ISD条項
- TPP総論
- 京都大学法学部ゼミ生共同論文
- ネットを賑わすデマ
- 国際投資仲裁とは?
- 条約・協定違反の基準
- 投資家が参加できる仕組み
- 先進国には必要ない?
- 適用法
- 国家の裁量権として必要な範囲の規制
- 承認・執行の義務
- 中立性
- 先例拘束性
- 情報公開
- 上訴
- 解釈・再審・取消
- 賠償額
- 具体的事例
- 悪用の可能性
TPP総論
長期的視野では話は別だが、短期的視野で見ればTPPに参加するかしないかは大きな問題ではない。 それよりも、TPPとは全く無関係な混合診療完全解禁がもたらす患者の治療機会喪失の危険性やイレッサ訴訟の行く末によるドラッグラグ・未承認薬問題の悪化の方が、遥かに大きな問題であろう。 だから、TPPよりも重要な争点において国民に不利益をもたらす政策を党員に強要する日本維新の会は落選運動の対象とせざるを得ない。 日本維新の会の議席の確保を阻止するための推薦対立候補者(いわゆる刺客)リストを見てもらいたい。
京都大学法学部ゼミ生共同論文
京都大学法学部2012年度前期演習(国際機構法)の論文ISDS 条項批判の検討―ISDS 条項は TPP 交渉参加を拒否する根拠となるか―(濵本正太郎教授監修)は非常に良くまとまっているので一読をお勧めする。
ネットを賑わすデマ
ここではネットを賑わしているデマの一つ一つについての種明かしせず、ISD条項の真の姿がどういうものであるかの解説に努めたい。 デマの真相については、中野剛志准教授らによるISD条項デマを見てももらいたい。
世界的に、条約・協定について一定の論争があるのは事実である。 しかし、一部のトンデモ論者を除いて、ISD条項が危険だという話にはなっていない。 世界が成長の過渡期にあるため、商業のあらゆる分野での正確な将来予測をすることは難しい。 それ故に、条約・協定の締結後に想定外の問題が発覚することがある。 だからこそ、そうした問題に関する論争が発生して、それが最終的に条約・協定の欠点の解消につながっているのである。
それに対して、一部のトンデモ論者は、物事を混同させて、原典にはない“事実”を捏造する。 それは、あらゆる分野におけるトンデモ論者の常套手段である。 とくに、言語の壁のために、原典にあたって事実関係を検証することが難しい東洋では、こうした捏造に騙されやすい。 医療分野では、偽療法擁護論などで良く悪用されており、マクガバン・レポートや「統合医療」など、欧米の実態について嘘を紹介している事例は非常に多い。 TPP関連でも、自由貿易と失業率に関する嘘、遺伝子組換の研究に関する嘘、米韓FTAの内容に関する嘘等、様々な嘘に利用されている。 言語の壁は、こうした嘘を見抜き難くしている。
国際投資仲裁とは?
国際投資仲裁は、条約・協定の当事国政府が条約・協定に違反することによって生じた損害に対する賠償を第三者機関が判断する制度である。 当然のことであるが、自ら条約・協定に拘束されることに同意した以上は、当然、約束を遵守しなければならない。 これを国家主権の侵害・治外法権だとして文句を言う者がいるが、交わした約束を守るのは当然のことであろう。 無断かつ一方的に約束を破る権利がないことを国家主権の侵害・治外法権と表現することは、「窃盗権や殺人権がないことは基本的人権の侵害だ」と言うに等しい。 国家間会合で交渉し、国会承認で批准(条約・協定に拘束されることへの同意)するかどうか選択することが国家主権の行使なのである。 止むを得ない理由がある場合に約束違反が免責されることはあっても、無断かつ一方的に約束を破る権利などがあろうはずもない。 そして、止むを得ない例外理由に該当する類型も条約・協定で具体的に規定できるし、どのような例外理由を設けるかを決めることが国家主権の行使である。
- 交わした約束は守らなければならない
- 守れない約束は交わさなければよい
- 交わす約束の内容についてはじっくりと話し合えば良い
これは、常識論だけでなく、ウィーン条約法条約にも明記されている。
第二十七条 国内法と条約の遵守
当事国は、条約の不履行を正当化する根拠として自国の国内法を援用することができない。 この規則は、第四十六条の規定の適用を妨げるものではない。
第四十六条 条約を締結する権能に関する国内法の規定
1 いずれの国も、条約に拘束されることについての同意が条約を締結する権能に関する国内法の規定に違反して表明されたという事実を、当該同意を無効にする根拠として援用する要性を有する国内法の規則に係るものである場合は、この限りでない。
2 違反は、条約の締結に関し通常の慣行に従いかつ誠実に行動するいずれの国にとつても客観的に明らかであるような場合には、明白であるとされる。
例外として、「条約に拘束されることについての同意」(批准)が「条約を締結する権能に関する国内法の規定に違反」した場合だけ、「当該同意を無効にする根拠として援用」可能となる。 例えば、日本では、条約・協定の批准に国会承認が得られない場合は、ウィーン条約法条約のこの規定が適用可能である。 というのも、日本国憲法第七十三条第一項第三号により「事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要」となっているからだ。 つまり、日本では、日本国憲法第七十三条第一項第三号が「条約を締結する権能に関する国内法の規定」であり、条約・協定の批准に国会承認が得られない場合はこの規定に違反するので、それを「当該同意を無効にする根拠として援用」することができるのである。 言い替えると、国会承認を得ているなら、唯一の例外規定を適用できないので、「条約の不履行を正当化する根拠」として「自国の国内法を援用することができない」。
ISD条項とは?
その条例・協定における国際投資仲裁の手続に関する特記事項を記載したものがISD条項である。
- どのような内容の紛争に適用できるか(最近のISD条項では時間管轄=紛争の発生時期についても規定している場合がある)
- どの仲裁規則を適用するか
- ICSID条約
- ICSID追加規則
- UNCITRAL仲裁規則
- ICC仲裁規則
- SCC仲裁規則
- 対象条約・協定以外の適用法の指定(国際慣習法が適用法に指定されることが多い)
- その他、仲裁規則の例外事項等
ISD条項は手続に関する条項であるので、適用法の内容については記載されていない。 良くある誤解として、次のような内容がISD条項に含まれるとするものがあるが、これらはISD条項とは別個の条項である。
- 内国民待遇条項
- アンブレラ条項
- 公正衡平待遇条項
- 収用制限補償
これらが別個の条項であることは投資協定の現状と今後の進め方 - 経済産業省に解説されているし、具体的条文を見てもそうなっている。 例えば、NAFTA第11章では内国民待遇条項は第1102条、公正衡平待遇条項は第1105条第1項、収用制限補償は第1110条でそれぞれ規定されており、アンブレラ条項の明確な規定はない。 それに対して、ISD条項はSection B "Settlement of Disputes between a Party and an Investor of Another Party(国と他国投資家の間の紛争解決)"(第1115条〜第1138条)で規定されている。 米韓FTA第11章においても、内国民待遇条項、収用制限補償等はSection A"Investment"によって規定されていて、Section B"Investor-State Dispute Settlement(投資家−国家紛争解決=ISD条項)"とは別になっている。
よって、内国民待遇条項、アンブレラ条項、公正衡平待遇条項、収用制限補償等に対する不服をISD条項の問題として語るのは間違いである。
条約・協定違反の基準
条約・協定違反を考えるには、条約・協定の解釈について考える必要がある。 しかし、条約・協定は何から何まで事細かく決めているわけではなく、大枠についての原則を決めている場合が殆どである。
そもそも、第三者機関である仲裁廷に条約の解釈を任せたのは国家自身に他ならない。 国家は仲裁廷に、簡潔な文言の解釈により義務内容を明確にし、柔軟な判断により個々の事案に対して妥当な判断を下すという重要な役割を与えたのである。 ゆえに、仲裁廷がこの役割を忠実に履行している限り、仲裁廷が国家主権を脅かすという批判は妥当しないことになる。
仲裁廷の判断が食い違った原因は例外条項の曖昧な規定ぶりにあり、仲裁廷に解釈が殆ど丸投げされてしまったことにある。
このような曖昧な規定となるのは、全ての物事を事前に正確に予測することが難しいからである。 とくに、投資ビジネスモデルについては、政府関係者の予想もつかない新しい物が産業発展を支える可能性があるため、それらを包括した規定とするためには、事細かな規定を置くことは難しい。 その場合、条約・協定に規定されない細部の解釈をどうするかが問題となる。
当事国間の事前協議によって解釈を決めるならばともかく、当事国のうちの一国のみの独断での解釈を認めて良いのか。 ある当事国がセーフだと解釈したことが、他の全ての当事国はアウトだと思っているかも知れない。 そうした他の当事国の解釈に反するものであっても、その国における協定の解釈はその国の政府に委ねられるべきなのか。 一国の独断による解釈を認めるなら、グレーゾーンは、全て、その国の政府に有利に解釈できることになる。 それでは、協定に明記してあること以外、規制抑制および投資家の権利は保証されないことになり、投資のリスクが非常に高くなる。 投資を呼び込むために協定を結ぶのであり、そのために投資リスクを下げようとして、様々な投資ビジネスモデルを想定した規定を設けるのである。 その手段としてグレーゾーンを広く取ったはずなのに、そのグレーゾーンを全て投資リスクとして考えなければならないなら、本来の目的に逆行してしまう。 もっと極端なことを言えば、一国の独断が認められるなら、グレーゾーンだけでなく、クロであってもセーフだと言い張ることが可能になる。 そうなれば、当事国は協定違反をし放題となり、国家間の約束事がないがしろにされかねない。
かと言って、投資家に都合の良い解釈を認めることも適切とは言えない。 グレーゾーンを全て投資家に有利に解釈して良いなら、政府の規制をないがしろにして、その国の経済を食い物にすることが可能になろう。
まとめると、当事国の一国が協定の解釈を決めることは適切とは言えない。 かと言って、投資家が協定の解釈を決めることも適切ではない。 であるならば、中立的な第三者の判断を仰ぐのが妥当という結論になろう。 そのための国際投資仲裁である。
投資家が参加できる仕組み
協定違反については国家間で話し合って解決すれば良いことであって、投資家に国を訴える機会を与える必要はないと主張する者もいる。 確かに、協定違反について国家間で話し合う制度はあるが、その制度で議論されることは今後の規制をどうするかである。 それに対して、国際投資仲裁が解決しようとすることは、過去に投資家に与えた損害に対する救済策である。
仮に、投資家への救済策を国家間で話し合う制度を作ったとしよう。 その際も、投資家が当事者として参加して弁証する機会が与えられなければ、正当な賠償が期待できない。 実際には100億円の損害が出ていても、投資家抜きでの協議では、1億円のみが損害として認定されることも起こりうる。 欠席裁判ではそうした投資家に不利な判断が下される可能性があるので、それを防ぐためには、次のような事項を投資家自身が弁証する機会が与えられるべきである。
- 具体的な損害額
- その損害が政府の規制によって発生したこと
- その規制が協定に違反する不当な行為であること
よって、適切な賠償を行なうならば、損害を受けた投資家の参加は不可欠である。 そして、投資家自身が参加するなら、投資家の所属国の代表者の参加は必要ない。 投資家の所属国の代表者が参加しては、手続が無駄に複雑化するだけである。 以上の結論として、投資家と投資受入国の間で仲裁を行なうべきとなる。 その最も簡便な手段が国際投資仲裁である。
先進国には必要ない?
