(七)−承前−
京子と恵理香は、歩けば十分ほどかかる学校から駅までの道のりを二分とかからずに駆け抜けた。これまでの人生で最高のスピードだった。夜道で痴漢に追いかけられたときもこれほど必死で走ったことはない。
駅の構内に飛びこんで、何事かと驚く人々の目の前で、柱にすがりつくようにしてへたばりこむ。
「…………ね、ねえ、あれ、なんで!」
ぜいぜいと息をつきながら恵理香が言った。
「なんであの先生があそこにいるのよ!」
「……し、知らないわよ、そんなの」
眼鏡を外して胸元を押さえる京子が苦しげな息の奥からなんとか答えた。
「どうしました。大丈夫ですか?」
駅員が心配そうに声をかけてくる。
そこらじゅうから投げかけられている視線に気がついた二人は、悪夢から醒めたような顔をして起き上がった。
こわごわと学校の方を振り返る。
高台にそびえる校舎はここからでも街灯に照らされてほのかに浮かび上がって見える。
自分たちを追ってくるような人間の姿はどこにもない。
坂道を降りてくる車もない。
いつもの駅前、いつもの景色。ようやく二人は安心した。
「み、見回りしてたんだよ、きっと」
「丁度帰るところだったのかもしれないし」
「そうよ、その途中でちょうどタバコでも吸おうとライターに火を……」
「……あの先生タバコ吸ったっけ……」
「………………」
考えたくない方向へ導く発言はあえて無視された。
「……今日は帰って、明日考えよ」
「そうね……そうよね」
二人はひきつった笑顔をつくって定期券を取りだした。
京子と恵理香は乗る電車が逆方向である。
京子は泣きそうになった。一人になってホームに立ってみると、得体の知れないものが自分の影の中からじわじわとしみ出してくるような気がした。じっとしていたらそれがすぐに真っ黒い沼となって広がり、自分を飲みこんでしまうのだ。立ち止まっていられず、落ち着きなくうろうろ動き回る。
向かいのホームに恵理香の姿が現れた。
京子はすがりつくように恵理香を見た。人目がなければ線路を飛び越えて抱きつきたい思いだった。
別れたくない。恐い。できることならどちらかの家に泊まりこんで一晩中ずっと一緒にいたい。
向こうも同じ思いらしく、京子をひたすらじっと見つめてきていた。
ふと、恵理香の後ろに別の制服姿が立ったのが目に入った。
この距離でも美形なのがわかる。
松葉杖をついていた。
校内で見たことのある子だ。
その子について何か思い出すべきことがあるような気がしたが、そこへ電車が入ってきて、京子は失念してしまった。
(八)
恵理香はつり革につかまりながら、何でもない、何でもないとひたすら自分に言い聞かせていた。
京子と違って楽天的なので、一駅二駅と過ぎてゆくうちに、あれほど怖がっていたのが馬鹿みたいに思えてきた。
あんな後催眠をかける相手がいるということは恐ろしい。
でも、氷上先生が術者だと決まったわけではない。
アヤがそう言っただけだ。
証拠は何もない。先生があそこにいたのは偶然なのだ。そうに決まっている。
もし偶然でなかったら?
……いや、心配いらない。何と言っても先生なのだ。
今までは次々に事態が展開するので考えるのを忘れていたが、先生が生徒に強力な催眠術をかけて、何をするというのか。
自分たちと同じようにセックス玩具にして楽しむぐらいしか思いつかない。
だとすれば仲間だ。一緒に楽しくやれるではないか。
最初は警戒されるかもしれないが、自分と京子が同じ趣味を持つと知れば、よくしてくれるようになるだろう。
なるはずだ。
恵理香の思考はどんどん自分に都合のいい方向へ流れてゆく。
もしかしたら、あの超綺麗な氷上先生と、甘い一夜を過ごすことだってできるかも。
恵理香はいつもの調子を取り戻してきた。
氷上先生のテクニックはどうだろうか。自分が徹底的にイかされるかも。あるいは、以外に全然何も知らないで、自分や京子の愛撫に泣きながらよがってくれるかも。
そんな妄想にふけっていると、駅で電車が少し急に止まった。
「きゃあ!」
女の子の声がした。
自分と同じ制服を着た子が転んでいた。
体の下に松葉杖がある。左の膝がギプスで固定されている。
その子の顔には見覚えがあった。
一年生だ。
さっきの本城万里江と並ぶ、今年の新入生の中でも屈指の美形。
いつか落としてやろうと京子とリストに入れたうちの一人だ。
これはお近づきになるチャンスと、恵理香はすぐに助け起こした。
「大丈夫?」
「あ……大丈夫です、すみません……」
上品な、響きのいい声だ。育ちの良さを感じさせる。
腿までまくれたスカートに気づき、ばっと隠す。雪白の頬にほんのり恥ずかしげな血の色がのぼって、その初々しさに恵理香は思わず見とれた。
「どこで降りるの?」
すぐ次の駅だという。
「あ、あたしもそこなのよ。どうせだからつき合ってあげるよ」
嘘をついて恵理香も電車を降りた。
駅から少し行ったところに、木が沢山植えてある、割と広い公園があった。
石段を大儀そうに登る一年生につきそう。
恵理香はわずかの間にこの子のことが欲しくてたまらなくなっていた。
胸が大きく、くやしいが自分より大人びた体つきをしている。そのくせ男の手も握ったことがないような清純な顔かたち。アンバランスさが逆に妙な相互作用を起こし、何ともいえない色気となってにじんでいる。この年頃ならではの、天の配剤に違いない。フェロモンでも発散しているわけではあるまいに、そのたたずまいを見つめていると、どうしてもどんな風にあえぐのか見てみたくなってたまらない。男が女を襲う気分というものがはじめてわかった。恵理香の頭の中でもう彼女は裸にされていた。京子には悪いが、恵理香はすぐに落とし、自分のものにしてやることに決めた。
「名前、なんていったっけ」
「須藤です。須藤真央」
「きれいな名前だよね。あたしなんか、恵理香なんて安っぽい名前つけられちゃってさ」
「そんなことありません。恵理香っていう名前も、素敵です」
名前のことを言われたのに、自分に愛を告白されたような気がして恵理香はときめいた。
公園のベンチに座る。昼間ならウォーキングに励む老夫婦や子供連れの主婦の姿がそこら中に見られそうな場所だが、夜ともなれば、他に人影はない。辺りが住宅街で広い道路からも離れているせいか、危ない連中が集まってくる様子もない。
公園の照明は薄暗く、かすかな風が木々をゆらしてさわさわと音をたてている。
いい感じだと恵理香は思った。催眠をかけるには絶好のコンディションだ。
「家、近いの?」
「バスに乗るんですけど…………ここで待っていれば、迎えにきてくれるはずなんです。足がこれですから」
「おうちのひと?」
「いえ…………」
真央はうつむき、頬を染めた。
「あ、彼氏だ。いいな」
「そんな…………」
そうか、彼氏がいるのか。恵理香はほくそ笑んだ。
京子というパートナーがいるから、獲物と正々堂々とつき合うつもりは毛頭ない。だから相手に恋人がいようがいまいが関係ない。むしろつき合っている男がいた方が催眠にかけた後で堕とすのが楽でいい。その男とエッチすると暗示をかければ喜んで恵理香の愛撫に身をまかせる。
「どんなひと?」
「……すごい、格好いいひと……」
真央はさらに頬を染め、もじもじした。
たまんねーっと恵理香は中年オヤジのように心中に叫ぶ。
「もう来るの? ちょっと見せてほしいな、そんなにかっこいいならさ」
「そろそろなんですけど……遅いです……」
真央は携帯を取りだした。
「あ、あたしです……。今、西口公園にいます。二年生の和田先輩が一緒にいてくださっています。………………わかりました…………大丈夫です、はい、待ってます」
真央はため息をついた。
「どうしたの?」
「用事があって、あと三十分ぐらいかかるんだそうです」
恵理香はいきなりチャンスが到来したことを神に感謝した。
「じゃあ、乗りかかった船ってやつよ、それまでつきあったげる」
「そんな……悪いです」
「いいっていいって。それよりさ、これ、知ってる?」
恵理香はペンライトを取りだした。普通のものだが、色を塗り替え飾りをつけ、ちょっと見には特別製のように見える。
「…………?」
「こうするの」
恵理香は真央の興味を十分引きつけたとみるや、上からライトの光を真央の額にあてた。
最初は焦点をぼかして広い範囲を照らすようにして、すぐに狭くしぼる。すると、びっくりして見開かれた真央の瞳が、光に吸いよせられて、より目になる。恵理香はわずかに光を揺らす。光を追って右に左に真央の瞳が動く。
「ほら、よく見て。じいっと見て。この光をようく見て。光をじいっと見ていると、頭の中まで光が射して、とってもまぶしい。とってもまぶしい。まぶたを閉じてしまいましょう。まぶたがとっても重くなる。まぶたがとっても重くなる。……」
やつぎばやに暗示を与える。京子と違い、恵理香は速攻をもってよしとする。真央の目が徐々に閉じられてゆく。
と、突然。
「………………」
真央が、光から目をそらし、ぱっちりまばたきをして恵理香を見た。
いきなりの失敗に恵理香はうろたえた。
「…………ねえ、先輩」
真央は言って恵理香の手首を握った。
「な、何?」
催眠術をかけようとしたことに気づかれたか。
気を落ちつける。何か言ってくればそれを逆手にとって、また誘導にもっていってやる。理詰めで押していく京子と逆に、臨機応変な処置は恵理香の得意とするところだ。
だが真央は何も言わない。微笑みを口元に浮かべ、それきり黙っている。
恵理香は握られた手首に痛みをおぼえた。
指先が鬱血して痺れてくる。催眠どころではない。
「ちょっと、何よ、そんなに強く……離してよ。離しなさいよ!」
居丈高に言うが、真央は手を離さない。
微笑んだまま、手の力がさらに強くなっていく。
(何、何なの、こいつ!)
混乱する恵理香の脳裏に、雷のように重大な情報が閃いた。
(こいつ…………吹奏楽部員だった!)
吹奏楽部の顧問はあの氷上先生。
戦慄が背筋をはしる。
「は、離して! 痛い! やめて!」
腕を振った。だが真央の手はがっしりと恵理香をつかんだまま揺るがない。男なみの力だ。下手な動きをすると恵理香の手首の方がどうにかなってしまいそうだ。
(まさか……催眠で!)
催眠下でたとえばあなたはプロレスラーですと暗示を与えると、女の子でも電話帳を引き裂くようなパワーを発揮する。日頃使っていない筋肉を限界まで使えるからだ。
「どうしたんですか、先輩?」
真央はにこやかに言う。恵理香は総毛立つ。
「離して! 助けて! 誰か!」
恵理香は立ち上がろうとしたが、真央に引っ張られた。手首が抜けそうになった。ベンチに戻される。
真央のもう片方の手が松葉杖を振り上げた。悲鳴というのはそれを出す余裕があればこそ上げられるのだと恵理香は知った。もがいて振り回した恵理香の手からペンライトが飛んで転がってゆく。
それが人の靴にあたった。
「………………」
同じ学校の生徒がペンライトを拾い上げたとき、恵理香は救いの女神を見た思いがした。
小柄な女の子は二人を首をかしげて見つめた。
「何してるんですか?」
「このひとおかしいの、お願い、助けて!」
「あたしが何してるっていうんですか、恵理香先輩?」
恵理香と真央を見比べた女の子は、真央とは反対側に、恵理香をはさむようにして腰を下ろした。
「え」
虚をつかれた恵理香の手を取り、その中指を拳で包みこむ。
片手でおもむろに携帯を取りだし、電話をかける。
「…………もしもし、佳奈です。今公園です。真央と合流しました」
恵理香はがんと頭を殴られたように感じた。
「……はい、言われた通りにしています。………………わたしの手は機械の手、一度つかんだら絶対に離さない」
佳奈が抑揚なく口にすると同時に、恵理香の中指はものすごい力で握られた。
(この子も!)
