2013年03月05日 22時08分29秒 posted by uruseiblog

地球が作り上げた教え VOL1

テーマ:ブログ


ユダヤ傀儡で私を忌み嫌い付け狙っている人間達に加えて
自分達の加害行為の証拠隠滅部隊が存在していますし


自分達が罪を犯した事に対して、
それを反省し謝罪すると言う意識を持っている人間が
一人も居ないことだけは良くわかります。


この人間達はこれからも罪を犯しても
その証拠を消すことで自分達を正当化していくのでしょうか?


それとも組織がそれを命令しているのでしょうか?


その上に工作員の腹いせや遊びの道具にまでされているようで

掲示板では再びふざけた工作員達の私を馬鹿にした
アスキーアート(AA)貼り付けも始まっています。


脳機能低下に脳波動低下?(精神汚染)
そして尿漏れに寝ていて目覚ますと
トイレ妨害なのが性器への攻撃。


そして尿漏れ誘導攻撃に顔への関与も始まっています。


思考能力だけでなく
文章構成能力や言語機能が壊されている気配です。


やり口は創価学会広宣部でしょうね。



民族と宗教の接点や有志だと想像しています。


創価学会広宣部と統一教会が繋がっているのでしょうか?

幹部クラスだけではないのかもしれません。


ネットでは掲示板への書き込み規制に
ツイッター使用不可状態。


そしてブログ更新やウェブ閲覧時の磁力による
ウェブを開くことへの妨害まであります。


私の広報と情報収集がどんどんと制限されているようなものです。


時間が経てば地道に悪化していく。


それが地道であれば社会も異変とは感じない。


そんな意識を持って仕掛けているのでしょうし
半ばユダヤに心を売ったようなものだと思います。


今日はそんな組織の一つである創価学会や
法華経組織の中の


未だ正常な判断能力を持っている人間に
法華経と創造主の法の相違点を少し示してみます。


持っている思想を利用した状態でより正しい道へと進むための
理解のきっかけとして頂ければと思います。


思考を落としていますのでその辺はご了承ください。


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私は精神的に
この世の中のあらゆる誤った価値観を含んだ思想と対峙しています。


血や民族もそうですが、ユダヤ教も
フリーメーソンとして騙されて利用されている
人間達の思想も


そしてユダヤに利用されている創価学会・統一教会
その他の多くの宗教の思想も併せて
そこで人間を動かしているのは誤った価値思考だからです。


はっきりと気がついたのは
新興宗教の多くには、そこに生命の科学・創造主の法を
しっかりと思想の中の味付けとして取り入れられていて


それがそれぞれの宗教に信憑性を与える
原因ともなっている事です。


多くの思想を利用することを宣言していたユダヤが
独自に改造して魅力的に作り上げた思想を
この社会の中に大量にばら撒くことで


多くの人間を独自の支配下にある組織へと
誘導してきた言もはっきりと見えてきました。


この社会の中で今ではタブーとされている宗教の話を色々と取り上げて
創造主の法に照らして見つめてみたいと思います。


今日は”法華経”について
創価学会のサイトから引用して紹介します。


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人生のなかで出あう悩みや苦難はさまざまです。


そのなかには今世の自分自身の行動や判断が原因になって現れるものもありますが、
なかには、今世に原因を見いだすことができないものもあります。


“自分は何も悪いことをしていないのに、
なぜこのような苦しみを受けなければならないのか”
と思うような苦難に直面しなければならない場合もあります。


仏法では、このような苦難は、過去世において自分が行った行為(宿業)
の結果が今世に現れたものであるととらえます。


「業」とは、もともとは「行為」を意味する言葉です。
今世の幸・不幸に影響力をもつ過去世の行為を「宿業」といいます。
この宿業には、善と悪の両方がありますが、
今世の苦悩をもたらす過去世の悪業を宿業という場合が多いと言えます。


