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すみかへの思いが、多くの人に届きますように・・・。それが、私の願いです!! メッセージもお待ちしています。

2007年3月28日 (水)
今日と明日の読売新聞

読売新聞の医療ルネッサンスのコーナーに、純夏の記事が掲載されます。

多くの人に純夏を知ってもらいたい・・・・
私の願いが、こんな形になりました。

取材の依頼があった日は、私達の結婚記念日でした。
きっと、純夏からの贈り物なんだ!と思いました。

あらためて、純夏はすごい!本当に神の子かもしれない!と思いました・・・。

そんな純夏を亡くしてしまった罪は消えない・・・・。

でも、何とか治してやりたい、元の純夏に近づけたい、もう一度純夏と話がしたい・・・・。そんな思いでした。
いなくなるくらいだったら、純夏は、純夏のままでよかったのに・・・・・。

新聞には、カワイイ純夏の写真がのっています。

多くの人に、純夏の事を知ってもらえたら幸せです・・・・・。
2007年3月22日 (木)
純夏5年生になります。

この所、仕事やら何やらで色々忙しく、ボーっとする時間もないくらい、毎日せわしなくしていました。
それが良かったのか悪かったのか、昨日少し落ち着いてホッとした途端、急にこみ上げてきて大泣きしました。。。
何も考える余裕がないほど、忙しいほうがいいのかもしれない。

どんなにバタバタしていても、毎朝純夏にお水とお線香をあげて、今日も頑張るからね・・・。って言うのが私の日課です。。
自己満足なんだろうけどね・・・・。

今年で純夏は5年生。
きっと何も変わらず、あの時のまんまの、無邪気な純夏なんだろうなぁ・・・・。

会いたいな。純夏に。抱きしめたいな。声が聞きたいな。


昨日、涼果と二人で家に帰ると、消えていたはずのTVが急につきました。
純夏が来てるのかな?ってすずと話しました。

純夏がいなくなってから、そんな不思議なことがあっても、ぜんぜん驚かないし怖くない。
何かあると、純夏かな?って思ってしまう今日この頃です・・・。
2007年2月27日 (火)
買い物中・・・

今日、夕方買い物をしてた時のこと。

純夏の大好物だった、コーヒーゼリーを買おうと思ったのですが、気に入ったのがなく買うのをやめました。
他のものを買おうとウロウロしていたら、もずく(3つで1パック)になってるものが目に入りました。
以前に、もずくをコーヒーゼリーだと思って、うれしそうにしている純夏の姿が浮かんできました。
コーヒーゼリーの売り場に行ったら、純夏は何を選ぶんだろう・・・とか、
ポテトチップスとチュッパチャップスをやっぱり買うのかな・・・とか。
売り場をあちこちウロウロしている純夏が、頭の中に浮かんできて、急に胸が苦しくなりました。
レジに並んでいるとき、涙が出そうになって、必死でこらえました。
車に戻ってドアを閉めた途端、こらえきれなくなって大泣きしました。。
純夏の色んな表情が、頭の中でグルグル回っていました。

今日は仕事で、利用者さんたちと大笑いしながら、楽しく働いてきました。

楽しかった分だけ、そのあと沈む・・・・・。
やっぱり、これの繰り返しです・・・。
2007年2月19日 (月)
純夏に会いたいな・・・。

週末、涼果とスキーに行ってきました。
ところどころで、純夏が小さい時に一緒に行った時の事が頭に浮かんできて、懐かしい気持ちになりました。
ゲレンデから見る空はとても綺麗で、純夏が空を飛んでいる気がして
「すみか〜〜〜〜!」って呼んでみました。

スキーはとても楽しかったけど、楽しい事の後は、すごく苦しくなる・・・。
自分だけ楽しんで・・・・って、すごい重圧がくるんです・・・。

自宅に戻り、純夏にお線香をあげて少し落ち着きました。。

最近、純夏と過ごした時間が夢のように思えて、今の生活が現実なのか
純夏がいた時間が現実なのか、何だか良くわからなくなってきました・・。
純夏がいつ帰ってくるのか待ってる自分もいたり・・・。
やっぱり、まだ夢の中にいるのかな・・・。

家の写真の純夏は、いつも笑っています。声が聞きたいな。。
2007年1月28日 (日)
6000アクセス

みなさんのおかげで、すみかのお部屋へのアクセスが6000を超えました!
本当にありがとうございます!

去年、とある方からメールを頂き、すみかのお部屋を自分のブログに載せたい!と言って頂きました。
そこから輪が広がり、色々な人にすみかの事を知ってもらえた気がします。

人のつながりって、本当にスゴイなぁ・・・・と思います。

こんな私でも、今まで何とかやってこれたのは、私のまわりにいる人たちのおかげです。人は、一人では生きていけない・・・。
この事を痛感しています。
ここでの日記も、純夏がいなくなった今、何を書いたらいいのか迷うときがあります。
でも、その時々思ったことを、そのまま書いていこうと思い、今に至っています。
これからも、ゆっくりゆっくり書いていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い致します。

純夏が2歳の頃、一時預かりの保育園に純夏を預けて、働きに行っていた時期がありました。お迎えに行った帰り、近くのイトーヨーカドーのパン屋さんで、お豆のパンを食べるのが大好きな純夏でした!

今日、涼果とパン屋さんへ行ったとき、急にその時の事を思い出しました。
その頃の、可愛い純夏の顔が浮かんできて、涙が止まらなくなりました。

もう一度、あの時からやり直せたら・・・・
もっといいママでいられたかも・・・・・・。ごめんね。純夏。。。
2007年1月8日 (月)
年賀状

新しい年になりました。
今年も年賀状は出す気持ちになれず、結局出しませんでした。
時期をずらして、頂いた方には寒中見舞いを出したいと思います。

そんな中、純夏にも1枚だけ年賀状が来ました。

1年生の時の、担任の先生からでした。

とっても、とーーーーーっても嬉しかったです!(涙)
先生、ありがとうございました!

何よりも辛いのは、今まで宛名の部分に純夏の名前があったのが、無くなっている事・・・・。
純夏がいないことが、現実的すぎてすごく寂しい気持ちになります。

まだ、私の心の中では、純夏がいない事が現実的ではないのです。
ずっと現実逃避しています。だから、そのことに気づきたくない・・・・。
気づかないように、だましだまし生きているのです。

先生の年賀状は、本当に嬉しかった。。。

時々、学研かなんかのダイレクトメールが、未だに純夏宛に届きます。
そんな事が嬉しい、バカな私なのでした。
2006年12月18日 (月)
一周忌・・・

昨日、12/17は、純夏の一周忌でした・・・・。
この日が来るのが嫌だった。一周忌なんて考えたくなかったし、思い出したくなかった。でも、あおばの時の先生方、養護学校の先生方、友達・・・・色々な人が純夏の事を忘れずにいてくれて、会いに来てくれたり、綺麗なお花を送ってくれたり、とてもうれしかったです。
たくさんの綺麗なお花の匂いとお線香の匂い。1年前の時と同じ香がしました・・・。
一周忌は、ごくごく身内だけでおこないました。
お寺に行って、お経をあげてもらっている間、ずっと辛かったです・・・。
何も考えないでいようと思っていたけど、純夏の色々な顔が思い浮かんできて、涙が止まらなくなりました。
純夏ごめんね、純夏ごめんね、純夏ごめんね・・・って謝るしかできませんでした。

法要が終わり、ご住職からお話がありました。
その中で、ある詩を紹介され、その歌をきかせてもらいました。
こんな詩です。


「千の風になって」  作者不明

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

千の風に
千の風になって
あの 大きな空を
吹きわたっています

あの 大きな空を
吹きわたっています


ステキな詩だなぁ・・・って思いました。

もしも、本当にこの詩の通りだったら、空の上から、いつも純夏は私達を見守ってくれているのかな。病気の苦しみなんかも、すっかりなくなって、
幸せでいるのかな・・・
こっちの世界よりも、純夏は幸せなのかな・・・
純夏が幸せならそれでいい。純夏が楽しいなら・・・純夏が喜んでいるのなら・・・純夏が苦しくないのならそれでいい。

純夏を亡くしてしまった罪は一生消えないけど、残された者がどうやって生きていったらいいのか、その答えを探しながら、最後まで生きていこうと思いました。

様々な人に支えられて、何とか1年過ごすことができました。
ありがとうございました。
2006年12月2日 (土)
魔の12月が・・・・

とうとう、12月になってしまいました・・・・。

早いもので、もう1年が経つんですね。。。
弁護士さんに断られて以来、何もしてないな・・・・・。

天国で、純夏はどうしているんだろう。
どうしてほしいと思っているんだろう。

自分はどうしたいんだろう。。。。

よくわからなくなってきました。

当時の事をあまり思い出さないように、無理やり予定を詰め込んで、考える暇を作らないようにしています。

苦しそうな純夏の顔。息を引き取る最後の純夏の顔。まだ温かかった純夏。

まだまだ鮮明に覚えています。

本当にごめんね、純夏。。苦しい思いをさせてしまって・・・・・。
2006年11月11日 (土)
純夏・・・・。

日記が久しぶりになってしまった。。。
何を書こうかなぁ・・・・と思っているうちに月日は経ち、来月は純夏の1周忌です・・・。

純夏、死んじゃったんだなぁ・・・・・・って、また認めなければならない。
そんなのわかってるけど、わかりたくない。。。
自分達のせいで、純夏を死なせてしまった罪は重い・・・・。
純夏を治したい一心だったけど、みんな、純夏の為に頑張ったんだから・・・とか言うけど、死んでしまった事実は変えられない・・・・。

泣いて暮らしても、純夏は帰ってこない。
明るく暮らしても、純夏は帰ってこない。
がんばって暮らしても、純夏は帰ってこない。

人が死ぬというのは、こういう事なんだ・・・。もう2度と会えないという事なんだ・・・・。

命は大切にしなくてはいけない。

時々、本当に生きているのが辛い時がある。純夏が迎えに迎えに来てくれないかな・・・って思う時がある。
死んでしまった方が楽になれるのかな・・・って思う時もある。

でも、純夏を死なせてしまった罪から逃げるわけにはいかない。。。
その罪を背負って、最後まで生きることが償いになると思うから。。。

そう自分に言い聞かせつつ、今日も一日が始まる・・・。

さっき、この日記を書いている時にすずが起きてきて、泣いているのを見られてしまったけど、
すずは何も言わずいつも通りにしてくれた。
ありがとう。すず。ごめんね・・・・。
2006年10月13日 (金)
純夏に会いたいな・・・。

みなさんのおかげで、「すみかのお部屋」が5000アクセスを超えました。本当にありがとうございます!これからも、どうぞよろしくお願いします。

純夏の事を色々書きたいと思っても、過去の事を振り返るのは辛く、なかなか書けません。私の泣き言ばかりになってしまって・・・・。

あっという間に、もう10月。もう少しで12月になってしまう。。。

この頃、正直本当に辛いです・・・。
泣く回数が増えてる。。人には偉そうな事を言っていますが、自分は・・・

ふっと、消えたくなる。家にいるのが辛い。一人になりたくない。
何もしたくない。私をとりまく環境が全部イヤ。投げ出したい。
色んな思いが頭をめぐります・・・。

でも、そんな風に思う自分もイヤで、自分を見失わないようにするので精一杯。頭を切り替え切り替え頑張っています。

夏の入院中、自分の事を色々考えていましたが、やっぱり福祉に関わっていきたいと思い、まずホームヘルパー2級の資格をとろうと勉強を始めています。

この先、人の役にたつような事をしていきたい。困っている人がいたら、何か力になってあげたい。
そうする事が、純夏への愛情であり、償いになるのかな・・・なんて勝手に思っています。

純夏の事は、もう取り返しがつかないけど、たぶんずっと引きずっていくと思うけど、何とか生きていかなければ・・・。
2006年10月4日 (水)
うれしかったこと

今日は、純夏が1年生の時に担任だった先生が、ご家族でいらしてくれました。純夏が大好きだったノンタンを連れて、純夏に会いに来てくれました。
1年生の時に、とってもお世話になった先生で、純夏も私も大好きな先生です。部屋中の純夏の写真を見て、すみちゃん可愛いなぁ〜って言ってくれて・・・。いつまでも純夏の事を思っていてくれて、本当にありがたいなと思いました。今日頂いたノンタンは、車が好きだった純夏の代わりに、車に乗せて、一緒にドライブしたいと思います。
先生のお子さんも、とっても可愛かったです!
新しい命、やさしいご両親。
とっても温かい気持ちになりました。本当にありがとうございました!

