上水流陽菜子が窓の外を覗くと小学生の登校途中が目に入ってきた。思わず視線恐怖を感じて身を縮みこませる。
陽菜子にとっては退行現象が起きてから初の外出となるが、目覚めた当初求めていた自由への解放感や自立への熱り立つ思い等は残っておらず、あるのは惨めな自分を見られたくないという単純な対人への恐怖だった。何せ今の自分はおむつを当てて、赤ちゃんの様な格好をし、チャイルドシートにくくり付けられて満足に身動きすらできない状況なのだから。
運転中の古賀坂琴葉を見るとサングラスにスーツ姿で、円熟した大人の色香が漂ってくる。きっと男性が街中で彼女を見かければ皆振りかえるような凄艶さだ。しかし自分を街中で見かければきっと男女問わず好奇の視線で振り返るであろう。二人とも成人を迎えた女性だというのにこうまで差がでるものなのかとため息が漏れる。
―いや、成人女性じゃなくても、そこを歩いている小学生の女の子より私のほうがもはや下なのか……―
テストを受けてから三日間、本日施設に向かうまでの間に幼児向けの絵本を読んだり、リハビリとして体を動かしたりしていたのだが言葉は単語で喋れる程度にはなったが、まだ滑舌が悪く文字は未だにひらがなを追うようにしか読めない。体力としては物伝いに立ち上がり歩くことは出来るようになったが、何かに掴まらずに立ち上がる事は出来ないし移動する手段の多くはハイハイであった。
今だって車に乗せられるまでは琴葉に抱えられていたし、チャイルドシートもベビーチェア同様滑り止めのせいで足を閉じることができない。いや、それ以前におむつのせいで両膝をくっつけることもできないし、その生活に慣れてしまったせいで初めは体を横にしたりして出来る限り隠していたのが今では気付くとあぐら座りが普通になってしまっている。
信号で停止した時や、対向車とゆっくりすれ違う時、自転車等が車の横を通る度に体を縮ませ窓から怯えながら顔を隠す陽菜子の姿を見て琴葉は、心配しなくても陽菜子ちゃんを見た人なら全員が可愛い赤ちゃんが乗っているって思ってくれるから安心しなさい。等と言うものだから陽菜子は顔を赤くしながらイジワルと心の中でつぶやいた。
とはいえ外の空気を吸え、太陽の光を浴びれた事は素直に気持ち良かった。流れる空気というものがここまで気分を変えさせるものなのか、眩しく輝く太陽がこんなにも心地よいものだったのかと外の世界は暗く沈んでいた陽菜子の気持ちを明るくさせていた。
陽菜子は外に出て気付いた事が二つあった。一つは一軒家だと思っていた家は実は高級マンションであった事。なんとマンションなのに二階式の住居だったのだ。そしてもう一つは琴葉が外出用に自分用のベビーカーもこのチャイルドシートも靴も外出用の服も既に整えていた事だった。陽菜子は琴葉の事を大学の先生だと思っていたが、今では一体何者なのか分からなくなっていた。自分のためにここまでしてくれることはありがたいが、常軌を逸している感さえある。
ふと気が着くと車はビルの地下駐車場へと入り込んでいた。さほど広くはなく、駐車スペースは十台と少しで既に何台かの車は止められていた。どれも高級車に見える。琴葉が車を駐車させ、外に降りるとしばらくしてから大きめのベビーカーを押しながら戻ってきた。
「ふぇっ?……こぉえ、のぉの?」
「そう、これに陽菜子ちゃんを乗せて施設まで行くのよ、家の中ならともかくいつも陽菜子ちゃんを抱っこしたままだと、流石にママも疲れちゃうわ」
戸惑う陽菜子に対し琴葉はテキパキとチャイルドシートからベビーカーに移し替えた。乗せられたのは車椅子でも手押し車でも無く紛れもないベビーカーであった。形としては後ろから琴葉が押す仕組みになっているため、陽菜子は少しだけ不安感が広がった。何せここは家の中ではないのだ、琴葉と正面向かいになる仕組みならば誰かとすれ違っても自分の姿を覗かれる可能性は少ないが、これではすれ違う度に赤ちゃんの格好をしてベビーカーに乗せられた自分の姿が丸見えになってしまう。
しかし文句を言ったところで琴葉がどうにかしてくれる筈もなく、琴葉は澄ました顔でベビーカーを押しながらエレベーターに入ると最上階である五階のボタンを押した。
