2013-03-03
ソーシャルゲームよりゲーセンのほうが「高コスト」問題
(※タイトル変更しました)
ドラクエ7雑感:スマホ脳になったことを思い知らされる:村上福之の「ネットとケータイと俺様」:ITmedia オルタナティブ・ブログ
上記リンク先の記事には、「スマホ脳」になった人が久しぶりにドラゴンクエスト7をやってみた際の「めんどうくささ」が書き記されている。
こういう記事を読むと、俺は「あなたが欲しかったのは真正のゲームではなく、エンターテイメントならなんでも良かったんですね」と思ってしまいがちだ。俺は、ゲームがゲームである与件として「上達感が感じられるプロセス」を重視しているので、ゲームの上達プロセスを面倒と呼んで憚らない人はゲーマーとして認めない。なにか「手応え」がなければゲームとして楽しくないじゃないか。
そういえば、俺のシューター仲間の一人が、スマートフォンに移植されたケイブのシューティングゲームについてこう評していた;「あれは俺達が楽しんでいるほうのシューティングゲームじゃない。シューティングゲームの爽快感だけ欲しがっている人のためのエンターテイメントだ」「パターンを組む戦略性や、攻略性が欠けている」とも。
今、スマートフォンで娯楽を消費する人達のゲーム観からすれば「上達プロセスを楽しむ」は理解しにくいことか、忌避されるものかもしれない。それは分かっている。だが、「今、とにかく楽しいゲームがしたい」――ああ、なんというマニア心の欠落!
「アーケードゲームはソーシャルゲームより高コスト」
しかし、個人的なノスタルジー感覚抜きに考えてみれば、「上達プロセスを愉しむゲーム体験」とは贅沢な遊びではないか。
「上達プロセスを愉しむゲーム体験」は決して安いものではない。どうしたって時間はかかってしまうし、神経を集中させる時間は肉体的にも高コストだ。金額的には低コストでも、金では買えない多くのリソースを費やさなければ「上達プロセス」を体験できない。そのくせ、スポーツのように身体に良いわけでもなく、一部の娯楽のようにステータスになるわけでもないゲームは、社会生活に寄与する余地もない。
まして、ゲームセンターに通って難度の高いアーケードゲームをプレイするとなれば、金銭以外のコストは計り知れない。首都圏在住の人なら、目当てのゲームが最寄の駅前ゲーセンにあるかもしれないけれども、地方在住者の場合、自分の好きなゲームを遊ぶために数十キロ移動しなければならないこともザラだ。
ゲーセンは、いまだ1プレイ100円を基本にしている。金銭的な意味では、現代のゲームエンターテイメントとして破格の低コストと言える。しかし、移動距離・時間的コスト・身体的コストといった観点からすれば、げっそりするほど高コストだ。21世紀にありがちな、忙しくて神経を休める余裕の無い顧客層にとって、ゲームセンターは高コスト体質すぎる。少なくとも、ドラゴンクエスト7を面倒と感じるような人にはそうだろう。
これと対照的なのはソーシャルゲームだ。ソーシャルゲームにも「上達プロセス」は幾らかあるかもしれないけれども、対戦格闘ゲームやシューティングゲームほど顕著ではない。そして課金の程度によっては金銭的コストが際限なく上昇するので、金銭面では高コストなゲームと言える。
そのかわり、ソーシャルゲームはまとまった時間をゴッソリ奪ったりはしないし、集中力を費やさなくても遊べる手軽さはある。スマホで遊べるので移動距離もゼロ、それどころかベッドに寝転がったまま遊ぶこともできる。移動距離・時間的コスト・身体的コストの面から見ると、ソーシャルゲームは低コスト体質だ。コミュニケーションの技能も要らないし、(昔のゲーセンのように)不良にカツアゲされる心配も要らない。金銭面にさえ目を瞑るなら、ここまで低コストで間口の広いゲームは無かったのではないかと思うほど低コストだ。
