あまり代わり映えしないのですが、「心配する方が体に悪い」(引用元を探すのが面倒なくらい膾炙してますし、またつい最近、某栄養士さんが問合せをした保護者に語った言葉として伝え聞きもしました)とか、「年1ミリ・シーベルトは法的に放射性物質を扱う施設の管理基準に過ぎないのに」とか(こちらは読売新聞2月25日付・「原発風評被害 放射能の基準から考え直せ」(ママ))とか、捻れた主張が相変わらず跋扈しているどころか、そうした主張が声を強くしてさえいるように感じられるので、少しだけまとめておきます。
これらの捻れた主張にはあまり新規性もなく、基本的には同じパターンの繰り返しですので、こちらのまとめもまたそれに対応して、これまでにいくつかの場所で述べたことの繰り返しになります。それは仕方のないことなのでしょう。
一応、社会や法律の側面についてと、「科学的」と称する主張のいくつかに見られる非科学的な態度についてと、二回程度に分けて書きます。論を構成するというより(だけでなく?)情報をまとめておく意味合いも持たせます。
法の位置づけ
さて、山下俊一氏は、2011年5月3日、二本松市で行った講演で、次のように述べていました。
・・・一度に100mSv浴びると少し発癌のリスクがあがる、具体的に1000人被曝をすると100mSvで5人くらいの癌のリスクがあがるということが、私たちが長年研究をして来たデータであります。じゃあ、100mSv以下は、実は、わかりません。100mSv以下は明らかな発ガンリスクは今観察されていませんし、これからもそれを証明することは非常に困難であります。・・・
今回皆様方を混乱におとしめている一つの理由は、年間皆様方はだいたい1mSv被曝をすると1年間に、ですから一般公衆はこれよりも被曝をさせてはならないというのが「平常時」の約束事であります。では、この1ミリシーベルトを私たちはどこまで守り、あるいは安全の指標とできるかどうかということを、今、この福島で問われています。何度もお話しますように100mSv以下では明らかな発ガンリスクは起こりません。
ここで取り上げたいのは、同じ山下氏がこの講演のわずか2年前には、
主として20歳未満の人たちで、過剰な放射線を被ばくすると、10~100mSvの間で発がんが起こりうるというリスクを否定できません。・・・
と述べていたではないか(山下俊一「放射線の光と影:世界保健機関の戦略」『日本臨床内科医会会誌』第23巻第5号, 2009年3月, p. 543)、その間、むしろ低線量被曝については影響があるという研究や証拠がたくさん出てきたにもかかわらず、2011年になって「100mSv以下では明らかな発ガンリスクは起こりません」というトーンで語るのはどうしてか、と言う点ではなく、
一般公衆はこれよりも被曝をさせてはならないというのが「平常時」の約束事であります。では、この1ミリシーベルトを私たちはどこまで守り、あるいは安全の指標とできるかどうかということを、今、この福島で問われています。
という点についてです。
これはつまり、管理基準とはいえ曲がりなりにも法令として定められている年間1ミリシーベルトという基準は「平常時」のものであり、事故が起きてしまった状況と言うのは「平常時」ではないのだから、この「約束事」を(まあ雑な言葉を使うと)反故にすることも含めて考えるべきであろう(「問われてい」るのはこの約束事を「私たちはどこまで守り、あるいは安全の指標とできるか」ということだと述べているわけですから)、という主張になっています。
特に敷衍する必要もないかと思われますし、法律を専門とする人は恥ずかしくてこんなことは言うに言えないため沈黙を続けているのかとも思われますが(もちろん私が法律関係の論考としてどこを探せばよいかわかっていないことからくる無知もあるかもしれませんが)、それは別として、被曝限度をめぐる議論が現実のものとして起きたのはどうしてかというと、年間1ミリシーベルトを越える被曝の恐れが出てきた(そして実際にそれ以上の被曝をしてしまった人がいる)からです。
法令が定める管理をきちんとできずに事故を起こしたからです。
このことを考えるならば、このような発言が対象としている議論の領域において了解される「非平常時」というのは(管理がうまくできなくて)1ミリシーベルトを越える被曝の可能性が発生した状況ということになり、そこでは「平常時」の約束事については再考することもありえるとすることは、つまり、
