Y田タヌキ その論理と情熱

呉智英夫子主催 論語講座 以費塾 第十四期 DVD発売中

2008-01-02

[]2007年12月1日 呉智英夫子(新崎智)の授業 at 理科大 8th 00:30

id:nitarとかに、ネットじゃ呉夫子の認知度は低いんだから、

講義録上げると良いとか言われたりもしたので、講義録の完全版をうぷ。

id:nitarみたいに、ある程度まとまった感じにしたほうが読みやすいんだろうけど

そんなのしても、いまいちなぁ。まあ俺は講義のライブ感重視で。

板書

引用

※俺のコメント

ってな感じに分けた。

資料の画像は、クリックすればでかい画像が別ウィンドウで出てくるから

それを見ながら講義録を読むといい感じ。


文化論


儀礼

こういう話をします。

なんで突然こういう話になったのか、戸惑うところだと思いますが、

話を聞いていくうちに分ります。

儀礼論ということは同時に

非合理的政治論

非合理的政治論ということになるということなんですけれども

まずこの非合理的政治論のほうから説明しますと

これは「非合理」でなくて、「非」合理的政治論ということなんですね。

簡単に言えば、人間の政治への意欲っていうのはですね

訳のわからんことから起きるんだということなんですね

これ今までそんな話をしましたね

我々は、特に諸君らはですね

小学校中学校高校、それからまあこの大学のほかの法律論とかなんとかの授業においてですね

人間は合理的に行動するという風に、そういう前提で、歴史とか社会とか政治ってものが

組み立てられているという風に考えている

そう考えないと子供たちは理解できなくなるんだけれども

実は良く考えると、人間ってのは訳の分かんない行動をしているということなんですね

この合理については次回もっと詳しく説明いたします。

合理主義ってのは多義的に使われるんで、次回もうちょっと詳しく説明しますけれども

基本的にはそういうことです。

それが実は儀礼ということにつながっているということなんですね。

これを何ではだしのゲンとかマンガにつながってくるかっていうのは

おいおい説明しますけれども

我々はですね、この儀礼ということについて、

まあここには4年生の子はいないと思うんだけれども

4年生ぐらいになりますと、就職活動の一環としてですね

大学で、まあこの大学でやっているか分りませんけれども

電話の受け答えの仕方とかですね、面接に行った時のね、

それからまあ、おじぎの仕方とかですね

そういうことを習うんですね

それを儀礼だという風に思っている人が多いけど

それは儀礼ではない。

儀礼の一作用にすぎない。

つまり簡単にいえばそれは交際術、マナー、エチケットですね。

そうじゃなくて儀礼ってのは根源的にどういう意味を持っているか

儀礼ってのは大抵非常にばかばかしいことで、なくても構わんじゃないか

そういう風に思う人が多いし、事実そういう風に思いたくなるような儀礼が多いんだけど

じゃあそんな儀礼ってのは一体何のためにあるのか

今言ったように、相手を不愉快にさせないため

相手を簡単に言えばおだてるためにあるのか

そうではなくて、もっと根源的な何かがあるはずだということであり

かつそれが、例えば歴史とか社会、あるいは政治を考える上で実は重要であり

はだしのゲンを考える上においても重要である

こういうことなんですけれどもね

まずプリントを配ります


※資料配布


上半分を見てください

f:id:YdaTanuki:20080101235023j:image:w300

はだしのゲンのマンガが書いてあるところだね

これは見て分かるように2ページ分になってますね

こういうのを見開きと言います。

見開き

これはまあ簡単に言えば出版用語っていいますか、印刷用語と言いますか

そういう出版なんかの業界用語なんですけどね

で、この見開きってのはどういう時に使われるかっていうと

これはもう言うまでもないですね

当然大ゴマなわけですから、一番大事なシーンとか感動的なシーンですね

事実これ実は後で読みますけれども、非常に重要で感動的なシーンなんですね

これ以外にはですね、はだしのゲンの中で見開きが使われているところは

実はほんのあと1,2箇所しかないんですね

あと1,2箇所ってのはどういうところかって言うと

連載の都合上、連載何回目かでですね

ちょっと人気が出てきたんで、最初のこう、口絵カラーページを使おうなんて言うような時に使われているだけである。

だから今諸君らが単行本で読んだときはですね

全部モノクロの印刷になっていますから、口絵のカラーページもありませんし

どこが人気が出てきたシーンでどーのこうのってわかりませんからね

なんでそこのところが大ゴマ、見開きになっているかよくわからない

でもここの所は見開きである理由は非常に簡単である

クライマックスシーンなんですね

実はこのあと何ページかのところでですね

はだしのゲンはちょうど終わることになる。

はだしのゲン第一部

このテキストに使っている第一部が終わるわけですね

