鵬総理は、同日(4月24日)、政治局常務委員会の非公式会議を招集した。この会議では、「ごく少数の者の操縦と画策の下で、計画もあり組織もある反党・反社会主義との政治闘争に直面している」との認識で一致し、今回の動きを「動乱」と呼び、党中央に「動乱制止小組」を設置することを決めたという(参考資料17:「トウ小平秘録」)。問題は、この重要な決定が党のトップである趙紫陽総書記が不在の場で決められたことである。この決定に際して、北朝鮮訪問中の趙紫陽氏に対しては、帰国要請はなされなかった。この4月24日の政治局常務委員会非公式会議には、趙紫陽氏に近い改革開放派の万里氏や田紀雲氏も出席していたが、趙紫陽氏がいない場においては、李鵬氏や楊尚昆国家主席ら保守派の意見に押し切られたものと考えられている。
このことを考えると、この学生たちの動きに対する対処方針の決定を巡る党内の動きは、改革推進派の趙紫陽総書記が不在の間に李鵬総理ら保守派が党内の動きを牛耳ろうとしていたという派閥闘争的色彩が強かった、との見方も可能である。
トウ小平氏は、この政治局常務委員会非公式会議には出席していなかったが、会議の翌日の4月25日、李鵬総理と楊尚昆国家主席がトウ小平氏の自宅を訪問し、会議の結果を報告した。トウ小平氏は、会議の結果を全面的に支持し、「旗幟を鮮明にして、強い措置をとって動乱を制止せよ。」と指示した。そしてその線に沿って「人民日報」に社説を出すよう指示したという。この時点で、この重大な決定に了承を与えるに際して、トウ小平氏も、党総書記の趙紫陽氏を帰国させるような指示はしなかった。
トウ小平氏は、この時点で、既に趙紫陽氏を、党の運営を任せる責任者としてみなしていなかった可能性がある。前年(1988年)の二重価格廃止問題の対処に失敗した責任を取る形で、趙紫陽総書記の求心力はこの頃既にかなり低下しており、そういった趙紫陽氏の党内での位置付けをトウ小平氏もよく認識していたのかもしれない。しかし、「趙紫陽極秘回想録」で趙紫陽氏が述べているところによれば、趙紫陽氏が北朝鮮を訪問する直前にトウ小平氏を訪問した際、トウ小平氏は趙紫陽氏を支持し、二期連続で総書記を続けてもらいたい、との意向を示していた、とのことである。であれば、トウ小平氏は、なぜ4月25日の時点で最終責任者として緊急事態の対処に当たるべき趙紫陽総書記を北朝鮮から呼び戻さなかったのか疑問が残る。
トウ小平氏は、自らのイニシアティブで趙紫陽氏を党のトップである総書記に任命しながら、この重大な党の危機の処理に当たっていた李鵬氏に対して趙紫陽総書記に相談するよう指示しなかった。李鵬氏は、行政府たる国務院のトップの総理であり、趙紫陽氏から留守中の案件処理を任されていたのは事実であれるが、重大な方針を決める最終決定権限者ではない。このことは、総書記とか国務院総理とかいう役職が事実上は名ばかりのものであり、重要事項がその時その時の時点で党内で誰が実力を保持しているかによって決まることを意味しており、中国共産党は、ルールに基づき組織の意志を決定する組織としての意志命令系統が機能していなかったことを示している。「ルールに基づいて決定が行われず、人によって決定が行われる」(法治ではなく人治である)という状況は、現在に至るまで中国の組織に深く根ざしている特徴である。この特徴は、組織の意志決定を柔軟にするが、「人」が誤った判断をした場合の修復が困難になる欠点を持っている。
政治局常務委員会非公式会議で決定され、トウ小平氏の了承を得た対応方針は、事後的ではあるがその日(4月25日)のうちにピョンヤンにいる趙紫陽氏に伝えられた。趙紫陽氏は、翌4月26日朝、「完全に同意する」と返答したという。「趙紫陽極秘回想録」で趙紫陽氏が語っているところによれば、北朝鮮にいて十分な情報が得られていない状況で、トウ小平氏が同意した決定に反対することはできないことから、趙紫陽氏はこの時「完全に同意する」と答えたとのことである。しかし、「強い措置を持って動乱を制止する」とのトウ小平氏の指示は、趙紫陽氏が北朝鮮へ出発する前に指示した「学生に対しては各レベルで対話を行う」という方針とは全く異なることから、趙紫陽氏が異論を唱えてもおかしくなかった。従って、趙紫陽氏としては、北京での決定事項の知らせに対し、「完全に同意する」と答えないで、さらに状況報告を求めるなり、北朝鮮訪問を中止して急きょ帰国する判断もあり得たであろう。「完全に同意する」と返答したのは、趙紫陽氏が、トウ小平氏の指示したことならば誰も逆らえない、と考えたからであろうか。あるいはトウ小平氏と異なる意見を総書記たる自分が表明することによって党内が分裂するようなことになってはならない、と考えたからであろうか。