- 平常時:管理がうまくいっていて、一般公衆の被曝限度1ミリシーベルト以内の状況が維持されているとき
- 非平常時:管理がうまくいかず、一般公衆の被曝限度1ミリシーベルト以内の状況が維持されていないとき
と定義することにほとんど等しく(多分、山下氏の頭の中ではそのように考えられてはいないでしょうが)、そしてこれは、一般公衆の被曝限度1ミリシーベルトを守りなさいという規範は一般公衆の被曝限度1ミリシーベルトが現実に守られているときにのみ適用すればよく、一般公衆の被曝限度が1ミリシーベルトを越えそうなときや越えてしまったときには適用しなくてよいことを意味するわけですから、それはつまり、法令というものの社会的な位置づけを完全に無化・無視することになります。
管理に失敗して管理基準で定められた被曝限度を越えてしまう状況が発生したときには、被曝限度を定めた基準を無視する可能性も考えて可、というのはまあ、「人を殴っちゃいけない」というのは人を殴っていない人や状況に対して適用される基準であって、実際に人を殴っちゃった人や状況には適用されないというのと同程度に奇妙なわけです。
こうした奇妙な主張がするすると流れてしまう状況は、とりわけ3.11後、ままあって、例えば、2011年12月20日、NHKは次のように報じています。
厚生労働省は、原発事故から一定の期間が経過し、食品から検出される放射性物質の量が少なくなっていることなどから、これまでの暫定基準値から新たな基準値を設定するための検討を進めていました。
「放射性物質の量が少なくなっている」から暫定規制値を見直す、というのは、未成年の飲酒が多いときには飲酒可能年齢を引き下げ、未成年の飲酒が減ったら未成年の飲酒を禁止する、というやり方に似ています。
法令に反する状況を容認するわけではありませんが、現実に法令に反した行為や事態や少なからずあるわけで(例えば警察庁刑事局刑事企画課が出している『犯罪統計資料』などを見ると刑法犯の数などがわかるわけですが)、現実に犯罪があるから刑法を「私たちはどこまで守り、あるいは安全の指標とできるかどうかということを」「今」「この日本で問われています」などという議論にはなりません。
法は規範であって、現実の後追い的な記述や場当たり的な扱いではないという点は、ケルゼン伯の見解に対してどのような態度を取るかといった難しい問題以前の常識の問題ということになろうかと思われます。
法の不備と法の理念
困ったことに、確かに、被爆限度は、放射線の管理基準として定められたもので、環境基本法から放射能汚染が明示的に排除されていることからも伺われるように、穴があるようです。
早稲田大学大学院法務研究科の日置雅晴氏は、そうした穴も考慮した上で、次のように述べています。
今回のような大量の放射性物質が放出されてしまった場合に関しては、これまでの原子力行政の想定外であるから、行政にとっても、東京電力にとっても、一般市民の被曝対策として何をなすべきかも定められていないし、ましてその基準となる放射能の強度についても定められていなかったのである。・・・
しかし、少なくとも、事故前に長い時間をかけて、公衆の年間の被曝限度を1mSv以下とすることで、日本国内の一定の合意を形成して原子力事業を行ってきたのであるから、その限界を事故が起こったからといって、十分な議論なしに変えることは許されないというべきである。
日置雅晴『拡大する放射能汚染と法規制 穴だらけの制度の現状』(早稲田大学ブックレット、2011年,p. 48-49)
これはまあ当然と言えば当然で、法令に不備があった場合には、それを利用して社会的な了解やその法令が体現すべき理念と乖離した対応をすべきではないというのは、当たり前のことでしょう。
ちなみに「当たり前」というのは、私が「当たり前」と主観的に思っているだけではなく、原発事故と放射能汚染の外に目を向けると、行政の対応も、案外そのようになっていることから、一般的に「当たり前」という意味です。
2012年8月24日、文部科学省は、法令適用事前確認手続の照会・回答一覧の中で、放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律(昭和三十二年法律第百六十七号)第3条第1項をめぐり、
