猫から公共を考えてみた ~中之島哲学コレージュ「地域猫」から
金曜の夜、仕事もそこそこに切り上げて
中之島哲学コレージュ/哲学セミナー「あなたの身近な公共性2 地域猫」にいってきました。
阪大のコミュニケーションデザインセンターが企画して月2程度で哲学カフェ的なものをやっているようです。
今回はじめて行ってみました。
今回のテーマは「地域猫」。
地域猫と野良猫との決定的な差異というのは、すなわち、各個体が”管理”されているか否か、ということ。その”管理”というものにはTNR(Trap Neuter Release)、要は避妊・去勢されていることが極めて重要であるとのこと。活動されている方々は単なる猫好きというよりは、捨てられている猫を放っておけず拾ってしまわずにはいられないようなメンタリティの持ち主であり、その活動の根底にあるのは「これ以上不幸な猫を増やさない」ということであり、置き餌の禁止など未管理の個体がTNRされずに生きながらえてしまわぬようにとの配慮がある。
近年では 各地の自治体が地域猫、あるいはまちねこ事業を実施していて、手術代とかの補助もあるとか。
行政側が地域猫を支援することの大義名分としては、地域猫活動を通じてコミュニティを活性化するということがあるようだけど(もちろん実際にそのような効果もあるだろうが)、現実的には野良猫という糞尿や騒音苦情のもととなり、甚だ厄介なものを市民ボランティアに正当性を付与することで、適正に管理してもらおうというところなのかな、と。
さて、今回の会には地域猫に実際に携わっている方々3名がゲストという形で前に立ち一方的に主張していたのだけれど、そのなかで気になった点を挙げておきたい。
まず、猫のTNR処置について。
避妊・去勢は残虐、不自然で好ましくないという意見に直面することも少ないそうだが、猫にとっては性的快楽というものがなく、また発情期というものは極めてストレスフルなのだとか。そして、何よりも新たに不幸な個体を生み出してはならないということで猫の避妊・去勢は奨励すべきものなのだという。
後半部はともかく前半については初耳だったので確かにその通りならば、地域猫に対する倫理的ハードルは低くなるような気がするというものです…
哲学と銘打っているのでこの辺の掘り下げがあってもいいかな、と思ってたんですが、当日は特に膨らみませんでした。なんで、ちょっと考えてみると、猫にとって(そしておそらくは多くの動物にとって)生殖活動が苦であるから、あるいは快ではないから、避妊・去勢してもいいという論理というのはなんだかおかしなことのように思える。そうならば、あらゆるイエネコも同様に処置すべしということになってしまうわけで…まあこの辺についてはひとびとの心理的・倫理的ハードルを下げるためだけの表層的な情報ということになるかとは思うけど、(人間と動物という決定的な差異はあるものの)どことなく脳死・尊厳死をめぐる議論に通底するものを感じさせますね。
話はそれましたが、気になった2点目。
これは、このイベントのテーマとも重なってくる、すなわち今回の肝になってくるところになるのだろうけど、地域猫活動がいかにして公共性を帯びるかというロジック。これには2段階の公共性が想定されていて、まず第一に、糞尿・騒音といった公害源への対策としての地域猫。地域猫活動というのはその活動の性質上、その言葉がもつのどかな印象とは裏腹に野良猫を地域猫化(=不妊化)した上で最終的にはその地域から猫を駆逐することがそのゴールとなる。そういう意味では(かなり結果を急がないとはいえ)ある種の公衆衛生にも通じるような
加えて、活動家が指摘していたことには、猫の問題というのはつまるところ人の問題であるということ。ホームレスの人が野良犬猫を飼ってたりすることもあるけれど、意外とそれは一般人に(もう一匹くらいいいでしょなどと)「預け」られたりしている場合が少なくないとか。それはさておき、ホームレスの人がその境遇を脱しようとする際にネックとなってしまうのが案外飼っている犬猫であったりするのだとか。ホームレスが飼っている犬猫への避妊・去勢を試みたことから自立支援につながった例もあるのだとか。そういう例とまではいかなくとも、地域の猫を管理しようとする活動を通じて合意の形成や地域猫をめぐるルールの啓蒙は不可欠となり、程度はさておき、そこでひとびとの交流が生まれることにはなるだろう。
さて、この「猫の問題はつまるところ人の問題」については当日なかなか興味深い論点がふたつばかし提出されていた。
1つはゲストの一人で公園管理に携わっている行政の方から。猫に関する苦情を市民から受けると、行政は「餌やり禁止」の看板設置の処置でもって対策とする。しかし、これは考えなしにそこらの野良猫に餌やりしてる人と中長期的立場からTNRした上で管理の一環として餌やりしている人との区別なく、「餌やり=悪」と断じるものであり、その図式をますます世に定着させてしまうものであるのだという。そして、住民間での争いを助長しているとの指摘があった。