純夏の話をするのは楽しくて、ぜんぜんつらくありません。
辛いのは、その純夏がいない・・・ということにふと気づいたとき・・・。
みんなに可愛がってもらっていた純夏。その純夏を、この世から消してしまった責任の重さが、月日が経つにつれ重くのしかかってきます。

とっても純夏に会いたいです・・・・。
2006年9月30日 (土)
今日は・・・

純夏の通っていた養護学校の運動会でした。
見に行ったわけではありません。予定は知っていましたが、とうてい見に行く気分にはなれませんでした・・・。

今年は、どんな運動会だったんだろう。

純夏が出ていたら、どんなだったのかな・・・。

同級生達は、みんな頑張ったのかな。。


近いうちに、1年生のときに担任だった先生が、純夏に会いに来てくれます。
いつまでも気にかけてくれて、本当にありがたいな・・・と思います。

あと2ヶ月で、純夏が亡くなってから1年が経ちます。

すごく気が重い・・・。1周忌やらないといけないのかな。やっぱり・・・。

やだな。すごくやだな。。12月なんてこなくていいのに・・・。
2006年9月20日 (水)
純夏の写真

この頃、純夏の写真を見るのが少し辛い・・・。

当時の事がよみがえってきて、ぐっと苦しくなる事が多いのです。

あんなに苦しい思いをさせてしまったのに、自分が普通に生活してること自体が許せなくなる・・・。

脱薬をしたことで純夏は亡くなったんだけど、それを証明することは、かなり難しいらしい。私達なりに、半年間かけて色々調べたり、相談にいったりしたけど、結局どうにもならない。
脱薬を指示した人間は、今もかわらず生活しているのだろう。
信じた私達が悪かったのかもしれない・・・。でも、何とか治してやりたい!そんな一心でいた私達に、脱薬をけしかけたその人間は悪くないのだろうか・・・・。医者でもないのに、薬をやめなさい!と言ったその行為は、医療行為ではないのか・・・。
核心をつけるような証拠がないので、今のところどうにもならない。
でも、何とかしたい。気持ちばかりが焦ります・・・。

なにか良いアドバイスがいただけたら。。。と思います。
2006年9月13日 (水)
この頃・・・

ちょっと気持ちが沈みがち・・・。
毎日、普通に暮らしているが、何か気分が悪い・・・。

毎朝、純夏にお水とお線香をあげて、今日も一日頑張るから、見守っててねと言う。
そして、よし!今日も頑張るぞ!!と気合を入れる。
これが、私の一日の始まりです。

でも、このところ気合が入らない・・・。
疲れてるのかな。。

気分転換が必要なのかもしれない。

江原啓之さんの本を色々読んだりして、共感できる部分はありました。
でも、やっぱり純夏に会いたいと思ってしまうし、自分を責める気持ちは消えないし、脱薬を指示した人間を許すことはできないし・・・。

まだまだ辛いなぁ・・・。時々、ホントに消えたくなる。。
生きていくのが辛すぎて、耐えられない時がある。

人前では泣かないと心に決めているので、そんな時は、たいてい一人で泣く。泣いたって、純夏は帰ってこないのにね・・・。
2006年8月31日 (木)
純夏の夢を見ました・・・・泣

久しぶりに純夏の夢を見ました。

夢の中でも純夏は亡くなっていて、でも亡くなったはずなのに純夏は家にいるんです。それは最後の時の純夏と同じ状態で・・・・。
足はもう突っ張っていて硬く冷たくなっていて、当然意識もなく・・・。

でも、私はあきらめず、純夏にフウ〜って息を吹きかけていました。

そしたら、純夏が生き返ったんです!

足も温かくなってきて目を覚ましたんです。

やった!!やっぱり亡くなってなかったんだ!!!って大喜びしてる時、目が覚めました・・・・・。ついさっきです。。

目が覚めて、パパに純夏の夢を見た!って言ったとたん、号泣・・・・・。
まだ、涙が止まりません・・・。

時をもう一度戻せたら・・・・って思います。
どうしようもないのに・・・・。(涙)
2006年8月26日 (土)
退院しました。

24日に、無事に退院しました。病名は、卵巣のう腫ではなく、卵巣腫瘍でした。予想より大きな腫瘍と一緒に右側の卵巣も取りました。経過は良好です。ありがとうございました!
これで、また日記を再開することができます!!

術後、不思議な夢を見ました。

ふと目が覚めると、足元に白っぽい人が座っていて、何かしゃべっています。よく聞き取れなかったのですが、最後に「感謝しましょう」「合掌」
といって、手を合わせたので、私も合掌しました。そこで目が覚めました。
全体的に白っぽく光っていて、きれいな夢でした。
全然怖さはありませんでした。
目が覚めてから、純夏だったのかな?と思ったけど、違うみたいです。
ちょっと残念・・・。入院中も、純夏は出てきてくれませんでした。。。。

手術が無事に終わって、感謝しなさい・・・。ってことなのかと思いました。これからも、感謝の気持ちを忘れず、持ち続けていこうと思いました。

入院中、たくさん本を読んだりして、色々な事を考えていました。
自分を見つめなおす機会に恵まれたと思って、感謝したいと思います。

ありがとうございました。
2006年8月14日 (月)
ママも入院

明日から私が入院します。。
以前から決まっていたのですが、卵巣のう腫で右の卵巣を取る手術をします。
初めての手術なので、少しドキドキしていますが、純夏がついていてくれている・・と思うと、思ったより冷静です。
そう、きっと純夏は私のそばにいて守ってくれる・・・て、勝手に思っています。
月末には退院できると思いますが、少し日記をお休みします。
9月には復活できると思いますので、またよろしくお願いします!
2006年8月3日 (木)
静かな夏休み・・・

今までの生活とは、天と地ほど違うこの生活。

夏休みは、ほとんど毎日純夏が近くにいて、どこに行くにもいつも一緒。

今は、一人・・・。今も一人・・・。

午後は色々やることがあったけど、なんだかやる気になれず、2階で一人泣いてしまった・・・・。
やっぱり大丈夫じゃない。。純夏がいなくて寂しい。。
って、心の中で叫んだ・・・。

時間が解決するっていうけど、今のところ時間と共に、辛さが増してきている・・・。こんなんで、この先やっていけるのかな。。。

もう、どうでもいいや!
でも、頑張らなくちゃ・・・。って、いつもこの繰り返しだ。。。

純夏、夢でもいいから出てきて、ママに何とか言ってよ・・・。
どうしたらいいのか、わかんなくなってきちゃったよ・・・・。

ダメなママでごめんね、純夏。
2006年7月21日 (金)
純夏のいない夏休み

今日から、涼果が夏休みに入った。
夏休みか〜・・・・。

例年なら、ながーい夏休み、純夏とずっと一緒なので、何をしようかなぁ〜とあれこれ考えていました。実家へ逃げるか、ドライブでも行くか、友達のところへいって・・・・などなど。。。学校のプールや、お楽しみ会なんかが、唯一ホッとできる時間だった。外へ連れて行っても、普通の子供達と同じ場所にいるのは、やっぱり気を使って疲れるので、障がい児の親は家にこもりがちになります。私は、結構外へ連れて行ったほうだと思うけど、やっぱり疲れる。。。だから、ついドライブとか、同じ境遇のお友達の家とか、限られた場所での行動になってしまいます。パパが休みの時は、しらこばとプールにもよく行ったっけなぁ・・・・。
去年は、純夏は本当に車が好きで、家の駐車場に停まってる車にも乗り込んでいました。純夏にとっても、落ち着く場所だったみたい。私も運転が好きなので、ちょうど良かったのかも・・・。私と純夏が落ち着く場所は車の中だったかもしれませんね・・・。
だから今でも、運転中は純夏の事をよく思い出します。となりで、「あーーーーと鏡を見ながらニコニコ楽しそうな純夏」「私のハンドルの持ち方が気に入らず、左手の位置をいつも直す純夏」「窓から身体を乗り出し、風にあたるのが好きな純夏」「大好きなポテトチップスをちぎって私に食べろ〜としつこくおしつける純夏」「ペットボトルのお茶を、ふたを開けたままにして、すぐこぼす純夏」「運転中なのに、ほっぺにちゅうーーーってしてくる純夏」「降りるよ〜ってドアを開けても、嫌がって自分で閉めちゃう純夏」「シートベルトが好きで、私のシートベルトまでチェックしてくれる純夏」

そんな純夏は、もういない・・・・・。一人で運転するのは寂しいよ・・・。
横で、純夏にあれこれ邪魔されながら運転するのが結構好きだった。。。
渋滞にはまっても、純夏がいたから飽きなかった・・・。

今年の夏はどうやって過ごすかな・・・。純夏のいない夏休みか・・・・。
夢のようだな・・・・・・・・・・・・。
2006年7月16日 (日)
送り火

今年は新盆・・・・
13日に迎え火を焚いて、純夏を迎えました。
そろそろ火が消えるかなぁ・・・・という時、ピンポーン・・・・
とインターホンの音がしました。誰も押してないのに・・・・・。
いつもよりも小さい音でした。純夏が来たのかな〜?だったらうれしい。
お盆の間、その音以来純夏を感じることはなく、とうとう夢にも出てきてくれませんでした。
今日は送り火を焚く日です。
また、純夏が音をならしてくれないかな・・・・。
もし、家にいるのなら、ずっといてくれていいのに・・・・。

寂しいよ、純夏。。 会いたいよ、純夏。。ママも一緒に行きたいよ。。。
2006年7月7日 (金)
7年前の七夕

7年前の今日の朝、小児医療センターから電話があり、純夏の呼吸が止まったので、人工呼吸器つけましたと言われました。

あわてて病院へ行くと、機械でなんとか生きている純夏・・・・。

ドラマのようでした・・・・。

ちょうど、七夕ということで、病院にも短冊が飾られていて、おじいちゃんとパパと3人で、泣きながら願い事を書きました。

純夏がよくなりますように・・・・って・・・・・。。。。

私達の七夕の思い出は、それしかありません。。。

笹の飾りを見るたび、その時のことを思い出します・・・・。
2006年7月3日 (月)
純夏10歳

今日は、純夏の10歳のお誕生日です。

昨年の7/3は、純夏と涼果と上野の恐竜博に行ったと、この日記に書きました。
日記に最後に、純夏が自分の誕生日が理解できて、一緒に楽しめる日が来るといいな・・・・・みたいな事書いたような気がします。

今年は、純夏のいないお誕生日。。。

ケーキを買って、純夏にあげようと思います。昨日、大好きだったスイカも
もらったし。

夕方は、純夏の学校の担任の先生が来てくださる予定です。

誕生日を覚えていてくれて、すごくうれしい!

