‘2012/06’ カテゴリーのアーカイブ

「Y’sクラフト・明日へ」 NO401 ー心置きなく人生を・・・ー

2012/06/29

子供の頃、嫌だったのは自分の家が農家だったこと。もうかれこれ50年も前のことになる。だから、生意気だった少年時代は畑につれて行かれるのがたまらなくて家に居着かないで、出来るだけ友達と外で遊んでいた。大してやりたくもない珠算塾に自ら「行きたい」と言って入塾させて貰っては、何処かで遊んでいたものだった。それもこれも「家の手伝いがしたくない」気持ちから出た行動であって、ソロバンなんかやりたくもなかったわけだ。だから3年も通ったのに二級に入ったところで終わってしまったのだ。今思うと、現金収入のなかった農家の両親が4人の子供たちにそれなりの教育を施してくれたり、望むものを買ってくれたりしたことは、凄いことだったんだ。と。現在は、といえば畑仕事があって生き甲斐がある。たくさんの土地を残してくれた父はもう既に他界している。かつて「農家の手伝いのカケラ」もしなかったどら息子が、農作物の出来栄えに一喜一憂するこのオカシサヨ。だな。

「Y’sクラフト・つれづれ記」 NO400 ーおめでとう!400回ー

2012/06/29

♪♪今は~こんなに悲しくて涙も枯果てて~・・・こんな時代もあったねと・・・あんな時代も・・・私は「中島みゆき」というミュージシャンは天才だと思っている。いや桑田佳祐だって凄いといったらそうかもしれないし、財津和夫だって小田和正だって同じことが言えると思うが、それはそれとして、人の心に深く突き刺さって離れない歌詞や音曲は、時として出来事や事変とともに思い出しては涙を呼び戻す。ブログを始めて400回。コンナ事は他人にとっては大したことではないが、一つひとつの文章それぞれに印象深いことを綴った日記である。後で読み返して・・・こんな時代もあったねと・・・笑って、まわる廻るよ~時代はまわる~・・・。 ああ過ぎ去りし、懐かしき日々よ。

「Y’sクラフト・つれづれ記」 6/29 NO399 ー文月のつごもり頃にー

2012/06/29

昨日のニュースで双子の歌手・ザピーナッツの伊藤エミ?さんが何日か前に亡くなっていた。との報道を耳にした。72歳だったとか?享年齢を聞く度に驚き、「そんな年齢だったのか・・・」という言葉が自分の口をついて出てくると、そういう自分にいつも驚く。変な話だが・・・この時にまさしく自分の年齢を再確認するのである。が、その時に確認した年齢を次の瞬間からもうすっかり忘れている、これがまた不思議だ。そんなヤツは自分だけなのか?誰でもそういうものなのか?この歳になれば、今、健康であっても明日はどうなるか判らないと大方の人は言う。なるほど、それはそうかもしれないがそうなるには何らかの予兆や自覚は少なからずあったはずだと思っているのだが・・・。それこそ「急に」とか「突然に」とか言う言葉はあってもそんなことは現実離れしていると思っている。そう言っている私は今まさしく「健康」である。この後何年先に致死となる病気が自分の身体に巣くうのか、知るよしもないが年齢を自覚しない方が多分この先、幸せなのだろうと・・・。今日は「小野ヤスシ」氏の訃報も耳にした。モスラもドンキーカルテットも遠い夢の中にある。

「Y’sクラフト・つれづれ記」 6/27 NO398 ー農作業は人生の縮図?ー

2012/06/27

4月に植えた野菜たちが、それぞれたくさんの実を付けている。中でもサヤエンドウはいち早く食べられるようになり、もうすでに終わりに近づいてきた。キュウリもすでにピークを過ぎたようだ。インゲン豆や枝豆ができ始め、トマトや西瓜も収穫の時を今や遅しと待っているようで、まさに畑は百花繚乱といったところだ。作物たちをみていると苗を植えてから花を咲かせるまでは人間で言うと、勢いのある子供の時代から、はち切れんばかりの青春時代まで、ぐんぐん伸びて行く勢いがやさいのそれと重なる。実を付けて収穫され、木がゆっくり枯れていくまでも、立派な野菜の茎なのだがいつのまにか枯れ果てて、片付けられて平らな地面に均されていくこともある意味人間の晩年を思わせる。ところで、面白いことに一度その場所で作った作物は3年~5年は同じ場所では作らないのだそうだ。土も作物も小さなこだわりがあり、確執があると言うことなのか?人生の縮図を見ているような農業体験。ジャガイモは何かを語るか?

「Y’sクラフト・つれづれ記」 6/24 NO397 ー書道の審査会ー

2012/06/24

昨日は私立学校の第九支部(杉並・中野地区)の高校書道審査会に大妻中野高校まで行ってきた。他の用事もあったので同行する 「O教諭」 と打ち合わせて車で出掛けることにして、時間の余裕をみて会場に到着。すると、守衛さん曰く「予約連絡を貰っていないので、校内に入れるわけには行かない」 とのこと。仕方なく近くのコインパーキングに置くことにしたが、生憎の日曜日ましてや駅の近くにあるこの学校の周囲に空いているところなどあるはずもなく、グルグル廻ること30分あまり、あまり周囲を廻りすぎたのでもう「バターになりかけて (ちびくろさんぼ・チョット古いかな?)」、途方に暮れているところに、携帯が入り、「今、学校に交渉したので、車入れられます」 とO先生。 助かったあ。「駅前に放置」駐車違反等々心配解消。安堵後会場無事到着。審査開始無休憩四時間審査会継続終了六時解散。無事終疲労困憊後帰宅。大妻中野は校舎建て替え工事中。立派な建物が出来る様子だった。

