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韓国憲法前文、三・一独立宣言書、1995年の村山談話
大統領就任式があった2/25、朴槿惠と麻生太郞の会談が持たれたが、そのときの内容について、朴槿惠から「歴史を直視し、過去の傷が癒やされるよう努力し、被害者の苦痛に対する心からの理解が必要だ」との発言があったと韓国大統領府が説明している。日本のマスコミは、麻生太郞の会見にフォーカスし、「竹島問題や従軍慰安婦問題には直接言及しなかった」と報じ、「未来志向での協力関係」を朴槿惠が強調したという説明に終始した。かなり都合よく解釈していて、すなわち歪曲と逸脱があり、事実が正しく伝えられていない。あとで気づいたが、この「歴史を直視し、過去の傷が癒やされるよう努力し、被害者の苦痛に対する心からの理解が必要だ」の文言は、どうやら意味が深くて、単に従軍慰安婦の問題を示唆しているだけでなく、村山談話の誓言をトレースした含意があることが分かる。村山談話には、「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします」と書いている。つまり、韓国政府は、1995年の村山談話が日韓関係の基本なのだと言い、この認識を忘れないようにと日本に要求を発したのだ。
 

本来、NHKを始めとする日本のマスコミは、韓国大統領府の発表について、意味を察して、このように解説しなくてはいけなかったのに違いない。実はこの韓国大統領府の説明は、夜の8時頃に出されたもので、公式発表として記録に残したものではない。麻生太郞の会見と日本のマスコミ報道が、あまりに中身と違って誤解を招く解釈なので、大統領府関係者が情報を修正する意図で非公式に伝えたものだ。昨年末、村山談話と河野談話の破棄を公約した安倍晋三が選挙に勝利したとき、極右政権の誕生にどの国よりも衝撃を受け、警戒と拒絶を露わにした報道記事で埋まったのは韓国だった。その感覚と反応を韓国政府当局も共有している。李明博から朴槿惠に交代したから、李明博の時代の悪化した関係が改善されると期待するのは、自己欺瞞を含む日本側の一方的な思い込みであり、民主党政権よりも反韓姿勢が強烈な右翼政権が出現したことを韓国側がどう受け止めているかの認識が欠落している。今週末、三一節がある。韓国の憲法の前文には、「我が大韓国民は、三・一運動により建立された大韓民国臨時政府の法統及び、不義に抗拒した四・一九民主理念を継承し」と書かれている。三・一運動とは日本の植民地支配に抵抗して蜂起した1919年の民族独立運動だ。韓国は、このときに代表33人が宣布した独立宣言と上海で樹立した臨時政府に建国の正統性根拠を置いている。

1948年に独立した韓国は、日本の植民地支配から脱け出して建国した国家だ。麻生太郞や安倍晋三が大好きな「価値観」という言葉を使えば、大韓民国の「価値観」は、まさに韓国の憲法前文に記されていて、韓国国民が自己をアイデンティファイし、社会をアソシエイトする上での原理的前提が、三・一運動の歴史と独立宣言書に示されていると言えるだろう。右翼化したマスコミは、二言目には「韓国は日本と同じ価値観を共有する国」だと繰り返し、そのフレーズを強調し、韓国を政治的に説明する枕詞の表現にしているが、果たして、従軍慰安婦は強制ではないとか、韓国併合は同意の上だとか、村山談話は売国左翼の妄言だとか、そうした歪んだ歴史観(=価値観)を持ち、臆面もなく自己正当化して憚らない者たちが、果たして三・一運動を国家の神聖な原点に据える韓国の政府や市民と、「価値観を共有している」と言えるのだろうか。「価値観を共有している」という言説は、どう考えても正しくないし、価値観という単語の語法を間違っているか、あるいは意図的に佞悪なイデオロギー的意味を込めて作為的に語を用いている。ここで安倍晋三やマスコミが言う「価値観が同じ」の意味は、中国や北朝鮮のような共産党政権の社会主義国家ではないという意味だろう。自由主義圏の国家で、米国と同盟関係にあり、自由と民主主義の体制の国という意味だ。この一面を強調することで、右翼日本は、韓国と国内を説得し、韓国と日本には「価値観」の対立や齟齬はないという表象へ誘導する。

