2012-02-28 21:02:06

中世フランスの相続

テーマ:中世ヨーロッパ史・家族関係
○相続

(1)死亡した人が固有の世襲財産を持っていれば財産相続の問題が生じた。もし死者が黙約共同体(親戚関係にある多くの小家族が一族の経済運営を共にするもので、「同じかまどの火となべ」の周りに、そして不分割の同じ耕地に寄り集まった親族集団)の一員だったり、修道会の一員であった場合には、相続の問題は発生しない(修道院に入った時に「俗世での生活は終わっていた」から)
(2)中世フランスの相続習慣は、地方・死者の地位と財産状態に応じて、際限ないほど多かった
(3)一家の主人が死んだ場合に彼が遺したのは、(根本的には)富ではなく「社会的・家族内における地位」だった
(4)貴族であれ平民であれ土地を相続する息子は、その土地が封土であっても保有地であっても「土地に含まれる全ての責務を封土に対して&家族に対して」負わされることになっていた。彼は「家族を養い」「兄弟たちを独立させ」「姉妹たちに結婚する時の持参金を与え」なければならない
(5)それゆえに9~11世紀(最も過酷な封建時代)において、相続財産を受け取ったのは最も近い親族ではなく「最も能力のある者」だった
(6)封土がない場合でも、軍事・行政の命令権を行使する能力を有することが必要であった。保有地がない場合でも、農作業の指揮者となれることが必要であった。遺産が問題なのではなく、主君or領主の承認が問題だった(後継者が無能だと困るから)
(7)じきに、役目・責務・封土・保有地は世襲財産となり、それらは遺贈されるように変わっていった
(8)しかしいずれにせよ、財産の譲渡は主君or領主の同意なしには行われ得なかった

 A.そしてそれは「象徴的な意味を持つ儀式(封臣は両手を合わせて封主の掌中に置き、封主より接吻を受けるなど)」と「譲渡の権利を得るためのかなり高額の税を支払う機会」となった
 B.税は原則として譲渡される土地の1年分の収益に等しく、その2倍・3倍にのぼることも珍しくなかった
 C.儀式の方は中世のうちに廃れていったが、税の方ははじめは封主の利益のため、次いで王の=国家の利益のために存続していった

(9)財産相続はその頃から現代とほぼ同じ。違うのは「世襲の土地は一般に分割されず、多くの場合は長子が、しかし時には末子が手に入れた」点。末子相続が発生した事情は「農民の耕地が子沢山の家庭を養うには不十分だった場合、子供たちは他所へ日々の糧を探し求めに行ける年齢になるとすぐに家を離れた。そのため末の子が父親とともに残り、指定相続人となった」
(10)ある領主がいくつかの封土を遺したり、貴族でない人がいくつかの土地を遺した場合には「長子が最も重要なのを取り、次男以下が各自の取り分を得た」。家具・金銭・衣服は各自が取り分を手にした
(10)財産を分割しない場合もあった。農村には多くの家族共同体があり、また南フランスの領主たちは「狭い領地と領主権を共同所有した」
(11)兄弟姉妹が家族から離れて行く時には、彼らに必要なものを与えなくてはならなかった(フランス王家で設定された親王領は一例)。娘たちには(土地が流出するのを防ぐために)できれば土地ではなく、金銭か年金を与えるようにしたかった
(12)世襲の土地財産は、借金があった場合でも手がつけられずにそのままにされた。死んだ人が借金を残していた時、債権者は名乗りでても家財しか取り上げることができなかった。だから社会は安定した

 A.貧しい人たちは都市や村の高利貸しに時折世話になっていた
 B.領主たちも、経営の才能が不足した場合・経済危機・インフレによる収入の実質価値の下落・戦争による出費のために、金貸しから都合をつけてもらうことがしばしばあった
 C.金貸しは、たとえ家財しか取り上げられなくても、かなりの高利と担保を取っていたから、彼の商売全体で赤字を出すことはなかった
 D.しかし相続人は「家名に傷がつくのを案じて」「為すべきことをなさない限り苦しみ続けているだろう死者の魂を、楽にしてやるために」どうしても借金を返さなければいけない、という義務を感じていた

(13)法に則って父親の財産を占有した相続人は、その名義を変えた

 A.新たに領主となった者は主君から彼の権利を安堵してもらったのち「封臣たちを召集して臣従礼を受け」「封臣たちが彼より授与されているものについての誓約を受けた」
 B.13世紀にはそれはまだ「相互の忠誠誓約に基づいた当事者間の関係の樹立」だった
 C.しかし後には、法曹家(封臣の公証人と封主の代理人)の間で執り行われる目録の照合になってしまった