アーケードゲームとソーシャルゲーム、21世紀の日本の顧客層にリーチしているのはどちらかといわれたら、ソーシャルゲームをはじめとするスマートフォン向けのゲームだと答えざるを得ない。低コスト指向で手軽になったゲームは「上達プロセス」を存分に愉しむようなものではなく、アーケードゲームや海外産シミュレーションゲームが好きな俺としては悲しい限りだが、これも時代の趨勢、時代のニーズなのだろう。みんな、忙しくて、疲れている。
もうすぐ俺は、ゲーセンでゲームを遊ぶコストに耐えきれなくなる
いや、俺はこんな話がしたかったんじゃない。
サンクコストとか、そういう話もお呼びじゃない。
嘆きたかった。
悲しみたかったのだった。
つい先日、友人の一人から「シロクマさん、まだゲーセンでゲームやってるんだ。それって、すごい贅沢だよ」と言われた。その少し前には、全一級のプレイヤーが「もうゲーセンのゲームはやめるしかない。そんな時間も体力も残っていない」と呟いているのを見かけた。悲しかった。
実際、俺もそう呟く側に回るのだろう。アーケードゲームからの引退・シューターとしての死が、すぐそこまで迫っている。仕事に就いた頃の悲観的予測よりはずっと善戦しているというか、ゲーム技能をこの歳まで温存し続けたことを嬉しく思うし、自分が積み重ねてきた体験が無駄だったとも思っていない。『レイフォース』『バトルガレッガ』といった青春時代のシューティングゲームをいつでもクリアできるのも、嬉しいことではある。
けれども、ゲーセンに行って『怒首領蜂最大往生』や『ダライアスバーストAC』を遊ぶためのコストが、いよいよ支払いきれなくなってきた。ここ数年、衰えた動体視力と反射神経に鞭打って戦ってきたのは、無限の後退戦――衰えていく自分自身を直視し続けるゲーム体験だった。かつて俺はゲームの上達プロセスを愉しんでいた筈だった。しかし今は、ゲームを愉しんでいるのか、それとも自分の衰えと戦っているのか、よく分からなくなってきている。若い頃のように、電光石火、アドリブでザックリと弾幕をさばく力ももう無い。俺は目の前の蜂型メカやクジラ型メカと戦っているのか、それとも……。
もともとコンピュータゲームは、若者の、若者による、若者のための娯楽だった。今もそうだろう。だったら、歳を取った俺がシューティングゲームを“ゴール”しても、誰も文句は言うまい。少なくとも、先に引退した連中は文句を言うまい。シューティングゲームに楽しさより疲労を感じるようになってしまった以上、もう先は長くないだろう。哀しみを受け入れ、それでも人生を前進させなければならない。
2013-02-27
「インターネットではチャンネル争いが起こらない」
テレビを一人で観るようになったのはいつ頃からだったろうか。
昭和30年代の写真を探すと、町角で大勢の人がテレビを見ている風景を見かける。この頃のテレビは、かなりの確率で“みんなで観る”ものだった。一家に一台テレビが普及した後も、テレビはやはり皆で見るものだった。一家に一台しかないテレビだからこそ、“巨人、大鵬、卵焼き”という言葉や“チャンネル争い”という言葉が存在していたのだろう。
視聴番組を巡るコンフリクトがあった = 皆が自分の見たい番組だけ観ていたわけではないということでもある。大人が子ども向けアニメを観ざるを得ない時もあっただろうし、ニュースや時代劇を子どもが観ることもあっただろう。家族という小さな器のなかとはいえ、テレビは一人で観るものではなく、自分が観たいものを観たいだけ観れるものではなかった。