佳奈はさらに続ける。与えられた暗示を復唱しているのだ。
「………………恵理香さんが声を出したら、手の中の枝を折る」
恵理香は凍りついた。枝というのはもちろん指のことだ。佳奈の中では恵理香の指は木の小枝なのだ。そのように暗示を与えられれば折ることに心理的抵抗はなくなる。
佳奈は携帯をしまった。
「佳奈、あのひとは何て?」
真央が訊ねた。
「もう少しで着くって」
佳奈は親しげに真央に答えた。
(………………!)
恵理香は声なき悲鳴をあげた。
冷や汗のしずくをしたたらせつつ、恵理香は必死に助かる方法を探した。
お願い、誰か、誰か来て。
家の窓からのぞいてもいい、偶然おまわりさんが通りかかってくれてもいい、誰か、助けて!
足音が聞こえたとき、恵理香は祈りが天に通じたのだと思って泣き出した。
その涙は瞬時に枯れた。
石段を軽やかに駆け上がってきた少女の頭に、ポニーテールが揺れていた。
「ひいいいい!」
――――万里江だった。
「よっ、佳奈、真央」
万里江は片手を上げて明るく言った。
その頬や腕にカットバンが何枚も貼られている。窓を破って飛び出した時についた傷だろう。
「あ、和田センパイ。さっきはどうも」
こんなに人の笑顔を恐ろしいと思ったことはなかった。
「すんごく気持ちよかったよ。今度はセンパイもいい気持ちにしてあげるからね」
「そう、もう絶対忘れられないくらいにいい気持ち」佳奈が言う。
「すぐにわかりますよ」と真央。
「あ、そうだ」
万里江が言った。
「いいものもらってきたよ」
万里江は女子高生らしい弾んだ声で鞄を開けた。
街灯の光を反射して、白く光った――――ナイフの刃!
「いやあ! ……」
指を折られそうになって恵理香は悲鳴を必死で飲みこんだ。
万里江はナイフを胸の前に持ち、刃を見せつけるように動かした。小さな刃ではあるが、いかにも鋭そうにきらっと光った。
その白い光から恵理香は目が離せなくなった。
「動かないでね、センパイ。動いちゃ駄目だよ」
ナイフをきらめかせながら万里江がゆっくり近づいてくる。
「動いてはいけません」
佳奈が恵理香の耳元で言う。
「あなたは動けなくなります」
真央が落ち着いた低い声でささやく。
恵理香は張り裂けそうなほどに目を見開いたまま、ぴくりとも身動きできなくなった。
手も足もひどく震えている。震えているのに、動かすことはまったくできない。いつのまにか真央も佳奈も自分の手を解放していたのに、恵理香はそれにも気づかなかった。
万里江の手元で刃がきらっ、きらっと光る。
息ができない。
助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて!
恵理香の頭はその言葉で埋めつくされる。
「大丈夫よ」
――――気を失う寸前、包みこむような声がすぐ背後からかけられた。
何という優しい声。
何という深い響き。
一瞬にして恵理香はとりこになっていた。
恵理香の両目を、ひんやりとした手がやわらかく押さえた。
「目を閉じて。もう大丈夫。何も心配することはないのよ」
ゆったりとした中に揺るぎない強さがある。
この声に従っていれば、助かる。
恵理香の思考は止まった。
「私の言うとおりにして」
耳元で言われた。
その声は頭の中になめらかに入りこんできて、恵理香を支配していた恐怖を易々と反対側の耳から追い出していった。
恵理香の心は声にすがりつき、全てをゆだねる。
「目を開いてはいけないわ。また怖い思いをしちゃうから。固くしっかり目を閉じて。もっとよ、もっと。私が助けてあげるから。何も考えなくていい。私にまかせて、力を抜いて。そうすればもう怖くない。ほら、体が楽になってくる」
恵理香はいいにおいのする体に後ろから抱きすくめられるようなかたちになった。豊かな胸の感触。気持ちいい。目を覆う手は離れたが、まぶたはぴったりくっついて開かない。開けたくない。
「私の手が触れたところから、どんどん力が抜けていくわ」
手が恵理香の腿に触れた。極限の緊張に限界近くまで張りつめていた筋肉が、解放を許可され喜びとともに脱力する。恵理香はほっと息をつく。
「ほら、足が楽になった。足に入っていた力が流れ出していって、楽になってきた……」
同時に安らぎが生まれた。これでもう恐怖は味わわずにすむ。手が肌をさする。何て気持ちのいい触り方だろう。恵理香はぞくぞくした。
「腰の力が抜けるわ。腰にはもうどんなにしても力が入らない」
手は服の上から腰骨のあたりをなで回した。恵理香は強烈な欲望にさらされたときそうなるように、腰が愛液の満ちた袋に変わってしまったみたいになるのを感じた。ベンチに沈みこんでいく。
「おなか……脇……背中……どこからも力が抜けていく。あなたの全身から、緊張が抜けて、何もかも流れ出していって、すうっと楽になる。とっても怖い思いをしたのね。それも、全部追い出してしまいましょう。ね、ほら、腕の力が抜けたわ。肩も。あなたの体に巣くっていたいやなものが、何もかも溶けて、流れ出していってしまう。あなたの恐れも、苦しみも、全部とろとろになって流れていく」
優しい手が恵理香の全身をマッサージし、それに合わせて恵理香はみるみる固さを失っていった。目を閉じているのに恵理香には自分の体をさする白く美しい手の動きが見えた。その感触だけが恵理香の心を埋めていた。他のことは何一つ考えられない。
肩を揺すられた。まだがちがちの首が右に左に振られ、筋が張る。苦痛を感じてそこへ気持ちが動いたところへ、絶妙のタイミングで手がのぼってきた。
「さあ、首の力を抜きましょう。こうして触られていると、あなたの首はくにゃっとなる。首のこわばりが抜けて、ゴムみたいになって、くにゃっとなってしまう。ほうら、もうくにゃくにゃ。やわらかくなっちゃったわね。頭が重い。もう頭を支えていられない」
恵理香の頭部がたよりなくふらつく。こんにゃくでできた首の上に、卵みたいな頭が載っている感じ。バランスが崩れると頭が転がり落ちる。そうなれば首はしらたきみたいに長く伸びて、頭は地面まで落下してしまうだろう。恵理香は必死にバランスを取ろうとした。
その頭を手が支え、後ろにゆっくり傾かせた。恵理香の口が半開きになる。唇がひくついている。
「頭が重くてつらいでしょう。じゃあその重さをなくしましょう。今から三つ数えると、頭の中のものが全部なくなって、からっぽになります。三つ数えると、あなたの頭の中はからっぽになる。からっぽになって、ふわふわと浮いているみたいになるのよ。いい気持ちよ。とってもい〜い気持ち。はい、ひとーつ、ふたあつ…………みっつ!」
指が音高く鳴った。空洞になった恵理香の中にその音は幾重にも反響し、恵理香にまだ残っていた自意識をことごとく消し去った。
「はい、あなたの頭はからっぽになった。がらんどうの頭に、私の声だけが遠くから響いて、とってもいい気持ち。聞こえるのは私の声だけ。もう他には何も聞こえない。あなたは私の声でいっぱいになる。私の声があなたの全てになる。……」
恵理香の頭は自由になり、風船のようにふらふらと漂った。
「あなたの体はとっても軽い。立ってみて。体重がなくなったみたいに、ふわりと立ち上がることができる。立ち上がっても体は全然重くない。あなたの足は地面から浮いている。あなたはふわふわ浮いている」
万里江に手を引かれ佳奈に腰を支えられたのもわからずに恵理香は立ち上がった。表情筋がゆるみきってだらしない顔つきになったなかに、唇だけが心地よげに微笑みのかたちをつくっている。前衛舞踏でも踊っているみたいに恵理香は手や首をゆったりと漂わせ、文字通り雲を踏むような足取りで右に左によろよろした。
「後ろに倒れる。すうっと、引っ張られるみたいに後ろに倒れる」
恵理香の体は言われるままに後ろに傾く。そこに頭ひとつ高い美しい人影があった。もたれかかった恵理香の体を受け止めると、さらに斜めに倒してゆく。
「体に力が入らない。あなたはもう何もわからない。深い、深あいところに沈んでいって、私のものになる」
恵理香の体は横抱きに持ち上げられた。
「……さあ、楽しい時間のはじまりよ。みんな、行くわよ」
「はい、御主人様」
三人の少女は声をそろえて言った。
(九)
翌日、登校してきた京子はクラスメートの好奇の視線を一身に浴びた。
「うわあ、キタザワ、どうしたの、それ!」
頬の絆創膏はどうしようもなく目立つ。
「あ、ええ、ちょっと、ね」
「あ、聞いた聞いた」
耳の早い女子がもう昨日の騒ぎを聞きつけていた。
「あれでしょ、一年のアヤ」
「え、アヤって、あの水南倉?」
「昨日、校内で大喧嘩して、一年生を二階から突き落としたって話だよ」
「えーっ!」
「いやだあ!」
「じゃあ、京子も? うわあ、災難!」
「何、殴られたの?」
「いや…………そんなんじゃ……」
「言いたくないんだ。わかるよ、あいつ、怖いもんね」
「………………」
チャイムが鳴った。生徒が一人駆けこんでくる。
「緊急職員会議で一時間目は自習だよ!」
喜ぶクラスメートたちに京子は弱々しい笑顔を向け、それから恵理香の席を見た。
空席だった。
京子は携帯で恵理香に電話をかけた。
何度かけても恵理香は出なかった。
噂はあっという間に校内に広がった。
「退学でしょ?」
「いや、それがね……」
昼休み、京子はオカルト研の部室に一人立った。
窓には新しいガラスが入れられている。
外を見た。
グラウンドで遊び興じる生徒たち。
地面に小さなきらめきを見たような気がした。
ガラスの破片か。
京子は身震いしてカーテンを閉めた。
恵理香とはまだ連絡がつかない。
家に電話しても、恵理香の両親は共働きなので誰も出ない。
京子は部室を出た。
「それでさ、そのとき氷上先生が立ち上がったんだ。私が何とかしますって一言。そしたら他の先生、みんな何も言えなくなっちゃったんだってさ」
「えー、あの“吸血鬼”があ? それ嘘だよ、ぜったい」
そんな会話が耳に入った。
氷上先生。
京子は闇の底に浮かんだ白い美貌を思い出し、身震いした。
あの一瞬、先生は確かに笑った。
かすかに、赤い唇を持ち上げて、微笑んだ。
――――そう、吸血鬼みたいに。
強烈な後催眠をかけられ操られていた万里江。
行方不明になった恵理香。
(もう、いや!)
