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第1章
波の音が、響く。
冬の航海は内海でも危険が伴う。波が高くなり、海が荒れることが多い。また、食うに困った海賊たちの襲撃も激しくなるのは冬だからだ。
夏の地中海の色は明るいペールブルーだが、冬は重苦しい色に変わる。それが天候のせいなのか、気候のせいなのかは、海に詳しくもないフィオナにはわからない。
ただ、その暗い海の色に、さらに気持ちが落ち込むだけだ。

フィオナはそんな海原を見つめながら、船上で深いため息をついた。
今、フィオナが乗っているのは中型の帆船だ。ラウンドシップと呼ばれるずんぐりとした小ぶりの船である。一国の王女が乗るにはやや小ぶりなようにも見えるが、それでも父王が精一杯尽力してくれたことをフィオナは知っていた。

フィオナを乗せた船は、地中海の向こうに広がるレヴィタン帝国へ向かって波を掻き分け進んでいる。
フィオナは大陸の中でも南に位置するフェリシアーノ王国の世継ぎの姫だ。当然、王位を継承し、フェリシアーノ王家を存続させていく義務を負っている。しかし、フィオナが受け継ぐはずのフェリシアーノ王国の状況は困窮を極めていた。

海岸線に面した土地柄で古来より貿易に関してはそれなりに栄えてはいるものの、痩せた火山灰土が大部分を占める国土は昨年から続いている天候不良により、大きな打撃を受けている。農作物の収穫が例年の三分の一程度にまで落ち込んでいる。現国王であるフィオナの父、イスマエルは国庫を開放して国民への救済を続けているが、それもいつまで続くかわからない。国庫とて、無限ではないのだ。
そんな折、さらにやっかいな問題が浮上した。フェリシアーノ王国の東側に位置するアラルコン皇国の侵攻である。近年軍事力を強化しているアラルコン皇国は、国土は痩せているものの美しい湖から採れる『嘆きの翠』という珍しい宝石の産地であり、貿易に長けたフェリシアーノ王国に領土的野心を燃やし、その国境を何度となく脅かしてきていた。現に、いくつかの集落がアラルコン皇国に占拠されるという事態にも陥っていた。
財政問題、領土問題、外交問題。懸命なイスマエル王は解決に向けて尽力していたが、如何せん気候は努力でどうにかなるものではなく、外交には誠実さだけでは太刀打ちできない。

そんな八方塞の中、これらをすべて解決する救いの主は、ある日突然現れた。
救援と同盟締結の親書を携えて、レヴィタン帝国皇帝であるレオニードからの使者がフェリシアーノ王国にやって来たのだ。
『我がレヴィタン帝国はその力の全力でもって、貴国の窮地を救おう。ただし、条件がひとつ』
それは、世継ぎの姫であるフィオナと、かのレヴィタン帝国皇帝との結婚であった。

確かに、フィオナは美しい姫君だ。
少女らしい華奢さが色濃い肢体は、ほっそりとしていて腰などは屈強な男の手にかかれば簡単に折ってしまえそうなほどだ。抜けるように白い肌は、まるで滑らかなチャイナのようだ。ふわりとかかる宵闇色の巻き毛は腰のあたりまで伸ばされており、美しいというよりも愛らしいという印象が強い。
そして、『嘆きの翠』そのままの色の澄んだ大きな瞳が、よりいっそうフィオナを魅力的に見せるのだ。
今咲き誇る花ではない。しかし、後の成長が楽しみな国民から愛される可愛らしい世継ぎの姫。それが、フィオナ・デ・フェリシアーノだ。
しかし、どれほど成長が楽しみな美しい少女だったとて、所詮はまだ十四歳の娘。対するレヴィタン帝国皇帝レオニードは二十六歳の男盛りだ。年齢的にも、釣り合っているとは言いがたい。

そもそも、レヴィタン帝国は大陸の北方に位置し広大な領土を有する強国であり、フェリシアーナ王国はもとより新興のアラルコン皇国などその足元にも及ばない。レヴィタン帝国の保護を受けられるのであれば、フェリシアーノ王国はアラルコン皇国を退け、国土を回復し国民の生活を守ることができる。
しかも、結婚後もフィオナの王位継承権は放棄させず、いずれ生まれる子供にその王位を引き継がせ、フェリシアーノ王国の独立は保持する、という破格の申し出だったのだ。

困窮するフェリシアーノ王国にとっては願ってもない救済の申し入れだったが、イスマエル国王は困惑した。
愛娘を売って手に入れる平穏。そんなものに本当に価値があるのか?
愛する娘はまだ十四歳で、恋も知らない。
王族に生まれたからには、政略結婚は義務でもある。しかし、早くに亡くした最愛の妻の面影を濃く受け継いだ幼い姫を敵地に一人赴かせる決心が付かなかったのだ。