国際投資仲裁は、途上国や共産国でのトラブルを想定したものだから、先進国には必要ないと言う者もいる。 しかし、これは正確な認識とは言い難い。
違反
確かに、故意やそれに近い違反は、途上国や共産国で起こりやすい。 しかし、過失による違反は、先進国でも等しく起こりうる。 また、先進国だからと言って、故意やそれに近い違反が起こらないとは限らない。 例えば、米国のWTO違反例として次のようなものがある。
日本は、「米国の1916年アンチダンピング法は、米国内産業に被害を与える意図をもってダンピング輸入又は販売した者に対して、罰金や懲役を科し、あるいはダンピング被害者に損害賠償を認める法律で、この法律はWTO協定上認められたダンピング防止措置に当たらず、協定に違反している」と申し立てました。 ECも日本とは別にパネルに申立てを行いました。
パネル段階では、日本やECの主張が認められましたが、米国が上級委員会に上訴しました。 上級委員会は、日本及びECがそれぞれ申し立てた事案を併せて審理し、パネルの判断を支持し、米国の1916年アンチダンピング法はWTO協定違反であるとの報告書を出しました。 同報告書は2000年9月に採択され、米国の違反が確定しました。
米国が1916年のアンチダンピング法をWTOに整合的なものとする期限は、当初2001年7月とされましたが、日本、ECと米国との間の合意により同期限は半年間延長されました。 しかしながら、米国は、この実施期限までに是正しなかったため、2002年1月に日本とECは、それぞれ対抗措置の承認を紛争解決機関(DSB)に求めました。 米国は、この対抗措置の内容・規模に異議を唱え、問題は仲裁に付託されましたが、日・米、日・EC間の合意により、それぞれ仲裁手続きが中断されました。 その後も米国は是正を実現できず、ECは2003年9月に仲裁手続を再開させ、2004年2月にECの対抗措置について仲裁決定が出されました。 その間も、日本とECは、米国政府に対し、1916年のアンチダンピング法を廃止するよう繰り返し申し入れ、2004年12月、同法は最終的に廃止されるに至りました。
米国は、日本の熱延鋼板(自動車のボディ等に使用されるもの)が不当に安い値段で米国に輸出されている(つまり「ダンピング」が行われている)疑いがあるとして、これらの熱延鋼板に対し、日本から輸入する熱延鋼板の価格を本来あるべき価格まで引き上げるために課す特別の関税(ダンピング防止税)を賦課する必要があるかどうか調査を行いました。 その際、米国は、熱延鋼板を輸出している日本の企業が提出したデータを、WTO協定に定められた規則に合致した方法によらずダンピングを認定する等し、ダンピング防止税を課したので、日本は、米国の措置は、WTO協定に違反していると申し立てました。
パネル及び上級委員会は、日本の主張を概ね認め、米国の措置がWTO協定に違反していると認定しました。
バード修正条項は、ダンピング防止税及び相殺関税により米国政府が得た税収を、ダンピング又は補助金訴訟を支持した国内業者等対して分配することを義務づける法律で、日本をはじめとする11カ国・地域は、このバード修正条項がダンピング防止協定や補助金協定の許容していない措置でありWTO協定に違反すると申し立てました。
'''パネル及び上級委員会は、申立側の主張を概ね支持する報告書を発出しました。 2003年1月紛争解決機関(DSB)が報告書を採択し、同条項のWTO協定違反が確定しました。 しかしながら、米国が同条項を廃止するに至らなかったため、2004年11月のDSBの承認を経て、2005年9月、日本は対抗措置を講じました。
日本は、米国の鉄鋼セーフガード措置は、輸入の増加の認定、輸入の増加と国内産業の損害との間の因果関係、輸入により損害を受けているとされる国内産業の定義等、セーフガード発動ための基本的な要件を満たしておらずWTO協定に違反していると申し立てました。 日本の申立ては、同時期に申立を行ったブラジル、中国、EC、韓国、ニュージーランド、ノルウェー、スイスの申立てと同一のパネルで審理されました。
パネルと上級委員会は、米国の措置は「輸入の絶対的な増加」がなく、「輸入」と「損害」の因果関係が適切に立証されていないためSG協定に違反すると判断しました。 2003年12月、米国は、この措置を撤廃しました。
米国のアンチ・ダンピング措置に関連し、商務省のダンピング・マージン計算における「ゼロイング」手続(最終的なマージンとなる平均値をとる際、マイナスのマージンをゼロと見なす手法)等がWTO協定に反するとして、日本は2004年11月、WTO紛争解決手続に基づき米国に協議を要請。 2005年2月にパネルが設置され、最終報告は同年9月20日に加盟国に配布されました。
同パネル報告は、初期調査での加重平均-加重平均比較以外でのゼロイングは禁じられていないとの判断であったので、日本は2006年10月11日上級委員会に上訴。 2007年1月の上級委員会報告では、パネルの判断を覆して日本の主張を全面的に受け入れ、アンチ・ダンピング手続全体を通じてゼロイングのWTO協定違反を認定しました。
違反例として認定された以外にも、日米スパコン貿易摩擦においては、米国企業の競争力がなくなっただけであるにも関わらず、日本企業がダンピングを行なったとして、1996年、米国側の一方的な判断によってスーパー301条に基づく454%の制裁関税が適用された事例もある。 その後、その保護を受けた米国企業は技術を維持できずに、ダンピング認定された日本企業からOEM供給を受けていることからも、このダンピング認定が言い掛かりであることは明らかであろう。
国内裁判の問題
国内裁判ではどうして駄目なのか。 その理由は、国家自身が紛争の当事者であることに尽きよう。
そして、先進国企業は、投資受入国政府は何らかの恣意的な措置(国有化や恣意的な規制、コンセッション契約の不当な解除など)により投資家の投資財産に対する権利を不当に侵害してしまうという不満や、投資受入国の裁判所が政府から必ずしも独立していないために、このような行為をしばしば追認してしまい、また裁判官の質も必ずしも高くないといった不満を持っており、このような状況に対して先進国企業の権利を保護するために投資協定仲裁が導入されてきた。 ゆえに先進国としては、基本的に仲裁条項は自国企業の保護のために入れておくべきものであり、開発途上国側は先進国との交渉力の格差や投資の増大に対する期待から仕方なく同意するという位置づけであったと思われる。
これまで見てきたことからまず挙げられるのは、広い意味での中立性の問題である。 冒頭で述べたように、そもそも投資協定仲裁が導入されるようになった理由は、投資受入国政府が投資家にとって不利な措置を取り、また裁判所もそれを追認してしまう、という意味で、適用法のレベルおよび裁判所の実際の判断のレベルにおいて投資家に不利な状況が形成されているという認識があったためである。 国際商事仲裁においてもこのような意味での中立性の問題が指摘されるが、そこで指摘される問題は、ある国の裁判所がその国の国民が有利になるような判断を下すのではないか、あるいはそうでなくてもある国の国民はその国の法制度・慣習などに詳しいのに対して、他国の国民はそのような情報を有していないために結果として不利になるというような裁判所の判断レベルの問題であった。 投資協定仲裁の場合、裁判所が政府が独立していないためにこのような裁判所の判断レベルの問題がより大きなものになると予想されることに加え、例えば国有化のような措置について投資家に不利な立法がなされ、それが裁判所の判断の基準になるという意味で、適用法のレベルで投資家が不利に扱われるという可能性が生じる。 これに対し、仲裁廷は国家の主権の下にはなく、また先に見たように判断に関しても仲裁人の選任などのプロセスを通じて中立性を確保しようとしているために仲裁廷の判断のレベルでの中立性はある程度確保されており、また適用法に関しても特に近年は国際法を適用する場面が多くなっているために、投資受入国法を適用する場合に比べ、相対的には中立的な判断を下す可能性が高い。 もちろん、仲裁廷が適用する国際法が常に中立的といえるかどうかは自明ではないが、投資受入国政府「寄り」になっている投資受入国法と比較すれば中立的であると見なしうるだろう。
投資協定仲裁手続のインセンティブ設計 - 経済産業研究所P.2,3,10
既に述べたように、投資受入国は当然に外国資本の導入を望んでいると前提される(望まないのであればIIAを結んで投資を誘致する必要はない)。 これに応えようとするのが外国からの投資家であるが、受入国が開発途上国である場合等、その国内法・国内政策の不安定さのため、財産の安全を危惧して躊躇を感じることが少なくなかった。
外国における投資は、少なくとも第一次的には受入国の国内法・政策を枠組として行われる。 投資家にとっての一番の問題は、投資受入国がこの枠組をいかようにも変えられるということである。 財産権は国有化法により容易に剥奪できる。契約上の債権債務も、その準拠する法律の改廃や新たな強行法規の制定により自由に操作できる。 こうした危険は、途上国の不安定な政治体制において革命や政権交代が起こる場合に特に高まる。 イランでのアングロイラニアン石油会社の国有化(1951年)やエジプトでのスエズ運河国有化(1956年)はその典型例であった。 加えて、受入国裁判所では外国人投資家に不利な判決しか得られない場合も少なくない。 また、投資家本国が受入国を相手取って国際請求を行う手続である外交的保護権の行使も本国の政治的・外交的判断に委ねられ、不確実である。 このままでは投資受入国の投資誘致も、投資家の積極的な対外投資もともに叶わないこととなってしまう。
こうした中で1966年に設立されたのが投資紛争解決国際センター(ICSID)であり、上記の問題を手続の側面から解決することが図られた。 すなわち、法廷を投資受入国裁判所から切り離して仲裁廷を設置し、そこでは投資家が本国の助けを得ずとも直接に投資受入国を相手取って仲裁を提起できる。 そして適用法規につき紛争当事者の合意が得られない場合、紛争当事国の国内法に加えて国際法も適用されることとなった(ICSID条約42条)。 国際法は、被申立国一国の意思によって事後的に変更することはできず、投資家にとって裁判結果の予測可能性が著しく向上することになる。 1990年代以降のIIAの飛躍的発展による適用される実体法の具体化が投資家の保護をますます拡大しているが、そもそもそれが可能となったのは、国際法による紛争の解決が投資家と投資受入国の利害をバランスするために必要不可欠だと考えられたためなのである。
もっとも、日本等先進国の司法制度は十分に整備されているので、外国人投資家も日本の裁判所で訴訟を提起すれば問題ないという指摘もあり得る。 しかし、外国人投資家にとってみればどれだけ法制度が整備された国であっても、その国の裁判所でその国の政府を訴えることは、困難が伴うことであるし、中立性の観点から不安を感じるのは無理もないことである。 投資仲裁を認めることにより、投資家にとってみればこのような不安を解消し、投資受入国にとってみれば外国からの投資を国内に呼び込むことが期待できるのである。
