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かつて南部アフリカ内陸にローデシアという国があった。古代の原住民はブッシュマンであったといわれるが、1850年代にイギリスの探検家リビングストンが到達してから、イギリスの植民地となった。1895年からはセシル・ローズにちなんだ地名「ローデシア」と呼ばれるようになる。1923年にはイギリスの植民地となる。第二次世界大戦後もイギリス保護領となったが、1964年、北ローデシアが「ザンビア」として独立、1980年には南ローデシアが「ジンバブエ」として独立し、ローデシアの名は地図から完全に消えた。
国土の半分以上が海抜900~1500m以上の高地であるため気候は概して温暖で、最も暑いザンベジ川、リンポポ川峡谷沿いでも、年間平均温度は30℃を超えない。主要部族はバンツー語系のマショナ族とマタベレ族。ジンバブエの面積(39万k㎡)は日本(37.7万k㎡)より少し広い。
1855年 リビングストン、ビクトリア滝を発見
1893年 ロベングラの反乱
1923年 イギリス植民地ローデシア
1953年 中央アフリカ連邦(ローデシア・ニヤサランド連邦)結成
1964年 ザンビア独立
1965年 白人のローデシア戦線(RF)、国名をローデシアとして独立宣言をしたが国連は承認せず
1980年 ジンバブエ共和国、完全独立
( Livingston,Zimbabwe,Rhodesia )
トム・クルーズがケイティ・ホームズと離婚することになった。トムは過去にミミ・ロジャーズ、ニコール・キッドマンとの離婚歴があり、ケイティとは3回目の結婚だった。エリザベス・テーラーは結婚、離婚を繰り返して生涯に8回の結婚をした。しかしそれよりも上がいる。「赤い風車」のザ・ザ・ガボール(94歳)は9回。今年1月に感染症で右脚を切断する手術を受けたが、元気に回復したらしい。男性ではわれらがミッキー・ルーニーだ。映画「ナイト・ミュージアム」(2009)でも健在ぶりをアピールしたが、8回の結婚歴を誇る。いまや映画界の生きる世界遺産といわれる。日本へも「トコリの橋」で来日し、淡路恵子と共演したのが懐かしい。
アメリカの細菌学者ハンス・ジンサー(1878-1940)の自伝「彼の追憶R.S.の伝記」(1940)にこんな話がある。
第二次世界大戦前のパリ。小さな店の女主人と店の2階に住む学生がいた。店の正面の出窓には水槽があり、ちっぽけな亀が飼われていた。学生は自室の窓から身を乗り出せば、水槽のなかで楽しげに泳ぐ亀をまっすぐに見おろせることに気づいた。女主人は毎日せっせとパンくずを振りまき、ペットに餌をやっている。そんなある日、あることを思いついた学生は、サイズのちがう6匹の亀と釣竿と網を買ってきた。彼は翌朝早く、窓から身を乗り出して、釣竿で亀をすくいあげ、少しだけ大きなものと取り替えた。学生は6日にわたって、毎朝亀を少しずつ大きなものに取り替えていった。2回目の入れ替えがあったあと、女主人はようやく変化に気づいた。4回目までには、奇跡の成長を遂げる亀のことを興奮しながら近隣中に触れまわった。獣医はあまり餌をやりすぎないほうがいいともっともらしい助言を与えた。6日目に水槽が窮屈になるほど亀が大きくなると、女主人は新聞社に連絡した。パリ・ミディ紙はこの話を載せた。この時点で、学生が買った亀はもういちばん大きなサイズにまで到達していた。そこで、今度は元のサイズになるまでだんだん小さくしていくことにした。これがさらなる反響を呼んで、店の売り上げは記録的にのびた。珍しい亀を見ようとあちこちから野次馬が押しよせてきたのだ。やがて、亀が元の寸法にもどると、学生はもうじゅうぶんだと思い、代役を演じた亀たちを川に放してやった。ペットが急成長したほんとうの理由をまるで知らない女主人は、この珍しい亀を王立動物園に寄贈した。ふたたび大きくなりだすであろう亀を生物学者たちが観察できるように。(Hans Zinsser)
ルネサンス(Renaissance)の文化は、まずイタリアに起こった。中世のイタリアはヨーロッパと異なり、あまり封建制度も強化していず、11世紀から早くも農奴が解放され、封建領主に対抗して自由都市が生まれた。ことに十字軍の輸送路にあたり東方貿易の中継地として、海港都市のベニス、ジェノアが栄え、内陸都市のフィレンツェは織物工業や教皇庁と結んだ金融業で栄えた。
そこで、早くからイスラムや東ローマとの交渉を通じて、ギリシア・ラテンの古典が大量に輸入された。古代ローマの発祥地であるイタリアは、偉大な古代へのあこがれがつよく、中世を通じて古典文明の伝統が残っていた。
しかもイタリアは、古代ギリシアのように都市が対立し、互いに繁栄を競っていた。これらの専制君主や教皇などは、互いに新しい文化の保護奨励を競った。イタリアのルネサンスは、このようにして、14・15世紀にまずイタリア最大の商業都市フィレンツェを中心として起こった。庶民出身の大銀行家・メディチ家の支配の下に、都市国家的な民主制度が発達して、一時に学者や芸術家が輩出して、15世紀後半はイタリアのルネサンスの一大中心地となった。16世紀になると、フィレンツェは衰え、文化の中心はローマに移った。
この文化興隆現象にルネサンス(再生)という言葉を初めて適用したのはジュール・ミシュレ(1798~1874)であった。そして1860年にブルクハルト(1818-1897)が『イタリア・ルネサンスの文化』を出版し、古代文化の再生による人間と世界との再発見の時代と定着して以来、世界各国の関心は急速に高まり、それとともにルネサンスという言葉にも、古代復興・近代の誕生というイメージが定着した。
同じイメージは、しかしすでにルネサンスの同時代人にも見られるものである。レオナルド・ブルーニ(1369~1444)は、700年もの間、古典が埋もれ続けてきたことを嘆き、これを闇の中から再び光の中に呼び起こした人として、ペトラルカの名をあげ、古代文化のリナシタ(再生)をたたえた。( Jacob Burckhardt,Jules Michelet,Leonardo Bruni,Fracesco Petrarca )
「お母さん、タンクロー飴、買って頂戴!」
阪本牙城(1895-1973)の漫画「タンクタンクロー」は戦前に子供だった方は御存知かと思う。チョンマゲ頭の豪傑でボーリングの球のような胴体をしている。そして胴体の8つの穴の中から大砲、日本刀、ピストルなど何んでも出てくる。プロペラを出して空を飛ぶこともできる。ケペルは実際に漫画本を読んだ記憶はない。昭和9年に雑誌に連載され、単行本になったのは昭和11年である。豪傑物語で悪人を退治するので戦時中も盛んに読まれたと思う。戦後、GHQの指示で発禁になったかどうかは定かではない。ともかく確実に言えることは、戦前に販売されていたタンクロー飴は戦後もかなり経つまでお菓子屋さんで販売されていたことである。ケペルが幼稚園にあがる前、昭和33年頃、市場のお菓子屋で母に買ってもらっていた。タンクローに因んで黒くて丸い形の飴だった。工場で大量生産されたもので、おそらく全国的に販売されていたであろう。サイトで調べたが、タンクロー飴の存在したことは確認できたが、販売元など実体を明確にするには至らなかった。おそらく漫画キャラクターとしては、のらくろ以上に長い生命力(推定20年間くらい)を持っていた商品であろう。母の日で、ふと幼い頃を思い出したのであろうか。
「昭和日本史11」(暁教育図書)を見ていたら、昭和10年代の菓子類に「タンクロー飴」が載っていた。(画像下段左)ケペルが見た戦後の商品とほぼ同様である。販売元は大阪のカル素本舗らしい。
1926年、マーガレット・ミッチェルは落馬による左足首を捻挫し、関節炎を起こし、回復に手間どったため、5月にアトランタ・ジャーナル社を退社。このころからむさぼるように読書する。読書の範囲は広く、文学、歴史、医学、考古学、探偵小説等。一日8冊を読み上げるので、夫のジョン・ロバート・マーシュは毎日一抱えの本を持って市立図書館へ往復しなければならなかった。この年、夫のすすめに従い「風と共に去りぬ」を書き始める。執筆の動機は母の話がきっかけだった。少女時代、あまり学問が好きでなかったので、母はある日の午後アトランタの郊外へ彼女を伴い、南北戦争で荒廃したままの土地を見せて歩いた。戦争から多くの歳月が過ぎたそのころでも、この地方の土地や生活には戦禍のあとがまだなまなましく残っていた。母はあちこちの建物を指して、戦争と復興の苦難を乗り越える意力と能力のあった家と、うちつづく困苦を切りぬけるだけの力がなかったために没落していった家とを教えて、彼女の心に、あくまでも生きぬく力を喚起させ、そのためには学業がいかにゆるがせにならぬものかを説いてきかせた。そのときのことはのちのちまでも忘れられなかったという。その人たちの中には成功しようとして戦いぬいた人と、その戦いに雄々しくいどんで敗れた人と、やっと生きのびているだけの人とがあったわけで、これをテーマに小説を書こうと思ったのが、畢生の大作を生む動機となったのである。1933年、前後7年間にわたって断続的に書きつづけた「風と共に去りぬ」はほぼ脱稿した。1935年、マクミラン出版社の副社長ハロルド・S・レイサムは、ミッチェルが大作の草稿を筐底に秘めていることを知り、ぜひそれを見せるようにと懇願した。ミッチェルは気がすすまなかったが、ついに決心して原稿を副社長に見せることにした。マクミラン出版社がこれの刊行を決定したのは同年夏のことである。1936年6月30日、「風と共に去りぬ」はニューヨークのマクミラン出版社から刊行され、一年間で150万部を売りつくした。
本の題名については、出版社側は「明日がある」(アナザー・デイ)を採用することを内定していたが、彼女はさまざまな題名を提案しつづけた。その一部をあげると、「苦難を荷え」「一里塚」「めえ、めえ、黒羊=無頼の嘆き」「いつかは日が開く」「無情の星」「ラッパの調べは切なし」
最後の題名は、つぎのような南北戦争時代の戦歌からとったものである。「ラッパの調べは切なし、夜の雲低く垂れ、星が空にきらめくころ。兵士みな地に伏す。疲れしものは眠り、傷つきしものは死に」この題名そのものは、かなり彼女の気に入ったのだが、「ラッパの調べ」が彼女のいわんとするところを切実に物語るものとも思えなかった。しかし、それを契機として、何かほかの詩のなかに引用できる辞句があるのではないかという期待をもつようになり、それとなく気をつけていた。やがて10月の最後の週に、マーガレットは一冊の英詩集を開いて、アーネスト・ダウスンの詩「われはもはやシナラをともに愛せしころのわれにあらず」に、なにげなく目をやった。この題はホレースの頌詩からとったものである。マーガレットは以前からこの詩を愛していた。1900年に肺結核で短い数奇な生涯をとじた審美派の英詩人ダウスンの代表的叙事詩で、当時の若い世代の人々はこの詩の冒頭を読んだだけで、異常な感動にうたれたのであった。「前夜、ああ、昨夜、かの女とわが唇の間に、きみは影を落とした。シナラ!」そして、つぎの反復句がつづく。「われはわれなりに、きみにまことをささげてきた。シナラ!」やがてつぎの二行がマーガレットの目をとらえた。
「われは多くを忘れ去った。シナラよ!すべては風と共に去った。バラは、棘もろともあらあらしく吹き飛ばされた」 I have forgot much,Cynara!gone with the wind
「風と共に去った」 これこそ、まさに彼女が探していた言葉だった。(参考:フィニス・ファー「マーガレット・ミッチェル物語」河出書房)
( Margaret Mitchell,Ernest Dowson )
印刷会社の元従業員が胆管がんを多発するという。洗浄剤に含まれる化学物質が原因といわれる。私も5年間、印刷工場にいた。オフセット印刷の時代で製版をしていた。
cholangioma cancer 胆管がん
breast cancer 乳がん
kidney cancer 腎臓がん
carcinoma of colon 結腸がん
bladder cancer 膀胱がん
pancreatic cancer すい臓がん
laryngeal cancer 咽頭がん
lung cancer 肺がん
stomach cancer 胃がん
liver cancer 肝臓がん
esophageal cancer 食道がん
colorectal cancer 大腸がん
rectal cancer 直腸がん
prostate cancer 前立腺がん
brain hemorrhage 脳出血
cerebral meningitis 脳膜炎
sepsis 敗血症
leukemis 白血病
peritonitis 腹膜炎
leprosy ハンセン病
cardiac insufficiency 心不全
hepatic insufficiency 肝不全
myocardial 心筋梗塞
cirrhosis of the liver 肝硬変
renal insufficiency 腎不全
appendicitis 盲腸炎
ulcer 潰瘍
subarachnoid hemorrhage クモ膜下出血
duodenitis 十二指腸炎
1913年2月、メキシコの軍人ウエルタ(1850-1916)はクーデターにより軍事政権を確立した。4月9日、米水兵逮捕事件(タンピコ事件)をめぐり、合衆国ウィルソン大統領はウエルタ政権を承認せず、21日、米軍はベラクルズを占領し、メキシコ側には数百人の死者がでた。ウエルタはカランサを指導者に立てて護憲軍を結成。こうしてアメリカとメキシコとは対立していたが、アルゼンチン、ブラジル、チリの3国が調停に入り、ナイアガラで1914年5月から6月、会議が開催される。まさに第一次世界大戦勃発の2ヵ月前のこと。その結果は、アメリカはメキシコのウエルタ政権を臨時政府として承認し、メキシコが革命中外国に与えた損害について国際調査団と協議するという調停案を提出したが、ウィルソンが拒絶したので会議は不成功に終わった。1914年7月、ウエルタは政権を放棄し、国外に亡命。8月にカランサがメキシコ入城を果した。(Woodrow Wilson,Victoriano Huerta,Venustiano Carranza,Niagara,Tanpico)
lumbalgia 腰痛
aging 老化
heat rash あせも
diarrhea 下痢
vomiting 嘔吐
anemia 貧血
deafness 難聴
hemorrhoid 痔
asphyxia 窒息
hyperemia 充血
food poisoning 食中毒
fainting 失神
fecal impaction 宿便
stillbirth 死産
dystocia 難産
glaucoma 緑内障
insomnia 不眠症
urocystitis 膀胱炎
gallstone 胆石
appendicitis 虫垂炎
asthma 喘息
bronchitis 気管支炎
malnutrition 栄養失調
pregnancy 妊娠
beriberi 脚気
体温計の発明はガリレオの寒暖計の発明をヒントにして、カポディストリア(現在はスロヴェニアのコペル)の医師サントーリオ・サントーリオ(1561-1636)が1612年に考案したといわれる。しかしこれは実用からは程遠いもので、その後、ファーレンハイト(1686-1736)などによって改良され、カール・ブンダーリッヒ(1815-1877)によって医療への応用が進められた。
1866年イギリスの内科医トーマス・オルバット(1836-1925)によって小型の体温計が発明された。それまでの大きな体温計は体温を測るのに20分ほどかかるものであったがこれによって大きく短縮された。(Galileo,Santorio Santorio,Daniel Gabriel Fahrenheit,Carl Reinhold August Wanderlich,clinical thermometer)
パフェとはアイスクリームに生クリーム、フルーツ、シロップ、チョコレートなどを添えたデザート。語源はフランス語で「完璧」を意味するパフェ(parfait)からきている。昭和25年のこの日、巨人の藤本英雄(1918-1997)が日本プロ野球史上初のパーフェクトゲームを達成したことにちなんで6月28日を「パフェの日」に制定したという。都合のよいにようにこじつけた牽強附会の代表例。アメリカではサンデー Sundaeという。1881年ウィスコンシン州のエド・バーナーズ(1863-1939)が創案した。日曜日は安息日で質素な Sunday を売り出したところ大評判。しかしキリスト教徒からの反発もあって、つづりをSundae と変更したという。(Ed Berners)
これは古いイギリスの小話です。
9月のある朝、海で嵐があり、一隻の船が岩に打ち上げられました。そして数人の水夫たちは難破船の壊れた船体の一部にしがみついてなんとか生きながらえていました。
事故現場からあまり離れていない島に灯台がありました。灯台にはグレース・ダーリングという名前の少女とその父とが住んでいました。彼らは水夫たちが遭難しているのを見ました。グレースは「お父さん、なんとかあの人々を助けてあげて」といいました。「それはやってみてもだめだ。あそこまで行きつけないよ」グレースはあきらめませんでした。彼女と父はがっしりしたボートに乗って出かけました。グレースは片方のオールをこぎ、父はもう片方のをこぎました。ついにふたりは難破船に行きついて、水夫たちを救助しました。彼らをボートに乗せてふたりは灯台までこぎ帰り、温かい食物と着物を与えました。人々はその少女の勇気ある行動を褒め称えました。
ファーン諸島沖で難破船フォーファーシャイア号から9人を救助したグーレス・ダーリング(1815-1842)の勇敢な行動は実話で(1839年9月7日)、英語のリーダーのテキストでも広く知られていた。グレースはわずか26歳で結核で亡くなっている。(Grace Darling,Farne lslands,Forfarshire)
今日はフランス革命の思想的支柱となったジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)の生誕300周年にあたる。1712年6月28日にスイスのジュネーブのフランス系時計職人の息子として生れた。生後10日で母を失い、その後は正規の教育をうけず、父とともに「プルターク英雄伝」などを読みあさった。しかし、この父も10歳のとき蒸発した。彼は牧師のところの寄宿生となったり、ワラン夫人と同棲したりしたあと、故郷を去ってパリに出た。19歳のときである。ルソーはすぐ、12歳年上のバラン夫人、その後、ベルスリス夫人と二人の後家さんに可愛がられたが、いずれとも別れた。バラン夫人とは、「ママ・坊や」と呼び合うほどの生活を送ったらしい。その間、数字による音譜記号を発明して音楽界へ、大使秘書をつとめて政界へ、サロンへ出入りして社交界へと進出を企てたが、どれも大成しなかった。結局、自分を社会に適応させる努力を放棄し、社会を批判し、革命の戦いに転じた。彼はその著『エミール』(1762)で健全なる市民を作る教育法を説き、『社会契約論』(1762)では、18世紀後半の腐敗堕落した社会、文明を批判し、合理的な共和国建設を訴えた。120年後、中江兆民によってルソーは紹介されたが(1882年)、日本でルソーの思想を本格的に実現されたことはいまだない。( Jean Jacques Rousseau )
見栄っ張りな海外ブランド志向の浪費家の女性を味噌女(テンジャンニョ)と韓国ではいう。逆に僅かなお金も出し惜しむケチ男のことをコチジャン男という。
スイカといえば丸形だったり、小玉のように楕円形だったりするが四角いスイカもある。香川県善通寺の生産者が約30年前に開発し、全国に流通している。価格は1個1万円で、甘味に乏しくディスプレイとして使われているらしい。
スイカがわが国に伝えられた室町時代。当時の人々は赤い果肉が生首を思い出すので食べられなかったという。江戸時代にも由比正雪の乱の翌年、慶安の頃にスイカが出回ったが、由比正雪の首だといって食べられなかったという話が伝わる。江戸にスイカが広まったのは万治(1658-1661)のころで、京都に広まったのは、寛文から延宝(1661-1680)以後とある。1770年、以降、スイカは夏の味覚として広く庶民にまで食べられるようになった。
人間の世界には、人間にとって重要な意味をもちながら、十分な研究はおろか意識されていない事象がたくさんある。しぐさやサインなどのノンバーブル(非言語的言語)は、その1つである。たとえば「親指をたてる」しぐさは、日本では「男」「彼」「お父さん」を示すが、外国ではたいてい「OK」「よくやった」という意味をもっている。英語圏では「Thumbs up」という成句とセットになっている。反対に「親指を下にむける」しぐさは、多くの国で「よくない」という意味で使われる。古代ローマの闘技場で、試合に負けた闘技士に対して、観客が不満の気持ちを表わすしぐさからきている。
「人さし指と中指を立てる」しぐさは、チャーチルの「勝利」や、ジョン・レノンの「平和」を意味するしぐさとして広く知られている。ベトナム反対運動のころフィギュアスケートのドロシー・ハミルが反戦を訴えたり、井上順がカメラのCMでピース・サインをしたことで日本にも広まった。若い日本人が写真撮影でやたらとピース・サインのポーズをすることが外国でも話題になっているそうだ。ただし国によっては思わぬ意味を表わすこともある。ギリシアでは「お前くたばれ!」の意味である。英語圏でも手の甲を相手に向けて出すと侮辱的な表現になることがあるので注意を要する。(nonverbal glossary,peace sign)
中央にホワイト・タワー、時計回りに、ソルト塔、マーティン塔、ビーチャム塔、ベル塔がある
ロンドン五輪開催まであとひと月と近づいた。ところでロンドンという地名の由来は謎である。ロンドンのラテン名であるロンディニウム(Londinium)はケルト語のリィンディン(Lyndyn沼沢地の砦)にその語源があるらしく、ケルト時代のロンドンはテムズの沼沢地に臨んだ原始的な城塞だったらしい。一説によると、ケルト語「ロンディノス」(Londinos)勇士の土地、という意味がローマ化されてロンディニウム、それが転訛してロンドン(Londn)となったともいう。
