2011年の5月の連休頃には、道路や交通機関も復旧。物流も再開していた。
万が一のため、ボランティア保険に加入する。
夜行バスで山形へ。山形に着いてから、車に必要物資を詰め込む。
南相馬市のホテルは再開していたようだが、万が一のことを考え、寝袋、食糧、水などを詰め込む。その他、軍手、シャベルなどの機材も入
れる。主要道路の規制状況をHPで確認。
東北自動車道の村田ICで一般道路に入り、宮城県の内陸部を横断し、沿岸部へ。内陸部は平常通りの風景であった。
沿岸部に入り、景色は一変する。津波がきたと思われる場所は根こそぎ何もなかった。道路は陥没した部分が多数あり、スピードは出せず。
北上する車は多かったが、福島方面へ南下する車は少なく、仮設住宅の機材を運ぶトラックや自衛隊の輸送車とすれ違う。
宮城県沿岸部では、営業している店は多かったが、南相馬市に入るとシャッターをおろした店ばかりであった。
道路に乗り上げたボートの残骸。折れ曲がったガードレール。土台だけ残された家らしき跡。誰もいない海岸沿いに隊列を組んだ自衛隊車が
任務にあたっていた。
街の中心部に入ると、ようやく営業している店や、一般車両の往来もみられた。
南相馬市の福祉会館でボランティア登録の列に並ぶ。
数人の自衛隊員が駐車場にいたので、ご苦労様ですと声をかける。大変な任務に頭が下がる。
後で聞いたところによると、連休中の南相馬市のボランティア登録者の1日のピークは400人ほどとのこと。
登録を済ますと、社協の職員から手順の説明を受ける。震災前は人口7万人ほどであったが、原発爆発の後は、1万人になり、この時期
(2011年5月頃)は3万人ほどに戻ったとのことであった。
ボランティアの仕事の分担と、チームリーダーを決める。災害ボランティアは、場数を踏んだ災害ボラプロがたくさんいて、段取りや分担を
仕切ってくれる。聞くところによると、2週間から1か月間休みをとって、車で寝泊りしていたりと、装備も万全である。
また、北海道からは、4人組の高齢者が車で来て、テントで寝泊りしながら、ボランティアをしていた。
分担された仕事は、支援物資の仕分けである。体育館に集められた全国からの支援物資を、全住民に配布するため、次の日まで確か5000
人分だったと思うが袋詰めする作業であった。トイレットペーパーやお菓子、缶詰やタオルなどを順番に詰めていった。
士気は高く、気持ちのよいほどの仕事ぶりであった。他に瓦礫の撤去、アルバム保存、家の片づけなど分担する仕事がたくさんあった。
ある県から自家用車で秘書と3人で来た県議会議員が謙虚に一生懸命袋詰めをしていた。真摯な対応にメンバーの評判も良かった。
こういう災害時に、議員団でぞろぞろと被災地入りして、バスをチャーターして移動しながら、人手不足な被災地の職員に案内させたりする
ほど迷惑な行為はない。当時、嘉田知事と対話の会の議員たちがぞろぞろと被災地入りしたらしいが、何をしに行ったのかと今でも思う。
派遣した職員に情報収集させ、ボランティアや専門技能を持った人材の送り出し、避難者の受け入れ体制を整えたほうがよほど、被災地のた
めになったのではないかと思う。だから、パフォーマンス知事である。