1989年4月26日付けの「人民日報」は、トウ小平氏の指示に基づき、「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」と題する社説を掲載した。趙紫陽総書記がピョンヤンから「完全に同意する」と返事を出した4月26日朝には、既にこの社説を載せた「人民日報」は発行されていたのだった。それを考えると、あたかもピョンヤンにいる趙紫陽総書記に決定を知らせたのは、最終決定権限者たる党総書記に同意を求めたのではなく、総書記抜きで決定を行ったわけではない、という形式を整えるための「単なる形作り」だけの意味しかなかったようにも見える。
以前「第3章第5部第3節:西単(シータン)の『民主の壁』」で書いたように、1978年5月、「二つのすべて」を主張していた華国鋒氏を追い落とすため、華国鋒氏(当時、党主席であり、国務院総理だった)が北朝鮮訪問中に「二つのすべて」を批判する論文「実践は真理を検証する唯一の基準である」が「人民日報」に掲載された。この論文掲載がトウ小平氏や胡耀邦氏ら当時の「反すべて派」の「策略」であったのかどうかは定かではないが、1989年4月、李鵬氏らがトウ小平氏の同意を取り付けた上で、趙紫陽総書記の北朝鮮訪問中を狙ったかのようなタイミングで、学生らの運動を「動乱」と決めつける社説を「人民日報」に掲載したことは、1978年5月に華国鋒氏を追い落とすために「反華国鋒派」が用いた手法を思い起こさせる。
趙紫陽氏は「趙紫陽極秘回想録」の中で、李鵬氏ら保守派は、学生らの運動の中にあった散発的な過激な部分をことさら選んでトウ小平氏に報告して過度に激しい反応を示させた、として李鵬氏らを非難している。
上記に「トウ小平氏は、4月24日の政治局常務委員会非公式会合の結果の方向を受け、それを全面的に支持し、『旗幟を鮮明にして、強い措置をとって動乱を制止せよ。』と指示した。そしてその線に沿って『人民日報』に社説を出すよう指示した。」と書いた。しかし、「趙紫陽極秘回想録」の中で趙紫陽氏は、異なることを述べている。トウ小平氏は、李鵬氏と楊尚昆氏から4月24日の政治局常務委員会非公式会合の結果を聞き、それに同意し、「旗幟を鮮明にして、強い措置をとって動乱を制止せよ。」と発言したが、これらの李鵬氏らとトウ小平氏との発言のやりとりは本来表に出ないものだったのであり、トウ小平氏の発言をそのまま社説にしたのは李鵬氏らの判断であり、トウ小平氏自身は自分の言葉がそのまま「人民日報」の社説になったことについて快く思っていなかった、と趙紫陽氏は述べている。トウ小平氏の言葉がそのまま社説になったことにより、トウ小平氏自身が学生たちからの反発の矢面に立たされることになったからである。
ここの部分は趙紫陽氏が語っていることが事実であるのか、あるいは趙紫陽氏が自分を引き立ててくれたトウ小平氏をかばい、全ての責任は李鵬氏ら保守派にある、ということを言いたいために「趙紫陽極秘回想録」でそう語っているのかは、定かではない。
いずれにしても、この時点に至っても趙紫陽氏は北朝鮮での日程を切り上げて北京に戻ろうとしなかった。この判断についても、後世の歴史家からは、趙紫陽氏に対する批判が出るものと思われる。
この1989年4月26日付けの「人民日報」の社説「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」に対し、学生たちは大いに驚き、反発した。大きな暴力的な騒動にまで発展していたわけではないこの時点で、学生たちの動きに対し「動乱」という言葉が使われたことが唐突で意外だったからである。「動乱」という言葉は、文化大革命時代に「四人組」が自分たちに反対する勢力の動きを表現するのによく使われた。それを当時の人々はよく覚えていたため、この社説は、平和的な手段で主張をしているだけだ、と自分たちでは思っていた学生たちを大きく刺激した。「第4章第1部第5節:1986年の学生運動と胡耀邦総書記の解任」で述べた1987年1月6日付け社説「旗幟を鮮明にしてブルジョア自由化に反対しよう」と同じように「旗幟を鮮明にして」という用語があることは中国共産党の強い意志を表すことは学生たちもわかったが、それが「動乱」という言葉と連なっているのを見た時、学生たちは、中国共産党が自分たちに対して宣戦布告を発した、と感じたに違いない。1987年1月6日付けの社説では「旗幟を鮮明にして」という言葉は使われていたが、「動乱」という言葉は使われていなかった。
