上水流陽菜子は、今自分がどの様な状況にいるのか、今何をしているのか、そしてこれから何をすればいいのかさえも分からなかった。

 目が覚めるとそこはピンク色の壁紙にぬいぐるみや積み木などのおもちゃに囲まれた子供部屋であった。

 しかし上水流陽菜子は横たわったままそれらをぼんやりと眺めながら何もしなかった。何もすることができなかった。まるで体の動かし方を忘れてしまったみたいに、脳が神経を刺激して体を動かすという事がとても難しく感じた。

 忘れてしまったのは体の動かし方だけではない、頭の中も黒い霧で覆われた様にはっきりと思考することができない。自分が大学に通う学生で、今までどの様な人生を送ってきたかなどを思い返すことはできても、どうやって思考し行動をして生きてきたか、一人で生活して来られたのかが分からなかった。ふと記憶喪失なのかもと思ったが、今の彼女には記憶喪失という言葉すら思い出せず、ただ今まで覚えていた何かを忘れてしまう事という漠然とした曖昧な概念を浮かべることが精一杯頭を使って考えた結果だった。

 

 人形の様に横たわりながら上水流陽菜子はふと懐かしいような恋しいような記憶が過ぎり胸を締め付けられる感覚に陥った。

 ミルクの匂い、温かい体温、口元に残る柔らかい感触、誰かの笑顔に感じる安心感。ついこの間まで覚えていた様な錯覚が気持ちを不安にさせ、心に広がる謎の剣呑感は広がっていく。ふと頬に流れる暖かい感触に気づき、そこで初めて自分が涙を流しているのだと気づいた。知らない間に声も出ていた。何を言っているのかも何を言いたいのかも分からない。ただ喉から発声された音を響かせるだけだ。自分自身が分からない、理解できない。不安が募り顔をクシャクシャにして鼻水も涎も気にせずに上水流陽菜子は泣き喚いた。

 

 その声に気づいたのか、ピンク色の子供部屋のドアがそっと開き一人の女性が入ってきた。

 涙を流しながら上水流陽菜子は彼女を見つめた。長身で光沢のある長い髪を頭の後ろでひとくくりにしており、まだ若いはずなのにどこか落ち着いた表情をしている。育ちの良さを感じる佇まいに銜え豊満な乳房が服の上からでも目立つほど際立っていた。

 陽菜子自身思い出せないでいたが、長身の彼女は名を古賀坂琴葉といい、彼女が通う大学の職員であり、数少ない陽菜子の友人であった。だが今の陽菜子には彼女の顔に見覚えを感じても名前や出会いを思い出す余裕など無かった。ただ訳も分からず泣いてしまう現象を静めたいと思いつつ声はどんどんでかくなるばかりだ。

 上水流陽菜子の姿を見た古賀坂琴葉は嬉しそうに微笑むと、一旦部屋から出て行き、しばらくすると手に哺乳瓶を持って現れた。

 そして陽菜子の横に座ると、頭を優しく抱き上げて哺乳瓶の乳首を口元まで寄せた。

 すると陽菜子は無意識の内に乳首を咥えチュウチュウと音を鳴らしながら吸い付き始めた。

 泣き声は治まり涙も落ち着いてきた。哺乳瓶の中身はどうやら温めたミルクの様で、勢いよく吸い付いたせいで陽菜子の口元からはミルクが流れ白いスジを作り、着ていた服の襟を滲ませた。

 そんな陽菜子の様子を見ながら琴葉は母親の様な表情を浮かべ汚れた顔を綺麗にタオルで拭き取り、髪をゆっくりと撫で上げていとおしい目で陽菜子を見つめた。

 一分ほどで哺乳瓶を空にした陽菜子は先ほどまで感じていた胸の不安が落ち着いていることに気づき、空腹も多少満たされたせいかぼんやりとしていた頭を眠気が襲ったせいで、さらに鈍らせていた。

