本と映画と政治の批評
by thessalonike5
アクセス数とメール

access countベキコ
since 2004.9.1

ご意見・ご感想



最新のコメント
最新のトラックバック
Canícula 天空で..
from NY多層金魚 = Conce..
以前の記事


access countベキコ
since 2004.9.1


















辺見庸の尖閣論(2) - 尖閣問題の本質は領土ではない
もう一度、辺見庸の尖閣論についての記述を書き出そう。「中国は1949年の建国以来、領土問題では一寸たりとも譲歩したことがないという自負もあり、尖閣問題でも軟化は絶対にありえないだろう」(P.31)。「針の頭ほどの領土でも中国の人は自分たちの領土だと言い張るだろうとは思っていました」「およそ、領土について、外交交渉の外縁のところで彼らは逡巡しない」「中国という国は、領土となると信じられないくらい熱をおびる」(P.172)。この指摘は正しいと言えるだろうか。これらは「中国の領土論」として、つい頷いてしまう言説ではある。しかし、その表象の納得には、アヘン戦争以来、列強によって領土を蚕食され国富を略奪された中国の苦い屈辱の歴史があり、という前提が入るはずだ。外からの他国の侵略に対して神経過敏にならざるを得ない大国の古傷という事情があり、そうした特性を踏まえた上で、領土問題における中国の生理を一般論として言えば、それは内在的で妥当な説明になるだろう。そうした前提抜きで、頭から中国の大国主義を非難する口調で、中国の領土不寛容性向を言い上げるのは、安直な床屋政談であり、マスコミや右翼による誹謗の常套句と変わらないものと言える。実際に、ロシアとの国境画定交渉では、領有をめぐって紛争した大ウスリー島を面積で折半するという合理的妥協で決着させている。辺見庸は、そうした中国の領土政策の実績を承知しているのだろうか。


中国は領土問題では大国主義の強硬姿勢を貫徹する、尖閣でも一寸たりとも譲歩しない、という認識と主張は、右翼化した現在の日本の論壇で耳慣れた通説であり、常識とも言える所論であろう。だが、この議論を、知識人である辺見庸が無批判に言い放ち、辺見庸の読者がそれに安易に頷くことは、私にとってはどうにも見逃せない問題だ。辺見庸は尖閣問題の本質を理解していない。この政治は領土問題などではなく、まさにイデオロギー問題なのだ。あのような絶海に浮かぶ小さな無人島が、本来、日本と中国を戦争に導く領土問題に発展するということがおかしいのである。北方四島の版図は千葉県と同じほど巨大だ。領土面積も経済水域も、すなわち漁業等の海洋資源の豊富さも、尖閣などとは比較にならないほど大きく、帰還を待つ旧住民も多数いる。にもかかわらず、ロシアと日本との間に緊張はなく、開戦前夜の危機的状態になっていない。三島返還論などという大胆な妥協案まで出ている。尖閣問題は、竹島問題もそうだが、純粋な意味での領土問題ではないのだ。尖閣問題は、日本の右翼が中国との国家対立を惹起、増幅し、ナショナリズムを扇動し、相互に憎悪と敵意と不信を拡大する政治の手段と現象である。竹島問題も同じだ。この政治の動機と起点は日本右翼にあり、日本右翼が常に操縦桿を握って動かしている。中国の動きは(韓国もそうだが)パッシブなレスポンスにすぎない。