『父上。私、レヴィタンに参ります』
十四歳になったばかりのフィオナは、まさに花でたとえるなら咲き初め。恋も知らぬからこその初々しい美しさを持つ姫だ。亡くなった王妃譲りの栗色の巻き毛と翠の大きな瞳を、父王を持つ娘をイスマエル王は溺愛してきた。
学問に明るかった母の影響を受けたのか、語学に堪能で勉強熱心な娘は父の自慢だった。やや甘やかし過ぎた感もあり、時折無鉄砲ないたずらや突拍子もないことをやらかす娘だが、そんな面も父には無邪気な可愛らしさに映る。
もっと幼い頃のフェリシアは脱走の常習犯で、王城を抜け出して城下で子供たちに混じって遊んでいたこともあった。その度に、城を上げての大捜索となり、フェリシアは父王はじめ侍女のタリアらにこっぴどく叱られていた。
ここ最近は、ようやくそういって突拍子もないことはしでかさなくなったものの、父王は娘の本質をしっかりと見抜いていた。
姿はたおやかではあるものの、この娘は強い好奇心と新たなことを受け入れ立ち向かっていくしなやかさを持っている。

「しかし……」
「いいえ、父上。私がレヴィタンに嫁ぐことで国民が幸せに平和に暮らせるのでしょう?なら、私は喜んでレヴィタンの皇帝陛下に嫁ぎます」

娘の瞳に揺るぎない決意を見て取った父王は、レヴィタン帝国の申し入れを受け入れた。大切な世継ぎの姫の輿入れなのだ。じっくりと時間をかけて婚儀の準備を進めた結果、予定していた秋というよりは冬にかかる今になってしまった。そうして、ようやく今日レヴィタン帝国へ向けてフィオナを乗せた船は出発と相成ったのだ。
レヴィタン帝国は、フェリシアーノ王国から内海である地中海を挟んで西側に位置する。フェリシアーノ王国からレヴィタン帝国まで、海が穏やかな時期であっても二日はかかる。
つまり、フィオナが未来の夫に会うのも、婚儀の儀式も二日後、ということなのだ。

ふう、と船上でまたフィオナはため息をついた。
この結婚が嫌なのではない。たとえ、結婚相手であるレオニード皇帝の顔も知らなければ、今まで一度も会ったことがない、ということも王家に生まれた姫の結婚としてはさして珍しいことではない。
ただ、漠然と不安なのだ。

レヴィタン帝国から見れば、明らかにフェリシアーノ王国は格下だ。そんな小国からこともあろうに正妃を迎えるのだ。妾妃として迎えられてもおかしくはない国力差があることを、フィオナも理解していた。だからこそ、いったいどんな意図がレオニード皇帝にあるのかフィオナにはまるでわからない。どう考えてもこの婚姻で得をするのはフェリシアーノ王国だけで、レヴィタン帝国の利益などひとつもないようにフィオナには思えるのだ。
そして、両国は文化も大きく違う。フェリシアーノ王国は、南に位置しているため冬にも雪はほとんど降らない。しかし、広大な国土を持つレヴィタン帝国の帝都サハロフは北方に位置し、その皇宮は『冬宮』と呼ばれる程に厳しい冬が半年ほども続くと聞いた。

「寒いの、苦手なんだよねぇ…」
そんな問題ではないのだが、あえてフィオナは小さく呟いた。
また、レヴィタン帝国は列国の中でも特に作法や儀礼に厳しいことでも有名なのだ。世継ぎの姫として、もちろんフィオナも礼儀作法はひと通り教育を受けているが、自分で言うのもなんだがそう得意な方ではなかった。刺繍よりも乗馬の方が好きだったし、礼儀作法のうるさい王城での晩餐よりも親しい者たちが集まったざっくばらんなお茶会の方が好きだった。

そんな国で、自分は本当にうまくやっていけるのだろうか?
王家の姫としての責任感も誇りも十分に持っているフィオナだが、所詮はまだ十四歳の少女なのだ。まだ見ぬ未来の夫、まだ見ぬ嫁ぎ先の国を思い、不安に押しつぶされそうになっていた。

そんな風に、船の甲板でひとりため息をついていたフィオナの下に、突然侍女頭のタリアが慌てた様子で駆け込んできた。フィオナが生まれた時から仕えていた信頼のおける、しかし日頃から行儀作法にうるさいタリアには珍しい。

「タリア、どうしたの?」
「姫さま!お早く船室にお戻りください!」
あまりに切羽詰ったタリアの様子に、ただならぬものをフィオナは感じた。
「何?何があったの?」
「海賊ですわ!このあたりの海を荒らしまわっている海賊たちの船に追われているのです…!」
確かに、地中海を荒らしまわっている海賊の話はフィオナも知っていた。しかし、まさか一国の王女が乗る船が襲われるなど。思ってもみなかった事態に呆然とするフィオナの手を引いて、タリアは船室に押し込めた。
「海賊って、財宝が目当てなんでしょう?この船にはそんなものは…」
「何をおっしゃっているのです、姫さま。姫さまこそが宝なのです。海賊どもは、高貴な姫君を攫って売り飛ばすのでございますよ!異教徒のハレムの話はご存知でしょう?ですから、姫さまは絶対にこのお部屋からはお出でにならないでください。必ず兵とわたくしどもが姫さまをお守りいたしますから!」
そう言ってタリアは肌身離さず持っている短剣をすらりと抜くと、不安そうなフィオナに少し笑ってその額にいとおしげに口づけを落とし、船室を出て行った。そう、それはまるで別れの挨拶のようなキスだった。

「タリア…」
 母が死んでからは、タリアはフィオナにとって母も同然だった。厳しくも、優しく、慈しんでくれる存在だった。

―――なに?海賊?そんなことって…!

