猫を償うに猫をもってせよ

2013-04-14 新刊です このエントリーを含むブックマーク

日本人のための世界史入門 (新潮新書)

日本人のための世界史入門 (新潮新書)

訂正

80p (カストラートは睾丸だけ切った)

102p 「ノルマンディー侯位」→「公位」

126p「医学や法学もリベラル・アーツ」→「数学や天文学」

178p「ヴァージニア植民地」→「東海岸

237p「清朝が倒れた、」→「倒れた。」

なお37p、「ディレンマ」と「ダイアローグ」について、「di」と「dia」は別物との指摘を受けてここに書いておいたが、OEDを見た友人から、関連性ありとの説もあると指摘されたので、一応そのままとしておく。 

2013-03-01 江分利満家の謎 このエントリーを含むブックマーク

 山口瞳の息子・正介の『江分利満家の崩壊』は、買ったのだがどうにも読み進められず難儀している。はなから、母、つまり瞳夫人ががんだと診断される話なのだが、この本の主題はそれではなく、その母親の不安神経症・パニック障害なのである。

 私はこの病気に罹ったことがあり、今も後遺症は残っているので、電車に乗れないとか、風呂が怖いとかいうのはよく分かるのだが、正介はその素質がないらしく(谷崎兄弟はともにこの病気で苦しんだ)、その辺がすさまじい違和感となって襲ってくるのである。

 それはいいのだが、いったい「母」なる人は、医者に掛からなかったのか、ということが、いくら読んでも分からないのである。がんと分かって以後の、抗不安剤処方は出てくるのだが、それまでどうしていたのかが、分からない。病気であれば医者に掛かるのが普通だが、それが分からないから、読んでいてただ苦しいのである。

 どうもこれは遺伝らしい。山口瞳もまた、私小説を書くと支離滅裂になる人だったからだ。『血族』は、私ははじめ、NHKでドラマになったのを観た。小林桂樹が主演だった。母の生家が神奈川の遊郭だったということを、瞳が母の死後知ってショックを受ける話で、ドラマだからきちんとまとめてあったが、後になって原作を読んで、あまりに支離滅裂な書き方に驚いた。「おじさん、ワギダって何です」とドラマでは、小林が、事情を知る叔父の戸浦六宏に迫る夢を見る。だが原作には「柏木田」とあって、ルビが振っていない。もしドラマを観ていなかったら、最後まで読み方が分からなかっただろう。編集者がなぜ放置したのかも謎である。

 『家族』は、父親が詐欺罪の前科をもつ、ということを知る話である。だが、この小説も、競馬場へ行く余計な場面が多く、うねうねくねくね、関係ないところを迂回して、読者はもうおおむね分かっていて、だからクライマックスがないも同然、しかも、こんな父親ならそりゃ詐欺罪の前科くらいあるだろうと思わせる。

 『人殺し』となるともっとひどい。これは瞳自身の不貞の話らしいのだが、これまたうねうねくねくねした変てこりんな小説で、もしこれが無名の作家が出したものなら、よほど頭の悪い人が書いたのだろうと思うに違いない。

 いったい、山口瞳という人は、生きている頃は、四月一日になると、新聞に下段ぶちぬき広告で、新入社員への心得を書いて「諸君! この人生、大変なんだ」と書く人として認識されていた。フィクションになると、割とまとまった書き方ができるのだが、私小説になると、完全に取り乱した書き方しかできないのだ。実は私は、そのデビューの経緯に、ある疑いを持っている。

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http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060225

もう七年も前のものだがこんな町山智浩のブログを見つけた。

 町山は「関東大震災の虐殺に関しては、それを否定する見解など存在しません。」と書いている。だがここで糾弾されている人は、人数がまちまちだと言っているだけである。で、それより以後、工藤美代子が『SAPIO』に連載した『

関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』産経新聞出版・日本工業新聞新社 (発売), 2009)が出ているのだが、町山はなぜこの書籍に突っ込まないのだろう。