五階に着くと、そこは短い廊下が正面へと続いており、その先のドアには『えんちょうしつ』とひらがなで書かれた札が下げられていた。保育室と聞いていたのに事務所の様な造りの建物に陽菜子は少し緊張し体を縮みこませた。
琴葉はベビーカーを押しながらドアの前まで近づくと、コンコンと二度ノックしてドアの向こうから声がしたのを確認してからゆっくりとドアを開いた。
陽菜子の目の前に広がってきたのは、テレビでよく見る様なオフィスルームであった。スッキリとした内装に来客用の革張りソファー等の応接具、装飾品はわずかである。そして奥のデスクに座っていた女性がゆっくりと立ち上がって近づいてきた。
陽菜子は近づいた女性を見上げると先ほどまでの緊張感がスルスルと解けていくのが自分でも分かった。女性は高齢で、ボリュームの少ない白髪を綺麗に巻いており、細身で小柄なのに全体から粛然というか凛然とした気品を感じ、それなのに微笑んでいる表情はとても物やわらかで慈愛に満ちていた。
「あらあら、この子がうちに新しく入る子ね、とても美人さんで嬉しいわ」
今まで琴葉に可愛い可愛いと言われていたので、美人と言われて陽菜子はドキリとした。
「馴染むまでは大変かもしれないけど、元の生活に戻れるように私たちも応援するから頑張っていきましょうね、私はこの施設の園長をしています小野寺光子と言います、よろしくお願いしますね」
そう言いながら園長の光子は細く皺の目立つ手で陽菜子の髪の毛を撫でた。その感触に陽菜子はどこか懐かしさを覚え、ふと光子に親しさを感じた。
「園長先生、いろいろとご迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願い致します」
深々と頭を下げる琴葉に対して光子はそんなに畏まらないで、と笑みを浮かべた。
その後も保育施設の説明や方針、時間や食事についてなど細かい事をソファーに座りながら琴葉と光子が話していたが、陽菜子はまるで聞いておらずベビーカーの中から園長の横顔を見つめているだけだった。たまに陽菜子と目が合うと光子はニッコリと微笑み、その笑顔が陽菜子の心細さを打ち消し、どこか心の満たされる不思議な気持ちになった。
話が一通り終わったところでドアをノックする音が聞こえた。光子が声を掛けるとドアが開き、現れたのはピンク色のエプロンに水玉のバンダナを巻いた大柄な女性だった。園長とは間逆で背も高く年齢的にも若い……といっても三十代ほどであろうか、元気いっぱいの笑みを浮かべるその姿はどこか体育教師を彷彿とさせた。
「おはようございます!桃組の朝の挨拶終わりました!」
白い歯を光らせながら目一杯の笑顔で挨拶をする大柄の女性。空気を響かせる通る声に陽菜子も琴葉も一瞬ビックリした。
「あら、もうそんな時間?ご紹介しますね、古賀坂さん、この人が陽菜子ちゃんの入るクラスを担当している松原葵先生です、松原先生、こちらは新しく桃組に入る上水流陽菜子ちゃんとその保護者の古賀坂琴葉さんです」
「よろしくお願いします!」
「こちらこそ、陽菜子ちゃんの事をよろしくお願いしますね」
手を取り合って挨拶をする琴葉と葵、比べると長身の琴葉よりも葵の方が、背が高くがたいが良い。大きさと元気の良さに多少戸惑っていた陽菜子に葵が近づくと、
「私がクラスを担当している高城葵!よろしくね!」
と、手を差し伸べて握手を求めてきた。オロオロしながら手を差し出すとしっかりと、陽菜子の倍はあるのではないかと思うほど大きい手と握り合わされ、葵の気合の様な物を感じた。
「ところで園長、陽菜子ちゃんの名前はどうなさいますか?」
「あら、そうだった!すっかり忘れていたわ!」
「あの……陽菜子ちゃんの名前ってどういう事ですか?」
忘れていたという表情の光子に向って琴葉は心配そうに問いかける。
「この施設では預かる子の名前をひらがな表記で四文字以内に省略して呼ぶことにしているの、他の子達が呼びやすくするためだったり、退行現象が起こってしまった子たちに対しての個人情報保護の意味だったりいろいろとした理由があるからなの」
園長の光子が丁寧に説明して葵が付け足してくる。
「そうです、私でしたら“あおい”になりますし、人によっては偽名や名前を省略している子もいます」
「なるほど、そんな決まりがあったんですね、陽菜子ちゃんはどんな風に呼ばれたいかしら?」
自分の名前について振られた陽菜子は少しだけ考えた後、
