現在の価値観で過去を見るな 1
2008年06月18日
■歴史改竄派の大好きな詭弁「現在の価値観で過去を見るな」について
否定派(歴史改竄派)が、日本軍の加害行為に対してだけ口にする「現在の価値観で考えるな」という主張について、妥当な考えなのかどうか考察してみます。この言葉は一見もっともらしく聞こえ、意外に騙される人が少なくないのですが、まずはその一例を秦郁彦氏の著書から引用します。
秦郁彦 徹底検証 朝日vs.NHK全面戦争の逆転劇…『諸君!』2005年3月号、『歪められる日本現代史』2006年2月 p147より
慰安婦について言いますと、当時の状況では売春は合法的に認められた存在だったわけです。現在の価値基準からそれを遡及させるのは適切ではない。女性たちが喜んで慰安婦になったわけではないと思いますが、私の調べた範囲で一番多いのは、たとえば親に売られて同国人、韓国の場合で言えば韓国人の女衒によって慰安所に連れていかれたといういわば商行為なんですね。
「現在の価値観で過去を見るな」という主張は、歴史認識として不十分であり、誤った考え方であることは、すでに歴史学者の山田朗氏によって指摘されています。(強調は引用者)
山田朗『歴史修正主義の克服』2001年12月 p85~86、p143~145より
◆「現在の価値観で過去を見るな」という論
⑧「現在の価値観で過去を見るな」という意見は、日本のおこなった膨張・戦争・侵略を「当時はあたりまえのことだった」という言い方で水に流してしまおうという議論の時によく使われる。たとえば、「従軍慰安婦」などは、公娼制度が存在した当時の価値観からすれば悪いことでもなんでもない、という意見である。この考えによれば、歴史はその当時の価値観に基づいて描かなければならない、ということになる。つまり、アジア太平洋戦争を描くなら1940年代の日本の価値観に基づいて描く、明治維新は明治維新の考え方で見る、縄文時代は縄文時代人になりきって描くということになる。
しかし、これは実際には不可能なことである。歴史家がその時代の価値観を知ることは必要なことであるが、その時代の人間になりきるなどということはそもそもできないことなのだ。叙述される歴史というものは、常に歴史家が生きているその時代の価値観に基づいて書き換えられていくものである。「歴史的に見る」とは、対象とする時代の価値観で見るということではなく、対象とする時代に生きていた人々の眼には何がどのように映っていたかを探ると同時に、その人々には何が見えていなかったのかを知ることなのである。
「現在の価値観で過去を見るな」という論は、過去に起こったことは過去においてはどうしようもなかったのだ、という議論につながり、結局、歴史というものから何も学ばないということに他ならないのである。この点については「自由主義史観」グループの「歴史相対主義」の便宜的利用を批判する際に、再度論じることとする(143~145ページ)。
<中略>
◆「歴史相対主義」の便宜的利用
「歴史相対主義」の便宜的利用は、『国民の歴史』のところでも触れたが、『新しい歴史教科書』の歴史叙述の特徴にも密接に関連してくることなので、あらためて論じておこう。『新しい歴史教科書』には「歴史を学ぶとは」と題して、次のようにある。
「歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった」
「歴史を固定的に、動かないもののように考えるのをやめよう。歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう」
「過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、特有の幸福があった」というのは、当たり前のことである。その時代にはその時代特有の価値観があったことは確かである。だが、ここでこの教科書が言いたいのは、そこではなく、歴史を「今の時代の基準」あるいは「現在の道徳」で「裁く」ことはいけない、という部分であろう。過去には過去の価値観があるのだから、過去の出来事を現在の価値観から「裁く」ようなことはしてはならない、というのである。
「裁く」という言葉を使うと断罪するといったニュアンスを含んでいるのでもっともらしく聞こえるのだが、歴史学研究の立場から言えば、「過去の価値観」を「その時代特有」のものとして認識することと、現在の価値観を基準に歴史を認識したり叙述したりすることとは、何ら問題なく両立することである。そもそも、「過去の価値観」を「その時代特有」のものとして認識できるのは、現在の価値観を基準に比較検討するからである。「過去の価値観」を過去のものとして、その特徴やそれが形成されるにいたった諸要因を考察するのは歴史学の基本的な仕事の一つであるし、「裁く」といったことではなく、現在の価値観や社会的関心に基づいて、歴史上の人物を評価(発掘)したり、歴史的事件から何事かを学びとるといったことも、歴史学の重要な仕事である。歴史は、つねに歴史研究・叙述がなされるその時代の、つまり最新の価値観に基づいて書きかえられていくものなのである。そうでなければ、とうの昔に『決定版・日本歴史』ができあがっているはずだ。
「つくる会」の教科書では、「歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである」と断言している。しかし、「過去の人がどう考えていたか」を知ることだけでは、十全な歴史認識とは言えないのである。つまり、過去の価値観を知った上で、その時代を客観的に見ることが必要なのだ。歴史を検討するということは、多分に、現在の自分たち(国家や社会)の鏡としての過去の自分たち(国家や社会)の姿を見ることにほかならない。そのためには、過去の人に見えていたことだけを再確認するだけでなく、その時代の人に何が見えなかったのか、それは何にとらわれていたからなのか、を認識する必要がある。過去の人の視野にあったこと、なかったこと、それらをあわせて知ってこそ、歴史認識といえるのである。
これは、決して、過去の人を「裁く」ことでも、見下すことでも、現代人を特別な地位に置こうとするものではない。なぜなら、現代のわれわれも、必ずや何ものかにとらわれ、肝心なことが見えていないかもしれないからだ。われわれも未来の人々に、同じように検討され、場合によっては批判されるからである。
- 最終更新:2009-02-08 14:09:14