2013-02-28 東アジアの留学生でもつ学会 このエントリーを含むブックマーク

 私が東大比較文学の大学院に入った時、韓国、中共、台湾など東アジアからの留学生が多いのに驚いた。たいていは、研究生をへて大学院に入り、博士号取得をめざす。だから、文学博士から学術博士に変わって最初の課程博士をとったのは劉岸偉さんだった。その後しばらく、芳賀先生の肝いりで、サントリー学芸賞は比較の東アジアからの人がとることが多かった。張競さん、劉さん、成恵卿さん、尹相仁さんらである。中共から来た人は、独裁国家へ帰らず日本にい続けるが、韓国から来た人はたいてい帰国した。

 だがその内、国文科でも東アジアからの留学生が増え、私大でもあちこちでどんどん増えていって、経営の苦しい私大などは、留学生でもっているという状態になった。留学生を受け入れると文科省からカネが出るからである。だから概して、留学生への基準は日本人より甘くなった。つまり、日本人が西洋諸国へ留学するように、「先進国」である日本へ来るのである。

 劉さんは周作人一筋だが、ほかは、日本文学をやったり自国の文学をやったりである。ところが比較文学会では、大会でも支部大会でも、やたらと東アジアからの留学生によるものが多くなってきた。あたかも大相撲におけるモンゴル力士のようである。なんでかというと、日本人院生が発表しなくなったからで、それはつまり、比較文学会で発表しても就職につながらないからであろう。

 では留学生の発表内容のレベルが高いかというと、そうも言えない。今なお、関係ないもの同士の比較などというのをやっている人もいる(これは学問ではない)。さらに、東アジアについて研究しようという日本人も、何人かいて、特に四方田犬彦がそうだった。映画とドラマは、確かにそれ以後、日本でも知られるようになったものが多いのだが、小説となると、莫言がノーベル賞をとったが、これとて、「紅いコーリャン」が映画化されて知られるようになったのだ。韓国となると、日本である程度読まれている純文学作家がいるのかどうかも怪しい。もちろん現代でなくて過去でもいいのだが、それも怪しい。古典漢文となると、それ相応に専門家がいるし、和漢比較文学会というのがあるので、あまりない。どうするどうなる比較文学会、である。 

2013-02-27 サザエさん症候群 このエントリーを含むブックマーク

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%82%A8%E3%81%95%E3%82%93%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4

 確かに、日曜の夜だから、「あー明日も学校だー」という気持ちになるという説明は分かるのだが、私の世代なら「八時だヨ!全員集合」のエンディングの「いい湯だな」でカトちゃんが「宿題やったか」などと呼びかけるのもそれに当たるのだろう。「日立の樹」はここであげられている中では、ひときわ寂しい。

 だが、その中で、七時に終わる「サザエさん」のエンディングが特に寂しいというのは、やはりこの歌自体に理由があるのではないか。メロディーのほうは分析しかねるので、歌詞だけすると、

 大きな空を眺めたら 白い雲が飛んでいた

 今日は楽しい〜〜ハイキング

 ここまで、サザエさんは出てこないで、このあと妙に長い間奏が入る。「楽しいハイキング」と言われて、学童は、必ずしも楽しいことばかりではない学校の遠足などを思い出して、違和感を感じる。そして、

 ホラホラみんなの声がする

 まだ「サザエさん」は出てこない。ここで学童は、「みんな」というあいまいな表現で、いじめっ子とかを含めた同級生を思い出す。そして前の節とあいまって、別にみなが仲がいいわけではないのに、級友だから仲がいいはずだという価値観を押し付けようとする担任の意識を思い出す。

 サザエさん、サザエさん、サザエさんは、愉快だな。

 バックのアニメからすれば、ハイキングに行っているのはサザエさん一家である。だがこの一節は、ハイキングを楽しんでいるサザエさん一家に焦点を当てるのではなく、いきなり無人称的に、サザエさんは愉快だという。これはオープニングの「愉快なサザエさん」に対応しているようで、『サザエさん』という番組を指しているようでもある。ここに、「自画自賛」が感じられたら、学童は、校長先生や担任が、わが校を礼賛したり、クラスを礼賛したりする欺瞞的な口調を思い出す。あるいは、「愉快だな」の一言で、実はいろいろあるごたごたをごまかしてしまおうという大人的意図を察知するのである。

 

2013-02-25 私のデビュー作(?) このエントリーを含むブックマーク

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 1974年5月31日、小学六年生の時、朝日「小学生新聞」に載ったもの。