『中世ヨーロッパの生活』J・ドークール(白水社)[12]
2012-02-26 00:07:57

中世の婚約と結婚

テーマ:中世ヨーロッパ史・家族関係
○家への影響

(1)中世の家族には強い連帯意識があったから、一家のもの全員が受け入れることではじめて、新参者は一員に加わることができた
(2)新夫婦は必ず独立して新たに家を形成したのではなく、都市・農村あるいは貴族・庶民を問わず、若い夫婦は多くの場合「夫の両親のもとでor(妻に兄弟がなければ)妻の両親のもとで」暮らすことが非常に多く見られた。経済的にもその方が都合が良かった
(3)こうして出来上がった「家族共同体」こそが社会の核だった(夫婦ではない)。家族共同体が単位となり、租税・軍役・賦役を果たさなければならなかった(その共同体の構成員の間で調整して、義務の履行をどうやって分担するか決めた
(4)貧しい家で今日の相続税にあたるものを支払わなければならなかったのは「家族共同体の崩壊」に対してだった(構成員の一員の死亡に対してではない)
(5)結婚は地主であれ諸侯であれ、2つの家族の間に有効な同盟関係or少なくとも平和を保証する手段だったため、出産予定の子供や年端もゆかない子供を婚約させるまでになった
(6)結婚は世襲財産にも重大な結果をもたらした。中世では「人はその財産と一体化していた」

 A.例えば1人の娘が、ある封土orある保有地(農民の耕地)の相続人になったとする
 B.この場合、中世の人々にとって良い秩序とは「男の権威が封土or保有地に責任を持つこと」だった。それは城砦を守備し、領内の平和を維持するためにも、あるいは農作業を指揮し実行するにも、男の力が必要だったから
 C.だからこそその娘の父親は、彼女の夫を相続人として選んだ
 D.仮にその娘がみなし子だとすると、土地の重要性が大きくて状況が切迫している場合には「相続人の利益が守られなければならない」ことが、かなり早くから認められていた
 E.この場合の解決策は「その女の子が成長するまで、その土地を1人の管理者に委ね、彼女が結婚適齢期(13,14歳)になるとすぐ結婚させた」。もし彼女が紹介された花婿候補を全て拒めば「自分の諸権利を放棄して修道院に入る他なかった」。これは生活の知恵であり、誰一人として異議の唱えようがなかった
 F.娘に兄弟があるときは、夫を実家の一員とする代わりに、遺産の前払いである持参金を持って夫の家に入った。一般にはそれ以後、両親の財産について何ら要求しないことを彼女に約束させた

(7)成人の1人1人が生産者であり、子供は富だった時代、もし結婚が2人の異なった領主を持つ領民の間でなされると、結婚によって領地を出て行く者は元の領主を貧しくし、その分だけ相手側の領主を豊かにした

 A.そこで、出ていかれる領主の許可が必要だったが、全てのことはたいてい税金の支払いによって解決された
 B.ノルマンディー地方どは、領地の外に嫁ぐ農民は、持参金の2.5~5%を支払い、持ち出す家具についてはその資産価格の約2.5%を支払うことになっていた
 C.領外結婚が増えると、領主たちは「各自の領民の間の自由な結婚を認める協定」を互いに結んだ


○教会による結婚への介入

(1)俗人の間で(上記のように)は結婚に社会的な意味しか見出さなかった。しかし教会は結婚を「男と女は取り消すことのできない秘蹟によって結ばれ、それが成立するには両性の合意が必要かつ十分」とみなした。そして「夫婦の不滅の魂の救済」は、結婚の聖性という問題と関わっていた
(2)教会は、親族や権力者の許可や異議を相手にしなかった。愛し合っていた若者の中にはこれに頼って結ばれた者もいたし、また悲劇的な事態もあった
(3)教会は(財産相続を伴う・伴わないに関係なく)離婚を許さず、せいぜい夫婦の結びつきを断ち切らずに別居を認めただけだった。そこで俗人たちは、この規制を迂回するために「禁止された親等の結婚である(=近親婚である)」と申し立てることで、耐え難くなった結婚生活を断ち切ろうとした。これによって教会から「遡及的効力を持つ結婚無効」を宣言してもらうことで、法的には「以前にその結婚は存在していない」ということになった
(4)気まぐれな利害or風習という力に圧倒されることもあったし、聖職者にまで叛かれることもあったが、それでも教会は頑ななまでに原則を守り通した
(※イェルサレム王妃イザベルの興味深い例は略)
(5)時流に逆らいながら野蛮な風習を改めつつ、教会は「結婚は一生のこと」という理念を浸透させていった。教会法と合致しない状況を作り出した人々は、教会の生活や秘蹟にあずかることから除外され、醜聞があまねく知れ渡っている場合には、破門されて社会的な制裁を受けた。そして結果的には(たとえそれが死の床であっても)罪人は常に悔悛するように導かれ、そしてそれまでの自分の行いが無視してきた教会を褒め称えた


○婚約式

(1)若者と家族が同意すると婚約式が執り行われ、それは指輪の交換によって確認された
(2)婚約式では、婚約者は互いに相手の婚約指輪を受け取った(これは形式的な単なる指輪の交換ではなく、法的効力を持つ契約の締結だった)。中世においては一般に、所有権or所有物の譲渡は「意味のある儀式を通じて、もしくは品物(しばしば当事者のもの=指輪・手袋・小刀など)の引き渡しによって効力を持った」
(3)婚約によって婚約者は「婚約相手に自分所有する権利を互いに与えあう」という意味があった。婚約破棄は極めて困難で、処罰の対象となった。誓約の監視人である教会は、典礼の定式書に則って婚約を公けにした
(4)婚約者は両親・友人に付き添われて教会に赴き、頸垂帯(ストラ)と短白衣(シュルプリ)を身につけた主任司祭に戸口のところで迎えられた。彼はそこで名前と本人に間違いないことを確かめたのち、誓約を確認する型どおりの質問をした
(5)婚約が成立すると、普通は40日間続いた「婚約公示期間」が始まる。この間に予定されている縁組が何回か公表され、婚約に対する異議申し立て(近親婚に相当する、以前の婚約がまだ解消されていない、など教会が結婚を認められない理由に関して)を受け付けた。「婚約公示期間」中は婚約者が1つ屋根の下に住むことは禁止された