そこのところでゲンがですね、がんばって生きていこうっていう決意をして

父親が、いつもゲン達に言っているように

麦のようにたくましく生きろ

麦は寒い冬をですね、麦踏みによって固められて生きている

そういうつもりで生きていかなきゃいけない

という風に父親が諭す、それを思い起こしながらですね

ゲンが力強く生きていこうと思う

でその時に被曝によって髪の毛が抜けていたゲンの頭からですね

いくらか回復したんでしょうね、髪の毛が生えてくる

というそういうシーンで終わる、その直前のところなんですね

ですから非常に大事なところです。

さてこれを見てみましょう

見開きページですね

パッと見て分かるように

どうもなんか葬式をやっているわけですね

この当時ですから、昭和二十年の被爆直後ですから、亡くなる人はもちろん原爆以外でも

体を悪くしたり、空襲の障害で死んだりとかまあ、当然色々あるわけですけれども

栄養失調で死ぬ人もいるでしょうしねえ

でも、葬式をちゃんとまともにできないんですね

現在ですと火葬場に行ったり、坊さんが来たりするんだけれども

それができないので

ここにあるように、これはおそらく海岸端だと思いますけれども

広島ですから、目の前は瀬戸内海ですね

そういうところで流木のようなものを集めてきて

そして葬式をしている

誰の葬式をしているのか

ゲンの妹、友子ですね

二,三回前にありました、誘拐されていて、お姫様、何か新興宗教の教祖になりかねないような

お姫様になっていたその妹ですね

取り返してきたんですけれども

結局は栄養失調その他で死んでしまうわけですね

で、ゲンが、前にはですね

浪花節語りをして、この友子のミルク代、おかゆ代、重湯代を稼いでいたんですけれども

浪花節の他にもですね、ゲンはいろんなアルバイトをしていました

そのうちの一つが、ここにあるようにお経なんですね。

葬式を頼む時もありますから、お経は欠かせない

ゲンってのはたくましくて器用な子供ですから、浪花節を覚えているように

お経を覚えている。

ゲンがお経を読みながらですね、周りの人たち、何人かの親族と一緒に

その友子のお棺をですね、流木を集めてきて焼いているシーンですね。

これ厳密に言うとお経ではありませんけれども、広義のお経です。

蓮如上人 御文章

蓮如上人の御文章というんですけれどもね

蓮如上人というのは浄土真宗の中興の祖、親鸞から始まる浄土真宗の中興の祖なんですけれども

まあ現在の浄土真宗っていうのは、実質的にはこの蓮如上人が作ったと言われているんですけれどもね

この蓮如の御文章、「御文章」と書いて「おふみ」と読みます

厳密に言うとですね、

経 釈迦

お経ってのはこれは釈迦

仏教開祖釈迦が語った言葉、これがお経なんですね

あるいは語ったと言われる、本当に語ったか分らないですよ

語ったと言われているのがお経である

あるいはそれに準ずるものがお経である。

ところが蓮如上人っていうのは、もう釈迦の時代から千何百年経てますし

日本人ですしね

厳密に言えばお経ではありませんけれども

釈迦の精神を継いで、浄土宗ができてそれが浄土真宗になって、浄土真宗の中でも

中興の祖の蓮如上人の時代になってという風に何度も

時代を経て代を重ねているんですけれども

まあ広義で言えばお経

厳密に言うとお経ではない。

仏像といって、たとえばなんとかの仏像展っていうときに

菩薩像なんかも置いてありますね

菩薩は仏じゃないじゃないか

仏ってのは釈迦のことなんですけど

仏じゃないじゃないかってことになるんだけど

まあ仏像って言いますね、それと同じようなものです

厳密に言うとこれはお経ではありません。

さていいですか

その友子の葬式のところね

夫人間の浮生なる相を

つらつら観ずるに

およそ はかなきものは

この世の始中

まぼろしのごとくなる

一期なり

されば いまだ万歳の

人身をうけたりという事を

きかず 一生すぎやすし

いまにいたりて たれが

百年の形体をたもつべきや

我やさき 人やさき

めんどくさいので6行ほど飛んで

朝には紅顔ありて

夕には白骨となれる身なり

これ有名な言葉ですね

朝には美少年、美少女かと思っていたけれども

夕方にはもう死んでしまって、焼き場で焼いて白骨になってしまう。

こういうことですね

10行ほど飛んで行って、後ろの7行ほどいきますかね

たれの人も はやく後生の一大事を

心にかけて

阿弥陀仏をふかく

たのみまいらせて

念仏もうすべきものなり

あなかしこ

あなかしこ……………

こういう言葉なんですけれどもね

こういう葬式があってその下

く くそ〜 友子の命をたすけるためにならったお経が

死んだ友子にやくだつとはおもわんかったよ……

わしゃ友子にお経をあげるつもりでならったんじゃないわい

むしろ逆ですね

友子の命を助けてやるために

坊さんの真似ごとをしてお金を稼ぐためにお経を覚えたわけですね

お…おかあちゃん

わしゃくやしいよ

くやしいよ……

げ 元!