ISDS 条項批判の検討―ISDS 条項は TPP 交渉参加を拒否する根拠となるか― - 京都大学法学部P7,8,13,14
今日、投資保護に関する国際条約においては、投資受入国が事前に、かつ一般的に投資紛争を仲裁裁判手続により解決することに同意する紛争処理条項が設けられるのが一般的であり、それを通じて投資家はいわば「一方的に」仲裁手続を開始することが可能となっている。 こうした方式は投資財産・投資活動に対する実効的な保護を提供するものであり、それにより投資家にとってはその投資リスクを低減し、また投資受入国にとっては自国への投資を促すという利点を有する。
海外に投資した企業等(投資家)やその投資財産の保護、規制の透明性向上等により、投資を促進するための内容を規定している。
国内裁判では、投資家にとって不公平な裁判が行われる可能性がある。 それに対して、先進国では「司法制度は十分に整備されているので、外国人投資家も日本の裁判所で訴訟を提起すれば問題ない」という主張がある。 しかし、実際に、中立的な司法制度は十分に整備されていようとも、投資家から見て「中立性の観点から不安を感じる」状況であれば、それは、投資家視点でのリスクとなり、投資を躊躇する理由になる。 協定の本来の趣旨を達成する上では、特定の国家の都合に左右される余地のない明らかに中立的な仲裁制度を用意する必要がある。
そうした理由があるため、殆どのISD条項には外交保護制度のような国内救済完了原則はなく、投資家は、国内裁判の手続を一切行なうことなく、国際投資仲裁に仲裁付託することが可能である。 その数少ない例外のアルゼンチン・カナダBITにおいても、国内裁判所に提訴して8ヶ月が経過すれば、国際投資仲裁に仲裁付託することが可能である。
日本
日本では、司法は立法や行政から独立しているので、裁判への政府介入はない。
また、日本では、
日本国憲法第九十七条第二項
日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする
となっているので、法令上は、条約違反の法律に対して憲法第九十七条第二項違反を理由とした違憲立法審査が可能である。
ただし、法律と条約との整合性を何処まで裁判所が踏み込んで判断して良いか、という点については議論の余地があろう。 例えば、日本の裁判官が精通しているのは、日本の国内法だけである。 国際法や国際商事問題に精通していない日本の裁判官が、協定違反の判断や、違反と損害の因果関係を正確に判断することは難しい。 国際投資仲裁の判例を引用した判断は可能かも知れないが、判例にない事例についての判断までは困難だろう。
米国
米国憲法第6条では
憲法と憲法に基づいて作られるアメリカ合衆国の法律と条約を国内の最高法と定義
Wikipedia:アメリカ合衆国憲法
している。
つまり、米国の憲法上は、連邦法と条約は対等であり、条約に違反することを根拠として連邦法を無効とすることはできない。
そのため、米国憲法下の裁判では「投資家に不利な立法がなされ、それが裁判所の判断の基準になる」が現実になりかねない。
また、米国には陪審制があるから、政府介入よりも他国人・他国企業に不利な結果を招くことが予想される。 陪審制では、法的な正当性よりも陪審員の印象が判決を大きく左右する。 他国人・他国企業は陪審制でのノウハウに乏しいだけでなく、自国贔屓のために陪審員の印象が悪い状態で裁判を戦わなければならない。 よって、米国の裁判制度で戦うと、政府介入以上に他国に不利な判決が出る可能性が高い。 米国の裁判制度に比べれば、中立的な第三者機関に判断を委ねた方が遥かにマシだろう。
まとめ
国際投資仲裁を国内裁判で代替するなら、その国の裁判制度が投資家から信用される前提において、次のような制度整備が必要であろう。
- 規制当局から完全に独立した裁判機関を設ける。
- 適用法として国内法よりも国際法を優先することを規則に明記する。
- 国際法や国際商事の専門家が判断を行なう。
そして、その裁判制度を信用あるものにするためには、特定の国家に属さない第三者機関による異議申立制度が必要になる。 「それでは国内裁判をやる意味がないじゃないか」と言うなら、我が国の上告制度と同様に異議申立に一定の制限を設ければ良い。 例えば、我が国では、上告は民事訴訟法第三百十二条により、次の場合だけ上告が認められている。
- 判決に憲法の解釈の誤りがあることその他憲法の違反があること
- 法律に従って判決裁判所を構成しなかったこと
- 法律により判決に関与することができない裁判官が判決に関与したこと
- 日本の裁判所の管轄権の専属に関する規定に違反したこと
- 専属管轄に関する規定に違反したこと
- 法定代理権、訴訟代理権又は代理人が訴訟行為をするのに必要な授権を欠いたこと
- 口頭弁論の公開の規定に違反したこと
- 判決に理由を付せず、又は理由に食違いがあること(最高裁判例により判断遺脱は含まない)
これと類似した規定を設ければ国内裁判が完全に無意味になることはない。 例えば、次のような規定を設ければ良いだろう。
- 明らかに証拠を欠いた事実認定が行なわれた
- 適用法として国際法よりも国内法を優先した
- 必要な知識等において裁判官が適正を欠いていた
- 国際投資仲裁において生じうる判断のブレの範囲を逸脱している
- (その他、国際投資仲裁において再審・取消が認められるケース)
この場合、国際投資仲裁において生じうる判断のブレの範囲内であれば、裁判所が規制当局の肩を持っても許されることになる。 しかし、それでも極端に不当な判決は抑えられるから、投資リスクは最小限に抑えられる。
適用法
国際投資仲裁の適用法は、その手続を規定した条約・協定であって、仲裁定は、この条約・協定にない勝手な解釈を適用することはできない。
第三節 条約の解釈
第三十一条 解釈に関する一般的な規則
1 条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする。
2 条約の解釈上、文脈というときは、条約文(前文及び附属書を含む。)のほかに、次のものを含める。
(a) 条約の締結に関連してすべての当事国の間でされた条約の関係合意
(b) 条約の締結に関連して当事国の一又は二以上が作成した文書であつてこれらの当事国以外の当事国が条約の関係文書として認めたもの
3 文脈とともに、次のものを考慮する。
(a) 条約の解釈又は適用につき当事国の間で後にされた合意
(b) 条約の適用につき後に生じた慣行であつて、条約の解釈についての当事国の合意を確立するもの
(c) 当事国の間の関係において適用される国際法の関連規則
4 用語は、当事国がこれに特別の意味を与えることを意図していたと認められる場合には、当該特別の意味を有する。
第三十二条 解釈の補足的な手段
前条の規定の適用により得られた意味を確認するため又は次の場合における意味を決定するため、解釈の補足的な手段、特に条約の準備作業及び条約の締結の際の事情に依拠することができる。
(a) 前条の規定による解釈によつては意味があいまい又は不明確である場合
(b) 前条の規定による解釈により明らかに常識に反した又は不合理な結果がもたらされる場合
第三十三条 二以上の言語により確定がされた条約の解釈
1 条約について二以上の言語により確定がされた場合には、それぞれの言語による条約文がひとしく権威を有する。 ただし、相違があるときは特定の言語による条約文によることを条約が定めている場合又はこのことについて当事国が合意する場合は、この限りでない。
2 条約文の確定に係る言語以外の言語による条約文は、条約に定めがある場合又は当事国が合意する場合にのみ、正文とみなされる。
3 条約の用語は、各正文において同一の意味を有すると推定される。
4 1の規定に従い特定の言語による条約文による場合を除くほか、各正文の比較により、第三十一条及び前条の規定を適用しても解消されない意味の相違があることが明らかとなつた場合には、条約の趣旨及び目的を考慮した上、すべての正文について最大の調和が図られる意味を採用する。
ウィーン条約法条約では、条約・協定は「文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈する」とされている。 用語は「通常の意味」に解釈しなければならず、「当事国がこれに特別の意味を与えることを意図していたと認められる場合」に限ってのみ「当該特別の意味」に解釈することが許される。 だから、仲裁定な勝手な判断で特殊な意味を付加することはできない。 以上のとおり、その条約・協定に明記されていない解釈を勝手に採用することができない。 ただし、解釈に曖昧な部分が認められる場合は「条約の準備作業及び条約の締結の際の事情」に依拠することができる。 以上のことは、経済産業省の文章にも記載されている。
条約解釈規則を定めるウィーン条約法条約31条1項は、条約解釈の一般規則について、「条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする。」と規定する。 この規定は客観的解釈を採用したものと言われており、条約交渉のプロセス等を条約解釈の根拠にするのではなく、もっぱら条約文(テキスト)によって条約文(テキスト)に即して解釈すべきことを命じる。 ただし、同条3項は、「文脈とともに、次のものを考慮する。」として、「(a)条約の解釈又は適用につき当事国の間で後にされた合意、(b)条約の適用につき後に生じた慣行であつて、条約の解釈についての当事国の合意を確立するもの」を挙げ、条約文(テキスト)以外のものも考慮する余地を認めている。
内国民待遇違反を決定する要因は何か - 経済産業省P.41,42
以上に基づいて、実際の仲裁定は妥当な解釈の落とし所を慎重に検討している。
上で見た事例においては、一見仲裁廷が「創造的解釈」を独断で行い、国家の意思をないがしろにしたように見えるものもあったかもしれない。 しかし、実際には、仲裁廷は事案に応じて妥当な解釈を採用し、国家の意思をくみ取る十分な努力を行っている。 その結果出された判断はどれも、投資保護と国家主権の適切なバランスを尊重したものである。
Saluka事件の仲裁廷は、2つの前提に依拠している。 第一に、BITの当事国はそれにより保護される投資家の範囲をいかようにも決定できるということ。 第二に、仲裁廷は条約の文言を無視して別の条文に書き換えることが出来ないということである。 各国に条約締結の自由があることは条約法の大原則であり、後者は「条約は(中略)用語の通常の意味に従い誠実に解釈される」旨を定める条約法条約31条において承認されている。
ISDS 条項批判の検討―ISDS 条項は TPP 交渉参加を拒否する根拠となるか― - 京都大学法学部P28,38,39
国家の裁量権として必要な範囲の規制
多くの協定で環境や人命等の国家の裁量権として必要な範囲の規制は認めている。 これらの協定の基本原則は次のようになっている。
- 環境や人命等、国家の裁量権として必要な範囲の規制は認めるべき
- ただし、必要な範囲を逸脱した規制は認めるべきではない
際限なく規制を認めれば、環境や人命等を口実にして、口実上の目的には必要のない規制まで実施できてしまう。 そうなれば、環境や人命目的に偽装した規制もやり放題となる。 それでは不味いので、一定の制限が設けられている。
