2012-02-28 21:02:06
中世フランスの相続
テーマ:中世ヨーロッパ史・家族関係
○相続
(1)死亡した人が固有の世襲財産を持っていれば財産相続の問題が生じた。もし死者が黙約共同体(親戚関係にある多くの小家族が一族の経済運営を共にするもので、「同じかまどの火となべ」の周りに、そして不分割の同じ耕地に寄り集まった親族集団)の一員だったり、修道会の一員であった場合には、相続の問題は発生しない(修道院に入った時に「俗世での生活は終わっていた」から)
(2)中世フランスの相続習慣は、地方・死者の地位と財産状態に応じて、際限ないほど多かった
(3)一家の主人が死んだ場合に彼が遺したのは、(根本的には)富ではなく「社会的・家族内における地位」だった
(4)貴族であれ平民であれ土地を相続する息子は、その土地が封土であっても保有地であっても「土地に含まれる全ての責務を封土に対して&家族に対して」負わされることになっていた。彼は「家族を養い」「兄弟たちを独立させ」「姉妹たちに結婚する時の持参金を与え」なければならない
(5)それゆえに9~11世紀(最も過酷な封建時代)において、相続財産を受け取ったのは最も近い親族ではなく「最も能力のある者」だった
(6)封土がない場合でも、軍事・行政の命令権を行使する能力を有することが必要であった。保有地がない場合でも、農作業の指揮者となれることが必要であった。遺産が問題なのではなく、主君or領主の承認が問題だった(後継者が無能だと困るから)
(7)じきに、役目・責務・封土・保有地は世襲財産となり、それらは遺贈されるように変わっていった
(8)しかしいずれにせよ、財産の譲渡は主君or領主の同意なしには行われ得なかった
A.そしてそれは「象徴的な意味を持つ儀式(封臣は両手を合わせて封主の掌中に置き、封主より接吻を受けるなど)」と「譲渡の権利を得るためのかなり高額の税を支払う機会」となった
B.税は原則として譲渡される土地の1年分の収益に等しく、その2倍・3倍にのぼることも珍しくなかった
C.儀式の方は中世のうちに廃れていったが、税の方ははじめは封主の利益のため、次いで王の=国家の利益のために存続していった
(9)財産相続はその頃から現代とほぼ同じ。違うのは「世襲の土地は一般に分割されず、多くの場合は長子が、しかし時には末子が手に入れた」点。末子相続が発生した事情は「農民の耕地が子沢山の家庭を養うには不十分だった場合、子供たちは他所へ日々の糧を探し求めに行ける年齢になるとすぐに家を離れた。そのため末の子が父親とともに残り、指定相続人となった」
(10)ある領主がいくつかの封土を遺したり、貴族でない人がいくつかの土地を遺した場合には「長子が最も重要なのを取り、次男以下が各自の取り分を得た」。家具・金銭・衣服は各自が取り分を手にした
(10)財産を分割しない場合もあった。農村には多くの家族共同体があり、また南フランスの領主たちは「狭い領地と領主権を共同所有した」
(11)兄弟姉妹が家族から離れて行く時には、彼らに必要なものを与えなくてはならなかった(フランス王家で設定された親王領は一例)。娘たちには(土地が流出するのを防ぐために)できれば土地ではなく、金銭か年金を与えるようにしたかった
(12)世襲の土地財産は、借金があった場合でも手がつけられずにそのままにされた。死んだ人が借金を残していた時、債権者は名乗りでても家財しか取り上げることができなかった。だから社会は安定した
A.貧しい人たちは都市や村の高利貸しに時折世話になっていた
B.領主たちも、経営の才能が不足した場合・経済危機・インフレによる収入の実質価値の下落・戦争による出費のために、金貸しから都合をつけてもらうことがしばしばあった
C.金貸しは、たとえ家財しか取り上げられなくても、かなりの高利と担保を取っていたから、彼の商売全体で赤字を出すことはなかった
D.しかし相続人は「家名に傷がつくのを案じて」「為すべきことをなさない限り苦しみ続けているだろう死者の魂を、楽にしてやるために」どうしても借金を返さなければいけない、という義務を感じていた
(13)法に則って父親の財産を占有した相続人は、その名義を変えた
A.新たに領主となった者は主君から彼の権利を安堵してもらったのち「封臣たちを召集して臣従礼を受け」「封臣たちが彼より授与されているものについての誓約を受けた」
B.13世紀にはそれはまだ「相互の忠誠誓約に基づいた当事者間の関係の樹立」だった
C.しかし後には、法曹家(封臣の公証人と封主の代理人)の間で執り行われる目録の照合になってしまった
