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第二話
クラッツ・ハンス・アルマディアノスは心の底からの怒りに身を震わせていた。
普段から温厚をもってなる彼がここまで怒りを露にするのは非常に珍しいことでなのだが、それを不思議に思う人間いない。
少なくとも通常に考えて彼の怒りはごく正当なものであるからだ。
「………それでおとなしく姉を差し出せと言うのですか、貴方方は」
「わしらとてこんな真似はしたくない…………そうする他に手があるのなら教えて欲しいくらいじゃ」
そう言って頭を下げたのは村長のオルドレイクである。
すでに老境に達して久しいが、その公正な人柄で村人から深く信頼を寄せられている。
その彼が言うのだから確かに手がないのだろう。
何せ相手は横暴で知られる領主たるヘイゼル伯爵の息子であるからだ。
美しくも可憐な我が姉は、たまたま通りかかっただけの放蕩息子に目をつけられてしまったのである。
このまま姉を連れて逃げるべきか―――?
クラッツにとってたった一人残された肉親である。
二歳ほど年は離れているが母のように包容力ある存在でもあり、年下のように庇護欲をそそられる存在でもあった。
その彼女が貴族の気まぐれに陵辱されるなど、想像するだけで身の毛もよだつほどの憤怒が全身をかけめぐるのを抑えることができない。
クラッツは成算も立たぬままに半ばそれを決意しかけたが、それを押し留めたのはほかならぬ姉の一言であった。
「――――――私の身ひとつで村と弟が救われるのなら安いものですわ」
なんの逡巡もないその一言が逆に罪悪感をかきたてる。
幼くして両親を失い、姉弟二人身を寄せ合ってようやく成長したというのにどうしてこのような運命の変転に見舞われなければならないのか。
クラッツの姉―――コーネリアは誰もがうらやむ美しい娘として成長した。
幸せになるのはこれからという時ではないか。
縁あれば息子の嫁にとも思っていた少女を貴族の妾に差し出すなど、オルドレイクにとっても不本意なのだ。
「………簡単に言うな姉さん………姉さんを犠牲にしてのうのうと幸せになれるわけがないだろ………」
「クラッツ、私たち二人の面倒を見てくれた村の人たちのことも考えなさい………!」
両親が死んでから必死になって生きてきたが、所詮は幼い子供にすぎなかった二人がこれまで無事に成長してこれたのは村長をはじめとして皆が
陰に日向に二人を助けてくれたからにほかならない。
それがわかるだけにクラッツは口を結んで俯かざるをえなかった。
もともとそれほど豊かな村ではない。
下手に領主に目をつけられて税を上げられようものなら、それだけで村が滅びかねないのだ。
村を滅ぼしてでも自分たちの幸福だけを追求できるほどにコーネリアもクラッツも強くはなかった。
今このときほど無力感に苛まれたことはない。
姉を守るため、可能な限り強くなろうと身体を鍛えてきた。
万力クラッツなどと呼ばれ、強さでは王国の騎士にすら引けは取らないなどと自惚れていた。
否、一対一ならばどんな人間にも負けはしないと断言できる。
だが、そんな個人的な武勇も強大な貴族の権力の前にはあまりに無力なものでしかないということか。
(…………そうとばかりも言えぬがな)
突然、頭のなかで声無き声がしたことにクラッツは愕然とした。
無力感のあまりついに自分は狂ってしまったのではないか?
(別に狂ってなどおらぬ―――まったく…………我が分身のわりになんと小心なことよ)
常に最大最強の魔王として君臨してきたベルンストにとってクラッツの柔弱さはなんとも歯がゆいものであった。
同じ遺伝子を受けながら環境が変わればこれほど人となりは異なるものか………。
(まあよい。今はおとなしくしておれ。………愛しい姉御を救いたいと思うのなら)
半信半疑なままにクラッツは声無き声に頷いていた。
ベルンストはクラッツの記憶からこの世界の情報を読み取る。
ここはリアストラ大陸―――四つの大国を中心に大小様々な小国が散りばめられた―――の西の辺境にあたる。
四大国の一つ、イェルムガンド王国西部辺境ヘイゼル伯爵領のしがない村のひとつ、ということらしい。
予想していた以上に文明レベルが低いようであった。
クラッツが我が分身であるにもかかわらず魔道のひとつも使えずにいるわけは、そもそもこの辺境に魔道の技術が存在しないためであるらしい。
さすがの分身もないものを覚えるというわけにはいかないのだ。
…………しかし王都には宮廷魔術師もいるようだし、魔道技術が存在しないというわけではないのだな。
正直落胆の念を禁じえない。
どうにも敵とするには張り合いがなさそうであった。
それに我が分身が柔弱にすぎるというのもまた気に入らない。
―――たかがあれしきのことで逡巡しおって―――!