またロンドンの誕生が、紀元43年にローマ皇帝クラウディウスにより創建されたのか、またそれ以前から存在していたのかも明らかではない。だが1世紀末には早くも商業都市として栄えていたことは事実である。5世紀にローマ人が撤退したあとは、アングロ・サクソン人の侵入となり、やがて1066年にはノルマン人のウィリアム1世によるイングランド制服が行われ、ノルマン朝の成立となる。ウィリアム1世は、1078年に、ロチェスターの司教ガンドルフに命じてホワイト・タワーと呼ばれるキープ(天守)を造らせた。これがロンドン塔の始まりである。息子のウィリアム2世によって完成された。石造4階建ての天守閣の中で、もっとも神聖な場所はセント・ジョーンズ礼拝堂である。その後、リチャード1世、ヘンリ3世、エドワード1世らによってロンドン塔は増築された。(Tower of London)
東大仏文科の辰野隆教授は、晩年、これまでの生涯をかけて収集した自分のすべての蔵書を調べてみて愕然とした。フランスの本を3000冊。しかし、そのうちまちがいなく目を通したのは1000冊。きちんと読んだといえるのは、そのうち半分で500冊。3000冊のうち2000冊は、ページも切っていないのだった。
最近の若い人などはスマートフォンを使うので多くの書物をもたないという。私の若い頃は、映画や食事代は節約してでも古本を購入した。もちろん図書館からも借りてよんだが、ほしい本は身銭を切っても買うべきだと考えた。だが苦労して集めた本も専門書など、時間が経つと関心が移って読まなくなる本も多い。歴史学でも古代史に関心があったかと思うと、近代史を勉強したくなる。高価な本ほど読まないことが多い。アーノルド・ベケットは「自分で読書的雰囲気を醸し出すために、君の周囲を書物で埋めることである。書物の本質から言えば、外面的なことではあるが、これは大切なことである。未経験者の想像以上に大切なことである」(「文学趣味 その養成法」より)と記している。(Arnold Bennett)
今日は「演説の日」。古来わが国には演説という習慣がなく、自分の意見を他に示し賛同を求めるには、書面にしたためてこれに示す以外に方法がなかった。明治7年の6月27日、慶應義塾で第1回三田演説会が開催された。これが日本で最初の演説会である。
またスピーチを「演説」、ディベートを「討論」と翻訳したのは福沢諭吉である。
パリの歴史は、紀元前3世紀にケルト系のパリシイ人が、セーヌ川に浮かぶシテ島に住みついたことに始まる。紀元前52年ごろ、ガリア遠征中のカエサル率いるローマ軍がこの地を攻略した後、ルチチィア・パリシオルムと呼ばれるようになった。この地は河川交通の要衝として栄え、シテ島とセーヌ左岸を中心に、ヨーロッパ風の都市が形成されていった。歴史とともにパリは政治の中心地として発展してきたが、長い歴史を経て、19世紀も末に近い1870年には人口200万の大都市となった。ナポレオン3世の命を受けたセーヌ県知事ジョルジュ・オスマン(1809-1891)は、パリの大規模な改造計画を推進、工事は1852年に始まり、これによって清潔で明るいパリが生まれた。グラン・プールヴァール(大通り)に面してはカフェ、画廊、劇場、ブティック、百貨店もでき、人々はにぎやかに行き来し、乗合馬車も走った。シャンゼリゼ大通りから遠く凱旋門の立つエトワール広場まで見渡すことのできる光景は、オスマンのパリ改造計画によって誕生したものである。パリは世界中の都市計画のモデルにもなった。
また数度にわたって開催された万国博覧会は、パリを名実ともに「花の都」と呼ばれるにふさわしいヨーロッパの都へと成長させた。1889年に完成したエッフェル塔はその象徴である。また1900年の万博時には地下鉄(メトロ)も開通して、パリの主要な交通機関となった。こうして世界の芸術家がパリに集まり、絵画や映画など新しい文化を発信した。(Gerges Eugene Haussmann)
アンリ4世(1553-1610)がパリに入城して以来、道路舗装、給水用の泉、下水、病院施設などの拡充と、合理的なパリの再建に力を入れた。1636年には、パリの道路は400を数え、道路の数は17世紀末には1000を越えるようになった。市内の馬車を曳く馬の数が12万頭といわれ、馬糞の臭いもひどかった。室内にトイレはなくおまるに用を足し、朝になったら窓から道に汚物を投げ入れた。道路は人糞や生活ゴミで足の踏み場もない状態だった。また当時、埋葬は土葬で近くの墓場から死臭がただようこともあった。太陽王ルイ14世の死後、摂政を務めたオルレアン公の母親エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール(1652-1722)は手紙に次のように書いている。「通りはとても臭くて我慢できないほどです。ひどく暑いため、大量の肉や魚が腐り、しかもその上、通りで立小便をする人が大勢いるので、とてもいまわしい臭いとなり、どうにも我慢できたものではありません」(1718年8月25日の手紙から)
中世初期の間、ローマ帝国時代から続いた都市はほとんど荒廃し、新しくできた都市はまだ小さく、あまり重要なものではなかった。人びとの多くは田園に住み、修道院や貴族に従属して農耕した。しかし、12世紀以来、都市はふたたび栄えはじめる。人びとはだんだんと田園を捨て、自由な自治都市の住民となり、土地所有者である君主にしばられなくなった。このことが中世の生活に大きな変化をもたらした。自由市民は熟練した職人であり、企業力ある商人だったので、都市はやがて、富と芸術と学問の中心地となった。また、都市生活は人びとに独立心と実行力とを与えた。人びとは新しい考えにめざめ、自分たちの周囲の世界により多くの関心を持つようになった。やがて国王がパリに定住するようになると、首都にふさわしい権威を象徴する建築物がつくられていく。この新しい精神から、ゴシックと呼ばれる、新しい芸術様式が生まれた。ゴシックは1150年頃フランスにはじまって、西ヨーロッパ全域に広まった。ゴシック時代、フランス、イギリス、ドイツでは小さな色ガラスがいろいろな形に裁断され、鉛の枠(ジョイナー)で組み合わされ、聖堂建築において不可欠なものとしていちじるしい発展をみた。フランスのシャルトル大聖堂、ル・マン大聖堂、ノートル・ダム大聖堂、イギリスのヨークおよびカンタベリーなどの諸聖堂のものが、12~13世紀の代表的な作例として名高い。教会そのものがまるでガラスの家のように見え、壁として残る部分は、はなはだ少なくなった。ただイタリアだけは例外である。イタリアでは、教会はかたい壁を保存し、壁画は数世紀間主要な芸術であった。イタリア人はいろいろな点で北方の国民とちがっていた。彼らはローマと初期キリスト教の継承者であることを決して忘れなかったし、また、都市生活のこともずっとよく知っていた。イタリアには豊かな、強力な中世都市が他の諸国より、はやくからある。13世紀末から14世紀にかけてチマブーエ、カバリーニ、ジョットその他の画家が活躍した。とくにジョットの描く大胆な人物像は近代的精神が見られる。(参考:H・W・ジャンソン「絵画の歴史」1963)Cathedrale Notro-Dame de Paris
1854年、ペリー提督率いる米国海軍が日米和親条約により再来航し、以後幕府は入港してくる外国船に欠乏品を供給することになった。浦賀奉行支配組頭の黒川嘉兵衛は交渉事務や欠乏所創設の任に当たった。欠乏所とは航海上に必要に薪水・食料・石炭など必需品から漆器・織物・陶磁器・雑貨のような土産品まで販売していた。幕府は欠乏所売り上げの3割を税として徴収したので、思わぬ利益を得ることになった。1859年、神奈川、箱館、長崎が自由貿易港として開港されると、下田欠乏所は廃止された。黒川は1858年の安政の大獄で免職となり、のち一橋家に仕えたが、明治以降は京都に住んでいたといわれるが詳しいことは不明である。なおペリー再来航時に黒川を撮影した写真が最古の銀板写真といわれ残っている。1885年没。(「ペリーと下田開港」 森義男編 下田史談会)
フランス南西部アキテーヌ地方のサン・テミリオンはボルドーと並ぶワインの産地である。ローマ帝国の属領時代からワインの製造が行なわれてきたが、ボルドーやサン・テミリオンのワインがヨーロッパに知られるようになったのは、一人の誇り高い王女の結婚と関係している。
アリエノール・ダキテーヌ(1122-1208)はボルドーを含むアキテーヌ地方の公女として生まれたが、フランス王ルイ7世と離婚した後、アンジュー伯家の貴公子アンリ・ドゥ・プランタジネットと結婚した。アンリは2年後の1154年にイングランド王に即位し、ヘンリー2世となり、その領地ボルドーも英国領となった。以降、この状態は1453年にフランス領に戻されるまで続いた。この間、ボルドーワインは、イングランド王室や貴族などへの贈り物とされ、そのアルコール度の高い力強さによって「ワインの王様」とたたえられるようになった。( Alienor d'Aquitaine,HarryⅡ,Bordeaux,Saint Emilion )
小沢派議員の造反劇。54という数字が注目される。果てしない派閥争い。韓国時代劇のドロドロの権力争いと同じ世界だ。朝鮮王朝は太祖李成桂から純宗まで27代518年続いた。
さて韓国ドラマ「王女の男」は15世紀、第7代国王、世祖(1417-1468)の頃の物語。世祖(セジョ)は病弱だった兄の文宗と違って武芸に優れており、野心が大きかった。1453年、癸酉靖難(ケユジョンナン)を起こし、韓明澮ら腹心を動員して権力中枢にいた重臣を謀殺、政権を掌握する。政敵を情け容赦なく排除した世祖だが、朝鮮王朝の中央集権体制を確立するのに大きな貢献をした。職田法(チクチョン)を制定して財政を安定させた。さらに基本法典である「経国大典」(キョングクデジョン)の編纂を開始し、「戸典」(ホジョン)「刑典」(ヒョンジョン)を完成させた。
1284年6月26日、まだら模様の服を着た男が笛を吹くと、まちの子供130人が踊りながらその男について行き、遠くに消えてしまった。親たちはわが子を探したが、ついに見つからなかった。あの子供たちはどこに消えてしまったのだろうか。これまで25もの学説が生まれた。舞踏病にかかった子供たちが踊りながら消えてしまったと考える人、子供十字軍に徴兵されて聖地へ出かけていったと考える人、ペストなどの病気による大量死、崖に落ちて死んだという事故説などもある。当時、ドイツ東部、チェコ、ポーランドなどで開発がさかんに進められた。領主である貴族たちが各都市に植民請負人を派遣して移住者を募っていた。この植民請負人こそが笛吹き男であり、消えた130人の子供たちは、ハーメルンを捨てて新天地へ旅立った若者たちだと考える説もある。アニメ映画「千と千尋の神隠し」のように日本にも「神隠し」といって、子供などが、にわかにいなくなって、どれだけ探してもついに戻ってこなかったという話が残っている。すなわち、天狗、鬼、隠し神、隠し婆、隠れ座頭など、さまざまな妖怪によって隠されるという。平田篤胤による寅吉少年の神隠しの物語もある。( The Pied Pier of Hamelin )
7世紀初め、7王国の一つであるノーサンブリアの王エドウィン(在位617-633)が創建し、「エドウィンの城市」と呼ばれたが、これが通称となってエディンバラなる地名が生じた。中世のエディンバラは、国都としてよりもむしろイングランドに対する軍事的都市としての色彩が強かったので、国王にしても、常時ここに在住することきなかった。エディンバラが名実ともにスコットランド王国の首都となるのは15世紀になってからで、現存するほとんどの建物はこの時以降のものである。
スコットランド女王メアリ・ステュアート(在位1561-1568)は仏王フランソア2世と結婚したが死別し、のちにダーリン卿と再婚してジェームズ1世を生む。夫を暗殺させたためイングランドにのがれ、エリザベス1世に頼ったが、旧教徒の女王暗殺事件に連坐し斬首された。
エディンバラは18世紀になってから整備された碁盤目状の新市街でつくられている。(Edinburgh)
ベルギーの首都ブリュッセルは、EUの本部やNATO北大西洋条約機構本部(ヤープ・デ・ホープ・スヘッフェル事務総長)が置かれているため、ヨーロッパの政治の中心地になっている。ブリュッセルの語源は、ブラマン語のブリュック(沼地)とサリ(建物)である。7世紀、この地はブリュックセラ(沼地の家)と呼ばれた。12世紀には都市を囲む城郭が築かれるまでになり、商工業の町として栄えた。ユネスコ世界遺産に登録されている旧市街地にある大広場グラン・プラスは、17世紀頃の建築物に囲まれ、ユーゴーは「世界一美しい広場」と称賛している。約110×70mの広さがあり、その周囲には、市庁舎のほか、パン職人、ビール醸造業者、大工・家具職人、船頭のギルドハウスなど11棟の建物が並んでいる。
フランドル地方は中世、毛織物工業を背景にブリュージュなどが商業の中心地として繁栄した。15世紀、ブルゴーニュ公国に編入、さらにハプスブルク家の支配下に置かれた。1815年のウィーン会議で、フランスの再拡張を抑える緩衝地帯としてオランダに併合された。1830年10月4日、独立革命によりオランダから独立を宣言。翌1831年、レオポルド1世が国王に即位、立憲君主国となった。中立政策をとったが、2度の世界大戦でドイツの侵略を受けた。2011年、ワロン系社会党のエリオ・ディルポが首相に就任した。(La Grand Place,Brussels,Elio Di Rupo)
フランス南西部にあるボルドーは、ガロンヌ川の三日月形の湾曲部分が港として発達し、その地形に由来して「月の港」と呼ばれるようになった港湾都市である。古くからワインの産地として知られたボルドーは、ガリア人の集落を起源にもち、ローマ帝国の植民地となってからは交易都市として発達した。12世紀にはイングランドなどとの交易で一大商業都市に成長。現在の街並みは、絶頂期であった18世紀の新古典主義の都市計画によるもので、ブルス広場や大劇場などが残る。ピエール橋はガロンヌ川を渡る最初の橋である。( Bordeaux,Pont de Pierre,Port of the Moon,place de la Bourse,Garonne,Gallia )
ヘルマン・ブロッホ(1886-1951)はオーストリアの作家。ナチスの迫害を避けるためアメリカに亡命。アメリカで出版された「ウェルギリウスの死」はアメリカのインテリ層に大きな反響をひきおこした。アンナ・ゼーガース(1900-1983)は反ファシズムの作家としてフランス、そしてメキシコへ亡命。「第七の十字架」(1942)で国際的な作家となる。代表作は「死んだ少女たちの遠足」「死者はいつまでも若い」。マックス・フリッシュ(1911-1991)はスイスの作家。「アテネに死す」「我が名はガンテンバイン」などの小説で広く知られる。ハインリヒ・ベル(1917-1985)は住宅難による夫婦解体の危機を描いた「そして一言も言わなかった」で文名を確立した。ギュンター・グラス(1927年生まれ)は「ブリキの太鼓」で戦後ドイツ文学の代表的な作家となった。ウーヴェ・ヨーンゾン(1934-1984)は東西分裂のドイツ社会を描いた「ヤーコプについての推測」(1959)が代表作。(Hermann Broch,Anna Seghrs,Max Frisch,Heinrich Boll,Gunter Grass,Uwe Johnson )
act(行なう)→action(行為)のように、動詞にtionを付けると名詞になり、動作・状態・結果などを表わす。
ただし例外もある。affect(影響を及ぼす)とaffection(愛情)とは無関係である。これはイタリア語やスペイン語にafecto(愛情)があるが、もとはラテン語からきており、affctionとなった。
add(追加する)→addition(追加)
adopt(採用する)→adoption(採用)
abolish(廃止する)→abolition(廃止)
accommodate(収容する)→accommodation(収容力)
construct(建築する)→construction(建築)
correct(正す)→correction(訂正)
justify(弁護する)→justification(弁明)
inform(知らせる)→information(情報)
suggest(提案する)→suggestion(提案)
salvage(救出する)→salvation(救助)
satisty(満足させる)→satisfaction(満足)
平治の乱の首謀者、藤原信頼は「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と平家物語で散々にこき下ろされ、「体格は肥満で色白、衆道(男色)を好む」「後白河に愛され、あさましき程に御寵愛ありけり」と愚管抄にみえる。この寵愛とは男色関係に基づくものである。信頼と後白河の関係は、保元2年ころから深まったのであろう。この年に近衛中将になっている。近衛は男色関係を強く求められた官職であり、この任官はめざましい信頼の出世を意味している。信西は「長恨歌」を藤原師光に渡して後白河に見せた。唐の玄宗皇帝が楊貴妃にのめり込んで国を滅ぼした話であり、暗に後白河の軽挙を誡めたのであるが、帝は信西の真意に全く気づかなかったとある。
壬申の乱とは大友皇子(天智天皇の子・弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟・天武天皇)との間に行なわれた皇位継承をめぐる争乱。672年の今日、吉野宮に隠棲していた大海人皇子は、坐して死を待つよりは、東国で兵を集めて近江方と決着をつけようと、妃の讃良皇女(持統)らを伴いあわただしく吉野の宮を出ていった。
吉野を脱出した大海人皇子は美濃に本拠をおき、大軍を近江・大和にくり入れた。1ヵ月に及ぶ決戦ののち近江朝廷方は敗退し大友皇子は山崎で自害、大海人皇子は飛鳥に帰り浄御原宮に即位し天武天皇となった。なお、「天皇」「皇后」号や「日本」という国号も、このころ定められたとする学説が有力になっている。
パウロ・コエーリョの世界的ベストセラー「ベロニカは死ぬことにした」の冒頭部分。ある日、ベロニカはなにげなく手にしたフランスの雑誌で「スロベニアはどこにあるか」という記事を目にする。ベロニカはスロベニア生まれだ。スロベニアはヨーロッパの中央部に位置し、歴史もある。だが読者の大半は首都リュブリャーナどころか、スロベニアさえどこにあるか知らないと思った。彼女は雑誌社に手紙を書く…。それはコンピュータ・ゲームの紹介記事でフランスの製品、スロベニアの工場でつくられている。もちろん安い労働力だから。
スロベニアは西にイタリア、南と東にクロアチア、北東にハンガリー、北にオーストリアと接している。隣国クロアチアは古代ローマ共和制時代、ダルマチアという属州であったが、スロベニアの地も歴史的には古代ギリシア、マケドニア、ローマ帝国の支配下にあった。スロベニア人(スロベニア語を使用する民族)は6世紀ごろユーゴスラビアの北西部の山岳地帯に定住し、スロベニア語は7世紀から9世紀のあいだに隣接のセルボ・クロアト語から方言的に分化した。双数の保存などスラブ語の古形の状態を保存している。最古の文献は10世紀末にさかのぼる。バルカンの人びとは長い間オスマン・トルコ帝国の支配で苦しんだ。「バルカン」とはトルコ語で「山脈」という意味である。スロベニアの地はトルコ(イスラム圏)の支配をのがれて、ヨーロッパ圏(ローマ・カトリック圏)に属していた。19世紀になってロシアがトルコ勢力をしりぞけてから民族国家の形成がされていく。第二次大戦はイタリア・ドイツの支配下にあったが、戦後はユーゴスラビア連邦を構成する共和国となった。1990年春、自由選挙を実施して民主化政権を樹立し、1991年6月25日、連邦から独立を宣言した。1992年5月、国際連合に加盟。
国土の大半はアルプスに連なる山岳地帯で森林が全面積の45%を占める。早くから西欧圏に属し、経済は安定し、工業発展が著しい。面積は2万平方キロで、総人口は約203万人。住民はスロベニア人が89%、クロアチア人が10%、その他1%。主要都市は首都リュブリャナ(人口26万人)、マリボル(人口11万人)。( Slovenia )
大阪府立中之島図書館の廃止が市長や知事から突然言われてた(2012年6月19日付)。国際児童文学館の場合もそうであるが、図書館は維持していくことは困難だが、破壊することはたやすい。中之島の場合、すでに図書館機能の低下は始まっていた。府民の利用も低下すれば、一等地にある施設を別の目的に活用できないかという意見は当然でてくる。図書館は100年、200年と継続してこそ実力が発揮できる。図書館の敵は水でも火事でもなく、為政者である。欧州では200年、300年以上の歴史ある図書館は存在する。大阪府立図書館はわが国で現存する最古の図書館の一つといってよい。近代大阪の図書館の歴史は1876年に設立された大阪書籍館が最初で、1888年府立大阪博物場図書室となり、住友家の寄付を受けて1906年に新しく大阪府立図書館になったのである。
しかしながら図書館の歴史をひも解けば、近代になって忽然と現れたのではなく、長い文庫の歴史を有し、既に1250年も前に石上宅嗣(729-781)が奈良県山辺の邸宅に公開図書館「芸亭(うんてい)」を開設している。芸亭とは、もともと書斎の意味で、芸は虫除けの薬草に由来している。芸亭創設の時期は諸説あるが、宅嗣が阿閦(あしゅく)寺を建立した761年とする説と、政府の高官となった770年とがある。宅嗣の没後、都が長岡京に遷都された関係で芸亭は消滅してしまった。本日は石上宅嗣の命日である。
2011年、小笠原諸島は世界自然遺産に登録された。「東洋のガラパゴス」といわれる小笠原諸島は亜熱帯に属し、父島、母島、聟島、嫁島、西之島、硫黄島など30余の島々からなり、暮らしやすい気候だが、一般住民が生活しているのは父島と母島だけである。1593年、信州深志の城主小笠原貞頼の発見といわれる。1675年、江戸幕府が調査のために船を送り、「此島大日本之内地」という碑を設置、「無人島(ブニンジマ)」と名付けた。1830年にハワイから白人5人、ハワイ人25人が入植し、初の移住民となった。小笠原諸島の英語名は「無人島」を語源とするボニン・アイランズである。
小笠原諸島は大陸と一度も陸続きとなったことがない海洋島のため、生物種が独自の進化をとげた。近年、小笠原に持ち込まれ定着した新たな外来種の駆除が大きな課題である。ノヤギやノブタの根絶は達成されているが、グリーンアノール(トカゲの一種)、アフリカマイマイなど問題となっている。( Bonin Islands )
