2013-02-20
■[戦時性暴力]追記
昨日のエントリ(『陰謀史観』)に mujin さん(ツイッターでは yunishio さん)からいただいたブコメです。
mujin 歴史修正主義, 陰謀論, 秦郁彦
このエントリでは秦氏の慰安婦問題の関わりかたを氏の女性観に帰しているように思えるけど、しばしば一般向けの書籍で「お花畑サヨクが〜」とも書くのでそれだけに限られるものではなさそう。 2013/02/19
(http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/Apeman/20130219/p1)
これに関して、ツイッターでちょこっとやりとりをさせていただきました。
@apesnotmonkeys: @yunishio いや、それだと沖縄戦「集団自決」問題での秦氏の振る舞いが説明できないので、「女性観」を説明項ではなく被説明項にもってくるのが最終的な狙いです。まあそこははっきり書いてませんけど。
2013-02-20 11:07:15 via Echofon to @yunishio
@yunishio: @apesnotmonkeys 秦郁彦さんの振るまいは統一的に理解することはできなくて、研究者向けに書かれた論文ではまともなことを書き、一般向けの保守系雑誌や書籍では(おそらく資金調達の目的で)ウケ狙いでサヨク学者を茶化す、意図的に2つの顔を使いわけているような気がします。
2013-02-20 11:15:28 via Twitter for Android to @apesnotmonkeys
@apesnotmonkeys: @yunishio もちろん媒体による書き分けという側面はあるでしょうが、新聞に掲載されてそれっきりのコラムなどならともかく、単著で表明した見解は「研究者の主張」として扱われますし、それだけでは説明しきれないと思います。
2013-02-20 11:52:53 via Echofon to @yunishio
@apesnotmonkeys: @yunishio 例えば池田信夫氏もまた「南京での虐殺は否定しない」「侵略戦争であったことを否認しない」けれども「慰安婦」問題と沖縄「集団自決」についてはご承知の通り、つまりは秦氏と同じパターンで、しかも彼はもっぱらそれをカネにならないネットに書いているわけです。
2013-02-20 12:00:27 via Echofon to @yunishio
付け加えるなら、橋下徹・大阪市長の言動も二人と近いパターンです。「慰安婦」問題では完全に右派と同調していましたが、河村・名古屋市長の発言にはのりませんでしたし、靖国参拝にも消極的(「反対」まではいかない)、日本の戦争の「侵略」性についても「周辺諸国に過去、迷惑をかけたことは間違いない」という、いかにもありがちな表現ではありますが、いちおう認めています(昨年9月27日の会見)。
もちろん私は、mujin さんの指摘されるようなファクターが働いていない、と言いたいのではありません。例えば橋下市長が南京事件否定論に載らなかったのは減税日本との連携に否定的だったからに過ぎないかもしれません。逆に「ピースおおさか」の件では右派の期待通りに振る舞っている、と。こうした視角を欠いてしまうと、ありもしない隠れた論理を無益に探しまわることになりかねない、というのは確かでしょう。
しかしそれだけでは説明しきれない「過剰さ」がここで挙げた3人に見られることも確かではないでしょうか。例えば上記の会見で「迷惑をかけたことは間違いない」と発言したあと、彼は自らの弁護士経験を引き合いに出して「加害者サイドがね、謝り続けたんだからもう謝るのいいじゃないか〔と主張する〕、そんな加害者見たことない」「被害者サイドから見れば、ずーっと腹の中に恨みつらみは残りますよ、それは」と、なかなか興味深い発言をしています。「興味深い」というのは、右派の刑事犯罪に対する厳罰志向と戦争責任に対する態度とを「ダブスタ」とみる左派がしばしば用いる論法を、自身の経験に即して用いているからです。この発言や「尖閣」についての発言などが、右派メディアでも橋下維新への不信感がくすぶっている大きな理由になっているわけで、「戦争責任はある、しかし謝罪はすんだ」よりもわざわざ踏み込んだ発言をしたことで政治的には損をしているわけです。
したがって、「使いわけ」論と相互排除的な理解としてではなく、レイヤーの異なる理解として、「この3人に共通するのはなにか?」を問うことに意味はあるだろう、というのが私の仮説(というか仮説が必要だろう、という予感)です。
■[戦時性暴力]さらに追記
秦郁彦氏といえば、こんな発言もしてます。
秦 全体主義国家と民主主義国家のどこで違いが出てくるかというと、民主主義国家では言論の自由がありますから、自国の軍隊といえどもひどいことをしたら、自国民の中から批判の声が出てくるんです。
とくに女性の意見が英米では影響力が大きい。たとえば慰安所を設置することについて日本の女性は発言しないけれども、英米軍の現地司令官が兵隊の福利厚生で慰安所をつくったなんていうとすぐ通報が行くんですよ。従軍牧師、上院議員や女性団体に突き上げられて、すぐ閉鎖しろという中央の指令が行く。
いわば後方における市民的常識のようなものが一つの抑止力になっているんですが、それがまったくない国というのは人間の獣性が幾らでも発揮されるところがありますね。
(『「BC級裁判」を読む』、日本経済新聞出版社、42ページ)
ここでは「慰安所」を閉鎖しろというシヴィリアンの圧力が肯定的に評価されていて、ということは「慰安所を設置すること」自体(「強制連行」とは切り離して)への否定的な評価が前提されているということになります。秦氏には反米的な動機がまったくといってよいほど感じられないという特徴があって、だからアメリカの美点を評価するという文脈ではこういう発言ができるという側面もあるかなと思いますが、それを差し引いてもやっぱり不思議ではあります。