これでは、もはや歯止めとは言えない。なんとも不安な決定である。自衛隊の次期主力戦闘機F35について、安倍内閣がきのう、国内で製造する部品の輸出を認めると決めた。武器の輸[記事全文]
ローマ法王ベネディクト16世が退位し、新法王を選ぶ「コンクラーベ」が開かれる。一つの宗教の頂点にすぎないが、行動、メッセージの内容は大きな影響力を持つ。[記事全文]
これでは、もはや歯止めとは言えない。なんとも不安な決定である。
自衛隊の次期主力戦闘機F35について、安倍内閣がきのう、国内で製造する部品の輸出を認めると決めた。武器の輸出を原則として禁じている、武器輸出三原則の例外とする。
F35は、米国を中心に9カ国が共同開発中の最新鋭ステルス機だ。各国が製造した部品を米政府が管理し、修理などで必要になった国に速やかに届ける仕組みをつくる。
日本もこれに加わり、エンジンやレーダーの部品を製造するという。それが他国で使われる可能性があるため、輸出を認める手続きをとった。
問題は、この枠組みに、周辺国との緊張関係が高まるイスラエルが加わることだ。
安倍首相は先の国会答弁で、「イスラエルは今後、武力行使をする可能性がある」と認めたうえで、日本製部品がイスラエルで使われるからといって「共同生産に参加できなくていいのか」と疑問を呈した。
政府はこれまで、国際紛争を助長するのを避けるのが三原則のねらいであり、平和国家としての基本理念だと説明してきた。イスラエルの武力行使に使われるなら、明らかにこれと矛盾している。
それを意識してのことだろう。きのうの官房長官談話では、紛争助長のくだりが消え、「国連憲章を遵守(じゅんしゅ)するとの平和国家としての基本理念」という表現に変わった。
だが、憲章違反の武力行使をしますといって武器を買う国はあるまい。輸出のハードルはぐっと下がる。これは三原則を事実上、骨抜きにするものではないか。
政府は、今後も「憲章遵守」に照らして武器輸出の可否を判断する考えだが、これには反対だ。あらかじめハードルを下げるのではなく、どうしても例外にしなければならない事情があるなら、国会でも、国民に対しても説明を尽くし、理解を得るべきだ。
政府はこれまでも、野田前内閣が共同開発をしやすくするなど、じわじわと三原則を緩めてきた。このまま、なし崩しに輸出を拡大させてはならない。
世界の武器取引に目を向ければ、軍需産業が政府高官にわいろを渡し、不要な兵器を買わせるといった例も目につく。
日本製部品が、そうした闇に流れないようにする目配りも必要だろう。
輸出を急ぐより、まず歯止めのかけ方を議論すべきである。
ローマ法王ベネディクト16世が退位し、新法王を選ぶ「コンクラーベ」が開かれる。
一つの宗教の頂点にすぎないが、行動、メッセージの内容は大きな影響力を持つ。
経済のグローバル化による貧富の拡大、恒常化する戦争や民族対立。変転の時代に人々の不安は増幅されている。新法王を待つのは厄介な世界だ。
約11億人の信者を擁すカトリックの指導者である法王は、初代がイエス・キリストに従った12使徒の一人ペトロ。動じない人になれ、と岩を意味する名をイエスがつけた。その殉教後も教えは信者を広げていく。
やがて絶大な権力を持つが、世俗権力が欧州各国で政治支配を強め、法王を圧倒するようになる。16世紀の宗教改革以降、キリスト教世界は分断し、力は相対的に落ちていった。
現代の教会が政治や軍事力をもたないソフトパワーであることを逆手にとって、影響力を使ったのが、8年前に亡くなったヨハネ・パウロ2世だ。若いときはナチズムに抵抗し、即位してからは世界を飛びまわって全体主義を否定し、平和のかけがえなさを訴えた。
死去の折、朝日新聞の社説は「ソ連圏の共産党独裁体制に敢然と戦いを挑み、ついに瓦解(がかい)に導いたことで歴史に刻まれる」と悼んだ。
米国への同時テロ後の動きも際だった。報復戦へ動く米ブッシュ政権を制するように、イラクに使者を派遣、和解を求める声明を相次いで出した。
戦争は止められなかった。しかし法王の反対は、戦争が「キリスト教とイスラム教の文明の衝突」へとさらに深刻化することを阻む力になった。
ベネディクト16世は学者肌で知られた。けれども、ユダヤ人虐殺の時代の反省に厳格でないと批判されたり、前任者が積極的に進めたイスラムなど他宗教との対話を「ジハード(聖戦)批判」の発言などで冷え込ませたりした。法王庁のスキャンダルにも見舞われ、最後は打つ手もないままに疲れたようにみえる。一般世界への働きかけは先代より後退した。
教会には国家のような力はない。だからこそ、力の横暴に苦しむ人たちによって立ち、守る壁になれる。子どもや老人など弱き者の声を代弁できる。
女性司祭任用、産児制限や避妊への対応など、新法王を待つ難題は多い。
教会の都合だけで選ばれるべきではない。世の苦悩は深い。弱く悩める人に寄り添う同行者のような人を待ちたい。