[教会の戸口は、洗礼式の最初の部分が執り行われる&出産した婦人が「産後産婦の祝別」の際に主任司祭に迎えられる場所。一方、教会内部は「厳密な意味での神への祈りを捧げる場所」として留保されていた。毎週盛式ミサが終わった後、広場に集まっている人々を前に連絡事項が通告されるのも戸口だった]


○結婚式

(1)結婚式は婚約式の繰り返しで、場所も同じく教会の戸口だった。結婚式は一般の人々の面前で挙行された(教会はあらゆるごまかしごとを隠す可能性がある秘密主義を嫌ったから)
(2)当日、若い婚約者は派手な色(特に赤が好まれた)の最も立派な衣裳を纏い、花や金銀細工の冠を被ってやって来た(祭りごとがある時に冠を被ることは、特に若者の間ではどんな社会階層でもよく見られた)。新婦となる女性は処女である印として、髪をふさふさ垂らすor薄いヴェールで髪を覆っていた
(3)若い婚約者は、両親or代父・代母に導かれ、友達に付き添われ、そして楽人を先頭に立てて教会にやって来て、自発的であるにせよ司祭の問いに答えてであるにせよ、誓いの言葉を交わした
(4)それが済むと、指輪が祝別されて新郎は慣習に倣って新婦の指に指輪をはめた。指輪がはめられた指の「血管は真っすぐ心臓に達し、彼女の心がこの結婚を承諾している印である」とされた
(5)その後に立会人たちは、たった今行われたことをよく記憶に留めておくために、互いに激しい平手打ちとげんこつを食らわせた(これは立会人の務めの一部だった)
(6)それから人々は教会の中に入った。そして結婚の祝別が与えられミサがたてられた(結婚のための特別なミサ)

 A.新郎新婦は1枚の「ポワル」と呼ばれるヴェールを被ってミサにあずかった(プロヴァンス地方では、ポワルは夫の両肩と妻の頭を覆った)
 B. 結婚式をせずに夫婦の間に子供が1人ないし数人いた時には、子供を両親ともにポワルの中に入れるだけで十分で、こうして子供は嫡出子と認められた
 C.ミサの間に、地方それぞれの習慣に従って、新夫婦は祝別された一片の普通のパンor聖餅(ホスティア)を分けて口にし、祝別された葡萄酒を同じ器で飲んだ
 D.次いで彼らは、1本のロウソクを聖母マリアの祭られている祭壇に持って行った。その祭壇で、新婦は紡錘竿を手にしてしばし糸を紡ぐこともあった
 E.最後に新夫婦は、友達や聖職者に教会の戸口まで導かれ、それから墓地に入って先祖の墓参りをした。これは「世を去った先祖を含めて一家全員が結婚式に列席する」という、非常に古くからの風習に関係しているようだ

(7)人々は家路についたが、その際に友人たちは『プレンテ、プレンテ(子沢山の意味)』と言いながら、新郎新婦に穀粒を投げかけた(多産を願う昔からの呪術的なならわし)。ボローニャでは(市の規則で禁じられていたにもかかわらず)新夫婦に雪・通りにあるおがくずや食べ物のかす・紙切れ(花吹雪の起源か?)など、何でもかんでも投げつけた
(8)家に帰ると、ご馳走・大騒ぎ・踊りが始まった
(9)日が暮れると夫と妻は床についた。主任司祭が聖水と香を携えた侍者を伴って、初夜の褥を祝別にやって来た。地方によっては、新郎新婦は初夜を聖母マリアに捧げ、婚礼の宴は1日ではなく2日にわたって続いた
(10)大諸侯or王自身の息子や娘が結婚した時(特に長男・長女)には、婚礼の祝宴は長い間続いてなおかつ盛大だった。戸外で一般の人たちに食事が振る舞われ、水汲み場には葡萄酒が置かれて好き勝手に飲めた。しかし、全ての人が祝いに参加するとともに、その費用を分担するように求められた。領主の長女の結婚は、広く容認されていた4つの援助(=封建課税)のうちの1つだった
 [後の3つは「捕らわれた領主の身代金の支払いの場合」「領主の長男が騎士に叙任される場合」「領主が聖地へ出かける場合」]
(11)農民が結婚すると、領主も含めた全ての村人が祝宴に出席した。15世紀のノルマンディー地方では、領内に土地を保有する富裕な農民が結婚する場合には「領主に納付金を支払わなければならない」「領主の館に食事をしに来たいと思うならば、領主に(予め定められた)贈り物をしなければならない」という規定があった。しかしそれらの贈り物は、領主からの贈り物で総裁されるのが普通だった
(12)結婚は一般に世間の好奇心を駆り立てた