友子は天国できっとよろこんでいるよ……

元気をだそうね…

みんな元気をだそうね…

とおかあさんが励ましている感動的なシーンですね

誘拐されて非常に苦労しながらですね

妹を助けに来たんだけれども死んでしまう

そういう、感動的なシーンですね

さっき言ったように、このあとゲンはですね

でもやっぱり自分は麦の如く強く生きていくんだ

亡くなったお父さん、原爆の災禍の中で亡くなったお父さんが

元気な時にいつも言っていたように

麦のように踏まれても強く生きていくんだと

決意を新たにしていく

その数ページ前の感動的なところ。

さて、諸君らこれを見ておかしいと思わないかね

はだしのゲンの一番のテーマが、原爆の災禍に対する怒りである

戦争に対する怒りである

ところが感動的な一番感動的であるのは

原爆の災禍の中で戦っていくところではなくて

友子の葬式のシーンである。

このほかには連載の都合で一、二回見開きが使われているだけで

他には見開きが使われていない

被爆のシーン、あの恐ろしい原爆の恐怖を訴えた被爆のシーンも見開きが使われていない。

友子の葬式のシーンに、見開きが使われている。

しかも、そこで書かれているのは、上に挙げたように

蓮如上人の御文章である。

ここに被曝に対する怒りとか、原爆に対する抗議というものは全く描かれていない。

これを知らずに読んでしまえば

ある意味素直に読めば、これは浄土真宗の教義を宣伝するために書かれたマンガとも

むしろ読めてしまう

だってそうでしょう、ここに書かれていることはそうでしょう

夫人間の浮生なる相を

つらつら観ずるに

そもそも人間の浮き沈みの見え方というものを

よく観察してみると

およそ はかなきものは

この世の始中

およそはかなきものは、この世の一切である。

まぼろしのごとくなる

一期なり

まぼろしのごとく一期である。

されば いまだ万歳の

人身をうけたりという事を

きかず 

そうであるから、一万年の寿命を得た人間というのはいるということは

私は聞いたことがない

一生すぎやすし

いまにいたりて たれが

百年の形体をたもつべきや

我やさき 人やさき

きょうともしらず

あすともしらず

数行飛んで

朝には紅顔ありて

夕には白骨となれる身なり

最後の方も

というようなわけだから、

たれの人も

どんな人も

はやく後生の一大事を 心にかけて

後生、生きているうちではなくて、死んだ後の一番大事なこと

これはそこで浄土に行くことである。

心にかけて 阿弥陀仏をふかく たのみまいらせて

それを心に心がけて、阿弥陀仏、阿弥陀さんの仏というものをふかくたのみまいらせて

念仏もうすべきものなり あなかしこ あなかしこ

どう考えてもここで言っているのは

阿弥陀如来は立派である。

この世というものは儚いものであるから

阿弥陀様に一心不乱にお願いして、自分があの世で成仏できるように

お願いすべきものであると言っているにすぎない。

それをわざわざ大ゴマを使っている

そうだとすれば、はだしのゲンというのは実は浄土真宗の宣伝マンガである

ということになりかねないだろう

でもそれは、はだしのゲンはそんなバカなことはないってのはすぐわかるよね

そうじゃない

被爆の中で苦闘する少年の物語

あるいはその家族の物語

その中で家族の愛が結束してがんばっている物語である

なんでこんなことになっているんだろう。

これ言うまでもないよね

つまり葬式だからでしょう

我々はしばしば仏教ってのを葬式仏教っていう風に馬鹿にするけれども

しかし人間が死んだとき、やはり人間ってのは葬式なしでは済まされない。

どんな形にしろ葬式ってのは必ずあるはずである。

仏式でやるかキリスト教式でやるか、仏教の中にもいろいろ派がある

神道式でやるか

いろいろあるけれども、必ず出てくる

このときに仏教にも神道にもキリスト教にもかたよらない

単なる宗教というのを書くことができるだろうかといえば、それは書けない

必然的にここで、仏教的な葬式を書かざるをえない。

つまり別の言い方をすれば、これは仏教の教理を教えているわけではなくて

仏教という形、あるいはキリスト教でもいい

ただし広島地方の多数派の人にとっては仏教になる

ここでの仏教っていうのは、単なるバックグラウンドミュージックと同じようなものだね

つまりここは、儀式を描いている

儀式なくして、この友子を失ったゲンの心を描くことはできない

ということです。

予想外に人間にとって儀式というのは重要だってのがわかりますね

こういう形式の儀式、かどうかは分かんないですよ

儀式がなければ実は人間というのは、ほとんど何もできないのではないか

儀式の内容、やり方は別ですけれど。

ここのところ、これがなければ、この感動は生まない

しかも、自分は仏教には興味がないからというんで

ここでお経を取ってしまったら

ここは葬式のシーンにならない

キリスト教式でも仏教式でもなんでもいいんだけど

とにかくこの宗教のこういう役割を使わなければ

感動的なシーンにならないんだということがわかりますね

なんで人間にはこんな儀式ってものが必要なんだろう

まことに不思議なことですね

宗教なんて何の役にも立たない

葬式なんてやんなくたっていいじゃないか

金も手間もかかるじゃないか

実はこれが非合理ということですね

そんな役に立たないもんが実は役に立っている

これがなければ何もできない

しかも、そういう儀礼が政治の中に非常に密接に介入してきている

このシーンではそうじゃありませんよ

そんな例を考えていきましょう

例えばですね

ソ連

もう今では旧ソ連ですけれども

ロシアを含む16カ国、15カ国の国が集まってですね

今はそれぞれ独立してしまいましたけどね

旧ソ連というのがありました

1991年まで存在していたんですけれども

このソ連というのはですね、基本的に共産主義マルクス主義唯物論の国ですね

宗教なんて何の役にも立たないんだっていうんで

ロシア正教の寺院を破壊したり

あるいは、ロシア宗教の僧侶というものをですね、全部クビにしてしまって

普通の労働者にしてしまったりして成り立っていた国である

マルクス主義ですから、宗教に対して非常に批判的な国ですね

マルクス主義の人は、宗教ってのはあれは阿片みたいなもんであって

民衆を堕落させてしまうんだって拒否している

じゃあ、そういうソ連において、儀礼というものはなかったんだろうか

宗教的な儀礼ってのはなかったんだろうかということになりますと

実はあったんです

レーニン

レーニン廟、レーニンのお墓ですね

レーニン廟というのがありました

レーニンってのはロシア革命の指導者ですね

1870〜1924

1870年から1924年ロシア革命1917年ですから、ロシア革命の後7年して亡くなっています。

革命の指導者レーニン

このレーニン廟、レーニンのお墓というのが、モスクワ赤の広場にあります。

赤の広場

赤の広場っていうのは、多くの人は誤解していますけど

共産主義のことを赤、赤旗の赤ですね、

赤と言いますけれども、それとは何の関係もありません

赤ってのは輝かしいという意味ですね

はなやかな、輝かしい

輝かしい広場っていうんで赤の広場

偉大なる広場、という意味です

ですからロシア革命の前にも、ロシア革命の後にも、それから社会主義が否定された後にも

一貫して名前は変わらない

昔の皇帝制のときにも、そのあと共産主義になったときにも、それから現在も赤の広場のままです

つまりその国にとって一番輝かしい、中心にある広場、こういう意味ですね

モスクワにあります。

この赤の広場レーニン廟があります

このレーニン廟ってのは未だにまだ残っています。