姉が守りたければ守ればいい。
それだけの力があの分身には備わっている。
むしろ相手の男に生まれてきたことを後悔させるほどの報復をしてしかるべきだった。
村の連中のためにそれが出来ないと言うのなら、そもそも姉など最初から見捨ててしまえばよいのだ。
でなければ村ごと守るだけの力を手に入れるか。
クラッツの行動はベルンストに言わせればいずれにしても中途半端なものであった。
だがそうした憤りを感じられること自体、クラッツと感覚を共有したことの副産物であるのだろう。
常のベルンストであれば不快を感じた時点で相手を殲滅しているし、こうした歯がゆい苛立ちを感じること自体がありえない。
(………ふむ、かつての人間らしい感情を思い出すという点ではひとまず成功であると言っていい)
だがこのやりきれなさはどうだ?
こんな不愉快な感情のためにオレは世界を超えてきたわけではない。
おおいなる歓喜が!
お互いに命を賭け好敵手と戦うあの思わず叫びたくなるような高揚が!
美女を己が手に組み敷き存分になぶって自分の所有物であることを刻印するときの劣情が!
それこそがオレが再び味わいたいと願ってやまなかったものではないか!
(……障害が多いほどに達成感は大きいとは言うが………)
ベルンストはドルマント世界でもっとも神に近い存在である。
自制などという言葉からもっとも縁遠い存在と言ってもいい。
優しいと言えば聞こえはいいが、どうにも柔弱にすぎるクラッツが相手では自分で実力を行使する誘惑に耐えるのはなかなかに難しそうであった。
しかし仮想人格であるクラッツを乗っ取ることは容易いが、それでは感情の共有という意味からは失敗に終わることは明らかだ。
(……もっともっとオレを楽しませよ、我が分身よ!お前はそのために生み出されたのだから!)
クラッツとコーネリアの姉弟はもともとこの村の生まれではない。
父はなうての傭兵であり、母は父の戦友であった傭兵仲間の娘であったらしい。
先立つ戦友に一人娘を託された父は、どうした運命の変転からかその娘と結ばれるにいたったわけだ。
「死んだらあの世でリックの奴に殺されるかもしれん」
そういって生前の父は笑っていた。
しかし父の気持ちもわからないではなかった。
それほどに母フリッグは誰もがうらやむ佳人であったからである。
姉コーネリアは正しくその母の美貌を受け継いでいた。
滑らかな曲線を描く優美な肢体も
濡れたように黒々と輝きを帯びた黒髪も
男を惹きつけずにはおかぬ妖艶な眼差しも
全ては絶世の美女に成長しながら父代わりの男に手折られた母に勝るとも劣らぬものであった。
ただちょっと胸が残念なのはここだけの秘密である。
―――――醜い嫉妬であることはわかっている。
それでもクラッツは姉が誰のものにもならぬことを祈らずにはいられなかった。
この美しい姉と姉弟二人でいつまでも平和に暮らしていきたい。
それが不自然な願いであることを承知でクラッツは願わずにはいられなかったのである。
幸運にも姉は男性に興味が薄い性格であったので、これまで二人の平和が乱されることはなかったのだが―――まさかこんな最悪の相手に見初められようとは。
こんなことならいっそ…………。
(――――ならば殺してしまえばよいではないか)
クラッツは内なる声が発した暴言に瞠目した。
同時に心のどこかでその提案に甘美なものを感じながら…………。
「そんなことできるはずがないだろう!だいたいお前は何者なんだ?亡霊か?それとも悪魔か?」
こんな超常現象にでくわしたらもっと取り乱すものであろうが、クラッツは意外にも冷静であった。
その身体がもともとベルンストの分身であるために通常感じるはずの違和感がないせいもあるだろう。
何よりも重要なのは、この内なる声に事態打開の考えがあるように思われることだ。
うまく事を収める妙案があるのなら、悪魔に魂を売ってもいいというのがクラッツの偽らざる本音であった。
(………我はこことは異なる世界から来たもう一人のお前じゃ)
さすがにクラッツはただの分身で、実は自分の個人的な遊戯のために生み出したとは言えない。