アメリカの片田舎で小さな店を営むフリスビーという男は、村中の誰もが知っている大ほら吹き。その日も、店先に来た二人組の男に、いつものようにほらを吹いた。「私はこうみえてもハーバード大学ほか5の大学で医学、法学、物理学などの学位を取った」「先般もネイチャーに科学論文を発表した」などと。2人の男は顔を見合わせるや、フリスビーを拉致して、UFOに連れ込んだ。気がつくとフリスビーは「なんでこんな老いぼれを誘拐するんだ。いままでの話は全部デタラメ、嘘だ」と叫んだ。宇宙人は地球人のサンプルを探してやってきたのだ。そしてフリスビーが最も優秀な地球人という結論に達した。宇宙人たちには「ほら吹き」というのが理解できないことであった。だがフリスビーは解放されて、もとの村に無事戻ってきた。村人たちはフリスビーじいさんが神隠しにあったというので心配して集まった。「じいさん、無事に帰ってきたよかった。どこへいってきたんだい」フリスビーは「俺は宇宙船に乗せられて、金星人とテレパシーで会話してたんだ」「UFOは円盤のような形をしていた」など克明に事実をありのままに話した。そしたら村人たちは大笑いして「あはは、じいさんのまた大ぼらがはじまったぜ」と誰一人真に受けるものはいなかった。それから円形の円盤をフリスビーと呼ぶようになった。
本日は「UFOの日」。1947年のこの日、アメリカの実業家ケネス・アーノルド(1915-1984)がアイダホ州上空で見かけない飛行物体を発見した。アーノルドはこの物体を空飛ぶ円盤と呼んだ。米空軍は調査したが分からずUFO(Unidentifiend Flying Object)未確認飛行物体と名づけた。(Frisby,Kenneth Arnold,flying saucer)
梅雨の季節、ラジオから聞こえる定番の曲といえば、ジョニー・レイ「雨に歩けば」(1956)、ザ・カスケーズ「悲しき雨音」(1963)、そしてB・J・トーマス「雨にぬれても」(1969)。いままで何回聞いたか数えきれないほどだけど意外と歌手のことは知らない。LPアルバム「懐かしのポピュラー・ヒット・ソング」の一曲として「雨に歩けば」が収められているが、ジョニー・レイ(1927-1990)の顔写真がない。オレゴン州ダラスの生まれ。「Prince of Wails」(泣き叫びの王子)といわれる。プリンス・オブ・ウェールズのもじりと称され、1950年代、ジョニーの人気はすごかった。聴覚が不自由だったが、「クライ」(1951)がヒット。映画「ショーほど素敵な商売はない」で人気を不動のものにした。だが「雨に歩けば」は最後のヒットだった。翌年、耳の手術に失敗したらしい。歌手活動は続けたが一時のような人気はなく、淋しい晩年だった。享年63歳。「雨に歩けば」は失恋の痛みを忘れるために雨の中をかまわず歩いていたら、ずぶ濡れになった。どうしても君を忘れられないという内容の歌詞である。( Johnnie Ray,Cascades,B.J.Thomas )
1914年1月22日、外電がドイツのシーメンス社Siemensの日本海軍高官にたいする贈賄を報じた。立憲同志会の島田三郎は、さっそく議会で山本権兵衛(1852-1933)首相、斎藤実海相の責任を追及し、野党は一致して内閣弾劾案の議会提出をきめた。世論は政府攻撃でわきかえり、2月10日、政府問責の国民大会が開かれ、数万の民衆が議会をとりかこんだ。山本内閣は収賄事件のもみ消しにやっきになったが、海軍高官がぞくぞくと逮捕され、さらに軍艦金剛の建造契約のさい、イギリスのヴィッガース会社から収賄したことも暴露されたため3月24日、ついに総辞職するにいたった。その後、1923年、山本は再び内閣を組織し、関東大震災後の復興処理にあたった。しかし、亀戸事件、大杉栄虐殺事件、朝鮮人虐殺事件、皇太子狙撃事件が起こり、その責任を取って退陣した。なおシーメンス・ジャパン社は東京都品川区に本社があり、日本との関わりが続いている。
連続テレビ小説「おひさま」。真知子が父に「東京行きを許してくれなかったら、私、パーマネントします」と。パーマ嫌いの父は仕方なく許す、という設定。昭和14年、街に「パーマネントはやめましょう」の標語も登場し、電髪は華美で戦時下にふさわしくないとみられていた。戦後いっきにみんなパーマをしだした。モンペ姿からショート・スカートへ。髪は笠置シズ子や原節子、戦後の写真はみんなパーマだ。「美しくなりたい」と洋裁学校がはやった。昭和28年にはミス・ユニバースの伊東絹子の出現で「八頭身」という流行語が生まれた。昭和30年には落下傘スタイルのスカートの裾が大きく広がったスタイルが流行する。昭和36年にはシームレス・ストッキングが発売される。「♪ふりむかないで~」とザ・ピーナッツが歌う。そして昭和40年からミニ・スカートが大流行。時代はとんで平成8年から仙台の女子高生が膝うえ丈のスカートにふくらはぎまでのダブダブにはいた白いルーズソックスを防寒用に考案。数年後、ミニスカの流行とともにコギャルたちの間でルーズソックスが広がっていった。ルーズlooseとは「だぶだぶの」の意味の和製英語で、欧米ではほとんど通用しない。しかし靴下そのものは米国E.G.スミス社製の「ルーズ」長さ60㎝、90㎝のものが人気。だが2004年頃になると「ダサい」「古い」「時代遅れ」と、流行は花火のようにアッというまに消えてしまった。
国木田独歩は、明治34年、近代画報社に入り編集の仕事に携わったことから、明治39年8月24日、東京芝区桜田本郷町17番地に独歩社を起こし、「近事画報」「新古文林」「婦人画報」その他を同社からひきついで出版した。数冊の単行本、十種類余りの雑誌を刊行したが、「婦人画報」を除いて売れ行きはおもわしくなかった。独歩社の経営はうまくいかず、その後、経営は破綻し、後半生の生活は経済的にはめぐまれなかった。明治41年2月、肺を患って入院、療養の甲斐なく、6月23日、36歳で他界した。
しかし、独歩と同じ早稲田出身の鷹見久太郎(思水、1875-1945)、窪田空穂(1877-1967)らは独歩社の若手社員として編集出版の仕事を学んだ。のちに鷹見は東京社を創設し、「婦人画報」「少女画報」「コドモノクニ」などの出版で成功をおさめた。独歩が創刊した婦人総合雑誌が100周年を越えている。最初の妻である佐々城信子との離婚で女性に苦労した観のある独歩であるが、有名な婦人雑誌の生みの親であるといのも人生の妙味であろう。
シャルトル大聖堂 コロー 1830年 ルーヴル美術館蔵
フランス北西部、シャルトルの大聖堂は、13世紀初頭に完成したフランスを代表するゴシック建築である。 このシャルトル大聖堂の美しさに魅せられた画家は数多くいるがコローもその一人である。ジャン・バティスト・カミーユ・コロー(1798-1875)は1825年から28年、1834年、1843年と計3度イタリアへ旅行し、6年間のイタリア滞在の間に明るい光と色彩にも強い影響を受けた。1828年、第1回のイタリア旅行から帰国したコローはその感銘をフランスの田園風景の描写に生かそうとした。1830年7月の革命の勃発とともに、シャルトルへ逃れたコローは、大聖堂の圧倒する美に打たれてこの作品を描いた。前景の人物は、1830年に制作されたときには描かれていなかったが、それから40余年たった1872年に描き加えられたものである。またシャルトルの大聖堂は1834年に火災にあい、屋根の部分などが修復されたが、その意味からも、被災前の大聖堂の姿を知る上で、資料的に貴重な作品である。( Chartres Cathedral )
白い猿の兄弟ヤンボー(里見京子)、ニンボー(横山道代)、トンボー(黒柳徹子)が親と死に別れて力を合わせながら旅をする「ヤンボーニンボートンボー」というNHKラジオドラマがあった。この話は飯沢匡(1909-1994)が、ウォルター・デ・ラ・メア(1873-1956)の「サル王子の冒険」をヒントにして作ったといわれる。デ・ラ・メアには童謡や子供向けの詩も多いが、その内容には死や人生への深い思索を含んでいる。
デ・ラ・メアはイギリスのケント州チャールストンで1873年4月23日、ユグノーの子孫として生れた。母は詩人ロバート・ブラウニングの遠縁にあたる。4歳のとき父が亡くなったため、母から聞いたおとぎ話、伝説などによって大きな影響を受けた。ロンドンのセント・ポール校を卒業後、18年間石油会社の会計士をしていたが、1902年にウォルター・ラマルという筆名で詩集「幼時の歌」を出し文名を確立。続いて小説「ヘンリー・ブロックン」を出した。1908年、会社をやめ作家生活に専心するようになり、詩集「耳をすます人ら」(1912)「雑色その他」、小説「小人の思い出」(1921)、童話「三匹の猿王子」(1919)などを発表。「三匹の猿王子」はサム、シンプル、ノッドの三匹の猿が、父の国ティシュナーの谷まで苦難にみちた旅をする話で日本でも飯沢匡「サル王子の冒険」、脇明子「三匹の高貴な猿」など翻訳が出ている。他に「無常その他」「ヴェールその他」「旅人」(1946)「内なる仲間」「翼にのった馬車」(1951)「子どものための物語集」(1949年カーネギー賞)「くじゃくのパイ」(1913)などがある。1956年6月22日、逝去。
窓
ブラインドのかげにすわり
ぼくは見つめている
外を行きかう人びとを
通りすぎる人たちを
だれひとりとして気づかない
じっと見ているぼくの小さな目には
だれにも見えない
ぼくの小さな部屋は
ブラインド越しの太陽で
みんな黄色く見えるこの部屋は
だれも知らない
ぼくがここにいることさえも
だれも気づかない
ぼくがいなくなっても
*
かくれんぼ
かくれんぼしよう、と風がいう
森のこかげで
かくれんぼしよう、と月がいう
ハシバミの木の実に
かくれんぼしよう、と雲がいう
星から星へ
かくれんぼしよう、と彼がいう
港の砂州で
かくれんぼしよう、とぼくもいう
自分で自分にいってみて
目ざめの夢をあとにして
眠りの夢にすべりこむ
( Walter de la Mare )
光あるところに影がある。1970年5月11日、2人の日本人が初めてエベレストに登頂した。植村直己と松浦輝夫である。しかし植村の名前は誰でも知っているが、松浦輝夫の名前を知る人は少ない。田部井淳子と渡辺百合子も共に細いロープでお互いの命をつなぎあった。しかしエベレストの頂上に立った田部井だけが有名人になった。水泳の古橋廣之進と橋爪四郎は互いによきライバルだった。古橋は豪快な泳ぎで、橋爪は華麗な泳ぎで対照的だった。マスコミの注目は圧倒的に古橋に集まった。鳳晶と山川登美子も歌においても恋においてもライバル。恋の勝利者が日向を歩んだ。木次文夫は王貞治と同じ昭和34年に巨人に入団。しかも一塁。王との争いに敗れた木次は3年後に引退している。怪物エース江川卓の影にシュートの西本聖がいた。スター誕生オーデション。第44回決戦大会で松本明子は合格し、徳永英明、本田美奈子は敗れた。敗者徳永がその後、栄光をつかんだ。
メディアの王アステュアゲスにはマンダネという娘がいた。あるとき王は、マンダネが放尿し、エクバタナの都を洪水にし、さらに全アジアが洪水になる夢をみた。心配した王は、夢占い師に調べさせたところ、不吉な前兆であるといい、王は娘を従属国ペルシアの小領主であったカンビュセス1世に嫁がせた。こうしてマンダネが生んだ子がのちのキュロス2世(600BC-530BC)である。占い師はさらにマンダネの生れた子によつてメディアが滅ぼされると予言し、恐怖に襲われた王は忠臣ハルパゴスに赤子を殺すように命じた。しかし、ハルパルゴスは赤子を殺すのをためらい、牛飼いの夫婦に預けた。キュロスが10歳になった頃、アステュアデスの心も変わっていた。キュロスは本当の両親のもとで育てられるようになった。やがて成長したキュロスは、ペルシア人の集会を催した。そして「わたしの言うことを聞いて自由の身になるのだ」とみなを説得した。キュロス2世はメディア、新バビロニアを征服し、ペルシアを統一した。イラン南部の都パサルガダエにはキュロス大王の墓が残っている。
世界史で大王といわれる君主はざらにはいない。アレクサンドロス大王、アルフレッド大王、カール大帝、フリードリッヒ大王など。キュロス2世がキュロス大王Cyrus the Greatと尊称されるのは、ユダヤ人をバビロン捕囚から解放した寛容な王であるからであろう。
( keyword;CyrusⅡ,Asuteyuagesu,Mandane,CambysesⅠ,Pasargadae)
「グラビアアイドル」「グラドル」という言葉はあまり日常会話で使わないが、いまではお堅いNHKでも平気で使っている。スタジオパークのゲストは釈由美子。頭のよい女性らしく、しかもスリムなボディーで筋トレをしている。「美のカリスマ」といわれるだけあって34歳になるが衰えをしらない。東京都清瀬市出身。かつては清瀬市といえば中森明菜だったが、いまは釈由美子か堀北真希の出身地。1997年にデビューだが転機は「英語でしゃべらナイト」元祖グラドルである。眞鍋かをり、小池栄子、小向美奈子、平田裕香、伊東美咲、熊田曜子、サエコ、小野真弓、大谷みつほ、里田まい、周防玲子などなど。野球選手と結婚したり、女優となったり、活躍の場はさまざまである。釈由美子は一番自然流に芸能界に残っている。グラドル史は客観的な記述が難しいが、日本雑誌協会主催の「ゴールデン・アロー賞・グラフ賞」の受賞者を見れば一応の変遷の一端をうかがうことができる。1998年に優香が受賞し、以下、本上まなみ、釈由美子、井川遥、吉岡美穂、井上和香。岩佐真悠子、安田美沙子、ほしのあき、南明奈。ゴールデンアロー賞は2007年度で終了する。グラドルの終焉を意味するのかもしれない。雑誌愛読月間イメージ・キャラクターは継続しており、佐々木希、桜庭ななみ、武井咲、剛力彩芽と若手女優にシフトしている。
カタツムリは、フランス語で escargot エスカルゴ。英語では、snail スネイルという。スネークは蛇。
snake ヘビ
crab カニ
shrimp 小エビ
prawn 車エビ
lobster 伊勢エビ
corn barnacle フジツボ
squid イカ
octopus タコ
nudibranch ウミウシ
short-neck clam アサリ
corbicula シジミ
turban shell サザエ
sea urchin ウニ
sea cucumber ナマコ
jellyfish クラゲ
sea anemone イソギンチャク
coral サンゴ
hydra ヒドラ
sponge カイメン
ascidian ホヤ
slug ナメクジ
bryozoan コケムシ
flatworm ヒラムシ
planaria プラナリア
lugworm ゴカイ
earthworm ミミズ
cabbage white モンシロチョウ
1980年に王貞治が引退した後、「若大将」とよばれた原辰徳が巨人の不動の四番となった。本塁打382本、打点1098点と長打力はあったが、安打が1675本と意外に少なかった。怪我に苦しみ1995年に引退と早かった。順調にスター街道を歩んだように思えたが、評論家、監督時代と波乱も多く、人知れず悩みも多かった。ついに現役時代ではONのようなスーパースターにはなれなかった。原騒動のなか明日からリーグ戦が再開、「夢の続き」を完結するには優勝して日本一になることしかない。
ちなみに巨人在籍した選手で名球界入りしたのは13人。(落合は辞退している) 張本勲、王貞治、長嶋茂雄、松原誠、加藤英司、柴田勲、駒田徳広、清原和博、松井秀喜、小笠原道大、金田正一、堀内恒夫、工藤公康。
「エジプト誌」(アイギプティアカ)を著わしたマネトによると、ヒクソスのエジプト支配は第15、16、17王朝である。これら3王朝は同時代に成立している(前1650-前1550)。ヒクソスに関する史料は、その知名度に反して余り多く残されていないが、ヒクソス王アポフィスとの戦いに勝利したのはカーモセ(在位前1573-前1570)である。しかしカーモセは凱旋直後に亡くなる。ヒクソスの支配者たちをデルタ地方から追放し、エジプトを再統一したのはカーモセの弟、初代第18王朝のファラオ、アハモセ1世(在位前1550-前1525)である。第18王朝は前15世紀、トゥトメス3世のときエジプトの最盛期を形成した。近年、アハモセ1世のミイラを調査したところ、王は35歳くらいで亡くなったことを示す結果が得られた。王墓の位置はいまだ確定しないが、テーベ西岸ドゥラ・アブ・エル・ナーガ付近と推定される。( Kamose,Ahmose,Apophis,Hyksos,Thutmes,Aegyptiaca )
サルトルといえばボーヴォワールだが、実は晩年のサルトルはサガンとも親密な交際関係にあった。ふたりは同じ誕生日で30歳の年齢差。10日に1度食事をした。「私は彼の手をとって支えるのが好きだった。そして彼は私の精神を支えてくれる」(私自身のための優しい回想)と記している。右目を失明したサルトルはわずか1年後に亡くなった。(Sarrtre,Sagan,Beauvoir)
英単語encyclopediaはencyclopaediaともつづる。百科事典の代名詞で、240年余りの歴史を誇る英語の「ブリタニカ百科事典」の出版中止が3月中旬決定した。販売元のエンサイクロぺディア・ブリタニカでは電子版への完全移行に向け、現行の2010年版(全32巻)を在庫限りとして、1395ドル(約11万4000円)で販売している。
インターネットの普及によって、大部な百科事典は家庭には無用の長物となった。だが研究者や図書館にはやはり必要だろう。インターネットの世界の情報は日々に更新されるが、図書はその時代の考えや思想が反映されるので古くなるほど歴史資料として価値がででくる。古い事典、辞典は貴重である。実際にレファレンスに携わってきた者は誰しも感じることだろうが、refernceは容易な仕事ではない。その容易でないことを痛感するのは、解答を与えるとき、これで正しい解答であったどうかということと、解答が手際よく、正解な解答が迅速になされたかどうか、これが常につきまとう不安である。現代はだれでもがパソコンから検索して必要な情報を得ることができる時代になった。これらのノウハウの多くは図書館情報学の分野で研究されてきた学者と実務家との経験が基礎になっていると感じている。つまり現場を踏まえての実学があるから参考業務が存在価値がある。インターネットの時代であろうと百科事典が消滅しようと、専門的な職員の必要性は永遠に変わらない。
加藤清正(1562-1611)が慶長6年(1601年)から7年の歳月を費やして築城した熊本城(別名、銀杏城)は、日本三名城のひとつ。600本の満開の桜が天守を彩り、武者返しと呼ばれる反り返った石垣に生える桜の美しさも見事である。
文明年間(1469-1487)菊池氏の一族・出田秀信(?-1485)が、北東隅の小丘に千葉城を構え、大永・享禄年間(1521-1532)鹿子木親員(寂心)(?-1549)が南隅に隈本城(古城)を築城。天正15年、豊臣秀吉が九州統一後、佐々成政が肥後一国に封ぜられて入城したが、翌年改易され、そのあとへ加藤清正と小西行長(1555-1600)とが半国ずつに封ぜられ、清正は隈本城に、行長は宇土城にはいった。慶長5年、関ヶ原の戦いで清正は東軍に、行長は西軍に属し、戦後清正は小西領跡を与えられ、肥後52万石の領主になった。慶長6年、千葉城跡と隈本城との中間にある茶臼山に本丸を置き、両城の範囲を取り囲んで、一大城郭とした。石垣の高く急で丈夫なことは無類といわれる。普請奉行は飯田覚兵衛、森本儀太夫で、後年名古屋城、江戸城などの工事に手腕を発揮した石垣造りの名人であった。慶長12年完成し、本丸には7層7階の天守を建て、隈本を熊本と改めた。
水前寺成趣園は池を中心とした桃山式回遊庭園で東海道五十三次の景勝を模したといわれる。
細川藩は加藤清正の子、加藤忠広(1601-1652)は寛永9年改易され、そのあとに細川忠利(1586-1641)が小倉から国替えで入城した。細川家は、忠利のあと細川光尚、細川綱利、細川宣紀、細川宗孝、細川重賢、細川治年、細川斉茲、細川斉樹、細川斉護、細川韶邦と11代、240年間、維新まで続いた。
巨人原監督の過去の女性問題が週刊誌で暴露された。西武の涌井など球界の女性スキャンダルはめずらしいことではない。むしろ数年も前のことがなぜ今ごろかという感がする。球界の盟主として自負する球団だけに社会に与える波紋は大きい。彼は恐喝された被害者である。結果としては、事実を認めざるを得なくなり、社会的ダメージは計り知れぬほど大きい。いつもダビデ王の話を思いだす。王は部下ウリヤの美しい入浴姿をたまたまみて、ひとめぼれした。その後、ウリヤが戦いに出ていないすきに王はバテ・シバを宮殿に連れて来させて、姦淫を犯した。さらにウリヤを最前線に送り、戦死させるという大罪を犯した。だが、神はダビデ王の罪を赦された。(David,Bathsheba)
NHK連続クイズホールドオンを見ている。昨日の放送(045)テーマは「メガネ」。福井県鯖江市はメガネの生産日本一。日本に初めてメガネを伝来したのはフランシスコ・ザビエル。メガネフレームのつるをテンプル temples という。元来、側頭部をさす。10月1日は「メガネの日」。10月10日は「目の愛護デー」。混同しないで。
メガネが一番似合う芸能人はアンジェラ・アキという調査結果があります。最近、佐野史郎、原辰徳、有働由美子、ベッキー、井浦新などメガネをする著名人が多いですね。
台風4号が通過するなか、近畿に衝撃のニュースが走った。橋下と松井が会合で「あんなところに図書館いらん!」と発言し、大阪府立中之島図書館を廃止する方針を固めたという。大阪にはすでに東大阪市荒本に府立図書館があり、市内には西区に中央図書館、23の分館があり図書館網は整備されている。だが中之島図書館は100年以上の歴史を有し、関西に住む者なら貴重書を求めて何度も利用した経験のある人は多い。いわば関西の文化の殿堂である。大規模な図書館の存廃は経済的な事情で決めるべきではない。大阪では数年前に国際児童文学館が廃止しており、これらは悪魔のシナリオに添った思考である。つまり「図書館いらない」といえば文化好きのインテリは反対するが、むしろ図書館など1度も利用していない層からは支持を得られる、つまり図書館廃止が大量票獲得につながると判断したのであろうか。具体的な活用法を示すことなく、いきなり廃止と宣言するのも橋下流である。すでに「地方公務員が政治活動したら処分」と脅かされているので、司書たちの抵抗や反対運動はあまり起こらないだろう。こうした危機のとき図書館人が勇気をもって発言したり行動したりすることはすくない。弱体化した日本図書館協会も政治的なことは発言せず、世の趨勢に迎合した保守的な団体である。逆に向かった文化行政のベクトルを変えることは容易ではない。大学図書館や文化人は自分たちには関係なく対岸の火事とみるだろうが、大図書館の廃止は文化・文明の抹殺である。今後の中之島図書館の存廃問題を注視していく。
ロミオはジュリエットと一夜を過ごす。夜明けが近づいてヒバリが鳴き始めて、やがてロミオとの別れが近づく。ジュリエットは別れがつらくて「あれはヒバリじゃなくて(夜に鳴いている)ナイチンゲールよ」と言う。
It was the nightingale,and not the lark.