暫くすると、甲板の方から男たちの大きな声が聞こえ、続いて剣で斬りあう高い金属音が響いて来る。

―――戦闘になっているの?どうして、そんな…。私、どうなっちゃうの?

フィオナも王家の姫君として、短剣の使い方は護身術の一環として身につけている。しかし、その術はこんな風に大勢の男たちに立ち向かっていくようなものではない。わかっていながらも、フィオナはすがるように旅立ちの際に父王から手渡された短剣を握り締める。

―――ああ、タリアは無事なのかしら?どんどん声が近づいてくる…!嫌、怖い!

フィオナが船室の隅で短剣を握り締めて震えていたその時、バン!と船室の扉が乱暴に開いた。

「ああ、ようやく見つけたぜ。お姫さま」
いやらしい笑いを浮かべ、血塗られた剣を片手に部屋に入ってきたのは、大柄で右の目が潰れたいかにも荒くれた海賊らしき大男だった。
「海の向こうの王さまのところに嫁に行く途中なんだってなぁ。悪いがあんたには、俺の嫁さんになってもらうぜ」
いやらしげににやにやと笑いながらだんだんと近づいてくる男に、フィオナは恐怖と共に耐えられないほどの嫌悪を感じた。ぶわりと、全身がそそけ立った。
「来ないで!それ以上近づいたら、死にます!!」

―――こんな男に触られるなんて、絶対に嫌…!

フィオナは父王から託された短剣を自らの細い首筋に押し当てる。しかし、強い言葉とは裏腹にその手は小刻みに震えていた。
そんな気丈なフィオナの様子に、薄く笑った男はからかうように言った。
「そんなことしたら、痛いぜぇ?ほら。そんなもん、こっちに寄越して、俺たちとキモチよくなろうぜ?」
じりじりと間合いをつめながら、男がフィオナに近づいてくる。

―――嫌、絶対に、嫌!こんな男に触れられるくらいなら…!

『死のう』、そう決心して首筋に当てた短剣にフィオナが力を入れようとした瞬間、銀色の光が走った。

ざしゅ。

フィオナの目の前に迫っていた大男が首から血を噴き出して、ごとんと倒れた。
倒れた男の後ろに、銀色の光が見える。

―――だ…れ……?

「馬鹿者。そんなに簡単に命を捨てるな」
酷く乱暴な物言いをする男がどうやらこの窮地を救ってくれたらしい。フィオナの目に銀色の光に見えたのは男の見事な銀髪だった。
しかし、自分を助けてくれたらしいその銀髪の男に礼を述べることもなく、フィオナの極限まで緊張した意識はそこでふっつりと途切れたのだ。

意識を失って崩れ落ちるフィオナを銀髪の男は空いた左手で軽々と抱きとめた。
「レオ…、っと今はレーニャか。こっちはあらかた終わったぜ、そっちは…。ああ、それが例のお姫さんか?」
「ダウィードか。そうだ。フェリシアーナ王国の『嘆きの翠』だ」
 銀髪の男を『レーニャ』と呼んだのは、陽に焼けた肌と少し色あせた金髪の男だった。鍛えられた太い腕をむき出しにしている。
片手で剣を器用に柄にしまうと、『レーニャ』と呼ばれた銀髪の男は腕の中のフィオナを抱えなおして、ゆっくりと歩き出した。
「おい、レーニャ!そのお姫さまをどうするつもりなんだ!?」
慌てて追いかけてくるダウィードに、レーニャはさも当たり前と言わんばかりに答えを返した。
「もちろん、俺の船に連れて行く」
「は?そりゃ、まずいっしょ!そのお姫さんは未来のレヴィタン皇妃なんだろう?そんなのを俺たちの船になんて連れて行くのはマズイって!万が一、こんなことがエリザヴェータさまの耳に入ったら…!」
「やかましい、そんなことはわかっている。難しく考えるな。俺の名は、ここでは『レーニャ』だろう?海賊船団の長『レーニャ』だ。奪うのは海賊の流儀じゃないか。襲われていた海賊から、この俺がこいつを奪ったんだ。だったら、これは俺のものだろう?」
そう言って、レーニャはダウィードを面白そうに見つめたまま、意識を失ったフィオナのまぶたにそっと口付けた。


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