 A.至る所で、新たに結婚した人は(それがどんな人であろうと)その年の庶民の祭りに姿を見せねばならず、彼はその際に皆の座興のさかなにされた
 B.既婚者の仲間に加わると、新婚の人たちは、先輩が新米にしばしば行う悪意のない悪戯を受けた
 C.体力の絶頂期に達している夫には、その土地を守るという男の務めを果たせることを示すよう要求された
[※いくつかの地方の習慣の例は省略]


『中世ヨーロッパの生活』J・ドークール(白水社)[9]
2012-02-25 12:47:43

子供の教育(下)

テーマ:中世ヨーロッパ史・家族関係
○学校教育

(1)シャルルマーニュは修道院学校や宮廷学校で将来の官吏を養成させた。10世紀には司教座付属学校に各地から学生が集まり、14世紀には村々の学校が作られた
(2)司教座付属学校は6世紀にはトロワで存在が確認され、9世紀には「司教は文法と自由学芸を教えるよう」義務づけられた

 A.そこは1人の参事会員(合唱隊長or学監)によって運営された
 B.修道院学校は司教座付属学校と似通っていたが、そこは修道院長の管轄下にあった。ベネディクト会の発展により、修道院学校は増加した
 C.生徒の増加によって教育機関が増え、そうした中で「俗語学校」と「ラテン語学校」とが区別された
 D.俗語学校では、キリスト教の教理・歌・読み方・書き方・初歩の算術が教えられただけだった
 E.ラテン語学校では使われる言葉はラテン語だけで、ラテン語が主な教科だった。子供たちはそこで古代の作家のテキストを読み、彼らに従って知恵を形成し、ラテン語に精通するようになった
 F.実際に使用された中世のラテン語は正確かつ専門的な言語であり、宗教・文学・哲学・法律・科学の教育における万人共通の便利な道具だった。それは全ヨーロッパで理解され話されていて、その国際語&学者の共通語としての役割は絶大だった
 G.学校の生徒は家から通い、一種の授業料を支払ったが貧しい生徒には免除された。授業料は「教師への給料」「備品購入(床に敷く藁・紙・インク・苔)」に充てられた。規律維持のための体罰はその価値が認められていた
 H.教会当局がその裁治権下で行われる教育に責任を持ち、そこには「教師の選択と監督」「風紀と教育内容の監視」「教育を広める義務」が含まれていた

(3)13世紀のトロワには、多数の初級学校の他にラテン語学校が3校あり、町の子供の大部分(もしかしたら全て)がいずれかの学校に通っていた。子供たちは学校の帰りに出会うと、聖堂区ごとに分かれて喧嘩したらしい。12世紀初頭のイギリスの町々には、王の徴税吏、役人と同数の教師がいたと言われる


○大学

(1)パリ(神学・教会法・医学・天文学)、オルレアン(ローマ法)、パドヴァ(医学)、サレルノ(医学)、モンペリエ(医学)、ボローニャ(教会法・ローマ法)、オックスフォード(数学・天文学・物理学)、ケルン、プラハ、トレドなどが著名な大学だった
(2)学芸学部の教科内容は、7自由科[3学(文法・修辞学・論理学)および4科(算術・幾何学・音楽・天文学)]からなる
(3)教師が行った2種類の授業は「教科の基礎として役立つ著作を1語1句註解する」「同じ主題についての相反する意見を、三段論法の形を取って対決させる討論」だった

 A.註解に使用された教科書は、学芸学部ではプリスキアヌスの文法書、アリストテレスの『オルガノン』、ポルフュリオスやボエティウスの著作。神学部ではペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』などの古典だった
 B.教師の暗記力は底知れず、それによって関係ある書物を参照し、また時には見事な比較検討を行い、多くの注釈が教科書に与えられた
 C.討論は、頭の鈍い学生たちにとっては様々な意見の一覧表を作成するのに良い機会だった。彼らはいろんなところからコピペしてきた意見を次々と発表するだけで満足していた
 D.しかし頭脳明晰な教師は明敏な知性を発揮し、その人だけの独創的な総合を打ち立てた(代表例がトマス・アクィナス)。ある程度知性を洗練された人々は「自分たちの間から出てきた何人かの逸材の教えを聞いて理解し、彼らに自分の思想を吐露させ、力量を十分に発揮させる聴衆として」彼らを取り巻いていた

(4)全体として知的な努力は「古代からの遺産を調べ学ぶこと」「概して、実験による自然の研究をなおざりにし、人間とその存在・運命についての研究」に向けられた。しかし例外があった

 A.植物学・動物学・解剖学・気象学は観察という方法を用いて著しく進歩した
 B.12世紀にはユークリッドやアリストテレスの科学についての著作の翻訳と、アラブ人科学者の著作が翻訳され、それによって自然科学への道を進んでいった
 C.司教ロバート・グロステート、修道士ロジャー・ベーコン、アルベルトゥス・マグヌスたちは、観察と推論を結びつけて近代科学への道を開き「凹面鏡の理論を立てた」「虹を解明した」「磁石の研究などを行った」
 D.そして14,15世紀には、ジョン・モーディス、リチャード・オヴ・ウォーリングフォード、レヴィ・ベン・ゲルソン、ニコラ・オレームといった数学者たちが「天体暦を作成」「計測機の理論を立て実際に機械を作る」「三角法を考案」「グラフを使い始める」「動力学の分野で代数・幾何によって立証された法則を公式化した」