 琴葉が陽菜子の背中を撫でて曖気を手伝うと瞼がうとうととしだし、口元が寂しいのか鯉のように口をパクパクと開閉しだし空中に何かを咥えようと探し出した。

 そんな陽菜子の様子に気づいたのか、琴葉は陽奈子の頭を落とさない様にしながら器用に上半身だけを動かし着ていたシャツを捲り上げて片方の乳房を剥き出しにすると陽菜子の口元に寄せた。それに気づいた陽菜子も先ほどの哺乳瓶のように琴葉の乳房に吸い付き、さらにそれを逃がさないように覚束ない動きで琴葉の体にしがみ付いた。

 陽菜子の手はギュッと琴葉の服を握っており、眠りに落ちてからもしばらくの間はチウチウと口を寄せ付け琴葉の乳房から離れようとしなかった。

 

 

 

 秦泉寺大成という人物のとある研究レポートにこの様な文章が記載されていた。

 人間の記憶や好みなどの感情はその肉体に宿るものである。例えば匂いや味覚、懐かしい光景などによって時に過去の記憶が呼び起こされたりする。それと同様に人間は無意識の内に自分の肉体に記憶を埋め込ませているのだ。子供の時の記憶を大人になると呼び起こさなくなるのも子供時代との肉体の差が大きいからだ。人は目や鼻や舌だけでなく、常に肌や第六感で感じる刺激によって記憶を保っているのだ。皺の一つ一つにそれぞれの人生が刻まれていくのだ。

 そしてそれを証明するには他人の五感を体感すればいい。きっと記憶を呼び起こそうとしても詳細まで思い出せないだろう。そして逆に他人の五感で覚えた事を元の体で思い出そうとしてもはっきりと思い出せないだろう。

 私はこれが魂やゴーストと呼ばれるものの正体だと仮説している。そして現在使っている肉体以外の記憶というのは時が経てば経つほど喪失するスピードが速まっていく。記憶を忘れるのではない、失っていくのだ。

 現在君達が使っている体とういものは、君達の記憶を呼び起こす脳の一部となっていることを忘れてはいけない。例え足や腕を失っていてもそれらが存在していた肉体であれば部位が無くても記憶は決して失われることはない。

 それぞれの脳ではなく、固体全体に記憶は司るのだ。

 

 

 

 上水流陽菜子が眠りに落ちてからどれくらいの時間が経過したのかは定かではないが、少なくとも数時間以上が経ったころ、気持ちの悪い感触に陽菜子はゆっくりと目を覚ました。

 長い長い眠りについていたように思考がはっきりと定まらないが、下腹部に感じる不快な違和感が目を覚まさせる。

 柔らかいマットにタオルケットをかけて眠っていた陽菜子は片足を上げて立ち上がろうとした。

 カクン

「ひゃっ!」

 片足に力を入れて体を持ち上げようとした瞬間、陽菜子は腰から崩れ落ちて尻餅をついた。

 一瞬何が起きたのか分からなかった。再度立ち上がろうとするのだが、やはり足に力が入らずコテンと倒れてしまう。

「あぇ……?あぇ……?」

 体の調子を確かめるように足や腕に力を入れるのだが、空気が抜けたように立ち上がれるだけの力が体に溜まらない。部屋のドアだって数メートル先にあるのが見えるのに自らの足でたどり着くことすら出来ない。

 そして尻餅をついたことで下半身の違和感に気づく。お尻を中心にベットリとした生暖かい質感が肌に張り付き気色悪さを与えてくる。それは間違いなくお漏らしによる感覚だった。

「ふぇ……あうぇ……」

 訳が分からなくなってきた陽菜子は自分が上手く喋れていない事にも気づかず、半泣き状態で自分の姿を確かめようとする。

 お尻は濡れているのに服の上から触ると濡れていなかった。しかし、おかしいと気づいたのは濡れていないことよりも自分が着ている服だった。

 陽菜子が着ていたのはスカート付きのロンパースだった。それも大人の女性が着るようなものではなく、ピンクの水玉模様にフリルを多くあしらった、まるで赤ちゃんが着るような服をそのままサイズを大きくした様なロンパースだった。それに自分が履いている下着の感触も変だ。やけに生地が分厚く、ロンパースの下からでも強調するように腰周り全体が盛り上がっている。手で股間を押さえつけると服越しにおしっこの濡れた感触と履いている下着の正体に気づく。

