第二章 美由紀 その一


 ぼくは闇の中を歩いていた。行けども行けども、闇、また闇だった。右を見ても左を見ても振り返ってみても真っ暗闇だった。ぼくはただ当て所もなくひたすら歩き続けた。ここはどこなのか、何故こんな所にいるのか、判らないまま、歩き続けた。ずっと歩き続けているのに、不思議と疲れも空腹も感じなかった。
 どれくらい歩いただろうか? 闇の先にわずかに光が見えた。ぼくは引き込まれるようにその光の方に向かって歩いていった。
 突然あたりが明るくなり、ぼくは眩しくて目を瞑った。恐る恐る目を開けると、二本の細長い光が目に入った。目を凝らしてよく見るとそれは天井で輝く蛍光燈の光だった。
 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ、ピッ。規則正しい乾いた電子音が部屋の中に響いている。心電計の音だ。消毒薬の匂いがわずかにする。ぼくは、どこか知らない病院のベッドの上にいるらしい。淡いベージュ色の天井に二本の蛍光燈が明るく光っている。ぼくは今、クリーム色のカーテンに囲まれたベッドの中に横たわっていた。ジェファーソンに撃たれて意識を失ったことをぼくはようやく思い出した。
 「生きていた。ぼくは生きていたんだ!」
 喜びで涙が溢れ出た。両手を動かしてみた。右手は問題なく動く。左手は点滴されていて、動かすと針の入っているところがピリピリと痛い。両足はひどく締め付けられた感じで、動かしにくい。足の指先、足首は動く。どうなっているんだろうと思って、足元を見ようと頭を上げたら、下腹部がギリギリとひどく痛んだ。ジェファーソンに下腹部を撃たれたことを思い出した。
 「弾丸の摘出手術をしたんだな。それでこんなに痛いんだ」
 そんなふうに納得した。頭を上げないようにして観察してみると、胸も、首も、顔までも包帯が巻かれている。とくに首は締め付けられるように痛く、つばを飲み込むと更にひどく痛んだ。目が覚めた時は、ぜんぜん痛くなかったのに、ミイラのように包帯が巻かれていることを自覚したとたん、痛みがだんだんひどくなり全身が悲鳴を上げ始めた。心電計の音が痛みの強さを示すように早くなっていった。
 看護婦を呼ぼうとナースコールを探していると、ドアが開く音がして、カーテンの隙間から赤毛で目のぱっちりした丸顔の看護婦が顔を覗かせた。ぼくには女性の年齢はよく判らないけれど、三十歳くらいだろうか。
 「あら、やっぱり、目を覚ましていたのね。心電計の脈が増えたから様子を見にきたの。気分はどう? あ、待って! ドクターから指示されているの。まだ声を出しちゃだめよ。のどの傷にひびくから。判った?」
 「のどの傷? どうしたんだろう?」
 訝りながらも、看護婦の指示に従って声を出さないようにして頷いた。
 「他にもたくさん傷があるわ。どう、痛む?」
 ぼくは大きく頷いて、下腹部と喉を動く方の右手で指差した。
 「判ったわ。痛み止めが、あなたの左腕に刺さっている点滴の横から入るようになっているの。この装置がそれよ。そう、これ。スイッチを渡すから、痛む時は、これ、そう、このスイッチを押してね。モルヒネが二ミリグラム注入されるからね。そしたらうんと楽になるわ。一度押すと次は十五分しないと次のモルヒネは注入されないから、誤ってたくさん入ることはないのよ。コンピューターで制御されているから、安心してね。さあ、押してみて」
 ぼくは渡されたスイッチを力の限り押した。装置のランプが青から赤に変わり、機械の動く音がした。しばらくして、機械が停まるとランプは赤から青に戻った。ものの五分もしないうちに、痛みが和らいできて、少しフワッとした感じがしてきた。
 「どう? 痛みは? 良くなった? よく効くでしょう。そうそう、あなたの目が覚めたら、これを渡すように言われているの。中にカセットテープが入っているそうよ。ウォークマンがそこのテーブルの上に置いてあるから、あとで聞いてね。それ、あなたの国のラジオ付きの最新型よ。わたしも欲しいわ。それじゃあ、何かあったら、ナースコールで呼んでね。わたしは、ジャクリーン・ギルバート。ジャッキーと呼んでね。退院するまで、わたしがあなたの面倒をみるからね」
 看護婦は、白い封筒をぼくに渡し、ナースコールの位置を教えると、部屋から出て行った。


 封筒には宛て名も差出人の名前も書いていなかった。封筒を破ると、ジャッキーが言っていたように、一本のカセットテープが出てきた。封筒の中には、テープのほかには髪の毛一本も入っていなかった。さっそく、カセットテープをウォークマンにセットしてイヤホーンで聞き始めた。
 「カオル、この薄汚れた世界への帰還おめでとう。君は運のいいやつだよ。ロッキー・アーバン・ホテルでもベイサイドホテルでも危機一髪だったし、今度こそは、もうだめかと思ったがね。執刀したドクターの話しでは、ジェファーソンに撃ち込まれた弾丸が、おなかの大きな動脈に突き刺さって背骨で止まっていたそうだ。もし突き抜けていれば、君は出血多量で、まず助からなかっただろうとのことだ。デヴィッドのようにな。それに、あの時わたしが追いつくのがもうちょっと遅かったら、君は頭を打ちぬかれて、今ごろは棺桶の中だったよ。つくづく運のいいやつだよ、君は」
 その声は、ベイカー捜査官の声だった。相変わらず、ぼそぼそとした話し方で、カセットテープだからよけいに内容が聞き取りにくい。
 「君は、我々がどうして君の居場所を知ったか不思議に思っているだろう。実はね、あのいけ好かないジェファーソン捜査官は、前から何かと噂の多いやつでな。君の事件に関しては、とくに我々の動きが筒抜けだったんで、君の居場所はできるだけ教えないようにしていたんだ。それでもやつは内部では力があるから、いろいろ調べまわって君の居場所を探り当てたみたいだがね。君がベイサイドホテルから行方知れずになってからは、君の捜索とは別に、やつをずっとマークしていたんだよ」
 風采の上がらない無能なひとに見えたけど、実は、姿だけでなく実力もコロンボ警部みたいな人だったんだなとちょっと見直した。ごめんなさい、ベイカー捜査官。
 「君が撃たれたあの日、九月十九日の七時二十五分頃、地元の警察から、ベイサイドの君たちが襲われたという連絡が入ったんだよ。すぐにホテルに駆けつけたんだが、ジェーンとケントの死体と、重傷を負ったジャックだけで、君はどこにも見当たらなかった。
 地元警察の協力も得て、かなり探し回ったんだが、君の行方はまったく判らなかった。仕方がないのでロサンゼルスに戻って善後策を練ろうということになったんだ。
 会議が始まる直前になって、やつがこそこそ隠れて携帯電話をしているのに気がついてね。何かおかしいと睨んで、会議の後もずっと監視していたんだ。そんなわれわれの動きに気づいたのか、出掛けると言うので、部下を連れてこっそり後を追ったんだな。
 やつは、しばらく車でうろうろしててね。どうやら尾行されているのに気づいて、巻こうとしていたみたいなんだ。いったんは見失ったんだが、ロサンゼルスの郊外で例の二人組と落ち合っているのを見つけて、再び追跡し始めたんだよ。
 その後やつはクレインホテルに行き、ホテルの前で待ち人来たらずという感じでうろうろしていたんだが、われわれはひとつ離れた通りの角から双眼鏡で見張っていたんだよ。十分くらいしてからかな? 君が現れたのは。ピンク色のスニーカーを履いていたんで、笑ってしまったよ」
 ベイカー捜査官はどこに潜んでいたんだろう。ぼくもずいぶん用心してあたりに気を配っていたのにぜんぜん気がつかなかった。
 「車から二人組みが降りてきて、ジェファーソンが拳銃を抜いたんで、われわれは慌てて飛び出したんだ。二人組はすぐに取り押さえることができ、わたしは、部下にふたりを頼んで君とジェファーソンの後を追ったんだ。銃声が一発して、ジェファーソンが君に向かって引き金を引こうとしているところで、やつを見つけてな。撃ち合いの末、やつを射殺したんだ」
 ほんとにぼくは危機一髪だったみたいだ。ここにこうしていられるのもベイカー捜査官のお陰だ。彼が、ジェファーソンの動きに気づいていなかったら、ぼくはすでに死んでいただろう。そう思うと傷のことはそんなに気にならなくなった。
 「君の今入院している病院は、セントラル・パーク・メディカル・センターだ。君の手術は、三時間もかかったんだ。その間、われわれは、いろいろと検討した結果、君はジェファーソンに撃たれて死んだことにしようと結論したのだ。
 君が運ばれる三日前に、君と背格好が似た少年が麻薬中毒でこの病院に運ばれた後、死んでいたのだ。密入国らしく身元がさっぱり判らなかったんだ。そこで、悪いがこの少年を君の身代わりに仕立てたんだ。
 そのままでは、すぐにばれてしまうから、君をサンフランシスコに転送すると称して、彼の死体を救急車に乗せ、出発させたんだ。案の定、新手の暗殺者が追ってきてね。追われて運転を誤ったと見せかけて救急車を崖から転落させたのだよ。だから君は救急車とともに黒焦げになって死んだことになった。
 われわれは、悲痛な顔をして、君の死亡会見を行ったよ。遺骨はうちの捜査員が、近日中に君の本国に送り届ける予定だ」
 もう追われることはないのか! ぼくは安心した反面、死んだことになったら、日本での生活はどうなるのだとの不安が込み上げてきた。
 「君がすぐに帰国したら、この工作がふいになる。ほとぼりが冷めるまで、合衆国に留まって欲しい。君が退院できるまでに、身分証明書を作っておくから、安心したまえ。
 それから、君の死に疑問を持つやつらもいて、この病院はまだ、完全に安全とは言えないのだ。こういう偽装工作はわれわれがよくやるから、やつらも心得ていてな。そこで、君は偽名を使ってこの病院に入院している。ミユキ・ヤマギシという女性名でな。顔も包帯だらけだから、気づく人間はいないはずだ。病院のスタッフの大部分も知らない。病院のスタッフが、君の名前を呼んだ時、びっくりしないようにな。
 このテープは自動的に消滅しないから、巻き戻して、音楽なりを録音してくれ。くれぐれも忘れずにな。もし、内容がやつらに知られたら、君はまた追い回されることになる。もう一度言う。くれぐれもテープの処分を忘れずにな。今後はジュンコ・ヤマギシという名前で連絡するから覚えておいてくれたまえ」
 テープはそこで終わりになった。「このテープは自動的に消滅しない」だって。ベイカー捜査官が冗談を言うとは思わなかった。
 ぼくはテープを巻き戻し、録音状態にしてウォークマンを机の上に戻した。ベイカー捜査官はああ言ったけど、裁判の後もすぐに帰れると言いながら、なかなか帰れなかった。いつになったら日本に帰れるのだろうと不安がふたたび込み上げてきた。
 「お父さん、お母さん、圭子姉さん、ぼくはどうしたらいいんだ! 留学なんてわがままを言わなければ良かった」