(5)大学に通っていた人は様々
 「勉強して職を見つけたいと思っている真面目な若者」
 「経済的に恵まれている家庭(貴族・非貴族を問わず)の子息で、両親が大学へ出したにもかかわらず、その機会を勉学ではなく『学生生活の自由を謳歌するために』利用する者」
 「大学に与えられている特権を享受するため、見せかけの勉強をひたすら引き延ばし、町では騒ぎしか起こさない、冒険好きの学生や放浪学生」
(6)大学は十分徹底した強制力ある手段を持っておらず、彼らを懲らしめるには無力だった(あまりに寛容な教会裁判に従っていたから)が、ともかくこれら「招かざる客」を世俗の裁判権から守った。特にパリではこれが大学と都市との間の難事の原因だった
(7)学生は、個人から賃借りした部屋or学生寮に住んでいた。14世紀のパリには約60の学生寮があった
(8)授業はいろいろなところで行われたが、教師が賃借りした場所であるのが一般的だった(最も便のよい場所には、信じらんないほどの値が付けられることもあった)

 A.教師は教卓を前に椅子に座り、学生は教師の足元の藁の上に腰を下ろしていた。授業は普通読み上げられた
 B.復習教師がいて授業の復習をしたが、彼らの何人かは優れた教師になった
 C.学生に宿題は出されなかったが、1つの論題の可否を論ずる練習が行われた。これは記憶力と知性の柔軟さを増すのに役立ったが、詭弁を弄するという悪癖までも増長させた
 D.勉学期間中、学生は指定書店で何冊かの講義録・教科書を1ページずつ賃借りし、手元に置いておくために筆写した

(9)試験は降誕祭の頃と四旬節に行われた。カリキュラムの中から出題される問題について、もしくは(受験者が書いた論文ではなく)参事会文書局長が受験者のために指定した書物から取り上げられた論議について、受験者が試験官と行う討論だった
 [参事会文書局長は本来司教文書の起草・整理などの任にあったが、12世紀以降教育人口が膨脹して教師志願者が増えると、教師適性審査権(教授免許授与権)などを持ち、司教に代わって教区内の教育活動の監督・責任者となった]
(10)勉学の認証は学位の授与だった。その名称はバカロレア、学士号、修士号、博士号としてそのまま残っている

 A.これらの学位は、大学の制服を着用できる資格を与えた
 B.新たに大学の教師となる者は、四角のボネとともに、学問との結びつきを象徴する指輪を受け取った
 C.これらは全て宗教的かつ厳粛な儀式のうちに授けられ、それは騎士叙任式や修道士の誓願式と似たところがあった
 D.その日は、新しい教師が古参の教師に振る舞う贅沢な宴会によって幕を閉じた


○徒弟奉公(中世盛期パリの同職ギルドの規定から)

(1)手工業につくはずの子供は徒弟奉公に入った。それは時には儀式を伴った
(2)徒弟となる子供は、これから習得しようとすること、契約事項に従うことを誓約した。契約は13世紀には一般に文書化されておらず、同職ギルドの中から選ばれた2人の親方・2人の職人の立会人によって確認されただけだった
(3)親方は「その子を引き受け、食・住の世話をし、仕事を教え込み、身分の高い人の子供に接するように敬意を持って、父親のごとくその子に対して接する」ことを誓った
(4)親方が折檻するのは認められていたが、その妻がたたくことは許されなかった(短気を起こしてそうする可能性が高かったから)
(5)子供の側からは「規約で定められた金銭を支払わなければならない」。そして自分の腕を磨くためにも、食・住の世話をしてもらい自分のために時間を割いてもらうことに対して親方に具体的な形で報いるためにも「ある年月働く義務があった」。この「徒弟期間」は、ラシャ製造業者では4年・壁掛け製造業者では8年・水晶細工業者では10年だった
(6)親方が病気・巡礼・経営不振・高齢のために廃業する場合には「徒弟期間が残っている徒弟は同僚の親方に引き取られた」。しかしこの規定の乱用を避けるorもし親方が廃業の決心を翻したならば、その徒弟が彼の元で過ごすはずだった期間が終わるまで、別の徒弟を採用できなかった
(7)もし徒弟が親方の元から逃げ出した時には「親方は1日その子の行方を捜さなくてはならない」

 A.その後一定期間、家出した子を待たなければならない(鞭縄製造業者では3ヶ月、別の職業では1年、錠前製造業者では徒弟期間いっぱい)。またその間は新しい徒弟を採用できなかった
 B.この規定のため親方は、優しさと良い待遇に基づいて子供をつなぎ止めておくように仕向けられた
 C.家出した徒弟が戻ってくれば、親方は2度までは受け入れる義務があった。しかし3度目には、その親方も同僚も、腰の落ち着かない若僧を引き受けてはならなかった
 D.契約を破った徒弟を採用した非協力的な親方は仲間外れにされたと考えられる

