昨年5月に亡くなられた畑中良輔先生は、数年前、「日本歌曲史の本を刊行したい。」と言われていました。内容は異なりますが、畑中先生の日本歌曲に関する図書が刊行(2月28日発行)されました。
畑中先生と言えば、音楽の教科書の執筆・監修者に必ず出てくる方です(中学・高校の時は遥か彼方の存在でした)。
内容紹介
「日本歌曲〈友〉の会」が会員向けに発行している機関誌『歌』に、著者が10年にわたって書き続けた連載「日本歌曲・考」をまとめるもの。著者が生涯をかけてその普及に努めた「日本歌曲」の魅力を紹介している。山田耕筰、平井康三郎、橋本國彦、中田喜直、團伊玖磨、石桁眞禮生ら、著者周辺の作曲家や、永井郁子、関屋敏子、栗本尊子といった名演奏家らにまつわる生き生きとしたエピソードが紹介され、それぞれの人物が「日本語による日本の歌曲」に抱いた思いと、その事績とを明らかにしてゆく。図版も充実。戦中・戦後の日本の音楽文化についての「証言」という意味から注目される本となろう。
著者について
1922年北九州市生まれ。東京音楽学校声楽科、同研究科卒。リリック・バリトン。モーツァルト歌手として第一線で活躍、《魔笛》《フィガロの結婚》《ドン・ジョヴァンニ》《コジ・ファン・トゥッテ》等の日本初演の主役を担うなどオペラ上演史に輝かしい足跡を残す。音楽評論家としても『レコード芸術』月評、『朝日新聞』演奏会評を担当。東京藝術大学名誉教授、新国立劇場オペラ部門初代芸術監督、水戸芸術館音楽部門芸術総監督等も歴任。2006年恩賜賞・日本芸術院賞を受賞、2000年に文化功労者、2008年、日本芸術院会員に顕彰、同年日本エッセイスト・クラブ賞も受賞した。2012年5月24日没。
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【歌唱指導】
畑中先生は、日本歌曲セミナーを長らくされておられ、日本歌曲の正確な理解や歌唱法の普及にご尽力されました。特に、先生が注意されていた点は次のとおりです。これらの点は、プロの歌手でも出来ていない方が多々おられるようです。
<発音>
①日本歌曲の歌唱では、特に母音の「う」が、イタリア語のように奥まったりせず、また逆に狭くなりすぎて「ゆ」のように聞こえないようにすること。
①日本歌曲の歌唱では、特に母音の「う」が、イタリア語のように奥まったりせず、また逆に狭くなりすぎて「ゆ」のように聞こえないようにすること。
②例えば「いかにいます」の「にい」のように「NII]同母音が重なる場合は、「にー」ではなく、必ず声帯をノックさせ「NI・I」と切るようにすること。
③「を」は「o」ではなく、必ず「wo」と歌うこと。
<発声>
④発声は支えを持って体全体で歌うように、ステージの広さに合わせて、ステージ一杯に歌声が響くようにすること。
<表現>
⑤歌詞に「~のように」とある場合は、その例えられているものがイメージとして聴衆に伝わるようにすること。
⑥音符に歌詞を載せる歌い方ではぶつぶつ切れたりするので、歌詞を音符に載せるように、詩の内容の理解に加え、作詞者の関係する作品を多く読み教養を深めること。
【畑中良輔歌曲講座】
畑中先生は、特に日本歌曲に造詣の深い方で、晩年、日本の中でびわ湖ホールを選ばれ(日本唯一)、その地で10年近くにわたり、歌曲講座を開講されていました。
千歳一隅の機会であり、私も本講座には熱心に通い詰め、晩年の畑中先生の日本歌曲の研究の成果を習得することができました。
熱心に勉強した甲斐あって、私自身知らぬ間に、(畑中先生からも認識されるほど)日本屈指の日本歌曲通となってしまいました(私は現在のところ研究成果の発表はしていませんので、この分野では国内一般には知られていません。しかし、日本歌曲史を塗り替える知見を有する人物の1人がここにいるんです。)。先生から学んだ成果を集大成すれば、歴史的に重宝される文献が出来上がることはほぼ間違いないと思います。
○○○○様
小生も1月から肺炎やら脚の怪我などで入院したり、いろいろと身の廻りが不自由で、御覧のように車椅子でのセミナーになったりの現状ですが、何とか頑張っております。
びわこホールでのセミナーも何とか現代まで進んできました。あと一息ですが、熱心な聴衆に支えられ、一応系統立ったセミナーになったかなと、いつかは歌曲史を書きたいと思ってはいるのですが・・・・・次回御覧にかかれるのを愉しみにしております。
5月2日は中田喜直君の没後10年の「水芭蕉」の会がキオイホールであり、歌えたら童謡でも歌おうかと思っています。
畑中良輔