私も二回か三回、モスクワに行っていますけどもね

このレーニン廟にレーニンの遺体が安置されています。

これが、レーニンの遺体が、まるで生きたままのように、これが、生きたまま眠っているようにですね

安置されています

こうガラスケースに入って顔がこう見えるようになっているんですね

見ても、本当にそのまま生きたままのレーニン

亡くなったのが1924年

私が行ったのが、それから70年くらい、1990年代ですからね

70年くらいたっているけれども

今でもそうでしょうけど

まるで生きたままになっている

このソ連が崩壊する前にですね

これについて、アメリカソ連の間で議論がありました

アメリカはですね、CIAに色々調べさせた結果

このレーニンというのはですね、偽物で蝋人形

蝋人形ってのは西洋人が非常に好きでですね

この近くで言うと、近くといいますか東京でいうと、

東京タワーの中にも蝋人形館ってのがあるくらいで

蝋でですね、人間そっくりに作る

こういう、過去の有名人なんかをですね

蝋人形で作って展示するなんていうことが

ロシアに限らず、イギリスだとかフランスだとか、いろんなところでやられていますね

非常に精巧にできるものです。

こんな生きたままの格好でですね

丸々残って腐りもせず残っているのはおかしいっていうで

アメリカCIAのほうがですね

これは蝋人形であると言う風に発表した

ところがそれに対してソ連が反論して

そんなことはない

資本主義に毒されたアメリカ帝国主義はですね

そんなバカなことを言うけれども

我が国は科学的社会主義の国である

世界で一番科学が進んでいる国である

現に人工衛星を最初に打ち上げ、有人衛星も最初に飛ばしたのは我が国ではないか

ってなことをソ連政府は言うわけですね

で、人類の最先端の技術でもって、レーニンの遺体がそのまま生けるがごとく

眠るがごとくですね、残されているんであって

アメリカはまた、馬鹿なデマを流しているんだ

片や蝋人形説、片や最先端の技術説っていうで、大論争、というか大にはならないですけどね

論争になった

ところが1991年にですね、ソ連が崩壊してみると真相がわかった

アメリカソ連も両方が嘘をついていた

こう不思議なことがあったんですね

これどういうことかといいますと

実はですね、蝋人形ではなかった

本当のレーニンの遺体であった

それに最新の科学的技術を施したってのはこれ嘘である。

どういうことかというとですね

最新どころか、もっとも原始的な方法

諸君らが小学校のころにやったようなですね

昆虫採集のような、そういう極めて原始的な方法を施した

どういうことかというと

レーニンの遺体のですね、中の身をくりぬいて、皮だけ残して

中に脱脂綿をつめてですね

それにホルマリンを浸して保存していた

カビが生えない、腐らない

ものすごく原始的な、昆虫採集のようなやり方をしていたわけですね

最先進の技術でもなければ、蝋人形でもない

そういうやり方でレーニンの遺体がここに保存されていた

問題なのは、ジャーナリスティックにそれは非常に面白かったんだけれども

問題なのは、そうまでしてなんでこのレーニン廟を維持しなければいけないのか

ソ連社会主義、これは唯物論である

人間には魂なんかない、宗教なんて馬鹿馬鹿しい、ロシア正教なんかやめてしまえ

と言っていたものが、なんでこんなもんを作んなきゃいけなかったのか

しかもですね、ソ連では何か儀式があるたびに必ずレーニン廟です。

国家的儀式はもちろんそう、軍隊が行進したりですね、

それから、新しい政府高官が登場した時にも

レーニン廟の前で儀式をする

それから実に一般人もそういうことをします

例えば結婚式、レーニン廟の前まで行って、花嫁衣裳と正装をした花婿が行ってですね

レーニン廟の前で写真を撮ったりしている

ものすごく不思議なことですね、何の意味もない

簡単に言えばミイラがですね、昆虫採集のようになって保存されているだけのところに

なんで一般人が、結婚したからってそんな前に行って写真撮らなきゃいけないの

非常に不思議なことですね、でもこれがなければ社会も政治も成立しない

奇妙なことですね

これが観察される

それから、例えばこんな例もあります。

これはソ連の例ですけれども、支那の場合には

支那

毛沢東

1893〜1976

これは毛沢東廟ですね

これは北京天安門広場というところに毛沢東廟というのがあって

ソ連レーニン廟と全く同じやり方をしています。

その廟の中にですねガラスケースに覆われた毛沢東が入っていて

生けるがごとく眠るがごとく

そのまま保存されている

当然ながらソ連技術者の技術援助によって

同じやり方でもって、これが保存されている

そしてこの毛沢東廟にやっぱりですね、支那全土から善男善女が集まってきて

これにお参りしている

何かというとこの毛沢東廟でいろんな儀式が行われる

同じようにこれも、社会主義、現在まあ支那はですね

社会主義をやめて、やめたわけではないんだけれども

勝g小平以来の開放経済という資本主義を導入してますけれども

思想的にはあくまでも中心にあるのは共産党共産主義唯物論

それが毛沢東に関しては、そういう宗教的な儀礼に近いような扱われ方をしている。

それから北朝鮮

北朝鮮

金日成

1912〜1994

現在は金正日が一番偉いことになっていますけど

そのお父さんですね

金日成ですね

これも金日成廟なんですけれども、これは金繍山記念館という風に言います。

金繍山記念館

金繍山記念館というところに、やっぱり金日成廟があってですね、祭られています。

これはですね、他の2つの国と違って、極めて閉鎖的な国ですから

一般人がなかなかこんな金繍山記念館に行けません

しかしやはり儀礼が行われていることは間違いありません

ついでにもう少し説明しておきますと

この金正日金日成なんですけれどもね

現在まあ色んな意味で、この子供の

金正日

金正日が注目されていて、この後継者のことまで今注目されているんですけれども

もちろん今は日本でですね、国をあげて、北朝鮮金日成体制に対する批判が強まっている

日本人を拉致したりですね、それから日本の海上警備隊の船を狙撃したり

さらにはミサイルを撃ってくるんじゃないか

今まではなんとなく、日本が昔植民地支配をしたっていうんで同情的に扱われていたのが

今は全然そんな風に扱われていない

昔できなかったような金日成北朝鮮に対する批判もできるようになってきましたね

ところが不思議なことにですね

これほど今北朝鮮のやり方をぼろくそに叩いて、それに対して誰からも苦情が出ていないんだけれども

金日成その人についての批判といいますか、その裏話ということは

テレビでもラジオでも新聞でもほとんど言わない。

それは何かというと、実は金日成金日成ではないということなんです。

研究者は誰でも知っている。研究者に言わせると、金日成金日成ではありません。

そしてまた実は金日成ってのは4人いる。

これは研究者は誰でも知っていることだけれども、なぜかマスコミでは

これはタブーのようにされている

どこでも書かれたことは見たことがない

新聞でも、まあ雑誌にはときどき書かれますけれども、新聞でもテレビでもそんなことは言いません。

金日成金正日体制がいかにひどかった、ひどいかってことは言いますけど

そういうことは言わないんですね。私は不思議でしょうがないんだけれども

まあ諸君らがいつか何かを知るときの手掛かりになるかもわからないから

これちょっと、この本来からはずれますけれども

実はよく考えるとつながっているんですけれどもね

どういうことかといいますと

この金日成と称している男は、本当は金聖柱というんですね。

金日成(金聖柱)