また、もう1点というのは、実際に野良猫による糞尿被害を受けた際に、ほんとうにその猫が”野生”であったならば、ある種の天災の類として受容できただろうが、その野良猫の背後に餌やりをしている人を想定してしまうことで苛立ちがわき上がってくるのだ、という。確かに現代の野良猫というのは自分で食糧を確保できるわけではなく、そこには必ず餌をやる人間の存在が隣接する。この話をしていた人は、裏の畑がイノシシに荒らされたときは苛立ちはわかなかったとも。そう思うと、野良猫あるいは地域猫なんてある程度の人口密集地でなくては成立しないんじゃないかな、とも。都市の獣害として農村のそれと比較してみるのもおもしろそう。
さて、これまでだらだらと書いてまいりましたが、まとめというわけでもありませんが、僕の思うところをば。
僕はこういう、趣味的な活動をフックにしたコミュニティの活性化、公共的なものを行政の管理にすべてを委ねてしまうのではなく市民が自発的にそれを奪い返すという類の話が好きだ。
一方に猫を世話したい人々がおり、もう一方に猫による被害は御免被りたいという人々がいる。その両者の欲求を猫の”適正な管理”を通じて満たすことができ、かつコミュニティ内での交流も促しうるともなれば、
(実際には合意形成やルールに従わない住民の存在等々で活動者に苦労は耐えないにしても)非常によくできた試みのように思える。
ただ、ここで気になるのは実際の活動者というのは自身の個人的な猫にまつわる体験・感情に根付いて行動しているわけで、その多くは決して公共性(を大義として掲げることっはあろうが、)を強く意識してその活動に従事しているわけではないだろう。(まあそもそもそうでなかったら地域猫活動ではなくて別な活動をすればいいのだから。)地域猫活動者自身が言っていたことだが、実際、地域猫活動者の間では(主にあげる餌の量や場所等々猫の待遇をめぐって)仲間割れというか諍いがたえないのだとか。猫というペットの代表格、しばしば自己の投影の対象とされるものへの思い入れが活動の起点となっている地域猫活動。その活動を通じることで公共性が育まれるのか、はたまた…
(こういう時は、内向的なものになりがちな小動物への思慕を外向的なものへと反転させ、公共へと開いていく云々とでもポジティブな言い方をした方がいいんでしょうが…ねえ)
中之島哲学コレージュ/哲学セミナー「あなたの身近な公共性2 地域猫」にいってきました。
阪大のコミュニケーションデザインセンターが企画して月2程度で哲学カフェ的なものをやっているようです。
今回はじめて行ってみました。
今回のテーマは「地域猫」。
地域猫と野良猫との決定的な差異というのは、すなわち、各個体が”管理”されているか否か、ということ。その”管理”というものにはTNR(Trap Neuter Release)、要は避妊・去勢されていることが極めて重要であるとのこと。活動されている方々は単なる猫好きというよりは、捨てられている猫を放っておけず拾ってしまわずにはいられないようなメンタリティの持ち主であり、その活動の根底にあるのは「これ以上不幸な猫を増やさない」ということであり、置き餌の禁止など未管理の個体がTNRされずに生きながらえてしまわぬようにとの配慮がある。
近年では 各地の自治体が地域猫、あるいはまちねこ事業を実施していて、手術代とかの補助もあるとか。
行政側が地域猫を支援することの大義名分としては、地域猫活動を通じてコミュニティを活性化するということがあるようだけど(もちろん実際にそのような効果もあるだろうが)、現実的には野良猫という糞尿や騒音苦情のもととなり、甚だ厄介なものを市民ボランティアに正当性を付与することで、適正に管理してもらおうというところなのかな、と。
さて、今回の会には地域猫に実際に携わっている方々3名がゲストという形で前に立ち一方的に主張していたのだけれど、そのなかで気になった点を挙げておきたい。
まず、猫のTNR処置について。
避妊・去勢は残虐、不自然で好ましくないという意見に直面することも少ないそうだが、猫にとっては性的快楽というものがなく、また発情期というものは極めてストレスフルなのだとか。そして、何よりも新たに不幸な個体を生み出してはならないということで猫の避妊・去勢は奨励すべきものなのだという。
後半部はともかく前半については初耳だったので確かにその通りならば、地域猫に対する倫理的ハードルは低くなるような気がするというものです…