例えば、WTO(GATT)では「人、動物又は植物の生命又は健康の保護のために必要な措置」を認めている。
第二十条一般的例外
この協定の規定は、締約国が次のいずれかの措置を採用すること又は実施することを妨げるものと解してはならない。 ただし、それらの措置を、同様の条件の下にある諸国の間において任意の若しくは正当と認められない差別待遇の手段となるような方法で、又は国際貿易の偽装された制限となるような方法で、適用しないことを条件とする。
(a)公徳の保護のために必要な措置
(b)人、動物又は植物の生命又は健康の保護のために必要な措置
WTO協定付属協定の衛生植物検疫措置の適用に関する協定第2条第2項では原則として「十分な科学的証拠」を必要と規定しつつも、科学的証拠が不十分な場合の例外として第5条第7項に基づく場合の措置も認めている。
加盟国は、関連する科学的証拠が不十分な場合には、関連国際機関から得られる情報及び他の加盟国が適用している衛生植物検疫措置から得られる情報を含む入手可能な適切な情報に基づき、暫定的に衛生植物検疫措置を採用することができる。そのような状況において、加盟国は、一層客観的な危険性の評価のために必要な追加の情報を得るよう努めるものとし、また、適当な期間内に当該衛生植物検疫措置を再検討する。
北米自由貿易協定(NAFTA)を含む環境省が調べた5つの協定では、次のような環境規定が設けられている。
次に、NAFTA、EU-メキシコ、EU-チリ、米-ヨルダン、日-シンガポールの5協定における環境関連規定について整理した。5協定における環境関連規定を簡単に整理すると、その要点は以下のようにまとめられる。
①目的の一つに環境保護や持続可能な開発の推進を位置付けている。 いくつかの協定において、その前文や目的規定において環境保護や持続可能な開発の推進が位置付けられている。
②一般的例外において環境措置へ言及している。 商品の自由移動、サービス貿易、政府調達などについて規定している章の例外規定として、GATT第20条と同様の規定を盛り込んだり、「環境の保全のために適当な措置を制限するものではない」といった規定が置かれたりしている。 なお、NAFTA及び米国-ヨルダン貿易自由協定では、単にGATT第20条と同様の規定を盛り込むだけでなく、GATT第20条についての解釈に関し両国間で合意する内容も含まれている。
③環境問題を取り扱う組織を設置している。 NAFTAでは、環境協力に関する補完協定(NAAEC)に基づき、環境協力に関する北米評議会(NACEC)が設置された。 また、米国-ヨルダン貿易自由協定では、環境技術協力及び選ばれた環境技術協力プログラムに関する共同宣言に基づき、環境技術協力に関する合同フォーラムが設置されている。
④国際的な環境義務との関係に言及している。 NAFTAでは、NAFTA規定と環境保全条約における貿易義務との間で不一致が生じた場合の取り扱いについて規定している。 加盟国が課せられている義務と同等で効果的、合理的な他の手段を選択できる場合は、その不一致が最も小さい代替手段をとるべきとされている。
⑤環境技術協力に関する規定がある。 EU-メキシコ貿易自由協定(ただし、EU-メキシコ経済パートナーシップ及び政治協議を確立する協定)及びEU-チリ貿易自由協定では、経済協力に関するタイトルの中で、環境協力に関する規定が置かれている。 また、NAFTA及び米国-ヨルダン貿易自由協定では、それぞれ補完協定あるいは共同宣言において、環境技術協力に関する規定が位置付けられている。
⑥環境基準・規制の緩和の抑制。 NAFTAでは、人間・動物・植物の生命や健康の保護の目的で、国際標準よりも厳しい措置を採用・維持・適用することを認める規定、及び、投資促進のためとして健康、安全及び環境に関する措置を緩和するのは不適当とする規定が置かれている。 また、NAFTAの補完協定である環境協力に関する補完協定(NAAEC)と米国-ヨルダン貿易自由協定では、高い水準の環境保護を規定し、効果的に執行する義務を確認している(貿易を奨励する手段として自国の環境法及び規制を緩和しないことの確認)。 加えて、NAAECでは、環境措置を効果的に執行する義務について、他の当事国が当該当事国に対して質す権利を確認していることが特徴的である。
経済連携協定(EPA)/貿易自由協定(FTA)に対する環境影響評価手法に関するガイドライン - 環境省P.10,11,12
他にも必要と思われる留保事項があるなら、当事国間で協議して決めれば良い。 事実、北米自由貿易協定(NAFTA)では、当事国間で協議して追加の規定が設けられている。
以上の仲裁判断に対して、曖昧な内容の規定によって、国内裁判所であれば認められないような訴えが仲裁によって許容されたとして、米国内を中心に強い批判の声が挙がった。 この動きを受けて、2001年8月1日に、NAFTA自由貿易委員会(NAFTA Free Trade Commission)は、「NAFTA11章についての覚書(Notes of Interpretation of Certain Chapter 11 Provisions)」(貿易委員会覚書)を公表した。 貿易委員会覚書は、1105条について次のように述べる。
- 1105条1項は、外国人の待遇の国際慣習法上の最低基準を、他の当事国の投資家の投資に与えなければならない最低基準として課している。
- 「公正かつ衡平な待遇」および「十分な保護及び保障」は、外国人の待遇の国際慣習法上の最低標準によって要求される待遇に付加又はそれを超える待遇を要求してはいない。
- NAFTA上の、又は独立した国際協定の他の規定の違反があるとの決定によって、1105条1項の違反があったことにはならない。
(5)その後の展開
上記のような公正待遇義務に関する仲裁判断に対しては、米国内を中心に批判の声が挙がった。 その趣旨は、NAFTA11章の曖昧な内容の規定によって、国内裁判所であれば認められないような当事国に対する訴えが仲裁によって許容されたという点等にあった(III.2.参照)。 このような批判を受ける形で、2001年8月1日に、NAFTA自由貿易委員会(NAFTA Free Trade Commission)は、NAFTA11章について覚書(Notes of Interpretation of Certain Chapter 11 Provisions)(「貿易委員会覚書」)を公表した。 貿易委員会覚書は、1105条について次のように述べる。
- 1105条1項は、外国人の待遇の国際慣習法上の最低基準を、他の当事国の投資家の投資に与えなければならない最低基準として課している。
- 『公正かつ衡平待遇』並びに『十分な保護及び保障』は、外国人の待遇の国際慣習法上の最低標準によって要求される待遇に付加又はそれを超える待遇を要求してはいない。
- NAFTA上の、又は独立した国際協定の他の規定の違反があるとの決定によって、1105条1項の違反があったことにはならない。
これは、S.D.Myers事件、Pope and Talbot事件において、NAFTA上の公正待遇義務が国際慣習法を越える内容をもつと判示したことに対して、NAFTA加盟国が危機感をもって対処した結果である。
この判断を受け、NAFTA当事国(特にアメリカ合衆国)では、投資保護に偏りすぎた解釈により、国家が過大な負担を負わされているとの批判が高まった。 そして、NAFTAの全当事国から構成される北米貿易委員会は同判決から3か月後の2001年7月、第1105条は慣習国際法より高い保護を与えるものではない、という解釈ノート(NAFTA第1131条に基づき、仲裁廷を法的に拘束する)を発表するに至る。
当然、仲裁判断では、それらをキチンと考慮している。
多くの投資判断において仲裁廷は、国家の裁量を広く認める姿勢を示している。
投資協定仲裁の批判においてさまざまな事例が持ち出されているが、その多くは仲裁廷が国家の裁量を認めた部分や、当該措置が実は外国企業の差別を目的としていた事情などを無視しており、賠償命令が下されたという結果ばかりを強調している。 ゆえに、彼(女)らの批判を補強づける材料として機能していない。
さらに最近の投資協定では、環境問題への配慮について明記したり、あるいは環境保護措置を一括して投資保護の対象外とする条項を差し込んだものも増えている。 これまで見てきたように仲裁廷はそのような条項がなくても政府の環境保護政策等について十分裁量を認めてきたが、このような条項の存在によって、仲裁廷が暴走して投資家に著しく有利で国家の正当な政策の障害となる可能性を未然に断っている。
承認・執行の義務
ここまで述べて来た国際投資仲裁の趣旨からは、当然、仲裁判断の承認・執行を義務づける必要があることは明らかだろう。 何故なら、仲裁判断の承認・執行を義務づけられる政府も仲裁対象の紛争の当事者だからである。 第三者機関の決定を当事者の一方の判断で覆せるなら、第三者機関が判断した意味がない。 しかし、現在の国際法上は、仲裁判断の承認・執行が義務づけられているのは、ICSID条約当事国同士の仲裁に限られる。
このような規定においては、仲裁手続を複数挙げて、その中から投資家がどの仲裁手続に基づいて申し立てるかを選択することができるようになっているのが一般的であり、その選択肢には、 (i)「国家と他の国家の国民との間の投資紛争の解決に関する条約」(1965年3月18日署名・1967年9月16日、日本について発効)に基づく仲裁(以下、「ICSID条約」・「ICSID仲裁」という。)、 (ii)投資紛争解決国際センターに係る追加的な制度についての規則に基づく仲裁(以下、「ICSID追加規則」・「ICSID追加規則仲裁」という。)、 (iii)「1976年4月28日に国際連合国際商取引法委員会によって採択された国際連合国際商取引法委員会の仲裁規則(その改正を含む。)に基づく仲裁」(以下、「UNCITRAL規則」・「UNCITRAL規則仲裁」という。)、など複数の選択肢が挙げられていることが多い。
投資家の立場から見ると、上記のような投資紛争仲裁のうち、(i)のICSID仲裁については、ICSID条約54条が同条約に基づく仲裁判断の承認・執行を締約国に義務付けている。 しかし、実際には、ICSID条約に基づく仲裁判断において敗れた締約国(投資受入国)はその仲裁判断の取消しをICSID事務局長に求めることができ、その手続には相当の時間を要するのが実情であって、必ずしも実効的な解決が円滑に得られるとは限らない。 そこで、(ii)・(iii)などのICSID仲裁以外の仲裁を用いることが考えられるところ、これらに関係する規則には国家に仲裁判断の承認・執行を義務付けるメカニズムは盛り込まれていない(条約でないので、そのような義務を課すことはできない)。
そこで、(ii)・(iii)などのICSID仲裁以外の仲裁判断について、「外国仲裁判断の承認及び執行に関する条約」(1958年6月10日署名・1961年9月18日日本について発効)(以下、「ニューヨーク条約」という。)が適用され、同条約によって仲裁判断において敗れた投資受入国にその仲裁判断の承認・執行を義務付けることができるのか否かが問題となる。