ところが昭和の終わりになると、ひとつの家庭がテレビやビデオデッキを複数保有する、そんな状況が珍しくなくなった。子ども部屋にテレビやビデオデッキを持ち込める家では、子どもは好きな番組を好きなだけ視聴した。テレビは家族団欒のアイテムでなくなったと同時に、チャンネル争いの舞台でもなくなった。テレビが一台しかない家でも、ビデオデッキの登場によってチャンネル争いの必然性は大きく下がった――家族が誰も観たがらない番組は、録画して後で一人で観たって構わないのである。
「皆で観るテレビ」から「一人で観るテレビ」になった意味はとても大きい。
私達は、皆が観る番組を観なくなった。皆で観ていた頃のテレビは、そのテレビを共有する人間の政治力学や妥協、話し合いによって視聴番組が決まりがちで、紅白歌合戦、東京オリンピック、巨人阪神戦のような番組は、チャンネル争いで有利になった。怪物視聴率が存在した一因はこれだろう。テレビを独りで観る時代と、テレビをみんなで観る時代では、視聴番組の決定プロセスが違っている。皆でテレビを観る時代が終わると、視聴率の傾向も大きく変わり、紅白歌合戦が大晦日の視聴率を丸呑みする風景は過去のものになった。
対して、平成以降は私達は好きな番組を好きなように観ている。父親の観る番組と母親の観る番組が別々になって、子どもは子ども部屋でアニメやドラマを観ている。テレビの台数が増えればチャンネル争いが起こらない。不承不承ニュースや野球中継を観ていた女子学生は、そういうものを視界に入れずに済むようになった。恋愛ドラマなんて観たくないお父さんも好きな番組だけ観るようになった。「好きな番組を観たい」という観点からすれば、福音だったと言える。
そのかわり、私達はテレビで観たくない番組・(今風の言い方をすれば)他のクラスタ・他の世代が観るような番組を目にしなくなった。恋愛ドラマの好きな女子学生は、もはや野球選手や関取の名前を覚えない。思春期の子どもが観たがる番組を親が垣間見る機会も減った。子どもが頭の悪そうなバラエティ番組を観ている際、親が横で「これは面白いけどくだらないぞ」「こんなのばっかり観ていたらバカになるぞ」と小言を言ってくれる機会が無くなった、とも言える。テレビはチャンネル争いというコンフリクトから解放されたかわりに、一家団欒の機能も失った。それだけでなく、「この番組が他のクラスタ・他の世代からはどう見えるのか」をうかがい知る機会をも喪失した。“その番組は胡散臭いだろうか?信用するに値するだろうか?子どもっぽい内容か?古めかしい内容か?”――こういったことを複数名で言葉を交わし合うことなく、すべて自分一人で判断するようになった。その後も、ワンセグの普及などもあってテレビはますます一人で観るメディアとしての性質を強めつつある。
だから、「みんなで観るテレビ」から「一人で観るテレビ」への移行は、マスメディアとしてのテレビの性質を密かに変えてしまった、と言える。
「みんなで観るテレビ」は、番組の是非や評価を一人で判断するのでなく、他人と言葉を交わしながら判断するものだった。“オレたちひょうきん族”を楽しんでいる子どもに、親が「くだらねーw」と突っ込んでくれるようなメディアであり、番組の評価や社会的位置づけについて、複数名の意見が耳に入る状況で番組を観ていた。
ところが「一人で観るテレビ」は、自分一人だけで観ているから、番組の是非や性質については自分一人で判断できる=判断しなければならなくなった。世の大半の人が幼児っぽいと思っている番組でも、自分が高尚だと思い込めば、その番組は留保なく高尚な番組とみなされる。観たくない番組はどんどん観なくなるので、他の世代が何を観ているのかもわからなくなる。観たいものしか観ないテレビは、チャンネル争いが起こるテレビ・同じ番組を(不承不承にせよ)誰かと共有することのあるテレビとは別物だ。
では、一人で観るインターネット、とは?
