【プレイバック芸能スキャンダル史】
クリスタルキング メンバー脱退騒動と商標権訴訟
【芸能】
高音の田中雅之(当時・昌之)、低音のムッシュ吉崎のツインボーカルを擁し、「大都会」を筆頭にヒット曲を連発したクリスタルキング。86年3月、田中(当時34)が半ばケンカ別れするような形で独立してしまう。この独立騒ぎはその後、紆余(うよ)曲折を経て最終的には「クリスタルキング」の商標権を争う訴訟にまで発展した。
脱退の理由はよくあるメンバー間の方向性の違いだった。田中は「クリスタルキングはあくまでも自作自演が大前提。でも、僕はグループ以外の人が作った曲でもいいんじゃないかと思ってね」と語った。「クリスタルキング」の方向性やハイトーンのボーカルというバンド内での役割のために自身が歌いたいロックが歌えなかったという。
ソロ転向後の87年3月にリリースしたアルバム「クロスロード」では高音のシャウトはほとんど聞かれなかった。田中は「意識的にシャウトしないようにしたんです。いつまでもクリキンのボーカルだと見られるのはイヤですからね」と心境を語った。
だが、アルバムのセールスは思ったほど伸びず翌年、地元の博多に戻って、ホストクラブで歌うようになる。まともに歌を聴いてもらえず、「落ちぶれた歌手」と呼ばれることもあったという。
そして、89年にさらなる悲劇が襲う。趣味の草野球でサードの守備中、イレギュラーした打球が喉を直撃、自慢のハイトーンが出なくなってしまったのだ。医者に見せても異常は見られず、原因は不明。一時は自殺まで考えるほどだった。
ハイトーンからハスキーボイスシンガーへと変身した田中は95年にクリスタルキングに再加入する。しかし、97年末に3人のメンバーとともに再び脱退。一時、和解していた吉崎との関係も徐々に悪化していった。
98年、田中はポッカコーヒー「クリスタルブラック」のCMでずっこけながら「大都会」の冒頭部分を歌い、再び注目を集める。そんな“クリスタル”をネタにした再ブレークがグループを再脱退した後という皮肉な状況下だった。
一方、グループに残った吉崎は「40歳を越えてから声域が広がって高い声が出せるようになった」と、「愛をとりもどせ!!」など過去のヒット曲を単独でセルフカバーする活動を行った。
そんな中、田中がテレビで「クリスタルキングはもう残念ながら解散したんですが」と発言したり、新聞広告などで「大都会 田中雅之(クリスタルキング)」と表記したことに対し、吉崎は09年3月、商標権侵害の訴訟を起こす。10年3月26日に下された判決では
「解散発言」については時効が成立しており、さらに田中が経歴を説明する際に「クリスタルキング」と表示することに問題はないと、吉崎の訴えを棄却した。
現在は田中、吉崎ともにライブを中心に活動を続けているが、両者のミゾはもはや修復不可能なほど広がっているといわれている。
◇1986年3月1日、渡辺美智雄通産大臣が「毛ばり」発言。4日、サントリーが「モルツ」発売。6日、G5が初の協調利下げ合意。16日、スイスが国民投票で国連加盟を否決。25日、皇居と米大使館に過激派が火炎弾を発射。