仏法では、“三世の生命”あるいは“三世の因果”を説きます。
すなわち、生命は今世だけのものではなく、過去世・現在世・未来世の三世にわたるものであり、
過去世の行為が因となって現在世の結果として現れ、
また、現在世の行為が因となって未来世の果をもたらすと見るのです。
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私達が学んでいる創造主の法における考え方と
仏教の”因果”の捕らえ方は勿論同じです。


ただ、それが課される事になる理由を”罰や報い”と捉えるのか、
”学ぶべき課題”と捉えるのかの差があるだけだと思います。


私達は半ば永遠の時を肉体を替えながら生き続けています。


その中で地球社会に住む私達であれば
創造主の法を理解して永遠へと進む事を誘導され続けます。


そのためにも、魂の実態に気がついていない私達が
行動の動機を自分の心、すなわちエゴに見出す事を止めて
魂の意識に従う事が求められています。


それを誘導しているのが創造主の法であり
カルマや業として私達に与えられる課題です。


誤りを誤りと理解できない状態であれば
それを理解するための機会を私達に与えようとするのが創造主の法であり、
仏教で言うところの因果の法則です。


私達は魂と言う意識の経路を理解するためにも
心に執着する事を抑える必要があり、


そのためにも創造主の法は、
私達が心に囚われる事を抑える術を学ぶために
学習の機会を与え続けるのです。


そしてその因となっているのが私達の行動であり
私達の想いであり、私達が罪と呼んでいる物です。


仏教で言うところの”苦しみ”や”煩悩”は、
私達の心(脳機能)が本来持っている本能的欲求と、
後の経験との兼ね合いで心のエゴとして作り上げた産物です。


私達が生まれつき持っている睡眠や食欲や性欲や
肉体保存のためのあらゆる欲求は、
それ自体は悪とは言えないと思います。


それを貪る事がなければです。


それは私達が肉体を維持し続けるために
必要な行動の動機につながるものだからです。


眠いと言う欲求や食べたいと言う欲求がなければ
私達は自分の身体の疲労や栄養低下を意識できず
気がつくと身体を壊してしまう事にもなりかねません。


そして自分の命を守ろうとする欲求も存在しているようで
これも同様に肉体を正常に維持しようとする
私達の脳機能が持っている本能だと思います。


更には私達が性欲を持っていなければ
今度は子孫繁栄がなされず、
人間はその数を減少させ続ける事にもなります。


本能的な機能の司る行動は
動物を見ていれば理解できると思います。


それは自己防衛本能と種族維持に不可欠なものに
なっていると思います。


しかし問題は私達の”心”が持っている
”自分を心地良く保ちたい”と言う欲があることと
その欲が際限がないことです。


そのために私達は抑制する事を覚えなければ
何事をも貪る事になりかねません。


更には私達が後天的に体験する事になる出来事と
私達の本能が結びついて新たな欲を作り上げている事です。


先日もこの話に関して室内で延々と”一人言”を語っていたのですが、


同じ食欲と言っても、白米を大量に食べることで
満腹を感じて満たされているうちは良いのですが


例えばそれが、それまで食べたことのない牛丼を食べて
それを美味しいと味覚が受け止め、それを心地良いと心が感じると


今度は同じ満腹感を得るだけでは満足ができなくなり
白米を満腹に食べただけでは満足できず
牛丼で腹を一杯に満たしたいと願うようになる事もあります。


心を司る器官が心地良い思いをした事で
私達の心は以前の状態では満足できなくなるわけです。


このように、私達の本能は体験により
別の価値観と結びついて変貌します。


心が心地良いと感じた体験が
本能と結びついて作り上げたのが私達の煩悩と言えます。


更に私達の心の際限のない欲求のために
もしもその後にステーキを食べる事を体験することで


今度はステーキを満腹に食べなければ
心地良いと感じることができなくなるかもしれません。


私達の煩悩は果てしなく膨らむ事になります。


こんな事があらゆる側面で起き続けているのです。


そしてこの社会の中では心地良い体験をするにはお金が必要な場合が多く、
それがお金に私達を執着させる原因ともなるのです。


一方では私達は外部から刺激を受けた時に
それに対して心を持って反応します。


私達の心の価値観がその刺激をどう受け止めるかで
それは私達にとって苦痛にも喜びにもなるのだと思います。


例えば自分が可愛くて仕方のない私達は
自分を批判する言葉を刺激として受け止めれば
それを不快と感じる事になります。