―こ、これって……私……もしかして、おむつ履いているの!?―

 立つ事も気色悪さを拭う事も出来ない陽菜子の瞳からは次第に大きな雫が溢れて顔中を濡らし始めた。

「ふぇぇぇぇぇぇぇん」

 陽菜子は自分でも驚くほど幼い、子供めいた鳴き声を上げ必死に涙を拭った。

 泣いて泣いて泣くのに疲れてきた頃、ゆっくりと部屋のドアが開いた。

 ドアの向こうに建っていたのは見覚えのある女性、古賀坂琴葉だった。数時間前とは違い、タイトスーツに白衣といった出で立ちに変わっている。

「おはよう、陽菜子ちゃん」

 優しく微笑んで近づく琴葉に対し、陽菜子は今の情けない姿を隠そうと近くにあったタオルケットで自分の体を隠そうとした。

「あら、ようやく脳が感覚を取り戻してきたのかしら……」

 琴葉は静かに呟くと、陽菜子の側にそっとしゃがみ込むと頭を撫でながら事情を説明し始めた。

「陽菜子ちゃん、私の言葉が分かる?分かるなら頷いてみてくれない?」

 琴葉に問われ、戸惑いならも陽菜子は頷いた。

「良かった……陽菜子ちゃん、あなたは数ヶ月前に倒れてこん睡状態になっていたのよ?今でも意識が混濁しているでしょ?」

 ようやく涙が止まった陽菜子は琴葉の言葉に鼓動が高鳴る。

―こん睡状態?何故?病気?怪我?どうして?―

 様々な疑問が浮かび、思わず琴葉に原因は何ですか?と口を開いたのだが出てきたのは。

「うぇぃんあいのたいっ!」

 まるで赤ん坊が叫ぶような訳の分からない声が自分のものだと気づくのに少しの間があった。まともに喋れていない恐怖に背筋を冷やしつつ、もう一度ゆっくりと「げんいん」という単語を喋ろうとするのだが、発音の仕方を忘れてしまったみたいにまともな言葉が発せられることは無かった。その様子を見た琴葉が落ち着かせようと穏やかな声で話を続けた。

  「あなたは数ヶ月前に自宅のアパートで脳の病気によって倒れて病院に運ばれたのよ。しばらくの間は脳死の様な植物状態だったんだけど、数日前奇跡的に目を覚ましたの……だけど……」

 しばらくの間があった後。

「あなたはまるで赤ちゃんみたいに何も覚えていなかったの」

 琴葉の言葉が陽菜子の体を硬直させていく。

「言葉も通じないし、食事もトイレもまともに行えない、知的障害なのかと思って検査もしたけど結局分からなくて……一部の記憶が失われたのかそれとも幼児退行しているのか、精神的なものなのか肉体的なものなのかもはっきりとは分からなかったのだけど何かの障害が残った訳でもなさそうで……でも、今の反応を見るとどうやら記憶は少し戻ってきたみたいね」

 陽奈子はようやく現状を理解して、無事記憶が戻った事に少しだけ安堵して琴葉に向けて頷いた。

「そう……それは良かった。それじゃあまずおむつが汚れているみたいだから取り替えちゃいましょうね」

「ふぅぇっ?」

 そういうと琴葉は陽菜子のタオルケットを簡単に取り上げると、腰を掴んで仰向けに寝かせるとロンパースのボタンをはずし始めた。

「い、いぁぁぃぁぁぃあ!!」

 体に力が入らないが、陽菜子は手足をばたつかせ暴れて嫌がろうとする。

「どうしたの?おむつも濡れているみたいだし、そのままじゃ気持ち悪いでしょ?」

 確かに琴葉の言う通りだったが、二十歳を超える自分の失態とその後始末をいきなり同姓の女性にしてもらうには心の準備が必要であったし、何よりおむつを取り替えるという事は自分の下半身が顕になるということで、それに対しても強い抵抗感があった。