       成

一説に、金聖柱は金成柱という字だってのがあります。

北朝鮮ハングルで基本的に書きますので

漢字が使われなくなってますね

ハングルってのは朝鮮文字ですね

それでちょっと分らないんですけれども

読み方、日本語でも同じですね

きんせいちゅう、きんせいちゅう、同じになりますね

朝鮮語でも同じです

上の場合もキムソンジュン、下の場合もキムソンジュンになりますね

同じです。

カタカナでキンセイチュウと書くとどっちか分んないですね

それと同じで、どっちか分らないんですけれど

どっちかと言われています。

本名は金聖柱です、あの人は。金日成ではありません。

なんでこんなおかしなことが起きたのか

これは単なるペンネームなのか

そうではないんですね

半ばそうなんだけど、そうではない

日本でも共産党の、今、あの人が委員長になったのかな

不破書記局長だか、委員長だかなっている人がいますけれども

あの人は本名は不破ではないですね

あれはペンネームですね。

そういう風に、これは金日成っていうのはペンネームなのかというと

半分はそうですけれども、半分はそうではありません。

これどういうことかというとですね

この金日成という名前、非常に特別な名前なんですね

朝鮮人にとっては特別な名前

どういうことかというと

例えば、何年か前にですね、日本でお相撲さん小錦というのが引退して

今はタレントみたいなことをやっているんですけれども

あの小錦という名前はですね、明治時代にすでに小錦という相撲取りがいて

それを襲名しているわけですね。つまり小錦という名前の相撲取りは何人もいる。

それから朝潮というですね、もう今は親方になっている人がいますけれども

これも前に朝潮という人がいた。さらに明治時代だか江戸時代にもそういう名前の相撲取りがいた。

という風にですね、朝潮っていうのは一人の名前ではない。

それから落語家なんかで、柳家小さんという名人がいました

ついこの間まで、人の良さそうなおじいさんの感じで、初めて落語家人間国宝になった人ですね

今は子供が、また落語家になって、小さんを継ぐの継がないのっていう風に話題になっていますけれども

そういう人がいる

この間の名人の小さんのさらに前にですね、夏目漱石の本を読むと

柳家小さん落語は面白い

つまり明治時代から何人もですね、小さんという名前の落語家は、ずっといたわけですね

林家正蔵ってのもそうですね

歌舞伎なんかでもそうですね

名前が、ある個人の名前ではない

同じように、金日成っていうのはですね

実は個人の名前ではないんです

どういうことかといいますと

今言ったようにですね

世襲されるというとちょっと問題になりますけれども

あちらこちらでですね

いわば、立派な男という意味で、金日成という名前が使われている

歌舞伎落語とは違いますけれども

ヤクザの世界。何代目襲名ってありますね

例えば清水の次郎長親分。

これは映画になったり、演劇になったりですね

いろんな形で知られているんですけど、清水の次郎長っていうのも

さっき言った、歌舞伎やなんかのと同じようにですね

実は今も、静岡にですね、清水の次郎長というヤクザの親分がいる

まあ小さな組織なんで、ほとんど問題にならないらしいんだけれども

そういうのがあるらしい

という風にですね清水の次郎長という名前は、嘘かほんとか知らないけど

ヤクザってのは、弱きを助け強きをくじく、みたいに言われていますね

そういう名前で、この金日成という名前があった

つまり町の人が、なんか朝鮮におけるヤクザみたいな奴にいじめられているとですね

それに味方してやる

借金取りに追われている貧しい婆さんがいると

その借金取りを追い払ってくれる

それから、当時日本の植民地下にあったわけですから

日本の警官がですね、何か横暴なことをすると、この金日成っていう男が現れてですね

仲間を引き連れて現れて、その警察を襲撃してくれる

そういう意味での、金日成という男がいた

当然そういう男ですから、そのまま町の中にいるわけじゃなくって

森かなんかの奥に潜んでいてですね、そして、今言ったような困ったことがあると

金日成が現れて、仲間と一緒に現れて助けてくれる

そういう義賊のような存在として、金日成という名前が語りつがれていた

で、そういうのが朝鮮全土に、かつて最低4人いたと言われている。

だから固有名詞にして固有名詞じゃない。

あの人は清水の次郎長親分のような人である。

この町の清水の次郎長である。

これと同じことですね

ですからたとえば、九州次郎長親分とかですね、愛媛次郎長とかですね

そういう形で名前が伝わっていた。

これが金日成である。

で、金聖柱は、自分こそが金日成である

他は金日成ではないという形で権力を掌握して

その金日成を自分の名前にしてしまったんですね

だからあれは本名ではありません。

こんな簡単なことですけれども

今なおですね、テレビでもラジオでも新聞でも

このことを書かないですね

金日成は金聖柱ではない。

金聖柱というのは、時々かっこして、本名金聖柱と書かれることがありますが