(8)徒弟期間が終わると若者は契約から自由になり、同職ギルドの規約に服することを聖遺物にかけて誓い、ギルドへの加入を認められた
(9)この時から彼は、自分が鍛えられた仕事場でも他所でも職人として働くことができた。またギルドがその構成員に課している統制に従った。ラシャ製造業者は「何人も、盗っ人・人殺し・都市の内外を問わず情婦を抱えている放蕩者、を自分もしくは他のギルド会員の同僚として認めるべきではない」としていた
(10)職人はすぐにでもor条件をクリアすれば、親方になることができた。条件とは「1年またはそれ以上(パン製造業者では4年間)腕を磨いた後」「実力ありと認定され(この職人を最後に雇った親方が保証人となる)」「店を出す資力があり(同職ギルドの幹部が審査する)」「その職業の慣習の遵守を誓う」というもの
(11)組合への加入は一般は無料(時には、王や権利所有者に金銭を支払ってその権利を購入しなければならなかった)。しかしいずれにせよ、信心会への寄付・病人への施し・先輩の同僚を饗応する、という義務を果たさなければならない


『中世ヨーロッパの生活』J・ドークール(白水社)[8]
2012-02-25 08:38:46

子供の教育(上)

テーマ:中世ヨーロッパ史・家族関係
○子供の遊び

(1)お手玉・おはじき・石けり・かくれんぼ・鞠つき・ボール遊び(ボールはぼろ布を玉にしたものや、皮の中に毛糸や馬の尻尾を詰め込んだもの)
(2)女の子は色を塗ったり、手足を動くようにした木製の人形、皮や布で作った人形を持っていた。陶器屋はままごと遊び用に小さな陶器を焼いた
(3)木切れと羽根を使っておもちゃの風車が作られ、騎士の形をした小さな人形を戦わせる(ごく簡単な)機械仕掛けの玩具もあったらしい
(4)棒切れに跨がってする戦争ごっこもどこでも楽しまれた


○教育と「進路」

(1)幼年期は遊びだけではなく、教育を受ける時期でもある
(2)農民の子供は畑仕事に携わることを習い、手工業者の子供は父親の仕事場で遊びながら、徒弟奉公に入る前に仕事をみな覚えてしまう。貴族の子供はいつもお付きの者に囲まれ、早くから狩猟用の馬・犬・鳥の習性についての手ほどき&それらを訓練する手ほどきを受けた
(3)女の子は台所にそっと忍び込んで、かまどの傍らで自分の人形のために料理を作るのが好きだった
(4)14世紀には大多数の村に学校があったほどだった。しかし現代のような知識を学ぶ場としての学校はさほど重視されておらず、教育の基幹は(基本的とみなされた宗教教育は除いて)職業教育にあった

 A.聖職者ならば読み書きは最も必要だった(日々政務日課を唱えることが必要不可欠な務めだったから)
 B.しかし商人にとっては単に「役立つこと」、領主・手工業者・村人にとっては「便利なこと」どでしかなかった
 C.文字が読めれば「祈祷文を筋を追って理解できた」「手紙や公証人の書類を解読できた」「文学やより学問的な初歩の知識を身に付けられた」
 D.しかし書物は希少でなかなか目につかない。10冊も蔵書があれば、個人としては大したものだった
 E.文字が書ければ「帳簿をつける」「商業文をしたためる」「書類に署名する」といった事ができ、それ自体として価値があった。しかし人の一生の準備としては、職業教育の方が重要だった。それは小さな頃からなされるべき、と考えられていた

(5)時には親は、子供が生まれる前からその子の将来を決めていた。それはおかしな事ではなく、子供(少なくとも長男)は父親の手助けをし、後には跡を継ぐことになっていた

 A.次男以下の場合は話が微妙となる。農民の場合、耕地が彼らも養えるほど十分に広く肥沃ならば、父親or兄のもとに残れた
 B.そうでなければ「入植者として遠方に行く」「都市へ行って召使いや徒弟として住み着く」「諸侯や傭兵隊長の軍隊に入る」などしなければならなかった
 C.小都市の次男以下はすでに商売をかなり知っていたから、しばしば行商に身を投じた
 D.貴族の次男以下は、騎士になるのは戦争次第であちこちで就職先を見つけることができた。また行政官のような職に就くこともできた(しかしこれは「権力ある君主への奉仕」であり、人々は軍人の職とあまり区別しなかったという)

(6)女子は通常は結婚することになっていたが、持参金が必要だった。また誠実な手助けとして家に残ることもできた
(7)修道生活は全ての男の子にも女の子にも開かれていた

 A.それはある者にとっては「献身的な奉仕」であり、他の者にとっては「経済的・精神的な保証を得る手段」だった
 B.ある子供たちは、母親の信仰心によって生まれる前から既に神に捧げられており、ほんの幼子の時に修道院へ入った
 C.教会法では、幼い修練士は青年になって初めて「修道士となる最終的な誓願」を立てることができ、それまでは修道院を出る権利を保持することが認められていた
 D.修道院での教育を受ければ、容易に公証人・代書人・事業家・学校の教師などになれた

(8)将来を決めるのに、子供自身の希望や子供の性質を尊重するように努めた(例:暴れん坊の子供は優れた騎士になるだろう、歌いたがらない・笑いたがらない男の子は聖職者になるに決まってる)
(9)主たる方向が決まれば、教育は実践的・具体的だった。教育の目的は「子供をできるだけ職業と生活環境に向くようにする」ことだから、一般的には子供は「自分が生活しなくてはならない環境の中で、環境によって教育された」