尖閣問題とは、日本の右翼化によって生じた外交問題であり、この政治を仕掛けた政治勢力の目的は、領土や資源ではなくて、中国と軋轢を起こし、中国との平和友好関係を破壊するところにある。中国(PRC)の正統性を否定し、共産体制の中国と平和友好関係を結んだ過去の日本(平和憲法体制の日本)を否定することに標的がある。もっと言えば、過去の侵略戦争を謝罪し反省した自己を否定し、その1972年の謝罪と反省を撤回するところに真意がある。尖閣問題の政治の本質はそこだ。だからこそ、中国は、政府も民衆も猛反発しているのであり、反発の中身は単なる小さな岩礁の主権ではない。日本(右翼)が尖閣問題にこだわり、ここを紛争の焦点に据えているのは、前回の記事に書いたが、棚上げ合意に関与した中国指導者である周恩来と鄧小平を冒涜するところに思惑がある。この二人を日本(右翼)が否定するのは、この二人が共産主義者だからである。日本右翼にとって、共産主義は人類に災禍をもたらす悪魔であり、一片の価値もない唾棄すべき存在であり、それは否定し貶下してよい悪性の政治対象なのだ。1970-80年代の日本を思い返すと、周恩来や鄧小平に対する軽侮や不敬などは考えられなかった。尖閣の棚上げは、ある意味で日中友好の象徴であり、小異を捨てて大同につく日中の関係性の模範スタイルでもあった。そこには、周恩来の深慮と鄧小平の機知という、中国らしくアジアらしい政治があった。

中国の怒りは、無人島の領有権への干犯ではなくて、周恩来と鄧小平の否定にある。その点を辺見庸は理解していない。問題になっているのは、2010年の漁船衝突事件から紛争が激化した尖閣の領土問題ではなくて、根本的に、1990年代後半からの日本の右傾化であり、小泉純一郎の靖国参拝であり、1972年の日中共同声明を事実上破棄した日本の行動(バイオレーション)にある。中国側の日本への憤激と反発は、この20年間に積もり重なっているもので、昨年の反日暴動も、単に領土問題が原因になった政治行動ではない。1931-1945年の侵略戦争で1千万人が殺戮され強姦されたという歴史に依拠するものだ。日本は過去の罪過を謝罪し反省したからこそ中国と国交正常化したのではないか、それを忘れたのなら正常化前の戦争状態に戻るしかないという憤怒の爆発である。中国は、日本の謝罪と反省の誓詞(日中共同声明)と交換に、1千万人が虐殺され強姦された戦争責任の賠償を放棄した。問われているのは、岩礁の領有の歴史的経緯とか、国際法上の地位とか、EEZの線引きと海洋資源とか、そういう問題ではない。中国の精神的支柱とも言える二人のカリスマとの間に締結した合意を、それは共産主義者と交わした約束だが、日本が守るかどうかであり、侵略戦争への反省を捨てるかどうかなのだ。辺見庸は死刑反対の人であり、その方面で多く論じてきた知識人である。であるなら、家族を殺された被害者が、例外なく加害者に極刑を望む事実を知っているだろう。

死刑廃止論議が盛り上がった頃、たしか、元々は死刑廃止論者だった弁護士が、実際に家族(妻)を殺される事件に遭遇し、そこから持説を変えていった事例があった。そういう被害に遭えば、誰もが殺人犯に死刑を求める。中国には、そうした被害者遺族が無数に存在するのである。私は、その一人と対面する機会があり、彼の前で謝罪を言った経験がある。普通の生活をしていた罪もない多くの中国人が、1千万人を超える無辜の民が、筆舌に尽くせない残酷な方法で日本軍に虐殺され強姦された。辺見庸は、6年間も中国で生活をしていながら、殺人の被害者遺族が加害者に極刑を求めるという事実に気づかないのだろうか。あれだけ文章で日本軍の中国での非道を告発しながら、その遺族が今も鬱々として中国大陸に生きていて、その数は2億にも3億にも上り、1972年以来の日中関係の行方を眦を決して見つめているということが分からないのだろうか。祖父や祖母を殺された孫の世代の人々が、尖閣問題での日本の詭弁や詐術をどう思っているか、そこに思いを馳せれば、中国の大国主義や領土貪欲の安っぽい論理で、尖閣問題を語って済ますということはないはずだし、知識人がそのような発言や議論をすることがあってはならない。山西省の陸軍病院で看護婦に騙されてベッドに仰向けにされ、生きながら四肢を切断され人体実験された無数の中国人にも、いま生きている血縁者がいる。彼らは忘れていないし、戦争犯罪への謝罪と反省を忘却した日本が、次に中国にどう出てくるか覚悟している。