いつまでも、いつまでも、純夏の事忘れないでいてほしいな・・・。
2006年7月1日 (土)
この時期・・・・

7月は思いでが多すぎて、色々なことを思い出します。

純夏が2歳の今頃、熱があがったり、さがったりを繰り返していて
なんか、しつこいなぁ・・・・なんて思っていた。

3日の純夏の誕生日、ケーキを少し食べたっけ・・・。
せっかくの誕生日なのに、熱でかわいそうだった。

4日の朝、パパが仕事で早く家をでたけど、純夏は起きてきて、玄関の所で
パパいってらっしゃーい!って言ってた。

その後、熱がまた上がり、その日の夕方痙攣を起こして救急車で運ばれた。

そう。あの時病気になったりしなければ、今も純夏はいたはずなのに・・・。

純夏ごめんね。。会いたいよ。。。。。
2006年6月22日 (木)
思い出したこと・・・

純夏が6才くらいの時だったかな。
療育センターに通ってる事があって、その時の小児科診察をしてくれた先生のお話・・・・。

病後のすみかは、とてもパパっこで、ママの存在はとても薄かったんです。というか、なかったかもしれません。。。
パパがいると、私に寄り付きもせず、お風呂も一緒に入ってくれず、手をつなごうとしてもはらわれたりといった感じでした。

もう、パパ一筋だったんです。

あおば学園に通いだして、少しずつ視野が広がり、あおばの先生にもなつくようになりましたが、そんな中でも、私の存在は薄く、私よりも先生の方が良かった時期がありました。

先生達が、私の方に目を向けるように、色々努力をしてくれましたが、ほとんど無駄でした。
私はその当時、それがショックというよりは、私の方に来ないならそれでもいい。と思っていました。
いつも、私はすみかの面倒をみてるし、パパになついてくれれば楽だし・・・・といった、少し冷めた感情がありました。
きっと、純夏はそんな私の心をわかっていたのだと思うのです。

そして、その小児科の先生の話ですが・・・。

すみかみたいな子供は、本気でぶつかっていかないと心に響かない。
何かを伝えたい時は、心から純夏に愛情を持って接しないと通じないんですよ。という事を言われたのです。(言葉のニュアンスはちがうかもしれないけど)
この時、私はハッとしたんです。
私は、純夏がなつかなくても別にいいやーって、冷めた気持ちがあったんです。本気で、純夏に関わっていたのか?と思いました・・・・。
先生の話を聞きながら、自分が情けなくて涙が出ました。
これじゃいけない!と・・・・。

次の日の朝から、私は純夏にやりだした事があります。

朝起きたとき、純夏の目を見て、目が合うのを確認して「おはよう!」って言う。これを続けていこう!と思いました。

はじめは、純夏!と呼んでも反応はなく、無理やり顔を向けて私の方を見させ、目が合うのを待って「おはよう!」と言いました。
しばらくこんなことを続けていたある日、いつものように「純夏!」と呼ぶと、フッとこっちを向いてくれるようになったんです。

この時のうれしさ・・・・・。本当にうれしかった!泣

やっと、純夏は私の事を認識してくれたんです。

そんな事がきっかけで、少しずつ少しずつ、私のことも理解してくれるようになってきたように思います。
それでも、最後まで純夏はパパっ子でした。私の事を、ママと認識したかは
未だにわかりません。でも、いつも自分のそばにいる、特別な存在なのかも?という認識は持ってくれていたんじゃないかな?と思っています。
なぜかというと、学校に迎えにいった時など、私を見つけるとニコっと笑って寄ってきてくれるようになっていたからです。

まぁ、パパが迎えに行った時は、ぜんぜん別人になる純夏でしたが・・・笑

あの時、先生に言われなければ、私はずっと気が付かないまま過ごしていたかもしれません。先生に出会えてよかったと、感謝しています。
2006年6月17日 (土)
月命日

今日は純夏の月命日・・・・。それも、あの時と同じ土曜日。

あれから半年か・・・・。

純夏がいる時から、我が家は人がよく集まってくれて、とてもにぎやかでした。純夏がいなくなった今でも、かわらず人が集まってくれます。

私やすずが寂しくないように、純夏がそうしてくれたのだと最近思います・・・。

昨夜も、ここに引っ越す前に住んでいた谷塚のお友達からお誘いがあり、懐かしい仲間と再会しました。純夏が病気をする前からのお友達です。子供達は、みんな大きくなっていたけれど、面影は昔のまま。当時のことを色々思い出しました。

谷塚時代に住んでいたアパート、よく遊んだ公園、純夏と過ごした町・・・

色々な思いが溢れてきて、こらえても涙が止まりませんでした。。。

すごく純夏に会いたくなりました。

さっき、純夏にあげていたお菓子がパタッと落ちました。純夏、近くに
いるのかな・・・。会いたいな・・・・純夏に。。。
2006年6月4日 (日)
海を見ながら・・・。

週末、海を見に横須賀へ行ってきました。私の地元です。私は海が大好きで、昔から何かあると海を見に行っていました。埼玉には海がないので、それが寂しいのですが・・・。
広い広い海を見ながら、純夏の事を思い出し、色々な事を考えました。

純夏のこと、涼果のこと、パパの事、自分の事・・・・。

純夏が死んでしまったことの意味。
純夏は、私に色々な事を教えてくれます。私がもっとしっかりしていれば、
こんなことにはならなかったのかもしれない。
今も、純夏は私に何かを教えてくれています。そして、自分はどうしたらいいのか。真剣に考えています。

友達にこんなことを言われました。
死んだら人は生まれ変わる。何度も何度も生まれ変わって、現世の人に何かを伝えようとしている。純夏もそうなんじゃないかって。
私に何かを伝えるために、あの子は生まれてきたんじゃないか・・・・。

純夏が生まれてから亡くなるまで、私は本当に色々な事を教えられた。
純夏が病気になった時、純夏のおかげで知らなかった世界を見ることが出来た。私自身の考え方も大きく変わった。それからも、ずっとずっとあの子は
私に教えようとしてくれている。私のようなダメな人間に、ことごとく純夏は教えようとしてくれる。本当に、純夏はなんてすごい子供なんだろう・・・。私の子供として生まれてきてくれたことに、今更だけど感謝したい。ありがとうね、純夏。  ママがんばるよ・・・。

この週末、私とかかわってくれたお友達。。
みんなのおかげで、少し心が軽くなりました。。本当にありがとう・・・。
2006年5月27日 (土)
純夏・・・。

最近、純夏のいる1階の和室で寝ることが多く、みんなでゴロ寝をしています。。(寝室は2階にありますが、みんな純夏のそばにいたいのです・・)

いつも、純夏に頭を向けて寝るのですが、昨日は反対側になって寝ていました。横になったら、壁一面の純夏の写真が目に飛び込んできて、なんだか
眠れなくなりました・・・。

この部屋には、純夏がたくさんいる。
でも、目の前にはいない・・・・。なんて事をしばらく考えていました。。

純夏がこの世にいない・・・なんて、まだ信じられず、まだまだ夢の中をさまよっている感じです。

だから、時々突きつけられる現実に、いったいどっちが夢なんだろう・・・
と思ってしまいます・・・。。

昨日、運転中に大きな川の横を走っていたのですが、無性に叫びたくなって、思わず「すみかーーー!」「ごめんねーーーー・・・・・!!!」
と叫びました。その後、しばらく泣きながら運転していました。
ホントは、大好きな海で叫びたかったな・・・・。

バイク通勤をしているパパも、時々「すみかーーー」って、叫びながら運転してるって・・・・
思うことは同じなんだね・・・・。
2006年5月23日 (火)
純夏がいた?

今日はなんだか、純夏を思い出してたくさん泣いてしまった・・・。

8月に、手術をする予定があるのだけど、変な話、何か間違いがあって
もし私が死んでしまってもいいかな・・・・って思ったりして。。。
こんなこと考えてはいけないのかもしれないけど、パパに言ったら、なんとなくわかるって・・・・。
もしも、私が死んだら、そのときは純夏と一緒にお墓に入ってもいいいかなって思った。

そんなことを思っていたからかもしれないけど、今日は純夏の気配を感じた。

部屋でPCをさわっていた時、なにやら物音が・・・。玄関か2階からから
聞こえたような気がする。

近くにパパもいて、「今、なにか音がしたよね〜・・・」ってお互いに。

その少し後、二人でTVを見ていたら、冷蔵庫にはめてあるティッシュが
ポトリと落ち・・・。また、あれ??って。

純夏いるのかな〜・・・・と思い、純夏がいつも座っていた場所に、
ゼリーを置きました。食べてくれたかな・・・・。

幽霊でもいいから、純夏にもう一度会いたいね・・・とパパと話していました。
2006年5月12日 (金)
純夏に会いたい・・・。

この頃、気持ちが緩んでいるせいか、すぐ涙がこぼれます・・・。
食事中、あー純夏がこの席に座っていたな〜と思ったとたん・・・。
運転中、いつも隣にいたなぁって思ったとたん・・・。
ベッドで、純夏いつもゴロゴロしてたな〜って思ったとたん・・・。
玄関で、大好きな鏡、いつも見てたなぁって思ったとたん・・・。

純夏に会いたい。純夏に会いたい。純夏に会いたい。

どう頑張ったら、純夏に会えるんだろうか・・・。

本当に純夏の存在は大きかった。

涼果が1年生になり、あまり手がかからなくなってきて、私一人で
行動することが多くなってきました。今日も、お友達の所に泊まりに行っているので、家には私一人です。

ぽっかり開いてしまった心の穴は、どうしても埋まらない。。。
涼果がいても埋まらない・・・。
純夏でないと埋まらない・・・。

この思い、一生かけて埋めていかなければならないのだろうか。。。

子供を亡くすというのは、こんなにも辛いことなのか。
あの世で純夏に会えると思うと、死ぬことは怖くないと思うようになった。

でも、私はまだ死なない。
最後の最後まで、純夏が死んでしまった意味を見つけるまで、苦しい思いと
共に生きていくつもりです。それが、今の私にできる、純夏への償いだと
思うから・・・。
2006年4月23日 (日)
純夏と過ごした時間