あらかじめ「6.」の結論を述べると、国家やその機関が投資に関する契約の当事者になっている場合であって、その契約違反に基づく損害賠償を投資家が求めるような契約紛争(公権力行使に関係しないもの)についての仲裁判断であればニューヨーク条約の適用はあるものの、投資協定等の違反に基づく損害の回復を対象とする投資紛争仲裁である場合には、ニューヨーク条約は適用がないと解される。
平成21年度投資協定仲裁研究会報告書VI投資紛争仲裁へのニューヨーク条約(外国仲裁判断の承認及び執行に関する条約)の適用可能性 - 経済産業省P93,94
- ICSID条約当事国同士のICSID仲裁については、仲裁判断の承認・執行がICSID条約当事国に義務づけられている。
- ニューヨーク条約により、公権力行使に関係しない契約違反に基づく損害賠償を投資家が求める契約紛争は、仲裁判断の承認・執行がニューヨーク条約当事国に義務づけられている。
- ICSID追加仲裁、UNCITRAL仲裁による、協定違反に基づく損害賠償の仲裁については、仲裁判断の承認・執行が義務づけられていない(条約がないので義務を課す法的根拠がない)。
尚、条約・協定によっては、国内裁判所での再審・取消判断が可能と規定されている場合もある。 例えば、NAFTAでは次のように規定されている。
また、NAFTA11章に基づく投資仲裁の場合も、仲裁判断が国内裁判所による司法審査に服する。 実際に国内裁判所による審査が行われた事案として、Metalclad事件(対メキシコ)、Feldman事件(対メキシコ)、S.D.Myers事件(対カナダ)の3つがある。
ただし、上訴制度ではないので国内裁判所での自判はできず、国際投資仲裁に差し戻すだけである。
中立性
ICSID条約では仲裁定の構成を次のように規定している。
Article 37
(1) The Arbitral Tribunal (hereinafter called the Tribunal) shall be constituted as soon as possible after registration of a request pursuant to Article 36. (仲裁廷(以下、「Tribunal」)は第36条による請求の登録の後、できるだけ早く構成されなければならない。)
(2)(a) The Tribunal shall consist of a sole arbitrator or any uneven number of arbitrators appointed as the parties shall agree. (仲裁廷は当事者の合意により1人または奇数の仲裁人で構成される。)
(b) Where the parties do not agree upon the number of arbitrators and the method of their appointment, the Tribunal shall consist of three arbitrators, one arbitrator appointed by each party and the third, who shall be the president of the Tribunal, appointed by agreement of the parties. (当事者が仲裁人の数や任命方法に合意しない場合、仲裁定は各当事者によって任命された1人の仲裁人と当事者の合意によって任命したpresident の3名で構成される。)
Article 38
If the Tribunal shall not have been constituted within 90 days after notice of registration of the request has been dispatched by the Secretary-General in accordance with paragraph (3) of Article 36, or such other period as the parties may agree, the Chairman shall, at the request of either party and after consulting both parties as far as possible, appoint the arbitrator or arbitrators not yet appointed. (第36条(3)に基づき事務総長により請求の登録の通知が発送された後90日又は当事者が合意する他の期間以内に仲裁定が構成されない場合、Chairmanは、いずれかの当事者の要請により出来る限り双方に相談した後に、仲裁人または残りの仲裁人を任命しなければならない。) Arbitrators appointed by the Chairman pursuant to this Article shall not be nationals of the Contracting State party to the dispute or of the Contracting State whose national is a party to the dispute. (この条の規定に基づくChairmanによって任命された仲裁人が紛争当事国の締約国国籍、又は、紛争の当事者の締約国国籍であってはならない。)
Article 39
The majority of the arbitrators shall be nationals of States other than the Contracting State party to the dispute and the Contracting State whose national is a party to the dispute; (仲裁人の過半数は、紛争当事国又は紛争の当事者以外の国籍でなければならない。) provided, however, that the foregoing provisions of this Article shall not apply if the sole arbitrator or each individual member of the Tribunal has been appointed by agreement of the parties. (ただし、仲裁人が当事者の合意により任命されている場合はこの条の上記規定は適用しないこと。)
Article 40
(1) Arbitrators may be appointed from outside the Panel of Arbitrators, except in the case of appointments by the Chairman pursuant to Article 38. (仲裁人は第38条に基づくChairmanによる任命の場合を除き、仲裁人のパネル外から選任することができる。)
(2) Arbitrators appointed from outside the Panel of Arbitrators shall possess the qualities stated in paragraph (1) of Article 14. (仲裁人のパネル外から任命された仲裁人は、第14条(1)の資質を有しなければならない。)
Article 14
(1) Persons designated to serve on the Panels shall be persons of high moral character and recognized competence in the fields of law, commerce, industry or finance, who may be relied upon to exercise independent judgment. (パネルに指定される者は、独立した判断に頼って、法律、商業、工業や金融の分野の高い道徳と能力を持たなければならない。) Competence in the field of law shall be of particular importance in the case of persons on the Panel of Arbitrators. (仲裁人のパネルに指定される者は、法律の分野での能力は特に重要である。)
- 仲裁人の構成(必ず、奇数人)や任命方法は当事者(当事国含む、いか同じ)で合意して決める。
- 当事者が合意しない場合、各当事者によって任命された各1人の仲裁人と当事者の合意によって任命したpresidentの3名で構成される。
- 当事者は仲裁人名簿以外の者から仲裁人を選んでも良いが、専門知識や道徳を兼ね備えた者でなければならない。
- 当事者が仲裁人を選ばない場合は、仲裁人名簿の中からChairmanが当事者の国籍以外の国籍の仲裁人を任命する。
- 当事者の合意で任命した場合を除き、仲裁人の過半数は当事者の国籍以外の国籍でなければならない。
選定方法や人数構成は当事者の合意によって決めることとなっており、合意が得られない場合の選定方法も双方の当事者に対して完全に対等である。 また、国籍条項等、中立性を損なう要因を排除するよう考慮されている。 さらに、後述するように、ICSID条約第52条では、仲裁メンバーの不正は裁定の取消理由として認められている。 以上のとおり、ICSID条約に基づく仲裁定は中立性について十分に配慮されている。 他の仲裁定については次の表にまとめた。
仲裁人の選定 ICSID追加規則(一方がICSID条約当事国でない場合に適用)
- 原則3名だが、1名ないし奇数でも可(付則C第6条1項及び3項)
- 当事者が合意に至らない場合には、理事会議長が選定等(付則C第9条、第10条)
- 仲裁人の過半数は原則当事国以外の国籍(付則C第7条)
UNCITRAL仲裁規則
- 原則3名(第5条)
- 3人の場合、当事者が1名ずつ指名。第三の仲裁人は2名の仲裁人が選定(第7条1項)
- 当事者が合意に至らない場合は当事者間で合意された選定機関又はハーグ常設仲裁裁判所事務局長が指定した選定機関が選定(第6条2項)
- 単独仲裁人と第三仲裁人の選定には第三国籍を考慮(第6条4項及び第7条3項)
ICC仲裁規則
- 原則1名(第8条2項)
- 仲裁人が1名の場合には当事者が合意により指名。但し、ICCの確認を受ける
- 仲裁人が3名の場合には、当事者がそれぞれ1名指名しICCが確認、第三仲裁人は原則ICCが選定
- 当事者が仲裁人を指名し得ない場合にはICCが選定(第8条3項及び4項)
- 単独仲裁人と仲裁廷の長は原則第三国籍(第9条5項)
- 仲裁人の独立性を確保(第7条1項)
- 仲裁人の独立性について正当な疑念を引き起こす可能性のある事実の開示義務あり(第7条2項及び3項)
SCC仲裁規則
- 当事者の合意があれば仲裁人の人数は自由。合意が成立しない場合は3名(評議会(Board)が必要と判断する場合は1名)(第12条)
- 仲裁人が1名の場合は、当事者の合意により指名。合意が成立しない場合は、評議会が指名(第13条2項)