以上を踏まえてインターネットについて考えてみる。
インターネットではチャンネル争いが起こらない。それはもう、恐ろしいほどチャンネル争いが起こらない。パソコンもタブレットも個人向けの端末であって、複数名がチャンネル争いして使うものではない。なにより、ガラケーやスマートフォンといった端末は造りからして個人向けにつくられている。世の中の殆どの人は、インターネットで観るコンテンツを家族と共有しない。誰もが自分の端末をスタンドアロンに覗き込んで、自分の観たいコンテンツ・followしたいアカウントを眺めている世界。コンフリクトは無いけれども、団欒も無い。「一人インターネット」の普及によって、私達は遠くの誰かと細く繋がるようになったと同時に、隣のソファに座っている人とは繋がりにくくなった。
なにより重要なのは、「おまえ、そんなくだらないインターネット観てるのか」とは誰も突っ込んでくれなくなったことだ。インターネットには、とても勉強になるコンテンツや知的好奇心を刺激してやまないコンテンツもあれば、ゴシップ誌も真っ青の、それはそれは低俗なコンテンツも並んでいる。うぶなネットユーザーを欺してカネを巻き上げてやろうとするような、ネット山師的なコンテンツも混じっているだろう。けれども、そうした無数のコンテンツを眺めている際に、「おまえ、そんなくだらないインターネット観ているのか」とか「おまえ、それはネット山師だよ」と言葉を交わせる相手がいないのだ。ストッパーになってくれるような、多様な価値観を提示してくれるような人間がディスプレイのこちら側にいない。
私達は今、コンテンツの可否をそれぞれスタンドアロンに判断している。それがインターネットの常識になっている。ということは、どれだけ偏った判断を繰り返していても、どれだけ退廃したインターネットをしていても、軌道修正を促してくれる他人が傍にいないということだ。例えば、ニコニコ動画で特定方面に偏った動画ばかりを眺めて、それを常識だと思い込んでも、「おまえ、メチャクチャ偏っているよ」と突っ込んでくれる人は誰もいない。もちろん、そういう偏った動画のなかでは支持の声が大勢を占めていてアンチが叩かれているので、その動画のギャラリーの声だけでは偏りの程度は分からない。そんなわけで、偏った動画ばかり観ている人は、ディスプレイの内側で自分の偏りに気づくチャンスがあまり無い。ニコニコ動画だけでなく、SNSのタイムラインにも当てはまるだろう。事前に強い選好をきかせてしまったネットユースは、自分の偏りに気づきにくい。
「インターネットではチャンネル争いが起こらない」。
これって、結構恐ろしいことじゃないだろうか。
好きなコンテンツを好きなように眺められるメディアは、好きなコンテンツを好きなように眺めてしまうリスクとも背中合わせだ。そのリスクは公共メディアとしてのインターネットの性質をそれなり面倒臭いものにしていると思われ、少なくとも19世紀のヨーロッパのカフェーや昭和時代のテレビが担っていたような、公共メディア機能とは同質ではない。もっと違った何かを期待すべきだろう。そして個々人においては、自分の観ているコンテンツが他の世代や他のクラスタからどのように見えているのか・自分以外にとってどのような意味を持つのか、折にふれて確認したほうが良いと思われる。この、テレビよりも広くて深い情報の海を一人で覗き込んでいると、自分がどのあたりを漂流しているのか見失ってしまいやすい。
2013-02-20 こんな世の中、ひっくりかえさないと
青春時代を彷徨い続けるオジサンが大人の音楽を騙るなんて、ちゃんちゃらおかしい
俺たちオジさん(オバさん)には今、歌う歌もなければ、聴く歌もない!(富澤 一誠) - 個人 - Yahoo!ニュース
リンク先では、61歳の音楽評論家が現代のミュージックシーンについて「青春時代の音楽を取り戻して欲しい」「30年程前のあの〈熱狂〉をもう一度」と熱弁を奮っている。率直に言って、驚き、呆れた。
あるていど歳を取った人が、青春時代に耳にした曲を大切に思う気持ち自体はわかる。私だって、自分が青春時代を過ごした頃の音楽――それは小室哲哉であったり、渡辺美里であったり、ミスターチルドレンであったりする――を聴くと、若かった頃が思い出されて胸が高鳴る。だから、リンク先の音楽評論家さんがフォークソングを特別に思う気持ちそのものはおかしいとは思わない。