クラッツに反抗されてもベルンストにとってとるに足らぬものでしかないが、感覚を共有している以上無駄に刺激するのは危険であった。
絶望のあまり自殺などされては残された時間的に考えて、永遠に人としての感覚を味わう機会を失うことになるであろう。
ベルンストはあくまでも異世界からの来訪者を装うつもりであった。
「………夢のような話だが、もう一人の自分というのはなぜか納得できる………」
理屈ではなく精神を共有する特異な感覚がクラッツに事実を認めさせた。
ベルンストがクラッツの喜怒哀楽を共有するように、クラッツもまたベルンストの人間離れした平衡な思考を感じ取っていたからだ。
さすがにこまかな思考までは読み取れなかったのだが……。
説得の困難さを覚悟していたベルンストにとっては僥倖と言っていい。
(我はむこうの世界では有数の魔道師でな……正直こんな田舎の伯爵領程度の軍勢なら片手で蹴散らせるぞ。その気になればお前にもそれは可能なはずだ)
半神ベルンストの分身である。
別に修行など行わなくともきっかけを与えるだけで当代一流の魔道師になりおおせるであろうことは疑いない。
ベルンストなら直接間接を問わず、とりあえず実力で障害を排除するであろう。
「………無茶を言うなよ………仮に伯爵の軍を撃退できても今度は王国が黙っちゃいない………それに街道を封鎖しただけでも村なんて簡単に滅びっちまうんだ」
もともとクラッツは自分自身の武勇は世界に通用するものだと信じていた。
素手の格闘では村の若者はおろか森の獣や魔物相手ですら遅れをとったことはない。
おそらくは魔道を学ぶ機会がなかったためにベルンストの分身としての才能が肉体強化のほうに顕著に現れたせいに違いなかった。
だから姉を連れて国境を突破することぐらいは決して不可能なことではないのだ。
実際に一時はそれを決意しかけていたし、姉に反対されることがなければ間違いなくそれを選択していただろう。
(………しかしそれで姉が救えなくては意味があるまい)
ベルンストの痛烈な言葉が正しくクラッツの肺腑をえぐる。
そうなのだ。
人として非道なのは承知だが、クラッツにとって大事な姉の身に比べれば村の命運など取るに足らない。
問題なのは潔癖な姉が決してそれを容認しないであろうということなのだった。
「恥をしのんで言うが………どうにか姉も村も救う手立てはあるまいか?」
やはり分身というべきであろうか。
クラッツも生来策をめぐらすタイプの人間ではない。
腕力や体力にものを言わせ正面から問題を突破するのが本質である。
ベルンストも神に等しい力を手にしてからは同様であったが、かつてまだ一冒険者であった時代には少なからず力だけでは解決できない事態に遭遇した経験があった。
(正面から戦えないというのであれば伯爵以上の権力者に働きかけてもらうよりほかあるまい………我のような規格外の力を切実に欲しているものが都合がいいのだが………)
「力が欲しい貴族なら掃いて捨てるほどいるでしょうが…………」
問題は即効性なのである。
姉が連れ去られてくらでは遅いのだ。
悠長に貴族の伝手をたどり売り込みをする時間的な余裕はなかった。
(たとえば闘技の大会………あるいは不治の病に冒された深窓の令嬢であってもいい。移動の時間は考えなくても良いぞ、我の転移術を使えば一瞬じゃ)
そう言われてみればクラッツには心当たりがあった。
一つには王国騎士を目指すものが等しく目標とするであろう葡萄月の闘技大会。
しかしこちらには一週間以上の時がかかるうえに開催まであと一ヶ月もの時間がかかる。
もう一つは不治の病のほうだ。
イェルムガンド王国第二王女ルナリア・ブライトン・コーネル・フォン・イェルムガンドが原因不明の奇病で病臥に伏し、回復の見込みが立たぬまま半年近くが経過した今、
完治させたものに望みのままの恩賞を取らせるという布告が発せられていたことを思い出したのである。
高見梁川の心象世界
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