- 仲裁人が2名以上の場合は、当事者がそれぞれ等しい人数を指名し、評議会は仲裁廷の長を指名。当事者が互いの仲裁人に合意できない場合は評議会が全員を指名(第13条3項)
- 単独仲裁人と仲裁廷の長は原則第三国籍。(第13条5項)
- 仲裁人の独立性を確保(第14条1項)
- 仲裁人に中立性と独立性について正当な疑念を引き起こす可能性のある事実の開示を義務づけ(第14条2項及び3項)
先例拘束性
近代法一般にとって、法の内容(解釈)及びその適用の結果をクリアに予見できることは、法の名宛人の行動の自由を保障するために重要である。 したがって、投資仲裁の結果にも予見可能性(predictability)を期待することは正しい。
また、投資仲裁が「判例の拘束を受けない」ということも基本的に誤りではない。 ICSID条約53条1項は「仲裁判断は当事者のみを拘束する」と定めているためである。 しかし、判例の形式的拘束力という厳密な意味では、国際司法裁判所(ICJ)や、通説的見解によれば日本の裁判所も同様であり、投資仲裁に限った話ではない。 そもそも先例が絶対に「正しい」という保証はどこにもなく、先例に機械的に従うと不合理な結果を招く恐れがあるということは意識される必要がある。 現に、判例法の国と名高いイギリスにおいても厳格な先例拘束性は1966年に放棄され、判例の変更が認められるようになっている。
逆に、ICJや日本の裁判所にも「判例法(case-law)」と呼ばれる現象は存在し、判例に「事実上の拘束力」があるなどとも言われる。 これは、類似の事案に対して同じ法規範を適用するのであればその結果は同様のものであることが求められるという要請(「等しきは等しく扱え」、法の安定性)が働くためである。 また、その法廷の判断が客観的にも正しいということを権威づけ、説得力を増すという意味もある。 同じことは投資仲裁にも当てはまり、実際の仲裁判断は、過去の仲裁廷が下した判断を数多く引用し、それに依拠しない場合はその理由を示すことが多い。
このように投資仲裁において確認される「判例法」は、「それから離れる特別の理由のない限り、確立した先例には従うべし」という意味で、英米法系諸国や他の法域・国際裁判所のそれと実質的に同じである。 従って、投資仲裁廷が「判例の拘束を受けない」か否かは問題の本質ではない。
一般論として先例を完全に無視してしまうことは良くないが、先例に拘束されると法源性の問題が発生する。 先に述べたように、ウィーン条約法条約により、条約・協定の解釈には条約・協定の「文脈」にない解釈を当事国の合意なしに勝手に付加することは認めれていない。 しかし、先例拘束性を規定すれば、それは、条約・協定の「文脈」にない先例を条約・協定の解釈として認めることになり、ウィーン条約法条約に違反する。 このように、先例を法源として認めていない場合は、先例拘束性を規定することで法体系上の問題が発生する。 判例を第一法源としない日本においても、裁判所法第四条により同一事件における判決拘束性は規定されているが、類似事件の先例拘束性は規定されていない。 判例を第一法源とする英米法を採用する英国でも厳格な先例拘束性は廃止されている。
しかし、一般常識的に考えて、先例を完全に無視すれば、判決の統一性が失われてしまう。 だから、仲裁判断の多くは先例を引用しており、先例に依拠しない場合はその理由を明確に述べている。 そうすることによって実務上のバランスを取っているのである。
情報公開
例えばICSID仲裁であれば仲裁付託の申立自体は必ず公開され、また仲裁判断についてもその公開自体は当事者の合意によるものの、仲裁判断の法的判断の要約については必ず公開されることになっており、仲裁判断そのものもかなりの数が実際に公開されている。
現在、ICSIDによる仲裁判断の公開には全当事者の同意が必要である。 ICSID条約の48条4項は「センターは当事者の同意なく判断を公表してはならない。」と規定し(ただし、判断の抜粋は迅速に公開されるものとされている)、行政・財政規則の22条2項も「両当事者が公表に同意した場合は」「事務総長がその〔仲裁判断の:筆者注〕公表のために調整...を行う」としている。 従って、「決定が“完全に”公開される必要はない(need not be fully disclosed) 」(“”筆者)という指摘は、仲裁規則の説明としては確かに誤りではない。
しかし、既に述べたように、全当事者が公開に合意する場合、仲裁判断はICSIDウェブサイトに公開され、また合意が得られない場合であっても、紛争一方当事者による公開は禁止されていない。 そのため、現実にはICSID仲裁廷の判断の殆どは、各国政府ウェブサイトや判例集などで公表されている結果となっている。
(1) The Secretary-General shall appropriately publish information about the operation of the Centre, including the registration of all requests for conciliation or arbitration and in due course an indication of the date and method of the termination of each proceeding(事務総長は、適切に、申立内容、仲裁日時、手続の終了方法を含むセンターの運営に関する情報を公開しなければならない).
(4) The Centre shall not publish the award without the consent of the parties. The Centre shall, however, promptly include in its publications excerpts of the legal reasoning of the Tribunal(センターは、当事者の同意なしに裁定を公表してはならない。ただし、センターは、速やかに法的推論の抜粋を公表しなければならない。).
ICSID仲裁においては、仲裁判断の詳細な公表は当事者の同意が必要だが、抜粋は無条件に公表される。 また、実際に多くのICSID仲裁判断が何らかの形で公表されている。
上訴
一般に、仲裁(arbitration)の特徴は手続の柔軟性と簡便性にあるとされる。 紛争当事者は、特定の紛争事案・紛争類型に精通した専門家を仲裁人として選定することができ、これにより仲裁判断の実体的な妥当性と、両当事者が選んだ仲裁人として一定の手続的な正統性が期待される。 そのため仲裁は一審制をとり、これは国家間仲裁制度から発展したICJや、私人間の仲裁でも同様である。
他方で上訴(appeal)は、国家の提供する裁判手続における制度であり、不当判決からの当事者の救済と法解釈の統一を目的とする。 多くの場合二国間で結ばれるBITに基づいて個別的(adhoc)に設置される投資仲裁は後者の要請を受けにくく、また仲裁人を紛争当事者自身が選任することから前者の要請も小さい。 また手続の簡便性という観点からも諸々のコスト増加を伴う上訴制度は仲裁制度に親和的ではない。 さらに、上訴を認めれば「上訴合戦」を招き紛争の終局的な解決が遅れる恐れもある。 こうした事情から、1966年のICSID条約では上訴制度が否定されたのである。
その一方で最近では、先に見た相互に矛盾する仲裁判断の登場や、仲裁判断が被申立国国民に与える実質的影響の認識から、上訴制度の導入の必要性が説かれるに至っている。 それにも拘わらずそれが実現していないことには、いくつかの実際的な事情がある。
最大の問題はコストの増大である。 仲裁判断の統一を目指すのであれば、上訴判断の矛盾を防ぐために常設の上訴機関の設置が必要だが、そのためには裁判官と事務局の運用コストが必要である。 さらに上訴のためには手続をやり直す必要があり、時間を要し、当事者の側の金銭的負担も増大する。 ひいては金銭的余裕のない国にとっては利用しにくい制度となる恐れがあり、仲裁という「簡便な手続」をとった意味がなくなってしまう。
ICSID事務局の動きと並行して、OECDの投資委員会(OECD Investment Committee)がICSIDと合同研究を行った上で、2006年に報告書(Working Paper)を発表した。 この報告書では、上訴設置案に関するメリットとデメリットをそれぞれ4点ずつ列挙した上で、結論的には、上訴機関の創設に関して投資委員会の議論でも意見の一致がなく、ICSID事務局の意見(上訴創設は時期尚早という結論)を確認するに止まる。 以下、報告書において提示された上訴案のメリットとデメリットを紹介しよう。
①メリット
上訴設置のメリットは以下の4点にまとめられている。 第1に、仲裁裁定の統一性を確保し得る点である。 仲裁判例の統一性と一貫性により、予見可能性が生まれるため、投資仲裁制度の正統性が向上する。 同一の事実または類似の事実に依拠した不統一な仲裁判断(CME判断とLauder判断)が広く注目を集めた。 上訴があれば、こうした不統一性が回避されるはずだという保証はないが、共通の上訴機関(a common appeals body)があれば、一貫性を確保する機会は強化される。 なお、上訴に関しては、同一の事実に対して、異なるIIAに基づいて設置された仲裁が異なる結論に達するという状況が問題になるだけではない。 すなわち、異なる文言をもつIIA条項に通底する基本原則の解釈に一貫性をもたらし、そうすることによって、より統一的な国際投資法の発展を促進させる。 他方、類似のIIA条項の解釈は、関係国の意図に応じて異なり得る。 第2に、上訴によって法の誤りを訂正し、場合によっては重大な事実の誤りも訂正し得る。 第3に、国家の裁判機関ではなく、中立の仲裁による審査が可能である。 現在、ICSID仲裁判断以外の判断については、国内裁判所の審査が認められており、当該裁判所が審査権限を逸脱したり、政府側の圧力の可能性が懸念されている。 他方、上訴制度により、国際的な基準と手続に基づいて作用する中立的な裁定が可能である。 第4に、実効的な執行である。 現行の制度では、ICSID仲裁判断については、承認・執行義務がICSID条約上で課されている。 他方、非ICSID仲裁の場合、執行は規定されておらず、国内法又は適用条約上の問題として処理される。 従って、非ICSID仲裁の判断は、国内法、ニューヨーク条約その他の関連条約で規定された仲裁判断の承認・執行のための通常の規則のもとで執行可能となるが、いずれも国内裁判所に主要な役割を認めている。 この点で、上訴制度の場合に、保証金支払いを上訴要件とする、あるいは上訴判断を国内裁判所の審査対象から除外することによって、仲裁判断の実効的な執行を確保し得る。
②デメリット