おそらくはトウ小平氏は、1987年1月6日付け社説「旗幟を鮮明にしてブルジョア自由化に反対しよう」が党の断固たる意志を学生たちに伝え、それによって学生たちもことの重大性を認識してデモをやめたように、今回も強い社説を掲げることによって、学生たちが「ここが限界だ。これ以上運動を拡大したらまずい。」と気付くだろう、と期待していたのかもしれない。しかし、この二つの社説の間にある2年4か月という時間の流れは、トウ小平氏が想像していた以上に大きかった。この2年4か月の間に世界は大きく変わっていたのである。学生たちは「あと20日すると北京に来るソ連のゴルバチョフ書記長は、自分たちの行動を支持してくれるだろう」「韓国の学生たちは運動を繰り返すことによって大統領選挙の実施を勝ち取ったが、同じようなことは自分たちにもできるはずだ」と思っていたに違いない。この2年4か月の間に世界が変わり、テレビや改革開放によってもたらされた外国メディアによる情報によって、学生たちが外の世界の変化をしっかり知っていたことに、トウ小平氏は気が付いていなかったのかもしれない。
この4月26日付け「人民日報」の社説「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」は、学生の動きを沈静化させるどころか、むしろ反対に、それまで具体的な要求の点で必ずしも一本化されていなかった学生たちに「4月26日付け社説を撤回せよ!」という統一目標を与えることになってしまったのである。
この1989年4月26日付けの「人民日報」社説「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対しよう」は、現在でも、新華社のページで見ることができる。
(参考URL)「新華社」ホームページ「新華資料」
「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対しよう」(1989年4月26日付け「人民日報」社説)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/23/content_2609426.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。
この社説の冒頭に「一部の不法分子が、打ち壊し、焼き討ちするひどい事件が発生している」という表現が出てくる。これは2008年3月14日に発生したチベット自治区ラサでの争乱事件を報じる新華社の報道と全く同じ表現である。20年間、中国の公式報道の表現が全く進歩していないことを示していると言える。なお、1989年の「第二次天安門事件」においては、少なくとも西側報道で見る限り、4月26日以前の段階で打ち壊しや焼き討ち事件と言えるほどの事件は起きていなかったはずであり、その意味では上記の1989年4月26日付けの社説は、客観的に見ても表現が過激すぎるように思える。
なお、西側報道機関が報道していない場所、例えば、どこかの大学のキャンパス内で打ち壊しや焼き討ち事件があった可能性は否定できず、上記の「人民日報」の社説が「事実に基づかない誇張である」と断言することは今の私にはできない。しかし、当時はあちこちに西側ジャーナリストが北京にもいたので、4月26日以前の時点で実際に焼き討ちや暴力事件が起きていたのだとすると、誰かがそれを見聞きして報道していたはずであり、4月26日以前の段階においては、「人民日報」社説が指摘しているような焼き討ち・暴力行為は起きていなかった、と判断するのは妥当なことだろうと思われる。
同じ4月26日、上海市党委員会の江沢民書記は、胡耀邦氏追悼座談会記事の一部削除命令を拒否した「世界経済導報」の欽本立編集長を解任した。この北京の動きと呼応した迅速な動きが江沢民氏が異例の抜擢をされる理由となるが、欽本立編集長の解任は、多くの知識人や新聞人を憤らせた。「第4章第1部第6節:中国の社会・経済で進む微妙な変化」で書いたように、胡耀邦氏が総書記を解任された1987年頃から、多くの新聞人は従来の「党の舌と喉」の役割をはみ出して、社会の様々な問題について自ら取材し記事を書くことに使命感を持ち始めていた。そうした中、学生らの声を全く聞こうとせず、学生らの動きを「動乱」と決めつけた「人民日報」と、胡耀邦氏の業績を評価する記事を載せようとした新聞を発禁処分にしその新聞の編集長を解任した上海市党委員会の決定は、多くの知識人や新聞人たちの気持ちを党から離反させた。