そのような外部からの刺激に対して心が不快感を示す事。


その反応が極端になった時に
それは私達に苦痛として認識される事になります。


つまり”苦”とは
心が外部から刺激を受け止めた時に
私達の持っている価値観に照らして
それを不快と感じる事だと認識する事ができます。


これらが苦であり煩悩であり
それらを排除することが”涅槃寂静”であると認識できます。


私達が心地良い体験をしたことで
その心地良さを忘れる事ができずそれに執着すること、


心が際限なく心地良さを求めること、


そして私達が自分可愛さに自分中心の価値観を作り上げている事が
私達に苦痛や不快や煩悩を齎す原因となっているのだと
認識することができます。


その為に心の価値観を抑える事、
心が心地良いと思う事ばかりを求めるのを抑えること


自己中心的な価値観を持たない事で
これらは改善されるのです。


つまり涅槃寂静というのは私達が心のエゴに
囚われない事であり


私達が創造主の法で学び意識している事と
同じであると理解できます。


その結果齎される究極の状態が、


「私が(心を持って)為すのではなくて
父(神の分身としての私達の魂))が私の肉体を持って為している」


とイエスキリストが言っていた状態と
同じものであろう事も想像がつきます。


お釈迦様の実践していた悟りとキリスト教の啓示は
同じ物なのだと以前にも私が触れた通りです。


しかし日蓮の教えはお釈迦様の教えとは若干異なるようです。


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過去世に悪因があれば今世に悪果(悪い結果)があり、
善因があれば善果があるとするのが、仏教一般で言われる宿業の因果です。


しかし、これで終わってしまっては、
現在の苦しみの原因はわかっても、それを変革する事はできず、


未来世にわたって生死を繰り返しながら
清算していく以外に道はないことになります。


このように、宿業の考え方は、往々にして希望のない宿命論に陥りやすいのです。

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ここでは現在の苦しみの原因がわかっても
それを改善する事はできないと取り上げています。


私達が確信できるのは
前世において何らかの因果が存在していたらしいと言うことであって
その明確な原因は把握できません。


それが容易に理解できるのであれば
私達はそれを課題として果たすことで


今のおかれた境遇から何かを学び
容易に覚醒へと進む事も出来ます。


私達は現在体験している苦しみの存在する環境の中で
心を腐らせることなく精一杯の改善を図ることで
自分に課された課題を”結果”として学ぶ事になると思います。


いつも触れるように、前世に置いて
貧しい人間の立場や権力のない人間の立場を理解できず
横柄に振舞って道楽をしていたことに対する因果が次の生で齎されたとすれば


その生では貧しい人間の立場と
権力のない人間の立場を理解できるような体験を
強いられ事になるでしょうが、


自分が他人の立場を理解できていない事でその課題を課された人間が


自分の置かれる事となったその境遇から
その課された課題を認識するのは困難だと思います。


その中でその境遇に腐らずに出来る限りの精一杯の意識で
生き続けていれば結果的に私達に理解を促し


その環境の中でその学習を十分に果たす事が出来たことで
そのカルマが改善される。。と言った過程を進むと思います。


つまり今背負っている苦の中にこそ
私達が学び理解すべき事ことが存在していて


私達は一旦課された課題は、それを果たすまで
それから逃れる事も出来ないのですし、


その置かれた環境の中で意識の改善を心がければ
その課題を果たす事につながるはずです。


勿論自分が今置かれている境遇を
私達が学ぶべき課題であると認識して受け止めている事が
効果的なカルマ解消のための大前提だと思います。


創造主の法を意識していなければ
その体験中は無我夢中に暮らしていると言うのが
現実ではないかと想像も出来ます。


私達が与えられた課題は宿命と言うような
負の認識で囚われるものではないと思います。


それは私達の意識がけ次第では
一生をかけて学ぶことなくてすみますし


その後の生はそれに縛られる事なく
生きる事が出来るはずです。


それ以前に自分のその生のカルマに気が付いた方は
恐らくは覚醒しているのだと想像も出来ます。

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これに対して、「宿命の転換」を説くのが、日蓮大聖人の仏法です。


