第三章:旅の始まり
結局その日のうちに街につくことはできず、僕たちは野宿をすることになった。
僕が胡桃の木箱からコーヒーフィルターを取り出すと、フルトンは興味津々と言った様子で箱書斎から顔をのぞかせた。
「ネルドリップか!」
「うん。フルトンはコーヒー好き?」
「私にとって何よりの楽しみなんだ。一杯淹れてもらってもいいかい?」
そういうとフルトンは箱書斎にもぐりこみ、とても小さなミニチュアのカップを僕に差し出した。
「うわぁ、小さいなぁ。それにとても綺麗だ」
「私の父が、南洋の国を旅しているときに職人に作っていただいたものなんだ。私も愛用していてね」
オークの木で丹念に削り出されたそれは、なんとも言えない光沢を放っており、その木材が記憶した時間を、ひしひしと伝えてきているようだった。
僕は鍋にお湯をはり、フィルターを湿らせ、布巾でしっかりと水分を取った。豆を入れ、ポットに取り付けたら、じっくりとお湯を注いでいく。
豆が膨らんでできた山のてっぺんから、茶色い泡となった湯が、深い香りのする湯気を放ちながら、また豆の山の中へ沈んでいく。
コーヒーを抽出している間、僕もフルトンも、シンと黙ったままだった。
「……おまたせ」
「ありがとう」
とても小さなカップを、とても小さな手へ。フルトンは香りに目を細め、うまそうにコーヒーをすすった。
「ジェルボアの賢者というのは、我々人間やネズミと言ったような哺乳類の祖のことでね。そもそも哺乳類というのは、一匹のネズミのような生き物が全ての始まりだったと言われているんだよ」
「じゃあ僕たちはみーんなジェルボアの子孫で、僕とフルトンはジェルボアの兄弟?」
「そんなところだ。私たちはそのジェルボアの賢者を尊敬し、親しみ、伝承の主として信仰している。私たちに、知識と知恵を手にする機会をくださった、偉大なる祖なんだ」
たき火をはさんで、僕はそこらへんの丸太に、フルトンは箱書斎の上に椅子を出して、それぞれ腰かけて。
真っ暗な闇の中にたき火のオレンジが浮かんで、僕とフルトンを淡く照らす。その甘い光の中で、僕たちは話をしていた。
「書斎の本は全て、そんな伝承を記録したものなのさ。これは知恵の箱、私たちの財産なんだ」
「そこに記されていることは全て真実なの?」
「勿論だとも。ただ、時間が経つと伝承者の名前なんて残らないからね。たとえば私が本を書きあげて、そこに私の名前を記したとして、二つも世代が変われば、もう私の事を知るものはいないんだ。そんな時、私たちはジェルボアの賢者を利用している……そんな体のいい扱い方もしてはいるけどね」
とても不思議な話だった。こんな小さなネズミたちが、僕たちの生きているこの世界をずっと前から記録していて。伝承している。本の内容は彼らにしかわからないだろうけど、もしわかる人が見れば、きっと喉から手が出る程欲しくてたまらない内容に違いない。僕は今、そんな尊いものに、フルトンを通して触れているのだ。
「例えば、さっき教えた言葉も、ジェルボアの賢者が1人の画家から聞いた話を伝承していると言ったが、実際はわからない。どこか昔、私のようなネズミが、君のような画家に出会ってその言葉を聞き、記したのかもしれないんだ」
「そこはわからない……ううん、わからなくてもいいんだね。それがわからなくても、その話の内容がちゃんと伝わるなら、勤めを果たすことはできている」
「そういう事さ。当然、もう君の事だって記録したよ、ユジーン」
これにはさすがにぎょっとした。まさか、もう僕の名前が記されてしまったなんて。
どうやら僕はこれから先数千年にわたって、小さなネズミたちに名前を伝承されていくらしい。そう思うと、なんだかくすぐったいような、切ないような、不思議な気分になった。
「フルトン、もっと聞かせておくれよ。ジェルボアの賢者の伝承は、まだあるんだろう?」
「うん? そうだな、ではいくつか……」
フルトンが、屋根から箱書斎に滑り込む。僕はまたコーヒーを淹れるため、フィルターを水ですすいだ。
なんだか、不思議だ。今までずっと1人で旅をしてきて、さみしいって思う事はあったけど平気でいた。でもなんだろう、今はとても暖かくて、まぁ1人よりはずっと楽しいと、そう思える。
「……」
ふと、飛び出してきた故郷を思い出す。そういえば、こんな風に夜を過ごすのはとても久しぶりだ。
「ブナ……パトラ……」
今まで過ごしてきた夜が怖い。そんな風に感じたのは、初めてだったのだ。
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