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1942マルタ島沖海戦2
 マリーオ=ボンディーノ大佐は、会議室の前でなめらかに説明するリュッチェンス大将の作戦参謀を鬱陶しそうな顔で眺めていた。
 実のところ、彼が話す饒舌なドイツ語はさっぱり頭に入って来なかったので、会議中も殆ど手元の資料を見ていた。
 最初から作戦会議の結論は決まっているようなものだった。
 イタリア海軍軍人達のほとんどは、ボンディーノ大佐と同じく口を挟むことなく黙ってドイツ人の言うことを聞いていた。
 元々、この作戦はドイツ国防軍最高司令部が立案したマルタ島攻略作戦の一部でしか無い。
 実施部隊の一つでしか無い艦隊の人間に、まともに発言権があるとは思えなかった。


 マリーオ=ボンディーノという男は、イタリア人といわれて大半の人間が思い浮かべるであろうイメージをことごとく外しているような男だった。
 人生を楽しみ、女性を好むといった雰囲気を、ボンディーノ大佐はまったく持ち合わせてはいなかった。
 小柄で小太りの体型と、太い眉を不機嫌そうにしかめている顔はまったく外国人が、半ば偏見とともに抱くイタリア人のイメージとはかけ離れていた。

 女性関係に関しても、外国人がイタリア人の男性に抱く偏見を裏切っていた。
 彼が愛している女性は学生時代に知り合って結婚した妻と、彼女との間に生まれた愛娘だけだ。
 かつて愛していた母親は、年老いた父親を残して随分と昔に死んでいた。
 そして、彼は人生を楽しんでいるとはいいがたかった。

 イタリア海軍は、彼の能力を高く評価し、最新鋭戦艦の艦長に任ずることでそれを示していたが、彼の妻はまた別の評価を下していた。
 資産家の息子に生まれて、ローマの有名大学に進学しながらも、子供の頃からの夢を諦めきれずに、大学を中退してリヴォルノの海軍兵学校に入校して海軍士官としての道を選択したのが悪かったのかもしれない。
 あるいは、そもそも父親の資産に全くといっていいほど興味を示さなかったということのほうが原因だったのかもしれない。
 なんにせよボンディーノ大佐は、妻がマリーオ=ボンディーノという人間に対して、海軍大佐ではなく、資産家ボンディーノ家の次男という立場の方に関心があるのだということを、ここ何年かで嫌というほど再認識させられていた。
 もしかすると妻は、ボンディーノ大佐が海軍でそれなりの地位に付けば、除隊してそのコネを利用して父親の元で事業に精を出すのではないかと淡い期待を抱いていたのかも知れなかった。
 ボンディーノ大佐には、その気は全くなく、そもそも艦隊勤務ばかりで陸上での参謀勤務経験のない大佐には、事業に利用できそうなコネが出来る気配はなかったのだが。

 だが、ボンディーノ大佐の家族関係と比べると軍内の立場は良好だった。
 大佐昇進からわずかに数年、40歳をいくつか越えたばかりで最新鋭艦であるヴィットリオ・ヴェネトの艦長を任されたのは、一般大学を中退してから海軍に入ったとしては、異例といってもいいスピード昇進だと言えた。
 海軍兵学校卒業から一貫しての洋上の艦隊勤務でみせた実戦指揮官としての技量が高く評価されたのは間違いなかった。
 そして、イタリアが英国を始めとする国際連盟諸国との戦争に踏み切ってから、ヴィットリオ・ヴェネトは幾度かの戦闘に参加していたが、その中でボンディーノ大佐は海軍上層部の期待に答えるだけの戦果をあげていた。


 だが、ヴィットリオ・ヴェネト艦長の職は、ボンディーノ大佐に海軍軍人の面白さと、このような長ったらしい会議に出席しなければならないわずらわしさ双方を与えていた。
 もちろん陸よりも海での生活の方が長いボンディーノ大佐が、どちらを重要視しているのかは明白だった。

 どのみちボンディーノ大佐は、参謀教育などを行う海軍大学校を出ていないから、いくら前線で実績を示したとしても将官に昇任出来る可能性は少ない。
 将官になったとしても前線勤務の戦隊指揮官どまりで、高級将官として軍の中枢を担うことはないはずだ。
 ボンディーノ大佐自身も、戦艦の艦長職という最前線で実際に洋上で指揮をとる立場が、自分に一番向いていると思っていた。