○女の子の教育

(1)女の子は家で教育されるのが普通だった
(2)しかし何人か(修道女になることが決まっていた子、みなし子、子供が多すぎる家・金持ちの家の子など)は修道院で成長した。将来修道女になる女の子は、読み・書き・歌うことを学び、しばしばラテン語さえも教わった。さらに、祭壇を飾るために美しい作品を刺繍することを習った
(3)家庭で育てられる女の子は、将来主婦の仕事ができる(=家の全てのことを取り仕切ることができる)ように教育された。当時は主婦としての能力が女性の評価を決め、無知な女性は重んじられなかった
(4)教育の基盤は信仰心だった。しっかりとした信仰を持つことが、あらゆる面で強い心の礎となりえた。また補完教育としての役立つ書物による教育は推奨された
(5)(4)によって精神と人格が形成されると、実用的な知識が教えられた。立派な主婦になるためには、炊事・洗濯・掃除・料理など(現代の主婦の)基本的項目だけでは足りない
 「収穫期には食糧をたくさん買い込んでおき、先のことを考えて消費する。また消費するまでキチンと保存する」
 「葡萄酒を扱い、悪くなった時には上手く再利用する術を知っている」
 「菜園で仕事でき、作男と理解し合えるほど農作業に精通している」
 「狩りでとれた獲物や魚の種類を知っている」
 「少しばかりの薬と医術の知識も持っている」
などまで必要とされたという
(6)俗世間で生きることになっているが修道院で育てられた娘は、実用性では多少劣る教育を(修道院で)受けた

 A.若い修道女と同じように、読み書き・刺繍を習った
 B.俗世間で生活する準備として、そこで人に目立つために役立つものを教える必要があった
 C.そのために「語って聞かせる話を読む」「伴奏しながら歌えるように楽器を習う」「チェスを覚える」
 D.全体で見れば「遊びの術」に重点を置き、若い女性が集いを華やかにし、必要ならば針仕事で生活を立てられるようにした。13世紀以前よりすでに社交界の生活は花咲いていたから、そこでは修道院で教育を受けた女性の評判は高く、そのため身分の高い人は、先を競ってレベルの高い教育を求めた

(7)若い城主夫人や市民の娘は、個人教師とか学校の女教師から「祈祷書や物語を読むこと」を教わり、そのため「冒険物語を語る」ことができるようになる。(似たような境遇にあった19世紀の女性と同様)彼女らは友達との集まりがあれば歌い踊り、自分のためor教会や友達のために、ベルト・手袋・布施袋・祭服などを刺繍しただろう


○男の子の教育

(1)貴族の息子は従僕たちと幼年たちと幼年時代を過ごした
(2)7歳頃に子供は選ばれた教師たちと順序だった勉強を始めた(両親付きの聴罪司祭とか専門の教師は読み方を教えた)。このため13世紀には、大部分の貴族は祈祷書を読むことができた
(3)他には馬術の教師、剣術の教師がいて、10歳になるとすぐに武人の訓練を始めた。「馬を乗りこなす」「鳥・犬を調教する」「わら人形(槍的)を相手に戦う」「様々な武器に慣れる」「身体を丈夫にする」。また社交のために、テーブルの上でする遊びやチェスを覚えた
(4)14,5歳に達すると直ちに王侯君主の宮廷に上り、彼の教育は社交界で仕上げられた

 A.宮廷での役目は「主君・その妻・娘の前で、食事中に『肉を切る』」「主君の供をしと狩りに出る」「王宮に伺候する」「騎馬槍試合や戦争に出る」「チェスを指し、貴婦人たちと談笑し、踊る」
 B.こうして彼は、あらゆる面で礼儀を心得た男となった
 C.このような教育は、多くの面で中世的であり続けたイギリス貴族の社交界と似通っていた

(5)最後に青年は騎士に叙任されたが、騎士叙任式の祝宴があまりにお金がかかるものだから、14世紀には多数の貴族が費用を捻出できずに一生涯を従騎士のままで過ごした


『中世ヨーロッパの生活』J・ドークール(白水社)[7]
2012-02-24 06:40:54

中世の一生(子供の誕生)

テーマ:中世ヨーロッパ史・家族関係
○子供の誕生

(1)裕福な市民の家庭に子供が生まれた時、きちっと帽子を被った産婦が、清潔で糊のきいたシーツと、立派な上掛けぶとんで新しく整えられた大きなベッドで休んだ。産婆は母親の世話を済ませると、赤子を金属製のたらいor木の大桶で産湯をつかわせた(以上は中世の美術が伝える情報)
(2)産湯の後、赤子は腕を下に伸ばしてしっかりと産着を着せられ、産着の上から細紐でたすき掛けに縛られた。そして頭には可愛い帽子が被せられた
(3)泣く赤子を静かにさせるために、ちょくちょく「揺する」ようになり、そのために赤子は揺籃に寝かされていた。簡単な揺籃(木を切って枝を落とし、縦半分に切った幹をくりぬいただけ)や、柳を編んで作った籠も使われたし、より立派な揺籃(多くは木製だが貴金属製もあり、小さなベッドが船底型の台の上に載っていた)もあった