『中世ヨーロッパの生活』J・ドークール(白水社)[12]
(1)死亡した人が固有の世襲財産を持っていれば財産相続の問題が生じた。もし死者が黙約共同体(親戚関係にある多くの小家族が一族の経済運営を共にするもので、「同じかまどの火となべ」の周りに、そして不分割の同じ耕地に寄り集まった親族集団)の一員だったり、修道会の一員であった場合には、相続の問題は発生しない(修道院に入った時に「俗世での生活は終わっていた」から)
(2)中世フランスの相続習慣は、地方・死者の地位と財産状態に応じて、際限ないほど多かった
(3)一家の主人が死んだ場合に彼が遺したのは、(根本的には)富ではなく「社会的・家族内における地位」だった
(4)貴族であれ平民であれ土地を相続する息子は、その土地が封土であっても保有地であっても「土地に含まれる全ての責務を封土に対して&家族に対して」負わされることになっていた。彼は「家族を養い」「兄弟たちを独立させ」「姉妹たちに結婚する時の持参金を与え」なければならない
(5)それゆえに9~11世紀(最も過酷な封建時代)において、相続財産を受け取ったのは最も近い親族ではなく「最も能力のある者」だった
(6)封土がない場合でも、軍事・行政の命令権を行使する能力を有することが必要であった。保有地がない場合でも、農作業の指揮者となれることが必要であった。遺産が問題なのではなく、主君or領主の承認が問題だった(後継者が無能だと困るから)
(7)じきに、役目・責務・封土・保有地は世襲財産となり、それらは遺贈されるように変わっていった
(8)しかしいずれにせよ、財産の譲渡は主君or領主の同意なしには行われ得なかった
A.そしてそれは「象徴的な意味を持つ儀式(封臣は両手を合わせて封主の掌中に置き、封主より接吻を受けるなど)」と「譲渡の権利を得るためのかなり高額の税を支払う機会」となった
B.税は原則として譲渡される土地の1年分の収益に等しく、その2倍・3倍にのぼることも珍しくなかった
C.儀式の方は中世のうちに廃れていったが、税の方ははじめは封主の利益のため、次いで王の=国家の利益のために存続していった
(9)財産相続はその頃から現代とほぼ同じ。違うのは「世襲の土地は一般に分割されず、多くの場合は長子が、しかし時には末子が手に入れた」点。末子相続が発生した事情は「農民の耕地が子沢山の家庭を養うには不十分だった場合、子供たちは他所へ日々の糧を探し求めに行ける年齢になるとすぐに家を離れた。そのため末の子が父親とともに残り、指定相続人となった」
(10)ある領主がいくつかの封土を遺したり、貴族でない人がいくつかの土地を遺した場合には「長子が最も重要なのを取り、次男以下が各自の取り分を得た」。家具・金銭・衣服は各自が取り分を手にした
(10)財産を分割しない場合もあった。農村には多くの家族共同体があり、また南フランスの領主たちは「狭い領地と領主権を共同所有した」
(11)兄弟姉妹が家族から離れて行く時には、彼らに必要なものを与えなくてはならなかった(フランス王家で設定された親王領は一例)。娘たちには(土地が流出するのを防ぐために)できれば土地ではなく、金銭か年金を与えるようにしたかった
(12)世襲の土地財産は、借金があった場合でも手がつけられずにそのままにされた。死んだ人が借金を残していた時、債権者は名乗りでても家財しか取り上げることができなかった。だから社会は安定した
A.貧しい人たちは都市や村の高利貸しに時折世話になっていた
B.領主たちも、経営の才能が不足した場合・経済危機・インフレによる収入の実質価値の下落・戦争による出費のために、金貸しから都合をつけてもらうことがしばしばあった
C.金貸しは、たとえ家財しか取り上げられなくても、かなりの高利と担保を取っていたから、彼の商売全体で赤字を出すことはなかった
D.しかし相続人は「家名に傷がつくのを案じて」「為すべきことをなさない限り苦しみ続けているだろう死者の魂を、楽にしてやるために」どうしても借金を返さなければいけない、という義務を感じていた
(13)法に則って父親の財産を占有した相続人は、その名義を変えた
A.新たに領主となった者は主君から彼の権利を安堵してもらったのち「封臣たちを召集して臣従礼を受け」「封臣たちが彼より授与されているものについての誓約を受けた」
B.13世紀にはそれはまだ「相互の忠誠誓約に基づいた当事者間の関係の樹立」だった
C.しかし後には、法曹家(封臣の公証人と封主の代理人)の間で執り行われる目録の照合になってしまった
『中世ヨーロッパの生活』J・ドークール(白水社)[12]