「Y’sクラフト・つれづれ記」 6/22 NO396 ー再び台風5号の影響でー

2012/06/22

台風4号が去ったあとにもう5号が追っかけてきた。そして又、列島を縦断するつもりに見えたが、早い段階で温帯低気圧に替わったという気象庁の発表があり、安堵。と思いきやこの風が梅雨時の雨降り雲を刺激して西日本では大荒れの天気となってしまった。和歌山県では川の水が溢れたとか。床上浸水の被害続出の惨事になっていた。東京地方にも大雨洪水警報が発令され、学校も始業時間を遅らすような措置がとられた。その後大した被害もなく、午後からは陽が差してきた。金曜日。今週も終わりに近づいてきた。思えば台風週間だった。湿った空気が毎日のように漂い、まさに梅雨時、ジメジメとしたこの時期は食中毒や食あたりもありそうだ。よし!こんな季節は、梅肉のソースを作ってみよう。きっとさっぱりした食事が楽しめるに違いない。

「Y’sクラフト・つれづれ記」 6/21 NO395 ー台風の爪痕が恨めしやー

2012/06/21

先述の台風4号の被害は農作物には甚大な被害を与えた。トウモロコシしかり、茄子しかりである。支えをしていたトマトは一見するとナンニモ被害がなかったように思ったが、実は良く見ると芽の先を強風で飛ばされていたり・・・等々沢山の爪痕が残っていた。その倒れたトウモロコシの恢復だが、これが中々厄介だったようである。私は授業を終えた夕方に、傷ついたトウモロコシたちを助けに駆けつけようとしたが間に合わなかった。しかし、有り難いことに、もうすでに叔父と叔母たちが棒を建てたり綱を張ったりして立て直してくれたとか・・・。そして、聞けばその作業は丸一日かかる大変な労働だったとか。そうでなくても昨日は台風一過のそれも猛烈に暑い日であったので、高齢の叔父たちにはさぞやこたえたに違いない。自然を相手にすることはいやはや何とも・・・。無事にトウモロコシが実ることを願って・・・。

「Y’sクラフト・つれづれ記」  NO394 ー紫陽花は人混みの中にー

2012/06/20

鎌倉の、名月院の、紫陽花は・・・の話題が出てくる6月のとある日、思い立ってふらっと、花見(アジサイ鑑賞)に出かけた。幸いなのか生憎なのか?アジサイ見物にしては生憎?よい天気に恵まれてしまい、少々の物足りなさを感じながらの鑑賞になった。早い時間だったが、驚いたことに人が開門前から長蛇の列。いったいどれだけの人が入山するのか予想も出来ないくらいの人、人、人に少々うんざり。翻って、「東慶寺」の静けさは、アジサイの花も人の流れも寺の雰囲気をしっかりと保ちながら人を受け入れているといっ観があって、むしろよかった。それにしても、すぐ目と鼻の先にあるこの2つの寺の、何と差のある(入山料が片や500円。片や100円。)ことよ。とね。えっ?この時期だけのこと?

「Y’sクラフト・つれづれ記」 6/20 NO393 ー台風一過は真夏日になりー

2012/06/20

 綺麗に咲いている花びらを、たたいて散らしてしまうほど激しく降った昨日の雨が嘘のように、一夜明けたらすっかり晴れて真夏の日差しが肌を刺す。気温30度にも達する日になった。6月には珍しい日本縦断の台風4号に愛しいトウモロコシ君たちのの幹は根本から「グニャリ」と折れ曲がっていた。今朝の散歩は台風一過の影響を受けたであろう大事な野菜たちの姿を見て回るところから始まった。一見したところあまり被害がないと思われた畑の様子だったが、近くへ寄ってみると無残にも・・・(支えのないトウモロコシだけが)全て同じ方向へ倒れていたのである。すぐに駆けつけて起き上がらせたいが、畑に入る出で立ちでもなく、出勤の時間も迫り来るし・・・で、手つかずのまま後ろ髪引かれながら家を出た。せっかく育てたのに・・・という思いはある。自然の摂理? これが農業の難しさかそして、空しさか・・・。

「Y’sクラフト・つれづれ記」 6/16 NO392 ー禅の言葉をもう一つー

2012/06/16

「時はくすり」 という言葉を教わってから何度この言葉に救われたかわからない。「人間のやることだから・・・」 と慰められて、これも気が楽になったことを覚えている。不思議なことに言葉というモノは時に勇気を与え、また時には人を落胆させ不幸のどん底に追いやることがある。自分の放った言葉が「言霊」となって人の心に宿り、その人を生かしたり殺したり・・・である。昔から 「人の立場に立って」云々とか 「思いやりは金」 だとか言われて、そうしようと努めてきた。だが、頭では確かに解っているつもりではいても実際には受ける側の立場や、その年齢にならないと解らない心境もあるはずだ。禅語にある「春来草自生」(はるきたらばくさおのずからしょうず)~春が来れば、草は自然に生えてくる。その時を待つ以外にない。~ ということだろうか?自分では人一倍思いやりを持って他人に接していると思うのだが・・・なかなか上手くいかないことがある。自然に、なお自然に行こうか?