事故由来放射性物質は、核燃料物質又は核燃料物質によって汚染された物が飛散したものです。これらについては、放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律の規制対象物ではありません
と述べていますが、除染労働者の安全確保などの観点からこうした指針は大きな問題であるとともに、法に不備がある場合の対応として、単に不適切です。
対比のために、いわゆる「脱法ドラッグ」(麻薬と同様の効果を持ちながら、人体摂取目的以外での販売を規制する法令がないもの)をめぐる行政の対応を考えてみましょう。
厚生労働省は「脱法ドラッグ」を「違法ドラッグ」と呼んで注意を呼びかけるとともに取り締まりをはかってきました。さらに、つい最近、2013年2月20日には、成分構造が類似した複数のドラッグを規制する「包括指定」を導入し、大麻に似た作用を持つ772種を規制対象としています(NHK, 2013年2月21日)。
事故由来放射性物質に対する文部科学省の回答は、厚生労働省が「脱法ドラッグ」については規制対象物ではありません、というのに相当します。
でもまあ、「当たり前」ですが、厚生労働省は「脱法ドラッグ」について、そのような立場を取っていないわけです。
社会的に合意された方針
そうした状況で、読売新聞などは、「原発風評被害 放射能の基準から考え直せ」といった社説を掲げて(2013年2月25日)
年1ミリ・シーベルトは法的に放射性物質を扱う施設の管理基準に過ぎないのに、この線引きを食品基準にも適用した。
ICRPは総量で100ミリ・シーベルトまでなら明確な健康影響は検出できないとの立場だ。
などと主張しているわけですが(これを主張と呼ぶことができるかどうかはいったん置いておいて)、(「明確な健康影響」については別に論じることにして)これらの問題を扱うにあたって、法令とまではいかないにせよ、社会的に合意されていることが(読売新聞さんのご主張とは対立するかたちで)存在しています。
(脱線しますが「管理基準に過ぎない」というのは、こうした規程の一つが「放射線障害防止法」と名づけられていることを考えると、法の趣旨に反していると解釈することもできます。)
例えば、「
環境基本計画」というのが閣議決定されていますが、そのうち2000年に閣議決定された第二次環境基本計画では、予防的措置は重要な柱の一つとされていますし、また、そのことは2006年の第三次環境基本計画でも確認・踏襲されています。
また、子どもに関しては、1997年に採択された「子どもの環境保健に関する八カ国の環境リーダーの宣言書」(いわゆる「G8マイアミ宣言」)というものがあり、そこで、
我々は、暴露の予防こそが子供を環境の脅威から守る唯一かつ最も効率的な手段であることを断言する
と高らかに宣言されているわけです。
「ICRPは総量で100ミリ・シーベルトまでなら明確な健康影響は検出できないとの立場だ」という主張そのもののおかしさは別途検討しますが、仮に明確な健康影響が検出できないとしても、予防原則に従い、暴露を予防するということは、原発事故後の対応の基本的な方針・指針として参照されるべきものであったし、また現在も依然として参照されるべきものであるわけです。
その観点からは、いわゆる「
子ども・被災者支援法」の具体化は、これまでの基本的な了解を踏まえた重要なポイントになります。
捻れた状況
ここで見てきたような政府・行政・メディア・専門家(というほど丁寧に見ていませんが)の対応は、奇妙に捻れた状況を生み出しています。
例えば、2011年5月26日読売新聞は次のように報じています。
経済産業省原子力安全・保安院は25日、東京電力福島第一原発で放射線業務従事者でない女性社員2人が、年間限度量の1ミリ・シーベルトを超えて被曝した問題で、同社を文書で厳重注意し、個人線量計の確保など7項目の再発防止を指示した。
同原発では事故後、放射線管理区域外でも放射性物質が濃度限度を超えていたのに、同従事者でない女性社員5人を働かせていた。保安院は、放射線測定者の増員、同原発と福島第二原発で内部被曝の評価を徹底することなども求めた。