次の時間は音楽だ。
駄目。絶対に、あの先生の授業なんかには出られない。
早退しよう。本当に気分が悪くなってきた。もう学校にいるのも嫌だ。怖い。
肩を落として教室に戻り、ドアを開いたとき。
「北沢さん」
教室中から視線がいっせいに集まってきた。
見ているのは、京子ではなく、その背後。頭ひとつ上ぐらい。
誰もがぼうっと陶酔したようになる。
京子一人が青ざめた。
「土屋さん、いるかしら? 吹奏楽部の」
「は……」
はい、と言おうとしたが京子の口は言葉を発してくれなかった。
「あら、その絆創膏」
京子は振り向いていないから見えるはずがないのに、蒼白いガラスのような声は後ろでそう言った。
「昨日の騒ぎにまきこまれた子、あなたね。女の子なのに顔にそんな怪我してしまうなんて、可哀相」
白い手が肩に置かれた。首をなでられた。冷たい。
京子の歯ががちがち鳴った。
「………………いや……」
「次の私の授業、遅れないでね」
「いやあっ!」
京子は悲鳴をあげて教室に駆けこんだ。
鞄をひっつかむなり顔も上げずに教室から飛び出す。
目をつぶり、何人かにぶつかりながら謝りもせず、京子は泣きながら逃げていった。
※
夜、母親に食事に呼ばれるまで、京子はベッドで丸くなっていた。
学校を早退して、家に帰ってきてからずっとこうしている。
布団の中からひたすら恵理香に携帯で電話し続けている。何度かけても留守電だ。
「お願い、恵理香、返事して……!」
そんな言葉をもう何十回吹きこんだだろう。
強く呼ばれ、京子は仕方なく階下へ降りていった。
何を食べたのかまったく記憶に残らなかった。
それでも、食事を終え部屋に戻ってみると、少し気力がよみがえってきた。
玄関のチャイムが鳴ったのが聞こえた。回覧板でも来たのか。外のことに気を向けられるようになった自分を発見し、よしと誰に言うともなくつぶやく。
やっと頭が元に戻った。
状況をもう一度整理してみよう。それから、対策を考えよう。
京子は頭脳労働が好きな方である。これまで恵理香と組んで何人もの相手を催眠の毒牙にかけてきたが、相手のタイプを分析し作戦を練るのはもっぱら京子の仕事だった。
まずは恵理香の行方を突き止めること。
考えてみれば、今朝はホームルームがなかったのだから、恵理香が欠席の連絡をしてきていても担任がそれを伝える機会がなかった。京子は昼休みで飛び出してしまったから、帰りのホームルームで言ったとしても当然耳にすることはできない。
帰り道で転んで怪我でもして、入院しているのかも。それなら家に両親がいないのも、携帯が不通になっているのもわかる。
いくらでも可能性はあるのだ。決めつけて怖がるのはやめよう。
足音が二階に上ってきて、隣の弟の部屋に入った。母親だろう。弟が何か言った。
自分が直面している異常な出来事とはまったく別な、愛すべき日常がここにある。京子は微笑んで思索を続けた。
それから、氷上先生に接近する。怖いが、これはやらなければならないことだ。万里江を操っていたのが本当にあの先生なのかどうか。ミステリー小説だと大体こういう場合は裏にもう一人ぐらい黒幕がいるものだ。
それに、先生の動機だ。
これまで怖がるばかりで考えてもみなかったが、教師が生徒に催眠をかけて何をするというのだろう?
恵理香と同じように、京子もセックス玩具にする以外のことは思いつけなかった。
あの先生が自分たちと同じ趣味を持つなら、手を組むことだってできるだろう。
もし……向こうにその気がなかったら?
足音が階段を降りてゆく。
……アヤとつなぎをつけておくべきだろう。物理的な力が必要になるかもしれない。京子はそう考えた。このあたりが恵理香とは違う。
さらに色々と考えをめぐらせ、さすがに疲れて京子は伸びをした。
時計をみると随分時間がたっていた。
気分転換にシャワーでも浴びようと思った。
隣の部屋では弟が音楽を聞いていた。
居間では両親がテレビに見入っている。
浴室には電気がついており、シャワーの水音がしていた。
――――ついてない。
京子はため息と一緒に部屋に戻った。
それから、飛び上がった。
家族は、両親と京子、弟の四人だけ。
では、今お風呂に入っていたのは!?
京子は階段を駆け下りた。
浴室手前の洗面所。
アコーディオンカーテンを引き開ける。
「…………ひ」
湯気をまとわりつかせた、輝くような裸身の背中がそこにあった。
平静とも言えるくらいにゆっくりとカーテンを閉じてから、京子はその場にへたりこんだ。
服を身につける音がして、やがて、髪にタオルを巻き、素晴らしいプロポーションの肢体にバスローブをまとった氷上麻鬼が、さっぱりした表情で姿をあらわした。
…
「あ…………」
「いいお湯だった。やっと人心地がついたわ」
眼鏡のずれを直すのも忘れ、京子は釣り上げられた魚のように口を数回ぱくぱくさせた。
湯上がりの姿にそぐわないサングラスの底から、深い光を放つ目が笑って京子を見下ろしている。
「こんばんは、北沢さん」
「な…………なんで」
ようやく京子は声らしい声を出すことができた。
「ど、どど、どうして、こ、こ、ここにいるの!」
「どうしたの、京子?」
母親が訊ねてくる。
「おかあさん! この人、この、なんで、先生が、うちに、いつ、どうして、お風呂に、いやあ!」
「何言ってるの? あんた、自分のお姉さんの顔、忘れたの?」
「おねえ……さん……?」
「ほんとに、何やってんのさ、そんなところに座りこんで」
「ほら、京子ちゃん」
麻鬼の手が女性とは思えぬ強い力で京子を立ち上がらせる。京子は理性を粉砕されて人形のように従う。
「あんたも、家の中だからってそんな格好でうろうろするんじゃないの」
「はい、おかあさん」
麻鬼は薄く笑って答えた。
――――しばらく失神していたのかもしれない。
気がつくと、自分の部屋で、ベッドに腰かけていた。
目の前に、夢か幻か、自分の目が信じられなくなるような美女の姿があった。
バスローブではない。恐らく学校でも着ていたのであろう落ちついた色合いのスーツ姿で、長い脚を組んで椅子に座っている。服が地味な分だけそれに包まれた肉体美がより強調されて見える。そういう効果をわざと狙っているのかもしれない。髪がまだ濡れてつや光っていた。みどりの黒髪というのはこれか、と本の虫である京子は薄ぼけた頭で感嘆する。
麻鬼は机の上に開いた本に目を通している。
付箋と書き込みに埋まったそれは、京子がバイブルとしている、ぼろぼろになるまで繰り返し読みふけった催眠術の入門書だ。
京子が復活したのを察したか、音を立てて本を閉じ、机の上の本棚に戻した。その動作ひとつひとつに京子は見とれてしまう。これは本当に人間だろうか。何てきれいな生き物だろう。
「あらためて、こんばんは、北沢さん」
微笑みは京子の脳裏に氷の剣となって突き刺さり、ようやく京子の頭は通常に回復した。
「あ…………な、何………なんで……」
「昨日、お風呂に入れなかったの」
そのとぼけた回答に京子は声を荒げた。
「お風呂の話じゃなくて!」
「じゃあ何かしら」
「何でうちに!」
「言わないとわからない?」
一度たかぶった京子の感情はその笑顔ひとつで凍結した。
あれこれ考えるまでもなかった。
間違いない。この人が、万里江さんに、催眠を。
だから、うちに。
先生なら生徒の住所は簡単にわかる。
「お……おかあさんは……どうして……」
「あなたならわかるでしょう」
麻鬼の手がしなやかにひるがえって本棚を示す。
「さ……催眠術かけたのね!」
「妹って、ほしかったのよね」
「………………」
「あなたの弟さんにはちょっと違うことを」
京子の動揺を誘う空白。
思えば、少し前に鳴った玄関のチャイム、あれはこの先生がやってきた時のものであり、さっき二階に上ってきた足音もこの先生のものだったのだ!
「あの子、素直ね。すぐに私の言うことならなんでも聞いてくれるようになったわ」
京子は蒼白になる。
「な……! そんな!」
「どうして驚くの? あなたが他の子にしているのと同じことじゃない」
知られている!
京子は床が崩れてゆくような心地にとらわれた。
「ど、どうして……!」
麻鬼は答える代わりに手を打ち合わせた。
びくっとなった京子の視線の先でその手を開く。
どこから出してきたのか、ピンク色のハンカチが手の平の間からあらわれた。手品だ。
ぱんと音をたてて広げられたその隅に、赤い糸で刺繍が施されている。
W.E。WADA Erika。見間違いようもない。京子がその手で縫ったものなのだ。
「恵理香の……! まさか、恵理香を……どうしたの!」
何をしたの、とは訊かない。京子の頭はこんな場合でも猛烈に回転している。恵理香のハンカチを持っているということは、恵理香の身柄を押さえたということだ。それから何をしたかは今更訊ねるまでもない。問題はその結果だ。
麻鬼は微笑んだ。
「――――溶けてもらったわ」
「………………」
その意味はわからない。
しかし。
京子はとてつもない恐怖にとらわれた。
「安心して、彼女は今幸せになっているから」
幸せと言う言葉がこれほどに不安、いや絶望をかきたてたことがあっただろうか。
京子は思い至った。気がつかなければいいのに、察してしまった。
昨日、お風呂に入れなかったというのは。
まさか、恵理香を、一晩中、入浴する暇もないくらい、つきっきりで……?