羽は赤ちゃけた色をしており、腹は灰白色で、姿は美しいとはいえないが、声はもっとも美しい鳥としてイギリスでは詩にしばしば登場する。夜明け前によく透る声で鳴く。
英詩でナイチンゲールがうたわれるようになったのは13世紀の後半からである。この鳥は季節からいえば春と夏とにまたがっている。イギリスの夏は暦の上では夏至(6月21日)から秋分(9月22日あるいは9月23日)までをいうが、実際には5月半ばから8月下旬までをいう。イギリスの夏は涼しく、花も美しい。6月、7月が夏のさかりといってよい。
カスピ海東方480㎞、トルクメニスタン南部のアシガバッド東12㎞付近に北丘、南丘、アナウ・テペ(19世紀に廃棄)の3遺跡からなるアナウ遺跡は彩文土器文化の先史遺跡で知られる。1903年から04年アメリカの地質学者パンペリーはカーネギー財団の援助によりロシア領トルキスタンに学術調査をおこなったが、この際ドイツの考古学者フーバート・シュミット(1864-1933)によってアナウ遺跡の発掘調査がされた。のちスウェーデンの地質学者ヨハン・グンナー・アンダースン(1874-1960)が1923年から24年、甘粛省寧定県半山で仰韶文化を発掘報告したが、彩文土器の類似性から西から東へ彩文文化が広がったとする西方伝来説が流行した。しかし近年の学者たちは彩陶の西アジア起源説には批判的である。彩陶は農耕社会のものであり、いかなる移住民もこのような彩陶土器を動物の背中にのせて持ち運ぶことはなかっただろう。つまり西アジアにおいても、中国においても、新石器農耕文化のある段階には彩色土器があらわれるという共通する意識形態が存在するという興味ある結果が明らかとなりつつある。
つばめを英語で swallow ということは小学生のときから知っている。野球球団「国鉄スワローズ」によるものである。なぜ国鉄が「つばめ」なのか。球団設立時、看板列車が「特急つばめ」だった。昭和25年1月、東京・大阪間を特急つばめが運行した。翌年、18歳の金田正一がノーヒット・ノーランを達成している。
sparrow すずめ
hawk たか
crow カラス
pigeon 鳩
shrike もず
duck アヒル
sea mew かもめ
crane つる
robin こまどり
stork こうのとり
parrot オウム
dusky thrush つぐみ
white-eye めじろ
kite とび
skylark ひばり
falcon はやぶさ
peacock 孔雀
pheasant きじ
娯楽作品を撮らせたらこの人の右に出る者はいない。「早撮りの職人」といわれた井上梅次監督。「嵐を呼ぶ男」で石原裕次郎を大スターにしたのも井上である。晩年はテレビドラマ明智小五郎シリーズ(天知茂)を撮っている。「桜の国の美女」(1980)をみる。初々しく可憐な古手川祐子もいいが、田中真理、中田彩子などロマンポルノ女優が出演しているのが注目。井上は大学に招かれた講演で「大事なことは視聴者にチャンネルを変えさせないこと。9時55分台に女の裸を出すことです」と述べた。なるほど「桜の国の美女」でも中盤で中田彩子が入浴中に血まみれで全裸で殺されるシーンがある。いまではテレビではNGシーンだろう。ジェラール警部を演じている大月ウルフはピアニストのフジ子・へミングの実弟である。
太宰治の命日。東京都三鷹市の禅林寺で供養が行われる。太宰が東京・玉川上水に入水自殺し、遺体が上がったのが誕生日でもあるこの日。桜桃が熟するころで、太宰の晩年の作品で好評だった「桜桃」から桜桃忌と呼ばれる。
太宰治の叔母の言ふ。「お前はきりょうがわるいから、愛嬌だけでもよくなさい。お前はからだが弱いから、心だけでもよくなさい。お前は嘘がうまいから、行ひだけでもよくなさい」
芥川賞候補の太宰に対して、選考委員だった川端康成は選評の中で太宰の生活態度を「生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる・・・」と批判した。それに激怒した太宰は「小鳥を飼い、舞踏を観るのがそんなに立派な生活なのか」と反論した。
志賀直哉はある座談会で太宰を「僕は嫌いだ。あのポーズが好きになれない」と評した。これに対して、太宰も志賀を「薄化粧したスポーツマン」などと罵倒した。この対立の背景には、太宰の志賀に対する畏敬とコンプレックスがあったのかも知れない。(6月19日)
大分県耶馬溪の青の洞門(全長150m) 1763年4月10日、開通
トンネルの歴史はきわめて古く、古代バビロニアの都には、2つの宮殿をつなぐ900mの水底トンネルが造られた。ローマ時代には道路、給水、排水のために数多くのトンネルがつくられた。19世紀になると開削技術が発達し、世界各地でトンネルがつくられた。最古の鉄道トンネルは1871年開通したイタリア・フランス国境にあるモンスニ・トンネル(全長138668m)。1888年にはスイスで177人の犠牲者を出したゴッタルド鉄道トンネル(サンゴタールとして知られる)が開通した(全長14995m)。シードルトンネルとしては1843年開通のテムズ川トンネル。(シードル工法とは土質の軟らかい場所を掘るのに用いる強固な鉄製円筒を用いる)ロシアのプーチン首相は樺太に架橋して日露間をトンネルでつなぎ、シベリア鉄道を日本までのばす計画をもっている。トンネル新時代の到来だ。
日本最初の鉄道トンネルはかつて東海道本線の神戸市にあった石屋川トンネルで1871年に開通(全長61m)。1881年には小刀根トンネル(全長56m)が開通。1890年には長野県東筑摩郡本庄村の明通トンネル(全長95m)。能代市の鶴形トンネルは現在は酒貯蔵庫として使われている(1900年開通)。1904年には全長446mの天城トンネル(静岡県賀茂郡河津町)が開通した。
明治・大正と長いあいだ日本一長いトンネルは中央本線の笹子トンネル(大月市・甲州市)だったが、1931年に清水トンネルが完成してから下記のように日本一長いトンネルの座は移り変わっていく。
笹子トンネル(4656m) 1903-1931
清水トンネル(9702m) 1931-1962
北陸トンネル(13870m) 1962-1972
六甲トンネル(16250m) 1972-1975
新関門トンネル(18713m) 1975-1982
大清水トンネル(22221m) 1982-1985
青函トンネル(53850m) 1985-
皇朝十二銭の第一。政府は和同開珎を流通させるため711年に蓄銭叙任令(多くの貨幣をたくわえた者に官位をさずける)を発布したが、地方にはあまり広まらなかった。和同開珎は近年、富本銭の発見によって、最古の貨幣ではなくなったが、富本銭の流通範囲は限られていたため、和同開珎の歴史的存在意義は揺らぐことはない。だが長年にわたる論争の決着はいまだ着いていない。江戸末期から明治にかけては、「わどうかいほう」と読んでいたが、近年は「わどうかいちん」が優勢である。元来、唐の開元通寶を模したため、「珎」は「寶」の通字と考えられていた。また「和同」についても、年号の「和銅」の省略説と、中国古典から採った吉祥語とする説があって、年号から採ったとする根拠は低い。たとえば論語の説く「君子は和して同ぜず」に由来するという説もある。奈良朝の貴族が論語を歓迎していたとする。奈良時代の人々は珍の通字「珎」と寶の省文「珎」を、巧みに識別したのでこんな混乱が現在まで起こっているのであろう。近年では「わどうかいちん」説が優勢となっている。
陽明学の王心斎(1483-1540)にこんな話がある。巨大な甕の中に、大きなウナギがたくさんうずくまっていたが、身動きができず、まさに死なんばかりであった。その中に、一匹、小さなドジョウが混ざり込んでいて、大きなウナギの間を縦横に行き交いして泳ぎまわり、とうとう甕の外に出ることができた。すると、そのドジョウが甕の外に出ることができたお蔭で、隙間ができて、大きなウナギたちも動くことができるようになって、ドジョウが甕の外に出た後、ウナギたちもすべて甕の外に出ることができるようになった。「かの気息奄々たりしものみな蘇り、相ともに大海に帰りぬ」とある。
どんなに膠着し、閉塞した社会状況にあっても、だれかひとり、他愛のないものが、その状況から脱出することができると、中にいる全員が、苦境から脱出することが可能になる、という寓話である。(伝習録)
琵琶湖をのぞむ高台に大津市歴史博物館(大津市御陵町2番2号)がある。来館者も少なくひっそりとしている。ここの目玉は大津絵でも近江八景でもなく、津田三蔵の書簡かもしれない。NHKドラマ「坂の上の雲」で津田三蔵がロシア皇太子の頭部を斬りつけたシーンがあった。ドラマでも津田の動機についてはふれていない。その解明の手がかりとなる津田の書簡76通が保管されている。上野の津藩士の子であった津田には士族としての誇りがあった。そして西南戦争に従軍し、勲7等を授与されるほどの活躍をみせた。ロシアの一行が西南戦争記念碑に敬礼せずに通過したことに腹を立てたともいわれるが、動機は今となっては分からない。津田三蔵もまた復古と変革の時代に生きた秋山真之と同時代の青年だった。児島惟謙の名判決により、無期懲役となったが、同年に獄死しているのも不可解なことである。
NHK総合テレビの昼の番組「お元気ですか日本列島」そのなかの梅津正樹アナウンサーの「気になることば」は人気のコーナー。13日、梅津さんは「日本語・韓国語の今と未来を語り合う」というトークセッションに出席された。韓国からはKBSの人気アナウンサー、イム・スミンさんが出席。日本と韓国の相違点や類似点が印象に残る。そこで話題になったのは外来語。韓国でも外来語や若者ことばが氾濫している。韓国では外来語を使わずに韓国語を使うように呼びかけているそうである。日本では2006年の安倍晋三の「美しい国、日本」という演説がカタカナ語であふれていたので論議を呼んだ。たとえば、「イノベーションによる経済成長」「メディカル・フロンティア戦略」「戦後レジームからの脱却」など。日本では賛否両論あり、グローバリゼーションの時代だから英語が氾濫するのもやむをえないとする人もいる。たとえば韓国では「レシピ」を「調理法」と言うことにしている。日本でもレシピはここ10年くらいで定着した日本語になったようにおもえるが、やはりお年寄りにはわかりにくいと思う。ただし、「レシピ」イコール調理法か、というと材料の分量なども書かれているので、調理法と言い換えると、ニュアンスがでない場合がある。ことばの微妙な違いはあるので単純な言い換えはできない、といっている。
英語「recipe」は、「受け取る」を意味するラテン語「recipio」(レキピオ)。その命令形「recipe(レキペ)」が、「これらの薬を取り上げて調合せよ」といった意味として医師が薬剤師に指示する処方箋に書かれたことから「処方」の意味になった。1740年代初頭から料理用語として用いられるようになった。
人類が水泳を始めたのは、遊びや暑さを避けたりしたことが動機となったと考えられるが、その後は軍事的目的や職業などに結びついて発展してきたと考えられる。水泳に関する最も古い記録は、リビア砂漠のワディ・ソリの洞窟の岩壁に描かれた泳ぎの図で、これは紀元前9000年頃のものである。古代エジプトでは紀元前2160年頃に貴族たちに水泳の指導が行なわれていたという。オリンピック競技に自由形があるが、フリーだが事実上はクロールで競われている。crawl とは「はう」「のろのろ進む」という意味。19世紀後半に、アーサー・トラジオン(1852-1902)が南米に旅行した際に見た原住民の泳ぎをヒントにして、片方ずつ腕を掻く泳法を見出した(トラジオン・ストローク) 1908年ロンドンオリンピック、競泳男子100m自由形の優勝記録はチャールズ・ダニエルスの1分5秒06だった。1922年7月にジョニー・ワイズミュラーが1分の壁を破った。モントリオール五輪ではジム・モンゴメリーが50秒の壁を破った。現在の世界記録はイーモン・サリバンが2008年の北京五輪で出した47秒05である。( John Arthur Trudgen,Eamon Sullivan,Johnny Weissmuller )
田辺朔郎(たなべさくお 1861-1944)は、文久元年、洋式砲術家田辺孫次郎の長男として、江戸に生まれた。工部大学校(東大)を卒業するとともに琵琶湖疎水工事を担当した。これは当時、東京遷都で、経済が衰退した京都を復興させようとする京都府知事・北垣國道(1836-1916)の構想があった。田辺の実地踏査と測量に基づく卒業論文「琵琶湖疎水工事の計画」が、採用されるという大抜擢であった。明治18年に起工するが、機材は乏しく、人員にも事欠く始末。しかも、工事自体がオランダ人技師デ・レーケが「技術的・財政的に無理」と断じた難工事だった。第一疎水の大津市三井寺~京都市蹴上間には全長2436mの長等山トンネルなど、3つのトンネルを掘らねばならず、困難を極めた。工事費も国家予算の1.8倍という巨額で、市民の反対の声も上がった。しかし、田辺らは挫けることなく、トンネルを日本の竪坑方式で掘削し、当初の計画を変更して水力発電を導入するなど、未知の領域に踏み込んで、次々と新しい試みに挑戦した。その結果、明治23年、西欧諸国が驚嘆する疎水を造り上げた。完成後、ここから供給された電力が、京都の日本初の路面電車の動力源となるなど、古都の近代化を支えた。今日、若王子橋から銀閣寺橋までの疎水べりは哲学の道と呼ばれる散策コースとして人気スポットである。
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春日さす疎水の水の諸子魚かな
河東碧梧桐
垣に残る夕顔の雨意疎水べり
野澤節子
北太平洋沿岸に住むアメリカインディアンの諸族、チムシアン族、トリンギット族、ハイダ族、ベラ・クラーク族、南北クワキウトル族、沿岸サリシュ族、チヌーク族等にみられる習慣で、公的な地位を誇示するために自分の富を放棄する一種の財産分与制度。ポトラッチ potlatch とはチヌーク語で「浪費する」という意味。
種族によりそれぞれに特徴があるが、一般に主催者の地位により大小さまざまの祝宴が開かれ、近隣の人々を招き、その階級に応じて贈物をする。このとき主催者とその親族は気前のよさを最大限に発揮してその地位を誇る。後継者の披露、子女の誕生、成女式、婚礼、葬礼、新屋の棟上式などから、赤ん坊の発毛といった些細な理由でも行われる。ときには不名誉な行為の挽回のために行われることもある。招待されたものは、なんらかの機会により盛大な祝宴を開いて答礼する。特に南クワキウトル族のポトラッチは1840年から1925年にかけて最も盛大に行なわれ、何日も続く祝宴の間に何千枚もの毛布や仮面、カヌーなどに加えて、ヨーロッパから輸入したモーター・ボートやミシン、ほうろう引き器、衣類、小麦、砂糖などが配られた。しかし1960年代以降は経済的理由によりほとんど行なわれなくなった。ポトラッチは贈答するだけでなく、貴重な財物とされるカヌーや、彼に属しているトーテム像を刻んだ銅版を来客の面前で故意に破壊したり、所有する奴隷を殺したりして、その気前のよさを誇らせることもある。
最近では「ポトラッチ・パーティーpotluck party」といって、「皆で持ち寄りで気軽に行うパーティー」という意味で使われることもある。
林芙美子が森本に送った書簡
昭和6年頃、パリには多くの日本人がいた。画家では藤田嗣治、海老原喜之助、鳥海青児。美術評論家の土方定一、詩人の金子光晴など。そんな中で異彩を放つのは考古学者・森本六爾(1903-1936)のパリ遊学である。
森本六爾は畝傍中学卒業後、奈良県下の遺跡を独力で調査し、昭和2年に考古学研究会(後の東京考古学会)を創設し、主幹となり雑誌「考古学」を発刊した。弥生時代に稲作農耕が存在したことをいち早く提唱した夭折の考古学者。この時「放浪記」(昭和5年刊行)で文壇に華々しくデビューした女流作家・林芙美子(1903-1951)も昭和6年11月にパリに来ており、孤独な二人の旅情はやがてかりそめの恋となる。
林芙美子は小柄で美人ではなかったが、明るくて女性的な魅力があった人である。このとき芙美子はすでに画家・手塚緑敏と結婚しているが、パリ滞在中も森本のほかにも、画家の外山五郎、建築家の白井晟一、坂倉準三、詩人の辻潤、仏文学者の渡辺一夫などとも交遊があった。芙美子は画家の外山五郎に会いたい一心で渡仏したらしい。失恋した芙美子の前に現れた男性が森本である。森本は芙美子と同じ年の28歳、ミツギ夫人がいる。
芙美子の日記に森本が登場するのは昭和6年12月26日である。「夕方顔氏(台湾人留学生)、森本氏達と支那めしをたべ、サンミッシェルを散歩する」とある。12月29日には森本、田嶋隆純(真言宗の学僧)とギメ美術館へ行った。翌年1月6日、芙美子は森本と田嶋を自分の部屋に招いて食事を供にした。翌日森本は朝早く芙美子を訪ねた。芙美子が好きだといった。日記には「へえ! こんなやぶれた女がね」「此男とは絶交する必要がある。本当はいいひとなのだろうが、学者にはどうも、精神的ケッカン者が多い」とある。1月10日にも森本が姿を見せたので、芙美子は「来らば水かけん」と宣言する。その翌日、ホテルに帰ると森本からリラの花三本が、「此花が御部屋を訪問いたします。どうか水をぶっかけて下さい。出来たら根の方が結構です」という手紙を添えて届けられていた。
やがて、2人はパリを離れロンドンへ。森本は1月29日、靖国丸で帰国する。芙美子は1月23日から2月25日までロンドンに滞在する。ケンジントンの下宿は森本に紹介してもらった。森本は3月9日帰国した。その年から翌年にかけて森本は活発に仕事をおこない、弥生文化研究の基礎をつくった。だが結核は進行していき、昭和11年1月、32歳で死んだ。(参考:関川夏央「女流 林芙美子と有吉佐和子」)
秋田といえば、しょっつる、ジュンサイ、ナメコ、ハタハタとならんで「きりたんぽ」が思い浮かぶであろう。郷土の偉人では、国学者・平田篤胤(1776-1843)が幕末思想界に大きな影響を与えた人物として重要。秋田藩はその篤胤の系譜をひく勤皇派が藩政を握ったため官軍にくみし、奥羽諸藩の幕軍と戦った。明治維新後、出羽国は羽前と羽後に分かれ、明治4年廃藩置県により秋田、岩崎、本荘、亀田、矢島、酒田の各県が誕生、同年、これらの県に南部領の鹿角郡を編入して今日の秋田藩の基礎が確立した。しかしながら、新政府は秋田藩を東北諸藩と同じように厄介者として扱い、決して優遇的な対応はしなかった。そうした中でも、近代化を望む声は生まれてきた。明治10年1月の新聞の投書には芸妓や娼妓が苦境からの解放を訴え、参政権や男女同権の思想の芽生えをうかがうことができる。明治14年6月には、藩閥政府に反抗し、横手周辺で豪農襲撃事件(秋田事件)が発生したが、秋田立志会の主唱者・柴田浅五郎らが逮捕され、立志会はまもなく消滅した。
画像は秋田の郷土料理きりたんぽ。「たんぽ」は形がたんぽ槍に似ているところからという。炊きたての飯を擂鉢に入れて餅のようにつぶし、杉串に円筒形にぬりつけて焼きあげたもの。きりたんぼ鍋が生まれたのは、秋田で自由民権運動が起こった明治10年代だといわれている。
イギリスの悪名高き盗賊としてディック・ターピン(1705-1739)が知られている。彼の首には200ポンドもの高額な賞金がかけられた。彼はジョン・パーマーと名乗り、堅気の馬・家畜商人として身を潜めていたが、酔ったあげくに喧嘩して逮捕され、身元がばれた。1739年4月7日、ヨークで処刑された。ターピンがロンドンからヨークまでブラック・ベスにまたがって逃亡したという伝説は、ヴィクトリア朝時代の作家ハリスン・エーンズワースの冒険小説「ルックウッド」 (1834)にもとづくつくり話である。
( keyword;Dick Turpin,John Palmer,London,Black Bess,Harrison Ainsworth,Rookwood )
津田三蔵、安重根、難波大助、佐郷屋留雄・・・・戦前の暗殺史で、日本人が最もその名を知るのは安重根だろう。難波大助などは手元の日本史辞典にも名前すらない。NHKの歴史番組でもほとんど紹介されることはないだろう。やはり虎ノ門事件はいわゆる「未曾有の不詳事件」語ることすら憚られるタブーの日本史なのか。
難波大助(1899-1924)は衆議院議員・難波作之進の四男。難波は幸徳秋水を深く尊敬していた。そうして秋水を処刑にしたものに対して憤激と憎悪を強める一方、労働運動の無力を批判してテロリストの道を選ぶにいたり、摂政宮裕仁を暗殺せんとした。1923年12月27日、摂政宮を虎ノ門付近で狙撃したが弾はガラス窓を打ち抜いて天蓋に達し、車内にガラスの破片が散乱したが、摂政宮に命中することはなかった。難波はその場で逮捕され、翌年11月13日、大逆罪で死刑判決、2日後の15日に刑死となった。執行が判決の2日後というのは異常な早さである。32年前の大津事件では、大審院はロシア皇太子を普通人に対する謀殺未遂として、津田三蔵を無期徒刑にした。これは司法権の独立として高く評価されたが、難波の死刑(大逆罪)については目を向けることはほとんどないように思える。ウィキペディアに無期懲役から死刑に変わった経過が記述されている。大助の父はその後、閉門蟄居して餓死したという。
医学の分野ではある症状の病名が、最初の症例報告者に因んでつけられることがしばしばみられる。バセドー病、アスペルガー症候群、クロイツフェルト・ヤコブ病、スティーブンス・ジョンソン症候群、リドル症候群、ギラン・バレー症候群、コルサコフ病、ターナー症候群、ダウン症候群、ハンセン病、ハンチントン病、ベーチェット病、メニエール病、シーハン症候群、シャイ・ドレーガー症候群など。なかでもパーキンソン病とアルツハイマー病はよく知られた病名である。イギリス医師ジェームス・パーキンソンは1817年初めてパーキンソン病を報告した。ドイツの医師アロイス・アルツハイマー(1864-1915)が1906年アルツハイマー病を報告した。
( James Parkinsons,Aloysius Alzheimer,Hans Asperger,エポニム,eponym )
天璋院篤姫(1836-83)。初めの名は敬子(すみこ)。島津安芸守忠剛の女として生まれる。薩摩藩主島津斉彬のはからいで、1854年、近衛忠熙の養女となり、篤姫(あつひめ)と改名し、1856年、21歳のとき徳川家定に嫁した。心身ともに虚弱な家定には子がなく、次代の将軍たるべき世子に徳川一門中から誰を選ぶか、将軍継嗣問題で一橋派と紀州派で対立していた。
篤姫入輿の半年後、1857年6月17日、一橋派の老中の阿部正弘が38歳という壮齢で死去し、彦根藩主井伊直弼が大老に就任した。1858年、徳川家定、島津斉彬が死去し、御台所たること2年足らずで、23歳の未亡人となった。以後、天璋院と称する。
天璋院となって以後の篤姫については、家茂夫人として降嫁した孝明天皇妹和宮との間の不和が伝えられ、大奥の天璋院づきの女中260人、和宮づき280人が慶喜派と家持派に分かれ対立した。
1868年4月10日、33歳の天璋院は、江戸城明け渡しを明日に控え、住みなれた大奥に別れを告げて去っていく。そして江戸攻めの総指揮官ときく西郷吉之助は、あの当時、養父斉彬の腹心として縁組の成立に奔走した人間である。
維新後は、徳川家達(とくがわいえさと)の教育に専念し、1883年11月、東京千駄ヶ谷の徳川邸で死去、享年48歳であった。
弾よりも速く、力は機関車よりも強く
高いビルも、ひとっ飛び
空を見ろ!