純夏がいなくなって、4ヶ月が過ぎてしまいました・・・。
すずかの生活のペースに押されて、純夏のことを話す事が少なくなっているような気がします・・・。もっともっと純夏の話をしたい。。。
この頃、純夏と過ごした9年間が、夢のように思えてなりません・・・。
今日も、すずと二人で自転車にのって近所の公園まで行きました。純夏がいたら、自転車は不可能だし、車で行動しても車から降りない純夏だったので、公園で遊ぶなんて事もなかなか難しいことでした。外食ひとつにしても、混んでいたりすると待っていられなかったから、すいている時間を気にして行ったり・・・。すずに、今日はこれがしたい!と言われても、純夏には無理な事で、すずにガマンしてもらったり・・・。それが最近は、気にせず行動できてしまう・・・。これが当たり前なのかもしれないけど、私にとっては不自然でなりません・・・。
公園で、楽しそうに遊ぶ家族4人の姿を見て、つい涙してしまいました・・・。すずに泣いたのがばれてしまったけど、すずはちょっと待っててね!と、タンポポをつんできてくれました。ホントに、すずはやさしい子です。病後の純夏と過ごした6年。。
私にとってはカケガイのない時間。。でも、時々自分は何をしてきたんだろう・・・・とわからなくなる時があります。現実に、もっともっと純夏を感じたい。部屋中に飾られた純夏の写真・・・。純夏の色々な顔がすぐに見られるのはうれしいけど、時々すごく苦しくなります・・・。できない事だとわかっていても、もう一度純夏を抱きしめたい。やわらかい純夏の感触。。
ずっと忘れたくない。。
2006年4月16日 (日)
やっぱり会いに行ってきました。

夜中、パパが「最後に会ってきた方がいいよ!すずは自分がみてるから・・・」と言ってくれたので、急遽、大阪に行ってきました。
とても可愛いお顔で、眠っているようでした。短い生涯だったけれども、本当にみんなから愛され、一生懸命生きてきたのだな・・・・と感じました。
これからも、ずっとずっと忘れない。みんなの心の中に生き続けているのだから・・。本当に会いに行って良かった・・・。ありがとう・・・・・。

家に戻って、すぐ純夏に手を合わせました。涙が溢れて止まりませんでした・・・。純夏の人生を、私達が壊してしまった・・・。そんな思いがあふれてきて、何度も何度も純夏に謝りました・・・。純夏に会いたい。。。。
2006年4月15日 (土)
悲しい知らせ・・・・

今朝早くメールで、大阪の純夏のお友達が亡くなったという知らせが入りました・・・。6歳でした。生まれつき重度のてんかんを持つ子で、すずかと同い年。純夏が入院した時、同じ病棟で知り合いました。同じ時期に、発作に苦しんでいた二人。当時の事が、鮮明に思い出されます・・・。
最近、ご主人の転勤が決まって、またこちらに戻るといった矢先の出来事だったそうです。こちらに戻ってきてからの病院のことなど、ママは不安に思っていたそうですが、「何も心配せずに東京に戻って・・・」と星になることを決めたのではないか・・・とのママの言葉。。最後まで、どこまでも親孝行な息子でした・・・と。いつもどんな時も自分の事を助け、息子に感謝しているとのママの言葉。。胸に突き刺さります・・・。
愛する子供を失う悲しさ、寂しさ、苦しさ、やりきれなさ・・・
とても言葉で表せるものではありません。でも、私は絶対に忘れたくない。
短い人生だったけれども、精一杯愛情を受けて精一杯頑張って生きてきた。
その子の事を、ずっとずっと忘れたくない。
純夏とその子は、顔を合わせることはあまりなかったけど、これからは、お空の上で、純夏と仲良く遊んでくれるかな・・・。
最後にお顔が見られなかったのがとても残念です。。本当は、大阪に飛んで行きたかったです。ごめんね・・・。
2006年4月1日 (土)
担任の先生

昨日、純夏の担任の先生方が4人、家に来て下さいました。
その数日前、別の日記に、「最近、純夏を感じないな〜・・ずっとそばにいてくれていいのに・・・」なんて書いている途中電話がなり、出ると先生からで・・・。あ〜純夏が呼んでくれたんだとすごくうれしくなりました(泣)
やっぱり、純夏はいつもそばにいるんだ!と思いました。
家で先生達と話している途中、柱に貼ってある星のシールが急にはがれ落ち!!みんなで、純夏がやったな〜と驚きと笑い・・・。純夏はシールをはがすのが大好きだったんです。学校にも、純夏は行っているらしく、同じクラスだったお友達も、あちこちで純夏を感じてくれているみたいです。
4月から新学期、教室に純夏の物は無くなります。でも、先生は「純夏の事はずっと忘れない!」と言って下さいました。親として、こんなにうれしい事はありません・・・。本当にありがとうございました!!
2006年3月12日 (日)
すみかの写真

ジオログに、すみかの写真をのせました。
パパの宝物の中の写真から、少しずつのせていきたいと思います。
すみかをいつまでも感じていたいから・・・。
2006年3月7日 (火)
みなさん、ありがとうございます。

縁あって、すみかの事を多くの人に知ってもらえる事ができ、本当にうれしいです。みなさんのおかげだと、感謝しています・・・。
ありがとうございます。
少し元気が出たと思ったら、また落ち込んで・・・その繰り返しで日々過ごしています。まだまだ、苦しい思いに押し潰されそうになります・・・。
でも、みなさんが、本当にやさしいメッセージを残してくれるので、読むたびに気持ちが救われます。
すみかのいる部屋には、パパが、すみかの写真をたくさん飾り、すみかの笑顔がいっぱいの部屋になっています。写真のすみかは、本当に良い笑顔で、見るたびに、その時の思い出がよみがえってきます。
ビデオで撮ったものを、良い表情の所で止めて、PCにたくさん保存してあるんです。パパの宝物です。
すみかがいなくなってから、すずかの前でよく泣いてしまうのですが、
すずかはやさしくて、私達が泣いていると、おちゃらけて笑わそうとしてくれます。泣いてもいいよって言ってくれます。そんな言葉に甘えて、毎日泣いていたら、ある時、「すずかのことも忘れないでね」って、はにかんだ様な顔で言われました。あぁ・・すずかに寂しい思いをさせてしまったと、本当にすずかが愛しくなりました。すずかも最近すごく甘えっ子になって、わがままを言うことが多いのですが、そんなすずかも、ありのまま受け止めたいと思ってます。私達が辛い時、なんとか元気でいられるのは、すずかの存在のおかげなのですから・・・。
2006年2月24日 (金)
もう2ヶ月も・・・

純夏がいなくなっても、日々は流れ・・・もう2ヶ月も過ぎてしまいました。
家にいても、外にいても、まだ純夏の姿を探してしまいます。
会いたいな・・・純夏に。。
2006年2月1日 (水)
四十九日が終わりました

1/30に、純夏の四十九日を終えました。納骨はせず、ずっと家に置いておくつもりです。とても、純夏一人をお墓にいれる気にはなれません・・・。
日にちが経つにつれ、後悔の念や、自分自身の不甲斐なさに、本当に情けなさを感じます。このままでは終われない・・・。何故純夏が死ぬような事になってしまったのか、何故私たちが脱薬に踏み切ったのか・・・。
ひとつひとつクリアにしていきたいです。
最近、主人と言うことは、早く年をとりたいねって・・。そうしたら、早く純夏に会えるのに・・・。純夏に会いたい、もう一度あの可愛い笑顔を見たい!抱きしめたい!いてくれるだけで良かった。本当にただいてくれるだけで良かったのに。死んでから気づいても遅いですね・・・。純夏本当にごめんね・・・。ママ達を許してくれているのかな・・・。
2006年1月22日 (日)
純夏が死にました・・・

熊本へ行って、構造医学の創始者である吉田先生の指示で薬をやめ、先生の指示通り、頭部の冷却をしながら、夜も寝ずに自宅で必死に看病していたのですが、12/17、自宅で呼吸が止まり、あわてて救急車を呼んで、人工呼吸と心マッサージをしながら近くの救急病院へ行きましたが、そのまま純夏は亡くなりました・・・。てんかん発作の重積ということでした・・・。まだ、信じられません。。
こんなことになるなんて・・・。少しでも純夏を良くしてあげたい!その一念で今までやってきたのに、ほんとにこんな事になってしまって、親として自分を責める毎日です。苦しいです・・・。
薬をやめることで、少しでも、命の危険があると言ってくれていたら、絶対にこんな事にはならなかった。苦しくても、今を乗り切れば何とかなる・・・。先生を信じて頑張っていたのに。薬を切っても大丈夫だ!と言われ、途中不安で薬を半量に戻した時も、親の覚悟が足りない!と突き放したように叱りを受け・・・。
もう一度気を入れなおし、純夏のためだと思って頑張ったのに・・・。
結局、純夏に苦しい思いをさせて死なせてしまった・・・。私たちは、どうやって純夏に詫びればいいのか・・・。毎日、どうしようもない思いに苦しんでいます。でも、でも、純夏はもっともっと苦しい思いをしてしまった。
次女のすずかがいなければ、私たちは生きていられないでしょう・・・。
すずかが、私たちの心の支えになっています。
純夏の最後の顔は、とってもきれいで、眠っているようでした。死んだなんて、とても信じられないほど、穏やかで安らかな、かわいい顔でした・・・。お花にかこまれて、白雪姫のようなかわいいお顔でした・・・。
純夏の存在は大きく、私は毎日ポケー・・・っと暮らしています。
純夏に謝りたい。純夏は許してくれているのかな・・・純夏に会いたい・・・。そんな事を思う毎日です・・・。純夏がいなくなって、私達が純夏の世話をして純夏が生きていると思っていたけど、私が純夏に生かされていたのだと痛感しています。いてくれるだけで良かったのに・・・。
本当に苦しい・・・。純夏ごめんね・・・。。。
2005年12月16日 (金)
構造医学開始

12月7.8日で、熊本にある、構造医学の権威の先生の所へ行って来て、私達は、純夏に飲ませている薬をやめる決心をしました。今、脱薬中です。家で、付きっきりで純夏をみています。しばらく落ちつかない生活が続くと思います。
このHPも、しばらくお休みすると思います。もう少し純夏の状態が落ち着いたら、
また日記を再開したいと思うので、その時はよろしくお願いします。
どうか、純夏の脱薬が上手くいくように祈っていて下さい。。ではまた。
2005年11月25日 (金)
調子が戻ってきました〜

11月はずっと調子が悪かった純夏ですが、やっと発作がおさまり調子が戻ってきました。しばらく飲むのをやめていた「核酸のルナRNAの錠剤」を15日からまた飲ませ始めました。丁度安く買える時期だったので、1年分買いました。飲ませ始めて2日後の17日から、発作がでなくなり今日で1週間です。てんかんの薬は何も変えていないので、これってやっぱりRNAルナのおかげかなーーー?!
思えば、RNAルナを飲むのをやめてから調子が悪いかも・・・。何にせよ、もう少し様子を見る事にします。でも、発作が無いと本当に平和です。
ただ、意思表示が強くなってきたので、イヤーーー!!!となると、座りこんだり、ひっくり返ったり、ぶったり・・と抵抗するので、これが重くて・・・動かすのが大変です。でも、発作でボーっとしてるよりはいいかな・・・笑
26日は、学校の文化祭で、小人の衣装を着て、なにかやるらしい。先生のあやつり人形になっていそうだけど、楽しくやってくれるといいな・・・。
発作無しに記録はどこまで伸びるか・・・。またお知らせします。(^0^)
しかし、「核酸」って、てんかんに良いかも。。困ってる人がいたら教えてあげたいです。その他の病気にも、結構効くみたいですけどね。ガンとか、糖尿病とか、ボケなんかにも・・・。
2005年11月3日 (木)
初めての入所施設見学