他方、OECDの報告書では、上訴設置に伴うデメリットも4点指摘されている。 第1に、終結性(finality)の原則に反する点である。 仲裁判断が拘束力を有し、上訴に服さない点こそが(司法的解決と比べた)仲裁のメリットである。 従って、現行の取消事由よりも広範な上訴事由を認めた場合、仲裁判断の終結性を損なう危険がある。 第2に、手続の遅延とコストの付加である。 ただし、この点に関しては、国内裁判システムにおける取消手続においても手続遅延が発生している。 また、上訴に時間的要件を設けることで、手続遅延の問題は解消されるという意見もある。 また、上訴事由は法的問題に限定され、重大な事実の誤りは含まないようにすれば、時間とコストは抑えられるという点について、ほぼ全ての専門家のコンセンサスがある。 第3に、濫訴の危険である。 上訴制度があれば、全ての事件で上訴申立がなされるようになり、「第一審」の仲裁人の権威が損なわれる。 なお、この点に関しては、保証金支払いを上訴要件とすることによって上訴請求を抑制させるという意見もある。 第4に、システムの政治化(politicisation)である。 すなわち、有権者の理解を得るために、政府側(投資受入国)は敗訴事件では全て上訴に訴えることになる。 他方、この点に関しては、投資家側も投資受入国と同じ程度に敗訴しているため、投資家側も同程度の上訴請求を行うと考えられる。
以上のように、OECD報告書は、上訴制度の可否について、広く肯定説・否定説の議論状況を紹介する形をとっており、断定的な評価を避けつつ、上訴設置の議論を推進するのは時期尚早と結論付けるに止まっている。
以上の議論をまとめると、上訴案に対する評価について次の点を指摘し得る。 第1に、現時点において、関連機関や各国政府の立場及び学説上の見解に鑑みるに、具体的な制度論としては上訴制度・機関の設置に対する反対論(慎重論)の方が優勢である(特に、議論の内容は、上訴機関の設置自体は望ましいものの、そのための制度改革や合意形成が極めて困難であるというものが多い)。 同時に、ヴェルデが指摘するように、WTO型の単一の上訴機関を想定することは「ユートピアンの見解」と言わざるを得ない。 第2に、上訴問題については、NAFTAの当事国を除くと、OECDの多数の国は大幅な制度改革を必要とするほど緊急な課題であるとはみなしていない。
時間やコストの問題以外については別途詳細に説明する。
一貫した解釈
一貫した解釈を統一した常設機関が必要となる。 例えば、次のような上訴制度の場合、一貫した解釈が得られないことは明らかだろう。
- 東京地裁→東京高裁→東京最高裁
- 埼玉地裁→埼玉高裁→埼玉最高裁
- 千葉地裁→千葉高裁→千葉最高裁
一貫した解釈を求めるためには、単一の上訴裁判所が条約の解釈を一元的に管理する必要がある。 それは、条約・協定の「文脈」にない上訴裁判所の考え方を条約・協定の解釈として認めることを意味する。 しかし、先に述べたように、ウィーン条約法条約により、条約・協定の解釈には条約・協定の「文脈」にない解釈を当事国の合意なしに勝手に付加することは認めれていない。
一方、現行のやり方では、ひとつひとつの判断には仲裁人個人の考え方が反映されよう。 しかし、その判断を平均すれば、仲裁人個人の考え方は相殺されることが期待できる。 つまり、一貫した解釈を放棄することによって、平均としてはウィーン条約法条約から逸脱しなくなるのである。
また、単一の上訴裁判所を設けることは、中立性の喪失にもつながる。 既に説明したとおり、仲裁人の選定方法や人数構成は当事者の合意によって決めることとなっており、各当事者に仲裁人の選定権を与えることによって、中立性を確保している。 しかし、常設の単一の上訴裁判所では、そのような方法で中立性を確保することができない。 初審がどれだけ中立的であろうとも、最終審が中立でないならば、全体としての中立性は損なわれる。
許容できない誤りの是正
上訴人にとって不利な誤りは上訴制度によって是正される可能性がある。 しかし、それにより裁定を修正した結果として、被上訴人にとって不利な誤りが新たに付加される可能性がある。 そうした上訴審の誤りはどこで正せば良いのか。
結局、一審性だろうと、二審性だろうと、三審制だろうと、最終審での誤りは防げないし、それを是正する機会は設けられない。 誤りを是正したいなら、最終審が決まっている上訴制度ではなく、誤りをいつでも是正できる再審や取消制度が必要であろう。
解釈・再審・取消
ICSID仲裁・UNCITRAL仲裁においては、次のような解釈・再審・取消が認められている。
Article 50
(1) If any dispute shall arise between the parties as to the meaning or scope of an award, either party may request interpretation of the award by an application in writing addressed to the Secretary-General(裁定の意味や範囲について疑問が生じた場合は、いずれかの当事者は事務総長に宛てた書面で裁定の解釈を要求することができる。).
(2) The request shall, if possible, be submitted to the Tribunal which rendered the award(要求は、可能であれば、裁定を下した仲裁定に提出しなければならない。). If this shall not be possible, a new Tribunal shall be constituted in accordance with Section 2 of this Chapter(可能でない場合は、 新しい仲裁定は、この章の第2節に従って構成されなければならない。). The Tribunal may, if it considers that the circumstances so require, stay enforcement of the award pending its decision(必要と認められる状況であれば、仲裁定は、その保留中の仲裁判断の執行を停止することができる。).
Article 51
(1) Either party may request revision of the award by an application in writing addressed to the Secretary-General on the ground of discovery of some fact of such a nature as decisively to affect the award, provided that when the award was rendered that fact was unknown to the Tribunal and to the applicant and that the applicant's ignorance of that fact was not due to negligence (いずれかの当事者は、裁定に決定的影響を与えるいくつかの事実を発見を理由として、事務総長に宛てた書面により再審を要求することができる。ただし、無知や過失以外の理由で申請者がその事実を知らなかった場合に限る。).
Article 52
(1) Either party may request annulment of the award by an application in writing addressed to the Secretary-General on one or more of the following grounds(いずれかの当事者は、以下の1つ以上を理由として事務総長に宛てた書面により裁定の取消を要求することができる。):
(a) that the Tribunal was not properly constituted(仲裁廷の構成の不備);
(b) that the Tribunal has manifestly exceeded its powers(権限踰越);
(c) that there was corruption on the part of a member of the Tribunal(メンバーの不正);
(d) that there has been a serious departure from a fundamental rule of procedure(手続きの根本規則の重大な逸脱); or
(e) that the award has failed to state the reasons on which it is based(理由の欠如).
例えば、UNCITRALモデル法34条2項は、仲裁地の国内裁判所による取消し(set aside)の手続を規定しており、取消事由として以下の6つが挙げている(後掲の条文参照)。 ①仲裁合意の無効、②当事者への通知の欠如、③申立てを越える事項が仲裁判断に含まれていること、④仲裁の構成又は仲裁手続の不規則性、⑤紛争主題が仲裁可能でないこと、⑥国内公序の違反。 なお、取消における審査事由には「法の誤り」(errors of law)は含まれていないため、当該手続は仲裁判断の「上訴」とは区別される(同様に、事実の適用も審査対象とはなっていない)。
取消制度を活用したことにより、最長で13年もの長い期間を要した事例もある。
最長事例 CAA&Vivendiv.Argentina
申立(1997.12) →仲裁判断(2000.11) →取消決定(2002.7) →取消決定補正決定(2003.5) → 再申立(2003.10) →仲裁判断(2007.8) →取消決定(否定)(2010.8)
尚、法解釈の誤りは再審・取消の理由として認められていない。 これは、仲裁の対象となる条約・協定でグレーゾーンを広く設けているからであろう。 グレーゾーンが広ければ、法解釈の誤りを主張すれば、際限なく再審・取消を要求できてしまう。 現状でも最長13年かかるのであれば、法解釈の誤りを再審・取消の理由として認めてしまえば、仲裁がいつまでも終わらなくなってしまう。
賠償額
ISD条項による仲裁事例では損害賠償額が高額になることが多い。 しかし、単に損害の大きな事件が仲裁に付託されることが多いだけであって、手続の違いで損害賠償額が変わっているわけではない。
投資協定仲裁は、平均して解決までに2〜4年を要し、訴訟費用はだいたい数千万円〜数億円かかると言われる。 そのため、実際に投資家が紛争案件を投資協定仲裁に付託するか否かの決断は、こうした費用対効果も勘案して決められることになり、結果としてインフラ・資源開発など巨額投資が絡むケースの付託が多くなっている。
認容額の大部分は、実際に収用された額の賠償にすぎない
訴訟費用が嵩むために、賠償額の大きな事件しか仲裁に付託されにくいのである。
尚、国内手続と比べて国際的に中立な手続に多額の費用がかかるが、ICSID仲裁の費用が特別に高いわけではない。
「UNCITRAL仲裁ルール等に基づくアドホック仲裁」はICSID仲裁に比べて
一般に、時間が長引きやすく、費用がかさむ傾向があると言われる
2011年不公正貿易報告書 第III部経済連携協定・投資協定 第5章投資 - 経済産業省P.595
とされるように、ICSID仲裁は比較的安い方なのだ。
仲裁人は当事者と異なる国籍にする
投資協定仲裁手続のインセンティブ設計 - 経済産業研究所P.6