 今朝、目が覚めてすぐに、ガスが出た。傷の痛みも幾分和らいだようだ。昨日の夕方からモルヒネを注入していない。午前九時、ジャッキーがにこにこしてやってきた。
 「ミユキ、具合はどう?」
 ミユキと呼ばれて、ぼくは少しどぎまぎした。今は声を出せないからいいけど、会話が可能になったら、どうなるんだろう? ジャッキーはぼくが男だと知っているんだろうか?
 「ガスが出たそうね。夜勤の看護婦から聞いたわ。昼からスープとジュースが出るわ。楽しみにしていて。傷の痛みはどう?」
 ぼくは、にっこり笑って、右手を上げてOKサインを出した。もっとも顔中包帯だらけだから、ぼくが笑ったことなど、ジャッキーには判らないだろうけど・・・・。
 「そう、調子がいいみたいね。それからテレビを見ていいと許可が出たわよ。テレビを見える位置に寄せておいてあげるわね。今日の午後、あなたの手術を担当したドクター・ルーカスの診察があるわ。ちょっと痛いかもしれないわ。覚悟していてね」
 ジャッキーはテレビをぼくのベッドから見える場所に移動させた。ウインクして出て行こうとして、振り返って白衣のポケットから封筒を取り出した。
 「そうそう、忘れていたわ。あなた宛ての手紙が来ているわ。ジュンコ・ヤマギシ。あなたのお姉さん? それともお母さんかしら?」
 そうというとジャッキーは机の上に手紙を置いて部屋を出ていった。

 体調が良くなったせいか、お腹が減ってぺこぺこだ。昼の食事が楽しみだ。テレビはまだ頭が少しボーッとしていて見る気にならなかった。
 手紙を読もうと、机に手を伸ばしたとたん、股間に鈍い痛みが走った。股間の方を見てみると、おしっこの管が出ていて、黄色の液体が流れている。管の所々に赤黒い血らしいしみがついている。もう一本、管があって、中に一,二センチの間隔で、やはり赤黒い血液が入っている。こちらの方はほとんど流れていない。
 「何の管だろうか? どこに入っているのだろうか? 痛みはどちらかの管をひっぱったせいだろうか?」
 そう思いながら手紙を開けて読み始めた。
 「カオル、元気か? カセットテープは聞いてもらえたと思う。君が、あのテープを聞いてからどれくらい経つか判らんのだが、あの時わたしも躊躇して君に言わなかったことがあるのだ。
 ドクター・ルーカスが、君が目覚めたことを連絡してきて、わたしの方から説明しておいて欲しいと要請されたのだ。これから説明することには、ドクターに責任はまったくない。すべてわれわれFBIの数人が話し合った末に、君にとって最善と判断して行ったことだ。落ち着いて読んで欲しい」
 何があるのだろう。何を隠していたのだろう。よほど言いにくかったことに違いない。全身に巻かれた包帯と関係があるのかもしれない。いやな予感がした。
 「このアイデアは、その病院の救急センターのドクターから君が運び込まれてきた時の様子を聞いて、浮かんだものなのだ。つまり、君がセーターの下に女物のワンピースを身に着けていたと言うことなんだ。元気になったジャックからもベイサイドホテルから運び出される時、心配そうにジャックを見ていた女性を見掛けたと聞いていたんだ。君が、ジェファーソンに投げつけたボストンバッグを回収して中身を調べてみたところ、かつら、ブラジャー、パンティーストッキングを見つけてな。ワンピースとかつらをジャックに見せたところ、あのときベイサイドホテルで見掛けた女性が着ていたものと同じ服で、髪型が一致すると言うんだ。君の顔にわずかながら化粧の跡が残っていたこと、君は背丈もそう高くないし、華奢なことから、君が女装して逃走していたと判断したのだ。やつらも女装した君にはまったく気がついていなかったようだ。
 そこでわれわれは、弾丸の摘出手術がすんで、生命の危機から脱出したあと、君にある処置を施してもらった。合衆国の中にいる日本人の割合は少ないが、女性は半分いる。われわれは君を女性の中に隠そうという計画を実行したのだ。もう判ると思うが、われわれは君に無断で性転換手術を受けさせたのだ。それも中途半端な形ではなく、完璧な形でだ」
 ぼくは、あまりのショックで、気が遠くなった。もう一度読み直して、恐る恐る右手で股間を触ってみた。包帯の下には何も触れなかった。ただ、さっきの鈍い痛みをまた股間に感じた。ぼくのペニスも睾丸もなくなってしまった。ぼくはパニックになって、泣き叫びそうになった。涙がぼろぼろと流れ落ちた。こんな時でも看護婦の言いつけを聞いて声を出さない自分に腹が立った。
 三十分もじっとそうしていただろうか? 幾分落ち着いて、再び手紙の続きを読み始めた。
 「君の人権を無視した方法だと思う。許してくれたまえ。だが、レオンは、ヘビのようにしつこい男なんだ。日本へ帰れば、君は安全だと君に言ったし、われわれもそう信じていた。しかし、現実はそうではなかったんだ。君がベイサイドホテルで襲われた前日、別の事件で逮捕したレオンの子分の話しによれば、たとえ君が日本に帰ってもどこまでも追って殺せと言う命令が賞金付きで出ていたそうだ。そいつは、君が死んだと聞いて、儲け損なったとぼやいていた。君が生きていることが判ったら、君はまた命を狙われることになるんだ。
 そういうわけで、君を簡単に日本に返すことができなくなったのだ。もし君が日本に帰ってしまったら、われわれは君を守れなくなってしまう。合衆国内より日本の方が格段に危ないのだ。
 ただ合衆国内に君を置くにしても、君は日本人だから白人のように簡単には行かないのだ。だから女になれば、ずっと発見されにくくなると判断したのだ。すべては君のためにしたことだ。もう一度言う、どうか許してくれ給え。そして、現実を受け入れてくれ。
 この手術を実施するにあたっては、大変な苦労をしたんだ。手術室とICUの間を何回か往復して、そのたびにネームプレートを取り替え、ポーターも別にして、カオル・サイジョウとミユキ・ヤマギシが同一人物だと判らないようにした。
 知っているのは、性転換手術を担当したドクター・ルーカスとわたしと数人のわたしの上司だけだ。君の弾丸の摘出を担当した医師たちにも知らせていない。君は、搬送途中に死んだことになっているから、彼らが君の容体を気にすることもないのだ。
 手術の詳しい説明は、ドクター・ルーカスがしてくれる。ドクター・ルーカスには手術をやってもらう関係上、事情をすべて説明してあるが、病院のほかのスタッフには何も説明してない。君に関わるスタッフはできるだけ少なくしてあるし、その彼らにも特別の事情があるからと堅く口止めしてある。君はただの性転換者として扱われるだろう。カオル・サイジョウとの接点はまったくない。君は、オクラホマから来た日系人ミユキ・ヤマギシと言うことになっているから、安心して良い。
 この手紙は、読み終わったら、細かく破って捨てるか、燃やしてくれ。また、連絡する。ベイカー」
 ぼくは手紙を気が済むまで破り続けた。「現実を受け入れてくれ」だって? 何故ぼくが目覚めるまで待ってくれなかったんだ。殺されても日本に帰りたかったのに。また、ぼくの目から涙が零れ落ちた。