昨日、初めて入所施設見学にいきました。となり町の、今年4月に出来たばかりの綺麗な施設でした。入所利用人数は50名。個室と、2人部屋がありました。とても綺麗で利用者さんは穏やかに生活している感じでした。でも、綺麗過ぎて少し殺風景な印象。絵でも飾ったりしないのかなぁなんて思ったり。病院みたいだなぁ・・・と思ってしまいました。純夏が大人になって、私達両親が介護できなくなった時、こういうところで純夏は生活するのか・・と思ったら、何やらとても悲しくなって、久しぶりに涙が出ました。自分達が死んでしまって、どうしようも無くなった時はしょうがないけど、できるなら最後まで、家族の中で一緒にいさせてやりたいと思いました・・・。願わくば、私達の寿命と、純夏の寿命が同じだったらいいのに・・と。。。そしたら、一緒に連れていけるのになぁ・・・
これからも、施設見学は色々行くつもりです。小規模で、アットホームな感じの施設が増えるとうれしいです。と、今日はちょっと気持ちがブルー・・・。
10月は、純夏の状態があまり良くなく、少しお疲れ気味の私です。今月になって、少しずつ落ちついてきたかな〜・・。左前頭葉からの発作が多いと、ダメージが大きく、できることも一時的にできなくなってしまうんです。今は、抵抗の時期なのか、なかなか純夏を動かすのは大変です。でも、もう一息の辛抱かな。めげずにガンバロ!!(^0^)
2005年10月4日 (火)
養護学校、3度目の運動会!

2005年10月1日(土)、養護学校の運動会がありました!今年で3回目の参加です。
今年は、かけっこ70メートル!1.2年生は直線のかけっこでしたが、3年生からはカーブがあります。今までの純夏を思うと、カーブの線に沿って走る?歩く?笑 なんて、想像できなかったので、どうなることか?と思っていました。
ところが・・・・!!
始まってみると、走りはしないものの、先生に手を引かれたり、押されたりせず、自分一人で完歩!それも、ニコニコ楽しそうにゴールしていました。
1年生の時とは大違い!あーやっぱり、成長しているんだな〜とうれしく思いました。練習の時は、走る時もあったらしい。(^0^)
お昼は、おにぎりを4個も食べ!即、睡眠・・・ZZZ
まったく、本能のおもむくままに生きている純夏。。午後は、疲れが出たのか機嫌が悪く抵抗していましたが、一日無事に終了しました。
先生方の努力と、子供達の頑張りに、感動した一日でした。残念ながら、夕方発作をしてしまいましたが、夜はグッスリ寝て大事には至りませんでした。
今日は、(10/3)運動会の振り替え休日。一日大好きなパパと一緒で機嫌の良い純夏でした。また明日から、元気に学校に通ってくれるといいな〜
2005年9月24日 (土)
2005年9月の純夏

日記が久しぶりになってしまいました・・。この所、何かと忙しく、PCの前に座る時間があまりなく、夜は眠気に勝てず・・・笑 などど言い訳はこの辺にして(^0^)最近の純夏は・・・
発作は、少し前9日間無い日がありましたが、近頃は、日に1回といった感じです。10月1日の運動会に向けて、連日の練習に、そろそろ疲れが出てきたのかもしれません。今日も、発作を2回して、その後2時間ずつグッスリお休み・・ZZZ
夜も、早々寝てしまいました。かと思うと、夜更かしだったり、徹夜したり!!と、睡眠が不安定な時もあります。睡眠が不安定になったり、テンションが上がったりした時は、どうも発作の前ぶれのようで、その状態がしばらく続くと、落ちついていた発作が急に出たりします。まったく、この発作、本当になんとかならないものですかね〜・・・( ̄∇ ̄;)
うれしい事と言えば、洋服を自分で着てくれるようになったこと!!床に、パンツ・ズボン・シャツを並べて、ゆびさしで着てごらん!?と促すと、せっせと自分で着ます。お風呂上りに、近くにあった洗濯物を持ってきて着ようとしたり、意識が高くなったなぁと思います。以前は、着せようとしても、逃げたり、洋服をあちらこちらに投げて抵抗したり、着替えるだけで、本当に疲れました・・・。その頃を思うと、すばらしい!!!はたから見たら、小さな事でも、本当に感動モノです・・・涙 こんな風に、日常のささいな出来事にも、感動させてもらえる・・・
純夏に感謝!  でもでも・・・・この夏、大事件がぁ〜〜
夏休み中、我が家の2階のトイレが大洪水!!夜中、急に停電したのです!何かと思って見てみると、1階の天井から水がポタポタ。水浸し・・・あわてて2階へ行ったら、トイレで純夏が便器の中にペーパーをつめていて・・・ずっと水を流して遊んでいたらしく、水が溢れ、部屋中水浸し・・・漏電して、停電になったようでした。。。1階で飲んでいた私が、純夏の様子を見に行かなかったばっかりに、こんな事になってしまいました・・・トホホ〜(T0T)
その後、天井に穴をあけ、やっと漏電がなおり、その2週間後、やーーーーっと元通りに直りました。この夏の大事件。永遠に語りつがれる笑い話になりそうです・・・。笑
2005年9月1日 (木)
2005年 純夏3年生!!

この日記も、やっと現在の事が書けるようになってきました。昔を振りかえりながら色々書いてきましたが、月日はあっという間に流れ、純夏ももう3年生です。
純夏が病気をしたのが3才の時で、今は9才。もう、あれから6年が経ってしまいました。病気をする前の純夏より、病気をした後の純夏の方が長くなってしまいました。私の中では純夏は2人いて、病気をする前の純夏、病後の純夏と、2回子育てをしている感じです・・。今日は、新学期!!昨日までは調子が良かったのですが、今朝急に具合が悪くなり、頭を押さえながらまだずっと寝ています。
前回の日記に、「核酸」について少し書きましたが、今もずっと飲みつづけています。3月頃から純夏の状態が良くなり、3月と4月は、発作がほとんとありませんでした。機嫌も良く、ニコニコ笑顔で、声も良く出し元気はつらつ!といった感じでした。学校でも、活動範囲が広がって、2年生から持ちあがりでみてくれている先生が、「2年生の時と、ぜんぜん違う!!!」と驚いていました。やれる事が、どんどん増えました。例えば、色々なおもちゃに目がいくようになったり、本もパラパラめくって見ていたり、お絵きも始まりました。こぼしたものをちゃんと自分で拭いたり、ゴミをゴミ箱に捨てたり、靴を自分ではいたり、洋服も嫌がらずに着たり・・
などなど。本当にビックリするくらい、嬉しい事が増えました。おねしょもすっかりしなくなりました。発作がないと、純夏の状態はアップします。今まで、本当に発作で押さえられていたんだな〜と痛感しました。5月からは、また少しずつ発作が出だし、今の所、ひと月に10回〜30回位の感じになっています。それでも、純夏の状態がキープされているのは、「核酸」のおかげかなぁ〜と感じています。
7月には、学校のお泊まり会もあり、マイペースに楽しめたようです。この夏休みは、今までで一番穏やかに過ごせたと思います。でも最近は、意志が強くなってきた分、ヤダ〜!!と抵抗することも多く、困る事があります。。身長138.7センチ・体重35キロの純夏を動かすのは、容易ではありません・・・笑  座りこまれると、石のように重い・・・。そんな純夏も抱っこが大好きで、未だに抱っこしています。抱ける内は、抱っこしてあげようと思って、気合をいれて抱っこしています! うう・・腰が・・・笑
あと、キス魔なんですよねぇ・・・ほっぺにチュー!!!!するのが大好きなんです。大変なことも多くて、時々怒ってしまう事もあるけど、やっぱり可愛いスミスミなのでした!(^0^)
2005年8月14日 (日)
2004年、核酸との出会い!

純夏の調子はあまり良くないまま、日々は過ぎて行きました。そんな時、2004年11月頃、友達から「核酸」を飲んでみないかと誘われました。最初は、「核酸」??なんだそれは〜?と思っていました。紹介してくれたのは、同じ養護学校に通う子のママで、このさくら会作ろう!と言ってくれた会長さんです!!自分の娘にも飲ませてみた所、色々良くなった事があると。。成長がみられたり、何個か単語も出だしたり・・・。てんかんにも、効果があるらしい・・・と。。今まで、色んな事を試してきても、うまくいかなかった事もあり、初めは半信半疑でしたが、他の人の様々な体験談を聞いたりして、試してみる事にしました。この核酸ドリンクは、傷ついた遺伝子を修復してくれるものらしく、鮭の白子のDNAから作られているものです。そこに、コラーゲン、数々のビタミンを配合し、ドリンクにしたものです。この配合は、世界特許を取っているみたいですよ。とにかく、11月から試しに飲ませてみる事にしました。飲ませて、1ヶ月位したころから、純夏の発作に変化が現れました。いつも全身痙攣になる所、全身までいかずにすんだり・・・。純夏自信も表情が良くなったりと、これはもしかしたら良いのかもしれない!と思いました。発作はまたあるものの、改善の兆しを感じていました。核酸ドリンクは、健康食品なので、てんかんの薬を飲んでいても、なんの問題もありませんでした。3年生になるとき、純夏は重複クラスという所に変わりました。2年生の時に発作が多く、怪我などの心配もあり、県に申請を出していたのです。新しいクラスは、学年は関係無く、2つ以上の障害をもつ子達のクラスでした。子供3人に先生は3人。マンツーマンの体制で、安心して学校に出す事ができました。3月、4月は純夏の状態がとても良く、色々な事をするようになってきました。とにかく、発作がなかったんです!!!薬を1剤足した事もあると思いますが、ボーっとした感じはなく、表情や行動がすごく良くなりました。おもちゃで遊んだり、ゴミをゴミ箱に捨てたり・・などなど。前に純夏が出来ていたことなどが、戻ってきた感じでした。この頃の血中濃度はかなり高く、1年生の時に入院していた濃度位ありました。本来なら、ボーっと寝たきり人間になるだろう・・・という濃度なのに、純夏がパッチリ回復している。主治医は、薬になれてきたのだろう・・?と言っていましたが、納得できるものではありませんでした。これって、核酸効果なのかぁ〜と、久々にわくわくした気分でいた新学期でした。
2005年7月26日 (火)
2004年、純夏の生活。

