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偏違い?勘違い?

 投稿者:momo  投稿日:2013年 2月21日(木)23時27分40秒
返信・引用
  「魂(たましい)」

「塊(かたまり)」  違うんじゃあないでしょうか。
 

スゴイ!

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2013年 2月19日(火)23時29分10秒
返信・引用
  「美しい!」でなく、「スゴイ!」のは、新聞社間のスクープ合戦でした。
もし、お暇があれば、読売新聞の日曜朝刊を覗いてください。
はい、読売以外の各紙は、すべてその「おっかけ記事」です。
読み比べると、後発各紙の苦渋が、よく出ています。
あれよあれよという間に、Iさんも、最初に記事をまとめた若い記者も驚く大騒動になりました。
この件、これ以上は触れません。みなさん、お忘れください。
 

魂とは?!

 投稿者:marubo女将  投稿日:2013年 2月19日(火)12時33分10秒
返信・引用
  たましい・・、とは「かたまり」と書くんですねええ。作家の魂は夜の闇にまぎれて・・、時代の波に洗われ・・・、そして淘汰されるものなのかもしれない、などという事を考えました。本物は残るンですね!!

http://www.awogiri.co.jp

 

流石!!先輩すごい!

 投稿者:marubo女将  投稿日:2013年 2月18日(月)14時18分33秒
返信・引用
  何が凄いのか・・・、何処まで理解できているのか、新聞みた時、ふっと先輩の顔が思いうかんだのです。九州の西日本新聞ゼンシンの事ですもん、無論、先輩はご存知かと・!やはり!!

http://www.awogiri.co.jp

 

川端康成

 投稿者:工作員M  投稿日:2013年 2月18日(月)11時21分0秒
返信・引用
  本日、朝日新聞東京本社版社会面に川端康成の全集未収録新聞連載記事(福日掲載)発見、という記事を見つけました。もしや、と思い読んでみるとヒロシさんとI先生によって未収録連載であることを確認、という内容。これはすごいですね。  

龍兵団

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2013年 1月31日(木)10時43分3秒
返信・引用
   龍兵団とは、大東亜戦争の準備過程で1940年8月1日にあらたに編制された50番台7個師団の一つで、久留米第56師団の秘匿通称号。「りゅう」ではなく、「たつ」と呼ぶ。
 既存の久留米第18師団(菊)とは、いわば兄弟の関係にあり、1942年以降は、主に南方に作戦を展開し、ともに第33軍(昆)隷下の2師団として、北ビルマ・雲南戦線の防衛の任務についた。したがって、「菊と龍」と呼称されるが、これは「きくとたつ」である(ちなみに、火野葦平の代表作「花と龍」は「はなとりゅう」)。
 ここには、丸山豊が軍医中尉として従軍したので、関連書をいろいろと見てきた(葦平は菊)。
 最近になって、ようやく『龍兵団』(風土舎、1963.8再版)という大冊に目をとおした。丸山に関する箇所は、かなり以前に戦史研究者のAさんにコピーをいただいていたが、ほかに気になる箇所があったので、図書館本を見る。
 全3部構成だが、第2部156頁は「戦没者名簿」。1万3千名以上の名前が、出身県別(福岡・佐賀・長崎に関しては、さらに市郡別)に、戦死年月日・場所とともに配列されている。
 この分量に、まず圧倒される。沖縄の「平和の礎」を実見したときに似た感慨を抱く。
 戦死者13,261名(当初の師団編制は15,211名)は、単なる統計数字だが、この名簿は個々の名前の裏の様々な人生、親兄弟・夫婦の関係を想起させる。
 ところで、ボクの近しい親戚に戦死者は皆無であった。父も、叔父(母の弟)も従軍体験はあったが、幼少に「戦死」にまつわる記憶はない(母方の祖父はシベリア出兵の勇士・職業軍人だったが、そのあとの軍縮のあおりで退役している。もっとも叔父の説では、酒癖が悪くてやめさせられたという)。もともと、父母ともに細々とした家系で、縁者が少ないこともあるが、振り返るなら、両親とも実家の近所には、戦死者の遺影を飾った家が多かった。その幾人かは、この戦没者名簿に掲載されているはずだ。
 あと、この名簿で感心したのは、階級の表示がなく、将官も一兵卒も同様に扱われていることだった。「山梨県/水上源蔵(歩兵団長・少将だが、戦死後に中将に昇進)/一九・八・四/ミチナ」も、「長崎県北松浦郡/堀江屋保(歩兵団司令部次級副官・中尉)/一九・一一・七/木康」も同じ扱い。堀江屋中尉は、水上少将の遺骨を持って、芒市の軍司令部に無事帰還したが、辻政信参謀の命によって、3ヶ月後に戦死必至の戦場へ送り込まれた。
 階級については、戦死後の昇進(2階級特進もある)などもあって、確定が難しいので省かれたかも知れないが、これが1970年代以降の部隊史となると、たいてい階級順となる。このあたりに、戦争と軍隊への視点の変換を見ることも可能である。
 丸山豊も『月白の道』に記す。戦友会も敗戦直後は「階級序列なしの車座」だったのが、いつのまにか「戦地のままに階級順で整列」するようになった。
 この『龍兵団』「戦没者名簿」は、手元に置きたい1冊である。
 ↓
 ボクも、この随筆集の紹介文を書きたかったのですが、その前の仕事が済まずにいます。
 ちなみに、「7冊目」ではなく、「8冊目」では?
 