日蓮大聖人は佐渡御書の中で、御自身が大難を受けているのは、
仏教で一般に言われる通常の因果によるものではなく、
過去において法華経を誹謗した故であると述べられています。


これは、正法である法華経を誹謗すること、
すなわち謗法(誹謗正法)こそが根本的な罪業であり、
あらゆる悪業を生む根源的な悪であるということを教えられているのです。
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ここで出てくるのが日蓮の教えの独特の価値観のようです。


”お釈迦様が法華経を唱えた”と言う話は聞いた事もありませんし
”その後の後継者が出てくる予言”に関しての言及も知りませんが、


法華経はお釈迦様が没直前に唱えていた教えに基づくものであり
その後継者を予言していてそれが日蓮だという理解もあるようです。


日蓮の教えとここでの記述内容が同じであるかどうかは不明ですが、


”因果”というものを取り違えていて
それが個人の行動や想いに基づくものではなくて


法華経に対する意識に基づくとしているところが
既にお釈迦様の教えと異なっていると思います。


法華経を絶対的な教えとし、
他の宗教を排他的に捉えたその思想には
近年国内でも増えている新興宗教的な意識が見えますし


他の全ての教えを批判的に捉え叩いていた日蓮の教えは攻撃的であり
極端な価値観の上に根ざしているように見えます。


独自の教えが絶対的であり
苦しんでいる人間達はその教えに従っていないからであると言う
排他的、セクト的な解釈繋がる教えにも見えます。


私達であれば、そもそも因果(カルマ)は
個人と創造主の想いとの間のギャップにより生じるものであると
認識しています。


(創造主の想いと異なることをする事が
私達にとっての本質的な罪です)


日蓮が創造主の想いをすべて理解していて
それを独自の教えとして伝えていた場合にのみ


「神を批判し冒涜する」
「神の意志に従っていない」


と言う意味で法華経への罪が罰と看做される可能性はありますが


少なくともこの社会の殆どの人間が神の意識に従って生きてはいませんし
それでも不幸と言える状態を認識しないでいる人間達は大勢いるはずです。


私達の罪や苦しみの原因は
究極的に突き詰めれば「創造主の法を理解していない事」になりますが


”法華経を誹謗すること”が罪や苦しみに繋がると言う解釈は
飛躍しすぎであって


元々の仏教の教えのように
「私達の苦悩は煩悩と苦であり行動や想いが作り上げるカルマによる」
と認識すべきではないでしょうか。


罪の意識や不幸や苦しみの原因が、
”法華経の教えを批判した事”となれば


不幸の原因は個人の生き方に根ざしたものではなくて
持っている思想に関わってくる事になります。


つまり日蓮の教えを自分の拠り所としている人間は
殆どカルマを負わない事になりますし


それ以外の思想を持っている事がカルマの原因であることになり
法華経以外の宗教をすべて否定する事にも繋がります。

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謗法の行為は、妙法に対する不信・違背の心から起こります。
そして、妙法への不信・違背の心が、あらゆる悪業を生む根源悪なのです。

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この定義に従えば、妙法(法華経)を信仰しないものは
妬みやそしりを引き起こし、ありとあらゆる悪行を生むことになり


一方では法華経を信仰することで
それらから逃れることが出来ると解釈できます。


端的に言えば「法華経を実践しないと不幸になる」
と言う話にも繋がって来ると思います。


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この妙法に対する不信・謗法という根本的な悪業を、
妙法を信じ、守り、弘めていくという実践によって
今世のうちに転換していくのが、大聖人の仏法における宿命転換です。

