第二章:絵描き
「いやぁすまないね。急に怒鳴り散らして驚かせてしまった挙句、街まで送ってもらってしまうなんて……」
「いえ、僕もあなたに迷惑をかけてしまいましたから。あのハチクマも、結局戻ってきませんでしたし」
「フルトンで構わないよ、ユジーン。しかし、確かに戻ってこなかったな。彼はペイミスと言ってね、少々気まぐれな性格なんだ。その日仕事をする気が起きなければ、すぐに帰ってしまうんだよ」
鞄にくくりつけた箱書斎の屋根の上に腰かけたフルトン。僕は彼と喋りながら、急な山道を歩いていた。
春先で、まだ雪が解けたばかりの山は、滑りやすく、道もぬかるんでいた。
しめっぽい土の臭いと、ところどころに見える生まれたばかりの緑が、なんだか大きな祭りの前触れのような、ざわざわした空気を醸し出していた。
「……もうすぐ、植物や生物が爆発するように騒ぎ出す。この辺の山は特に凄そうだ」
「ほう、確かに生き物が生まれる前触れが、いたるところで感じられるが……ユジーンはそれがわかるのかね?」
「え? あぁ、ずっと山で育って、山で暮らしてきた。山の事はなんとなくわかるんだ」
「ふむ……つかぬ事を聞くけれど、君は画家なのか?」
ギクリ、と音がしたような。一応、フルトンには僕自身の素性は話していなかった。ただ近くを通りかかって、噂のビーナスの伝説を試していただけとしか言っていなかったはずなのに。
「そうだけど、なんで?」
「これだよ」
フルトンが指した先にあるのは、鞄にぶら下げられたいくつもの木の皮。あぁ、と、僕は息をはいた。
「うん、一応これはキャンバス変わり。これに炭と、いくつかの絵具で描いてる」
「筆は?」
「だめだよ。高くてとても手が出ない。それに、そんな粗末な絵でも買う人は買ってくれるんだ。僕はここまで、ずっと旅をしてこれた」
ようやく、山を越えられるだけの高さに来た。もう日はそれなりに傾きはじめていて、下のほうに細い街道と、そのずっとさきに小さな街が見えた。
「……僕は、旅をする。これからもずっとだ。フルトンとはあの街でお別れになっちゃうけど、僕はずっと行かなくちゃいけないからさ」
「どうして、そんなに旅にこだわっているんだい?」
「フルトンこそ、どうして?」
聞き返すと、フルトンは突然黙り込み、何かを思い出したように箱書斎にもぐりこんだ。
そして一冊の、とても小さい、赤い本を持って、扉からひょこりと顔を出した。
「私たち小さなネズミの偉大なる祖であるジェルボアの賢者は、とある画家からこんな言葉を受け継いでいるそうだ」
「聞かせて」
「“旅の目的はやがてわかる。粗い写生が下絵になり、やがて完成した絵になるように”」
僕は、黙ってうつむいた。本当は、旅の目的ははっきりしてる。いや、はっきりしてるようではっきりしてないのかもしれない。でも、今それを、フルトンに話すことはできなかった。
何より僕が、その目的を見失ってしまいそうになっていたから。
「……素敵な言葉だね。僕の宝になりそうだ」
「もっとたくさん聞かせてやるさ。いずれね」
僕は山を下り始めた。あとは、僕もフルトンも、ほとんど言葉を発さなかった。
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