 ジャッキーが昼食のスープとジュースをトレイに載せて部屋にやってきた。
 「ミユキ、楽しみにしていた昼食よ。このスープは特製で、とっても美味しいのよ。さあ、食べて」
 ぼくは、首を横に振って、食べるのを拒否した。食欲なんて吹っ飛んでしまったのだ。食欲はなく、ただ絶望があるだけだった。
 「どうしたの? さっきはあんなに喜んでいたのに。しっかり食べないと、早く治らないわよ。さあ、食べて!」
 ぼくは蒲団を頭から被って、彼女の要求を拒否した。
 「ほんとにどうしたの。さっきはあんなに嬉しそうにしてたのに、しょうがないわね。あとでまた来るわ。食べるのよ」
 ジャッキーはちょっと腹を立てたようにバタンとドアを閉めて出ていった。ぼくは蒲団を被って涙を流していた。


 午後一時過ぎ、ドクター・ルーカスが病室にやって来た。
 「ごきげんよう、ミユキ。具合はどうだね。君の手術を担当したルーカスだ」
 ぼくは、蒲団の中に潜ったまま、だんまりを決め込んだ。ドクター・ルーカスは、人払いをするとぼくのベッドのそばに椅子を持ってきて腰を降し、非常にはきはきした言葉で、話し始めた。
 「ベイカー捜査官からの手紙を読んだね。わたしが、ベイカー捜査官に説明するように頼んでおいたのだ。君が今回の手術を受けることになった経緯をね。わたしは、君の意識が戻るまで待てと言ったんだが、君の意識がなかなか戻らなくてね。やるなら一刻も早い方がいいと言う意見に押し切られたのだ。君の命に関わると言われてね。
 君にとってはひどいショックだと思う。覚悟してこの手術を受けたものでさえ、術後にひどい欝状態になるものがいるくらいだ。まして君は何も知らされず、意識を失っていた間にこの手術を受けたんだ。それが判った時の君の驚きと戸惑いは言葉では言い表せないだろう。だが、判ってくれ。君の置かれた状況を考えれば、これは最善の方法なのだよ。そしてもう後戻りはできないのだ」
 ぼくは黙って、ドクター・ルーカスの話しを聞いていた。後戻りは出来ないと聞かされて、また涙が零れた。しばらくの沈黙の後、ふたたびドクター・ルーカスが話しを始めた。
 「そう、君はあの時腹部を打たれて死んだんだ。そして女として生まれ変わったのだ。そう考えれば、今の状況を受け入れられるのではないかね?」
 一度死んで、女に生まれ変わった、というドクター・ルーカスのアイデアは、ぼくを絶望の底から救い出すものだった。確かにぼくが西条薫という男である限り、どこに隠れようと命を狙われると言う状況はまったく変わらない。
 ぼくはあの時死を覚悟した。いや、死んだと思った。ぼくは死んで別の人間に生まれ変わったのだ。ただ、それが女だっただけだ。そうだ。そう考えることにしよう。
 ぼくは蒲団から顔を出して、ドクター・ルーカスを真っ直ぐ見つめた。
 「判ってくれたんだね、ミユキ」
 ぼくは、大きく頷いた。そう、ドクターが言うようにもう後戻りはできないのだ。今ある状況を受け入れて、前向きに努力することにしよう。そう決心した。そうするしかぼくに残された道はないのだ。
 「君が今回受けた手術について説明しておこう。いいかね」
 ぼくは頷いた。こうなったらとことん聞いてやるつもりだ。
 「通常は、この種の手術は、手術前に時間をたっぷり掛けて詳しく説明しておくんだ。説明を受けて手術を受けることを躊躇するものもいる。君には、選択の余地はないがね。いや、失礼。こんなことを言うつもりはなかったんだ。許してくれ給え」
 ぼくは、ジェスチャーで、説明を続けるようドクターにお願いした。
 「君に行われた手術は、四つだ。造腟術、豊胸術、喉頭形成術それに顔の形成手術だ。ひとつひとつ詳しく説明するかね? そう、それでは、説明しよう。もし途中で気分が悪くなったら、言ってくれ給え。いいね?」
 ぼくは頷いた。自分の体に為されたことを充分理解しておきたかったからだ。
 「まず、造腟術からだ。紙に書きながら説明するとしよう。この方がイメージがはっきりするからね。
 ペニスは大まかに言って、尿道海綿体と二本の陰茎海綿体、そしてこれらを被う皮膚からなっている。まず、ペニスの付け根にこのように逆Y型に切開を入れるのだ。そして陰茎海綿体と尿道海綿体を皮膚から剥離して、亀頭の付け根で切り離す。するとペニスの皮膚だけが手袋の指のようになるんだ。これは、あとで、腟の壁を作るのに使われる。ここまでは判ったかね。説明を続けるよ。
 睾丸を剥離して、動脈と静脈、精子を運ぶ管を付け根で糸で結んで切り離して、睾丸を両方とも切除する。それから陰茎海綿体の根元を少し残して切除し、残った部分を使ってクリトリスとなる部分を形成する。クリトリスというのはわかるかね?」
 ぼくは頷いた。それくらいは知っている。中学に入ったころ、いろいろと興味があって、家族に隠れて辞書で調べたことがあった。クリトリスは女性の敏感な部分だ。
 「次に、尿道にフォーリーカテーテルを入れて、そう、フォーリーカテーテルというのは膀胱から尿を体外に誘導する管で、今も君の中に入っているやつだ。判るね。これを膀胱まで入れておく。それからこのカテーテルに沿って尿道を縦に切り開く。余分の尿道海綿体を切除して、尿道粘膜で、クリトリスとなる部分を被う。この時ペニスの神経もこの中に埋め込む。クリトリスが感じるようにするためだ。感じなければクリトリスを作る意味がないからね」
 ぼくはちょっと顔を赤くした。でも、包帯が巻かれているからそのことには気づかれないだろう。
 「それから、新しい尿道口と肛門の中間に腟を作るための穴を開ける。直腸に沿って、五インチくらいの深さまで穴を開けるんだ。ペニスの皮膚を裏返して、開けた穴の中に入れたあと、下腹部の皮膚を恥骨に太い糸で縫合して固定する。こうしないと、体を後ろに反らせると、穴の中からペニスの皮膚が飛び出してしまうからだ。
 クリトリスにあたる皮膚に穴を開けてクリトリスを露出させて縫合し、次に新しい尿道口を作る。それから新しい腟の中に化膿止めをたっぷり染み込ませたガーゼを詰め込む。これは開けた穴の奥からの出血を圧迫して止めると同時に、その場所から動かないようにするためだ。陰嚢で大陰唇と小陰唇を形成して余分な陰嚢を切り取ってドレーンを置いたら、造腟術術は終わりだ。質問は?」
 ぼくは、気分が悪くなって吐きそうになったが、何とか堪えて、メモ用紙に質問を書いた。
 「もちろんセックスは可能だ。さっきも言ったが、ペニスの神経を埋め込んであるからクリトリスは感じることができるし、前立腺やカウパー腺という分泌腺は残っているから、性的刺激を受ければ、いわゆる『濡れる』という状態になる。腟の深さは五インチあるから、男のペニスを受け入れるには充分だ。
 子宮がないから子供は産むことができないが、君は女としてセックスを楽しめるし、男を満足させてやることもできる。ただ、人造腟は放置すると、狭くなってしまうので、いつも広げてやる必要があるがね。その方法は、腟の中からガーゼを取り出したあと教えるよ」
 驚いた。ペニスと睾丸を切除しただけだと思っていたのに、クリトリスや腟までも作ってあって女としてセックスが可能だなんて考えてもみなかった。「男を満足させることができる?」ぞっとした。
 「説明を続けるよ。いいね。第二は、豊胸術だ。傷が見えないように腋の下に切開を入れ、大胸筋、胸の筋肉のことだ。この裏を剥離して、シリコンのインプラントを入れる。日本人女性のデータをもとに君の年齢と体格に合わせたインプラントを入れさせてもらった。インプラントを落ち着かせるために朝夕のマッサージが必要だ。あとで看護婦に指導してもらうからそのつもりでいてくれ。