朴槿惠の就任式演説で、韓国が外交で重視する国のプライオリティが、5年前の李明博のときは「米国、日本、中国、ロシア」だったのが、今回は「米国、中国、日本、ロシア」と順番が入れ替わり、中国が2位に上がって日本が3位に落ちた。この事実は、単に中国が経済規模で日本を追い越し、経済的に韓国にとって重要な国になったからという理由づけだけで説明できる問題ではないと思われる。まさに「価値観」の点で日本は韓国から乖離しつつあり、「価値観を共通にする国」ではない異形な右翼国家になり果てたから、韓国にとって重要な国のランキングで落後する結果になったのだろう。韓国憲法の前文と響き合うのが、1995年の村山談話である。三・一運動の独立宣言書には次のように記されている。「民族的要求にもとづいて出発していない両国併合の結果が、結局、姑息な威圧と差別的不平等と統計数字上の虚飾によって、利害相反する両民族間に永遠に友好協力できない憎しみの溝を深めているこれまでの事実からみて、勇猛果敢に過去の誤ちを正し、真の理解と同情にもとづく友好的な新局面を切り開くことが、おたがいに禍いを遠ざけ福を招く近道であることを知るべきではないか」。何度も書いてきたことだが、村山談話は一国を指定して発した文書ではなく、一般的な外交方針がテーゼされたものだが、やはり、特に韓国が意識されている。1965年の日韓基本条約には、過去の植民地支配の謝罪や反省の言葉がなく、歴史認識についての条項がないのだ。不完全なのである。

今、18年前の1995年8月に出た「世界」臨時増刊の『敗戦50年と解放50年』を読み返している。そこで、李庭植がこう言っている。「1965年の国交正常化以後、韓日関係において一番基本的な問題は、韓日条約自体が韓国や日本で国民の全幅敵な支持を受けていない条約であったということである。特に韓国においてそうであった。条約締結のための交渉が進められていた期間中に、朴正熙政権は戒厳令を布き、四個師団の陸軍兵力をソウルに出動させなければならなかった事実を思い起こせば、韓国内の反対がどんなに熾烈であったかがわかるであろう。韓国側の反対派は、韓日条約を屈辱的な条約であると非難し(略)た。しかし為政者たちは彼らが当面していた問題を妥結するために反対派を制圧し、条約を施行するようにした。特に朴正熙政権は日本の資金を必要とした。彼はそのために様々の屈辱的な譲歩をした(略)。李承晩大統領があれほど重視した過去に関する問題でもそうであったし、いわゆる賠償金問題でもそうであったし、漁業問題でもそうであった。(略)過去に対する問題は謝罪でのみ解決されるものではない。(略)形式的な謝罪よりも相手の感情を理解しようとする心を持つことが重要であると思う。何よりも過去に対する客観的な知識を獲得し省察する機会を持たねばならない。(略)日本の言論界は、立て続けに報道される”失言”を契機に、歴史認識の樹立と歴史教育の必要性を強調しているが、正しい歴史の認識を樹立せしめるような研究が蓄積されていない状態では、正しい歴史意識を持つことはできない」(P.16-20)。

李庭植(イ・チョンシク)は、1931年生まれで当時ペンシルバニア大教授。韓国現代史と戦後の日韓関係史の研究者。戦後50年の節目に、言わば村山談話の発表とパラレルな動きで、岩波と韓国クリスチャン・アカデミーがシンポジウムを共催、「敗戦50年と解放50年-和解と未来のために」と題して大型の討論会を企画、日韓の知識人が多数集まって議論した。その記録を一冊の本に編んで残している。2月にソウル、4月に東京、2か所でセッションが組まれ、8月1日に本が出版された。それから2週間後の8月15日に村山談話が発表されている。戦後50年、東西冷戦の終焉から6年、当時は、まさに日韓問題が論壇に浮上し、熱く議論されていた時期だった。この岩波のシンポジウムに日本側代表として顔を出しているのは、坂本義和、大江健三郎、安江良介、井手孫六、和田春樹の面々である。韓国側代表は、李庭植、池明観、金芝河、金容徳、金泳鎬など。18年前のことである。私は今、1990年代の日本の思想状況を思い返している。1995年、この年の夏は「異常気象」でとても暑かった。それから、4月には為替レートが1ドル80円を突破した。そして、個人的なことを言うと、若かった私は仕事でとても忙しかった。多忙とストレスで体を壊しかけた。と同時に、私にとって重要だったのは、この年の9月から丸山真男集(岩波)の刊行が始まったことである。そのことを岩波のパンフレットか何かで知ったのだが、そこには衝撃的な情報があり、丸山真男が肝臓癌を患っていることが告げられていた。もう長くないのだ、だから全集刊行を急いでいるのだと、すぐに分かった。上京して仕事しながら、本屋を覗き込むときは、常に丸山真男とその周辺の消息を追っていた。

1995年9月から刊行が始まった丸山真男集を、1か月に1巻ずつ購読しながら、もうこうしてはいられないという切迫した気分に私はなった。それから1年後の1996年8月15日、丸山真男は息を引き取った。その半年前の1996年2月、司馬遼太郎が突然に死んだ。


 
by thessalonike5 | 2013-02-28 23:30 | Trackback | Comments(0)
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