養護学校2年生になった頃も、純夏の状態にあまり変化はありませんでした。学校でも発作は多く、怪我をする事もしばしば・・・。月に、30回〜60回くらいの全身痙攣のてんかん発作があった為、いつも目が離せない感じでした。家でも、洗濯物を干す少しの時間でも、目を離したすきに発作をして椅子から落ちる・・・なんて事は度々ありました。日々の生活は、私の視界にはいつも純夏がいるといった感じでした。そんな生活も慣れでしょうか・・・笑 あまり苦ではありませんが・・・。
発作がなかったら、純夏も私も、もっと自由に動けるだろうにとは思います。
月に1回は、必ず発作が群発する時があって、その時は学校も休み、ほぼ寝たきりのオムツ生活になります。発作をしては寝ての繰り返し。2.3日ガマンして診ていると、自然に発作は落ちつきます。これ以上、薬の量を増やしたくないという思いで、ギリギリの状態まで、家で見ていました。主治医には、薬を足したらどうか?と外来の度にいつも言われていましたが、落ちつく時もあったので、何とかもう少し様子をみたいと、先延ばしにしていました。純夏の状態の悪さが、薬の副作用なのか、発作の影響なのか、とても難しい問題でした。でも、確実に能力は下がっていました。例えば、おもちゃで遊ばなくなったり(おもちゃは、なめる・投げると言った感じ)、おもらし、おねしょが多くなったり、顔つきも、笑顔はあまりなく、ボーっとした感じ、もともと弱かった理解力は、更に悪化している感じでした。この年は、気功も通っていました。発作はあまり変化はありませんでしたが、純夏の状態が少しはいいかな?と感じる時もあったので、気功を取り入れた生活を送っていました。この年は、療育手帳の再判定の年。とうとう、最重度をいただきました(^0^;重度も最重度も、そんなに変わりはないんですよ。補助金が少し増えるので、ある意味ラッキーです。笑 純夏のおかげで、自分自信、本当に強くなったなぁ〜と感じています。強く、前向きでいないと、やってられない!というのが本音でしょうか・・・笑 私を楽天家に育ててくれた、私の両親に感謝!かな?笑
2005年7月18日 (月)
2003年、退院後の生活

退院後、2学期から養護学校1年生としての生活が始まりました。クラスは、子供6人に対して、先生は3人。スクールバス通学なので、バス停まで送り迎えの毎日になりました。下の子も、この年から保育園に入り、やっと??笑 私一人の時間が持てるようになりました。ここまで、本当に長かったような気がします。7年間の子育て生活が、一区切りなのかな〜とホッとしたのを覚えています。
純夏は、薬を大量に飲んでいるせいか、ボーとした顔つきで、発作をしながらも、なんとか学校に通っていましたが、やはり、1週間通学するのは難しく、発作で休む事が多かったと思います。よく学校から、迎えに来て下さい!と呼び出される事があり、携帯を手放せない状況でした。1年生は、あっという間に過ぎた気がします。
2004年になってすぐに、構造医学の事を教えてもらった友達に、またある情報をもらいました。横浜に、良い気功の先生がいると・・・。
気功かぁ・・・と、半信半疑のまま行ってみる事にしました。最初は、その雰囲気に圧倒されるだけでしたが、西洋医学に疑問を持つようになっていた私は、とにかく良いと言われるものは何でも試そう!ダメだったらしょうがない、良くなれば儲けものだ〜!という気持ちでチャレンジしました。宗教だけは、興味ゼロでしたが・・
月に1回、横浜まで気功に通っていました。1年位通いましたが、てんかんの発作に関しては、あまり変化は無かった気がします。でも、表情が良くなったり、原因不明の顔の腫れを、みるみる内に治してしまったり!と、不思議体験はありました。私は鈍感なのか、あまり気を感じる事は無かったけれど、気はやはりあるだろうな〜と思っています。興味のある方は、紹介しますのでご連絡下さい。
1年生の純夏で、思い出に残っている事は運動会の事・・・。かけっこの時、よーいドン!の合図で、先生に手を引かれトボトボ何とか歩く。と思ったら、地面の石を拾い出し・・・。先生の手を振り払って、ゴールと反対方向に逃げる!何とか先生に背を押されゴール!!笑 集団の中で、活動できなかった純夏が、何とかその場で参加できただけで、私は感動でした!というより、純夏らしくて笑いました!笑
養護学校の運動会や、学校開放の時など、一般の人達にどんどん見に来てもらいたいなぁと思う私です。養護学校の運動会は、普通の運動会と違って面白いですよ〜みんな個性的ですから、笑いあり、感動あり、涙あり・・・。ぜひ、見に行ってみて下さい。
2005年7月3日 (日)
純夏9才!

今日は、純夏の9才のお誕生日です。早いもので、病気をしてからもう6年・・・。
元気だった頃の純夏の記憶は、どんどん薄れて行きます。でも、病気をした事の重大さは増すばかり。あの時、ああしておけば良かった、こうしておけば良かったと、後悔はつきません。今、子育てを頑張っている皆さん!熱を甘く見てはいけません!熱が出たら、とにかく冷やして、水分を与えて、すぐ病院に行って診てもらいましょう。純夏は、6年前の7/4、急性脳炎で倒れましたが、薬はちゃんと飲ませていました。でも、今思うと冷却が足りなかった気がします。熱が出た時は、氷で、頭・首・わきの下・足の付け根など、とにかく冷やしましょう!ぐったりして、いつもと違う様なら要注意ですよ。
今日は、下の子と純夏と私の3人で、恐竜博に行ってきました。今日が最終日という事もあり、入館まで130分待ち・・・。うわぁ、どうしよ〜と思っていたら、純夏の療育手帳のおかげで、待たずに入れました。おまけに、無料でした。この時ばかりは、純夏に感謝!笑 ありがとう、すみすみ〜 恐竜博は、純夏はまったく興味なしでしたが、私と涼果は楽しんできました。笑 ケーキも食べ、良い誕生日になりました。純夏が、自分の誕生日を理解して、一緒に楽しめる日が来る事を願う母でした。
2005年6月12日 (日)
2003年、入院生活。

久しぶりの入院生活は、思いのほか長くなり、気がつけば3ヶ月間の入院生活でした。4月の上旬から、少しずつ発作が増えだし、名古屋の先生にも診てもらいましたが、発作は止まらず・・・。養護学校の入学式には、発作をしながら何とか参加をしたのですが、次の日に入院となりました。入院当初は、点滴をすればすぐ退院できるだろう〜と軽く考えていたのに、思いのほか発作が止まってくれない。この時、抗てんかん薬を3剤飲んでいたのですが、薬の整理をするためにも、フェノバール1剤の、大量療法をする事になった時は、かなりのショックでした。1年以上をかけて、やっと40ミリまで減量したのに、800ミリですよ!!!泣
もう、純夏の状態は寝たきり人間の最悪の状態でした。薬づけの毎日に、早く発作が止まってくれる事を願う日々でした。やっと発作が止まった頃、少しずつ薬の量を減らし、純夏の意識レベルも上がってきました。でも、1ヶ月位寝たきりだったので、筋肉が弱くなって歩けない。。しばらく車椅子のお世話になっていました。この入院生活で、また色々な人と知り合いになりました。一番ショックだったのは、隣のベッドにいた3才位の女の子。あまり長くは生きられない病気だとはきいていたのですが、ある日急に容態が悪くなり、いつも通り病院に行くと、もうベッドはもぬけのカラで・・・。看護婦さんから亡くなったのだと聞かされました。その子は、おばあちゃんにとても可愛がってもらっていて、おばあちゃんもその子の事が生きがいなんだと言っていました。おばあちゃんの気持ちを思うと、なんとも胸が張り裂けそうな位辛かったです。。どうしているのかなぁ・・・今ごろ・・。
純夏はというと、7/11に無事退院。この時薬の量は、フェノバール350ミリでした。もう夏休み前だったので、学校は2学期からのスタートになりました。2学期になる頃には、足腰もしっかりしてきて、親子共々、少しずつ学校生活にも慣れてきました。ただ、薬の大量療法は続いており、純夏の表情や行動には覇気が無く、ボーっとした感じでした。早く薬を減らしてあげたい。そう思う気持ちと、構造医学でもうまく行かなかった事で、この先どうしたらいいのか・・・何を目標にしていったらいいのか・・・と、不安な気持ちで揺れ動いていました。
2005年6月4日 (土)
構造医学との出会い

2001年の後半、同じ園に通うお友達の状態が急に良くなってきました。ボーっとした感じが無く、しっかりしてきた印象でした。何かやってるの?と聞くと、知り合いの先生にちょっと首や関節を触ってもらってる・・・というよく分からない答え。。その後、それが構造医学だと知りました。熊本に構造医学の先生がいるということでしたが、なかなか予約が取れないという事だったので、熊本の先生の一番弟子と言われている先生のもとへ行く事にしました。その先生は、名古屋で整骨院をひらいていました。とにかく少しでも良くなるのなら・・・という思いで、名古屋に行きました。名古屋での治療は、首の骨や、股関節を正しい位置に戻すというものでした。そして、冷却する。寝る時など、氷まくらで頭を冷やし、発作がひどい時は、首の後ろも氷で冷却していました。名古屋へは、月に1回、新幹線に乗って通っていました。最初は、こんなんで本当に良くなるのだろうか?と疑いながら通っていましたが、回を追うごとに、純夏の状態は良くなって行きました。まず、下半身がふにゃふにゃして歩き方がおかしかったのが、しっかりとした足取りになってきました。てんかんの発作も、少しずつ回数や、発作の長さが減ってきました。この時期は、薬に対する疑問が多く、飲んでも良くならないのなら、なるべく薬を減らして、純夏をもっと覚醒させてやりたい!薬に頼りたくない!という思いが強くありました。名古屋の治療を始めてから、発作の状態が良くなってきた事で、飲んでいた3剤の薬の内、1剤の量を1/3位まで減らす事に成功しました。薬は減って、純夏の状態はアップしている。2002年は、割と穏やかに暮らせていたと思います。でも、純夏の覚醒により、意思表示も激しくなってきて、嫌の事などに対する抵抗も激しく、扱いに困る事も多かったと思います。相変らず甘えっ子で、体重が30キロ位あっても、抱っこが大好きでした。今でもですが・・・笑 そして、この年は、養護学校へ入学する準備の年でもありました。希望の学校へ入れるため、引越しもしました。残り少ない園での生活も無事に過ぎ、本当に子供達に愛情を持って接してくれた先生方のおかげで、無事に卒園できました。そして、2003年。養護学校へ入学!しかし・・・・・
入学式の次の日から入院です。順調に行っていたはずが、てんかんの発作が急に止まらなくなったのです。すぐに退院できると思っていたのに、また3ヶ月間の入院生活になってしまいました。この入院はかなりショックでした・・・泣
2005年5月26日 (木)
2001年、思春期早発症発覚!