 しかし琴葉はそんな嫌がる陽菜子を押さえつけ、楽々とロンパースを脱がしおむつ姿にさせる。しかしそれでも陽菜子は必死に逃れようと体を動かす。

「暴れなくてもいいのよ陽菜子ちゃん、だってあなたは病気なんだから……大人だって病気になればおむつを使うものだし、恥ずかしいことじゃないのよ……」

 陽菜子を諭すように語りかけながら琴葉は布おむつを一枚一枚はがして、陽菜子の汚れた下半身を晒し出した。おむつはレモン色に染み込んでおり、独特の酸っぱい匂いが軽く部屋に広がる。

 湿っていた下半身は空気にあたると少し肌寒く感じ、下半身が収縮したかと思うとチョロチョロとたまっていたおしっこがあふれ出して琴葉の手をぬらした。

「うえぇ……ぁぁい」

 陽菜子が咄嗟にごめんなさいと言おうとしたが、喉から発せられるのは赤ちゃんのような喃語だけだ。恥ずかしさと申し訳なさで顔が熱くなる。陽菜子は自由にならない自分の肉体に恥辱と苛立ちが混じった不安とも違う感情に押しつぶされそうになる。

「あらあら、まだ膀胱に残っていたのね……それじゃあちゃんと中まで綺麗に拭いてあげないとね……」

 琴葉の目が怪しく光ると、持っていた蒸しタオルで陽菜子の下半身を綺麗に拭くと指先で優しく秘部に触れる。そして指の平で撫で回すようにゆっくりと愛撫し始めた。

「ひっ!!」

 陽菜子は思わず声を漏らして下半身に走るジンジンと疼く感覚に身を悶えさせた。体に力が入らなくても、上手く動かなくても、立つ事が出来なくても五感だけはしっかりと感じてしまうのだ。しかも今感じているそれは、実際の赤ちゃんには決して知ることの出来ない大人の欲求だ。琴葉は陽菜子がより嫌がりより求める場所へと人差し指で追い詰める。

 しかし、急に冷たいものが秘部に張りつき、陽菜子はヒッと小さく叫んだ。

 そこには濡らしたタオルが当てられており、琴葉はそれを使いおしっこで汚れた箇所を丁寧に拭き上げていく。多少の悪戯だったのか、どうやらもう愛撫はしない様だ。

先ほどのジメジメとしていた感触が拭い取られベタベタとしていた下半身もタオルで綺麗にしてもらい、先ほどとは違った気持ちよさを感じる。しかし陽菜子の心のどこかで誰かに粗相した自分の体を綺麗にしてもらうという行為に対し胸を高鳴らせていた。そして陽菜子自身も何故こんなにドキドキと体が熱くなるのか分からなかった。

 しかし妙な違和感が何処かにある。

―綺麗にしてもらっているのに変な感じ……―

 奇妙な違和感を確認するため首を曲げ自分の体を見てスグに気づくことができた。

「うぁっ……ぁっい!!あぃっ!!」

 声を出しながら自らの手でそっと下半身に触れて確かめた。陽菜子が見て触った通り、いつの間にか自分の陰毛が綺麗になくなっていたのだ。それも剃った訳ではなく、毛根から全て抜け落ちていた。

 その様子を見て陽菜子が何に驚いているのか分かった琴葉はクスクスと笑いながら説明する。

「あぁ、下半身の毛が無くなっちゃっているのに驚いたのね。コレはあなたの意識が戻っていなかった時に尿道カテーテルでおしっこの処理をしていたのだけど、その時に陰毛があると抜けて体内に入っちゃう場合があるから綺麗に処理しておいたのよ、私の友達にエステティシャンの子がいて最新のレーザー脱毛で綺麗に永久脱毛してもらったのよ。あ、でも大丈夫永久って言っても肌には影響ないし、新たに生えるような事もないのよ?まぁ産毛ぐらいなら生えてくるかもしれないけど」

 次々と自分の知らない事実を知らされた陽菜子はもはや何を言っていいのか、どう反応していいのか分からず、気づけば嗚咽混じりに涙を流していた。

 

                                               つづき