なぜ金聖柱が金日成になっているかということについては

ほとんど書かれない。

ただし、専門家の研究書はすでにこんなのいっぱい出ています。

不思議なことに何も言われない

ここの中にも、名前というものは単なる、われわれが近代的に考えている名前以上の

たとえば、今までの例で言うと

民衆の記録としての民話に近いような意味を持っているってのがわかりますね

さて話を戻します。

その金日成も同じようにですね、毛沢東レーニンと同じように

こういう風にですね、宗教的な崇拝をあびるようになった

この3つの例は、社会主義の例なんで、

先生、それは社会主義だけのことじゃないですかと

思う人がいるかもしれないけど

実は、儀礼がですね、政治と密着にからみついているのはそれだけじゃありません

さらに前のフランス革命がそうですね

フランス革命

1789年

1789年フランス革命が勃発して、そのあとの混乱が10年も20年も続きますけれども

フランス革命ですね

フランス革命ってのは、これこそがですね、我々中学高校のときに人間の理性を

体現したような社会改革であるという風に言われているんですけれども

そうではありません

そもそも、このフランス革命の勃発の記念になっている7月14日ですね

7.14

1789年7月14日、7.14、これがフランス革命記念日ですね

これを日本ではなぜかパリ祭と言うんですけれども

パリ祭

非常におかしなことなんですけどね

映画「巴里祭」という映画がありまして、7月14日は当然フランスにおける建国記念日ですね

そのためにこれが、お休み、お祭りになります

そのことをパリ祭と言うんですけれども、パリ祭ってのはなんか、東京ナントカ祭りみたいに思っている人が多いけれどもそうじゃないですね

これはフランス革命記念日、7月14日

さてこの7月14日が何故フランス革命記念日かというと、この日にフランス革命が勃発して

バスティーユ監獄襲撃事件というのが起きます

バスティーユ監獄については後でもう一回述べますけれども

そのバスティーユ監獄襲撃事件というのが起きる

つまり監獄が襲撃されるわけですね

これなんかも中学高校の教科書なんかには、バスティーユ監獄がバァッと火が燃えているような

民衆が周りにワァーッとそこを取り囲んでいるような絵がありまして

それを見るとなんとなくバスティーユ監獄の中に政治犯フランス革命指導者が何人も入っている

民衆が蜂起して、その政治犯を解放しようと騒いでいる

ちょうど今ビルマミャンマーでですね、アウン・サン・スー・チー女史が軟禁状態になっている

それに対して民衆がデモ隊を組織してですね

アウン・サン・スー・チーを解放しろみたいなことを言って

警官隊と乱闘しているようなことを、バスティーユ監獄襲撃を思わせるような風に

中学高校の記事に書いてありますけれども

あれは全くの嘘です。

そんなこの真実を書いたら、学校の授業が成り立たなくなるんで嘘を言っているだけです

バスティーユ監獄襲撃事件、1789年7月14日に起きたバスティーユ監獄襲撃事件ってのは

そういう諸君らのまあ、幻想とは全く正反対の事件で

だいたいそのバスティーユ監獄の中には政治犯は一人もいません

アウン・サン・スー・チー女史のような人は誰もいない

中にいるのは基本的にコソ泥とかかっぱらいとか結婚詐欺とか、そんなろくでもない奴が

十人かそこら入っているだけである

気がついたらですね、なんか周りがワーワー騒がしい

突然刑務所の扉がガチャッと開いて、武装した民衆はですね

革命万歳、革命万歳って来たんで、えー何だろうと思ってたら

出ていけ出ていけってんで、これはもっけの幸いだってんで

出て行って、パリの人ごみの中にバァーッと紛れて逃げた

というのがバスティーユ監獄襲撃事件の真相です。

中に革命家や指導者がいて、それを民衆が解放して、一緒になって革命やったと思わせるような風に

そうだとは絶対書かないですよ、嘘を書くわけにはいかない。

中学高校の世界史の記述の中にはですね

そう思わせるように書いていますけど

真実は全く正反対です

これも、フランス革命研究科は誰でも知っていることである

でも中学生高校背には真実を明かさない

そうすると歴史の理解、さらには民主主義というものに対しての理解が

混乱してしまうからですね

真実はそういうものです

さてそれは余談

なんだけれども、そこに現れているように、フランス革命というものを我々は

あまりにも一面的に善意な誤解で見ている

これには儀式、儀礼というものが非常に密着に関連しています

さて、下を見てください

f:id:YdaTanuki:20080101235000j:image:w300

wikipediaに奇麗な画像データあり

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E9%AB%98%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%AE%E7%A5%AD%E5%85%B8