鳥だ!
飛行機だ!
いや スーパーマンだ!
そうだ スーパーマンだ。よその星から、人間をはるかにしのぐ力と能力を持ってやって来たスーパーマン。凄まじい河の流れを変え、鋼鉄を素手で曲げる。普段は、メトロポリタン紙の礼儀正しい記者クラーク・ケントと名を変えて、真実と正義と、アメリカのために、日夜闘いを続けるのである。
地球を守るために遠い星からやって来たスーパーマンは、クラーク・ケントと名乗り、デーリー・プラネット新聞の記者としてあらゆる犯罪に挑みこれを撲滅する。テレビシリーズ「スーパーマン」(1952-1958)が日本でも放送されるや、ジョージ・リーブスは世界のヒーローになった。だがスーパーマンの重圧に負けたのか、1959年6月16日、謎のピストル自殺を遂げた。まだ45歳だった。
「スーパーマン」はその後、クリストファー・リーブ(1952-2004)主演によりSFX劇場用映画として見事に蘇った。クリスファー・リーブの「スーパーマン」は、1978年、1980年、1983年、1987年と4本制作され、いずれも世界的な大ヒット。もともと舞台俳優をめざしていたクリストファー・リーブも様々な役に挑戦することを望んだが、スーパーマンとしてのイメージが強いため俳優として伸び悩んでいた。1995年落馬事故により、半身不随となり、2004年に52歳の若さで死去。何故かスーパーマン役者には、不運、不幸などの悲劇がつきまとうようだ。
19世紀イタリアの政治家カヴールは「イタリーはわが恋人わが妻なり」と言っているとおり生涯妻をめとらなかった。終生独身だった偉人を並べてみよう。
近世初頭の芸術家、科学者には独身者が多い。聖職者と同じように「社会によって生かされている人間は結婚すべきでない」という考え方があったのだろうか。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ヴォナローティ、デカルト、パスカル、ボイル、スピノザ、ライプニッツ、ニュートンなどみな生涯独身。ガリレオは内妻と3人の子どもがいたが、正式に結婚することにはいろいろ難しい問題があったようだ。18世紀、19世紀になってもヒューム、カント、ベートーヴェン、シューべルト、カザノヴァ、スタンダール、ゴーゴリ、キルケゴール、ソロー、アンデルセン、ショーペンハウアー、ルイス・キャロル、エミリーブロンテ、ジェーン・オースティン、ブラームス、ニーチェ、モーパッサン、ゴッホ、ロートレック、トマス・ロレンス、カフカ、ヒッチコックなどがいる。日本では上杉謙信、宮本武蔵、伊藤若冲、正岡子規、宮沢賢治、小津安二郎、長谷川町子、淀川長治など。
「結婚したまえ、君は後悔するだろう。結婚しないでいたまえ、君は後悔するだろう。」(キルケゴール)結婚してもしなくても人生は後悔を残すものである。
女性初の宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワを乗せたボストーク6号は1963年6月16日、打ち上げられた。「わたしはカモメ」彼女が宇宙から発したこの言葉は、その女性らしい感性と表現で世界中の人々が感動した。
ところが、実は「かもめ」というのは、そのミッションで与えられた彼女のコードネームだった。打ち上げ直後、機器の故障で地上との交信が途切れた。テレシコワはパニック状態となり、やたらめたら通信機で「こちらはカモメ、応答願います!」と連呼して叫んだ。この通信を世界中のアマチュア無線家たちが傍受して、「こちらはカモメ(ヤー・チャイカ)」を優雅な通信と取り違えた。ときには勘違いから感動がうまれることがある。( Tereshkova )
昭和43年ころ、漫才コンビてんやわんやが鎌倉の獅子文六邸を訪れた。ひどく恐縮している様子で、額から汗を流し、お辞儀ばかりしている。もちろん初対面だ。獅子文六が何の用事できたのかとたずねたら、芸名に獅子だの、てんやわんやだのを、無断で使っているのを、詫びにきたらしい。彼らが漫才コンビを結成したのは昭和27年頃であるから、今頃になって、何で誤りに来たのか、よくわからなかったが、多分、誰かに著作権侵害のおそれがあると脅かされて、慌ててやってきたのだろう。背の高いほうの獅子てんや(本名:佐々木久雄)が南伊予の出身で、そこを舞台にして「てんやわんや」を芸名にしたのだという。ともかく著作権にはまだ寛容な時代だったので、無断借用の件はお許しいただけたようだ。(獅子文六「てんや君とわんや君」オール読み物 昭和44年11月号)
めずらしく寺尾聡がスタジオパークに登場。土曜ドラマ「永遠の泉」の番宣。アウトドア派らしく日焼けしている。宇野重吉の息子。1966年にグループサウンズ「ザ・サベージ」でベースを受け持つ。当時は奥島吉雄のほうが人気があった。「いつまでもいつまでも」や「この手のひらに愛を」はヒットしたがすぐに解散している。「おくさまは18歳」やジュン・サンダース范文雀と結婚したことなど私の知っている話題にはふれない。「ルビーの指輪」(1981)や「雨あがる」(2000)などが中心。最近はモーターパラグライダーが趣味とか。寺尾はエレキギター→アイドルと共演・結婚→アクション・スター→性格俳優→ミュージシャン→アウトドアと常に時代をリードしている。( motor paraglider )
「平清盛」で美福門院や白鳥麗子を演じた松雪泰子がトラックと衝突事故。女優リンジー・ローハンがまたもや交通事故。永山絢斗、高倉健、ケンタロウ。昨年、清原と元木の2人は、お互い別々な場所で乗用車を運転中、交通事故を起こしていた。ジローラモやスピードワゴンの井戸田潤も1月に交通事故。2010年末は田中将大が人身事故で書類送検。過去に松本潤、相武紗季、MEGUMI、秋山竜次、堤下敦、三浦りさ子、畠田理恵、広末涼子、森下千里など著名人の交通事故は枚挙に遑がない。狭い日本、そんなに急いでどこへ行くんだろう。むかしはお抱え運転手がいたセレブでさえも自ら運転して車を乗り回す時代だから、有名人の事故の発生率は以前にくらべ高くなる。どうか注意してもらいたい。これまでも自動車事故で若く散ったスターがいる。高橋貞二(昭和34年)、佐田啓二(昭和39年)、小柳徹(昭和44年)、高橋良明(平成元年)たち。みんな生きていればもっと活躍しただろうに。注意一秒、怪我一生。心がけよう、安全運転。( Lindsay Lohan,car accident )
茨城県の「つくばみらい市」が2006年に誕生した。1995年の「あきる野市」(東京都)の命名以来、平成の大合併で数多くの平仮名の市町が現れた。「うきは」「にかほ」「かほく」「せたな」「まんのう」「みどり」「さくら」「みやま」「うるま」「ふじみ野」それぞれが日本のどこに位置するのか記憶しようとしているのだが、平仮名はイメージを描くことができず、頭の中に希薄な空虚感がともなう。このような現象を解明した学者はいないので、平仮名がむしろ流行してしまった。地名は個人の履歴などに記載され、印象を与える一要素であるから重要である。
あさイチで紹介されていた「かぜ薬にひそむ重い副作用」スティーブンス・ジョンソン症候群とは何か。広辞苑にもないがルルの使用説明には載っている。高熱(38℃)を伴って、発疹・火傷のような水ぶくれが全身の皮膚にあらわれる。中毒性表皮壊死症。1922年にアルバート・スティーブンス(1884-1945)とフランク・ジョンソン(1894-1934)によって発表されたが未だ原因はよくわからない。SJSの被害がほとんど知られないのは製薬会社の販売に悪影響があるからだろう。薬には効用もあるが副作用もある。( Stevens-Johnson syndrome,Albert Mason Stevens,Frank Chambliss Johnson,eponym )
明治4年の廃藩置県により下野では宇都宮県、黒羽県、日光県など11県が成立したが、11月の整理統合で、栃木県と宇都宮県の二県となった。栃木県は足利、梁田、寒川、安蘇、都賀郡など下野の南部一帯と上野国の館林県を管轄下におき、宇都宮県は東北部から中央に位置する那須、塩谷、芳賀、河内の4郡からなった。県庁はそれぞれ栃木宿と宇都宮町におかれ、初代栃木県令には鍋島貞幹が任命され、宇都宮県には県令をおかず大参事が代行した。明治6年6月15日、宇都宮県を廃し栃木県の管轄に組み入れた。本庁は栃木町に、宇都宮、大田原、足利には支庁がおかれた。新生栃木県の誕生である。栃木県庁は下都賀郡薗部村にあったが、明治17年に河内郡塙田村二里山へ移転した。突貫工事により、和洋折衷、白色のモダンな新庁舎が竣工した。しかし、明治21年1月の火災で焼失した。画像は、明治を代表する洋画家・高橋由一(1828-1894)が描いた石版画である。(引用文献:「栃木県の歴史」山川出版社)
むかしのドイツ映画に「Sehnscht202」(1932)がある。ゼーンズフトとは「あこがれ」という意味で、少女の役にはルイーズ・ライナー(102歳)が演じている。ルイーズはいまもロンドンのヴィヴィアン・リーが所有しているアパートで暮らしている。山田五十鈴は「剣を超えて」(1930)で大河内傳次郎の相手役で映画デビューしているからルイーズより2年古いことになる。戦前派には森光子(92歳)、原節子(91歳)、赤木春恵(88歳)らがいる。中村メイコは榎本健一主演の「江戸っ子健ちゃん」(1937)でデビューしている。子役や脇役のかたのなかには戦前派がいるかもしれない。津川雅彦は「狐の呉れた赤ん坊」(1945)がデビュー作である。現役女優最古参は「女優」(1947)でデビューした千石規子。津島恵子は「安城家の舞踏会」(1947)、三国連太郎「善魔」(1951)がデビュー。あと1950年代は宇津井健「思春の春」(1953)、小林旭「飢える魂」(1956)、里見浩太郎「天狗街道」(1957)など。
世界のなかで現役俳優で一番デビューが早いのは、おそらく「ハリウッドの化石」ミッキー・ルーニー(91歳)。「Orchids and Ermine」(1927)がデビュー作。
町村が市に昇格するとき、既に同名の市が存在することが多い。そのような場合、旧国名を頭につけることがある。河内長野市、土佐清水市、大和郡山市、陸前高田市、豊後高田市、大和高田市、安芸高田市など。また旧国名をそのまま使うこともある。美濃市、越前市、安芸市、伊予市、土佐市、東近江市など。しかし稀な例として本来の旧国名の領域ではない地域で、旧国名を名乗ることもある。1959年の市制施行にともない神奈川県に大和市が誕生した。市制施行から半世紀以上が経つが、100人に「大和市は何県にあるか?」と聞いたら、99人は奈良県にあると答えるだろう。
昭和29年6月14日、元保安庁職員の大津健一がカービン銃で仲間3人とギャングを働き、小切手2000万円を強奪した。その後仲間割れを起こして、郷里の大分・湯平温泉へ愛人の中田みさおと逃亡。住吉旅館にいるところを逮捕されたが、東京に護送された際、東京駅に5000人の野次馬がでたというほど、当時、社会の関心の高い事件だった。大津は死刑判決を受けたが高裁で無期に減刑され、昭和53年に釈放されて「赤いルージュと機関銃」という本を出版している。昭和29年、天知茂主演「恐怖のカービン銃」というタイトルで映画化された。
「かごしまけんさつませんだいし しもこしきちょうせせのうら」と読む。かつて「仙台より有名でない川内」といわれた川内市も2004年に4町4村と合併し薩摩川内市となった。旧国名である薩摩が新たに加わったところが苦労の跡がみえる。知らない人がパッと見ると「薩摩川・内」と読み取ることが多く、「さつまがわうち」と誤読されるであろう。
健康で長生きできるかどうかは血圧、血糖値、筋力、喫煙などの要因のほか、学歴や伴侶の有無が関係しているというアメリカの調査結果がある。つまり「伴侶なし」は長寿をのぞむなら危険要因の一つと考えられる。老後、家庭内での不慮の事故の際、緊急対応も伴侶がいるかいないかで生死がわかれる。いくら資産家であっても孤独死より、家族に看取られて最期を終えたいものである。
多くの人が憧れるスターも最期はかならず来る。マリリン・モンローはジム・ドハティ、ジョー・ディマジオ、アーサー・ミラーと再々婚するがいずれも離婚。ケネディ大統領との交際も噂される中、謎の自殺を遂げている。オードリー・ヘプバーンはメル・ファーラー、アンドレア・ドッティと再婚するも上手くいかず、ロバート・ウォルターズと事実婚で、幸福な最期を送ることができた。日本を代表する歌手、美空ひばりも離婚後、不遇が続いた。人生50歳は決断の時機だろう。本日、アイドル松田聖子の電撃発表。再再婚。お相手は一般人で大学准教授。「今年50歳を迎え、同世代の伴侶と新たな人生を歩んでいきますが、これからも皆様の心にずっと残っていくような歌を歌い続けていけるよう、一生懸命頑張ってまいります」とコメントしている。聖子の選択はまことに賢明である。
映画史に残る数ある名作のなかでも「風と共に去りぬ」(1939)ほど長く世界中で見られる映画はほかにないだろう。キャストはヴィヴィアン・リー、クラーク・ゲーブル、レスリー・ハワード、オリヴィア・デ・ハヴィランド、トーマス・ミッチェル、ハディー・マクダニエル、バーバラ・オニールなど。だが脇役の悲しさ、スカーレットの2人の妹、スエレンとキャリーンを演じた女優の名前を覚えている方はよほどの映画マニアだろう。次女スエレンはイブリン・キース(1916-2008)、三女キャリーンはアン・ラザフォード(1920-2012)。アンは6月11日、ビバリーヒルズの自宅で死去した。94歳だった。ヴィヴィアン・リーがもし生きていれば来年100歳を迎える。
楊貴妃といえばクレオパトラ、小野小町と共に世界三大美女の一人とされる。わが国では、「源氏物語」「今昔物語」「十訓抄」「浜松中納言物語」「唐物語」「太平記」と楊貴妃を題材にあげたものは数えきれないほどある。しかし、やはり「天に在りて願わくば比翼の鳥、地に在りては連理の枝とならん」と白楽天の「長恨歌」に歌われて、楊貴妃は日本人の心の中にいつまでも絶世の美女として生きているのである。
山口県油谷町は「楊貴妃の里」として知られ、楊貴妃の墓があるという。伝説によれば、安禄山の変で死んだ楊貴妃は身代わりで、実は危うく難を逃れて、向津具半島の北西、唐渡口に漂流した。しかし、まもなく病没し、憐れんだ里人たちが亡骸を二尊院に埋葬した。楊貴妃の墓と伝えられる五輪塔は、唐の方に向いて建っている。この墓に参ると美しい子が授かるという。
日本にある楊貴妃伝説には、このほか、京都東山泉湧寺に楊貴妃観音があり、名古屋の熱田神宮には楊貴妃にまつわる蓬莱伝説がある。江戸の建部綾足「本朝水滸伝」(1773年)という読本には、時代を奈良時代後期の道鏡の専横に抗して、恵美押勝、和気清麻呂、大伴家持らが立ち上がるという物語であるが、なんと楊貴妃までが登場する。
「己に唐国にては、玄宗皇帝の御心をみだし給へるばかりの御色におはせば、是を妾などにしたてて、阿曽丸にちかづけば、県主が娘といふともけをされ、終には其しるべをもて、我々が心のままに事をしおふせん」と、みそかにはかりあひたまへど、大倭言をわきまへたまはぬにすべなく、「是より二人して御言風俗をなほし、大倭言におしへたてんず」と。
「本朝水滸伝」の梗概は、馬隗で死んだはずの楊貴妃は身代わりで、実は叔父の楊蒙という男に救助されていた。楊蒙は彼女を遣唐使の藤原清川に託して日本へ亡命させる。二人は無事九州に着き、兄妹と偽って暮らした。そのころ都では道鏡が政権を握り、九州でも道鏡配下の豪族阿曽丸が支配していた。藤原清川は楊貴妃に日本語を教えて、女刺客として、阿曽丸を色仕掛けで暗殺を図る。しかし、その計画は失敗し、楊貴妃は尾張熱田へ逃げる。この奇抜な作り話の中にも少しは史実を織り混ぜているところがある。例えば、阿曽丸を阿曽麻呂に、藤原清川を藤原清河(?-779)に充てると、楊貴妃(719-756)とまずは同時代の人物である。史書によれば、開元・天宝の状況は、開元(733)の多治比広成、天宝九戴(750)の藤原清河ら遣唐使節一行によって、わが国に伝えられている。安史の乱についても「続日本紀」に淳仁天皇の天平宝宇2年(758)つまり反乱勃発後3年目の12月、遣渤海使の小野朝臣田守らが帰朝し、詳しく伝えている。太宰府帥船王、大弐吉備真備(695-775)らに安禄山が侵攻するかもしれないから備えを固めるよう指命を発している。楊貴妃の情報も逐一わが国に伝わっていたようである。
参考文献
鎌田重雄「渤海国小史」(史論史話第二) 1967
村山孚「美人薄命」(人物中国志5) 1975
石井正敏「日本渤海関係史の研究」 2001)
山崎富栄(1919-1948)は、日本で最初の美容学校の創立者である山崎晴弘、信子夫妻の末娘として、大正8年9月東京市本郷区東竹町に生まれた。小学校を優等の成績で卒業後、京華高女に進みのち錦秋高女に転じて同校卒業。その後もYWCAに進学して聖書、英語、演劇の研究に励み、さらに慶応義塾大学の聴講生として学ぶかたわら、銀座松屋前の美容院の経営を任されていた。
昭和19年12月、三井物産本社の飯田富美女史の世話で、同社員・奥名修一と結婚したが、わずか二週間後に修一は単身マニラに赴任となり、そのまま現地入隊して戦闘に参加、激戦のさなか生死不明になってしまった。修一を羽田空港に身送ったあと、銀座の美容院が罹災し、お茶の水美容学校の講師として父母を援けていた富栄は、昭和20年の東京大空襲で学校が全焼してしまい、やむなく家族と共に滋賀県八日市町へ疎開した。
昭和21年、富栄は義姉と一緒に鎌倉に戻って美容院を経営する。その年の秋、美容学校を再建するまで一時的に三鷹駅前の美容院に勤めることになり、下連雀の野川家に身を寄せた。敗戦直前、甲府から太宰治が、三鷹下連雀の旧居に戻ってきたのも、富栄が鎌倉から三鷹に移ったのと、ほぼ同じ頃であった。
山崎富栄の住む野川家は、太宰の仕事場である小料理屋「千草」と、ほぼ正面に向かい合っていた。昭和22年3月27日の夜、三鷹駅前の屋台で、運命的な二人は出会う。
その頃、太宰は太田静子の日記をもとに「斜陽」を書き初めていたのだが、静子の存在を出産まぢかの妻に知られ、もはや文通さえ困難になりつつあった。夏も終わりの頃から太宰の病状は悪化の一途を辿り、富栄は勤めを辞めて看病と秘書の仕事に専念することになった。この頃より、仕事部屋は富栄の部屋に移された。秋、静子に女児が誕生し、太宰は「治子」と命名した。養育費の送金は富栄がした。翌23年の冬、たび重なる喀血に死期近しとさとった太宰は、これまでの一切を傾けて「如是我聞」「人間失格」を書き上げる。6月13日の夜、二人は小雨降りしきる玉川上水に入水して心中する。
病気と闘いながらの太宰の晩年の名作誕生の陰には、太宰治をめぐる三人の女性、津島美知子・太田静子・山崎富栄のそれぞれの愛があった。
NHKでは、日本海海戦を大勝利にみちびいた知将の秋山真之、その兄の陸軍大将秋山好古、同郷で親友の俳聖正岡子規、三人の生涯を余すところなく描いた司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」を再放送している。率直な感想は、明治人の気概や爽快さなど横溢しており、ドラマとしては良質のものである。ただ日露戦争に続く日本の悲惨な歴史を考えると手ばなしで喜ぶこともできない人も多いだろう。ドラマの中でしばしば福沢諭吉の言葉がでてくる。「一身独立して一国独立す」と。ドラマのテーマを一言で言いえている。今日の朝日新聞の夕刊記事で梅棹忠夫さんのことが紹介されていた。梅棹忠夫さんの漢字廃止論は有名だそうだ。また宮沢内閣のとき、アジア太平洋問題に関する首相の諮問委員会が設置された最初のゲストスピーカーが梅棹さんだった。開口一番「日本が大陸アジアと付き合ってろくなことがない、が私の結論です」と言われて、参加者はあっけにとられたそうだ。まるで福沢の脱亜入欧論ではないか。その梅棹さんはこんなことも言っている。「みなさまがたのなかには、明治生まれのかたがかなりたくさんいらっしゃるようにお見うけいたしますので、たいへん失礼な表現になるかとおもいますが、明治をしらない現代人からみれば、明治はやはり、はるかなむかしというほかありません。この一世紀は、日本の国家にとりまして、ひじょうな躍進の時代であり、いわば国家としての急速な成長期でありました。極東の一角のささやかな国家から、たちまちにして世界のいわゆる列強のひとつに仲間いりをするようになったのであります。数次にわたる対外戦争および第二次世界大戦における敗戦というきびしい試練をうけましたけれども、その傷もおおむね回復して、今日においては、国の実力からいいましても、すでに堂々たる大国であり、ふたたび第一級の国にのしあがったのです。もともと日本は、明治の初期には完全な農業国であって、だいたい国民の80%以上が農民でした。それがいまや農業人口は40%をきるところまで縮小しています。日本はそういう国がらにかわってきたのです。農業国から工業国にはっきり転換したのです。そして、それにともなって、国家の、あるいは社会の、いわば生理作用がかわってきたのです。わずか一世紀のあいだに、日本はすっかり体質がかわってしまいました。そういう社会あるいは国家の体質の変化にともないまして、国民の個人生活、あるいは人生についてのかんがえかたというのも、明治のころとくらべまして、もうすっかりべつなものになってしまっていると、わたしはおもうのです。(中略)明治時代のひとの人生の生きかたというものをかんがえてみると、これは理想にむかって驀進した猪突猛進型であったといえましょう。イノシシがキバをむきだして目的にむかって驀進した。そのとき、個人の目的と国家・社会の目的とは一致していたのです。そのものすごいエネルギーによって、かれ自身は立身出世し、同時に近代日本の建設がすすんで、このような繁栄がもたらされたというわけです。しかしながら、その繁栄の結果として、現代ではイノシシのキバは不要になったのです。あるいは、平和な社会生活においては、キバは邪魔でさえある。おしあい、へしあいの高密度社会で、そういうキバをふりまわされては、あぶなくて仕かたがない。他人が迷惑する。そういう時代になってきたのです。そこで、キバはすてるほかない。武装解除です。現代は、イノシシたちの武装解除の時代です。キバをうしなったイノシシとは、なんであるか。それはつまりブタでしょう。現代の日本の青年たちはまさにブタのごとき存在になりつつあるというわけです。(中略)これはどうも日本だけの話ではないのでして、近代国家の生活者一般の未来像なのです。」
「キバと幸福」1959年11月10日の講演。民俗学者、梅棹忠夫(1920-2010)のユニークな文明史観、未来像は注目に値する。1959年というかなり以前の講演であるが、今、「坂の上の雲」を見て、梅棹忠夫の著作に注目している。さらに講演は続く。
