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執心鐘入
組踊「執心鐘入」

末吉宮の北隣に位置する平良真地の周辺は当時、原野で、民家はほとんどなかった。
玉城朝薫の組踊五番の一つ「執心鐘入」で美少年、中城若松が首里城までの道中、人里離れたこの地に一夜の宿を取ったことでも知られる。

「士族の開墾地を屋取(ヤードゥイ)といいますが、この地も琉球処分(1879年の琉球併合)の後、職を失った士族(さむらい)の開墾によって集落が形成されたところです。

明治末までこのあたりは末吉宮のモーアシビ(毛遊び=夜更けまで続いた唄三線と手踊りによる男女の宴会=沖縄版・合コン)でにぎわったそうですが、それ以降の大々的な催しといえば、競馬でした。
大正期に作られた沖縄神社の祭礼競馬として毎年10月20日に開かれていました。
この日は中頭からも島尻からも見物人が集まり、大変な賑わいでした」(宮里朝光さん)


「写真集 沖縄」那覇出版社より

沖縄神社とは沖縄開闢(びゃく)の祖とされる舜天とその父・源為朝、琉球王朝最後の国王・尚泰を祀った県社。
琉球処分後、駐屯した熊本鎮台兵に踏み荒らされた首里城正殿にしめ縄を張り巡らせ、正面に賽銭箱を置いて拝殿とした。

幼少の宮里さんが競馬を目の当たりにした昭和初期は、その正殿の改修工事中。周辺には柱として用いる檜の香りが漂っていたという。

那覇市史(資料編第2巻)には当時の競馬の様子がこう記されている。


那覇市首里大名町の馬場道。かつては沖縄最大の競馬の舞台となった平良真地だった

「十月二十日の沖縄神社祭の奉納として平良真地での競馬は戦争直前まで首里を中心に沖縄を二分し、島尻方と中頭方で勝負する大競馬であった。
祭礼の日は天界寺松尾(師範学校の記念運動場で現在の琉球大学理学部ビルの跡地)に勢ぞろいした乗馬約二百(昭和初期には約百)が赤や紫の布で着かざり、よろい武者を先頭に二列になってしゅくしゅくと平良真地に乗り込んでいく姿は、琉球の往時をしのび実に壮観であった。
午前十時ごろから午後四時ごろまで競馬が行われ、沖縄中はもちろん遠く離島からも見物人がおしよせ一日中にぎわった」


弁が嶽にひっそりとたたずむ沖縄神社。
戦前は首里城正殿を拝殿としていた

80余の馬場を持つ島尻地区と40余の中頭地区との勝負。そんな沖縄本島を二分する大競馬の頂点に立った馬の名が、西原町史(第4巻資料編3)に記載されている。

「中頭にはヨドリ与那嶺小(ヨナミネグヮー)≠フヒコーキ≠ニいう名馬がいる(中略)昭和初期の沖縄神社祭の奉納競馬には、中頭はヒコーキとトヌバル、島尻は自動車小とマンガタミ馬がいて、双方どっちも負けられない勝負が、平良馬場でくりひろげられた。
万余の見物人が手に汗をにぎる見事な勝負を展開した結果、優勝の栄冠は中頭のヒコーキに挙がったという」。

ヒコーキが優勝した奉納競馬は昭和初期と書かれているだけで開催年度は不明。
だが、この大会にヒコーキとととも出走したトヌバルについては、
「郡大会や県大会でも一、二を争う名馬と言われていた。しかし、昭和3年、中城北上原のヤナジャー馬場で中城村北上原の富浜の無名の馬に負けた」(西原町史)
と書かれていることから、昭和3年前後だったのは間違いない。

こんな話を伝えると、宮里さんは寂しそうに笑った。

「今の若い人は平良真地どころか、沖縄に競馬があったことさえ知らないでしょうね」。
だが、沖縄には競馬が確かにあった。

次号へ続く・・・

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(2011.01.26掲載)

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