 長かった戦況説明を終わらせたドイツ地中海派遣艦隊の作戦参謀に続いて、リュッチェンス大将が立ち上がっていった。
「状況は作戦参謀の説明のとおりだ。本日までの我がドイツ・イタリア連合軍による集中した空襲によってマルタ島の制空権は我が方にある。マルタ島の抵抗力は明らかにそがれている。南方総軍司令官、ケッセルリンク元帥はこれをもってマルタ島攻略作戦の決行を決断された。
 また、エジプトに配置した諜報網による情報によれば、日本海軍の空母部隊を中心とした艦隊が、一昨日アレキサンドリアを出港したとのことである。おそらくマルタ島への空襲をみて急遽出撃したものだろうが、敵艦隊のマルタ島到着までには未だ余裕があるとOKWでは判断している。
 そこで一足早く、本日夜半に我が軍の空挺部隊が先遣部隊としてマルタ島に降下、追って揚陸部隊もシチリア島より出撃する。そこで我が艦隊は空挺部隊を援護するため、ここタラントより出港する」
 リュッチェンス大将の無骨な指が、会議室の前壁に掛けられた海図の上を走った。
 指はタラント港からマルタ島に達して、力強く海図を叩いた。
 そこで、リュッチェンス大将は会議室の面々を見渡してからいった。
「本日2000時にタラントを出港し、明日一杯、マルタ島東方で警戒に当たる。敵艦隊の到着は明日以降となるだろう。敵艦隊と遭遇した場合はこれを殲滅する。先程の説明の通り、有力な敵空母部隊は自身の防空で精一杯の状況だろう。制空権は我が方にある。純粋な水上砲雷撃戦では我が方が優位にある。以上だ」

 会議室のあちらこちらから、リュッチェンス大将に同意する興奮した声が上がった。
 その声はドイツ語ばかりではなく、イタリア語でも上がっていた。
 すかさず会議の解散を傍らの参謀長が告げた。
 ドイツ海軍の戦隊司令官や大型艦艦長達、それに何人かのイタリア海軍の指揮官達は、興奮を隠せない様子で続々と会議室を出て行った。
 本隊から先行してタラントに到着していたヴィシーフランス海軍の参謀将校達は、その大半が、作られた無表情を保ったまま、遅れて到着するであろう艦隊を待つために出て行った。


 昨年度行われたフランス領インドシナへの日英を主力とする国際連盟軍の侵攻は、一応の中立を保っていたヴィシーフランス政権の態度を変化させていた。
 更にその前年、ドイツ軍の侵攻により降伏したフランスの海軍力を脅威と見た英国海軍は、フランス艦隊のドイツ側への参加を防ぐためにメルセルケビール海戦やダカール沖海戦を引き起こした。
 これらの戦闘は、戦術的には日英側が勝利を得たが、ヴィシーフランス側の日英などへの強い不信を抱かせたのも事実だった。
 フランス領インドシナへの侵攻はこれを決定づけさせていた。
 英国のインド師団や植民地軍に加えて、日本陸軍一個師団とタイ王国軍一個旅団で行われたフランス領インドシナへの侵攻は、本国ヴィシーフランスからの援軍が一切期待できないこともあって、短時間で集結した電撃的な作戦となった。
 全土を占領されたフランス領インドシナは、日英によってこれまで保護国となっていたカンボジア、ラオス、ベトナムの三王国が独立を宣言し、直ちに国際連盟諸国がこれを承認する事態となっていた。

 これに対して、フランスの世論は一気に枢軸よりへと傾いていた。
 これまでの海戦とは異なり、日英側の目標が、フランス艦隊などの軍事力に向けたものではなく、海外植民地への侵攻であったことによって、政府関係者のみならず、一般市民の間にも一気に反日英感情が起こっていたのだ。
 フランス世論の反感の対象は、日英などの国際連盟諸国だけではなかった。

 インドシナに新たに独立した諸国は、自由フランスへの兵力供出を行なっていた。
 これにより、自由フランス軍の指揮下にあるアジア外人部隊は、既に師団を編成するほどの規模となっていた。
 言い換えれば、自由フランスは、インドシナ諸国からの傭兵の参加と引き換えに植民地の政治的な独立を承認していたのである。
 これに、ヴィシーフランスのみならず、フランス本国の市民たちが反感を抱くこととなった。
 ここぞとばかりにドイツ宣伝省が巧みな報道規制によって、これらのフランス本国市民達の反英、反日感情を煽り立てていた。

 その結果、今年になってヴィシーフランスは、正式に独伊枢軸側にたって、国際連盟諸国に対する宣戦布告を行なっていた。
 対英宣戦布告をかねてから求めていたドイツはこれを高く評価し、直ちに前年度に割譲されていたアルザス・ロレーヌ地方の返還という形でこれに報いていた。
 そのような事もあって、フランス本国では概ねこの宣戦布告は高い評価を得ているようだった。

