<サンデー時評>居所不明の小中学生千人と「親」
サンデー毎日 3月6日(水)17時0分配信
男は娘夫婦と孫の四人で抱き合い、喜び合った。娘たちの涙が男の手のひらにポタポタと落ち、すでに四つの感覚を失っている男だったが、確実に涙を感じ取ることができた。
「ああ、最後に触覚を残しておいてよかったなあ」
と男は心からつぶやいたのだった−−。
◇視覚聴覚失った復員兵 乳房吸わせた岸壁の母
集まりに参加していた全員がシーンとなった。作り話ではあろうが、父親の捨て身の情愛に感じ入り、おれにできるかな、と自らに問うたからである。とても、そこまでは犠牲的になれそうにない、とみんなが思った。物語の提供者に質問がでた。
「捧げる順番には、何か理由があるのですか」
「いえ、たまたまそうなったのだと思いますよ」
「それなら、私は最後に視覚を残したい。孫の顔も見えるし、涙だって見える」
五感のうちどれが失われてもつらいことだが、確かに盲目ほど残酷なことはない、と目明きは単純に思う。
一方、盲目になって初めて見えてくることもたくさんある、という話も聞くし。
「最後に残すものを一つ選べと言われれば、おれも視覚だ。暗やみではとても生きていけそうにないから」
という声も出たが、この話、なかなか交わらない。
そのうちに、別の一人が、
「子供のころ母親から聞かされたんだが、時々思い出すんです」
と言って、〈岸壁の母〉の話をした。敗戦後しばらく、外地から帰還する復員兵の息子や夫を待って、母や妻が毎日、帰還港の岸壁に立ちつくす。京都・舞鶴港が中心だったが、どの港に帰りつくかわからない。〈岸壁の母〉という歌まで作られヒットした。その話というのは−−。
一人の母親がある日、下船してくる復員兵たちのなかに、ついにわが息子の姿を発見した。ところが、悲しいことに、息子は傷病兵で、失明しているだけでなく聴力も失っていた。駆け寄って、腕をとり、
「おお、おまえ」
と何度呼びかけても通じない。母親はとっさに何をしたか。立ったまま乳房を出し、息子の口に押し当てて吸わせたのである。二人は初めて抱き合い、息子の生還と再会を喜んだのだった−−。
最終更新:3月6日(水)17時0分