 少々小さいかもしれんが、今後君には女性ホルモン剤を飲んでもらう予定だ。その効果で本来の君自身の乳腺が大きくなり、ちょうどいいくらいの大きさになると思うよ。
 何か質問は? 何? ホルモン剤のことか。明日担当のものを遣すから詳しく聞いてくれ。もう質問はないね。それでは説明を続けよう」
 胸の包帯は、豊胸術のせいだったのか。どおりで腫れたような圧迫感があるはずだ。
 「第三は、喉頭の形成術だ。喉仏を削り取り、声帯を延ばすのだ。これにより君の声は以前よりトーンが高くなるはずだ。明日から、少しづつ声を出してよろしい。もう一日の辛抱だ。頑張りなさい。質問は? ないね」
 声も変わるのか。どんな声になるだろう。のどだけはまだ痛い。明日から声が出せると言ったって、とても出せそうにない。
 「第四は、顔の形成術だ。顔を形成するといってもぜんぜん別の顔になるわけではない。女らしい顔にするということだ。君が最後に着ていたジーンズのポケットに入っていた写真を参考にさせてもらったよ。君といっしょに写っていたのは君の姉妹だろう? 良く似ているようだから」
 ぼくは頷いた。圭子姉さんだ。ぼくと圭子姉さんとで今年の春、京都に旅行に行った時に撮った写真だ。圭子姉さんの顔に似せたのなら文句があるはずはない。
 「ふたりの決定的な違いは眼瞼だ。君は一重で、彼女は二重だ。今の君は奇麗な二重まぶたになっている。二重眼瞼になっただけでずいぶん顔の印象が変わるはずだ。それから、鼻を少し細くし、頬骨の下に薄いインプラントを入れて頬をほんのわずか高くしてある。さらに、顎を少々削って細くした。一ヶ月もすれば、新しい顔と対面できるよ。うん、それくらいしないと内出血や腫れが完全に取れないからね。判ったかね」
 一ヶ月後、ぼくはどんな顔になっているのだろう。ほんとに圭子姉さんみたいな顔になれるのだろうか? 圭子姉さんみたいな美人になれるのだろうか?
 「説明はこれで終わりだ。もし、何か質問があったら、わたしが来たときに遠慮なく聞いてくれ給え。それでは、傷を見てみよう。いいね」
 ドクター・ルーカスは看護婦を呼ぶと傷を観察し始めた。まず、股間からだ。両足を広げて、膝を立てるようにいわれた。
 これは、とにかく恥ずかしかった。男だったとき、別の男に股間を見せるなんて、絶対いやだった。真二と風呂に入った時だって見せたことはなかった。ペニスの大きさに余程自信があれば別だけど。女になった今、ドクターとはいえ今日初めて出会った男性に局部を覗かれているのだ。ぼくは二重の意味で、恥ずかしさでいっぱいだった。
 「うん、傷の状態はまずまずだ。ドレーンはもう抜いておこう。人造腟の詰め物は三日後に抜くからね。いいかね」
 ぼくは、返事ができなかった。ドクター・ルーカスが局部を消毒しているらしいのだが、ビリビリとひどく痛くてたまらなかったのだ。消毒が済んで足を伸ばしても、しばらくじんじんしていた。
 「下腹部の傷は、まったく問題ない。それから、胸の圧迫はもう止めよう。ジャッキー、あとでマッサージのやり方を教えてやってくれ。腋の傷も良好だ」
 胸の包帯が取られると、こんもりと盛り上がった胸が見え、圧迫感がちょっと軽くなった。母や圭子姉さんの胸を見たことがあるが、正面からしか見たことがない。自分の大きくなった胸を上から覗くというのは何だか変な感じだ。ドクター・ルーカスはホルモン剤によりもう少し大きくなるだろうと言った。どんな感じになるのか想像もできない。
 顔の包帯も取られ、ややすっきりしたが、こちらもまだ腫れぼったい感じだ。
 「まぶたの腫れがややひどいが、まあいいだろう。感染の徴候はない。経過は良好だよ。ジャッキー、塞栓防止用のストッキングももう要らないから、脱がしてあげなさい」
 何だろう?その、何とか言うストッキングは? ぼくはメモに質問を書いた。
 「ああ、これのことかね? 手術後に安静が続くと、足の静脈に血栓、血の固まりだな。これが出来て、静脈が炎症を起こすことがあるんだ。しかもこの血栓が血流に乗って動いて、肺に詰まると肺梗塞と言って、命に関わる合併症に繋がる危険もあるんだよ。そのストッキングは血栓予防のために穿かせてあるんだ。判ったかね?」
 ストッキングが脱がされ、足の圧迫が取れるとすごく楽になった。
 「日が経てば、ほかのところもどんどん良くなっていくよ。日にちが薬だよ」
 ドクターが出て行くと、あんなに食欲がなかったのに急におなかが空いてきた。ジャッキーに昼間の仕打ちを謝って、遅い昼食を摂った。


 翌日、ホルモン剤を持って、内分泌治療担当医がやって来た。
 「おはよう、ミユキ。ドクター・ルーカスから聞いていると思うが、今日から君にホルモン剤が処方された。ぼくは、内分泌治療の担当をしているドクター・ワトソンだ。よろしく」
 ミユキと呼ばれることにはまだ違和感を覚えるが、とりあえずメモを使ってよろしくと書いた。
 「君に処方されたホルモン剤は、プレマリンという天然型結合女性ホルモンだ。二・五ミリグラムを毎日服用してくれ。しばらくすると君の体にいろいろな変化が出てくる。君は若いし、去勢してあるので効果はかなり顕著に現れるはずだ。まず、乳房が発達する。君はインプラントを入れていると聞いたが、乳房が今よりひとサイズは大きくなるだろう。
 次に脂肪のつきかたが変わって二の腕や下腹部、殿部に脂肪が移行し、顔も体つきも丸くなる。そして髪の毛は濃くなる。ひげや胸毛は逆に薄くなる。君は元々薄いので、関係ないかもしれないね。陰毛も薄くなってダイヤモンド型になる。トレーニングしなければ筋肉がしだいに衰えて力が弱くなる。それから、体臭が柔らかく、いい感じになる。これは体臭が強い我々白人にいえることで、君たち日系人は体臭がそう強くないので、あまり感じないかもしれないよ。ほかに、気分が不安定になりやすいので、自分の感情をきちんとコントロールすること。あまりひどい欝状態だと判断されたら、抗鬱剤は処方されるだろう。
 とりあえず、以上だ。何か質問はあるかね。何? いつまで飲めばいいかって。もちろんずっとだよ。君には卵巣がないからね。もう質問はないね? それでは、また」
 ドクター・ワトソンと入れ替わりにジャッキーがやってきた。
 「ミユキ、どう? 調子は?」
 ぼくは、OKサインを出した。今日から声を出していいとは言われているが、ドクターワトソンが来た時も恐くて声を出せなかった。声が出なかったらどうしよう。
 「元気なようね。乳房のマッサージは昨日教えた通りにちゃんとやってる? そう、OKね。傷はもう痛くないのね。そろそろ歩きましょう。今日で術後五日目よ。あなたは、三日間意識が戻らなかったから遅れているけど、普通は術後二日目から歩き始めるのよ。さあ、頑張って起きて! わたしが手伝ってあげるから」
 ぼくは、おしっこの管が入っているからと断ろうとしたが、ジャッキーは強引だ。おしっこの管を連結されたバッグから外すと、ぼくの手をひいてベッドから起こして座らせた。頭がふらふらする。天井がぐるぐる回っている。しばらくすると、ジャッキーは立ち上がるように命じた。ぼくはよろけるように立ち上がった。痛い。痛くて堪らない。しかも下半身に力が入らず、いまにも倒れそうだ。それに股間に何か挟まった感じで、気持ちが悪い。ドクター・ルーカスが人造腟の中にガーゼを詰めてあると言っていた。そのせいだろう。ぼくは幻暈でそのままベッドに倒れ込んだ。
 「だらしがないのね、若いくせに。じっとしていればよけいに悪いのよ。ひと休みしたら、もう一度やってみるのよ」
 ぼくは、ベッドの上で喘いでみせたが、ジャッキーの職業意識には頭が下がる。十分後ぼくは再びベッドサイドに立っていた。今度は少し楽に立てた。
 「ほら、やればやれるじゃない。次は午後やりましょう。明日には歩きましょうね」