佐賀も健在

 投稿者:佐賀のY  投稿日:2013年 1月31日(木)10時04分7秒
返信・引用
   「草市潤さんの新しい随筆集『東西南北』が出た。
 三月書房から出ている手のひら大の本で7冊目。
 函入りで、本の表紙はタンポポの黄色。
 草市さんは94歳になるが、毎日、3輪自転車で
 嘉瀬町の自宅から佐賀駅あたりまで散歩している。
 60数編の作品のうち「現半分夢半分」は、
 道すがら見る植木鉢の蕎麦の株が、水が足らずにしおれている。
 翌朝水をやろうと思っておきると、地面には雨が降っていた。
 それでも自転車を飛ばしていくと、急ブレーキでさんくら返り。
 そのとき、「じいちゃん、なんばしよっとね」と声を聞く。
 声の主は雨でしゃんこ立ちしたそばであった。
 こんな面白い話がいっぱい。ブラッサンスの本棚にあります。」


  ↑ これは、今春、佐賀は呉服元町に開店したカフェ・ブラッサンス
  のブログ。店主は園田寛。地元新聞社を定年退職して始めました。
  紹介している草市潤は、歌人中島哀浪の次男で歌人・随筆家。
   もちろん私見ですが、今度の『東西南北』は、前回6冊目よりも
  面白かったです。それは、長い文筆生活で骨の髄まで沁み込んだ
  心眼と腰の座りと、死を見据えたやけっぱちのユーモア、ではないかと。
 

「思想の科学」と島村典孝

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2013年 1月28日(月)22時22分41秒
返信・引用
   必要あって、公共図書館所蔵の「思想の科学」1962年10月号を見ていたら、島村典孝「ぼくの東京散歩〈こどもの社会学〉」が掲載されていた(このあたりは、前にも調べているのに気付いていない)。
 これは、『ひげの天使―ぼくはこう考える―〔ぼくの社会探訪〕』(七曜社、1963.4)に収録されている。この序文は石森延男が寄せ、跋文(解説)は鶴見俊輔が書いていた。中学生の作文集として、石森は理解できたが、なぜ鶴見が? という疑問が、これで解けた。
 慌てて、「思想の科学」総目次を見ると、ほかに2本を寄稿している。
 島村直子・典孝姉弟のことは、前にも紹介したように覚える。北九州・小倉生まれ。父親は我孫子毅の筆名で、地元には文学的な業績を、数多く残した。あと、蓮門教にも関係するが、それは省く。
 この姉弟の、その後の消息も気になっている。
 

知られざる戦場/忘れられた作品

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2013年 1月24日(木)08時50分4秒
返信・引用 編集済
   「忘れられた戦場がある」で始まる野呂邦暢「死守!―知られざる戦場―」(「文芸春秋」1979.10)を初めて読む。
 翌年の野呂の急逝によって、単行本にもなることなく、忘れられた作品となっている。
 「草のつるぎ」の作者が、初めて取り組んだ「戦記」の舞台は、北ビルマのミイトキーナ(ミッチーナ/密支那→Myitkyinaの日本だけの読み)だった。1944年5月から8月までの、ほとんど「玉砕」といってもよい戦いを描く。
 ここ数年、この周辺を含めて、北ビルマ・雲南の戦記を読んできたが、この大事な作品は知らずにいた。まあ、最後の最後に、出会うべくして出会ったのだろう(ミイトキーナ関連書を、あらためて再確認していて、この作品に触れた記述に遭遇する)。
 野呂がここを取り上げたのは、きわめて納得できる事柄である。私淑した丸山豊の戦場であり、地元・大村連隊の兵士たちの多くが戦死した場所だから。
 作品には、藤野英夫『死の筏』丸山豊『月白の道』の名とともに、それらに基づく記述が多い。戦史の記録や生存者の証言を加えて「戦記」を構成する。公刊戦史(また、それに準じた戦史)への批判もある。戦闘指揮者たちに関して、微妙な箇所でウソがある。部下たちは皆知っていた事柄で、いっさい触れない話もある。
 ボクがずっと拘ってきた数字(ある人員の特定)も、明確に「一五〇名そこそこ」とする。さすが自衛隊出身者と感心した。関連する戦史を渉猟しても出なかった数字だが、ほぼボクの推定と一致した。50名とした戦記が多いが、150~200名と考えていた。
 これで、ようやく一連の調査に区切りをつけることが可能になった。
 古山高麗雄の「戦争三部作」に比して、全体としては、かなり平板な展開であり、名作とはいえない作品だが、この1点で助けられた。
 

「銀三十枚」

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2013年 1月19日(土)11時07分39秒
返信・引用
   火野葦平の短篇「銀三十枚」は、「小説春秋」1956年2月号(2巻1号)に掲載されていた。
 小説の舞台は、長崎県大村湾に浮かぶ「姫島」となっていた。仏教徒の元村とカトリックの新村の宗教的「対立」を背景とするのは、佐賀県の馬渡島を舞台とした「神の島」(1954.11)と同じだが、その発表時の現地からの「反響」(不評)を配慮したのだろうか。
 これを原作とした映画「裸足の青春」は、長崎県黒島をロケ地に選んだと聞くが、それも納得できた。
 先日、若松の火野葦平資料館の所蔵雑誌のなかで見つける。手元の古いリストには掲載されていなかったので、その後の整理で出てきたのだろう。虱つぶしに「小説春秋」を調べようと、いくつかの文学館・図書館の所蔵リストまで作成したが、不要になった。
 

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