だからと言って、自分の世代の音楽だけを「真の音楽」「大人のための音楽」と吹聴するのは、いかがなものか。
これが、(西洋でいう)クラシック音楽や(東洋でいう)茶道のようなメインカルチャーの担い手が、「大人のための遊び」を自称し「若者向け音楽」を批判しているのなら、まだわからなくもない――メインカルチャー至上主義は鼻につく態度ではあるが、大人/若者/子ども、メインカルチャーとカウンターカルチャーのポジションについて考えるなら、メインカルチャー側が「もういい歳なんだから、若者向け音楽なんて卒業しましょうよ」と主張するぶんには筋が通る。
ところが、件の音楽評論家は、カウンターカルチャーたるフォークを、他のカウンターカルチャー・他の世代の若者文化と並べたうえで、自分達の音楽だけが「大人の音楽」だと主張しているのである。そんな馬鹿な!さだまさしだって、YMOだって、宇多田ヒカルだって、それぞれの時代の若者向け音楽として生をうけたのであって、大の大人が楽しむ音楽としてスタートしたわけではない筈だ。
「Age free世代」という言葉自体がもう「ターゲット設定できない世代」を象徴してるじゃないか。吉田拓郎、井上陽水、南こうせつらは時代にメスを入れた当時の若者向け音楽だった。いつまでその気持ちで? / “俺たちオジさん(オバさん…” URL
その通りだと思う。いつまで若者気分でいるんですか?
尤も、若者のための音楽と、大人のための音楽の区別なんて本当はどうでも良いのかもしれない。
〈演歌・歌謡曲〉でもない。〈Jポップ〉でもない。良質な“大人の音楽”を〈Age Free Music〉と名づけて私は提唱している。現在40歳以上64歳までの人口は4358万人。40歳以上はというとなんと7432万人。正直言って、私は61歳になるが、年齢なんて関係ないと思っている。まさにAge Free 世代だ。そんなAge Free世代が求めている大人の音楽が〈Age Free Music〉なのだ。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tomisawaissei/20130216-00023503/
「年齢なんて関係無い」ですって??!!
フォークを「大人の音楽」と持ち上げている端から、この人は「年齢なんて関係無い、Age Freeだ」、と言っているのである。還暦を迎えてもなお、自分達の青春の音楽だけを特別扱いし、“自己表現”“自己実現”といった言葉をちりばめて憚らないその精神のどこが大人なのか?語義矛盾ではないのか?フォークがそんなに大人の音楽だというのならば、壮年期らしさ・大人らしさを強調したレトリックで擁護すればいいものを、そこで出てくる擁護のレトリックが「青春」「自己実現」だなんて!まるで中二病の学生のようだ。
この人は、森田公一『青春時代』で歌われているごとく、いまだ青春時代の真ん中で道に迷っておられるのだろうか?
以前私は、「歳の取り方が分からなくなった社会」という記事を書いた。誰も彼もがライフサイクルの次のフェーズに進まず、若い頃の心性を引きずったままの社会は、どこかおかしいのではないかと私は前々から疑っていたが、この、“還暦青年”を目の当たりにして、疑惑は確信に変わった。昔なら隠居していておかしくない年齢の人が、壮年期を引きずるどころか青春を騙っているのである。
団塊世代には戦前-戦後の断絶があり、それまでの価値観やロールモデルをいったん否定された焼け野原から再出発した出自があるので、自分達が老年期を迎えるにあたって何をロールモデルにすれば良いのか分からないのかもしれない。さしあたり自分達がよく知っている文化風俗が一番年長っぽいので、それを「大人」と呼ぼうとしているのかもしれず、そこには酌量の余地があるとは思うし、居酒屋談義としてはそれで構わないのだろう。しかし、リンク先の富澤さんは音楽評論家だというから、こうした事情も織り込み済みの上で、あえて青春の音楽と大人の音楽をゴチャマゼにしているようにみえる。それってどうなんですかね?
