edited by ShitB
「はだしのゲン」について語られた、いわゆる「評論文」や「推薦文」は単行本巻末や、
映画のパンフレットなどで、いくつかお目にかかることができます。
その中でも異質な存在でもあります、呉智英氏が寄せた、
「不条理な運命に抗して」を今回は見ていきましょう。
これは、中公新社版の「はだしのゲン」愛蔵版、文庫版で読むことができ、汐文社版の「はだしのゲン」を主に読んでこられた読者には、すこし毛色の違う「文」やも知れません。
また合せて、氏は「はだしのゲン」を「もっとも不幸な読まれ方をしたマンガ」と形容しています。
あなたは どのように「はだしのゲン」を読んで(読まされて)いましたか?
| 「不条理な運命に抗して」 呉智英 読者の皆さんにちょっと聞いてみたい。この「はだしのゲン」は どんなマンガだと思いましたか、と。 おそらく、ほとんどの読者が、反戦反核を訴えたすばらしいマンガだと思った、と答えるだろう。読者が「はだしのゲン」を手にとるきっかけとなった先生や、両親や友人の言葉も、これとほとんどちがわなかったはずだ。反戦反核を訴えたすばらしいマンガだから、ぜひ読んでほしい。と薦められたことだろう。 中には、少しへそまがりな人もいて、反戦反核を訴えたお説教臭いマンガだから、読みたくなかった、と答える人もいるかもしれない。 こうした答えは、ある「定説」に支配されている。その「定説」とは「はだしのゲン」は反戦反核を訴えたマンガであり、反戦反核訴えたマンガはそれ故に良いマンガであり、反戦反核の思想は正しい思想である、というものだ。 しかし、この「定説」は本当に正しいのだろうか。 何の知的検証もない一種の迷信にすぎないのではないだろうか。ひょっとしたら、「はだしのゲン」は反戦反核を訴えたマンガでないかもしれない。反戦反核を訴えたマンガの故に良いマンガだ、という評価の仕方もまちがっているかもしれない。 第一、反戦反核という思想そのものに正しいという保証はないかもしれない。 長年、「はだしのゲン」を愛読し、そのすばらしさをあちこちに書き、大学でマンガ論の講義のテキストとして使っている私は、この「定説」に対して大きな疑問を持っている。 そして、「はだしのゲン」という傑作マンガが、こんな「定説」に従ってしか読まれていない現状をきわめて残念に思う。 この「定説」が何の知的考証にも耐えないことをすこし詳しく述べてみる。まず、反戦反核という思想が正しいとは限らない、ということについて考えてみよう。人類は、第二次世界大戦後の半世紀、大国間戦争を体験していない。小国間の局地的戦争や内戦・民族紛争は、不幸なことにいくつもあったし、今もなおある。 しかし、20世紀前半二度に亙って人類が体験したような世界規模の大戦争は、この半世紀なかった。 それに代わってこの半世紀の間にあったのは「冷戦」という偽りの平和であった。米ソ両大国中心にした東西陣営が核兵器で脅しあいながら維持してきた奇妙な平和であった。しかし、偽りの平和であっても平和は平和である。真実の戦争と偽りの平和のどちらを選ぶかと問われたら、ほとんどの人がとりあえず偽りの平和を選ぶはずだ。 では冷戦という偽りの平和はどのように保たれたのか。今も書いた核兵器による脅しあい、いわゆる「核均衡理論」によってである。核兵器は一度使用されれば、たちまち起きる報復攻撃の繰り返しによって、全地球規模での破壊をもたらす。それが怖くて核兵器は実際には使用できず、平和が保たれる。そのためには、観念的な平和主義や核アレルギーとは違ったリアルな軍事観・政治観が必要である。 ざっと こんな理論である。 私はこの核均衡理論はおおむね 正しかったと思う。現に五十年間の長きに亙って人類は悲惨な大戦争を体験せずにすんだのだから。 では、それならば、リアルな軍事観・政治観を欠く観念的な平和主義や核アレルギーはまちがっていたのか。まちがってなどいない。本来、核均衡理論は、観念的な平和主義や核アレルギーの広汎な存在がなければ成立しない理論である。核兵器が通常兵器とは比較にならないほど恐ろしい兵器であるからこそ、双方ともに攻撃に踏み切れない、というのが核均衡理論だ。もし、核兵器が恐ろしくないという誤解が広まったら、いつ戦争が始まったかわからない。核はいやだ、理屈抜きに原爆はいやだ、という観念的な平和主義や核アレルギーが実は核均衡理論を支えているのである。 こう考えてくると、反戦反核という思想が正しいとは言えず、かといってまちがっているとも言えない、ということがわかってくるだろう。 そうだとすれば、「はだしのゲン」は反戦反核を訴えた良いマンガであるという理屈も成り立たなくなるし、これとは逆の、反戦反核を訴えたイデオロギー色の強いけしからんマンガだという理屈も成り立たなくなる。 そもそも、何かを訴えたマンガが、何かを訴えているが故に良いマンガという評価の仕方に疑問もある。こうした評価の仕方だと、そのマンガの訴えが誤っていたら、マンガ自体を否定しなければならなくなる。もっとも、マンガ自体が否定されてもしかたがないような作品もある。それは、訴えを除いてしまったら、何も残らないようなマンガだ。政党や宗教団体の宣伝マンガが、その好例である。 マンガにしろ、美術にしろ、文学にしろ、何かを訴えるということは評価の基準にならない。その訴えた何かが正しかったか、まちがっていたのかなど、本質的な問題ではない。反戦を訴えようが、逆に好戦を訴えようが、また、反戦も好戦もその他の何も訴えていなかろうが、良いマンガは良いのだし、良い美術は良い美術なのだし、良い文学は良い文学なのある。それよりも、人間を描けているか、人を感動させるかが、作品を評価する基準になるのだ。 「はだしのゲン」は、この意味においてこそまさしく傑作マンガである。 |
ちょ、ちょっと疲れませんか…?ゲンプロなんかに来て、
こんなに長い文章を読むこともなかなかないですし。少し休みます。
〓〓〓〓〓〓〓〓〓緊急ミニ公開!実録『これが 砂むげ だっ!』〓〓〓〓〓〓〓〓〓
ム、ムゲチンの刑??
