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府中市立府中第二中学校 発祥の地
多磨村立多磨中学校跡
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郷土の森博物館には、多磨村立多磨中学校の校舎が復元されているわけではありませんが、
大切な資料として取り上げておきたいと思います。
昭和22年、新学制改革により、多磨村立多磨中学校の設立が認可され、
昭和22年4月1日、とりあえず多磨村立多磨小学校(現・府中市立府中第四小学校)に併置、
昭和23年3月22日、多磨村常久636番地に独立校舎が完成、3月28日に落成式がとり行われました。
4年後の昭和27年には校歌が制定されています。
当時、北多摩郡多磨村の中学校は、この多磨中学校1校しかありませんでした。
そして、昭和29年4月1日、府中町・多磨村・西府村が合併して府中市が施行されると、
多磨中学校は府中市立府中第ニ中学校に校名を改称し、
同年4月23日に府中市上染屋548番地(府中市紅葉丘1丁目)に新校舎第1期工事が完成しました。
同年9月1日には、新校舎への移転が完了しています。
平成21年4月で市制55周年を迎える今、多磨中学校の跡地はボートレース多摩川に姿を変えています。
府中市立府中第二中学校 発祥の地である多磨中学校の跡を、古い写真とともにご紹介します。
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昭和26年3月撮影 父は中学2年
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現在のほぼ同じ場所
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昭和27年3月10日撮影 父は中学3年
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現在のほぼ同じ場所
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昭和27年3月 平屋校舎を背景に正門にて
(南から北を撮影)
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現在のほぼ同じ場所
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昭和27年3月 松を背景に校庭にて
丸石が積まれていますが、お稲荷様の祠だろうか?
(西から東を撮影)
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現在のほぼ同じ場所 背景に松が少し見えます
すぐ右手にはお稲荷様が鎮守
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校庭の境(南側)を流れていた大川(通称・清水川)付近


昭和27年3月 二宮金次郎像

当時、多磨中学校の校庭にあった赤松でしょうか。同じ場所に、今でも3本の松が立っています。
昭和23年、多磨中学校の校舎が完成した当時、赤松の木立の中に旧陸軍の真っ黒な倉庫があり、
学芸会や映画教室に使われていたそうです。

多磨中学校の校舎は、東側に平屋校舎と西側に2階建て校舎が並んでありましたが、
昭和23年3月に完成した平屋校舎は駐輪場(地図)から、正門入って右手(地図)まであったそうです。
そのすぐ西隣に、昭和24年9月に完成した2階建て校舎がありました。
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校庭跡(2階建て校舎前)にある笹川良一 孝子像
自然石のテーブルとイスもあります
碑文
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母背負い
宮のきざはしかぞえても
かぞえつくせぬ母の恩愛 |
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笹川良一氏が59歳の時
82歳の母親を背負ってお宮参りする姿
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来場者を出迎えてくれる福狸 (校庭跡)


自由に参拝ができるお稲荷様は正門入ってすぐ左手にあります


昔からこの地に鎮守していたか、父は覚えていませんが
ボートレース多摩川の広告では、多摩川上流から流れついたお稲荷様だと説明しています

青梅市や株式会社豊島園の名前が見られる
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教師が語った創立当時のこと
(引用 「創立30周年記念誌」
)
昭和23年、他地区にさきがけて独立校舎が竣工した。
機械船と砂利穴で表徴された当時の常久河原に、
平屋建てながら赤瓦をのせた瀟洒(しょうしゃ)な建物は、人目を引く存在となった。
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砂利穴跡を利用した
ボートレース多摩川の水面
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背景の石垣は多摩川の玉石
平屋校舎の屋根は赤瓦だった |
自慢の一つは、倉光先生の手による玄関前の花壇だ。
れんがを万里の長城風に並べたモダンなもので、
デージー・クロッカス・チューリップ・マツバボタン・コスモスなど、
四季の草花が咲き乱れていた。
さすがのやんちゃ坊主共も、花には手をつけなかったのは感心したものだ。
(平屋校舎)南側のアカマツの木立の中には、旧陸軍の真っ黒な倉庫が残されていた。
学芸会・映画教室はこの中で行われた。
机や椅子は、刑務所まで全員並んで引き取りに行った。