「そこでこれからどうなってゆくんだろうかということですが、こういう世俗のきわみのままでどんどんながれていって、われわれの社会はどうなってゆくのか。心の奥そこまで世俗化され、そのあげくのはてに、いったいどういうことになってゆくのかということです。どうもこれはへんないいかたでありますが、わたしは、そのような幸福追求とか生活水準の向上とかの世俗のきわみのはてに、もういっぺんに崇高な、なにか聖なるものがでてくる可能性があるのではないか、とかんがえています。聖なるものというのは、いったいどういうことか。かんたんにいいますと、目的がないということなのです。すくなくとも、実利的目的がない、そういう性質のものです。そのことを一所懸命にやったところで、わが身になんの利益も還元することがない、そういう性質のものです。つまりなにかを獲得するために自分はこうするのだということでなしに、おかえしを期待しない行為、これをわたしはひじょうに神聖なものだとかんがえています。完全な自己放出、あるいは、自分自身をなにかにささげてしまう、そういう生きかたです。さきほどから俗なるものといっているのは、それとはちがうものなのです。こうすればこうなるというような、やりとり関係のなかで人生が組みあげられている。幸福追求というものはやはりそうだとおもうのです。なにか自分が努力することによって、こういうものをかちとることができるのだ、というふうになっている。聖なるものというのはそうではなくて、全然おかえしを期待しないで自分自身をなにかにポッとほうりなげてしまう。こういうのが、聖なるものとよばれるものだとおもいます。そして、人間の聖なる行為というものは、世俗的欲求がいちおう充足されたときにでてくるものではないか、というのがわたしの仮説なのです。(中略)ブタに、もう一どキバがはえてくるかもしれないのです。ブタの再武装です。しかし、このときキバはすでに防御や攻撃に有効な、生物的生存目的をもったキバではありません。あたらしいキバは精神のキバです。人間の問題は、本来人間の精神の問題です。もし個人がキバをもつとすれば、それは精神のキバです。それは、生物的生存目的のためには不必要な武装です。それは、生物的な目的の喪失をこえて、人間精神の聖なる放出のための武装です。世俗の生活がみちたりたとき、精神の神聖な再武装がはじまるというわけです。」
福田琴月(ふくだきんげつ、1875-1914) 明治の児童文学者。本名喜八。早くから児童文学に関心を持ち、「世界偉人伝」「九郎判官」「鎮西八郎」など主として少年のための歴史物語を著わした。明治30年以降は、金港堂の大衆的なお伽噺シリーズの筆者として活躍した。安価な小型本のお伽噺の楽しさを浸透させた。
むかし鉄道の世界では「鉄」の字をしばしば「鉃」と変形して使った。「金」が「失う」では縁起がわるいので、わざと「鉃」の字を書いたのだ。大木伸夫の流行歌「鉃路の男」もわざと俗字を使っている。現代ではこのような悪習は消えてしまったようである。
清水次郎長こと山本長五郎(1820-1893)は文政3年1月1日、清水港の美濃輪に居住していた船持船頭高木三寿郎の子として生まれたということになっているが、清水市役所の戸籍簿には、文政3年12月10日出生とあり、いずれが真実かわからない。が,元旦生まれの子は賢才でなければ極悪人になると,親戚が迷信をかついで、他家へやったほうがよいということになり、三寿郎の妻とよの実弟で、「甲田屋」という米穀商を営んでいた山本次郎八へ養子にやられたというから、元旦生まれが正しいのかもしれない。もっとも,長五郎は4人兄弟の末っ子で次男だったから、もともと高木家には不要の子であったとも考えられ、元旦生まれ云々の説は、後からの作り話のようである。次郎八のところの長五郎というので、おいおい、次郎長の通称でよばれるようになったのである。維新後、囚人を使役して富士の裾野開墾に従事。清水の発展に尽力した。明治20年6月12日没。享年73歳。 (青山光二「任侠の群像 日本の歴史10」暁教育図書株式会社 1975)
1898年6月12日、フィリピンのアギナルド(1869-1964)が独立を宣言した。しかしアメリカはスペインと戦い、キューバ、フィリピン、プエルトリコ、グアム島を獲得し、また同年ハワイを併合した。
アギナルドはルソン島カビテの中産地主の家に生まれ、スペインに対する独立運動カティプナンに参加。1897年に独立運動最高指導者となったが、同年末、スペインとの間で妥協的な和解案ビアックナバトー協約を成立させて多額の援助金と引き換えに戦闘を中止し、彼自身はシンガポール・香港に亡命した。アメリカ・スペイン戦争がおこるとアメリカの援助で帰国し、独立宣言を発して、マロロスに革命議会を開き大統領となったが、アメリカの背信的攻撃を受けたことを契機にアメリカによるフィリピン領有に反対する反米武力闘争を展開した。1901年アメリカ軍に破れパラナンに捕えられ、国民に対してアメリカのフィリピンにおける主権を認める宣言を出すことで釈放された。1935年のコモンウェルス大統領選挙に推されて立候補したが落選し、太平洋戦争には一時日本と結んで独立を図ったこともあるが失敗。独立運動指導者としての評価は今なお定まっていない。( Emilio Aguinaldo,ビアクナバト,,Biak.na.Bato,総司令部が置かれていた地名,Palanan,Malolos,Cavite)
参考文献:「あぎなるど 比律賓独立戦話」山田美妙 内外出版協会 1902,「フィリピン独立の祖アギナルド将軍の苦闘」 渡辺孝夫 2009
中大兄皇子が中臣鎌足らと謀り、蘇我蝦夷・入鹿の父子を殺して、権力を奪った政変を「大化の改新」と覚えたが、今の歴史教育では入鹿暗殺事件は「乙巳の変(いっしのへん)」と呼び、後に行われた一連の政治改革を「大化改新」と区別するのが一般的である。
ともかく645年という年号は、わが国で初めて年号をたてて大化元年とした、記念すべき年である記憶されるべき出来事であることには間違いない。大化改新によって律令による政治が確立されたとされる。
無事故(645)で終わった大化の改新
変事、中大兄皇子は葛城皇子と名乗っていた。
6月12日、葛城皇子らが宮中で蘇我入鹿を殺す
6月13日、蘇我蝦夷が自害
6月14日、皇極天皇、軽皇子に譲位(孝徳天皇)
最近、軽皇子が乙巳の変の黒幕ではないかという説もあるそうだ。
昔から中部アメリカのインディアン・マヤ族には、サポディラという木の皮に傷をつけてとった樹液のかたまり(チクル)を口でかむ風習があった。このチクルを原料として、香料などを加えたものがチューインガムである。このチューインガムは、1860年ごろ、アメリカ人トーマス・アダムス(1818-1905)によって初めて作られた。その後、改良されたものが、1869年にジョン・コールガンによって、さらに1892年にはウィリアム・リグレー・ジュニア(1861-1932)によって製造され、世界的に販売された。( chewing gum,Sapodila,chicle,Thomas Adams,Willam Wrigley Jr)
NHK大河ドラマ「平清盛」に欠けているのは何かをあれこれ考えている。どうも出演者はみな善人で、いわゆる時代劇に必要な悪役、敵役がいないことだと考える。信西(阿部サダヲ)、頼長(山本耕史)も憎憎しさが足りない。かつて東映時代劇に阿部九州男(1910-1965)という悪役がいた。信西を阿部サダヲではなく阿部九州男が演じたらどんなだったろう。眼光するどく、大物らしくもったいぶった所作で、善玉・市川右太衛門に斬られる。そのようなカタルシスが「平清盛」にはまるでない。阿部は55歳で亡くなっているから当時は意外と若かったのだ。
阿部の若き日の作品は観る機会もないが、痩せており、板割の浅太郎や沖田総司などを演じたという。1933年に大都に移り、杉山昌三九と並ぶ看板スターとなった。戦後は大映、東映で貫禄ある悪役となる。阿部九州男がとくにいまでも有名なのは、おそらくテレビの「てなもんや三度笠」によく出演していたためだろう。
ところで阿部九州男が美剣士・沖田総司を演じたのは本当だろうか。通説では沖田総司はテレビ「新選組血風録」「燃えよ剣」で沖田を演じた島田順司からといわれる。実は昭和初期にすでに大衆文芸で新選組はブームであり、「維新の京洛」(1928)で寺島貢が演じたのが最初である。「剣士沖田総司」(1929)で月形龍之介が、「大殺生」(1930)で阿部九州男が沖田を演じた。このころから沖田=美剣士のイメージは出来上がった。以後映像作品において沖田総司は若手二枚目俳優が演じることが多くなった。
ドラマ「リーガル・ハイ」で弁護士を演じている新垣結衣は24歳の誕生日。名前はもちろん「あらがきゆい」と読む。元モーニング娘の新垣里沙は「にいがきりさ」である。SPEEDの新垣仁絵は「あらがきひとえ」である。黒川智花、黒川芽以、木村佳乃と木村文乃、田中麗奈と田中れいな、水野真紀と水野美紀、蒼井優と蒼井そら、酒井若菜と酒井美紀、奥菜恵と奥貫薫、木内みどりと木之内みどり、鰐淵晴子と馬淵晴子、夏川純と夏川りみ、綾戸智恵と上戸彩、陣内智則と陣内孝則、沢村一樹と北村一樹、川村龍一と河村隆一、高橋克也と高橋克実、玉木宏と玉山鉄二、三浦和義と三浦知良、大辻司郎と大辻伺郎、永井智雄と永井秀明、香川真司と香川照之、高橋長英と高野長英、有島一郎と有島武郎、人見明と人見きよし、タッド若松と若松孝二、鰐淵晴子と馬淵晴子、藤原釜足と藤原鎌足も紛らわしい。ジェラード・バトラーとジェラール・ドパルデュー。ジョッシュ・デュアメル、ジョッシュ・ハートネット、ジョッシュ・ブローリング、ジョッシュ・ルーカスの区別つきますか。
「鳴門の渦潮」と言うが、ナルトとは「渦潮」の意味。古くは阿波の門の意味から粟門(あわと)と呼んでいた。平安時代には「鳴門」の表記が現れる。あくまで海峡の名称だった鳴門が村名として現れるのは明治22年の町村制施行時である。昭和15年には鳴門町になった。さて、現在市役所のある鳴門市街地は撫養(むや)という歴史の古い町だった。昭和22年に撫養町と里浦村・鳴門町・瀬戸町が合併して鳴南市(めいなんし)となった。鳴門海峡の南側の地方一帯を鳴南と称したことから命名された市名だったが、市民になじみがないと不評だった。2ヵ月後に鳴門市と改名されて、鳴南市は短命に終わった。
メガネの似合う著名人というランキングがある。アンジェラ・アキ、ペ・ヨンジュン、古田敦也、タモリ、八嶋智人、古館伊知郎、黒田俊介(コブクロ)、光浦靖子とかいろいろな人の名前が上がっている。ケペル流にメガネの似合う著名人を勝手にランキングを考えてみよう。
第1位はなんといっても、天皇裕仁。
第2位 東海林太郎
第3位 速水御舟
第4位 菊池寛
第5位 棟方志功
第6位 武者小路実篤
第7位 西田幾多郎
第8位 津田左右吉
第9位 古川緑波
第10位 大村崑
番外。東条英機、吉田茂、石橋湛山、池田勇人、浅沼稲次郎、堀辰雄、田山花袋、杉狂児、高瀬実乗、別当薫、手塚治虫、水木しげる、森川信、三木のり平、中条静夫、チャーリー浜、石橋エータロー、仲本工事、山川静男、山本健吉、司馬遼太郎、松本清張、野坂昭如、遠藤周作、大江健三郎、竹村健一、荒木経惟、キダ・タロー、国松彰、井上陽水、南こうせつ、さだまさし、鈴木雅之、鈴木ヒロミツ、大江千里、三谷幸喜、宮崎駿、やくみつる、森永卓郎、生島ヒロシ、大木凡人、笑福亭笑瓶、笑福亭鶴瓶、柴田理恵、宮川花子、斉藤祐子、Tommy feburary6、原辰徳。
フランク・ジェンクス(1902-1962)。眼光鋭く、いかつい風貌だが、フレッド・アステアやディアナ・ダービンなど音楽映画の名脇役。「オーケストラの少女」での次のセリフはよく知られる。
運転手(フランク・ジェンクス)「あんな美声なら、世界一幸せなはずなのに。見事な高音だ。体が浮き上がりそうだったよ。シャンデリアまでビリビリ震えてたぜ。すごかった。さっき歌ってたやつは何ていう歌だい?」パッツィ(デイアナ・ダービン)「モーツァルトのハレルヤ」運転手「ただのハレルヤで皆を感動させるとは、大歌手になれるよ」パッツィ「そう?」運転手「絶対だとも。大儲けできるぞ」パッツィ「でも、ずっと先の話かしら」運転手「何事も我慢だ。幸せはすぐには訪れない」パッツィ「我慢強くて」運転手「かなりね」パッツィ「今、起こるべきことを何年も待てる?」運転手「待たなきゃいけないなら」パッツィ「じゃあ、待ってね。タクシー代がないの」
フランク・ジェンクスがいう「何事も我慢、幸せはすぐにやってこない」は映画の名セリフの一つ。1930年代のタクシー料金メーターがハッキリ映っているのも面白い。1933年に映画デビュー、生涯に130本以上の映画に出演し、「ディック・トレイシー」「スーパーマン」などのドラマ出演がある。代表作「艦隊を追って」「世界の歌姫」「裏街」「海と青年」「北半球SOS」「地獄街」「銀の靴」「有頂天時代」「春の序曲」「姉妹と水兵」「画家とモデル」「スピード王」など。(Frank Jenks)
義和団とは清代の白蓮教系の秘密結社。義和拳教徒が組織した自衛団。日清戦争後、1899年、キリスト教および列国の中国侵略に反抗、山東省で蜂起。1900年6月10日、北京に入城した各国公使館区域を包囲したため、日・英・米・露・独・仏・伊・墺の8ヵ国は連合軍を組織してこれを鎮定。清朝に4億5000万両の賠償金を支払わせた。
義和団 中国とヨーロッパ 中国近現代史双書1 G.N.スタイガー著 藤岡喜久男訳 桃源社 1967
義和団事件 小田嶽夫 新潮社 1969
義和団民話集 中国の口承文芸1 東洋文庫 牧田英二、加藤千代編訳 平凡社 1973
義和団の研究 村松祐次 巌南堂 1976
義和団と明治国家 小林一美 汲古書院 1986
義和団 光風社選書 G,N.スタイガー 光風社出版 1990
「英雄豪傑色を好む」というが、世界帝国を一代で築いた英雄アレキサンダー大王の女性関係はどのようなものだったのだろうか。プルタークによれば、大王は「女性に関して誰もおよばないほど節制を守った」といっている。当時の一般の性道徳からいえば、たしかに彼は節制を守ったほうだったろう。結婚以前に彼の知った唯一の女性はバルシネだった。
アレキサンダー大王は前333年、イッソスの戦いでペルシアのダレイオス3世を破った。ペルシア王はからくも逃げたが、その母、妻、娘は捕虜となった。大王はその後、部下のパルメニオンにすすめられ、イッソスの戦いで捕虜にしたバクトリア太守のアルタバゾスの娘バルシネを愛人としている。彼女はのちに庶子ヘラクレス(前327-前309)をもうけている。
アレキサンダーの結婚はかなり遅く、前327年、29歳の時にバクトリア豪族オクシュアルテスの娘ロクサネと結婚する。プルタークは彼女のことをアレキサンダーが「愛情に負けた唯一の女」といっている。ロクサネはたいへん美しい女性だったらしい。スサでは大王以下マケドニア人1万人とペルシア婦人の婚礼をした。大王自身はペルシア王の娘スタテラーとバリュサティスと結婚している。そのあと大王は熱病のためBC323年6月10日、33歳で急逝した。この時、王妃ロクサネは妊娠中であり、愛人バルシネには庶子ヘラクレスがいた。間もなくロクサネに男の子が生まれた。これがアレキサンダー4世である。大王の死後、その大帝国は部下の将軍たちの奪いあうところとなった。彼らはそれぞれ大王の後継者(デイアドコイ)と称した。ロクサネ、バルシネは子供とともに殺され、アレキサンダー大王の血を引く者は前310年までに完全に絶えた。(AlexandrosⅢ)
スティーヴン・ボイド(1931-1977)には長い下積み時代があった。北アイルランドのアントリムに生まれ、10歳から舞台に立ち、16歳でウルスター劇団に入団。1946年カナダに渡り、ラジオや夏芝居に出演し、2年後アメリカに移るが食い詰めて、帰英。映画館の事務員をしていたとき、マイケル・レッドグレーブに見出されてチャンスをつかむ。ブリッジット・バルドー主演「月夜の宝石」で知られるようになり、翌年大作「ベン・ハー」(1959)のメッサラが生涯の当たり役となる。スペクタクル「ローマ帝国の滅亡」(1963)の後、45歳の若さで亡くなっている。つまりブリジット・バルドーとソフィア・ローレンの大物女優の相手役という印象が強い。BBとローレンは同じ年で誕生日もわずか8日違いである。(Stephen Boyd,Antrim)
ネロ・クラウディウス・カエサル(37-68、在位54-68)。アヘノバルブス家の出身で、本名ルキウス・ドミチウス・アヘノバルブス。彼の父グナイウス・ドミチウス・アヘノバルブスは40歳ぐらいで死去し、彼の母で、アウグスツスの曾孫の小アグリッピナは、49年に彼女のおじにあたる皇帝クラウディウス1世の皇妃となった。クラウディウスと彼の前妃メッサリアの子ブリタニクスは、ネロよりも三歳しか年少ではなかったが、アグリッピナはクラウディウスを説得して50年、ネロを養子にさせた。その後、ネロとブリタニクスの姉オクタウィアを結婚させ、さらにまたさまざまな栄誉を与えて、ネロをクラウディウスの後継者に仕立てた。54年クラウディウス1世は急死したが、アグリッピナによって毒殺されたものらしい。アグリッピナはただちに近衛軍の支持を取付けて、ネロをローマ皇帝と宣言させた。ここに初めて、帝権がまだ17歳に満たない一少年に付与されることになったのである。
ネロは、ストア派哲学者セネカを家庭教師としてギリシア的教養を身につけたローマ人であり、ギリシア旅行をしたり、詩を作ったり、演劇に興じたり、竪琴をひいて音楽に興じることを好んだ。ネロは、20歳くらいまでは熱心に統治を行なったが、政治に口を挟もうとする母親のアグリッピナを暗殺して以後、現実社会を嫌悪するようになった。64年になると、ネロは過密となったローマに放火させ、焦土と化したローマを理想的な都市として再生しようとした。火事は蜜集したローマの半分を焼き尽くし、ネロは莫大な費用を費やしてローマを再建した。しかし、のちに放火の事実がばれそうになると、ネロの側近はキリスト教徒に放火の罪を押し付け、多くの信者をとらえられて公開火刑に処した。これが、ローマ帝国における最初のキリスト教徒迫害事件である。孤立したネロは、翌年政府転覆事件を口実に師のセネカにも自殺を強要し、強権政治を強めた。しかし、横暴な支配のためにネロは、元老院、近衛兵からも見放され、68年6月9日、ローマから脱出して自殺した。ここに暴君ネロの支配は終わり、ユリウス・クラウディウス朝は断絶した。(参考:宮崎正勝「世界史の海へ」小学館) Nero,Augustus
チャールズ・ディケンズはイギリスで最も人気のある、そしておそらく最大の小説家である。チャールズ・ジョン・ハファム・ディケンズCharles John Huffam Dickensは、1812年2月7日、ポートシー町(のちポーツマス市に編入)の一区ランドボートに生まれた。現在のコマーシャル・ロード393番地で、その家は博物館になっている。父のジョン・ディケンズはその地の海軍主計局の事務員だったが、チャールズが9歳の時に、父は一家をまとめてロンドンに出て来た。彼は小説『デイヴィド・コパフィールド』に登場するミコーバーのモデルだけあって、金銭にはだらしなく、多くの借金を背負い込み、遂に投獄される。これからチャールズの苦難の時が始まる。小説のミコーバーはこれといった収入はなくとも、好きな酒を飲み、贅沢な物を食べるので、借金が日増しに増えるが、彼はそんなことは一向気にしないで「そのうちどうにかなるさ」と、いつもうそぶいている。この人物は多くの読者に喜ばれたために、ついにミコーバリズム(楽天家)という語が一般に通用するようになった。「年収20ポンドだとする。その人の支出が19ポンド19シリング6ペンスならば、あの人は幸福であるが、支出が20ポンド06ペンスならば、その人は不幸である」と、デイヴィドに語っている。放漫家の彼がいかにももっともらしい講釈をするのだから、誰でも笑わずにはいられない。
戦後間もない年の6月のある日、東北の山村にある海光女学校で、若い英語教師島崎雪子は、5年生の寺沢新子から、一通のラブレターを見せられた。雪子は校医の沼田に相談する。彼は雪子を怒らせ平手打ちされてしまう。雪子がニセ手紙を書いた生徒の松山浅子を厳しく責めたことから、問題は一層大きくなり学校で父兄理事会を開くことになる。その上、浅子の父親が田舎政治家で、学校の理事長をしている井口甚蔵という市会議員と兄弟分ということで、雪子の立場はますます苦しくなった。沼田の中学の後輩金谷六助は、偶然新子と親しくなっていたが、二人が苦境に立っていることを知って沼田に応援をたのむ。沼田は一計を案じ、六助の友人富永安吉や芸者梅太郎の協力を得て、理事会の席で井口や体操教師の田中をやりこめて雪子を救う。やがて松山浅子も新子と和解した。台風一過、村にも学校にも和やかな空気が訪れて、寺沢新子と金谷六助は少し大人になり、沼田医師と島崎雪子は結婚の約束をする。
「青い山脈」は昭和22年6月9日から10月4日まで朝日新聞連載小説として発表された。今井正監督で「青い山脈」「続・青い山脈」(原節子、池辺良、伊豆肇、木暮実千代、龍崎一郎、若山セツ子、杉葉子)、西河克己監督で吉永小百合、浜田光夫、高橋英樹で再映画化されている。石坂洋次郎(1900-1986)は教師生活の体験を生かした青春小説を数多く残した。石坂は純文学、ことに自らがかつて親しく接した葛西善蔵の私小説のあり方に決別し、より広い一般の読者を目指した小説を手がけることになる。「青い山脈」には、自意識の文学から中間小説へという変化を見て取ることができる。
「殊に婦人が愛なき結婚関係によって自己の物質生活の安固を得るが如きは、何と考へても一種の奴隷的売淫生活であり、野蛮時代の売買結婚の遺風に過ぎない。又たとひ一夜の契と雖も、そこに恋愛が存在して居たならば、それは確かに一種の結婚であって売淫ではない」(有島武郎)
大正12年7月12日の各新聞の見出し「有島武郎、美人記者と情死」を見たものは、誰もどんなに驚いたことか。人道主義、博愛主義的な作風で大正文壇の中心的存在であった有島は、妻の安子(旧姓名、神尾安子)に先立たれ、三人の子供をかかえ、当時45歳の独身だった。波多野秋子は、18歳で波多野春房と結婚し、大正7年に高島米峰の紹介で中央公論社に入社、以来「婦人公論」の記者として活躍し、当時30歳だった。有島武郎と波多野秋子が知り合いになったのは、事件の1年ほど前のことで、それ以来、二人はおたがいに深くひきつけられ、愛し合うようになった。波多野春房は、有島に対し、「秋子をここまで育てあげたのだから、ただでは渡せない、1万円よこせ」という意味の脅迫をした。有島にこの不純な言葉がのみ込めるわけがない。有島は妻を病死させていたが、その傷心を癒すため妻の入院していた病院の患者すべてに花束を贈ったという人だ。愛情を金銭にかえることをできるわけがない。その翌日(6月9日)、軽井沢の別荘で二人は縊死した。
全国に高田という地名の市は多いが、陸前高田市(岩手県)、大和高田市(奈良県)、豊後高田市(大分県)などである。なぜ高田市ではないのか。これはかつて新潟県に高田市という名の市が存在していたためであろう。同名を避けてその名に旧国名を冠して区別したのである。ところが本家の高田市は1971年、直江津と共に合併して上越市となってしまった。高田、直江津という歴史ある地名が消えたことは淋しい。
旅(tour)はギリシア語のトルノスtornos(らせん、ろくろ)に由来する。もともと円を描く大工道具(コンパスのようなもの)だったが、英語ツアーとなった。ターンturnも語源は同じ。
I went for an overnight trip to a hot spa.