ので旅費だけでもかなりの額になる。
両当事者が自らの主張を行うのに十分な機会を与えなくてはならない
投資協定仲裁手続のインセンティブ設計 - 経済産業研究所P.7
ので集まって話し合う回数も増える。
結果として、費用も期間も大きく増える。
蛇足だが、投資額の少ない投資家は泣き寝入りしなければならないのかと言えばそうでもない。 詳細は2011年不公正貿易報告書 第III部経済連携協定・投資協定 第5章投資 - 経済産業省P.596のコラムに書いてある。
具体的事例
具体的な事件の事例はISD仲裁事例にまとめてある。
悪用の可能性
濫訴
既に実施済の政策に対して、政策実施時点で未だ投資していない投資家が賠償金を得ることは不可能である。
それは、国際投資仲裁が
投資開始時点で予期し得なかった政策変更
国際投資仲裁の事例 - 経済産業省
に対する防衛策でしかないからである。
事実、ISD条項が危険だと言っている人達が挙げている事例(ISD仲裁事例参照)は、いずれも、投資後の政府規制による損害賠償事例であり、規制後に投資開始した事例は含まれていない。
だから、実施済の政策を標的にして、後から投資して賠償金を請求することはできない。
そもそも、損害が発生しなければ、賠償金も発生しないのだから、国際投資仲裁で利益を出すことは不可能である。
認容額の大部分は、実際に収用された額の賠償にすぎない
国際投資仲裁 - 同志社大学大学院
ため、勝率が極めて高くないと利益を出すことはできない。
ISD仲裁事例を見れば分かる通り、実際の企業の勝率は高くても5割程度であり、コストを考えれば割にあわない。
実際には発生していない損害を偽装した場合については、ISD仲裁事例をEurope Cement事件を参照すると良い。 このケースでは、申立人が敗訴した。 仲裁定は、申立人に訴訟費用の全額(仲裁機関への費用として約26万ドル、被申立国側の弁護費用として約390万ドル)負担を命じている。
「条約漁り」
「条約漁り」とされる事例としてはSaluka事件が有名である。
チェコの金融市場で重要な地位を占めていた旧国営の4銀行は、いずれも多額の不良債権を抱え、野村證券のオランダ子会社(サルカ)は、このうち1銀行(IPB)の株式46%を保有。
チェコ政府は、IPBを除く3行には公的資金の投入など財政支援を行ったが、IPBには行わず、IPBの経営はさらに悪化し、最終的には公的管理下に置かれ、別の国営銀行に譲渡された。
「条約漁り」によって受入国が被害を受けたとして引き合いに出される例としては、Saluka対チェコ事件(2006)が有名である。 この事件では、野村證券の欧州子会社がオランダに設立したSalukaが、チェコ=オランダBITを利用して仲裁申立を行った。 Salukaは民営化されたチェコの元国営銀行の株式の46%を保有するために設立された持株会社であったが、チェコ政府は他の3つの国営銀行に対して与えた財政支援を、Salukaの投資していた銀行には与えなかった。 その結果その銀行の経営が悪化し、公的管理の下に置かれた後にSalukaは株式を別の国営銀行に譲渡するよう命令を受けたという事件である。
チェコの銀行業界は、4大銀行が主要な地位を占め、すべてが不良債権問題を抱えていた。 民営化された銀行(IPB)に野村が資本参加(46%)。 後に、野村は、オランダ籍の会社(サルカ)にIPB株式を譲渡。 銀行監督強化の中、4銀行の経営状況は悪化。 チェコ政府は、IPB以外の3銀行(国営)に公的資金を注入。 野村は、資金投入および他銀行との業務提携認可を求めて政府と交渉したが、実を結ばず。 チェコの銀行監督機関は、IPBの支払い能力が危機的な状況にあるとして、公的管理を開始。 その2日後に、IPBはCSOB(3銀行のうちの一つ)に譲渡され、政府はIPBに公的資金を注入した。(チェコの政権交代も背景にある模様)
投資協定の進め方 - 経済産業省P.24
民営化されたチェコの元国営銀行(IPB)に野村證券が資本参加した後、チェコ=オランダBITを利用するためにオランダにペーパーカンパニーを設立して、そのペーパーカンパニーに株式を移転した。 そして、その後、チェコ政府がIPBと他の3つの国営銀行とは違う扱いをし、最終的にIPBを公的管理に置いた。 この件について、仲裁判断では、IPBと他の3つの国営銀行の扱いの違いを理由に、公正衡平待遇に違反するとして賠償を認めた。
この事件で問題とされたことは、ペーパーカンパニーを通した迂回投資を条約・協定の保護対象にすべきかどうかである。 これについて、Saluka事件の仲裁定は次のように判断した。
このBITは、保護すべき「投資家」のうち、法人投資家を「締約国の一の法に基づいて設立された法人」とだけ簡単に定義していた。
訴えられたチェコは、Salukaが「オランダとの真正で現実の継続的な連関」を有しておらず、「投資家」と認定されるのに必要な条件を満たしていないと主張した。 これに対して仲裁廷は次のように述べた。
「本仲裁廷は、BIT当事国と現実の繋がりを持たず、実際にはその国の法に基づいて設立されてはいない別の企業によってコントロールされたペーパーカンパニーに過ぎない企業には、その条約の条項を援用する権利が与えられるべきではないという議論に幾らかの同情を感じる。 そうしたことが可能であるということは、企業に仲裁手続を濫用させ、広く非難される実行である『法廷地漁り(forumshopping)』と問題点の多くを共有する『条約漁り』を行わせる。」
しかしながら仲裁廷は、自身を導くのは「問題の条約の当事国が本仲裁廷の管轄権を設定することに合意したところの文言」であり、当事国には「投資家」の定義を決める完全な自由があることを指摘する。 その上で、仲裁廷は当事国が合意していない定義を持ち出すことができず、「投資家」の定義が上に引用した通りである以上、「当事国自身が付け加えることが出来たにも関わらずそうしなかったその他の条件を、仲裁廷が追加することはできない」とし、SalukaがBIT上の「投資家」に当たることを肯定したのであった。
Saluka事件の仲裁廷は、2つの前提に依拠している。 第一に、BITの当事国はそれにより保護される投資家の範囲をいかようにも決定できるということ。 第二に、仲裁廷は条約の文言を無視して別の条文に書き換えることが出来ないということである。 各国に条約締結の自由があることは条約法の大原則であり、後者は「条約は(中略)用語の通常の意味に従い誠実に解釈される」旨を定める条約法条約31条において承認されている。
Saluka事件のBITのように、保護される「投資」「投資家」は一般に広く定義される傾向にあるが、それは投資の誘致に(たとえそれがペーパーカンパニーであっても)それだけのメリットがあると諸国が考えるからである。 そうであれば、明文で排除されていない投資家の保護を否定することが当事国の現実の意思に反するということも十分あり得るのであって、仲裁廷にそうした法の枠を外れた判断を期待することは出来ない。
簡単にまとめると、当事国が「投資の誘致に(たとえそれがペーパーカンパニーであっても)それだけのメリットがある」と考えて、ペーパーカンパニーによる迂回投資を除外する規定を敢えて設けなかったのだから、単にペーパーカンパニーであることは条約・協定の保護対象から外す理由にはならないということである。 そもそも、Saluka事件における野村証券は何ら悪さをしていない。
「条約漁り」の問題に入る前に、こうした行動は私企業にとって一般的であるということを確認しておこう。 例えば、自社に有利な会社法・税法を持つ国・地域を設立地とすることでその恩恵を受けたり、紛争の際に企業活動保護に厚い国を契約の準拠法国・法廷地国として選択したりすること(国際私法上の「法律回避」)は、企業にとって当然の行動である。 米国デラウェア州のように、企業を誘致するために企業に有利な会社法を整備・維持し続けている地域さえある。
「条約漁り」も、利用可能な資源を最大限に利用して利潤を最大化しようとする点で、投資家の賢明さとしてこれらと変わるところはない。 こうした合理性自体を「汚い」として批判する立場も勿論あり得るが、法的に禁止されていない行為を法的に非難することは出来ない。
従って、投資家が悪いから批判されているのではなく、単に投資受入国にとって都合が悪いから批判されているのである。 その理由として、一つには、上に挙げた例と異なり、投資仲裁の場合は、企業が期待した保護を受けられなかった場合に仲裁手続に訴えられるため、投資受入国がそうした企業を保護する意図を実際には持っていなかった場合にアンフェアな結果となるということが考えられる。 第二に、当該第三国(投資家の国籍国)がさらに別の第三国と結ぶBITにおいては条約漁りが規制されている場合に、自国企業には当該第三国の企業と同じことが認められず、相互性が確保できないということが問題視される可能性もある。
野村証券は、チェコ政府による不公正な行為から身を守るために、チェコ=オランダBITを利用しただけである。 不当行為から身を守るためにペーパーカンパニーを設立したのであって、不当な利益を得るためにペーパーカンパニーを設立したわけではない。 そして、賠償が認められた公正衡平待遇違反は、チェコ政府が選択した行動であり、野村証券の選択ではない。 ようするに、野村証券は将来を見据えた防衛策を取っただけであり、その防衛策が功を奏して、チェコ政府の不当行為から身を守っただけに過ぎないのだ。 こうしたことがどうしても気に入らないなら、初めから、条約・協定にそう規定すれば良い。
このように、「条約漁り」は仲裁廷にはどうしようもない問題であって、それを回避したいのであれば、各国が極小化に努めるべき問題である。 行き過ぎた「条約漁り」が問題だと考えるのであれば、「投資」「投資家」の範囲を狭めればよい。 あるいは、利益否認条項(denial of benefits clause)と呼ばれる立法技術の活用も考えられる。 これは、投資受入国で実質的な経済活動を行なっていないペーパーカンパニーが投資協定による保護を受けることを否定する条項である。
例えば、2004年に締結された中米自由貿易協定(CAFTA)の10.12.2条は、次のように規定している。 「一当事国は、他の当事国の企業たる他の当事国の投資家及びその投資家の投資財産に対して、否認国(the denying Party)以外のいずれの当事国の領域においても当該企業が実質的な事業活動を行なっておらず、かつ非当事国又は否認国の人(persons)が当該企業を所有し又は支配している場合、本章の利益を否定することが出来る。」 第三国国民の支配下にあり、他の当事国では実質的な活動をせず籍を置いているだけに過ぎないペーパーカンパニーは、投資受入国により投資協定の保護を否定されうるのである。
このように、投資協定上の保護を得るために第三国から国籍だけを移したペーパーカンパニーを仲裁廷の管轄権から排除することは技術的に可能である。 実際、最近の日本の投資協定は利益否認条項を含んでいることが多い(例えば、日本=マレーシアFTA91条2項(2005)はCAFTAのものとほぼ同じ規定である)。
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