まあいい。
しかし団塊世代のオジサンがわたしたち下の世代に対して「大人」を名乗りたいのなら、せめて、若い世代がそれぞれ自分の青春時代の音楽を大切に思っている事を慮り、「自分達の音楽だけが心に響く音楽」などと言わないで頂きたい。富澤さん、他の世代の音楽があなたの心に響かないのは、あなたが歳を取ったからじゃないんですか。その事実を否認し、フォークソング以降のミュージックシーン全般に対して「心を歌っていない」などと言うのは、違うでしょう。あなたより若い世代も、自分達の青春をそれぞれ歌に託して、それぞれの時代と音楽をかけがえなく思っている。AKB48やボーカロイドに夢中になっている人達も、今、まさに自分達の青春を楽しんでいる。あなた達の世代が“太陽の季節”を懐古するのは構わないが、下の世代には下の世代の、それぞれの青春、それぞれの音楽があるんですよ。
そうした世代感覚の喪失を「Age Free」というのならば、「Age Free」などくそくらえだ。
2013-02-14
自由を削ってブログを書くか、自由になるためにブログを書くか
ブログが主人か?それとも“なかのひと”が主人か?
私は“なかのひと”こそが主人であって、ブログは“なかのひと”に仕えるものだと思っている。だからブログのキャラが一人歩きして“なかのひと”が疎外されるような事態は避けてきたし、書きたいことが書けるインターネットが続けられるよう、意識しながらブログを書き続けてきたつもりでもある*1。
もちろん、世の中には「飯を食うために」敢えてブログやキャラを一人歩きさせる人もいるだろうし、そういうプロを非難する資格は私には無い。それでも私自身は、「お前はこういうキャラなんだからこういう風に振舞え・振舞えないなら俺が許さない」的な、キャラ優位な人間観が嫌いなので、そういう風景を見かけると過剰反応を起こしがちではある。そういった過剰反応も私の一性質なので、むやみに隠さなくていいやと心に決めている。
ちなみに私の“なかのひと”疎外アレルギーの一因には「お前は精神科医なんだから、こういう風に振舞え・振舞えないなら俺が許さない」的な言動に、ネットでも臨床でも遭遇してきたから、もあると思う。人を見ずに白衣を見る人間・“なかのひと”を知ろうともせずキャラを勝手に決めてかかるような人間が、私は苦手だ。まあ、臨床場面では、相手の期待するキャラをある程度まで引き受けたほうが良い場合もあるし、そういう時は意識してキャラを引き受けることもある。その場合も、私自身の“なかのひと”と矛盾しすぎたキャラ立ては続けきれないし、続けるべきでもないと思っているので、いったん引き受けたキャラから“なかのひと”に、なるべくスムーズに移行したいと思っている。いつもうまくいくとは限らないが。
そんな私にとってのブログとは――いや、twitterやウェブサイトも含めたネットメディアは――、自分のキャラをつくる場所ではなく、自分が自由に、呼吸するように自己表現できる場所でなければならない。誰かに何かを伝える時も、自分の思索に耽りたい時も、自己開陳に酔っ払い時も、書きたいことを書きたいように書ける空間。私にとって、この『シロクマの屑籠』とはそういう空間だ。法に抵触するようなことは書けないし、私個人の良心が咎めるような事も書かないが、「他人がかくあるべしと思うイメージ」に束縛されるつもりは微塵も無い。
俺は俺のやりたいように書く。もちろんミクシで内輪の人たちだけ相手にしてるような書きかたはできないけど、そこを判断するのは俺でしょ。需要がなくなったら読まれなくなるのも俺。ごちゃまぜの状況でも読まれてるのもやっぱ俺。店バレしたら爆死するのも俺。ネット上における「俺」というキャラを作ってるのも俺。そんで俺は、ネット上における自分というものをいくつかのパーツに分解したくねえんだよ。
http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/02/13/233709
同感だ。ブログを書いている時はね、誰にも邪魔されず自由で、なんていうか救われてなきゃあダメなんだ、独り静かで豊かで……。
プロでブログをやるような人は、自分の自由を削ってブログをすればよろしい。それはそれで一つの道ではある。けれども、自由になるためにブログをやる人、ブログの自由を愛する人が、プロよろしく、自分の自由を鉛筆みたいに尖らせて、キャラという鋳型からはみ出た自分自身を切断して、全人格の一部分だけを記し続けるなんて、バカみたいじゃないですか。
書きたいことが書けないブログなんてやりたくねぇ!!