「ぃなこ……ひぁお、えいいっ」
「どうやら、陽菜子以外がいいと言っているようですね……でしたら省略してヒナちゃんなんてどうかしら?」
言われた通り陽菜子は正直実名で呼ばれる事に抵抗があった。どこかで名前をきっかけに自分を知っている人物に出くわすかもしれないし、今までとは違う名前でリハビリを始めた方が気持ち的にも一新できそうな気がしていた。
琴葉の省略した名前の提案に陽菜子が頷くと、以外の三人は顔を合わせてニッコリと微笑んだ。
そして手書きで用意された名札が陽菜子の胸元に安全ピンで止められた。丸くピンクの縁取りで、中には『ももぐみ 【ひな】 F』と書かれていた。人差指で名前を確認した陽菜子は、ももぐみ、ひな、までゆっくりと読めたがFが何を表わしているのか分からず指でFを指差したまま首をかしげた。
「Fっていうのはヒナちゃんのいわゆるここでの年齢の事ね」
葵が不思議がっている陽菜子に説明する。
「ここに来る前に受けた試験を覚えているかしら?」
葵に問われ、陽菜子は自宅で受けたテストを思い出して頷いた。結果の事も思い出したのか体が一瞬固まった。
「そのテストの結果でここでの年齢が決まるの。本来の年齢がヒナちゃんより低くてもその子の名札がDやEだったらここではヒナちゃんのお姉ちゃんになるの。逆にFより下の子がいればヒナちゃんがお姉ちゃんになるのよ、いいかしら?」
突然の出来事に陽菜子は言葉を失ってしまった。何せこのFというランクがどの程度のものなのか、どれぐらいの年齢層がこの施設にいるのかという事を陽菜子はまだ知る事が出来ないでいたからだ。
―仮に小学生の子でAやBランクがいれば、その子が私のお姉ちゃんの立場になって私の面倒を見るの!?―
ぼんやりと年端もいかない少女達が、自分が起こしてしまった失態の世話をしている想像を浮かべて陽菜子はブンブンと頭を振った。
「あらあら、怖くなっちゃったのかしら、でも大丈夫よヒナちゃん。」
園長の光子が先ほどと同じく陽菜子の頭を撫でる。
「ちゃんと定期的に試験があるし、それが良い結果だったらスグにみんなのお姉ちゃんになれるわ、それにここの子はみんな優しくて良い子達ばっかりだし、たいていの事は葵先生がまとめてくれるはずだから」
「そう、スグにヒナちゃんも馴染めるはずよ!」
光子と葵が陽菜子を応援しているが、陽菜子自身はまだどこか恐怖心があり隠せないでいた。そんな様子に気付いたのか琴葉がベビーカーに座ったままの陽菜子を両手でそっと抱き締めた。
「そんなに心配しなくてもいいわ……もし嫌な事があったらスグにママが助けに来るから……陽菜子ちゃんが嫌ならいつでも辞めたっていいんだから……だから安心して体験のつもりで行ってきてね」
そう語りかけると陽菜子の頬に優しく口づけをして微笑んだ。
「マ……マァア……」
「そんなに悲しい顔をしないでちょうだい……出来るだけ早く迎えに来るから、だからそんなに不安にならないでいてね」
潤んだ瞳で琴葉を見返す陽菜子だったが、時間がきたのか琴葉はさよならの挨拶と光子と葵に再度挨拶をして部屋を出て行ってしまった。
「ママがいなくなって寂しいかもしれないけれど、まずは皆のところに行って挨拶をしましょうね」
流石に陽菜子も目覚めたばかりとは違い、今の状況を受け入れて暴れたり嫌がったりすることは無かったがこれから会う子達に今の一人では何もできなくなっている自分がどのように見られるのかという不安は拭えなかった。そして葵も光子に言葉を交わしてベビーカーを押して陽菜子をクラスへと連れて行った。
エレベーターで何階か下に降りてついた先は床はフローリングの二十畳と少しほどの部屋だった。壁には大きなホワイトボードが掲げられ、壁には動物をディフォルメしたキャラクターや、クレヨンで描かれた絵が飾られており、雰囲気は幼児が通う保育施設に近かった。部屋の中ではここに通っていると思われる子達が数人おり皆が別々に遊んでいた。
リハビリをすると聞いていた陽菜子は、病院で見かけるマットや機材の置かれた部屋をイメージしていたがそのかけ離れている内装に戸惑いを隠せなかった。
「はーい、みんなぁー今日から新しい子が入りまーす!集まってぇ!」