 まったくジャッキーのお陰だ。今日はひとりで歩けた。窓際まで行って外の景色を眺めてみた。青く澄んだ空に雲がぽかりと浮かんでいる。通りを見下ろすと車や人がまるで蟻のように動き回っている。こうして外の景色をゆっくり眺めるのは何日ぶりだろうか? 安堵が広がる。しかし、股間は相変わらず気持ちが悪い。
 声が出せるようになった。「あー、あー、あー。あいうえお。本日は晴天なり」と意味のない言葉をしゃべってみた。トーンが高くなっているようだが、自分ではどんな声になっているのか良く判らない。
 そう言えば、自分で聞く声は頭蓋骨の影響で違った声に聞こえると何かの本に書いてあった。録音して聞いてみればいいんだと気がついて、ウォークマンを取り出して録音し、自分の新しい声を聞いてみた。確かにトーンがかなり高くなっている。以前の自分の声とはぜんぜん感じが違う。圭子姉さんの声とかなり似ているようだ。
 そうこうしているうちに、便がしたくなってトイレに入って便器に腰掛けた。
 「かなり痛いと思うわよ。済んだら、呼んでね。消毒しなければいけないから」
 かなりなんてものじゃなかった。その上、出そうなのに痛くて出ないのだ。女は出産のとき痛いというけれど、もっと痛いのだろうか? とにかく今まで経験したことのないようなひどい痛みだ。
 十五分頑張って、ようやく少し楽になったが、便器の中は血だらけになってしまった。
 「どう、もう済んだ?」
 「済んだけど、拭かなくちゃ。ちょっと待って!」
 「前から後ろに向かって拭くのよ。傷が不潔になるから。トイレットペーパーで拭いたら、右の棚にウエットティッシュがあるから、それでもう一度拭いて! それには消毒薬が染み込ませてあるの」
 ジャッキーに指示された通り、肛門をきれいにすると、ジャッキーに支えられて、ようやくベッドに辿り着いた。
 「痛くてたまらないよ。何とかして」
 「消毒するまで待って。はい、足を広げて、膝を曲げて!」
 恥ずかしいどころではない。痛くてたまらない。ジャッキーが局部を消毒していたが、痛みで麻痺し、触っているのも良く判らないくらいだ。
 「まさに産みの苦しみだね」
 「いい経験したわね。わたしは経験ないけど。はい、お薬。ところで、ミユキ。あなたの声、とても魅力的だわ。」
 「ありがとう」
 「だけど、しゃべり方が男ね。もっと女らしいしゃべり方をしないとおかしいわよ」
 「女らしいしゃべり方なんて良く判らないよ」
 「あら、あなた。手術前はどうしてたの。そんな言葉で女として暮らしていたの?」
 ジャッキーはぼくの事情を知らない。彼女にとってぼくはただの性転換者に過ぎない。この先気をつけていないと、どんな所からぼろが出るかもしれない。
 「言葉づかいと意識は別だよ。ぼくは生まれたときから、自分は女だと思っていたけど、しゃべり方は見た目に合わせていたからね」
 ジャッキーは首をかしげていたけれど、納得してくれたようだ。
 「だけど、今は見た目は女よ。しゃべり方を変えなくちゃ」
 「そうだね、気をつけるよ。気がついたら教えて」
 「判ったわ。どうしても治せなければ、退院したあとスピーチテラピーに行くといいわ。喉の手術をしてない人が多く通っているから。それと女の友達をたくさん作るのね。それが簡単で、安上がりだわ」
 「ありがとう。参考になったよ」
 何とかごまかせた。だけど、ジャッキーの言うようにしゃべり方を変えなければ、いけないだろう。母の、そして圭子姉さんのしゃべり方を思い出そうとした。


 初めての診察から三日後、ドクター・ルーカスが約束通りやってきた。今日は人造腟の中の詰め物を抜く予定だと言っていた。
 「ミユキ、調子はどうだい?」
 「快調です、ドクター。声の具合もいいみたいです」
 「うん、かわいい声だね。手術は大成功だね」
 「ドクターのお陰です。今日は人造腟の中に入れた詰め物を抜くとおっしゃってましたよね?」
 「そう、それと抜糸をしよう。この前のように足を広げて、膝を立ててごらん」
 今日は、初めてドクター・ルーカスの診察を受けたときほど恥ずかしくなかった。ぜんぜん恥ずかしくないというと嘘になるけれど・・・・。
 「先に下腹部の傷の抜糸をしておこう。恥骨に縫い付けた分は一週間後に抜糸するからね」
 「はい、お願いします」
 「陰唇の状態は良好だ。陰唇の抜糸をするよ。ちょっと痛いかもしれんよ」
 「はい、覚悟してます」
 チクチクとした痛みがあったが、予想したよりも軽かった。人造腟の中の詰め物を取るときは痛いのだろうか? 最後にしたのは、もしかしたらかなり痛いのかもしれないなと考えていた。初めて便が出た時より痛いのだろうか?
 「それじゃあ、腟の中の詰め物を抜くからね。動かないようにね」
 ぼくは痛みで、泣き叫んでしまった。おなかの中のものが全部下の方へ引っ張り出されそうだ。
 「終わったよ。まだ、痛いかい?」
 ぼくはまたしてもしばらく物が言えなかった。五分ほどしてようやく言葉が出た。
 「だいぶ治まったけど・・・・」
 「中を洗浄するから動かないように」
 かちゃかちゃと音がして、人造腟の中に器具を入れて洗っているらしいが、今度は痛みで麻痺しているらしくほとんど何も感じなかった。
 「何かまだするんですか?」
 「こちらは痛みがひくまで少し待とう。先に腋の下の抜糸をしておこう。うん、乳房の感じは良いね。よくなじんでいる。妊娠線も出ていない。マッサージは一日一回で良いよ。もう一週間ほど続けたら終わりだ」
 「はい、判りました。ドクター、妊娠線って何ですか」
 「インプラントのせいで、皮膚が無理に引き伸ばされると皮膚にひびが入ったみたいになることがあるんだ。一般的には、妊娠した時に乳房や下腹部の皮膚が引き伸ばされてすじが出来るんだが、これを総称して妊娠線と言うんだ。うまくマッサージしないと同じ原理でいわゆる妊娠線が出来るんだよ。出来ると見た目が良くないからね」
 「良かった。妊娠なんていうからびっくりしましたよ」
 「ははは。それじゃあ、次ぎは顔の包帯を取ろう。うん、だいぶ腫れがひいたね。目を瞑って! まぶたはいい感じだ。ここは吸収糸といって融ける糸で縫ってあるから、抜糸しなくていいからね」
 それから、ドクター・ルーカスは上唇と下唇の内側の抜糸をした。
 「治癒状態は非常に良好だ。傷もほとんど目立たない。さすがに若いだけある」
 「ドクターの腕ですよ」
 「お世辞はいらんよ。わたしはこの道のプロだからね。それでは、最後の処置だ。痛みはもう収まったね」
 そういって、ドクター・ルーカスは鞄の中からシリコンの棒が何本か入ったケースを取り出した。
 「これは、前回君に手術の説明をしたときに必要だといった腟拡張の道具だ。今から、やり方を教えるからきちんと覚えるんだ。一回しかしないからあとは自分だやるんだ」
 「はい」とはいったものの、たった今人造腟の中の詰め物を抜いたばかりなのに、もうそんな硬そうなものを入れて良いのかと思った。そんな思いがあるとも知らず、ドクターは続けた。
 「見えるかい。最初にこのKYジェリーをチューブから出して拡張器の先端にたっぷり塗るんだ。そして、腟の入り口に当てて、自分のへその方向、後ろから少し前へ向かう感じで無理をしないようにゆっくり入れるんだ。いいかい」
 「判りました」
 「まず、一番細いのを入れる。どうだい」
 「大丈夫です。少し痛くて、変な感じだけど」
 この感触は、何と説明したらいいかよく判らない。ぼくが子供の頃、熱を出したときに母が熱さましの座薬を肛門に入れてくれたことがあった。それと似たようなちょっと表現できない感じだ。
 「ひとサイズ大きいのを入れるよ。どうだい?」
 「痛い! かなり痛いです」
 ドクターは、シリコンの棒をぼくの腟の中で、回したり、奥を突いたりしているようだ。痛いし、気持ちの良い感じではない。ドクターはシリコンの棒をぼくの中から抜いてじっと観察したあと、もうひとサイズ大きな棒を取り出した。
 「まさかそれを入れるんじゃないでしょうね、ドクター」
 「これじゃないと拡張の意味はないよ」
 「ドクター、無理です。止めてください! さっきのでもかなり痛かったのに、絶対無理です」
 「心配しなくても大丈夫だよ」
 ドクター・ルーカスは、ぼくの願いを無視して、手にしたシリコン棒をぼくの中へ入れ始めた。痛くて痛くて涙が出た。
 「うん、これで良いようだ。いいかい。このサイズで、毎日四回以上、拡張をするんだ。KYジェリーをたっぷり塗れば大丈夫だ。もう一度やろう」
 止めてくれという元気もなかった。
 「こんな風に左右にゆっくり回しながら入れるんだ。五インチのところまで入れたら、この赤い印のところだ。少し奥のほうへ押してみる。突き当たる感じがしたらOKだ。五インチまでは必ず入れるんだよ。そうしないと腟の奥行きが浅くなってしまうから」
 「セックスなんかしたくないから、こんなことしないでいいでしょう?」
 「いや、君の長い人生を考えれば、必要な作業だよ。今やっておかないと、人造腟が萎縮してからでは遅いんだ。判ったね」
 ぼくはしぶしぶ承諾した。毎日こんなことを四回以上もやらなきゃならないなんて。セックスしなけりゃいいんだともう一度心の中で呟いた。
 ドクター・ルーカスが帰った後、ぼくはパンツを下げてみた。パンツ? 今下げたのは、生理用のパンツだ。いやパンティーかな。ドクター・ルーカスが診察後に穿かせていったものだ。それを下げて、ガーゼを剥いで手鏡を持って自分の局部を観察してみた。
 ペニスも睾丸もない。赤紫に腫れ上がって、熟れたあけびのような陰唇がふたつ向き合って付いている。その一番上に大豆くらいの大きさをしたルビー色の隆起がある。これがクリトリスらしい。一番下にわずかに開いてみえる暗い穴が見える。人造腟の入り口だろう。クリトリスの隆起と膣の穴の中間のやや膣よりにフォーリーカテーテルが覗いている。この先に尿道口があるはずだ。判っていたはずなのに新ためて失望と絶望がぼくを襲って来て、涙が零れた。