前回の記事で、華春瑩の会見での言葉、「私たちは、柳条湖事件、上海事変、盧溝橋事件のときに日本が何をしたかよく覚えている」を紹介した。この発言は、2/8のテレビ報道で目撃し、人民報の日本語版にも載っていた記憶があるが、今はネットで痕跡を探すことができない。この2/5-2/9の週、レーダー照射問題とその日中の応酬で世情が騒然とした週だったが、人民報の記者がこの問題で記事を書いていて、非常に印象深い内容だった。報道の記事と言うよりも、個人ブログの独白に近く、さらには、ほとんど私的な日記のように心境が綴られていた。私が解釈した趣旨を簡単に書くと、中国人は、盧溝橋事件のときと同じく尖閣沖で一発の砲声が鳴る瞬間を待っているというものだ。レーダー照射事件のような、マスコミを駆使したクイックな情報戦は中国は苦手で、つまり、国際社会での言い争いでは口下手な中国は日本に負ける。しかし、物理的な戦争になったら、それを持久戦で勝ち抜く覚悟は中国人にはできていて、日本にその気があるなら仕掛けて来るがいい。受けて立つ。そんな語り口だった。華春瑩やこの記者の方が、尖閣問題の本質をよく了解しているし、辺見庸の粗雑な領土論と較べてはるかに真に迫った洞察を示している。辺見庸は、中国は破滅を前提としているとか、破滅ということを即時的に含み持って日本との戦争を構えていると何度も言っている。これも違うと思う。違和感を覚える。認識として正しいと思わない。戦争を覚悟して外交に臨んでいるのは事実だが、破滅を前提としているという表現は的外れだ。

正しいのは、破滅ではなくて犠牲を前提としているという表現だろう。13億人いるから、数百万人数千万人が犠牲になっても、中国の破滅や滅亡はない。北京と上海が廃墟となっても、成都があり西安がある。生き残る。尖閣問題の戦争論について言わなくてはいけないのは、中国が戦争を組み込んで外交しているから危険だということではなく、日米同盟があるから戦争など最初からないと思い込んでいる日本の平和ボケの世論の方が危険だということだ。なぜ、辺見庸はその基本視角から尖閣の危機を言わないのだろう。物理的な戦争になったとき、全面戦争に至ったとき、破滅するのは、人口が10分の1しかなく、狭い国土に人も産業も密集し、食料もエネルギーも輸入に頼っている脆弱な日本ではないのか。結論的に言えば、辺見庸の中国論には偏見があり、偏見の正体は吉本隆明への共感に繋がるもので、1960年代の古い反スタ主義の思想的惰性に乗っかったものだ。この本の中国論には、必ずと言っていいほど、俗論的な中国批判の口上に吉本隆明への懐古が顔を覗かせる。武田泰淳の中国論を吉本隆明の(全共闘世代にとっては権威の常識である)言説に塗し、その中国批判の正当性を軽く担保しているような口ぶりになっている。もっと言えば、中国の共産党体制など、日本にも世界にも誰も弁護する者などなく、脱構築全盛の時代へとブリッジした吉本隆明が思想世界の王者なのだから、嫌悪感をもよおす中国の共産主義を軽口で貶めてやってもよいのだというような、そんな気配が感じられる。この戦争前夜の時局に、知識人がそれでいいのかというのが私のプロテストだ。

辺見庸がこれだと、中国と向き合って話し合える知識人は日本に一人もいないことになる。


 
by thessalonike5 | 2013-03-05 23:30 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://critic5.exblog.jp/tb/20108789
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
名前 :
URL :
※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。
削除用パスワード 
昔のIndexに戻る 辺見庸の尖閣論 - その中国批... >>