えっ!…す、砂むげ?
ザッ ザッ…(「ユーカリの木の下で」より)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓 再開 〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
| <続き> 「はだしのゲン」は1973年から74年にかけて前半部分が「週刊少年ジャンプ」に連載され、 後半部分は1975年から76年まで、「市民」、1977年から80年まで「文化評論」、1982年から87年まで「教育評論」に連載された。 私はこの前半部分は雑誌連載時に愛読し、後半部分は単行本となってから読んだ。連載中に読んだこともあり、前半部分の印象は特に鮮烈である。 とりわけ、その土俗的な表現には、しばしば心をゆさぶられた。ゲンが浪曲を演じて米をもらうシーン、政二が怨霊となって蘇るシーン、そして亡き友子を浜辺で荼毘に付すシーンは全編中の白眉である。これが近い事実を作者の中沢啓治が自ら体験したか間近で見聞きしたのだろうが、巨大な災厄に民衆がどのように立ち向かい、不条理な運命をどう受容するか、見事に描きだしている。 今、私は「巨大な災厄」と言い、「不条理な運命」と言った。あるいは反論が返ってくるかもしれない。原爆は自然災害ではない、単なる運命ではない、「落ちた」のではなく「落とされた」のだ、と。 当然である。 広島とその三日後の長崎への原爆投下は、自然災害ではなく、アメリカ軍による無差別殺戮なのだ。しかし、それは政治の言葉である。反戦運動をも含む政治運動の言葉である。私は、政治運動を否定しない。政治運動の重要性を認める。従って、政治の言葉を否定しないし、政治の言葉の重要性を認める。原爆投下は天災ではない。その政治責任を、道義的責任を問うことは必要である。 だが、人間は政治のみによって生きているのではない。人間は政治の言葉のみによって語られはしない。政治に還元できない感情の葛藤も、あまりにも苛烈な政治現象である戦争も、人々は災厄と受けとり不条理な運命だと考える。 そこに、民話が生まれ、 伝説が生まれ、叙事詩が生まれ、文学が作られ、美術が作られ、マンガが作られる。 「はだしのゲン」の中には、しばしば政治的な言葉が、しかも稚拙な政治的言葉が出てくる。これを作者の訴えと単純に解釈してはならない。そのように読めば、「はだしのゲン」は稚拙な政治的マンガだということになってしまう。そうではなく この作品は不条理な運命に抗う民衆の記録なのだ。 稚拙な政治的言葉しか持ちえなくても、それでも巨大な災厄に立ち向かおうとする人々の軌跡なのだ。 私は他の場所で書いたことがある。「はだしのゲン」は二種類の政治屋たちによって誤解されてきた不幸な傑作だと。二種類の政治屋とは、「はだしのゲン」は反戦反核を訴えた良いマンガだと主張する政治屋と、反戦反核を訴えた悪いマンガだと主張する政治屋である。 この不幸な読まれ方以外に「はだしのゲン」の読み方はないのか。 もちろん、ある。 素直に読むことだ。そして、素直に感動することだ。とってつけたような政治の言葉でそれを説明しないことだ。その時、作中人物に稚拙な政治的言葉しか語らせられない 中沢啓治のもどかしさも感じられるだろう。歴史的災厄を体験した人の悲しみは、そんなにも深い。その深みを埋めるために、人間は作品を作る。 中沢啓治もまた「はだしのゲン」を描いたのである。 一九九六年 六月 |
おつかれさまでした。お目汚しになるやもしれませんが、
ゲンプロ的には、こんな感じでしょうか……
くそ!ソカイいじめのガマザルだ!
うわー砂ムゲはいやじゃー!
遅くなりましたが、短編「出発の歌」よりです
フルチンに「なった」と「された」の違い