「いやあああ!」
「そんなに大声出したら、隣近所に迷惑よ。そうね、あなたならわかってくれるとは思うけど、念のため言っておくわ。助けを呼んでも無駄よ。たとえ警察が来たって、家族のみなさんは私の方を助けてくれるわ。そういうことになっているもの。あなたが私の声より速く動けて、コンマ数秒で何とかできるのなら話は別だけど」
京子は身を切られるような思いと共に、その言葉が真実であろうことを認めた。先ほどの母親の様子から見て間違いないだろう。麻鬼は言わないが、命にかかわるような暗示が与えられている可能性もある。たとえば、京子がおかしな真似をしたら、ポケットの中のアメを口にするとか。そこに入れてあるのは防虫剤なのだが、皆アメと信じて飲みこんでしまう。あるいは、下戸の母親にウィスキーをお茶と思わせて飲ませる。アルコールを分解する酵素が生まれつき足りない体質の母を見舞うのは急性アルコール中毒だ。病院に運ばれても催眠のせいとは誰も気づかない。
「そんな…………い、一体、わたしを、どうするつもりです!」
「わからないの? それとも、とぼけているのかしら」
麻鬼の顔から笑みが消えた。冷酷きわまりない光が京子を貫く。京子の中の何かが砕け散る。
「……わ、わたしにも、万里江さんや恵理香と同じように……」
自分で言ったのか、言わされたのか京子にはわからない。
「同じように?」
「さ、催眠術をかけて…………」
このひとはわたしに催眠術をかけて支配するために来た。自分から口にしたせいで京子はそれを真実として認めてしまった。
「ふふ」
麻鬼は正解をほめるとも間違いをあざけるともつかない笑みを浮かべた。悪い方にとってさらに色を失った京子の反応を面白がるように見て、サングラスの縁をつついた。
「これね、どうしていつもかけていると思う?」
京子はその下の底光りする目にとらわれる。妖しい、というしかない不思議な光。サングラスが間に入っているというのに吸いよせられる。意志の弱い者なら一目見ただけでも操られてしまいそう。
「私の父の血筋にね、魔女の血があるの。邪眼、っていう言葉、あなたなら知っているわよね。その目で見られただけで悪いことが起こる。昔は一族が何人も魔女狩りで殺されたらしいわ。私にもその血があらわれたみたいでね、この目をじかに見たら、みんな変な風になってしまうの。だから、はずさない」
長い睫毛がまばたきに伴って動いた。
京子は焦って視線を外した。なまじ知識があるせいでそんな馬鹿なことがあるか、荒唐無稽だと片づけられず、否定しようとすればするほどかえって意識してしまう。
今の言葉は本当だ。京子はこれも信じてしまった。あの目を見てはいけない。サングラス越しでさえあの光りようだ。じかに見たら……見せられたら……。
「見てみたいでしょう?」
心を読んだように言うと、麻鬼はサングラスに手をかけた。
いけないと思いつつ、反射的に見てしまう。麻鬼の動作はベテランの役者のように完璧に制御されていて、優美にゆらゆらと動く手と妖しい目にいやが上にも視線が引きつけられる。こういうとき、他の場所に注意を移すような真似は普通の人間にはできない。
サングラスを芝居がかった仕草で取り去る。顔が横を向き、髪が舞う。その動きに幻惑された京子の意識が空白になった瞬間、麻鬼の顔が真正面に向き直る。
――――その目は閉じられていた。
「………………」
京子は悲鳴をあげて固く目をつぶり、耳もふさぐ。
あの目を開けられたら、一瞬で京子はなすすべもなく絡めとられていただろう。それを承知の上で、麻鬼はわざと瞑目していたのだ。
翻弄されているのがわかる。
普通、抵抗する相手には催眠はかからない。誘導の前にまず、相手の心の抵抗を弱め、催眠にかかってもいいと思わせるようもっていく技術が術者には必要だ。それこそが本当の催眠技術と言ってもいい。
だが麻鬼は、恐らくわざと、京子に拒否反応を起こさせるよう仕向けている。
催眠というより、洗脳の手口に近い。
京子の理性を、判断力を、気力を、根こそぎ奪い取り、自分から麻鬼に降伏してくるよう追いつめるつもりだ。
だから先に恵理香や家族を落とした。京子がいくら反撃したとしても、麻鬼はそのことを一言持ち出すだけで逆転してしまえる。
これが学校なら、逃げ出せばいい。しかし家を乗っ取られてしまっている京子には逃げ場はない。この場でひたすら耐えるしかない。助けのこない籠城。いずれ崩される。
手口が読めるのに、逆らえない。
こんなかけ方があるのか。
あっていいのか。
悪魔のようなやり口だ。
麻鬼はここまで暗示らしい暗示は一言も発していない。なのにもう自分は陥落しかけている。これで暗示を与えられたら、抵抗どころか、これで楽になれると嬉々として従ってしまうかもしれない。
先が読めるものだからつい自分で自分を縛るような想像をしてしまい、ますます危険な精神状態へ落ちこんでいっているのだが、京子は動揺のあまりそれに気づいていない。
どうすればいい。どうすればかけられずにすむ。
懸命に考えをめぐらせるが、すでに頭の歯車は軸が折れていて、自分をこの後見舞うであろう運命をぐるぐると思い描くばかりで、この場を切り抜ける妙案はひとつも出てこない。
麻鬼の気配が消え、しんとなった。
(………………?)
恐る恐る薄目を開くと、すぐ目の前に真白い美貌があり、にこにこしてのぞきこんでいた。
やはり、美しい。
「……!!」
その目は――――サングラスに覆われている。
麻鬼の手が引きつった京子の顔に伸びてきて、頬の絆創膏をなでた後、眼鏡をそっと外し、奪っていった。蛇に睨まれた蛙。京子の額にたちまち汗の珠が噴き出してくる。全身の皮膚が粟だったのではないか。
京子はベッドに上体を突っ伏し、頭から枕をかぶって喉をぜいぜいいわせた。
心臓がめちゃくちゃに暴れている。苦しい。
「あなたをどうするかは、色々と考えてあるの」
枕越しでも当然麻鬼の声は聞こえてくる。優しげな響き。いけないとわかっているのについ聞き惚れてしまう。防ごうとしてもしみ通ってくる。どうしてこの人に抵抗しているのだろう。浮かんできたそんな思いを京子は急いで追い払う。
「気持ちようくしてあげる……」
手が京子の膝に触れた。冷たい。
「ひ!」
明らかに、みだらな触り方だ。京子は乱していた両膝をびっちり閉じる。麻鬼の手がデニムスカートの中へ忍びこんできて、太腿をなでさする。指が肉の合わせ目に忍びこんでくる。手で防ごうにも、枕をかかえる力を緩める度胸が京子にはない。この枕を奪われたら邪眼の餌食になる、そんな風に思いこんでしまっている。
恵理香としょっちゅう愛しあっている京子は触られるのに慣れている。だからこんな手で来たのだ。微妙な緩急をつけた、信じられないほど巧みな愛撫。すごくうまい。あの万里江の触り方と同じ、いやそれ以上。
――――万里江にあのテクニックを教えたのは、このひとだ。
京子は確信し、いよいよびっちりと両脚を閉じた。恵理香が溶かされたという意味がやっとわかった。この脚の力を抜いたら、自分も溶かされる。理性のひとかけらも残さずとろけさせられる。
「駄目なの? どうして? 気持ちいいこと、きらい?」
蠱惑的な声。聞くだけでなで上げられたような快感を肌におぼえる。
「いや……あ……駄目! いや!」
したい。してほしい。刺激された体の奥から欲望が突き上げてくる。
京子は必死で押さえこんだ。
足だけでこれなら、胸や、弱点の首筋などを触られたら自分はどうなってしまうのか。
このひとならものすごく気持ちよくしてくれるはずだ。
つい期待し、受け入れてしまいそうになる。
そうはいかない。支配されてたまるもんか。心を奮い立たせ、さらなる愛撫に耐えようと、枕をいよいよ強く抱きしめ、歯をくいしばって渾身の気合いを入れた。
ところが、予想に反して麻鬼の手はあっさり離れていった。
拍子抜けした京子の耳に、麻鬼の恐ろしい言葉が飛びこんでくる。
「あなたの弟さんを使おうかって思ってるの」
「……!」
京子を新たな恐怖が襲う。
なまじ自分が催眠で他人を色々と淫乱にして楽しんでいるだけに、どんなことをされるのか大体わかってしまう。だから余計に怖い。
姉弟で、ということだけではない。弟は中学生。最近ぐんぐん背が伸び、体もがっしりしてきて、京子が嫌う『男』になりつつある。
「大丈夫よ、近親相姦なんてことにはならないわ。だって、弟さんは犬になっているから。あなたは優しい飼い主。可愛いワンちゃんは、飼い主の喜ぶ顔が見たくって、大事なところを一生懸命舐めてあげるの」
「いやあ!」
「怖いことなんてないわ。あなたもそうされてとっても嬉しく感じるから。あなたは自分から脚を開いて、舐めてって誘うのよ」
「いや! いや!」
「本当はそうしてほしいんでしょう? だってほら、膝の力が抜けて、脚が開いてきたわ」
暗示だ、と京子は悟る。だが力を入れすぎていた脚が疲労し、麻鬼の言葉のままに緩んでしまう。
「ほら、開いた。もっと開くわ。もっと、もっと」
これまで一言一言をゆっくり、優しげにしゃべっていた麻鬼が、いきなり強く、速い口調で言い始めた。テンポを狂わされた京子はなすすべもなく飲みこまれる。
「あなたの脚は開く。もっと開く。どんどん開く。開くととっても気持ちいい。ほら開く。あなたはエッチなことをされたい。本当はされたいの。脚を開くといい気持ち。本当は開きたい。脚を開いて、エッチなことがしたい。嫌だと思うほど開くわ。抵抗はできない。ほうら、開いてきた。開く、開く、もっともっと、どんどん、どんどん開いていく……」
握り拳が入るくらいだった膝の隙間が、拳が二つ入るくらいになり、さらに開いてゆく。一度開いたことを自覚するともう止まらない。いけないと思う意志は麻鬼の声で消されてしまう。脚が開くにつれて開放感が生まれてくる。声に従うとこれまでの心理的重圧から逃れられることがわかる。楽な方に行って何が悪いのだろう。京子は抵抗をやめた。
濡れてきた。
これでいいんだ、こうしたかったんだ、わたし……。
この綺麗な先生に、今みたいに、もっと、気持ちよくしてほしい…………京子は脚を思い切り開き、パンティを麻鬼の目の前にさらけ出す。
――――麻鬼は何もせず、椅子に戻った。
指を鳴らす。京子はわれに返る。
「きゃああっ!」
京子は脚を閉じ、ベッドの上に膝をかかえ、麻鬼に背を向けてうずくまる。
「いや……いや、いやあ!」
すると麻鬼は、何もせず部屋を出ていった。
(………………え?)
今……完全に自分は麻鬼の暗示に操られていた。言うがままになりたいと思ってしまっていた。
あのままさらに誘導されれば、簡単に深い催眠状態に落とされていただろう。
じゃあどうしてそうしなかったのだろう?
麻鬼はどこへ行ったのか?
京子にはまったくわからない。
麻鬼の意図は何なのか。自分を催眠にかけ、好きにするのではないのか。ならばどうして。
息をつくどころか、理解できないことでさらなる怯えが生まれてきた。
机の上に置かれた眼鏡を取りに行く度胸もなく、枕を抱いて震えているうちに、足音が帰ってきた。
京子はすくみあがる。
麻鬼のかすかな足音と一緒に、ごつごついう変な音がする。
つい振り向いた。
「……いやああ!」
麻鬼の後に、四つんばいになった弟が入ってきた。
その膝が床を叩く音だったのだ。
弟は服を着ていない。白いブリーフ一枚だけの姿だ。その股間が盛り上がっているのを京子は見てしまう。
「どう、可愛いでしょう」
麻鬼がなでると、弟は「ワン!」と甲高い声で嬉しそうに吠えてみせた。
「ひい……いやあ……」
「京子ちゃん、それともあなたの方が犬になってみる? 猫の方が好き? それとも他のもの? 言ってみて、好きな動物にしてあげるわ」
「やだ……やだ……いや……」
「しょうがないわね。じゃあ、ほら、ワンちゃん、私が可愛がってあげる。そこにお腹を向けて寝なさい。そう、よくできたわね。これから私があなたのお腹をなでるわ。すると、あなたはとっても気持ちよくなるの」
京子は耳を固くふさぐ。聞きたくない、見たくない、知りたくない!