また、放射線障害防止法で放射線管理区域というのが定められていて、3カ月に1.3mSvの被曝を越える恐れがある区域(他にもいくつか規程があります)がそれに該当し、そこでは防護服の着用が義務付けられまた飲食が禁止されているわけですが、その一方で、原発事故後は、例えば、東大病院の中川恵一氏などは次のように述べるに至っています:
柏市の公園などでの線量は、高いところでも1時間当たり0.5マイクロシーベルトくらいです。この環境に24時間ずっといた場合、内部被ばくも含めた年間の被ばく量は5~6ミリシーベルトになります。屋内の線量は屋外よりずっと低くなるため、実際の被ばく量は、この値よりかなり低くなります。小さなお子さんでも普通に遊ばせてよいと思います(毎日新聞2011年7月3日)。
原発事故後、とかく「科学リテラシー」だとか「科学技術コミュニケーション」だとかが議論されがちですが、別に社会は理学や工学などのいわゆる科学で成り立っているわけではなく(もしそのように言う人がいたら、どうして時速50キロでは罰せられないのに51キロだと罰せられたりするのか科学的に説明してもらうとよいかもしれません)、法律の理解とか社会性への理解といったことが、実は大きな問題になっているようです。
法の軽視について、少し
こうしたことは、一言で言うと法への無理解や法の軽視ということになるのでしょう。例えば理科系でそれなりの業績をあげている研究者が国際法は法執行機関が存在しないから本当の意味での法ではないと主張したりするのを耳にすることもなくはなかったのでまあそれなりに法への無知が蔓延していることは感じてはいたのですが(ちなみに法執行機関が法からの逸脱行為への対応を担保することで法が法であるなら法執行機関の逸脱行為への対応を担保する法執行機関がなくてはならず・・・ということで無限背信に陥ることはすぐわかります)、このところ注意を向けているからということもあり、よく目につきます(自分のことは思いっきり棚上げしておきます)。
中川恵一氏の発言などはその典型例の一つであるわけですが、それを発行部数数百万部の新聞が掲載するという事態は、恐らくそれ以上に奇妙なことでしょう。
他に、例えば、2012年9月25日、原子力規制委員会(田中俊一委員長)記者会見への参加を求めた『赤旗』紙に対し、原子力規制庁政策評価・広聴広報課が「公正中立のもとに報道いただくため、特定の主義主張を持った機関の機関紙はご遠慮いただきたい」と回答した出来事があり、このときにはフリーの記者の会見参加制限も示唆されたわけですが、これは、民主主義の根幹に関わるものであると同時に、法的に扱われるべき問題でもあります。
日本政府は1979年に国際人権規約の社会権規約と自由権規約を両方とも批准しています。憲法第98条2項の規程により、日本では条約は「自動受入方式」といって、批准すると国内法整備の必要無しに法的な効力を持ちます。
ところで、人権規約の締約国における実施状況を調査する委員会がありますが、社会権を調査する社会権規約委員会は、2001年8月、日本政府の報告書を審査した際に、
次のような懸念と勧告を表明しています。
22.委員会は、原子力発電所で事故が生じているとの報告があること、そのような施設の安全性に関して透明性が欠けておりかつ必要な情報公開が行われていないこと、並びに、原子力事故の防止・対応に関して全国規模及び地域規模の事前準備が行われていないことを、懸念する。
49.委員会は、原子力発電施設の安全性に関わる問題について透明性を向上させ、かつ関係住民に対してあらゆる必要な情報を公開することを勧告し、さらに、締約国に対し、原子力事故の防止及び事故に対する早期対応のための準備計画を改善するよう促す。
国会事故調の報告からもわかるように、こうした勧告は守られなかったわけですが、情報へのアクセスを保証することは日本政府の法的な責務であり、また市民の権利でもあります。
つい最近、TPP交渉に関して、後発の交渉参加国が交渉参加にあたりあらかじめ不利な条件を飲まされることがあった点を隠したまま政府は交渉参加を議論してきたことが新聞にも掲載されましたが、これなども、「民主主義の理念」といった、リベラルな社会科学系の人が好みそうな抽象的でいささか退屈でわかりきった話題とは別に法的にも大きな問題とされるべきところのようです。