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先述の様に私達の理解でも、カルマはその生において
私達の行動如何で解消される事があると認識しています。


今の生において私達が作り上げてしまったカルマは
私達がそれを罪と認識する事が出来れば
反省し改善する事で解消できると認識しています。


法華経の場合も他の宗教と同様に聖典や聖人の教えがありますし、
信仰と実践対象となっている戒律が限定列挙です。


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そして、その実践の核心が南無妙法蓮華経の題目です。


大聖人は「衆罪は霜露の如し慧日能く消除す」という普賢経の文を引いて、
自身の生命に霜や露のように降り積もった罪障も、
南無妙法蓮華経の題目の慧日(智慧の太陽)にあえば、
たちまちのうちに消し去ることができると言われています(御書786ページ)。

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一番理解できないのはこの、

南無妙法蓮華経の題目を唱えることで
罪を解消できると言う主張です。


私達は罪を犯した場合、まずはそれを罪と認識できる
意識になっている事が必要です。


そして罪を犯した後に、その罪を反省する意識を
持てる様な意識に改善されている事も必要ですし、


その反省に基づいて同じ間違いを繰り返さないよう勤めることで
そこに成長を感じる事になります。


私達の犯した罪は題目を唱える事で消えるものではありませんし
熱心に題目を唱える事で罪が消えるのなら
いくら罪を犯してもその人間には業は課されない事にもなります。


端的に言えば
「南無妙法蓮華経と唱えれば罪がなくなり救われる」

という事になりますし


これは誰でも楽に思考することなく実践出来るものだとも言えますが


これでは自ら犯した罪から私達は何も学ぶ事も出来ません。


「イエスキリストを神と信じれば救われる」という
一部のキリスト教の教えにも似た安易な教えにも見えますし


「免罪符を買えば罪がなくなる」という
中世のキリスト教社会をも彷彿させます。


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御本尊を信受して自行化他にわたる唱題に励み、、
自身の胸中に太陽のような仏界の生命が現れれば、
さまざまな罪業も霜露のように消えていくのです。

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【御本尊を信受して自行化他にわたる唱題に励み】


とありますが、題目を唱える行為は一方的に想念を発する行為ですし
受信には当たらないと思います。


それ以前に”御本尊”という偶像を
崇拝していることにも繋がりますし


偶像に対して心を持って一方的に想念を発する行為が
自分の魂を通じての創造主との対話には繋がらないことは
言うまでもありません。

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私たちは信心に励んでいても人生の苦難に直面することがあります。
また、広宣流布のために戦うと、障魔が起こり、難にあうこともあります。


日蓮大聖人は、このような苦難は、むしろ「転重軽受」の功徳であると教えられています。


転重軽受とは、「重きを転じて軽く受く」と読みます。
過去世の重い罪業によって、今世だけでなく未来世にわたって
重い苦しみの報いを受けていかなくてはならないところを、


現世に正法を信じ、弘めると、その実践の功徳力によって重罪の報いを軽く受けて、
罪業をすべて消滅させることができるのです。

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真のイエスの教えを広報するものが
時代の権力者や社会によって理解されず
その結果迫害されるという話とも似ています。


ただ、ここでの引用内容は大元の価値観が正しいとは言えませんし、


そんな想いを持つことで、誤りを指摘されても批判されても
それが広宣流布のための障魔と受け止められて


ますます誤った思想に信頼を持ってしまう事に
繋がるのではないでしょうか。


日蓮の教えの認めるべき点は
従来の仏教が個人の進化、悟りに拘っていた事に対して

大衆の救済を図ろうと庶民への布教を求めたところです。


ただ、その著書を読んでいないが故に理解出来ないのは
何故に戦いを強調し他宗派との軋轢を避けないのか。


まるで戦いを奨励しているようなその教えに
大衆を戦いへといざなう様なそんな意識を感じる事にもなります。


法華経が攻撃的に見えるのはその辺に理由があるのかもしれません。


「転重軽受」の功徳を受けるために戦いを奨励している可能性です。
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ゆえに、大聖人は転重軽受の功徳について「地獄の苦しみぱつときへて」
(御書1000ページ)と仰せです。