麻鬼が数を数えている。
「はい、十」
「ああっ!」
弟の、感極まったような高い声――――。
そして、におい。
「いい、これからも、私のいうことを聞いていたら、また同じように気持ちよくしてあげる。いいわね。あなたは私のものよ。はい、じゃあ、自分の部屋に戻りなさい。部屋に入ったらあなたは人間に戻る。そして、何も気にせず、服を着て、ベッドですぐに眠ってしまうのよ。起きたときには今のことは全部きれいに忘れている。わかったわね。わかったら、返事して」
弟の弛緩した吠え声と四つんばいで出てゆく音を京子は暗闇の中で聞いた。
世界が崩壊してゆく。
助けて、誰か。
誰か、起こして。この悪い夢から、わたしを起こして。
「さあ、京子。……」
夢魔のごとき麻鬼が椅子に座り直す気配。
「………………えっ?」
しばしの沈黙のあと、いきなり麻鬼は声を上げた。
「ちょっと……」
その声にあの絡みついてくるような響きがなかったので、こわごわ京子は様子をうかがってみた。
麻鬼が、部屋の隅を見ている。
京子を捕らえていた魔力が、消えている。
麻鬼自身が、どうしたことか、この世のものならぬ魔女から、地味なスーツを着たただの大人の女性に変わってしまっていた。
助かったと考えるよりも先に京子は不思議に思い、麻鬼の視線の先を向いた。
「あ……」
麻鬼の顔が動く。
部屋の隅から、京子をまるきり無視してベッドの下へ、反対側の隅へ。京子もそれに合わせて視線を動かす。
「ゴキブリ!」
麻鬼が指さして叫んだ。
その言葉に背筋がぞわっと反応した。それまでの恐怖とは別次元の嫌悪感だ。
「ほら、そこ!」
麻鬼の指が京子を横切って動いた。
視界の端に黒い点が動くのを見たような気がした。悲鳴をあげて後ろの壁を振り返る。
「そっちにも!」
金切り声に近い麻鬼の声がまた言った。ベッドの足元を見ている。
「ほら、音が!」
京子はかさかさいうかすかな音を聞いた。
「後ろ! ベッドの上!」
「きゃあっ!」
それまでつかんでいた枕を放り投げて立ち上がる。
「飛んだわ!」
ぶうんという羽音を耳にした。斜め後ろから自分に向かって飛んできたのが麻鬼の目と指でわかる。
「髪に!」
「いやあ!」
「背中に入った!」
「いやあ! 取って! 取ってえ!」
本当に背中に虫の感触をおぼえた。ベッドから飛び降りて身もだえした。
「脱いで! 早く!」
トレーナーを急いで脱ぎ捨てた。
「駄目よ! 取って、全部!」
パニックの中でブラジャーをむしり取る。
「下も! 脱いで、全部! 早く!」
――――靴下だけを残して全裸となったところで、京子の目の前で麻鬼の指が鳴った。
「………………え?」
「何してるの、京子ちゃん?」
サングラス越しの麻鬼の目に涼しく見つめられて、ようやく自分がのせられたことに気がついた。
ゴキブリなどどこにもおらず、麻鬼はやはりあの麻鬼だった。
「いやああ!」
ベッドの上に飛んで戻り、布団を頭からひっかぶった。それでもまだ足りず、裸の体を可能なかぎり小さく丸めた。
緊張させられては緩められ、刺激されては放置され、なぶり尽くされた神経がもう限界に達していた。
京子はついに泣き出した。
「いやだ……もう、いやだよ……やめてよ…………いじめないで…………やめて………………」
「大丈夫、夜はまだまだ長いのよ」
麻鬼は微笑んで言った。
一晩中こんなことを続けるつもりだ。
このままだと、壊れる。
頭の中で理性が音をたててちぎれ飛んだ。
京子は飛び出し、裸のまま、わけのわからない叫び声をあげて麻鬼にすがりついた。
「もういや! やめて! 何でもする! どんなことでもするから、やめて! 先生のものになるから! 早く、催眠かけて! こんなこと、もうやめて!」
「あら」
麻鬼は無慈悲に返してきた。
「何のこと?」
「え………………」
「私があなたに催眠術をかけるなんて、一言でも言った?」
そう。
確かに、麻鬼自身はここにいたるまで催眠のさの字も口にしていない。
「……そんな…………いやあああ!」
この妖女はまだ自分を楽にしてくれるつもりはないのだ!
京子は顔をかきむしるようにしながら麻鬼の足元にへたりこんだ。
不意に――――理解した。
このひとは、吸血鬼だ。
吸血鬼について研究した本に書いてあった。
吸血鬼にとって、血とは実はそれほど重要なものではない。
血の満たされたグラスを渡されても、喜びはしない。
大事なのは、そのプロセス。
まず姿を見せて存在をアピールし、忍びこみ、恐れおののく相手の喉に牙を立てる。恐怖の極みに陥った相手の顔を見ることこそが吸血鬼にとって何よりの快楽であり、自分から喜んで喉を捧げる人間にはそれほど関心を持たない。
麻鬼も、そうなのだ。
自分を催眠にかけて操ることは最終目的だが、それはあまり重視していない。落とすつもりならいつでもできる。
その課程でこうやって自分の心をめちゃめちゃにすること。催眠にかけるための手段だと思いこんでいたそれこそが、麻鬼の真の愉悦であり、目的だったのだ!
だから、京子が落ちそうになればさっと手を引いた。
京子が気を取り直し、まだまだ抵抗してくれることを舌なめずりして待ち望んでいるに違いない。
従おうとすれば駄目よ、頑張ってと突き放される。抵抗すれば待ってましたと打ち砕かれる。
最悪の相手だ。
逃げ道は…………ひとつだけ。
「ちゃんと座りなさい」
麻鬼に言われて京子は裸の身を起こし、胸を隠しもせず手をベッドに腰かけ、手をお腹の前で組んだ。
頬に流れる涙もそのままに、目を閉じ、唇が小さく動いて何かぶつぶつ言っている。
「あら」
麻鬼は興味深げに目を見はった。
「面白いことをする子ね」
麻鬼の言葉を京子は意識から遠ざける。
これもよく練習した、自己催眠。
(わたしは先生のもの……わたしは先生のもの……わたしは先生のもの……)
催眠をかけられるのを待っていては、どんなに心からそうしてほしいと思っても、麻鬼はいつまでもかけてくれない。
それなら、自分からかかってしまえばいい。
麻鬼の望むとおり、喉をさしだしてさっさと血を吸われてしまえばいい。突き放されてももう自分を取り戻すことのない、下僕になってしまえばいい。心を壊されずに解放される可能性があるのは唯一それだけだ。麻鬼が興味を失ってしまうような獲物に素早く変身するのだ。
そんな風にたくらんで、演技をしていてはすぐ気づかれる。だからそのこと自体を忘れる。何もかも忘れて、心から麻鬼の下僕になる。
麻鬼の姿を思う。
端正な顔かたちはもちろんのこと、先ほど風呂場で見た素晴らしい裸身に意識を集中する。
目に焼きついているから簡単だ。
何て綺麗だったんだろう。
振り返って、自分はどうか。
美人であることに自信があった。
何て思いあがっていたんだろう。
今のわたしがさらけだしている裸は貧弱だ。
自分は小さい。醜い。ちょっと催眠が使えるからといっていい気になっていた。
麻鬼は素晴らしい。美しい。万里江を操り、恵理香を落とし、そして京子も簡単に自分のものにした。それにあの愛撫のテクニック。自分はものすごい快感を味わえるに違いない。完璧だ。逆らっていたのが馬鹿みたいだ。馬鹿なのだ。わたしは間違っていたのだ。
(あと三つ……あと三つ数えたら、わたしの身も心も先生のものになる……全てを明け渡す……)
もうその前の段階で一度麻鬼に屈服していたから、自己暗示の効果も大きい。
(ひとつ…………ふたつ…………)
「手伝ってあげる」
突然京子の顔は頬をはさまれ上向けられた。
(え)
意表をつかれて目を見開いた京子は、鼻がくっつくばかりに接近した麻鬼の顔を見た。
その目を。
サファイアブルーの目を。
(あ………………)
『とても……きれい……』
あのとき恍惚と言った万里江の言葉がよみがえってくる。
これだ。
この目だ。
万里江の姿、麻鬼の言葉、自分の思いこみ。これまでの記憶が全てつながり、重なりあって、これ以上ないくらい強力な暗示となって作用する。
そう、この青い目に見られたら催眠に入るのだ。
思い切り力をこめていた肉体が弛緩するとだらんとなるように、張りつめていた京子の心は一切の抵抗力を失い、麻鬼の前に開放された。
世界は青一色にきらめき、京子の中になだれこんできて、ありとあらゆるものを押し流し、空っぽにした。
京子は本当に麻鬼のものになった。
「深く……もっと深く……」
麻鬼が言った。
瞬間、京子は深海よりもはるかに深く、二度と自分では浮上できない底知れぬ青い深みへと沈んでいった。
「あと二時間ぐらいは頑張ってくれると思ってたんだけど、期待はずれね。仕方ないわ」
麻鬼の声はもう京子には届かなかった。
※
学校すぐ近くの古びた洋館、蜂谷医院。
深夜、蜂谷医師は麻鬼が連れてきた制服姿の京子を見て鼻をうごめかせた。
「む……処女だ」
「あら、昨日の恵理香と同じで、この子はたっぷり経験あるはずよ。お鼻が鈍ったんじゃなくて」
「わかっていないな。数ミリの突起があるかどうかなど問題ではない。体から他の男のにおいがしないのが大事なのだよ。昨日の子はひどく臭かった」
「そういうものなの。じゃあ、後でお手伝いをお願いできるかしら」
「喜んで。この間の本城という子も素晴らしかったが、この子も彼女に負けず劣らずうまそうだ」
「万里江ねえ。……ちょっとこの展開は予想外だったわ」
「アクション映画じゃあるまいし、二階の窓を破って飛び出すとはな。さぞ見物だっただろうな」
「誰かに催眠にかけられて、私のことをしゃべってしまいそうになったら、どんな手を使ってでもその場から逃げるようにってすりこんでおいたんだけど……これが佳奈なら泣きじゃくって同情を引いたでしょうし、真央なら演技でみなを煙に巻いたでしょうけど……まさか万里江があんな風にするなんて。聞いたときはさすがに焦ったわよ」
「その時の君の顔こそ見てみたかったよ」
「冗談じゃないわ。おおごとになる前に押さえられたのがせめてもの幸いね」
「昨日から連日連夜、御苦労だな。二日徹夜か」
「授業のないところで寝てるから大丈夫よ。自己催眠で深く眠るから、三十分で何時間分も休めるの」
「ナポレオンみたいだな」
「一日三時間の睡眠と、ちょっとずつの昼寝。彼も無意識のうちに使っていたのかもね」
「君の辞書にもやはり、不可能の文字はないのかな」
「あら、残念だけど私の辞書にはちゃんと載っているわ。そんな風に思い上がったからあのひとは失敗したのよ」
麻鬼はまるでナポレオンその人と知り合いであったような口振りをした。
「じゃあ、いつもの部屋借りるわね」
「調教し、発狂させ、恋愛させ。昨日はあえて言うなら溶融、か。今回はどうするのだ?」
「そうね……洗浄、かしら」
「洗浄?」
「きれいにしてあげるの。何もかも、真っ白に」
(十)
窓のない広い室内に、古めかしい大きなベッドがひとつおかれていて、シーツの上には全裸にされた京子が横たえられていた。
防音処置が施されているので、この部屋でどんな大声を上げても外に漏れることはない。
部屋の隅にはこれも時代物の燭台が置かれ、蝋燭の炎が静かにゆらめいていた。
麻鬼が京子の傍らにひっそりと立っている。その顔は影に埋もれて定かには見えない。
