原善四郎インタビュー

関特演の補給を担当する関東軍司令部第三課の課長だった原善四郎中佐が八十五万人の将兵へどれくらいの従軍慰安婦を動員すればよいかを算出し て二万人という数を報告したことが知られていますが これは千田夏光の「従軍慰安婦」に載っており、原善四郎氏が大阪に隠栖して いることを見つけてインタビューしたと言うものです。昔の話ですから、当然 あちこち不整合なところや思い違いもあるわけですが、これを捉えて中川八洋氏 などはインタビュー自体が捏造だとケチを付けています。

これに限らず、慰安婦の証言は、過去を50年も経って語るのですから当然、一言一句を厳密に検証するようなものではありません。統計的に見て総合判断するしかないでしょう。翻って、従軍慰安婦否定論者が言うように、強制も無く合法的な民間の売春でしかなかったなら、そのような証言が一つくらいあってもいいはずです。罪の意識がないものなら証言もし易いはずですが、それは全く一件もありません。細かい矛盾点を穿り出すのはためにする議論でしかないでしょう。

千田氏が原氏に会ったとして、そのような事を言うかといえば、多いにありうると思えます。1970年代には慰安所が悪事とは考えない風潮が残っていて、こんな噺も年寄りの自慢話となったからです。 例えば、中曽根康弘も自分の選挙パンフに「二十三歳で三千人の総指揮官」などという文を書き、その中で「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。」と臆面もなく自慢しているのです。

後日、慰安婦のことが問題になると」、外国特派員に対して「慰安所は軍人らが碁を打つなど、休憩所の目的で設置した」などととぼけてごまかしたが、最近見つかった防衛研修所戦史室の資料「海軍航空基地第2設営班資料」によれば, 「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」 とはっきり慰安所が何であったかが書いてあります。ボルネオ島バリックパパンの日本海軍322基地でのことです。