この場合、苦難は宿業を消すための生命の鍛錬になります。
そのことを大聖人は、「鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし、
我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して
後生の三悪を脱れんずるなるべし」(同958ページ)と仰せです。


苦難に直面しても信心を貫いて宿命転換する人にとっては、
人生の意味が大きく変わります。


それを示すのが、「願兼於業」(願いが業を兼ねる)の法理です。


これは法華経の中に説かれていますが、
偉大な福運を積んだ大乗の菩薩が、悪世で苦しむ人々を救うために、
自らの清浄な業の報いを捨てて、悪世に生まれることを願うのです。


この場合、菩薩としての願いの力で悪世に生まれるのですが、
業によって悪世に生まれた人と同じように悪世の苦しみを受けるので
「願いが業を兼ねる」というのです。


逆に言えば、信心で難を乗り越える人にとっては、
悪世に生きて苦難を受けるのは決して宿命ではなく、
実は人を救う菩薩の誓願のゆえであることになります。

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お釈迦様やイエスキリストなど天使達の指導者達は、
地球社会で暮らせばならない理由(業)などなく
はるかに進化した意識を持って平穏な空間で暮らせるのに


この社会の救済のために地獄ともいえるこの社会の中に
自ら志願してやって来たのですから、それこそ菩薩のようなものです。


彼らの教えは戦いを教えていませんが
こちらの菩薩は戦いを奨励する結果となっています。


”宿命転換”に関してはどう捉えて良いのか
この文面からは理解できないのですが


それが「現生に課された前世からの課題による境遇を変える事」
だとすればそれは可能だと言うことになります。


私達が課された課題はあくまで罪に対する罰ではなくて
罪によって与えられた悪しき運命でもなく

”私達にとっての体験としての学習の機会”と認識できるからです。


その学習が終了すればその宿命は消えるのです。


ただ、それを変えるための手法は
自分がその時に背負っている課題が何であるかを
理解しなければならないわけですし


私達は多くの場合、課題をこなし進化を感じた後に
それが”課題であった”事を理解する事になると想像できますし


自分の今の生で課されている課題を理解しようと意識する事が
与えられた課題を確実にこなす為のその大前提となるはずです。


そして少なくともそれは題目を唱えたり
折伏をする事で果たせるようなものではありません。


自らか学習する事を求められ課されている課題を
体験の中で学び精神の進化を果たす事こそを
創造主の法が私達に期待しているからです。


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この願兼於業の生き方を、池田名誉会長は「宿命を使命に変える」
とわかりやすく示しています。


「誰しも宿命はある。しかし、宿命を真っ正面から見据えて、その本質の意味に立ち返れば、
いかなる宿命も自身の人生を深めるためのものである。
そして、宿命と戦う自分の姿が、万人の人生の鏡となっていく。


すなわち、宿命を使命に変えた場合、
その宿命は、悪から善へと役割を大きく変えていくことになる。


『宿命を使命に変える』人は、誰人も『願兼於業』の人であるといえるでしょう。


だから、全てが、自分の使命であると受け止めて、
前進し抜く人が、宿命転換のゴールへと向かっていくことができるのです」


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悪から善という表現は気に入りませんが
批判したかった人物はここでは間違った事は言ってはいません。


私達が課題として課されたカルマは
悲観的に受け止めればそれは宿命でありますが


それを前向きに理解すれば学習の機会であり
進化の機会でもあります。


自分おかれた境遇を課題として受け止めて
それに腐ることなくその環境で精進することが
私達に大切だと思います。


WIKIより
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
日蓮は、『立正安国論』の中で、
相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに
浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして諸宗を非難し、
法華経以外にも鎮護国家の聖典とされた金光明最勝王経なども引用しながら、
このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱え、
逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と説いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
闇政府に利用されていた宗教としての”法華経”と認識した時に