蜂谷医師も同席していた。腰にタオルを巻いただけの姿で椅子に腰かけている。すさまじいまでに筋肉の発達した巨体だ。
「俺が中学生の役か。この年で」
「黙って」
麻鬼は京子の額をさすりながら暗示をかけている。
「時間が進んでいく……進んでいく……。さあ、あなたは今中学生。あなたは中学生。中学一年生……二年生。あなたは同じクラスの男の子を好きになったわね。その子の名前を教えて」
「――――」
「あなたは彼の心をとらえることに成功しました。そのときとても嬉しかったわね。それを思い出して。あなたはとても嬉しい。嬉しくて嬉しくてたまらない。クラスの女子の誰よりもあなたは魅力的。だから彼はあなたを選んでくれた」
京子は優越感に満ちた笑みを浮かべる。
「さあ、あなたは彼と二人っきりになりました。あなたはすごくどきどきしている。エッチなことをこれからされるのがわかっている。胸がどきどきして、体の奥がじんじんして、たまらない」
麻鬼は蜂谷医師を指で促した。医師の巨体がベッドに這い上がる。
「さあ、彼の顔が近づいてきました」
京子の上体が抱き起こされた。
「あ……いや……」
京子は幼くあらがった。だが自分の方から唇を突き出す。
「……彼の舌が入ってきましたね。ぞくぞくして、すごくいい気持ちです。舌と舌をこすりあわせると、これまで感じたことのない快感が生まれてきます。腰のあたりが痺れて、おまXこがじゅんと濡れてきます」
京子は身をよじった。
「彼の手があなたの胸元にさしこまれてきました」
京子は切なげな吐息を洩らす。
「さあ、彼の手が服を脱がしてきます。あなたは彼のすることには逆らえません。彼のすることに従っているととってもいい気持ちになることができます。……」
京子は相手の『少年』が自分の体をまさぐる感触におぼれた。
今の京子は中学生である。セックスについてはほとんど何も知らない。知らないはずなのに、体に火をつけられたみたいに、どこを触られてもものすごい快感を感じる。
脚を開かれる。濡れた秘部を見つめられて京子は恥ずかしくてたまらない、けれども同時にひどく興奮してもいる。
指が侵入してくる。小学生の頃から自分で触ってみたことはある。そんなものとは全然違う。男の力強い指は、おずおずと触れた京子自身の指とはまるで異なる快感を京子から掘り起こした。
「は、はやく、はやく!」
もう我慢できない。エッチな子だと思われる。思われてもいい。どうなってもいいから、この体のうずきを何とかしてほしい。
「……いれるよ」
野太い声は京子には変声期ただ中の少年の声に聞こえた。
真っ赤に焼けた剛棒を突きこまれて、京子は秘部が溶けてしまうのではないかと思った。
高い声を上げて悶えながら、ふと彼が失敗して京子の体の上に白いものを放出するところを思い描いた。なんだかそうなることが最初から決まっているような気がする。
…………違う。
それは、色々な体験談を読んでいた京子が、他人の失敗談のひとつとしておぼえていたものだ。
彼はこの通り、きちんとできている。すごく気持ちよくしてくれている。はじめての京子をいたわり、気をつかいながらもものすごい快感を与えてくれている。これが、こんなに気持ちいいのが嘘であるはずがない。
「ああ! 好き! 好き! 愛してる! イク! 好きよ!」
彼の名前を繰り返し呼んだ。彼は学校中の人気者だ。自分はその彼を射止めたのだ。彼を自分のものにした。彼も自分を愛してくれている。彼があたしの中にいる。京子は満足感でいっぱいになった。セックスってすごくいい。頭の中に極彩色の花火が爆発する。京子は生まれてはじめてと信じている絶頂に悲鳴をあげて駆け上っていった。
※
医師が満足げに引き上げていった後、麻鬼は京子の右手の肘を曲げ、天井を指さすように人差し指を立てさせた。
「これからあなたの時間を進めていくわ。大きな時計があなたの前にある。針が一本しかない変わった時計よ。あなたの指は今その大きな時計の針に触れている。その時計はあなたの時間を動かす時計なの。その時計の針を回すことで、あなたの時間は進んでいくのよ。いいわね」
「……はい……」
「ただ、大事なことがあるからよく聞いて。今から時間を進んでいくけれど、途中、『催眠術』と、『セックス』に関係することがあったら、必ずそこで時間を止めなければいけないの。催眠術とセックスよ。あなたが誰かに催眠術をかけ、エッチな気持ちになったところで、必ず時間を止めなければいけない。わかったわね。催眠術と、セックス。わかったら、はじめましょう。ゆっくりと、時間を進めてみて。あなたの時間がゆっくりと未来へ動いていく。
京子の指が時計回りに動き出した。
「ほら、時間が進み始めた。時間がゆっくり進んでいく。あなたが針を回すのに合わせて時間が流れていくわ」
指が止まる。
「時間が止まったわね。催眠術とセックスのことを思い出したのね。今はいつ?」
「……三月……」
中学の同級生に催眠をかけもてあそんだ最初の経験を京子は問われるままに口にした。
「そのときあなたは興奮した。その感じを思い出して。ほうら、体がうずいてきた。その時のエッチな気持ちがよみがえってくる」
京子は体をわずかにくねらせた。
「その感じをずっとおぼえていて。あなたは興奮している。そのとき感じたそのままに、どきどきして、体がうずいている。これからどんどん時間を進めていくけど、一度思い出した快感はずっとあなたの中に積み重なっていくの。だから思い出せば思い出すほどあなたは気持ちよくなっていくわ。楽しみでしょう。どんな細かいことでも思い出して、もっともっと気持ちよくなりましょう。あなたはそうすることができるのよ」
「はい……」
「でも、その前に、ひとつやっておかなくちゃならない大事なことがあるの。
箱をイメージして。金庫みたいに頑丈な、大きい、何があっても絶対に壊れない箱。どんな風にしても絶対に壊れることのない箱を、あなたの中に用意して。
あなたが女の子に催眠術をかけてエッチなことをしたなんて、他の人にばれたら大変でしょう? あなたは変態って言われて、もう一生男のひととはつきあえなくなってしまう。そうなったら、さっきみたいな気持ちいいセックスは二度とできなくなってしまう。そんなのは嫌よね?」
「……はい……いやです…………したい、もっと……」
「だから、その思い出は箱の中に隠しておいて、誰にも見つからないようにしておかなくちゃいけないの。
さあ、今のことを早速隠しましょう。箱の一番底に入れてしまいましょう。箱に隠して、もう見つからないようになったら教えて」
「…………入れました……」
「じゃあふたをしましょうね。はい、これであなたの頭の中のどこを探しても、その記憶は見つかりません。箱の中をのぞきこまない限り、誰にも絶対に見られることはありません。これで安心よ。あなたはお友達に催眠術をかけたことを忘れてしまった。でも、そのとき感じた興奮はまだ体に残っているわ。どうして体が熱くなっているのかわからないけど、じんじんしてとってもいい気持ち。気持ちよくって、ふたを開けて思い出そうという気にはなれない。思い出したらこの気持ちよさがなくなってしまうのよ。いいわね」
「…………はい……」
京子はうっとりと吐息をつきながら返事した。
「さあ、時間を進めて。指で時計を回して。……」
高陵学園に入学し、催眠術の練習をしながら時々エッチな気分になったことを事細かに思い出し、それさえも麻鬼によって忘れさせられた。体中が欲求不満でむらむらしているのにどうしてそうなっているのかわからず、京子は身じろぎし続けた。
恵理香と同志になった時のことを語った。
「……そう、とっても濡れちゃったのね。素敵よ」
言われて京子の顔はほころぶ。
恵理香と初めて体を重ねあった夜の記憶。
「あ……え、恵理香の指が…………わたしのおまXこに……好き、恵理香…………こんなこと、ずっと、ずっと、したかったの! ああ、もっと!」
京子の体がのけぞる。その時の歓喜が裸身を駆けめぐり、京子は叫び声をあげて絶頂に達する。ぐったりとなった京子の額をなでながら、麻鬼はその記憶も箱の中にしまわせる。京子はどうしてかわからない快感にもだえ、むせび泣く。
「三年の長井先輩…………あなたはわたしのもの、わたしには逆らえない、わたしはあなたの御主人さま…………先輩、わたしをおねえさまって呼んで、言われるままに服を脱いで……」
宙に浮く京子の指が、女の子の秘部をいじる淫靡な動きをそのまま再現しはじめる。
「学園祭…………暗くした部屋で、蝋燭を見つめさせて……反応のいい子の目星をつけて……五組の滑川って子がうまくかかったから、女の子が好きになるように…………わたしたちを、好きになるように……わたしたちに触られるといい気持ちになる…………さあ、スカートをまくって、足を広げるのよ……今からとってもいい気持ちにしてあげるから……」
「四組の坂田尚美…………恵理香が、ペンライトでかけて……彼氏がいるから、彼氏とのセックス思い出させて、その感覚残したまま、意識だけ起こして……な、泣き叫ぶのを、恵理香と二人で……い、いじり回して…………だんだん感じ始めて……さ、最後には……あ」
「長井先輩と、高坂先輩…………キーワードで、わたしたちのペットにして、二人で、お互いのおまXこ舐めさせて、イかせて、それから……」
「高坂先輩と、に、二年の、田村先輩……! ふ、二人とも、あ、え、恵理香をみると、は、お、襲いたくなる、ように、して……ああ! え、恵理香が、お、押し倒されて、ふ、う、あっ、二人が、恵理香の、服を、は、はいで、舐めて、指入れて、あ、わ、わたし、オナニーして、気持ちいい、ああ、気持ちいいの!」
「あ、わ、わたし、あ、駄目、イッちゃう、え、恵理香に、は、あ、あ、イク、恵理香に、な、成瀬に、かけて、わたし、恵理香に、かけられて、あ、あっ、ああっ、いや、イク、駄目、はあ、好き、恵理香、わたしが成瀬を、あ、好きに、あっ、イッちゃう、イク、ああっ!」
「まだ二学期も終わってないわよ。まだまだどんどんあなたは思い出していく。毎日のようにやっていたのね。ひとつ残らず思い出すのよ、これから。思い出して、これまで感じたことがないくらいに気持ちよくなるの。これまでの快感があなたの中にずっと残っているから、あなたはさめることがない。イッた後でもすぐにまた快感があなたを燃やしていくわ。私の目をじっと見て。ほら、体がまた燃えるようになってきた。熱い。熱い。とっても熱い。熱くて、溶けるようで、たまらない。さあ続けて。時間を進めて。その次は? ……」
ひとつの行為を思い出すたびに京子はそのときの絶頂感を再体験し、記憶は箱にしまわせられても快感は麻鬼の暗示によってとどめられたまま、また次の行為を体験させられる。連続的にオーガズムに達し、それでもなお甘美な記憶を次から次へと呼び出され、蝋燭のゆらめく光の中、京子は裸身をてらてらとぬめ光らせながらのたうちまわった。シーツにはとめどなくあふれる愛液で大きなしみができていた。
部屋の扉が開き、服を整えた蜂谷医師が姿を見せた。
「どうだね」
「しばらくかかるわ。先に寝ていいわよ」
「そんなにかかるのか」
「この子たち、毎日のようにやっているのよ。大したものね、負けちゃいそう。昨日と同じ、全部片づけるまでには時間がかかるわ」