両手をパンパンと叩きながら葵が皆を集める。すると遊んでいた子達が作業を止めると走って陽菜子の方に近寄ってきた。集まってきた人数は三人で皆女性で自分と同じく可愛らしい子供服を着ていた。
集まってきた子達が興味津津といった様子でベビーカーの中を覗いてくるので、思わず陽菜子は恥かしさのあまり両腕で顔を隠した。その様子を見て感じ取ったのか葵は皆を陽菜子から離して座らせると、まだ上手く喋れない陽菜子の代わりに自己紹介を始めた。
「この子は今日からここに通うことになったヒナちゃん!入ったばかりだからまだFクラスだけど、みんな仲良くできるかなぁ!?」
まるで本当の幼稚園児に話すような口調で葵が元気よく紹介をする。すると、集まった三人はそれころまるで幼児のように手をあげて『はぁーい!!』と力いっぱい声をあげた。
「うん!それじゃあマオちゃんから自己紹介できるかな!?」
葵が紹介を指名したのは陽菜子から見て一番右側にいた、中学生かもしくは高校一年生程の成長期が終わりきっていない特有の幼さが残る女の子だった。明るい茶色の地毛を方まで三つ編みにしており、服は可愛らしくキュロットにワンピースという出で立ちだ。
「えっとねぇ、マオはマオっていうんだよ、よろしくねヒナちゃん!」
笑顔で自己紹介する彼女は見かけよりもはるかに幼児めいた喋り方であったが、それはとても可愛らしく無邪気な明るさが感じられた。陽菜子がマオの名札を見ると名前の下にEと表記されていた。
次に紹介されたのは真ん中にいた、それこそ小学生程の体格をした少女だった。しかし特徴的だったのは金色の髪と大きな碧眼の瞳だった。肌の色素も薄く、フリルをふんだんにあしらったワンピース型のロンパースを着た彼女はフランス人形の様な愛らしさがあった。
「こんにちは、私はエルミっていうの、よろしくねヒナちゃん」
先ほどとは逆で陽菜子やマオよりも小柄なのに喋り方は多少あどけなさがあるもののしっかりとした口調であった。名札にはDと表記されていた。
最後に紹介されたのは一番左の黒髪の女の子だった。体格は陽菜子よりも少し大きく、オーバーオール型のロンパースを着用しておりエルミとは逆に日本人形の様な可愛らしさがあった。手には猫のぬいぐるみを抱きかかえている。しかし彼女は立ちあがったまま一向に喋ろうとしなかった。
「この子はスズちゃんというの、病気で喋ることができないけど耳はちゃんと聞こえているから安心してね」
陽菜子の横にいた葵が説明をするとスズはぬいぐるみを抱きかかえたままおじぎをして微笑んで見せた。名札には陽菜子と同じFの文字が記されていた。
「それじゃあヒナちゃん、みんなにごあいさつできるかなぁ?」
そう葵が言うと陽菜子をベビーカーから降ろして転ばないように手を支えてあげながら皆の前に立たせた。陽菜子は正直大学生にもなっておむつをあてられ、赤ん坊の様な服装でまともに歩くことも文字を書くことも出来なくなった自分を皆に見せるのはとても抵抗があったが、自分の前に座っている女の子三人をおそるおそる見つめると、誰も嘲笑ってなどおらず、それどころか期待に満ちた様な表情で陽菜子を見つめていた。
「………………」
しかし陽菜子は何も口から発する事が出来なかった。まだしっかりと言葉も喋れないのにこの羞恥に満ちた格好で何を語ればいいのか分からなかった。
「あらあらぁ、ヒナちゃんはまだ喋る事ができなかったのかなぁ?ここにいる三人も自己紹介してくれたんだから、ヒナちゃんも思った事を口にすればいいのよ?」
陽菜子の肩を押さえて、大丈夫?と語りかけたが陽菜子は言葉を発さない。陽菜子は服の裾を握りしめ一向に喋ろうとしなかったので葵は陽菜子の耳元で囁いた。
「……リラックスして、みんなもこれを乗り越えて今みたいに喋れるようになったんだから」
―…………そっか……みんなも私と同じ状況で、なりたくてなったんじゃないんだよね……―
「……ひ……ヒナぇ……おねぇぁい、たいの、ぃえ、あいっ…………」
相変わらず幼児どころか声を発したての赤ん坊のように支離滅裂な言葉になってしまい陽菜子は笑われるのではないかと体を硬直させていたが、出迎えてくれた三人は皆暖かい拍手で陽菜子のクラス入りを歓迎してくれた。誰も陽菜子を見下したりなどせず、自分たちの仲間だと言わんばかりに全員が笑顔で陽菜子に近寄ってヨロシクね、と握手をかわしてきた。