笹川良一氏は、戦後誇りにできる数少ない勇気のある日本人だと私は思っている。
戦中は非推薦(反東條内閣)の議員として正論を張り、戦後は極東軍事裁判(東京裁判)やアメリカの占領政策を痛烈に非難してA級戦犯容疑者として巣鴨プリズン入りを志願。不起訴となり釈放される。
その後、公営競技としてモーターボート競走(競艇)実現のため尽力し、後に日本船舶振興会(現日本財団)を設立。
私は、笹川良一氏に関する書物はかなり読んだと思う。誹謗中傷の類から氏を大絶賛するものから。また、氏が育った大阪の豊川村(現箕面市)まで行き、話を聞いたこともある。
自分なりに笹川良一という人物像が描けた。
“右翼の首領”、“日本の黒幕”、“A級戦犯”などという安易な決めつけしかできない貧弱な日本人の精神。
戦前、戦中、戦後と社会でたった一人だけ自己実現に徹して生き、型破りの大事業を成し遂げた人物、それが「笹川良一」である。という結論になるのである。
人間は得てして、噂話や印象、イメージなどで人を評価してしまう。それはやむを得ないことだと私は思っている。
私はブログで笹川を書くからといって、決して“親笹川”を増やしたいという気持ちなどは毛頭ない。それより笹川がどんな人物であったかを知った上で、それぞれ個々人が判断すればよいのである。
その点から言えば良いも悪いも“知笹川”を増やすことになるのであるが。
私自身、実際に笹川を見たのは、詩吟の大会や空手大会の数回しかない。ましてや直接話したこともない。
ただ、私の知っている大先輩が、かつて笹川を取材した際に、対面している時に相手に与える柔らかさややさしさが、正直、テレビ画面をはじめ報道からはなかなか伝わってこない人物であると感想を述べている。
またある人は、想像している人とは大きく違い、非常に物腰が柔らかく、笑顔で対応してくれるが、時折眼光鋭く獲物を狙う目になる時がある。とも言っていた。
我が国の激動の時代であった昭和を「不惜身命」の誓いで走りぬいてきた男、笹川良一。
ぜひ、少しでも氏の本当の姿を“知って”欲しい。
2008年3月3日
水野心
戦中は非推薦(反東條内閣)の議員として正論を張り、戦後は極東軍事裁判(東京裁判)やアメリカの占領政策を痛烈に非難してA級戦犯容疑者として巣鴨プリズン入りを志願。不起訴となり釈放される。
その後、公営競技としてモーターボート競走(競艇)実現のため尽力し、後に日本船舶振興会(現日本財団)を設立。
私は、笹川良一氏に関する書物はかなり読んだと思う。誹謗中傷の類から氏を大絶賛するものから。また、氏が育った大阪の豊川村(現箕面市)まで行き、話を聞いたこともある。
自分なりに笹川良一という人物像が描けた。
“右翼の首領”、“日本の黒幕”、“A級戦犯”などという安易な決めつけしかできない貧弱な日本人の精神。
戦前、戦中、戦後と社会でたった一人だけ自己実現に徹して生き、型破りの大事業を成し遂げた人物、それが「笹川良一」である。という結論になるのである。
人間は得てして、噂話や印象、イメージなどで人を評価してしまう。それはやむを得ないことだと私は思っている。
私はブログで笹川を書くからといって、決して“親笹川”を増やしたいという気持ちなどは毛頭ない。それより笹川がどんな人物であったかを知った上で、それぞれ個々人が判断すればよいのである。
その点から言えば良いも悪いも“知笹川”を増やすことになるのであるが。
私自身、実際に笹川を見たのは、詩吟の大会や空手大会の数回しかない。ましてや直接話したこともない。
ただ、私の知っている大先輩が、かつて笹川を取材した際に、対面している時に相手に与える柔らかさややさしさが、正直、テレビ画面をはじめ報道からはなかなか伝わってこない人物であると感想を述べている。
またある人は、想像している人とは大きく違い、非常に物腰が柔らかく、笑顔で対応してくれるが、時折眼光鋭く獲物を狙う目になる時がある。とも言っていた。
我が国の激動の時代であった昭和を「不惜身命」の誓いで走りぬいてきた男、笹川良一。
ぜひ、少しでも氏の本当の姿を“知って”欲しい。
2008年3月3日
水野心