哲学と銘打っているのでこの辺の掘り下げがあってもいいかな、と思ってたんですが、当日は特に膨らみませんでした。なんで、ちょっと考えてみると、猫にとって(そしておそらくは多くの動物にとって)生殖活動が苦であるから、あるいは快ではないから、避妊・去勢してもいいという論理というのはなんだかおかしなことのように思える。そうならば、あらゆるイエネコも同様に処置すべしということになってしまうわけで…まあこの辺についてはひとびとの心理的・倫理的ハードルを下げるためだけの表層的な情報ということになるかとは思うけど、(人間と動物という決定的な差異はあるものの)どことなく脳死・尊厳死をめぐる議論に通底するものを感じさせますね。
話はそれましたが、気になった2点目。
これは、このイベントのテーマとも重なってくる、すなわち今回の肝になってくるところになるのだろうけど、地域猫活動がいかにして公共性を帯びるかというロジック。これには2段階の公共性が想定されていて、まず第一に、糞尿・騒音といった公害源への対策としての地域猫。地域猫活動というのはその活動の性質上、その言葉がもつのどかな印象とは裏腹に野良猫を地域猫化(=不妊化)した上で最終的にはその地域から猫を駆逐することがそのゴールとなる。そういう意味では(かなり結果を急がないとはいえ)ある種の公衆衛生にも通じるような
加えて、活動家が指摘していたことには、猫の問題というのはつまるところ人の問題であるということ。ホームレスの人が野良犬猫を飼ってたりすることもあるけれど、意外とそれは一般人に(もう一匹くらいいいでしょなどと)「預け」られたりしている場合が少なくないとか。それはさておき、ホームレスの人がその境遇を脱しようとする際にネックとなってしまうのが案外飼っている犬猫であったりするのだとか。ホームレスが飼っている犬猫への避妊・去勢を試みたことから自立支援につながった例もあるのだとか。そういう例とまではいかなくとも、地域の猫を管理しようとする活動を通じて合意の形成や地域猫をめぐるルールの啓蒙は不可欠となり、程度はさておき、そこでひとびとの交流が生まれることにはなるだろう。
さて、この「猫の問題はつまるところ人の問題」については当日なかなか興味深い論点がふたつばかし提出されていた。
1つはゲストの一人で公園管理に携わっている行政の方から。猫に関する苦情を市民から受けると、行政は「餌やり禁止」の看板設置の処置でもって対策とする。しかし、これは考えなしにそこらの野良猫に餌やりしてる人と中長期的立場からTNRした上で管理の一環として餌やりしている人との区別なく、「餌やり=悪」と断じるものであり、その図式をますます世に定着させてしまうものであるのだという。そして、住民間での争いを助長しているとの指摘があった。
また、もう1点というのは、実際に野良猫による糞尿被害を受けた際に、ほんとうにその猫が”野生”であったならば、ある種の天災の類として受容できただろうが、その野良猫の背後に餌やりをしている人を想定してしまうことで苛立ちがわき上がってくるのだ、という。確かに現代の野良猫というのは自分で食糧を確保できるわけではなく、そこには必ず餌をやる人間の存在が隣接する。この話をしていた人は、裏の畑がイノシシに荒らされたときは苛立ちはわかなかったとも。そう思うと、野良猫あるいは地域猫なんてある程度の人口密集地でなくては成立しないんじゃないかな、とも。都市の獣害として農村のそれと比較してみるのもおもしろそう。
さて、これまでだらだらと書いてまいりましたが、まとめというわけでもありませんが、僕の思うところをば。
僕はこういう、趣味的な活動をフックにしたコミュニティの活性化、公共的なものを行政の管理にすべてを委ねてしまうのではなく市民が自発的にそれを奪い返すという類の話が好きだ。
一方に猫を世話したい人々がおり、もう一方に猫による被害は御免被りたいという人々がいる。その両者の欲求を猫の”適正な管理”を通じて満たすことができ、かつコミュニティ内での交流も促しうるともなれば、
(実際には合意形成やルールに従わない住民の存在等々で活動者に苦労は耐えないにしても)非常によくできた試みのように思える。
ただ、ここで気になるのは実際の活動者というのは自身の個人的な猫にまつわる体験・感情に根付いて行動しているわけで、その多くは決して公共性(を大義として掲げることっはあろうが、)を強く意識してその活動に従事しているわけではないだろう。(まあそもそもそうでなかったら地域猫活動ではなくて別な活動をすればいいのだから。)地域猫活動者自身が言っていたことだが、実際、地域猫活動者の間では(主にあげる餌の量や場所等々猫の待遇をめぐって)仲間割れというか諍いがたえないのだとか。猫というペットの代表格、しばしば自己の投影の対象とされるものへの思い入れが活動の起点となっている地域猫活動。その活動を通じることで公共性が育まれるのか、はたまた…
(こういう時は、内向的なものになりがちな小動物への思慕を外向的なものへと反転させ、公共へと開いていく云々とでもポジティブな言い方をした方がいいんでしょうが…ねえ)