園に通い始めて、集団生活の中で、いたって純夏はマイペース。人とのコミュニケーションや、人のルールに従うといった事が大嫌い。朝の会など、椅子に座っているのも嫌で、純夏のそばにはいつも先生がついて格闘?(笑)していました。
園の他には、個別に、心理やOT(作業療法)などにも通っていました。この頃の純夏の状態はと言うと・・・。
言葉は、単語はなく、ちっち(おしっこ)、だっだ(だっこ)など、少しは意味のある言葉の頭文字を連呼することはできていました。パパパ・・・(パパ)は最後まで残っていた言葉の頭文字でした。他は、あーーうーーーといった声を出す事が多かったと思います。指をさしてして欲しい事をアピールしたり、怒ったときは、人を叩いたり、座り込んだり寝転んだり・・・。嬉しい時は、ニコニコ笑顔もありました。自転車をこいだり、ジャンプなどもできて、身体の動きはぎこちないけれど、身体的には後遺症が残らなかった事は、幸いだったな〜と思っています。
病後、「泣く」という事が無く、例えば頭をぶつけて痛くて泣く、両親と離れて寂しくて泣く・・・といった事がなくなりました。病院や療育、保育の先生に等に聞いても、明確な答えは無く、今だ不明のままです。年に1回位、寝ながらシクシク泣く事はあるのですが・・・。何故なのか・・・。。
この年の後半、純夏が急に身体的に成長し出しました。1ヶ月に身長が3.4センチ位ぐんぐん伸びたり、おっぱいが膨らんできたり、顔ににきびが出だしたり・・。
これはおかしいだろう?と思い、検査をしてもらったところ、思春期早発症だと診断されました。この時の純夏の年齢は5才。骨年齢は9才でした。このままだと生理も始まってしまうとの事で、成長を押さえる薬(リュ-プリン)をお尻に打つことになりました。月に1回、おしりに注射です。痛みにも鈍感な純夏が、この時ばかりはラッキー?だと思いました。だって、本当に痛そうなんですよ・・・。
この注射も、未だ続いています。もう4年間です。。純夏、エライ!!
最近、やっと身体の大きさと、骨年齢が合ってきました。でも、小学校高学年になるまで注射は続くようなので、もう一息!頑張ってもらいたいです。この病気、放っておくと、身体だけがどんどん成長してしまい、本当の思春期が来る前に成長がとまって、結局は低身長になったりするんだそうです。何にしても、女の子は生理が困りますよね・・・。生理がくる年齢になった時に、それが理解できるようになっていることを願うばかりです。。
2005年5月22日 (日)
2001年の純夏

手術もできないとわかり、ひとまず、今やれる事は全部やったという思いでした。今年は5才になる年。普通なら幼稚園や保育園に入る年齢になっていました。純夏は何処にいけるんだろう・・・と思っていましたが、ケースワーカーさんの勧めで、草加市の精神薄弱児施設に入ることになりました。ここは、様々な子供達がいる所。障害のある子供達を、小人数で手厚く見てくれる所でした。純夏が病気をしてから2年目の年・・・。あっという間でした。今までは、てんかんの発作をなんとか治してあげたい!そんな思いで色々手を尽くしてきましたが、結局どうにもならない。でも、純夏はどんどん大きくなっていく・・・。病気を治す事の他に、療育というものを考えて行かなければならない年になってしまったのです。病後、親の手を離れての集団生活は不安がいっぱいでした。てんかんをもつ純夏を、人に任せられない!という思いがありました。学園に入園してからの1ヶ月間は、毎日園について行って、教室の影から、ストーカー?笑 のように見ていました。当初、良いのか悪いのか、園では発作を起こさず、先生に発作の確認をしてもらえないまま、付き添いはなくなりました。その後は、本当に親身になって純夏のことを考えてくれる先生方のおかげで、純夏を人に任せる、という事が出来るようになりました。病気をした当初は、病気が治るものだという思いで頑張ってきました。でも、後遺症の難しさ、持病になってしまったてんかんの発作。そんな中でも、純夏は成長して大きくなっていく。様々な思いの中、その都度純夏にとって何が一番大切なのかを考えて頑張ってきました。学園に入園する前に、療育手帳のB(中度)を1年間もらっていましたが、この年の更新で、状態が変わっていないという事で、A(重度)をもらいました。その時は、あまりショックはなく、あるがままの純夏を受け止める心の余裕が、私達にも持てていたのだと思います。この年の6月に、発作が止まらなくなり、1度入院しましたが、一週間程ですみました。またこの年は、妹の涼果が喘息になり、3度入院する・・・なんてこともあり、子供の事では、いつも心配ばかりしていた気がします。私は、すごく健康体なのに、なんで子供達ばかり、こうも病気がちなのかと、やりきれない思いだったのを覚えています。そんな思いも、学園の親同士の交流のなかで、とても救われたものがありました。この時、知り合ったお母さん友達は、今でも互いを励まし会える大切な存在になっています。人のつながりは大切だな〜と思った年でもありました。
2005年5月2日 (月)
2000年、3度目の入院。

3度目の入院は、脳梁離断という手術が可能かどうかの検査入院。11/28、都立神経病院に入院。この病院は自宅からはかなり遠く、片道車で2時間以上かかる病院でした。一晩中脳波をとり、左右の脳の同期波があるかどうかの検査がメインでしたが、残念ながらその波は見られないという事でした。結局、手術も出来ず12/11に退院しました。その日は大雪だったので、今でもよく覚えています。脳の手術は、良くなるのなら・・・という思いがありましたが、出来ないと分かってホッとしたのも事実でした。やはり、脳の手術なんて恐いですよね・・・。最後の望みの手術も出来ないとわかり、やはり内服でゆっくり治して行くしかないのかな・・とあらためて考えました。その頃、妹の涼果は1才。すっかり手術をする気になっていたので、病院も遠いため面倒が見られない・・・と思い、乳児院に預けていました。純夏の退院後、すぐに涼果を迎えに行きましたが、その時涼果は私の存在を忘れてしまっていたようで、私の顔を見て、おびえたように泣きました・・・。ほんの2週間くらい離れていただけで忘れてしまうんだなぁ・・と、とてもショックでした。でも、逆にそうでないと、子供は生きられないんだろう・・と考えさせられました。そして、2度と涼果を手放さない!と心に決めました。
退院後は、いままで通り、小児医療センターに通いながら、薬の調整をしていくことになりました。でも、発作は減らず、外来のたびに薬が増えて行き、薬に対しての疑問は増えるばかりでした。
2005年3月28日 (月)
2000年、退院後の生活。

市の主催で行われている、「のびのび教室」、そこで色々な人との出会いがありました。まず驚いたのは、本当に色々な子供達がいること・・・。言葉や発達の遅れている子、いわゆる自閉症と言われている子、病気によって発達の遅れている子、パニックで泣きじゃくっている子・・・。そんな子供達の中で、ひときわ自由奔放な純夏・・笑 まず、椅子に座って何かをするなんて不可能。一人、ふらふら歩き回ったり、とにかくコミュニケーションがまったくと言って良いほどとれませんでした。先生方はみなやさしく、何とか参加するように仕向けてくれていましたが、なかなか上手く行かず、発作で調子が悪かったりという事もあって、休む事が多かったと思います。私達夫婦は、純夏に対していつも思っていたことは、何をするにしても、純夏が楽しくいられる事、無理やり嫌がる事をさせない事などなど、なるべく自由に好きな事をさせたい!と思いつつ子育てをしてきました。一見、とても甘やかしているようでしたが、理解の無い子供に、無理やり何かをさせる事で、調教のようになってしまう事が一番イヤだったからです。純夏自身が、やりたいと思う気持ちを大切に考えていました。でも・・・そんな純夏との生活は本当に大変でした。買い物一つにしても、フラフラ好きな所に行ってしまったり、知らない人にちょっかいをだして、ついて行ってしまったり、気に入らない事があると、座り込んで動かなくなったり、銀行のフロア-に寝そべって、床をなめたりしていた時もありました。その頃は、0歳時の涼果を抱え、私の中では一番大変だったような気がします。発作は、ほぼ毎日おこしていて目が離せない。車が好きだったので、困った時は車でドライブなんて事はしょっちゅうでした。夏ごろ、急に車から降りなくなって、外に出たい病!が始まり、困ったことがありました。とにかく車に乗りたくて、外に出たがる・・・車でないとご飯も食べない・・・。朝起きた途端に、玄関に張付いて外に出たがって、車に乗ると降りようとせず、夜までドライブ。。夜になってやっと寝てくれた純夏を抱え家に戻る。その繰り返して、1ヶ月半位、そんな生活をしていた時もありました。部屋に鍵をつけて、外にいけないようにしても、出たがって出たがって大変でした。私は、車の運転は大好きだったので、あちこちドライブしてある意味楽しかったけど(楽天家??笑)ガソリン代は、相当なものでした・・・笑 発作は、まったく良くなる気配は無く、薬だけどんどん増えていく事に疑問を感じていました。前の主治医に、外科治療もあるという事を聞いていたので、良くなるのなら手術も考えたい!と幾度と無く外来の医師に相談していました。純夏の発作は、左前頭葉からのものなので、この部分は難しいのでは・・・と言われていましたが、冬頃になって、やっと外科治療をおこなっている病院を紹介してもらい、東京都の府中病院という所に行きました。そこで、入院して手術ができるかどうか検査してみましょうという事になり、もしかしたら良くなるかもしれない!と期待を持ちつつ、3度目の入院生活が始まろうとしていました。
2005年3月8日 (火)
2000年、退院後の純夏との生活。

ヒルトニンの点滴治療を始めて、少しして発作は落ちつき、病棟で元気に過ごしていました。その頃の写真を見ても顔つきはよく、とても病人とは思えないほどでした。パパやママの認識もしっかりしていて、特にパパが大好きで、ママはあまり相手にされない感じでした。パパとママでは、純夏の反応が違うとよく言われました。この頃は、病院の生活も慣れ、院内を散歩したり、プレイルームで遊んだりと元気に過ごしていました。この頃の純夏を知っている看護婦さん達は、今でも外来で会うと、当時の純夏を懐かしんでくれます。今は、純夏〜!と看護婦さん達が呼びかけても、あまり反応はなく、認識力の低下を感じます。そんな純夏でも、いつも看護婦さん達は、優しく接してくれます。当時の純夏は、病気をする前の純夏に戻れるかもしれない!という、期待感がものすごくあったんです。3月の後半になって、そろそろ退院かな?と思っていたあたりから、少しずつ発作が増え出しました。病院での治療は、やれるものはやり尽くしたと言われ、あとは外来で診ていきましょう。との医師の言葉でした。この時、最初の入院から純夏を診てくれていた主治医が、違う病院に行く事になり、純夏の退院と共に、お別れする事になりました。3ヶ月間の入院を終え、自宅生活になりましたが、ここから長い長い、てんかんの発作との付き合いが始まります。身体の動きには異常がなかったので、なるべく普通に暮らしたいと思い、公園や買い物など一緒に連れて歩きましたが、いつ発作をするか分からない状態だったので、片時も純夏から目を離せませんでした。いつもドキドキしながら生活していたように思います。ある日、涼果の自宅検診がきっかけで、市のケースワーカーさんと出会う事になりました。その時、市の主催で行っている、のびのび教室!というものを紹介されました。そこは、自閉症や、発達の遅れている子供達の教室でした。どんな所かよくわからないまま、とにかく色々な場所で純夏の発達を促したいと思い、参加することにしました。この頃から、今まで知らなかった世界を経験する事になります。
2005年2月27日 (日)
2000年、2度目の入院生活。