温泉へ一泊旅行した。
travel は「旅行をすること」の意で最も一般的なことば。tour は主として観光の目的である場所を訪れることで、ふつうの1日以上のものをいう。trip は特定の場所を訪れる目的での短い旅行。journey は比較的長い旅で、とくに陸路の旅を指す。voyage は比較的長い船旅、excursion は小旅行。
北宋第8代徽宗皇帝(1082-1135)の真筆とされる「桃鳩図」(1107年)は日本にある。(国宝)現在の所有者は鎌倉の骨董美術商雅陶堂主人の瀬津巌である。個人所蔵なので一般人が目にすることはない。またこの名画はいつごろ、どういう形で日本へ持ち込まれたのか不明である。3代将軍足利義満(1358-1408)の所蔵を示す「天山」の鑑蔵印があることから、舶載の時期は日明勘合貿易あるいはそれ以前とも考えられる。義満から義政へ、義政から大内義隆へ、義隆から井上馨、現在へのルートは省く。鎌倉時代から唐物趣味は盛んであった。考えられるルートとしては、①靖康の変(1126-1127)の時期②金が押収し、燕京(現在の北京)へ行き、日金貿易で日本へ③日元貿易で日本へ。このルートは輸入品は多い④足利義満の始めた日明勘合貿易(1401年)のルートで輸入された、などが考えられる。
何を書こうかと考えるために座るのではなく、貴方が考えたことを書くために座りなさい(ウィリアム・コベット)
ウィリアム・コベット(1763年3月9日生。1835年6月8日没)はイギリスの急進的政治家・文筆家・編集者。イギリス南東部サリー州の貧しい農家に生まれた。軍隊に入り、除隊後フランス、アメリカに渡り、帰国後急進的ジャーナリストに転向。農民、労働者の懐旧的感情に訴え、産業主義社会を批判した。議会改革を通じて社会改革を考え、議会議事録の発行を創始した。1823年議員に当選したが、政治的には成功しなかった。彼の文章は明快であり、農業問題についてはすぐれた識見を述べている。農村疲弊の実状見聞録「農村紀行」(1830年)は名著として高く評価されている。コベットの本はすべてよく売れたが、特にプロテスタント史に関する本は、世界中で聖書に次いでよく売れたと言われる。
コベットは驚くほどの多作家で、そのいくつかをあげる。「アメリカ生活一年の記録」「英文典」「小住宅の経済」「アメリカの園芸」「イギリスの園芸」「コベット講演集」「移民ガイド」「スコットランドの旅」「アンドリュー・ジャクソンの生涯」「仏文典」「イギリスおよびウェールズの地理辞典」「プロテスタント改革史」「イギリス議会史」「議会討議録」「ビッグOとグローリー卿」「余剰人口」「若き人々への提言」(庄司淺水訳)。
ロンドンでは1803年に週刊新聞「ポリティカル・レジスター」を発行し、書店を経営した。記者や編集者などを、10人以上雇い、週刊誌はじめ書籍の出版を続け、印刷の発展にも寄与した。(William Cobbett)
新井白石の時代から300年にわたる邪馬台国論争が徐々に明らかになりつつある。1997年には黒塚古墳から34枚の銅鏡が発見された。そしてホケノ山古墳、纏向古墳などの考古学的発見、池上曽根遺跡で発見された大型建物に使われたヒノキの柱根が年輪年代法で紀元前52年のものであることが推定され、弥生中期の大集落遺跡として注目された。そして箸墓古墳から出土した土器を放射性炭素年代測定法で調査したところ、この古墳の築造時期を240~260年とする調査結果が得られた。以前から言われてきたこの墓が卑弥呼か壱与の墓であるとする説がますます補強されることとなった。NHK「邪馬台国を掘る」では纏向遺跡周辺から出土した2765個の桃の種から中国道教との関係を指摘する。魏志倭人伝に記された鬼道を示す証拠とみている。
かつては邪馬台国論争は考古学的遺跡や出土資料の上からは九州説が圧倒的に優勢であった。1989年2月22日、吉野ヶ里遺跡が発見され、楼観、環濠など発掘される。朝日新聞も「吉野ヶ里の楼観から見れば邪馬台国がみえる」と報道した。数理文献学の安本美典は甘木市(現・朝倉市)を中心とした地域に邪馬台国があったと推定した。記紀が伝える神武東征は、邪馬台国の東遷を伝えるものであると主張した。もちろん高島忠平、七田忠昭ら九州の学者は今でも九州説が多い。壱岐原の辻遺跡から大量の鉄器が出土されている。甘木・朝倉では「邪馬台国古代祭り」が行われ、パレードやミス卑弥呼コンテストなどが行われている。邪馬台国九州説には宮崎康平、安本美典に限らず異色の研究者が多い。奥野正男もその一人だろう。炭鉱で働きながら小説を書いていた。1980年、「邪馬台国」創刊一周年記念論文で最優秀賞を受賞し、一躍九州説の旗手となった。現在、筑紫古代文化研究所代表となっているが、最近の動向は知らない。
中国史の渡辺義浩は魏が邪馬台国の位置を南方にあるものと誤認したと考えている。
九州は大陸文化伝来の先進地であり、近畿は政治的中心地である。九州と近畿とは緩やかな連合体であったかもしれない。
昭和18年6月8日、午後12時10分過ぎ、広島港内の柱島泊地で、戦艦陸奥の第3砲塔付爆薬庫が突然原因不明の爆発を起こした。その日は雨で、乗員のほとんどは艦内にいた。急速な沈没のため逃げ遅れ、乗員1474名のうち救助されたのはわずか353名だった。
そして生存者353名には悲惨な運命が待っていた。家族との面会も許されず、そのまま最前線へと送られていったのだ。事故で戦艦陸奥が大爆発したという一大不祥事を、隠蔽するためだった。海軍の徹底した情報隠しは功を奏した。国民は陸奥爆沈のことを戦後まで知らなかったし、アメリカにも事実は漏れなかった。終戦後、日本に進駐した米軍は、海軍関係者に「陸奥はどこだ?」としつこく尋ねたという。
当時、陸奥と扶桑は柱島沖に並んで停泊していた。扶桑の艦長であった鶴岡信道(1894-1984)の証言がある。
「あのとき陸奥では、乗員の中でひんぴんと窃盗事件があって、特務少佐がその日、ちょうど呉の軍法会議に、処置を相談に行ってるんですよね。彼(陸奥艦長・三好輝彦)はそれで助かったんですね。そこで嫌疑をうけたものが弾庫で自決するため自爆したのではないか、という説が出てくるわけですが、これも死んだので、永久に真相はナゾのまになっているわけですな」と語る。
陸奥の沈没は極秘とされ、秘密裏に原因調査が進められ三式弾の自爆、乗員による爆破、スパイの陰謀など種々の説が浮かんだが、ついに「戦艦陸奥、謎の爆沈」として今日にいたっている。
昭和35年の新東宝映画「太平洋戦争、謎の戦艦陸奥」は天知茂と女間諜・小畑絹子の恋物語も絡んでいたが、陸奥爆沈の直接的原因はアメリカ工作員の時限爆弾によるものであった。時刻は12時ちょうどとなっていた。歴史的証言から、12時をだいぶん過ぎた時間なので時限爆弾説は信憑性を欠くものといえるだろう。
フランスの気象学者レオン・ティスラン・ド・ボール(1855-1913)は1902年のこの日、大気の層は対流圏と成層圏の性質の異なる二つの層に分かれていると論文で発表した。成層圏発見の日とされる。(Leon Teisserenc de Bort)
販売促進のため、表向きの広告戦略ではなく、消費者に気づかれないように、裏でこっそり情報操作をおこなうこと。たとえば有名人のブログや掲示板に特定商品をそれとなく話題にする。これをステルス・マーケティング、略してステマという。(Stealth Marketing)
岡本喜八「肉弾」(1967)と鴻上尚史「恋愛戯曲」(2010)をみる。鴻上作品はつまらない。深田恭子が美しいというだけで、作品の出来栄え悪く、彼女の大根が目立った。作家として訴えるものがない。つまり女優の善し悪しは監督できまる。「肉弾」の大谷は新鮮でういういしい。クイズで「笠智衆が古本屋を演じる映画は?」という問題があった。答えは「肉弾」。特攻隊員(寺田農)が1日休暇を与えられ、古本屋で枕かわりに「聖書」を買い求める。そして女郎屋へ行く。女郎屋を営む女学生。シュールな映像世界が広がる。そこには戦争や軍国主義を忘却し、高度成長を謳歌する昭和元禄の日本人への痛烈な諷刺が感じられる。寺田農も役者人生の代表作だが、歳月は流れた。
「平清盛」のオープニングにサイコロが映しだされる。小学生が父親に「あれ、何?」とたずねた。父はサイコロは双六や人生ゲームで遊んだことを思い出したが、いまは家にサイコロはなくテレビゲームをする子供たちはサイコロを知らないことに驚いた。サイコロだけでなくトランプや将棋も知らないで大人になる子どもも多いという。もちろんトランプや将棋を知らない人は家庭の状況によるもので、むかしも多くいる。「♪吹けば飛ぶよな将棋の駒に~」は300万枚の大ヒットだったが、西条八十、船村徹、村田英雄は3人が共に全く将棋を知らなかった。ドラマ「ポケベルが鳴らなくて」(1993)でアイドル的な人気だった裕木奈江も「実はポケベル・・・使ったことないんです」と告白している。
第4回AKB総選挙は大島優子が2年ぶり首位を奪還したのは見事。「何事も全力で笑顔で」とそして、「花はいつか枯れてしまうので、これからも太陽でいてください」とファンに挨拶。優子の魅力はいつも全力で元気なこと。どこのクラスにもいるような男の子からも女の子からも好かれる理想的タイプ。以下の順位は次のとおり。渡辺麻衣、柏木由紀、指原莉乃、篠田麻里子、高橋みなみ、小嶋陽菜、板野友美、松井珠理奈、松井玲奈。
世界でもネット時代の新しいアイドルが台頭している。ディズニー系の番組から生まれたアイドル、マイリー・サイラス、セレーナ・ゴメス、エミリー・オズメントらは同じ20歳。セリーナは父はメキシコ系で母はイタリア系。日本人好みのキュートなルックスが魅力。ジャスティン・ビーバーとの恋が破局。エミリーは天才子役ヘーリー・ジョエル・オズメントの妹。まだ15歳ながらヘーリー・スタンフェルドは有望株。韓国の少女時代イム・ユナ。モデル、イ・スビン(李秀彬)は人形のような可愛らしさで中国で話題となっている。(Miley Cyrus,Emily Osment,Selena Gomes,Hailee Steinfeld)
マイリー・サイラス、エミリー・オズメント、セレーナ・ゴメス、ヘーリー・スタンフェルド、イム・ユナ、イ・スビン
昭和12年6月7日、プラチナ・ブロンドで人気のあったジーン・ハーロウ(1911-1937)が映画「サラトガ」の撮影中に急死するという海外特報が入った。26歳の若さであった。当時、ハーロウはクラーク・ゲイブル(1901-1960)と共にMBMの2大看板スターであった。
今日ではクラーク・ゲイブルと言えば、「風と共に去りぬ」(1939)で共演したヴィヴィアン・リー(1913-1967)を名コンビと思いうかべるかもしれないが、実はゲーブル=ハーロウのコンビは、「紅塵」「春の火遊び」「支那海」「妻と女秘書」「サラトガ」と日本でもヒットしていた。ジーン・ハーロウとヴィヴィアン・リーとの年齢は僅か2歳しか違わないのである。
ジーン・ハーロウの役柄は、夜の世界の女、いかがわしい稼業の獏連女がよく似合った。セクシー女優で、演技力はなかったが、主演作を重ねるうちにメキメキ上達し、役者として次第に演技開眼していく途上であった。腎臓病を患っていたらしいが、母親がクリスチャン・サイエンスという医学的な処置を拒否する宗教を信奉していたために、医者に見せることが遅れて亡くなったということは、なんとも惜しまれる死であった。( Jean Harlow )
菅直人が新内閣に「奇兵隊内閣」と命名したのは2年前である。高杉晋作(1839-1867)が、山口の藩庁に呼び出されたのは、文久3年6月4日。長州藩が下関で外国船の報復攻撃を受けた直後のことである。晋作は、毛利敬親に対して、現状を打開するためには「兵には正奇があり、戦いには虚実がある。奇をもって敵の虚を制する兵を作りたい」と「奇兵隊」の創設を願い出た。身分にこだわらず、志と実力さえあれば誰でも参加できる軍隊である。吉田松陰の草莽崛起の実践を行ったのである。
6月7日、藩主から許可を得た晋作は、下関の豪商白石征一郎(1812-1880)邸で奇兵隊を創設し、初代総督になった。最初は、50人ばかりであったが、日ごとに入隊する者が増え、本営を、正一郎邸から壇ノ浦近くの阿弥陀寺に移した。そこで、藩の正規軍先鋒隊との間に事件がおこり(教法寺事件)、その責任をとって、晋作は総督を辞任した。隊の創設からわずか3ヶ月の間だったが、奇兵隊士は、厳しい訓練の元に鍛えられた。奇兵隊二代目総管には河上弥市(1843-1863)と滝弥太郎(1842-1906)の二人が共に務めた。文久3年10月、滝弥太郎が他の仕事を命じられたため、3代目の総管に、赤根武人(1839-1866)が就いた。そして、その補佐役である軍監には山県有朋(1836-1922)が命じられた。赤根は元治元年10月、総管を辞職する。赤根はその後、戦争回避に奔走したため慶応2年斬首される。
いっぽう、山県有朋は、慶応元年1月、奇兵隊総管となる。6月、第二次征長の役に際し幕軍と戦った。山県有朋は軽卒という武士以下の身分から、元帥という最高の位に上り詰めた。
函館市末広町に北海道坂本龍馬記念館がある。龍馬の甥、直(なお)と直寛は北海道に渡っている。そして2人の墓は浦臼にある。とくに直寛(1853-1911)は1897年に600余名とともに北見に入植する。1898年に4人の子どもとともに浦臼に移り、1902年には旭川に移り、北見教会を設立。坂本本家は北海道に移住したのである。孫の坂本直行は十勝で酪農を営み山岳画家となった。
龍馬(1835-1867)が蝦夷地開拓を夢みていたことは手紙などで明らかであるが、誰から蝦夷の情報を得たのであろうか。土佐藩士の北添佶摩(1835-1864)が1863年に能勢達太郎、小松小太郎と3人で蝦夷地視察旅行をしている。龍馬は江戸で、北添から、あるいは北添から話を聞いた千葉重太郎から蝦夷地の現状などを聞いたものと思われる。
月世界へ旅した宇宙飛行士が、地球上に見える建造物として、躊躇なく万里の長城を挙げている。中国の北部、ほぼ北緯40度線に沿って、東端の遼寧省(丹東)から西端の甘粛省(嘉峪関)まで、東西8851.8キロの総延長を持つ。全長は秦漢時代のものを含めると2万1196.18㎞の長さに及ぶ。長城は2500年も以前の春秋戦国時代から、つい500年前の明代に至るまで、長い歳月をかけて建造されたものであるが、秦の始皇帝の暴政の典型としてイメージ化されて語られことが多い。それは始皇帝の万里の長城の工事にからむ悲劇的なヒロインの孟姜女伝説によってもうかがうことができる。
秦の始皇帝の長城建設に徴発された范杞梁のもとへ妻の孟姜女がはるばる冬衣を届けにくる。聞くと杞梁はもう死んだという。彼女がそのまま城のそばに泣きくずれると、見るまに城壁がくずれて杞梁の骸骨が現われたと言う。この伝説は春秋左氏伝の「杞梁が斉侯の莒国征伐に随行戦死した」という記事と、列女伝の「杞梁の妻は夫の死後よるべなく、夫の死体をまくらにして城下に号泣すること10日、城壁がこれがためにくずれた」という伝説に結びつき、秦代に発生した服役者の死が、数千年にわたる築城工事の典型的な話として伝えられた。現在知られるような孟姜女の伝説は唐代になってからであろう。(『琱玉集』にひく「同賢記」)始皇帝の暴君としてのイメージは漢代からあるものの、始皇帝の暴政と万里の長城が結びついて、初唐から盛唐にかけて浸透し、中唐以後は完全に定着したと思われる。
明治44年3月、洋画家の松山省三(1884-1970)と平岡権八郎(1883-1943)は、京橋日吉町(現・銀座8丁目)に「カフェー・プランタン」を開業した。新聞の三行広告で、女性を募集する時に、当時は「女ボーイ」と呼ばれていたが、字あまりになるというので、女の給仕という意味で「女給」という言葉が生れた。プランタンに次いで、パウリスタ、ライオン、ブラジルなどが京橋を中心として開店した。女給の衣裳は、着物の上から胸当て付ききで、丈の長い白いエプロンを付けるという、和洋折衷的なスタイルだった。
大正期は若い芸術家たちのサロンだったカフェーも、昭和になると時代の流れの中で、「女給」を売りにした風俗営業となっていった。カフェーの女給は、大阪と東京ではかなり違いがあり、大阪のカフェーの特色は客のそばに寄り添ってサービスするエロ路線だった。昭和5年頃、女給全盛時代となるが、女給崩れの中からは、街頭で身を売る「ストリート・ガール」、タクシーの助手席から男を誘う「円タク・ガール」、消毒ガーゼを使って接吻する「キッス・ガール」(1回50銭)という新手の風俗業も登場した。
わたしゃ夜さく 酒場の花よ
赤い口紅 錦紗のたもと
ネオン・ライトで 浮かれておどり
さめて さみしい 涙花
「女給の唄」(西條八十作詞、昭和6年)
最近、流行の兆しをみせているのが「ガールズバー」。露出度の高い衣装で接客するという。日本は変わらないな。
日本ではVサイン(ピースサイン)は写真を撮る際に必ずといってよいほどこのポーズがとられる。
しかし同じ身ぶりでも国が違えば意味するところが変わる。ギリシアではピースサインは「お前くたばれ!」の意味だそうだ。Vサインをして半殺しのヒドイ目にあわないよう注意しなければならい。ところでキリスト教の祈りには「父と子と聖霊との名によって」という表現を聞く。この3つは一体であり、神は唯一である。つまり三位一体(トリニタス)という。むかし西洋で宣誓の際に右手の親指、ひとさし指、中指を立てて宣誓するが、親指は父なる神を、ひとさし指は神の子を、中指は聖霊という意味がある。 つまりV字型の中央の空間にイエスが象徴されるのである。三位一体はイエス時代の教理ではなくて、さらに何世紀も古いバビロニアや古代エジプトの三つ組の神の古代宗教をキリスト教が取り込んだものである。VサインそのものはBBCのアナウンサーがレジスタンスのシンボルとして考案したものであるが、実は長い前史があるのである。
我が国ではこの日は昔から踊りや邦楽などの芸事は6歳の6月6日から始めると上達するといわれた吉日だった。ところが映画「オーメン」以降、悪魔の子ダミアンが6月6日の6時に誕生し、頭に666の文字が隠されていて、666は獣の数字としてキリスト教では嫌われていることが知られるようになった。一般的に言っても、1、3、5などの奇数は吉数で、2、4、6などの偶数は不吉な数というのは、だいたいどの民族でも共通しているらしい。とくに6という数字はキリスト教以外にも、仏教において、「六(ろく)」は「殺人」「殺傷」、「六字(ろくじ)」は「死ぬこと」を意味する。これは南無阿弥陀仏が6文字であるためである。また三途の川の渡し賃が六文銭というのも死と係わりがあるためであろう。兵庫県川西市の郵便番号が「666」である。6という数字は見えないところに隠れて存在するかもしれない。
女優ドリュー・バリモアが米カリフォルニア州モンテシトで3度目の結婚。式にはキャメロン・ディアス、ジミー・ファロンら豪華な顔ぶれが参列した。「ET」のガーディ役で世界的に知られるようになったドリューだが、祖父ジョン、大伯父ライオネル、大伯母エセルはいずれも名優、両親も俳優という名門バリモア家の一員。芸能人の名家といえば高嶋家。高嶋政伸がモデル美元と離婚裁判。父高嶋忠夫、母寿美花代、兄政宏の幸福いっぱいの芸能ファミリーに訪れた醜聞は耳をふさぎたくなる。野田内閣改造で登場した国土交通大臣、羽田雄一郎。祖父は羽田武嗣郎、父は羽田孜。名家に生まれた雄一郎だがはたしてその実力や如何に?(Montecito,Drew Barrymore)