 今朝、ジャッキーがやってきてフォーリーカテーテルを抜いてくれた。
 「今日から、トイレに行って、おしっこしてね。立ってするんじゃないよ。座ってするのよ。判っているわね」
 「判ってるよ。座ってすればいいんだね」
 「初めは散水機みたいになるわ。ヘリコプター現象って言われているの。この手術を受けた人は大抵そうだから気にしないでね。そのうち狙い通りにできるようになるわ。おしっこしたら、ビデで洗って、棚のウエットティッシュで拭いておくのよ。いいわね」
 「めんどくさいんだね」
 「まだ感染する可能性があるよ。きれいに治るまではきちんと処置しておいた方がいいわよ」
 二時間ほどして尿意を催し、トイレに行っておしっこした。散水機にはならず、狙い通りと言うか、きちんと出来た。けれど、不思議な感じがした。男の時とぜんぜん違う。洗って、拭いてトイレを出ると、ジャッキーが大きな箱を持って待っていた。
 「管がみんな抜けたから、今穿いている生理用のパンティーでもいいけど、今日からは普通のパンティーが穿けるわ。買ってきておいたのよ。穿く前に、傷の処置の仕方を教えるわ。今みたいにトイレに行ったあととか、お風呂に入ったあとには必ず消毒するのよ。このベータダイン、消毒用の薬が入ったジェリーね、これを指で傷に塗るの。さあ、やってみて」
 「指は消毒しなくていいの?」
 「泥で汚れていれば別よ。そうでなかったら、石鹸で洗っておくだけでいいわ」
 「触るとまだ痛いよ」
 「だんだん痛みも軽くなってくるわ。他人に塗らせるより、自分で塗った方が痛くないわよ」
 「そうだね。・・・・はい、塗ったよ」
 「それから、大き目の生理用品ね。これをパンティーの真ん中あたりにくっつけておくの。この辺りね。生理用品がずれないようにパンティーを穿いて、それでおしまい。さあやって!」
 「生理用品なんて一生無縁だと思っていたよ」
 「これはあと十日くらいね。そのあとあまり汚れなくなったらパンティーライナーにしてもいいわ」
 「パンティーライナーって何?」
 「女性はひとによってはちょっと下り物があるの。パンティーが汚れるから着けておくの。知らないの?」
 「初めて聞いた。女は大変だね」
 「あなたもその仲間入りよ。あなたも一生必要になるかもしれないわよ。さあ、パンティーを穿いて!」
 ジャッキーが袋を開けて、パンティーをぼくに差し出した。ウエストにレースのついた白のシンプルなデザインだ。
 「ちょっと小さいんじゃないの。入るかなあ」
 「大丈夫。女のパンティーは男のと違って良く延びるから」
 片手で握ると隠れてしまうようなパンティーがどこまでも延びるのではないかと思うくらい延びてぼくの腰を包んだ。
 「女のパンティーって穿きごこちが抜群だね。ぴったり腰を包み込む感じだよ。こんなの穿いたことがないよ。生理用品のごわごわがなくなったら、もっと気持ちよさそうだよ」
 「そうでしょう。次はブラジャーよ。あなたは、B70だと思ったけどみっつのサイズを持ってきたわ」
 「どうやってつけるの? ぜんぜんわからないよ」
 「あなた、ぜんぜん勉強してないのね。こんな人初めてよ」
 またばれそうなことを言ってしまった。
 「心は女だったけど、ずっと男の格好をしていたから」
 「そうだったわね。しょうがないわね。留め金を後ろで架けるのは慣れないとだめだから、ブラを腰に回して! そうそう。それから、前で留め金を架けるの。それでいいわ。グルっと回して! それから上にずらしてカップに乳房を入れるの。ストラップを通して! そう、その肩紐よ。どう? 具合は?」
 「ちょっときつい感じだよ」
 「少しきつい方がいいのよ。うん、ちょうどいいみたいね。万歳してみて! ぴったりよ。それでいいわ」
 「ほんとにこれでいいの? やっぱりきついような気がするけど」
 「それくらいでいいのよ。緩いとサポートにならないから。ほかのふたつは返して、今しているのと同じサイズの物と取り替えて来てあげるわ」
 「さっきお風呂に入ったあととか言ったね。いつから入れるの?」
 「あら、言い忘れてたわ。今日から入っていいのよ。せっかく消毒したから午後にしましょう」
 午後ジャッキーが約束したからと言って部屋にやってきて、風呂を溜めてくれたのは二時半ごろだった。ちょっと熱めのお湯が傷にぴりぴりしみたが、久しぶりの入浴は本当に気持ちよかった。こんなにリラックスして風呂に浸かったのは何日ぶりだろう。ホテルではずっとシャワーだけだった。
 風呂から上がると鏡で自分をまじまじと見てみた。顔は昨日よりも腫れが引いて、ずいぶん見やすくなったが、まだ内出血の跡がどす黒く残っている。圭子姉さんに似てきたな。そう思うと少しうれしかった。乳房はやや小ぶりだけれど、いい形に落ち着いている。ぼくはもともと筋肉質ではないから自分の姿にあまり違和感を覚えない。
 風呂から出ると、午前中にジャッキーから教わって通りに、傷にベータダインを塗って、生理用品をあてたパンティーを穿き、ブラジャーをして病衣をつけると快い午後の昼寝を取った。