○乳母

(1)大部分の母親は自分の乳を赤子に与えて育てた。人々は「他人の乳で赤子の血が汚される」のを、そう易々とは許さなかったらしい
(2)宮廷や社交界の生活がある程度派手になるといつでも、貴婦人たちは「子供に乳を与えるという世話」「子供を養育するという仕事」さえも、平気で他人に任せたようだ
(3)13世紀に都市の生活が発達し、いつの時代にも見られる粗末な家が増え、また職業の専門化が進んだ。そのため若い母親は「仕事を辞めなくてもすむよう」「虚弱な赤ん坊を救うため」に、子供を乳母に預けざるを得なかった。捨て子も乳母に預けられた。住み込みの乳母の月給は50スー、自宅で子供を世話する婦人には年額100スーが必要だった(14世紀末フランス)
(4)パリなど大都市では、職業紹介所で住み込みの乳母を見つけた。紹介所は、貧乏な娘たちが勤め口を見つけるまで宿を提供した修道女たちによって運営されていた
(5)後にはそれと並行して、斡旋女が住み込みの乳母を紹介するのを商売にした
(6)安い給金で雇われた乳母は、雇い主に対していくつかの要求をした(例:好きなときに休憩し飲み食いする)。彼女らに朝早く起きてもらうのは一仕事だったという


○洗礼

(1)子供に洗礼を受けさせるのは、生まれてから3日の内に執り行われるのが一般的だった(生まれたばかりの子がキリスト教教徒になる前に死んでしまうと、その子は天国に行けなくなるから)
(2)洗礼に立ち会う代父・代母が集められた。子供が2,3組の代父母を持つのは珍しいことではなかった。当時は出生届や洗礼記録簿がなく、事実の思い出は立会人の記憶にとどめられただけだったから、複数の代父母が求められた
(3)代父母には、敬意を表したい人物orその威光が認められている人物がなった(後のフィリップ尊厳王の誕生時には、3人の修道院長・王の妹=叔母・パリ在住の2人の婦人がなった)。時には、キリスト教の高遠な考え方に従い、乞食など貧者が代父母をつとめることもあった
(4)両親が個人の礼拝堂を持っている(=地位の高い人物)、あるいは聖堂区が聖堂小区に分けられ小区に聖堂がある場合でも、子供は聖堂区教会に連れて行かれた
(5)子供の洗礼名は(1つであろうが2つ以上であろうが)代父と代母によって選ばれた。諸侯の息子の場合、代父の招きに応じて出席した有力者たちによる「諮問会議」が開かれ、そこでの討議によって名前が決まった。運任せの場合もあった
(6)赤子は裸にされ、体ごと洗礼盤に浸され、すぐに抱き上げられた(「浸礼」)。そして赤子は丁寧に拭かれ、乾いた産着に再びくるまれた。12~15世紀の間に浸礼は次第にすたれていき、代わりに「灌水」(子供の額に水を注ぐ)の習慣が盛んになった。この場合は子供を裸にする代わりに、小さなボネを取るだけでいい


○母親と周囲の人たち

(1)こうして幼子は新しいキリスト教徒となり、母親のもとに連れ帰られた。母親にとって、ここが抱き始めである場合がしばしばあった
(2)隣近所の男女が一家の喜びを分かち合うのに招かれ、飲み食いした
(3)王の子供の誕生は、全ての臣民によって祝われた。妃が首尾良く出産するや、全領地に使者が派遣され、鐘が鳴らされた。囚人が釈放され、その感謝のしるしに「王家のために祈る」よう要求された。「テ・デウム(感謝の歌)」が歌われ、感謝のミサが立てられ、庶民は通り&「喜びの焚き火」の周りで踊った
(4)若い母親は、分娩から産褥を離れるまで(2,3週間)は、友人の訪問を受けるのに大部分の時間を過ごした。もし彼女の家が富裕であるなら、客をもてなしたりびっくりさせるために、産婦の休んでいる部屋や隣の部屋に、その家のあらゆる貴重品(クリスティーヌ・ド・ピサンの場合、訪問先で壁掛け・絹織物・毛皮・銀の器を見た)を陳列した
(5)若い母親は起きられるようになるとすぐに、聖堂区教会に赴いた。主任司祭が教会の戸口に迎えにやって来て、いわゆる「産後産婦の祝別」の祈りを唱えた。この儀式によって、若い母親は改めて聖堂区の生活に戻った
(6)子供の誕生は一時的には新たな出費の機会でもあった。出費を軽くするために親戚友人は贈り物を持って行き、産着を贈った。地域の慣習でも配慮された場合があった

 [タンでは菜園の持ち主は賦課租として鶏と卵を納める義務があったが、5月or9月(=賦課租を納入する期日)の少し前に出産した妻がいる戸主はそれを免除された]
 [アルザス地方では、鶏を賦課租として納めなくてはならない農民は、その鶏を出産間もない妻に食べさせるという条件付きで賦課租を免除されたが、そのために「殺した鶏の頭を取っておき、それを徴収人に見せることで免除を納得させなければならなかった」]


『中世ヨーロッパの生活』J・ドークール(白水社)[6]

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