1950年代まで美醜の感覚はだいたい東西一致していた。ハリウッドで美人といわれれば日本でも成る程と思われていた。現代を代表する美人女優といえばナタリー・ポートマンとキルスティン・ダンスト。ところがネットなどで調べると、「キルスティン・ダンストはブサイク」という表現が目立つ。ナタリーはともかく、キルスティンの顔立ちは意見が分かれるところである。ドイツ系美人は日本人には理解できないらしい。もちろん笑顔や仕草がカワイイとみるのは同感ながら、顔だけを見ると主演級というのは難しいのではと思える。だがスパイダーマンやら作品にも恵まれトップスターを維持している。3歳からCMの仕事をしているのでアメリカ人にとっては愛着の持てる顔立ちなのであろうか。このまま活躍すれば外国映画史の美人の基準を変えるかもしれない。外国女優の顔を大きく分類すると、化粧法にもよるのだが、グレタ・ガルボとイングリッド・バーグマンが一つの分岐点と考えられる。以来、美人のスタンダードはバーグマンであったが、21世紀のキルスティン・ダンストは一つの分岐点かもしれない。(KIrsten Danst)
キルスティン・ダンスト、ナタリー・ポートマン、ダイアン・キャノン、パトリシア・ロック、オードリー・ヘップバーン、エリザベス・テーラー、ドロシー・ダンドリッジ、アン・ブライス、ジャネット・リー、イングリッド・バーグマン、デプラ・パジェット、ダイアン・ベーカー、グレース・ケリー、キャロリン・ジョーンズ、マリリン・モンロー、テリー・ムーア、マーガレット・ロックウッド、マール・オベロン
アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレド(1508-1582)は1567年フェリペ2世よりネーデルラント総督に任ぜられ、恐怖政治をおこないオランダの独立戦争の端を開いたといわれる。(ちなみに1567年は淀君の生れた年にあたる)
ネーデルラントは自治権をもった17の地方からなる連合体だったが、16世紀初めにカルロス2世がスペイン国王に即位するとともに、この地域を継承し統治を開始した。やがてカルロスは、新教を弾圧した。これに対し、エグモント伯(ラモラール・ファン・エフモント)やホールン伯(フィリップ・ド・モンモランシー)らは反スペイン同盟を結成。1564年に、絶大な権力を握っていた王の腹心グラン・ヴェル枢機卿を国外退却させ、スペインによる支配の緩和を王に求めた。しかし、フェリペ2世はこれを拒否すると、1566年に新教徒が聖像破壊行動を起こし、北ネーデルラントを中心に中小貴族や市民の反乱が広がった。1567年7月、アルバ公が率いる軍隊がネーデルラントに進入した。彼は反乱の指導者を「血の法廷」にかけて、多数の貴族や市民を処刑した。1568年6月5日、エグモント伯(45歳)もブリュッセルで処刑された。(Lamoraal Greaf van Egmont)
ジョディー・フォスター ジョニー・ウィッテカー(トム・ソーヤの冒険 1973年)
「子役出身スターは大成しない」などという。しかしジョディー・フォスター、ナタリー・ポートマン、ジェシカ・アルバ、リース・ウィザースプーン、リンジー・ローハン、ドルー・バリモア、クリスティナ・リッチー、キルステン・ダンストなどトップアクトレスは子役からスタートしている。
名子役の筆頭はチャップリンの「キッド」(1921)のジャッキー・クーガン(1914-1984)だろう。ヴァージニア・リー・コービン(1910-1942)は天才子役だったが、惜しくも31歳の若さで他界した。シビル・ジェイソン(1927-2011)はシャーリー・テンプルに匹敵する子役スター。
倒産寸前のFOXを救ったシャーリー・テンプルも1940年代になると人気は下降したが、変わってディアナ・ダービンやジュディー・ガーランドのような歌える少女スターが現れた。そしてエリザベス・デーラー、マーガレット・オブライエン、ナタリー・ウッドなどが映画黄金期に活躍した。1950年代から60年代はドナ・コーコラン、パティ・デューク、少女歌手ブレンダ・リー、テューズデー・ウェルド。70年代リンダ・ブレア、テータム・オニール、ブルック・シールズ、ジェニファー・コネリー、ダイアン・レインと1980年代まで美少女ブームが続いた。
Who wrote the British national anthem God Save the Queen?
According to Brewer's Dictionary of Phrase and Fable,both words and music were written by a Dr. Henry Carey in 1740.
イギリス国歌「神よ女王陛下を守らせ給え」は誰が作ったのか?「ブルーワー英語故事成語大辞典」によれば、作詞と作曲との両方ともヘンリー・ケアリーによって1740年に書かれたとされている。
エリザベス2世即位60周年を祝うパレードが開催中。イギリス連邦の加盟国は現在何ヶ国あるか?イギリスを含めて54ヶ国である(うちフィジー共和国は軍事政権を樹立し、資格停止中)。(Commonwelth of Nations)
嘉永6年6月3日、江戸とつい目と鼻の先の浦賀沖に、4隻の黒船が姿を現した。江戸の町は大騒ぎとなった。「太平のねむりをさます上喜撰 たった四杯で夜もねむれず」気のはやい町民のなかには、家族や荷物の疎開を始める者もいた。江戸の町は大パニック。これから時代は幕末に向かう。マシュー・カルブレイス・ペリー(1794-1858)はロードアイランド州サウス・キングストンで、クリストファー・レイモンド・ペリー大佐の三男として生まれた。母はアイルランド出身のセーラ・ウォーレス。兄のオリヴァー・ハザード・ペリー(1785-1819)も海軍軍人。1809年士官候補生として海軍に入り、西インド、地中海、アフリカなどに勤務し、ブルックリン海軍工廠司令官時代には蒸気軍艦フルトン号を建造し、「蒸気海軍の父」と称賛された。
アメリカは嘉永4年にアメリカ東インド艦隊司令長官オーリックを訪日使節に任命したが、オーリックは旗艦サスケハナ艦長との不和其他の問題を起こして解任された。代わって選ばれたペリーは、オーリックの先輩であったが、日本の開国が重要性を理解しており、甘んじて承諾した。ペリーは非常に慎重で且つ勇断の武将であった。彼は出発前、詳細な日本研究に没頭し、日本人の国民性に考慮して、無理な強制は避けなければならないが、十分な威圧を加え、忍耐強く交渉する決意を抱いた。彼に与えられた使命は、漂流民の保護、薪水食糧及び石炭の供給、通商の開始、の三つであった。嘉永5年10月、ペリーはアメリカ東海岸ノーフォークを出発し、大西洋まわりで4月香港投錨。そして6月、サスケハナ、ミシシッピ、プリマス、サラトガの4隻を率いて日本、浦賀に入港した。久里浜で幕府の戸田氏栄、井戸弘道にフィルモア大統領の親書を手渡し、開国を要求したが、翌年までの猶予を求められ退却した。
一旦中国に帰ったペリーは、ロシア、イギリス、フランス等が、日本に向かう気配のあるを察し、予定を早めて、嘉永7年1月(1854年2月)、艦隊を7隻に増加して、日本に来航し、談判中は更に2隻を加えて、9隻を以て威圧しつつ、神奈川において、3月3日(3月11日)、日米和親条約締結に成功した。同条約では、幕府に下田、箱館の開港、生活必需品の供給、領事駐在権、片務的最恵国待遇を認めさせた。さらに6月下田で、通商の足がかりとなる追加条約を締結した。これをもってペリーは、日本を開国・通商に導き、西洋資本主義社会に日本を包摂したと評された。
ペリーは帰途、那覇にも寄港し、琉球王国とも修好条約を締結、帰国後、「日本遠征記」(1857)を監修した。翌年、ニューヨークにて死去。享年63歳。浦賀来航からわずか5年後のことである。
(Matthew C. Perry,Susquehanna,Mississippi,Plymunth,Saratoga)
卓越した打撃センスで天才バッターと称される巨人の高橋由伸選手。しかしここ数年は故障で低迷を続けた。持ち前の長打力も、2007年に35本塁打をマークして以来、17本、0本、13本、15本、4本と激減している。しかし今シーズンは元気で楽天戦で3号、4号と連続本塁打を放ち、復活の兆しがでている。高橋の打棒なくして巨人の優勝は有り得ない。むかしの選手名鑑をひも解くと理想の女性という気になる欄がある。高橋由伸の理想の女性はグラビアアイドルさとう珠緒。
チワワのようなウルウルした瞳が印象的な彼女だが、雑誌で「女が嫌いな女」第1位に輝いたこともある。意外な2人の接点とは?。実は同県人で珠緒が2歳年上。さとう珠緒は千葉県船橋市。高橋は君津市。さとう珠緒は現在、舞台「帰って来た蛍」で特攻の母、鳥浜トメを演じている。「珠緒のおひまなら見てよね」を拝見すると、お酒と競馬が趣味。
イギリスの地名には詳しくない。鉄道の発祥の地だけに映画に鉄道がよくでてくる。英映画に地名が出てきてもブリテン島のどのあたりにあるのか地図で探さなければ分からない。「心の旅路」(1941)という名作があるが、メルブリッジという地名が本当に存在するのだろうか。リヴァプールから少し離れた英国中部の田舎らしい。まるで理想郷のようだ。当時の映画はロケではなく、撮影所のセットなのでおそらく架空地名であろう。ラストシーンは韓国ドラマ「冬のソナタ」で出てくる「心の家」に似ている。
アルフレッド・ヒッチコックのサスペンス映画「バルカン超特急」(1938)にロンドン・ビクトリア駅がでてくる。そのほかは架空の地名である。(Melbridge,Liverpool,London Victoria Station)
本日は横浜港開港記念日。安政6年のこの日、前年に井伊直弼が勅許を得ずして調印した日米修好通商条約によって、横浜に港が開かれた。
水野忠徳や小栗忠順とともに「幕末三傑」と称された岩瀬忠震(いわせただなり 1818-1861)。1854年、阿部正弘に見出されて目付を任され、軍艦操練所や洋学所の開設、品川の砲台の築造などに注力した。その後、外国奉行として日露和親条約、日米修好通商条約に署名。開国に積極的な、開明的な外交官として列強との折衝にあたった。1858年、13代将軍・家定の後継者争いで慶喜を支持。井伊直弼ら反対派の弾圧に遭い、安政の大獄で作事奉行に左遷。のち蟄居を命じられた。
岩瀬忠震関係文献
岩瀬肥後守家伝 維新史料56 1890
岩瀬鴎処 川崎紫山 春陽堂 1897
巖瀬鴎所君墓碑 永井介堂 旧幕府8 1897
岩瀬肥後守 福地源一郎 民友社 1900
近世百傑伝 千河岸貫一 博文館 1903
匏庵遺稿 栗本鋤雲 裳華房 1903
人物と遭遇 犬養毅 博文館 1922
岩瀬忠震 太田熊太郎 中央史壇12-9 1926
岩瀬忠震の開国交易思想 松本順 経済論叢54-3 1942
岩瀬肥後守忠震とその手記 京口元吉 早稲田大学史学会1961.7
幕末三俊の随一・岩瀬忠震 坂田吉雄 日本及日本人1972.7
岩瀬忠震 日本を開国させた外交家 松岡英夫 中公新書 1981
横浜開港の恩人岩瀬忠震 森篤男 横浜歴史研究普及会 1982
岩瀬忠震の年譜的研究 飯田虎男 1996
日本の開国と3人の幕臣 桑原三二 1996
一橋派運動と岩瀬忠震 飯田虎男 政治経済史学 1997.2
光芒遥かなり 小説岩瀬忠震 岸上耿久 忠震会 1998
暁星 開国の扉を開けた幕吏・岩瀬忠震 森健次 文芸社 2001
知性 岩瀬忠震のことなど 赤塚行雄 公平2006.11
幕末三美男政治家 阿部正弘、安藤信睦、岩瀬忠震 野口武彦 東京人2008.4
天正10年6月1日、深夜、明智光秀は1万3000の軍を率いて亀山城を出陣、山陰道を東進し、途中丹波と山城の境の老ノ坂を越え、沓掛を経て京に入る。2日未明、本能寺を奇襲し、織田信長を討つ。本能寺は当時、四条西洞院にあり、寺域は東西約140m、南北約270m。寺ではあるが、四方に塀をめぐらした小城郭といった観があった。豊臣秀吉に本能寺の変報が舞い込んだのは3日の晩のことであった。そして7日には居城の姫路城に入った。9日、大軍勢を率いて東上し、11日には尼崎に到着。12日、秀吉軍は摂津富田に進出、池田恒興らが参軍。13日、秀吉は神戸信孝と丹羽長秀両将が参軍するや、正午ごろ、山崎に着陣して天王山中腹の宝積寺に本営を置いた。明智軍1万6000対秀吉軍3万6000。激闘すること2時間余。明智光秀は豊臣秀吉に撃破された。丹波路と山崎は明智光秀にとって野望の道である。それゆえ、丹波路にはいまでも何となく歴史の香が漂っている。
10代は分、20代は時、30代は日、40代は週、50代は月といわれる。つまり、40代の人だったら、「じゃあ来週のことにしよう」と、週を単位にして約束をする。ところが、その人が50代になると、「それは来月のことにしよう」と。月を単位にして予定を立てる。このように時間の受け取り方が、年齢に応じて加速度化していくことをこの話は表わしている。「日長きこと少年に似たり」という句があるが、少年のころの1日は長い。そのために、人間は一生の生活設計を、とかく間違うことが多い。20年、30年生きるという前提で将来の設計を立てたりするから、設計と実際に誤差を生じ、結局、晩年に悔いを残す。われわれは一歳を重ねるごとに1年の回転率がそれに比例して早くなることを、念頭におかなければならない。
The day is short and the work is much.
日はまもなく暮れるが、やり残した仕事は多い
日本映画チャンネルを見ていると懐かしい女優がでている。真理明美、賀川雪絵、宇津宮雅代、江夏夕子など(大坂城の女)。豊浦美子、菱見百合子、進千賀子広瀬みさ。進千賀子といえば「美しきチャレンジャー」(1971)、ヒロイン小鹿みどりのライバル七瀬茜である。日活時代は吉永小百合の映画の脇にまわされた。東宝の黒沢年男・酒井和歌子「めぐりあい」に脇役で出ている。大手自動車工場の美人事務員。酒井はベアリングの町工場の事務員。黒沢は進に振られて、酒井を選ぶ。1968年の恩地日出夫のこの青春映画は世相がとてもよく描かれている。クーラーのまだ普及していない暑い夏、大学進学熱はまだ高かった、学園紛争、ベトナム戦争が泥沼化、グループサウンズの流行。すべて青春の原点がこの1本に詰め込まれているような作品だ。進千賀子はとてもきれいな女優だったが、主演作品を見たことがない。
スポーツ界で50歳現役選手はいるだろうか?ゴルフ、射撃、乗馬など高齢者でも技術でカヴァーできる競技ならいるだろうが、野球、サッカー、相撲といった体力勝負のスポーツはなかなか難しい。過去、日本プロ野球で最年長記録は浜崎真二の48歳10ヵ月。工藤公康も同じ48歳で現役引退したが、各球団からのオファーがなく試合には出場することはなかった。記憶に残る名選手をあげれば、苅田久徳40歳、藤村富美男42歳、落合博満45歳、岩本義行45歳、野村克也46歳などである。松井やイチローは何歳までプレーできるだろうか。
北ウェールズの美しい町コンウィ(人口3800人)にエドワード1世(1239-1307)がウェールズ征服のための拠点として建てた城がある。城の建設は1283年に始まり、わずか4年半で完成した。イギリスの城塞のなかでも最も保存状態がよく観光客で賑わう。
エドワード1世はウェールズを征服して、スコットランドにも出兵して王の主権を認めさせた(1292)が、征服にはいたらなかった。王妃エレノア(1241-1290)との間の子エドワード(のとのエドワード2世)がウェールズで生まれ、乳母もウェールズ人であったため彼に「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号が与えられたから、以後、これがイギリス皇太子の称号になった。
コンウィ城の夕景を画家ターナーが描いており、その作品がカーディフ国立博物館に収蔵されている。
(EdwardⅠ,Conwy Castle,Eleanor of Castile,Prince of Wales,Turner)
6月はエリザベス女王即位60周年記念式典が、7月にロンドン五輪が開催され、いまはイギリス・ブーム。「イギリス」という呼び名の国名は実際には存在しない。正確には「グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国」である。略してU.K.(United Kingdom)と言う。イギリス人全体を指す場合は「British」と表現する。イギリス政府は「British Government」、イギリス文学は「English Literature」。ちなみにフランス語ではロアイヨーム・ユニ(Royaume Uni)、イタリア語ではグラン・ブレターニャ(Gran Bretagna)
16世紀以降、南蛮人紅毛人の渡来によってイギリスの情報が日本にももたらされたが、「イングレス」ポルトガル語Ingless、オランダ語Englschから訛って「エゲレス」となり「イギリスむとなった。今日の連合王国になっても、日本人にはイギリスという呼称が定着しているので使われている。英会話では使わないように。(the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)
NHKBSプレミアム30日、31日放送、野村佑香がイギリスをぐるり一周。前編「4つの王国をつなぐ貴族の旅」テムズ河に架かるタワーブリッジは、海からのロンドンへのゲートである。ナロウボートは、18世紀から20世紀初頭に作られた貨物船。産業革命で重要な役割を果す。ジェームズ・クックゆかりの町ウィットビーで船員を育てる学校の下宿を訪ねる。エディンバラで最も古いトラクエアハウス。アバディーンから船でラーウィック(シェットランドの州都)へ。刺繍や編み物、廃材の再利用など見る。ラーウィックは人口は約7千人ばかりの寒村。17世紀にニシン漁のための漁業基地として建設された。クロムウェルが築いたシャーロット砦がある。
後編「連合王国の悲しみと希望」タイタニック号を造船したベルファスト、ウィスキーの聖地アイラ島、ウィットビー修道院、ビートルズを育んだ貿易の町リバプール、城壁に囲まれた美しい町コンウィ、ポントカサルテ水道橋、カーディフ、ミレニアムスタジアム、TeamGBなどを紹介。(narrow boat)
トラクエアハウス スコットランド女王メアリーが寝たとされるベッド
(Lerwick,Belfast,Ialay,Liverpool,Conwy,Cardiff,Whitby,Narrowboat,Traquair House、Robert Bruce,Pontoysyllte Aqueduct,Kerdd Dant)
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