10

 手術後、最初に自分の股間を見た時は、もう二度と見たくないと思った。あの時のショックは今でも忘れない。けれど、今は腫れもひき、毛が生えてきてダイヤモンド形の繁みの中に隠れて、醜い感じはなくなった。女の陰部が醜いという意味じゃないけど。もう消毒も要らなくなったし、パンティーライナーなしにパンティーが穿けるようになった。
 あんなにいやだと思ったのに、ぼくは腟拡張を一日四回欠かさずやっている。最近はあまり痛まなくなり、出し入れがずいぶん容易になった。ほかの傷もほとんど癒え、まったく痛みはない。顔の腫れと内出血もきれいに消えた。鏡で自分の顔を見てみて圭子姉さんにそっくりなのに驚かされる。姉弟なのだから当たり前なのかもしれないけれど。
 乳房は生まれた時からずっとそこにあったかようにバランスが良くなっている。ホルモン剤のせいかちょっと大きくなって来たようにも感じる。ジャッキーが買ってきてくれたブラジャーがだんだんきつくなっていくようだ。
 鏡に映った自分の姿を見て、ウエストがちょっと太いなと気になり始めた。なんだかバランスが悪いのだ。そこで、ぼくは腟拡張の前に必ず、体操をするようにし、ダイエットを始めた。手術前はぼくのウエストは六十八センチだった。術後計った時には手術の影響で痩せて六十六センチだった。まだまだ太い。少なくとも六十二センチにしようと思っている。もっと細くなればさらにいいけど。スタイルを良くしようなんて、ぼくの心の中までも女になってきたのだろうか? 誰に見せるわけでもないのに。
 ジャッキーがやって来て、そろそろ退院が近いことを教えてくれた。
 「退院するのはいいけど、化粧もしないで、そのままの顔で帰る気なの? ミユキ」
 「いけないかな」
 「化粧は女の第二の肌よ。あなたはそのままでもじゅうぶん美人だから、化粧しなくてもいいけど、化粧すればもっと奇麗になるわ」
 美人と言われてとてもうれしかった。もっと奇麗になれるのなら化粧してみようか、心が動かされた。化粧したらどんな風になるか試してもみたかった。
 「やってみるよ」
 「できるの? 女について何にも知らないから、化粧なんてできないと思ってたわ」
 「化粧だけはなんとかできるんだ! 姉がいるからね」
 「へえ、そうなの。眉毛は自分で処理できるの?」
 「眉毛はあたったことないから、自信ないよ。やってくれる?」
 「いいわよ。どんな形の眉毛にする? それともわたしに任せる?」
 「この写真の女性と同じにして!」
 「この女性、良く似ているけど、あなたじゃないわよね。隣があなたね。この女性はお姉さん? それとも妹さん?」
 「姉さんだよ。ぼくは姉さんを愛しているんだ。姉さんそっくりになりたいんだ。お願いだよ!」
 「判ったわ。写真を良く見せて」
 眉毛を整えてもらって、ぼくはジャッキーにアドバイスを受けながら化粧を始めた。化粧道具はジェーンのものだ。例のボストンバッグとハンドバッグが病室に届られていたのだ。それとあのピンクのストライプの入ったスニーカーも。
 「結構うまいのね。見直したわ。それにほんと! 奇麗だわ、ミユキ」
 コンパクトの鏡に映った顔は圭子姉さんそのものだった。突然涙が出た。もう会えないと思うとあとからあとから涙が溢れた。
 「どうしたの、ミユキ。何か悲しいことを思い出したの?」
 「なんでもないよ、ジャッキー。しゃべりかた変えないとね」
 ぼくは涙を拭いて、ジャッキーに微笑みかけた。
 「涙の拭き方覚えないと、化粧が台無しよ」
 「判ったよ。気をつける」
 「ところで、顔はばっちりだけど、そのぼさぼさの頭を何とかしないといけないわね。わたしがカットしてあげるわ。バスルームに行って!」
 「カットなんかできるの?」
 「任せて!」
 ジャッキーは自分のバッグからはさみと櫛を取り出して、ぼくの髪をカットしてくれた。洗髪をして、ブローすると見違えるようになった。
 「うまいもんだね。まるでプロだよ。はさみと櫛なんかいつも持ってるの?」
 「ハイスクールを出てから三年くらい美容師をしていたのよ。はさみと櫛はいつもバッグの中に入れてあるわ。昔の癖よ。ちょっと理由があって、美容師をやめて看護婦になったの」
 「ふうーん。そうなの。この髪型、広末涼子みたいだ」
 「誰? その人」
 「二,三年前から人気の出た日本のタレントだよ。ちょうどこんな髪型なんだ」
 「気に入った?」
 「うん、申し分ないよ」

11

 ドクター・ルーカスが一週間ぶりにやってきた。彼はクリント・イーストウッドに似たちょっと渋くとても素敵な紳士だ。若い女性の患者が治療してくれたドクターと恋に落ちる話をよく聞くが、彼は四十七歳。ぼくの父親より年上なのだ。しかもぼくは女になってからまだひと月もなっていない。恋をするには未熟すぎる。
 「髪を切ったんだね、ミユキ。素敵だよ」
 「ありがとう、ドクター。ジャッキーがカットしてくれたんです。とても気に入ってます」
 「よく似合うよ。さあ、診察をしよう」
 ドクター・ルーカスはぼくをすみからすみまで診察した。
 「パーフェクトだ、ミユキ。今のところはね」
 「今のところ・・・・ですか?」
 「君は今のままでも充分女としてやっていける。」
 「何か問題があるんですか?」
 「君は美人だし、スタイルも良い。いや、もっとよくなるだろう。君が望むなら、陰唇形成術を受けることを薦めるよ」
 「陰唇形成術? それはなんですか?」
 「外陰部の外観をより女性のものに近づける手術だ。この手術を受けたら、君が男だったなんて誰も気づかなくなるよ。たとえ明るいところでセックスをしてもな」
 「手術した方がいいですか?」
 「完璧を期すならね」
 「手術をするのなら、退院が延びるんですか?」
 「いや、手術は半年先だ。そう、来年の三月ごろがいいだろう」
 「それじゃ、退院できるんですね?」
 「君が望むなら、今すぐ退院してもいいよ」
 「ほんとですか? うれしいな。でも・・・・」
 「おう、そうだったな。ベイカー捜査官に報告しておくよ。できるだけ早く退院できるように手配してもらおう。君の場合は、わたしだけの判断で退院させられないからね」
 「お願いします」
 「退院したら、4週間おきに通院してくるんだよ。毎月のチェックが必要だ」
 「判りました。どうすればいいんですか?」
 「退院が決まったら、次にこの病院に来る日を指示するよ。ドクター・ベントの外来にくるんだ。来たら、ドクター・ベントからぼくに連絡を入れてもらうことになっている。わたしのオフィスに来てもらってもいいんだが、今回のことは秘密扱いだから、君とわたしが直接コンタクトしない方がベターだろう。判ったね」
 「はい」