「……何回いかせた、ここまでで」
「三十回ぐらいかしら」
こともなげに麻鬼は答えた。
「……発狂させるなよ」
「ええ、二度とあんなへまはしないわ。楽にはさせないわよ」
麻鬼の暗い微笑みを見た蜂谷医師はぞっと巨体を震わせた。
「……とりあえず、これを。あと三本用意してある」
「ありがとう」
麻鬼は手渡されたボトルを軽く揺すってちゃぷちゃぷ音を鳴らした。
その間も京子の『告白』は延々と続いている。
「や、山本……先輩…………キス……おっぱい…………オナニー………………」
もう京子の頭脳はまともな機能を失っており、筋道を立てた説明ができなくなっている。
麻鬼はボトルの中身を口に含むと、よだれも垂れ流し状態の京子に唇を重ね、口移しに甘い液体を流しこんだ。
京子の体力が尽きてしまわないように、特別に調合された栄養ドリンクである。興奮剤やら催淫剤やら、どんな成分が加えられているか見当もつかないので、麻鬼は飲みこむような真似はしない。唾液と一緒に一滴残らず京子の口に流しこむ。声がだみ声に変わりつつあった京子は喉をうるおされてほっと息をつく。
もちろん、麻鬼はこれも深化の道具として利用する。
「おいしいでしょう。沢山飲みなさい。これはあなたをもっと幸せにしてくれる飲み物。これを飲むと、あなたの頭の隅々にまでしみわたって、どんな細かいことでも思い出せるようになるわ」
京子は渡されたボトルに吸いつき、喉を鳴らして一気に飲み干した。
「……はい、あなたはそのことも箱にしまいこんだ。さあ、その次の日は?」
「あ……あぐ……わ、わだじ……あが……は……」
京子は絶え間なく襲いくる快楽のあまりのものすごさに、四肢を突っ張らせて半ば白目をむいており、犬のように舌を突き出して、もはやまともな単語ひとつ口にすることもできなかった。
それでも麻鬼に完全に精神を支配されている京子は、もはや快感は苦痛とも変わらなくなっているのに、そうしなければならないという義務感に突き動かされ、さらに自分のみだらな記憶をしゃべろうとし続ける。
「いいわ、もうしゃべらなくてもいい。そのかわり、今から私がゆっくり日付を言っていくから、あなたが催眠術を使ってエッチなことをしたところで、右手を上げなさい。いいわね。二月十五日。十六日。……」
「………………」
「その日はどういうことをしたの? 口にしなくてもいいわ、心の中にその時のことを思い浮かべなさい。そしてその時の快感を味わいなさい。その快感が今の気持ちよさの上にさらに重なってくるのよ。……」
麻鬼の『尋問』は執拗に続いた。一切の容赦なく、実に数時間にわたって延々と続けられた。
京子は途中で人としての自我を崩壊させた。
幾度も失神した。失禁もした。嘔吐さえした。しかし加減を心得ている麻鬼は、先ほど蜂谷医師に告げた言葉通り、京子が発狂という逃げ場へ入りこんで楽になることを許さなかった。飲み物を与え、時には立ち上がらせて京子の体をほぐしてやり、部屋の隣に付属しているシャワーさえ浴びさせた。それからまた快楽地獄へ放りこむ。
京子はいつしかのたうちまわることもしなくなっていた。
ぐしょぬれになったシーツの上に大の字に横たわったまま、胸を上下させているだけである。
この一夜の間に何十歳も年を取ったような顔に変わり、何も見ずに目を開き、何も言わずに口を開け、虚脱してしまっている。
動かない体の中で、さらけ出された秘所ばかりがなおもみだらに息づいていた。充血した肉襞が貝の身さながらにひくつき、開閉しながら粘っこい液体をにじませ続けている。京子の生命力の全ては今やそこを保つことだけに注がれていた。
ついに京子は昨日まで戻ってきた。
アヤに催眠術をかけ、アヤを思うがままに操ることを想像して欲望にかられたことを思い出す。思いだし、忘れさせられる。
そして今日。
ここだけは特別に、放課後、万里江に催眠術をかけた後から全部の記憶を箱の中にしまうよう言われた。もはや京子に自分の意志というものは残っていない。精神も肉体同様麻鬼のどんな言葉にも従ってしまう。
「さあ、最後にやらなければならないことをするわよ。あなたのいけない思い出のぎっしりつまった箱のふたを閉じて、鍵をかけるの。私がしっかりと鍵をかけてあげる。今から十、数を数える。そうすると、箱には厳重に錠が降りて、もうどんなことをしても開かなくなる。そうなればあなたの秘密は誰にも見られることはない。ふたさえ開ければいつでも思い出せるのだから、大丈夫よ。……」
京子の記憶は完全に封印された。麻鬼にキーワードが与えられない限りふたが開くことはない。麻鬼は記憶を封じた箱をさらに京子の心の奥深くに沈め、ここでもキーワードが与えられなければ箱そのものが見つからないようにした。
「そうよ…………いい子ね。私の言うとおりにできた可愛いあなたに、特別にご褒美をあげましょう。すごいキスをしてあげる。私の口づけを受けたら、あなたはもう私のもの。何もかも、あなたの魂までも全部、私のものになるの」
麻鬼は京子の上にかがみこんだ。
京子は最後の、そして最高の、か細い絶頂の声を放った。
すべてを終え淫靡な拷問室を出た麻鬼の目に、朝日がまぶしく突き刺さってきた。麻鬼は形よい眉をしかめてサングラスをかけ直し、それから満足げに薄く笑った。
※
麻鬼は白いテーブルを挟んで蜂谷医師と向かい合っていた。テーブルの上にはポットと、カップが二つ置かれている。紅茶の真紅が鮮やかだ。たちのぼる湯気が斜めに差しこむ陽光の中でゆらゆらとたゆたっていた。
「つくづく、さわやかな朝というやつは君には似合わないな」
「お互い様でしょ」
「ふむ。そういえばもう一人、今回の件の関係者がいるのだろう。その子はいつ落とすのだ。今日か」
「恵理香と京子を押さえておけばこれ以上問題にはならないから、今回は見逃してあげることにしたわ。彼女には気の毒だけど、日頃の行いが悪いから、騒ぎ立てても誰も相手にしてくれないでしょうし」
「優しいな」
「あら、そう?」
「満腹したか」
「そうかもね」
上機嫌に言った麻鬼を、蜂谷医師は探るように見た。
「……楽しませてもらっておいてなんだが、昨夜の北沢京子、彼女のレズ嗜好を矯正する必要はあったのか? 君ならそのままにしておくと思っていたが」
「元々女の子が好きだっていうなら何もしないわ。昨日の恵理香みたいにね。でも京子は違う。不幸な体験が原因で男性恐怖症になっていたのよ。トラウマは取り除いて、きれいにしてあげないと。その上でまだ女の子が好きだっていうんなら、そのときこそ放っておくわ。本人の自由ですものね」
「きれいにする、か」
「まだまだよ。これからしばらく、汚れが落ちきるまで何度も洗い直さなくっちゃ」
「……昨日のその恵理香という子もそうだが、今回のやり方はいつもと違うな。どうしてそこまでする? 人格を破壊してしまうのは君の主義に反するはずだが」
「今回だけは特別。これ以上あの子たちに好き勝手させるわけにはいかないもの。二度と催眠に興味を持たないよう、徹底的に漂白するわ」
「ある程度まではともかく、あとは叱りつけて反省させればそれでいいだろうに。話を聞いた限りでは、あそこまでしなければならないほど悪行三昧だったとは思えないのだがね。やっていたことは君と大差あるまい。仲間のようなものだ」
「一緒にしないで」
「………………」
「あの子たちにペットにされた女の子、みんな成績が下がっているの。勉強しようとするとついオナニーするようにすりこまれたりしてね。この前卒業した長井って子、うちの大学部じゃなくて外の四大狙ってたんだけど、受験の前の日にあの子たちのおもちゃにされて、今予備校通いよ」
「催眠は人を幸せにするためのもの、か」
「そういうこと。あんな使い方するなんて、見ていられない」
蜂谷医師は大きな手でカップをつまみ上げた。
「違うだろう」
「……どういう意味かしら?」
蜂谷医師はすぐには答えず、ゆっくりと紅茶をすすった。
「気がついていないのか」
「?」
「女性は女性に対して容赦ないというが、君の場合、『同類』に対してはたがが外れる」
「同類……? なに馬鹿なこと言ってるの」
「じゃあなぜ、動き回った張本人の子は見逃しておいて、巻きこまれただけの二人をあんな風にした」
「だから、あの子たちは催眠術を……」
「前にも、催眠を使う女を相手にしたことがあったな。何と言ったか」
麻鬼は親しい友人の名を呼ぶように美しい名前を口にした。
即答したということは、思い当たるふしがあるのか。
「あのときも、君は容赦しなかったな」
「仕方なかったのよ。あんなに強いひと、会ったことなかった。私も危なかったんだから。紙一重だったのよ。向こうは組織だったんだし、二度と邪魔をさせないためにも、ああするしかなかったの」
「廃人寸前にまで追いこんでおいてか。その後で向こうと手打ちするのにどれだけ手間がかかったと思っている。強い精神の持ち主だったからすぐに回復してくれて助かったが、そうでなければこっちは間違いなく潰されていたぞ。君があそこまでしなければ、交渉はもっと楽に進められたんだ」
「………………」
「戦国時代の北条家は、秀吉という巨大な勢力に頑固に立ち向かったせいで徹底的に滅ぼされた。知らぬわけではないだろう」
「そう言えば、あのひとの名字も北条だったわね。今頃どうしてるかしら」
「誤魔化すな」
二の句が継げずに口ごもる麻鬼の姿というのは滅多に見られるものではないだろう。
「……あなたが精神分析もやるなんて思わなかったわ」
「こんなのは分析でも何でもない。君があまりにも自分を見ないだけだ」
麻鬼はそっぽを向いた。
「……私は鏡には映らないのよ」
「“吸血鬼”らしい台詞だな。だが多分鏡に映るのは別のものだ」
「何だというの?」
「いい加減認めたらどうだ。もっともらしい理屈をつけているが、本当は理由なんかない。あのときも、今回も、君は相手が気に入らなかった、それだけで相手を破壊してしまったんだ」
「ひとを子供みたいに言わないで」
「害がないだけ子供の方がまだましさ。子供というのが嫌なら、そうだな、本能的に自分の同類を排除してしまった、とでも言おうか」
「私の……本能?」
大時計が朝の時報を刻んだ。
(十一)
朝には晴れていた空は、今や一面の曇天と転じていた。天気予報は午後からの雨の確率を八十パーセント以上と告げている。降ってくるのも時間の問題だろう。
昼休み、校長室から出てきた初老の男性に生徒たちの好奇の視線が集中した。
「九州の方の人だって」
「わざわざ出てきたの、ここまで?」
「両親が海外だから、保護者代わりなんだってさ」
女の子たちのひそひそ話は、その後から黒っぽい印象の長身の女子生徒が出てくるとぴたりとやんだ。
「……気にすんな、叔父さん。いつものことだ」
アヤが一睨みすると人垣はたちまち崩れて散らばってゆく。
「先帰っててくれ。オレはちょっと挨拶してくとこあるから。……大丈夫だ、きのうの今日で問題なんか起こさねーよ。オレだってそこまで馬鹿じゃねえ」
生徒が群がっている掲示板の前にアヤは立った。
皆、飛び離れる。いつもなら二メートルぐらいだが、今日はやはり肌で危険を感じるのか、半径五メートル近い空間がアヤの周囲にできる。