 ただし、それは対独協力を行う政府関係者や、無責任な一般国民によるものだった。
 実際に最前線に向かうフランス国軍軍人たちの思いは複雑なようだった。
 敵国である国際連盟側には、かつての同胞である自由フランスが所属していたからだ。
 1940年のフランス降伏時に海外に脱出したものを中心に編成された自由フランス軍は、数は少なかったが、国際連盟側では正統なフランス亡命政府として承認されていた。
 ロンドンでド・ゴールらが立ち上げた当初は、自由フランス軍の戦力は実質上僅か一個旅団程度でしかなかったが、今では自由フランス側についたり、連盟軍によって解放された植民地などからの徴募兵によって戦力を急増させていた。

 自由フランス陸軍が順調に戦力を増加させていたのに対して、海軍戦力は、大半がヴィシーフランス側に残されていた。
 特に主力艦は、そのほとんどがヴィシーフランス海軍としてフランス降伏時の編成のままフランス本国に温存されていた。
 ヴィシーフランスによる対国際連盟側への宣戦布告によって、枢軸軍の最前線へと送り込まれたのは、このヴィシーフランス海軍に他ならなかった。

 この時点で、ヴィシーフランスが保有する軍事力は、フランス降伏時から激減していた。
 フランス降伏時に、ドイツ軍の手で一旦は武装解除させられていたからだ。
 独ソ戦勃発後に反共主義からフランスファシスト党が創設し、ドイツ国防陸軍指揮下に編成された反共フランス義勇旅団や、武装親衛隊へのフランス人志願兵で編成された義勇フランス旅団も既に存在していたが、ヴィシーフランス政権自身が保有する戦力は少なかった。

 ヴィシー政権は、フランス中南部に自由地域という形で領土を安堵され、その後のイギリス軍などとの交戦の結果、休戦軍という形で陸空軍の保持が許可されていた。
 だが、この休戦軍は、かつての大陸軍を誇ったフランス陸軍と比べるとあまりに少なく、兵員数の少ない小型師団わずか十個に過ぎなかった。
 フランス駐留のドイツ軍の監視のもとで、ヴィシーフランス陸空軍は再編成を開始していたが、当座の間即戦力として運用できるのは中立を保っていた旧フランス海軍部隊しかなかったのだ。

 そのヴィシーフランス海軍は、メルセルケビール海戦などでうけた損害から、対英日戦への士気は決して低くはなかったが、ドイツ軍は全幅の信頼を彼らに与えていたわけではなかった。
 有力な戦闘艦を保持したまま、ヴィシーフランス海軍軍人達が、自由フランス側へと亡命をはかれば、大型艦の数で日英海軍に劣るドイツ海軍にとって大きな脅威になるのは確実だったからだ。
 だから、ヴィシーフランス海軍は、枢軸側にたって参戦したとはいえ、味方であるはずのドイツから監視を受けていた。

 ヴィシーフランス海軍の高級将校達の家族は、ヴィシーフランス政権の支配領域から、強制的に未だドイツ軍管理下にあるパリに移住させられていた。
 生活面で不自由は無いとされてはいたが、家族達は高級将校らが部隊を率いて艦ごと亡命するのを防ぐ人質として、一般親衛隊国家保安本部の手によって監視されていた。
 それどころか、大型艦には監視のために一般親衛隊の将校が乗り込んでいた。
 表向きはドイツ海軍との連携を強化するための連絡将校という形をとっていたが、実質上はソ連赤軍に存在する政治将校のようなものだった。

 このように親衛隊によって監視されていたヴィシーフランス海軍だったが、皮肉なことにこの強固な監視体制故に、ドイツ海軍からは別の意味で不信感を抱かれることとなった。
 いざという時、ヴィシーフランス政権やドイツ海軍の指揮下から離れて、親衛隊の都合によってヴィシーフランス海軍は動くのではないかと思っていたからだ。
 その結果、ヴィシーフランス海軍は、誰からも信頼されておらず、有力な戦闘艦を有していながらも、船団護衛や要地防衛の任務を与えられており、枢軸側参戦後も敵艦隊への積極的攻撃に参加することはなかった。

 だから、今回の作戦への参加は、ヴィシーフランス海軍にとって再編成後初めての攻勢作戦ということになるはずだった。
 彼ら自身がそれを喜んでいるのかどうかは、ボンディーノ大佐にはよくわからなかった。


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