ブログブームが昔のことになった今、メルマガやcakesといった、もうちょっとプロ寄りのネットメディアが注目されている。それはそれで結構なことだと思うし、金銭が絡むことによって育まれる文化の土壌があるというのもわかる*2。けれども、ひとたび金銭・ビジネス・発言力にブログを捧げてしまえば、そのブログは捧げたぶんだけ不自由になる。例えば、金銭にブログを身売りした人のブログは、金銭の顔色を伺うようになるだろう。プロになるというのは、そういうことでもある。
けれども本当は、「ブログで儲けなければならない」とか、「ブログで発言力を獲得しなければならない」なんて、ブログの規約には書いてないのである! (株)はてなのブログはもとより、アメブロやライブドアブログにも「お金やステータスを手に入れるのがブログの最終目的です」とは書いてないはず。正反対に、ブログを自分自身の思考や通信の自由を拡張するためのアイテムとして、あるいは公開デスクトップ・予備的ワークショップとして使ったってかまわないのだ。
このブログの名前が「シロクマの屑籠」なのも、立ち上げる際、「メモを書き殴った紙を丸めて投げ捨てるための屑籠」を連想したからに他ならないし、今も昔もここは私の屑籠、デスクトップである。ここは、私にとって考えを整理したり散らかしたりするための場所であり、誰かに向けて手紙をしたためるための場所であり、酒を飲みながら深夜アニメを見るためのリクライニングシートでもある。だから「シロクマの屑籠」は自分の自由を拡張するためのブログであり続けたいし、そうせずにいられない*3。
「自由になるためにブログを閉鎖する」自由
一方で、ブログを消す人もいる。
ペンネーム「葉真中顕」としてミステリー新人賞を受賞した、罪山罰太郎さんのブログ『俺の邪悪なメモ』が最近閉店になった。罪山さんほどのお人が、何の考えも無しにブログを畳むとは思えず、実際、新しいペンネームではてなブログを立ち上げてらっしゃる……ということは、ブログの利用価値を意識していないわけではないと推定される。そのうえで・何らかの判断にもとづいて旧ブログを畳んだ、ということだろう。
そういえば、コンビニ店長だって一度ブログを閉店している。店長の場合は、冷徹な計算に基づいてというより、発作的・衝動的にブログを消している可能性が否定できない。彼はまた気まぐれでブログを消してしまうかもしれない。
こうしたブログ閉鎖も、“なかのひと”が自由になるために必要な所作だとしたら、いいモンだなと思う。スタートからゴールまで、徹頭徹尾、自分の好きなようにやればいいじゃないか。「飽きてきたのでこのへんで。」「そんじゃーね。」で尻切れトンボ逃げ切りが許されるのもブログのいいところだ。やっぱりブログは自由でないと!
大事なことだからもう一度*4。
「ブログを書いている時はね、誰にも邪魔されず自由で、なんていうか救われてなきゃあダメなんだ、独り静かで豊かで……。 」
ブログ書いている時ぐらい自由でいたい。