ここでの引用文から
いくつかその原因が見えてくる気がします。


一つにはカルマを”思想の間違いがその原因”と認識することで
独自の価値観を持っている事。


広報に対する批判や抵抗を自らの徳であると認識することで
布教の動機としていること。


罪の解消が心の改善ではなく、
南無妙法蓮華経の題目で果たせると言う容易な教えのために
自ら思考する機会を必要とせず幅広い層の人間を集めることが出来ていること。


お釈迦様の教えの流れを継ぐものを仏教と認識するのであれば
どうやら日蓮の教えは仏教ではない言うことです。


お釈迦様の理解を判りやすく語っていた人のサイトからの引用です。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

悲しみや苦しみからの正しい解放は、
その原因や条件を知り、それらを取り除くことによってのみ、達成される、
と考えたブッダは、


人間の悲しみや苦しみからの解放の手段としての迷信
(神々への祈祷や祭祀や呪文等々)は、これを「捨てよ」と説いていたのです。
それが伝統的仏教(原始仏典)が伝え残したブッダの教えでした。

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苦しみや悲しみを取り除く事を追求すれば
その原因として”心のあり方”に到達し、


心のあり方、心の持っている価値観を改善することで
それを取り除くことが出来る事を私達は理解しています。


ここでお釈迦様は神への祈祷や祭祀や呪文等々を否定していますが
勿論創造主としての神を否定したわけではないはずです。


紀元前5世紀の頃にはおそらくは未だ多く蔓延っていたであろう
多くの人格神の与えた戒律と生贄や祈祷の儀式などの行為、


そして神の意志を受け止める役目を持っていると証して
呪術を行っていた呪い師などの教えを否定していたのだと想像できます。



カースト制度に関連した地に生まれた事からも
インドに根ざしている人種区別?やヒンズー教との関わりで


真の創造主の教えをその地で伝える事を目的としていたのが
お釈迦様なのだと想像していましたが、


肝心のその地においてその教えを根付かす事が出来ず

その教えが変貌されながら東方に移動して来たと言えますし


イエスキリスト同様に、その真の教えとその一番の目的は
達成される事がなかったのだと理解できます。


この社会の中では神々の戦いが延々と繰り広げられ、
結果的には今、人格神達の陣営が勝利を収めようとしているのだと
私は認識しています。


真の創造主の法が消えそうな社会の中で
その灯を消さないためにも


兄弟姉妹と理解者には
強い意志と信念を持ち続けて欲しいと願っています。


創造主の法はこの社会では正しく伝わらない。


そしてそれを当たり前に受け止めているこの社会。


この地に意識の改善の齎される日がくるのでしょうか。


その日までしっかりと魂にしがみついていてください。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
P.S.

創造主を理解出来ない人間達の勢力は
あまりにも強大です。


まるでこの社会の中では創造主の法が働いていないかの様な
錯覚までしてしまいます。


私達の想像以上に、今この社会に残っている人間の心が
創造主の想い(魂の想い)とはかけ離れて
しまっているのだと思います。


嘆いても仕方がありませんし
これも創造主の法が働いている結果なのでしょうが


ここ数千年の地上の悪しき想念と文明の悪しき影響の
総決算とならないことを祈ります。



ヒンズー教も創造主の法と
人格神の教えが混ざったようなオカルト混じりの
思想となっています。


その神々やカースト制度の改善を願って
教えを説いたのがお釈迦様だと思いますが


天使達の教えの末路はいつも同じなのですね。


アダムスキーの提示してくれた
創造主の法=生命の科学を見ていてもそう思います。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11009631713.html
宇宙の法則
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11362816099.html
続・宇宙の法則番外編 釈迦の教え
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11361245976.html
アプローチの違い 仏教と覚醒
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11361455669.html
アプローチの違い 仏教と覚醒 後書き

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