石垣の玉石・砂場の砂は、生徒が河原から運んだものだ。
校庭の境を流れる小川に魚が多く、この年に投網を覚えた。懐かしい思い出は尽きない。
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ボートレース多摩川 イースト・スクエア風
水色の部分が校庭境を流れていた川跡 対岸
(写真の向こう側)が校庭跡 |
 校庭境を流れていた川沿い
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多磨村立多磨中学校の歴史
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昭和22年4月1日 |
新学制改革により多磨村立多磨小学校に併置という形で多磨中学校発足 |
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昭和22年4月19日 |
府中青年学校の校長・小沢恒衛が初代校長に着任 |
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昭和22年4月30日 |
教員13人・事務員1人が就任 |
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昭和22年5月7日 |
1年生167年・2年生109人・3年生69人 合計345人が入学
7学級編成でスタート |
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昭和22年5月22日 |
多磨中学校学友会(現在の生徒会)が発足 |
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昭和22年8月1日 |
多磨中学校教育後援会が創設 |
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昭和23年1月11日 |
独立校舎予定地(多磨村常久636番地)で地鎮祭 工事着工
日本建設工業会所有の倉庫を譲り受けたので、倉庫を校舎に改造工事 |
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昭和23年3月22日 |
独立校舎工事完了 村に引き渡しされる
敷地面積は1万5304,2u・校舎は木造平屋512,43u・8教室 |
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昭和23年3月28日 |
落成式とともに第1回卒業式が新校舎でとり行われる |
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昭和23年3月31日 |
昭和10年から存続していた多磨青年学校が廃校 |
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昭和23年4月 |
新校舎で授業開始 |
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昭和23年7月20日 |
多磨中学校教育後援会が解消してPTA発足 |
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昭和24年3月 |
校舎増築工事着工 |
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昭和24年4月 |
父が入学 ※ |
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昭和24年9月22日 |
増築校舎落成
(教室3・職員室1・小使室その他・147坪・約485u・2階建て) |
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昭和27年3月 |
父が卒業 ※ |
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昭和27年 |
校歌が制定される |
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昭和27年10月1日 |
初代校長・小沢恒衛が国分寺中学校へ転任
国分寺中学校から小林三男が2代校長に着任 |
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昭和28年夏 |
東京モーターボート株式会社が競艇場を多磨村常久河原に建設したいので、
多磨中学校の移転を村に申し入れる。村は検討した結果、移転に同意して、
多磨村上染屋548番地(府中市紅葉丘1丁目)に移転を決定する。 |
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昭和28年 |
地元では村民が反対運動を起こし、村長のリコール騒ぎに発展したが、
当時は府中町・多磨村・西府村の合併に向けて進んでいた※ |
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昭和29年4月1日 |
府中町・多磨村・西府村が合併して府中市が施行され、
多磨村立多磨中学校は府中市立府中第二中学校に改称される。 |
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昭和29年4月 |
新校舎の工事完了を待たず1・2年生は新年度早々新校舎へ移転 |
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昭和29年4月23日 |
多磨村時代から進めていた府中市立府中第二中学校の第1期工事が完了 |
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昭和29年4月25日 |
初代府中市長に旧府中町長の小林茂一郎が就任 |
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昭和29年5月 |
3年生も新校舎へ移転 |
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昭和29年5月7日 |
府中市立府中第二中学校の開校式が挙行される |
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昭和29年7月24日 |
府中市立府中第二中学校の第1期工事落成式 |
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昭和29年5月 |
砂利採掘場跡に府中競艇場が完成※ |
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昭和29年6月9日 |
府中競艇場で初めてのレースが開催※ |
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昭和29年9月1日 |
府中市立府中第二中学校が常久から上染屋へ移転完了 |
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昭和29年12月20日 |
市議会は旧多磨中学校の校舎などを東京モーターボートに無償譲渡を議決※ |
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昭和30年5月9日 |
府中競艇場の名称を多摩川競艇場に改称※ |
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府中第二中学校 校歌
作詞:神保光太郎 作曲:広石徹
山はみどりに みずきよく
人のこころも いやすみて
われら わかあゆ 日本の希望
ひとみはもえて 若き学び舎
われら われら はげまんここに
富士はましろに そらたかく
今日も教える 自主の道
われら わかわし 日本の希望
われら われら きたえんここに
多摩の流れは とことわに
歴史はふるし ふるさとよ
われら わこうど 日本の希望
真理をたずね 若き学び舎
われら われら みがかんここに

昭和27年3月撮影 背景の校舎は昭和24年9月落成
(多磨村立多磨中学校時代の昭和27年に校歌制定) |

ボートレース多摩川のウェイキープラザでは、ボートレースグッズが販売されています
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「多磨村立多磨中学校の歴史」(年表)は、※以外は主に、
「府中市 教育の歩み」 (発行 府中市教育委員会)を参考にしました。 |
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