このような知識人や新聞人たちの動きもトウ小平氏ら党幹部の想定を超えたものだった可能性がある。中国が始めた中国の改革開放政策は、ソ連・東欧諸国の人々に従来からの体制の頑迷さを思い知らせた。そして、ソ連に改革派のゴルバチョフ書記長を誕生させ、東欧諸国でも改革が急激に進められた。そういった諸外国の情報は、改革開放政策の進展により、中国にどんどん逆流してくるようになっていた。ソ連・東欧諸国での動きは、改革開放政策の発信源である中国の知識人たちに自信と自負を与えていたに違いない。そういった中国の知識人たちの意識の変化に、トウ小平氏や中国共産党の幹部は気付いていなかったのかもしれない。
社説「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」が掲載された翌日の4月27日、北京の学生3万人が社説の撤回を求めてデモ行進した。多くの市民がデモを支持する姿勢を示した。この動きを見て、党幹部も強硬な姿勢を採り続けることは得策ではない、と考えるようになり、4月28日、党幹部は学生たちとの対話を行う決定をした。
4月29日に党幹部(袁木国務院報道官)と学生たちの代表との会談が行われた。しかし、袁木氏が会見した学生代表45名のうち、43名は官製の学生会の代表だったことから、運動の主体となった学生たちの不満は、この会見によって返って増した、という(「トウ小平秘録」)。李鵬総理ら保守派は追い詰められつつあった。
こうした困難な状況の中、4月30日、趙紫陽総書記がようやく北朝鮮訪問を終えて帰国した。趙紫陽総書記は、党の分裂だけは避けたいと考えていた。趙紫陽総書記は、北京に着くとすぐ、翌5月1日に党政治局常務委員会を開くよう指示した。4月26日の社説を出させた李鵬総理ら保守派は、趙紫陽総書記が自分たちのやり方に反対し、学生たちの側に付くことを恐れていた。ここ数日の北京市内の状況を踏まえれば、党の総書記が運動をしている学生・市民の側に立てば、李鵬総理ら保守派は一気に追放されかねない状況だと思われたからである。
5月1日に開かれた党政治局常務委員会の内容は必ずしも明らかではないが、「トウ小平秘録」によると、この日の会議の内容はおおよそ次のようなものだった。
・趙紫陽総書記は、4月24日の党中央に「動乱制止小組」を設置することを決めた党常務委員会非公式会議の決定と、4月25日の「旗幟を鮮明にして、強い措置をとって動乱を制止せよ。」というトウ小平氏の講話を支持する旨を表明した。これは4月26日に北朝鮮で「同意する」と表明したことの再確認を意味した。
・趙紫陽総書記は、4月26日の「人民日報」の社説については言及しなかった。
・胡啓立政治局常務委員が、上海での「世界経済導報」の発行禁止と編集長解任について知識人たちが怒っている、と報告した際、趙紫陽総書記は「上海の動きは軽率で性急すぎた。」と批判した。しかし、上海の動きは既に党中央の了承を得ていたことから「上海の決定は維持されなければならない」とも述べた。
・楊尚昆国家主席が「5月4日に北京で開かれるアジア開発銀行(ADB)の理事会と5月中旬に予定されているソ連のゴルバチョフ書記長の訪中を混乱の中で迎えるわけにはいかない」と発言した。
・楊国家主席の発言を受け、趙紫陽総書記は、5月3日に行う予定の「五四運動70周年記念大会」における演説で「(1)改革開放と四つの基本原則をしっかりやる、(2)社会主義の民主と法制建設に取り組む。西側の多党制はやらないが、民主化は世界の潮流であり、主体的に取り組むべきだ。」と主張し、政治改革を進める方針を打ち出すという案を出した。
最後の趙紫陽総書記の案に出てくる「四つの基本原則」とは、「第3章第5部(2)『北京の春』と改革開放路線の決定」で述べたように、「民主の壁」(北京の春)の運動が盛り上がって華国鋒氏ら「すべて派」が実権を失い改革開放路線への転換がなった後の1979年3月30日にトウ小平氏が打ち出した方針である。この方針は「社会主義の道」「プロレタリア独裁」「共産党による指導」「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」の4つを堅持するというものである。要するに民主について議論したとしても、この4つを逸脱してはならない、というトウ小平氏の宣言だった。