これはですね、フランス革命の時の一エピソードです。

右側を見てください

最高存在の祭典

それこそ見開きになっていますね

当時のこれ絵なんですけれども

1794年6月8日

革命が始まってから5年目ですね

革命政府が勝利を収めて、着々と革命政府の足場を固めているときですね

最高存在というのは何かというと

*印があって右上にあります。

Etre Supreme

エートルスープリームって言うんですかね、ちょっとフランス語私は読めないんで

エートルなのかエートレなのか、エトゥなのかちょっと分んないですけど

とにかくエートルスープリーム

英語に直しますとSupreme Being

このEtreというのが、英語でいうbeing、is、am になるわけですね

存在を表しています。

Supremeは同じですね

英語の場合はスプリーム、フランス語の場合はスプレームとか言うんでしょうね

Supreme、最高の存在の祭り

最高の存在ってのは、何かというと神でしょ

フランス革命もやっぱり同じように、当時の貴族や僧侶の権力を打倒することをして

いくつかの寺院を破壊したり、寺院の機能停止を図っている。

つまり、最高存在、神は否定されている。

神を否定していながら、最高存在

何かっていうと、これ人工神だよね

人工的に神を作っているわけですね

最高存在、人工に作られた神の祭典

絵を見てみましょう

これは元の絵をですね、縮尺してコピーして諸君らに配るためにそれを原本にしてさらにコピーをするという

コピーを3回くらいやっていますから

細かいところまであまりはっきり見えませんけれども

パリの広場にですね、ぎっしり人が集まっているのが分かるでしょう

上にかいてあるように、シャン・ド・マルスって書いてありますね

マルスっていうのは英語の火星と同じです

火星、星の火星ですね

これはマースって言うんですけれども

赤い色をしているんで、軍の神、軍神と言われていますね

で、マルスっていうのは軍の神、もしくは火星です

シャン・ド・マルス

シャンっていうのは、campですから、軍神、軍の神の駐屯地という風な意味になりますね

ですからこれは元々軍に関係しているところ

別の言い方をすれば、これは軍学校があった

今で言うと、自衛隊の基地と言いますか、防衛大学というか、それがあったところですね

これがシャン・ド・マルス

それは当然ながら、革命政府によってぶち壊されています。

シャン・ド・マルス、巨大な広場がパリの真ん中にできていました。

つまりこのシャン・ド・マルスと、それからさっき言ったバスティーユ監獄というのが

真っ先に狙われて壊されてしまったわけですね。

その跡地にですね、軍学校、防衛大学があった跡地にこんな物ができている

右側の真ん中の辺、小高い丘になっていますね

築山のようになっている

これちょっと現代の絵と遠近法の画法が違うんだけれども

まあ見当で言いますと、5階建てか10階建てのビルの高さの分だけ土が、

盛り土が非常に多く作られて

こんな丘みたいになっている。

その上にさらに、とんがった塔のような形に土が積まれてその上に木が生えていますね

左側には、文字通り塔があって、そこに女神のようなものがありますね。

で、この真ん中の木が立っているのが、これが最高存在、人工神の依り代

ここに人工神が依りつくことになっているわけですね

その周りに、このちっちゃいんで分りにくいんですけど

人がいっぱいウロウロウロウロいますね。

これがその最高存在に仕える巫女さんたち、これがいる。

その周りにさらに下級の巫女さんがいたり、軍楽隊がいたり

さらにその外側には、何万人という群衆、フランス市民が集まって

最高存在の祭典、最高存在万歳、最高存在をお祝いしようってなことを言っている。

左側を見てください。

この最高存在には地方版もありました。

パリだけではなかった

この場合は、絵は稚拙ですけど、かえって分かりやすくなっています。

やはり真ん中にですね。手を振っている人がいるように、

山が築かれていて、そこに巫女さんたちが山の上にいる。

そのちょっと左側の所に木があって

そこになんか変な形の塔みたいなのがありますけれども

こういう所にですね、火が灯されたり、やはり最高存在が宿る依り代になっている

周りにはやっぱり軍楽隊みたいなのが現れて行進している。

地方都市でもこんなことが行われている。

その下を見てください。

最高存在の祭典へ向かうロベスピエールと書いてあります。

ロベスピエールってのはフランス革命の指導者、最高指導者です。

この最高指導者ロベスピエールが、この最高存在の祭典に、右側で行われていたような

パリの最高存在の祭典へ集まっている。

つまり大統領に当たる人が、この最高存在の祭典に集まっている。

こういうことが、行われていたわけですね。

これがフランス革命の実態である。

ここでも政治というものは、儀式というものと密接な関わりを持っている。

儀式なくして、実は政治はありえない

こういうことは普通ですね、公民倫社の時間とか政治学の時間にほとんど習いませんね

しかし良く考えると、こんなにも密接に政治と儀式・儀礼というものがからんでいる。

とするならば、実は政治の中にですね、まことに非合理的な、合理主義では解決できない

人間の奇妙な感情のようなものがからんでいるんだということが分かってまいりますね。

さてここでちょっと最高存在について、もう少し説明をしておきます。

人工神

これは今言ったように人工神ですね

人工的に作られた神である。

理神論という言葉があります。

理神論

理性的な神、こういう意味ですね

諸君らはこの理科大理科系の人間なんで、科学については一般の人よりはもちろん当然詳しいと思う

中には信仰心キリスト教であるとか仏教であるとか持っている人がいるかもわからないけど

多くの人は、私も含めて、日本人ってのはあまりそういうのは信じていない。

でもなんかまあそうは言うものの、お寺に行ったり教会に行ったりすると

まあちょっと敬虔な気持ちにもなるし、建物も美しいんで、一概に宗教を否定してはいけないかな

ぐらいの気持ちは持っている。

まあこれが平均的な日本人ですね

じゃあお前は宗教的な気持ちはないのか?と聞かれると

ないにはない

でも人間がそんなにすべての中心にいるような考え方もちょっとおかしいんで

やはり崇高なものがあったほうがいい

じゃあそれは何だっていうと、まあそうあの、歴史の教科書なんかに出てきた

理神論っていうのが、これに近いかなあみたいな風に思う人が結構理科系の人の中にいる。

たとえば、宇宙の全体の中にはですね、人間個人個人を超えたような、非常な真理ってのがある。

それを諸君らは研究したり応用したり、理科系の人間だからしている。

そういう真理を発見したり、それを目の当たりにしたときにですね

ちょっとやっぱり人間謙虚な気持ちになる。

やはり宇宙には真理が貫徹されている。

一例を言いますと、たとえば、ピタゴラスの定理といいますか、ピタゴラスじゃなくて

アルキメデスの原理ってのがありますね。

アルキメデスが、黄金の冠が本当に黄金なのか、一部鉛が入っているのかって

比重を調べるために、水に沈めて、どれだけそれが軽くなったか、排除された水の量

液体の中にですね、ある物体を入れると、その排除された液体のその質量の分だけ圧力を受けて

それが軽くなるっていうのが、アルキメデスの原理ですね。

ちょっと考え込まないでね

諸君らはそんなの知ってなきゃいけなくなってんだから

それがアルキメデスの原理だね。

で、そこまでは全て分るね

だから鉄の船が水に浮かぶ原理もアルキメデスの原理だね、木の船だってもちろん浮かびます。

アルキメデスの原理によって。

さて、田舎の婆さんがですね、豆が収穫されたんで、むしろの上に豆を乾している。

で、そのサヤから出して、それを袋に納めた。

ところが、そのサヤの欠片とかですね、あるいは、むしろの藁くずなんかが入ってくるわけだね