『一年三組 出席番号二十番 水南倉綾乃
右の者、暴力行為により二週間の停学を命ずる
高陵学園女子高等部 校長』
その張り紙をアヤは殴りつけた。
やわな掲示板にアヤの拳は手首までめりこんだ。
周囲には誰もいなくなった。
いや、一人。
「うわーっ、すんごいなあ。さすがアヤさん」
手を抜いて振り向くと、小学生のようなくりっとした目の、小さな女子が立っていた。
「……誰だ、お前?」
「あー、そりゃないで、傷つくなあ、もう。迫水千尋、ほら、図書室で会ったやんか。あの衝撃的な運命の出会い、うちは忘れようにも忘れられへん。毎晩枕を抱いてはああアヤさんアヤさん、どうしてあんさんはアヤさんだんねん、おおジュリエット、それは言わへん約束や。山のあなたの空遠く、アヤさんおるでと人の言う。うちがこないに熱う激しゅう想っとったっちゅーのに、おぼえていてくれへんとは情けなや。うちはそないな娘に育てたおぼえはないで」
図書室云々よりもその小鳥のさえずりのようなおしゃべりで思い出した。
「ああ、おめーか」
「ちひろって呼んでな。それで、四組の二人、どうやった?」
アヤは顔をしかめた。
「……その話はするんじゃねえ」
「怒ったんか? うちが悪いことしてしもうたかな? やっぱあの二人じゃ役に立たへんかったとか」
やっぱり? どういう意味だろうとかすかに疑念を抱いた。だが分析よりもこの場合、腹立ちの方が先にきた。
「……うるせえ。あと三つ数えるうちにオレの目の前から消えろ」
「うわあ、あたしが何した言うねん。そない殺生なこと言わへんといてーな。アヤさん、うちとアヤさんの仲やんか、な、な」
「ひとつ!」
「ほ、ほな、さいなら。ちひろやで、ちひろ、ちひろ、さこみずちひろ、可愛いちーちゃんをこれからもよろしゅうなーっ!」
「……選挙カーか、てめえは」
アヤは吐き捨てると部室棟に向かって歩いていった。
オカルト研とかかれた看板の前で立ち止まる。
今度はドアに鍵はかかっていなかった。
薄暗い室内には女子二人組がいた。もちろん一人はメガネの北沢京子、一人は派手な顔立ちの和田恵理香。
「………………」
アヤは立ちすくんだ。
この二人、本当にあの京子と恵理香か。
京子の目つきは空虚だった。窓辺の椅子に腰かけ、手足をだらりと投げだし、ぽかんと口を開けて灰色の曇り空を見つめていた。アヤが入ってきてもそちらを見ようともしない。
恵理香はどうか。
全身の力という力を失ってしまったかのように、テーブルにだらしなく突っ伏してしまっている。表情にもまるで締まりというものがなく、アヤを見るには見たが、見上げた目つきはどんよりと、今の空のごとくに濁っている。
「……おい…………あんたら、どうしちまったんだよ……」
「だぁれえ……あんたぁ?」
恵理香がやけに間延びする声で言った。アヤはぞっとした。
「…………?」
京子がようやくアヤの方を見た。頬に絆創膏が貼られている。間違いなくあの京子だ。病気にでもなったのか、目がくぼみ、頬がこけ、血色が悪い。その目つきは知り合いを見るものではなかった。どうでもいいと言うようにすぐまた外に向いてしまう。
その喉に、キスマークが色濃くこびりついていた。
「なあ……ふざけてるん……だよな、あんたら?」
「ふざけてるう? あたしがぁ……?」
恵理香が立ち上がった。ゆらり、としか言いようのない、ぐにゃぐにゃした動作だ。宇宙人という言葉がアヤの脳裏におぞましく思い出される。立つには立ったが重心が定まらず、右へ左へふらふらしている。壁に寄りかかると首が一度がくりと垂れ、それからまた持ち上がって斜めのままアヤを見た。口元にはたるんだ笑みがあらわれている。
「いつ……あんたに……会ったっけえ、あたしぃ?」
「いつって……おい! どうしたんだ!」
恵理香の片方の手首に、人の指の形をしたあざができているのにアヤは気づいた。誰かに強く握られた痕だ。ただ、そんなあざを残すにしては随分と細い指だが。……
「知らないよお。……あんた、初めてでしょぉ、ここ来るのぉ?」
「な、何言ってんだよ……。ふざけんじゃねえ! 北沢! こいつなんとかしろよ! オレはこういう冗談は大っ嫌いなんだ!」
京子は名前を呼ばれてのろのろと立ち上がった。
アヤの前に来る。
「……よ、よお。この間はすまなかった。とんだ面倒に巻きこんじまって……」
京子はメガネを直し、アヤを見つめて小首をかしげた。
「…………?」
「おい……」
「きゃはは、駄目だよう、京子は……。だってえ、京子ったら、空っぽなんだもんねえ……」
「空っぽ……?」
「そしてぇ、あたしは、どろどろ。あたしねえ、全部溶けちゃって、骨までなくなって、今さあ、クラゲみたいなんだよお……へへ、クラゲ。ふわふわあん、としてさあ、気持ちいいんだよぉ…………」
恵理香はけらけら笑うと京子に抱きついた。倒れないようにしがみついたと言うほうが正確だろう。
ヤクでもやっているのか。アヤは唖然となり、ふと思い当たって本棚を見た。
催眠術に関する本が、一冊も見当たらなかった。
「………………」
「時間だねえ…………」
恵理香がオレンジ色の腕時計を見て言った。
「行きましょう」
京子がはじめて口をきいた。
二人はアヤを無視して部屋を出ていこうとした。
「待て! お前ら、どこへ行く!」
「先生のところ」
答えたのは京子だった。ぶっきらぼうで、この間の丁寧な感じがまるきりなくなってしまっている。
「先生…………顧問の前田か? いや……まさか……」
「次の時間、特別授業なの」
京子の指が喉のキスマークをさすった。
人形のようだった京子の顔にはじめて表情が浮かんだ。
先日万里江が見せたのと同じ、恍惚とした目つきだった。
「し〜ぃんぐぃんざれぃ〜ん……」
恵理香がそんな歌を口ずさみはじめた。
「SINGIN' IN THE RAIN……」
京子がぼそぼそと唱和した。
肩を抱きあって出てゆく二人の後ろ姿を、アヤはかける言葉もなく見送った。
取り替えられたばかりの窓ガラスに大粒の雨滴がついた。
つうと流れた細い水跡が白く光って、糸がそこにへばりついたかのように見えた。
※
窓という窓に糸が垂れ下がっている。
悪夢の中をさまよっている気分で廊下をたどるアヤの後ろから、白衣を着て透明なケースを持った二人組が歩いてきた。
生物部の部員らしい。
「あ〜あ、死んじゃった」
「同じケースに入れちゃ駄目だっていったでしょ」
「餌さえたっぷりあげれば半日ぐらい大丈夫だと思ったのに」
「駄目よ。蜘蛛ってね、縄張り意識がとても強いの。自分の巣に他の蜘蛛が入ってきたら、すごい勢いで追い払うんだよ。殺しちゃうことだってあるんだから」
アヤと知らずに白衣の人影は追い抜いていった。
ケースの中に、脚を丸めてひっくりかえっている死骸が二つ。
※
玄関で、アヤにとっては今一番聞きたくない声が耳に飛びこんできた。
「アヤ!」
アヤは顔色を変え、振り返らずに早足で外に出ようとした。だが相手はアヤの正面に素早く回りこんできた。ポニーテールが揺れた。
「マリエ……!」
「停学なんて、ついてなかったね」
アヤは思わず万里江の顔をまじまじと見た。
これまでと同じ万里江だ。
額と頬に小さなカットバンが貼られている。整った顔立ちには友人を元気づけようと気をつかった笑顔が浮かんでおり、嘘をついている気配はかけらもない。心からアヤのことを心配してくれている。
「先生に一本背追い決めるなんて、さすがアヤ。でも、それで窓ガラス割っちゃうなんて、ちょっと運がなかったかな」
「オレが、ガラスを……? マリエ、お前、また……」
「何だよ、マジになって。気にすることないよ、あたしもあいつ嫌いだったしさ。話聞いたときには胸がすうっとしたよ。みんなそう思ってる」
「………………」
万里江の記憶には、あの部室での事件も、アヤの涙も残っていないのだろう。
「元気だしなよ。アヤが停学だろうが退学だろうが、あたしは友達づきあいやめる気なんてこれっぽっちもないからさ」
アヤは暗澹となった。
駄目だ。もう、この万里江とは今までのようにはつきあえない。
万里江がなまじいつも通りであるのがアヤにとっては一層辛かった。これがさっきの二人のように別人になっていれば、まだあきらめがつき、いくらかでも救われたであろうに。
万里江の笑顔の、何と残酷なことか。
心の中にぽっかりと穴が空いてしまったようだ。
なくなってはじめて、ここにこんなに大事なものがつまっていたことがわかる。
「マリエ……!」
涙がにじみ、アヤの視界がぼやけた。
こらえようとしてもこらえられなかった。
今の万里江にだけはこんな顔を見られたくなかった。
アヤは万里江に抱きついた。胸に万里江の顔を押しつけ、髪に顔をすりつけるようにした。
「マリエ……マリエ!」
「ち、ちょっと、アヤ、どうしたのさ、オーバーなんだから……」
その万里江の体がびくんと跳ねる。
「!」
「……『水南倉さん』」
突然万里江はアクセントのない低い声で言った。
聞くなり血が凍ったアヤは思わず万里江を突き放す。
ふらついて立った万里江からは、全ての表情が抜け落ちていた。目はうつろで、アヤに向いてはいるが何も見ていない。唇だけが動いて棒読みの言葉を紡ぎだす。
「『万里江さんは、あなたの友達の万里江さんのままよ。これからも仲良くしてあげてね』……」
言い終わると万里江はわれに返り、はっとした。
「あれ? 今、あたし、何か言った?」
「…………いや、何も」
アヤは力を抜き、静かに万里江を押しやると外に出た。
空から銀線を描いて雨が降りそそぎ、地面の色がみるみる変わってゆく。降り始めの、湿っぽい独特のにおいが鼻を刺す。
「……鬱陶しい季節が来たな」
「アヤ! あんた、傘持ってんの? ないならあたしの貸したげる。取ってくるから待ってて」
「いいんだ。たまには濡れるのもいいさ」
「そんな……」
「……じゃ、マリ、元気でな」
万里江に後ろ手に手を振り、片手はポケットの中、肩を丸めて猫背をつくり、雨の中へアヤは歩み出ていった。
「アヤ! 風邪引かないでね! じゃ、また! 電話するからね!」
髪に肩に水滴が降りかかり、冷たくしみこんでくる。
昼休み終わりのチャイムが鳴った。
アヤは校門のところで立ち止まった。
振り返る。
濡れそぼり、糸みたいな黒い水の流れが幾筋もしたたり落ちている校舎。
その四階の窓。
(!)
灼熱したアヤの全身から水蒸気が立ちのぼる。
深い闇が人の形をとって立ち現れたかのような、見間違いようのないあの姿がガラスの向こうにあった。
アヤの睨みつける先で、白い手がサングラスを外した。
――――あらわれた瞳の色は、アヤには見えない。
見えないながらも、その素顔がこの世のものとは思えないほどに美しいということだけはわかる。
濡れた前髪が垂れ下がってきてアヤの目を覆った。
振り払って見直すと、もう闇の美女は消えていた。
「………………」
大きく口を開いた。
拳を握り、顔を歪め、アヤは絶叫した。
雨が本格的に降り始めた。
ほとばしった激情は、暗い天の底に空しく飲みこまれてゆく。
アヤは踵を返すと、頬に流れるしずくをぬぐいもせず、人影絶えた灰色の街路をひとり、悄然と下っていった。