2度目の入院生活は、下の子(涼果)を連れての病院通いでした。生後2ヶ月から、私と一緒に病院に来ていました。母乳という事もあり、涼果と離れる訳にもいかず、ほとんど一緒に病院にいました。両親やパパがいるときは、交代で純夏の面倒を見ていましたが、私一人の時は、涼果は病棟に入れなかったので、病棟の入り口に簡易ベッドを置き、そこに涼果は寝かせて、純夏のところに行く・・・という無謀な事をしていました。病棟の入り口で涼果がぐずって泣くと、他の面会の方や、看護婦さん達が涼果を抱っこしてくれていました。遠くで泣き声がしていると、涼果の所へ行き、おっぱいを飲ませ、また純夏の所へ・・・と。そんな繰り返しで、毎日病院に9時間位いました。涼果は、純夏の事を知ってか知らずか・・・産まれてからというもの、本当に手のかからない赤ちゃんで、泣く時はお腹がすいた時だけで、その他はほとんど寝てくれていました。当時は本当に助かったものです。まあ、今は自己主張をしっかりする、やんちゃな5歳児になっていますが…笑。
純夏はというと・・・。入院後、薬の調整のせいか、発作が増え、また眠りひめになっていきました。多い時で、日に60回以上の発作。落ちつかない日々が続きました。2月の上旬には、発作はまだ多いのに、少しずつ言葉は回復していきました。「すみ」「マママ・・」「はーい」など、言えるようになっていました。そして、2月の後半になって、(ダイアモックス)を使ったあたりから発作が落ちつき、状態が良くなってきました。3月に入り、更に調子が良くなってきたな〜と思っていたのに、脳の血流が悪くなっているとの医師の言葉。(ヒルトニン)の点滴治療を2週間する事になりガックリ・・・。でも、良くなるのなら、と期待をかけ、入院生活を続ける日々でした。
2005年2月24日 (木)
回復してきたすみか NO.2

すみかの回復は、本当にすごいものがありました。脳波検査でも、普通の子と変わりない!と言われるくらいに・・・。病気をする前の記憶もあって、「ディズニーランドの恐竜がこわかったね〜(6月に行ったばかりでした)」とか、「パパとゲームセンターで、バキューンバキューンしたもんね〜(ピストルで撃つゲームの事)」などなど・・・。言葉も順調に回復!このまま行けば、元のすみかに戻れる!と信じていました。足取りもしっかりしてきて、近所のよく遊んでいた公園でブランコに乗ったり、おかあさんといっしょのビデオを見て、楽しそうに真似して踊ったり。外泊が楽しみになっていました。私が入院している病院にお見舞いにも来てくれました。本当にうれしかった。10/13に、とうとう退院!!出産もあったので、横浜のパパの実家に移動して生活することになりました。退院した当時のすみかは、とにかくお腹すいた〜!を連発!食べても食べても食べたがり、本当に苦労しました。テーブルの布きんも口に入れてしまうほど。太らないように、コンニャクや野菜の煮物中心の食事でした。それだけ気をつけても、やはりどんどん太って、そのころの写真を見ると、まんまる!です。笑 発作はと言うと・・・徐々に増えて言葉が壊れていき、すみかの状態はだんだん悪化していきました。「お腹すいた」が「おなすいた」になり、「おなすか」になり、出産を終え、12月に家に戻った頃には、「おー」「あー」しか言えなくなっていました。発作もさらに増え悪化・・。1月になって、薬の調整も兼ねてまたまた入院。3ヶ月間に及ぶ、2度目の入院生活の始まりでした。
2005年2月22日 (火)
回復してきたすみか!

大部屋に移ってからは、どんどん回復に向かっていきました。ホッとしていた時、今度は私が出血!!慌てて病院に行くと、動かないで安静にしていなさい!との事・・・。すみかに会いたいのに、病院へは行けない日々が続きました。私が病院に行けない間は、パパや、パパの両親・パパの弟など、パパの家族がとても協力してくれました。ちなみに、私の母はすでに他界しており、父は時々・・・といった感じでした。色々な人の手を借りて、誰かしら毎日病院に通っていました。すみかは、医者が驚くほどの回復力でした。発作も落ちついてきて、8月の中旬頃、久しぶりに病院で会ったすみかは、かなり元気になっていて、座ってボール投げをしたのを覚えています。言葉は最後でしょう・・・と言われていたのに、8月の終わり頃には、「ハイ」「ホラ」「アソコ」等の言葉が出だしてビックリ!徐々に歩き出したり、本当に驚きました。そして、8/20日〜22日まで、初の外泊で家に戻ることができました。その時のすみかは、足取りもしっかりしてきて、括舌はまだ悪いものの、少しずつ会話にもなってきていました。このまま順調にいけば、もとのすみかに戻れるかもしれない!そんな期待が広がっていました。このあたりから、刺激をあたえるためにも、週末は外泊で、自宅で過ごすようになっていきました。言葉や行動、顔つきもどんどん良くなっていって、脳炎なんて大変な病気になっても、こんなに大丈夫なんだ〜!と思うほどの回復力でした。回復していくすみかとは逆に、妊婦の私は何度も出血・・・。とうとう、入院しなさい!との医師の言葉。9/21に、私も入院する事になってしまいました。すみかと私、二人の入院に、パパは相当な苦労があったと思います。何も出来ない私は、ひたすら安静の日々でした・・・。
2005年2月20日 (日)
1999年、最初の入院生活

すみかの意識が戻り始めたのは、7月10日。目や、手足をバタバタさせていました。すごくホッとした反面、すみかの状態はどうなんだろう?後遺症は残るのか?前のようなすみかに戻れるのだろうか・・・という不安が胸いっぱいに広がっていました。何日かして、呼吸も少しずつ出来るようになり、人工呼吸器は寝ている間だけ使う事になりました。日中は酸素を送るだけで、呼吸も徐々に安定してきました。意識が戻ってから6日後、口の中の管も取れ、酸素のボックスに入る事になりました。思えば、ずっと純夏を抱いていない。ただ見ているだけで、すみかは触れてはいけないもののような感覚になっていました。意識が戻ってからも、すみかの痙攣(発作)はなかなか止まらず、薬の調整が難しいようでした。薬を減らすと発作が増え、また戻し・・・の繰り返しで、点滴や座薬で眠っている事が多かったと思います。病室にいても何もする事はなく、すみかが寝ている間は、ずっと千羽鶴を折っていました。酸素のボックスが外れ何日かして、看護婦さんに「お母さん、抱いてみる?」と言われ、本当に久しぶりにすみかを抱きました。すみかは、ずいぶん痩せて、身体は硬直でピクピク痙攣していました。今までのすみかとは、全く別の感覚でした。やっと抱けた!!といううれしい気持ちと、現実のすみかとのギャップに、すごくショックだったのを今でもよく覚えています。あの時の感覚は忘れられません。発作をおこしながらも、徐々に回復に向かっていき、身体の動きも良くなってきました。8月になったら大部屋に移りましょう!そんな医師の言葉と共に、激動の7月が終わろうとしていました。
2005年2月16日 (水)
病気をした時の純夏NO.2

1999年7月6日の朝、小児医療センターに移ってすぐに、色々な検査にはいりました。その間、病院の待合広場で待っていましたが、目の前で、元気に走り回る子供を見て、なんで純夏が・・・と涙が止まりませんでした。ついこの前まで、元気にしていたのに・・・なんでこんな事になったのか、どうにもならない思いでいっぱいでした。検査がひと通り終わって、先生からのお話があり、その時初めて急性脳炎(脳症)だと言われました。状態は、真中より少し悪い・・・と。今の純夏は、脳が自己防衛で眠ってしまっていると・・・。意識が戻るのを待つ状態が続きました。その日の午後、3日ぶりに家に戻り、お風呂に入りました。純夏のいない家は静かで、部屋がとても広く感じました。その日は、久しぶりに布団で寝ました。実は、私はその時妊婦だったんです。気力体力ともに疲れ切っていました・・・。
次の朝、9時ごろ電話がなりました。妙に胸騒ぎがして電話に出ると、夜中純夏が自発呼吸が出来なくなったので、人工呼吸器をつけた・・という医師からの連絡でした。慌てて病院に行くと、人工呼吸器をつけた純夏がベッドで寝ていました。病室には、プシュープシューという、人工呼吸器の音が響き、やりきれない思いでした。呼吸が止まった、という事は、次は心臓が止まってしまう?という恐怖を感じました。何もできず、ただ見ているだけの状態は本当に辛い時間でした。病院にいられるだけの時間を、ただ純夏のそばでじっと見守る毎日でした。小児医療センターの看護婦サン達はみな良くしてくれて、やさしく励ましてくれ、純夏を安心して任せることが出来ました。ここから、小児医療センターに通う日々が始まります。
2005年2月13日 (日)
病気をした時の純夏

あれは、1999年7月4日。誕生日の次の日。その前から、熱で病院に行って、薬を飲んでいたけど、いつもの熱と違って、なかなか39℃台の熱が下がらなかったり・・・下がったと思ってもまた上がったりを繰り返していて、おかしいなぁ〜と思ってはいた。でも、大丈夫!なんて勝手に思っていて、たまたまその日は日曜日だったから、明日また病院に行けばいいや〜なんて思っていたんです。そしたら、その日の夕方、パッと寝ている純夏を見たら、目があさっての方を見ていて、よだれをたらしボーっとしている・・・。あせって抱きかかえたら身体をグッと反らし・・・思えばアレが初発作だったんだろう。慌てて救急車を呼んで病院に行ったけど、救急隊の人は、熱性けいれんだから心配ないよ!なんて言ってた。でも、何か胸騒ぎがしたのを今でも覚えています。診察中にまた発作。これは熱性けいれんじゃない!って事になって、あれこれ検査に入りました。その時はまだ脳炎って言葉はなく、純夏の意識もまだありました。でも、目を開けず、ママがいい!って私にしがみついていたのを覚えています。翌朝、入院した病院でまた発作を起こし、サチュレーションがみるみる低下。このまま死んでしまう!と思ったけど、薬をつかって発作はおさまり、でも、その時から純夏の意識もなくなりずっと眠りひめになりました。そこからはずっと眠っていて、目を開けたかと思うと、泡をふいて発作。その繰り返し。私にとって一番辛い時間でした。次の朝まで、純夏の意識が戻らなかったら、別の病院に搬送します。との医師の言葉。なんとか回復してくれ〜との思いもむなしく、次の日、別の病院(埼玉県立小児医療センター)に移りました。
2005年2月13日 (日)
初日記!

今日、初めてホームページを開きました。PCに不慣れな私は、なかなか難しいけど、少しずつ頑張って行こうと思います。HPを作ろうと思ったきっかけは、最近、同じ養護学校に通う子供のママと、「さくら会」を作る事になったからです。この会は、将来子供達が安心して働ける場所、居場所を作る為の会です。今、私の子供は養護学校2年生。高校を卒業する10年後までに、作業所を作る事が目的です。まだまだ会を立ち上げたばかりで何もしていませんが、会発足の記念にと思い、HPを作る事にしました。HPを通じて、色々な人の意見を聞けたり、情報交換が出来たらいいな〜と思っています。
私の子供の名前は純夏(すみか)と言います。産まれた時は、なんの問題も無く、元気に育っていましたが、3才の誕生日の次の日に、急性脳炎という病気にかかり、一日して天国から地獄に突き落とされました。その日を境に、私達の生活は一転しました。今は、後遺症のてんかんがなかなか完治せず、ほぼ毎日発作をおこしています。発作のせいか、抗てんかん薬のせいか??知能にも影響があり、療育手帳の最重度を最近いただきました。(^o^; そんな純夏との生活は、大変ではありますが、純夏の可愛い笑顔や、つい笑ってしまう行動・・・(笑)、妹の涼果(すずか)や、子供大好きパパの存在により、毎日バタバタ楽しく?笑 過ぎています。
このHPで、色々な人のお話が聞けたらいいなぁ〜と思っています。ぜひ、お立ちよりの方は、メッセージをお待ちしています!!

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