食べる時にそういうのが混じって美味くない。

豆だけと、それからサヤの欠片や、藁くずだけをですね、簡単に分ける方法ってのを

婆さん達はやっているわけだ。

升に入れて、豆をこう入れて、そして横を棒でトントントントン叩いて

そうすると、豆がらとか、藁くずが浮かんでくる。

それをフッと吹けば、それが飛んでいく。

トントントン、また浮いてくれば、フッと吹けば飛んでいく。

これアルキメデスの原理でしょ。

ここはちょっと考え込んでいいよ。

よく考えるとアルキメデスの原理でしょ。

何故かというと、豆と豆がら、どっちが比重が軽いか

当然豆がら、藁も同じだね。

それで、豆の中に入っているときには、豆は固体のようになっているから

そこではアルキメデスの原理は働かないんだけれども

トントンと叩くことによって、豆が一種の流動体、液体のようになったときに

その豆の圧力によって、軽い豆がらが浮かんでくる。

だからそれを婆さんがフッと吹けば、それが飛んで、豆だけが残る。

こういうこったね

これはアルキメデスの原理だね。

とのことを何かで知ると、ああ面白いなあと思うでしょう。

こんなところにまで、アルキメデスの原理は貫徹されているんだ

宇宙空間にももちろん貫徹されている。

日常生活でも、田舎の婆さんの中にもアルキメデスの原理は貫徹されている。

そうしたときに、科学者、諸君らも科学者の卵なんだけども

科学者ってのは、あ〜凄いもんだなと当然思う。

あるいはそれを思ったが故に、科学の方に進もうと思っている。

このようにですね、宇宙にはですね、人間個人を超えた原理のようなものが貫徹されている

それは極めて論理的なものである

同時にそれは宇宙の隅々まで貫徹されている。

で、そういう宇宙の真理、

真理

を目の前にすると、人間は敬虔な気持ちになる。

その意味において、私は理神論であるというようなことを言う科学者がいますけれども

これは全くの間違いです。

そこまでの所は間違いじゃないんだよ

そこまでは非常に正しいんだよ

アルキメデスの原理は宇宙に貫徹されている。

アルキメデスの原理に限らず色々な原理は貫徹されている。

で、それは日常生活の中から宇宙にまで全て貫徹されていて、

それに、それを見た時に、接した時に、謙虚な気持ちになり、感動することは

これは全然間違いではない。

でもそれは、理神論じゃなくて、科学的精神だろ。

科学者の本来の立場だろ。

本来科学者ってのはそうじゃなきゃいけないだろ。

宗教でもなければ何でもないじゃん。単なる科学だよ。

科学ってのはそれほど素晴らしいことなんだよ

宗教じゃないじゃん

そんな偉大なる原理が、人間個人ではどうしようもない

なんかできるわけじゃない原理が宇宙に貫徹されているのは、科学なんだよ

宗教と関係ないよ。

じゃあそれが宗教とどこが違うのか

偉大なる神が宇宙に貫徹されているのとどこが違うのか

簡単なことだよ

これがあるかどうかだよ。

おがむ

このひとつだよ。

偉大なる宇宙の隅々まで支配している神、宗教を信じている人はそれを拝みます。

アルキメデスの原理、宇宙の隅々まで貫徹されているけど

アルキメデスの原理を拝む人は誰もいません。

そんな物を拝んだら、その人は科学者じゃありません。

アルキメデスの原理を信じて、適合するのが科学者です。

アルキメデスの原理の面白さに、偉大さに打たれるのが科学者です。

でもそれを拝んだら、それは科学じゃないだろ。

っていうよりこれは頭おかしいよな、そんなもん拝んでたら。

宗教でさえないよ。

この一点が違う

理神論ってのは、さっき言った科学精神じゃないんです。

拝んでるんです。

それが今のこの最高存在の祭典です。

神ではない最高存在ってのがいるかもわからない。

いるというのはおかしいけどね

あるかもわからない。

アルキメデスの原理だってある意味じゃ最高存在だよね。

人間個人の力じゃどうしようもできない

宇宙の真理として全ての所に貫徹されているもんだ。

でも、拝みはしないだろ。

そこが違うんだよ。

最高存在ってのは、何の原理かよく分かんないけど、とにかく宇宙には真理がある

それは最高存在である。そこまではいいんだよ、科学なんだよ。

それを祭って拝んでるんだよ。巫女さんまで作って。

それが宗教だよ。この違いね。

え〜、よくこれは諸君らに将来重要になるから覚えておいてね

理神論ってのは、諸君らこれからどれほど科学の前で謙虚であり

科学そのものを啓蒙し、広めようとも

理神論じゃないよ、それは単なる科学者

単なるも何も関係ない

立派な科学者です。

拝んだ瞬間に宗教になる。そこの違いね。

はい今日はこれまでなんだけれども

非合理主義というのを誤解するといけないので

次回はこういうテーマで講義をします。

※資料配布

これを次回までに読んできてね、ちゃんと。

友達に誰か持って行ってやる人がいたら、もう一枚余分にあげてもいいよ。

次回はこれを使いますので、これを次回までに読んできて下さい。


こんな長いの読む輩はいるのかね、かなり怪しい。

バスティーユ監獄事件は、中学だか高校だかで、

中に政治犯いなかったと教師から教わった記憶があるが、普通に授業は成り立っていたなぁ。

まあ、歴史なんて真面目に受けていなかったからかもしれないけど。

授業のテキストっつうか参考図書みたいなもんは

はだしのゲン

で、フランス革命や、最高存在の祭典も描かれている、俺の一押しマンガ。

ナポレオン 獅子の時代

冊数が多いと、1つ1つにアフィリエイトのリンク貼ったりするのは面倒なことこの上ないので

ためしにamazon storeを作ってみた。

これで売れても、普通のアフィリエイトと同じ感じなんだよなあ。

まあ売れるとうれしいが。

このテキスト化が終わってから日記の続きを書こうと思っていたら

1か月も日記を書かずじまいで、かなり日記が書けない状況に。まいっちんぐ

もうちょっと効率のいいやり方をしておくべきだったなあ。

まあ、あとから徐々に追加していこう。

まあもうこれだけのテキスト化は面倒だからやらんな。

1回につき5万くらいもらわないとやってらんね。



文章表現法

課題第六回の点数 考古学の話 その3

評価点5点+提出点5点=10点

ICレコーダーの録音時間を見たら45分しかなかった。

授業45分かぁ・・・

PGGMとうたうんだ村 橋本北口店で朝までカラオケ 23:16

ドアを開けたまま歌うドキュンが超うざい。

機種はハイパージョイだったが、カラオケのトレーニングなんてメニューがあり

PGGMは音痴なので、とりあえず練習させる。

で、PGGMはどうも、音程とリズムを一切考えずに歌っているようで

それ歌ってるっていうのかと疑問。

まあ、練習メニューは結構面白かった。

一応PGGMも、音程とリズムを考えたら、多少は改善された。

俺が指導した甲斐があったというものだ。

まあ、楽しく歌えた。ラルクガンダムOOの歌も結構よろしく歌えた。

なかなか愉快であった。

そのあとPGGMは、NITAと、NITAの知り合いと、高校の先輩とで日帰りで長野にスキーへ。

寒い時になんで寒いことするのか不思議なもんだ。

NITAにマッドメンの文庫返して家帰って寝た。

07理大生07理大生 2012/01/30 15:28 はじめまして。11年度の文化論テストを先日受験したものです。
就活の関係で2度ほどしか出席してないのですが、試験内容に興味がわきブログ記事を書く過程でここにたどり着きました。
よろしければこちらの記事を参考試料にしたいのですがよろしいでしょうか。

お返事お待ちしています。

YdaTanukiYdaTanuki 2012/01/30 23:15 参考資料にしていただいてかまいません。
書いたブログ記事のURLをあとで教えていただいたらうれしいです。

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