つまり、趙紫陽総書記の提案は、従来の党の方針を再確認する、というものであった。ただ、学生たちの理解を得るために、「四つの基本原則」を堅持する、という枠の中ではあるが、政治改革を進める、という方針を示そう、というものだった。これに対し、李鵬総理ら保守派は、デモをやっている学生たちの中には社会主義制度自体に反対している者もおり、学生たちに妥協して「政治改革を進める」との方針を示すのは危険だ、と主張した。しかし、趙紫陽総書記は、学生たちの動きに理解を示し、政治改革を進めるとの方針を示せば、学生たちも理解してくれるはずだ、と考えていたようである。
この5月1日の政治局常務委員会の様子について、「趙紫陽極秘回想録」の中で、趙紫陽氏は、自分のとった態度について次のように語っている。
・(方針をいきなり180度転換するわけにはいかなかったので)やや漠然とした形で李鵬の仕事にある程度賛意を表した。
・民衆の多数派の支持を得ることが大切だ、と主張した。
・4月26日の社説で表明された意見が、民衆の大多数、学生、知識人、民主諸党派の考えから著しくかけ離れたものであるという事実を、われわれは冷静に受け止めなければならない。
・4月26日の社説で用いられた表現を活かして、ごく一部の反共産党的、反社会主義的な者たちが混乱を助長しようとしていると示唆すれば、社説の影響が和らぐことが期待される。
・学生たちには教室に戻るよう勧めるべきだ。
トウ小平氏がどう考えているかが重要だったが、「趙紫陽極秘回想録」によれば、5月2日と5月3日、趙紫陽氏は、秘書を通じて、あるいは楊尚昆国家主席を通じて、トウ小平氏と会いたいと頼んだが、トウ小平氏は会わなかった。楊尚昆氏は、仮にトウ小平氏と会ったとしても、トウ小平氏は自分の態度を改めて主張するだけであり、事態を好転させることはさらに難しくなる、と述べた、という。
こうした一連の動きを見ていると、趙紫陽氏は、この時点でも自分が最終決定権限者であり、トウ小平氏と相談した上で、自分が全てを決めるべきだ、と思っていたようであるが、もしかするとトウ小平氏は、この時点(4月26日ないし5月1日の時点)で、既に趙紫陽氏を「見限って」いたのかもしれない。「趙紫陽極秘回想録」では、趙紫陽氏は、この時期、トウ小平氏は体調がよくなかった、と記しているが、それにしも、この重大な国家的危機に際して、党総書記の趙紫陽氏が最高実力者のトウ小平氏と会って相談することができない、という状況は、どう考えても異常である。
5月3日、趙紫陽総書記は「五四運動70周年記念大会」で上記の方針に従った演説を行った。趙総書記は、社会の安定が必要だと訴えたが、その一方で、学生たちの運動を「動乱」とは呼ばなかった。この演説では、反対に「安定こそが大事である」と主張し、過去の帝国主義の時代や文化大革命のような動乱の日々を指摘した上で、「もし再び動乱が起きれば、幅広い人民や青年学生が希望する建設、改革、民主、科学が全てできなくなる」と述べで、今起こっている現象は「動乱」ではないことを示唆していた。さらに、この演説では、「学生たちを含めた一般大衆の民主政治への要求については、中国共産党の主張と同じであり、党の心は、人民の心、青年の心と一緒である。」と述べていた。
さらに5月4日、人民大会堂では、アジア開発銀行理事会が開催された。各国代表と会見した趙紫陽総書記は学生デモについて「政策の運営上の欠陥を批判しているのであり、社会主義に反対しているものではない」と述べた。
多くの学生たちはこれらの演説を歓迎した。5月4日、学生たちは天安門前広場に集まって、政府との対話を要求した後、授業ボイコットの中止を宣言した。
李鵬総理も対外的な発言では趙紫陽総書記と同じような発言をしていたが、4月26日付けの「人民日報」の社説に対しては、李鵬氏と趙紫陽氏は鋭く意見を対立させていた。趙紫陽氏は、4月26日付け社説を修正しようと考えていた。社説掲載時に北京にいて全体の指揮を採っていた李鵬氏はこれに強く反対した。4月26日の社説の修正を認めることは、社説掲載の誤りを認め、自らの失脚を意味するからである。学生デモが収まり掛けつつある現状を見て、多くの党内幹部が趙紫陽総書記の演説の路線を支持したが、4月26日付け社説をどうするか、については、党内での意見が分かれていた。
以上
次回「4-1-9(3/5):『第二次天安門事件』(3/5)」
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へ続く。
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