12

 ドクター・ルーカスの診察がすんで、退院後のことをあれこれと考えていると、午後になって、ジャッキーが大きな小包と封筒を持ってやって来た。
 差出人はジュンコ・ヤマギシ。ベイカー捜査官からだ。封筒を破ってみると、手紙と身分証明書、三枚のキャッシュカード、住所を書いたメモが出てきた。
 「ミユキ、退院できるそうだね、おめでとう。君はたいそうな美人だとドクター・ルーカスから電話で聞いたよ。君に会って確かめられないのが残念だ。
 君も知っているかもしれないが、レオンたちの判決が出た。レオン・スミスは殺人と麻薬密売の罪で懲役二十五年、アルバート・キンスキーは同じく懲役十年の実刑判決だ。まったく君のお陰だよ。
 レオンはヘビみたいにしつこい男だ。例の遺骨を君の家族に届けた時、やつの手下が日本までついてきたんだよ。君の葬式が済んで、戸籍が抹消されたのを確かめるとようやくレオンのもとへ報告すると言う念の入れ方だ。だから、もう安心だ。君はやつ等から狙われることはない。
 そういうことだから、君は幽霊になってしまった。そこで、前から約束していた身分証明書を作っておいた。君の今回の功績を考え、上層部に掛け合って君の身分証明書の性別をF、女性にしてもらった。
 君は、サンディエゴ在住のタカハシ夫妻の養女ということにしてある。だから、君は女性として結婚することが可能だ。これがわたしたちの君へのせめてものお詫びとお礼の印だ。ケンジ・タカハシは日系企業の重役で、地元では名士で通っている。君は両親を事故でなくし、天涯孤独と言うことになっている。夫妻には子供がないから可愛がってくれると思うよ。正確な住所を書いたメモが、封筒の中に入っている。
 キャッシュカードには、君の名義でそれぞれ二十万ドル合計六十万ドルが入金されている。自由に使って結構だ。それは合衆国からのお礼だ。タカハシ夫妻には両親の死亡保険金ということにしてある。
 病院にはしばらく通わねばならんらしいが、病院へ行く時はミユキ・ヤマギシ、サンディエゴに居る時はミユキ・タカハシだということを忘れないように。
 一緒に送った小包には、似合うかどうかわからんが、ドレスが入っている。もしよければ、退院の時にでも着てくれ。もし気に入らなかったら、捨ててしまってもいい。君に連絡するのは今回が最後だ。今後は何があっても連絡はしない。
 君には感謝している。体に気をつけて。幸運を祈る。ベイカー」
 身分証明書を見てみた。ミユキ・タカハシ 一九八一年三月十二日生まれ、女性になっている。ぼくは一九八二年二月十四日(バレンタインデー生まれ)だから、一年サバを読んだことになる。写真は圭子姉さんのものを使ったのだろうか? ぼくの持っていた写真の一部を、コンピューターを使って合成したものらしい。髪の毛が今のぼくより長い。自分の顔を鏡に映してみて、これなら自分のものだと自信を持って言えるなと思いながら、いつまでも証明書を眺めていた。

13

 身分証明書とキャッシュカードをハンドバッグにしまって、ベイカー捜査官からの手紙を細かく破り捨ててから、ベイカー捜査官からの小包を開けてみた。黒のスリップドレスと言うのか、薄いドレスが入っていた。細い肩紐が申し訳程度についている。乳房が半分以上出そうで、普通のブラジャーはできそうもない。もしかしたらブラジャーをしないで着るものかもしれない。しかもずいぶん丈が短い。胸にあててみたけど、太股の中ほどまでしかない。こんな服を着て油断して座ったらお尻が見えてしまいそうだ。いくらなんでもこれを着て外に出る勇気はない。
 他に、丈の短い白のタンクトップとベルベットのホットパンツが入っていた。こんな服を着たらへそが丸出しだ。ベイカー捜査官はどういう趣味をしているのだろう? そう思いながら、小包の袋を捨てようとしたら、底に手紙が入っていた。封を開けてみると、ベイカー捜査官からの追伸らしい。
 「君はわたしの趣味が悪いと思っているだろう。わたし自身もそう思うよ。ただ、この二着の服を選んだ理由は、君に君が女であることを強調してもらいたいためだ。Tシャツにジーンズなんて格好は当分しない方がいいと思う。君が女だと認められるまではね。その二着はちょっと極端だったかもしれないが、女らしい服装をすることを薦めるよ。君の安全を期すためにね。ベイカー」
 そういう意味だったのか。そうだろうな。だけど、女になりたてのぼくにこんな服は着られないよね。手紙を破り捨てながら、ベイカー捜査官の気配りに感謝した。
 ジャッキーが部屋に入ってきて、脇から覗き込んだ。
 「素敵なドレスね。だけどわたしでも着るのはちょっと勇気が要るわ。ねえ、ちょっと着てみせて」
 「いやだよ。こんな服、着られないよ。恥ずかしいよ」
 「外に出るわけじゃないから、いいじゃないのよ。ねえねえ、着てみせて!」
 「あっち向いててくれないかい? ジャッキー。ところで、この服、ブラジャーはどうするの?」
 「しなくていいんじゃないの?」
 パンティー一枚になって、頭から被って着てみたが、薄くて軽いものだから着た気がしない。
 「ファスナー、上げてくれるかなあ」
 ジャッキーに背中のファスナーをあげてもらうと、鏡に映してみた。恥ずかしそうにしている女の子が写っていた。
 「良く似合うわ。もうちょっとウエストが細かったらいいわね」
 「まるでパンティー一枚でいるみたいだよ。やっぱりこれは着て出られないよ」
 「ホットパンツの方はどう?」
 「これもちょっとねえ・・・・」
 ホットパンツはともかく、タンクトップが着られなかった。
 「そうそう、ドクター・ルーカスから明日十時に退院していいと連絡があったわ。次の診察は、十一月十五日、予約は済んでいるそうよ」
 「十一月十五日だね。忘れないようにするよ」
 「もし、都合が悪くなったら、連絡するのよ」
 「うん。いや、はい」
 「ところで、退院する時着て出る服があるの?」
 「この服だけだけど、これを着て外に出る勇気はないよ」
 「靴は?」
 「靴は・・・・」
 ロッカーの奥に、例のピンクのストライプが入ったスニーカーがあった。
 「スニーカーならあるけど」
 「うーん。もっといいのを用意した方がいいわね。預かっていたお金がもう少しあるから、あなたに似合いそうな服と靴を買ってきた上げるわ。ハイヒールは履ける?」
 「あんまり高くなければ大丈夫と思うけど」
 「そう、それじゃヒールが二インチくらいのを買ってきてあげるわ。待っててね」

 待っている間にタンクトップとホットパンツを着てみたが、やっぱりこれもとても外には着て出られそうもない。
 一時間くらいすると、ジャッキーが両手に荷物を抱えて部屋に戻ってきた。
 「気に入ってもらえると思うけど」
 スカイブルーが基調で細い黒の横縞の入った、襟首にレースの飾りの入ったツーピースで、膝上丈くらいのとてもかわいらしいデザインだ。おしゃれな絹のブラウスも買ってきてくれた。靴は、服に合わせた同じくスカイブルーのシンプルなデザインだ。
 「ジャッキー、ありがとう。君はセンスがいいよ」
 「気に入ってもらえると思ったわ。それにイヤリングとネックレスを買ってきてあげたわ。女には必需品よ。さあ、着てみせて!」
 パンティーストッキングはボストンバッグに残っていたのを穿いた。ブラウスを着て、ツーピースを身につけて、くるっと回ってみた。
 「良く似合うわ。さっきのスリップドレスといい、あなた、着こなしが上手ね。女物の服着たことがあるの?」
 「ちょっとね」
 白状しよう。女装は得意なのだ。子供のころ圭子姉さんと双子の姉妹と良く間違えられたと言ったっけ。小学校三年まで、ぼくは髪を伸ばして、女の子の服を着せられて育ったのだ。だから姉妹と間違えられたのだ。「昔、武士の子供は元服するまで女の子の服を着ていたのよ」と母が言っていた。真意はわからないけど。
 小学校四年になって、父が転勤になったのを機会にぼくは男の子に戻った。だけどぼくは男の子の服装の方に違和感があって、圭子姉さんの服を持ち出しては隠れて着ていたのだ。中学校になって、とうとう圭子姉さんに見つかってしまったが、姉さんは止めるどころか、父母に隠れて毎日のようにぼくを部屋に呼んでは女装させて楽しんだのだ。
 一緒に外出したことも一度や二度ではない。しかもぼくが男だと疑われたことは一度もなかった。
 圭子姉さんが短大に入って、化粧をし始めるとぼくにも化粧を教えてくれた。一通りの化粧なら独りでできるのだ。あの時、ベイサイドホテルから逃げ出す時、女装することを思いついたのは当然の帰結だったし、自信もあった。化粧をしたのは初めてではなかったのだ。ブラジャーのホックも背中で留めることだってできるのだけれど、ジャッキーの前では出来ない振りをしてみせただけだ。
 ただ、女装することは好きだったけれど、女になろうなんて思ったことは一度もなかった。だから、性転換されて女になってしまったと知ったとき、取り乱して泣いてしまったのだ。すぐに立ち直れたのは、女として生きていけるかもしれないという自信があったせいなのかもしれない。
 「ハイヒールは大丈夫?」
 「ちょうどいいみたいだね」
 「歩き方も違和感がないわね。あなたの問題は、しゃべりかただけね」
 「気をつけるわ。この格好だもの。女の子らしくしないとね」
 「あはは、急に変えるとかえっておかしいわ」
 「そう思うのは、ジャッキーだけだわ。みんな知らないんだから。今日からほんとに生まれ変わるの。本物の女に」
 「がんばってね」
 「はーい」
 ぼくはその瞬間からわたしとなった。



第二章終了