2012年07月21日 17時00分40秒 posted by uruseiblog

普遍的真理 VOL19

テーマ:ブログ

今日二つ目の記事です。



八咫鳥・メーソンに煽られているのか、
ユダヤ教徒と化しているのか、


今も暴れ続けている人間たちが居ます。


私が想像するに、

日本社会の裏社会の人間達を丸め込み
彼らの既得利権や権限を奪いながら


それをそっくり飲み込もうとしているのが
フリーメーソン組織ではないでしょうか。


洗脳や圧力、買収でその勢力は拡大されて
いくのだと思います。


電磁波被害でいえば、同和・部落を中心に
創価学会という名目で暴れていた広宣部が
そのままそっくり彼らに飲み込まれていく。


そんな実態があるような気がします。


私は生きていると言えないような奇妙な状態にあります。


意識が半ば朦朧とさせられるからです。


胃腸の方はいつでも呼吸器に関与されかねない状態で、
先日母との電話での会話のときにやられてしまったらしい脳は
運動機能や思考能力も激しく低下しています。


この10ヶ月は延髄から頭頂部へと抜ける場所を
電磁波で延々と封じられていましたし
(いわゆるチャクラの一つがここにあり
そこが魂の経路となっています)


精神的機能も、脳の物理的機能も
半ば封じられたり壊されているように感じています。


新規の記事でなくて下書きしてあった記事を更新します。



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同じキリスト教徒でありながらその解釈で頻繁に揉めているのは
イエスの神聖についてであったり、三位一体に関してであったりします。


永遠の命に関しても議論は多いようです。


そんな枝葉のことに関して言えば
理解が間違っていたとしても
創造主への信仰には何の問題もないはずなのですが


信仰の対象を求めたときに
創造主をイエスと同一視するのかどうかと言う
新たな問題に囚われる事になりますし、


自分達が今まで時間をかけて信じてきたこと
学んで着たことこそが正しいと信じて疑わない人間は
クリスチャン同士であっても言い争いをする事になりがちのようです。


覚醒者と生命の科学の理解者にとっては
このような額面通りの聖書解釈をしている人たちには
突っ込みどころ満載かと思いますが、


理屈で争ってみたところで彼らは自らが体験できないわけですし
自らが感じれなければ信じることができないと言うのは
ある意味仕方ないことだと思います。


論争は新たな分裂を呼び起こすだけですし、

説明しても理解して貰えなければそのまま引いて
その人間が自らその間違いに気がつくのを待つしかないと思います。
(資質があれば絶対にいつか気がついてくれると思います)


イエスに”躓く”と言う言い方をすれば、
その人間達は”人的な価値観による先入観”を持たされてしまったがために
”真のイエスの教えに躓いている”のです。


私達は理解を促すことは大切でも
それを主張することで新たな争いを生むようなことは
避けねばなりません。


理解不能の人間に理解を求めなくても
資質のある人間は他にもいるのです。


そしてイエスキリストが人を選んで教えを与え
特定の人間にだけイエスの神の国の奥義を与えたように


私達も相手の資質を見て広報しなければ
時には私の様に、クリスチャンにまで憎まれる立場に
置かれるかもしれません。


イエスの不思議な教えの中にあった
”犬に聖なるものを与えるな
豚に真珠を与えるな”と言う話は


「教えるにしても相手を選ばないと逆恨みされる」
ということの例えだと思います。


熱心な人間ほど、自分の信仰が強いと思っている人間ほど
自分のもっている価値観こそが正しいと信じて
疑わないわけですし、議論しても平行線になると思います。


イエスキリストの教えは、現に当時の群集や
パリサイ派の人間に”神の冒涜者”扱いされたわけですし


私達も理解者を募るときは
相手を選ぶことも大切なのだと思います。


大切なのはイエスキリストが神であると信じることではなくて
”イエスの教えを実践する努力をし続けること”。


形式ばかりに拘り実質の伴っていない人間、

愛と語っては戦争や戦いに参加しているような人間は
イエスの言っていた偽善者に他ならないのですから。


その事に気がついていない人間が相手であれば
まして議論は避けるべきだと思います。


今日はイエスを信じることの意味、
永遠の命の意味、持つべき戒律について触れていきます。


スエデンボルグの信者や既存のクリスチャンの思想を
否定することになってしまいますが


批判と言うよりも深い理解を求めたいと願って
記事にしてみます。


覚醒者と理解者に対しての記事です。

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256 :リンゴクリスチャン ◆oPXbhrKCUQ :
2012/07/06(金) 04:55:54.21 ID:sM1Ymk8u


主イエスキリストのみことば

「信じる者は永遠のいのちを持ちます」


257 :神も仏も名無しさん:2012/07/06(金) 12:37:48.37 ID:0qhy6E44


って言ってるイエスが死んでるけどね


258 :神も仏も名無しさん:2012/07/06(金) 12:50:07.94 ID:05G5eTGi


キリストは霊的肉体の面で永遠の命なのです。


肉は何の役に立たない。
人間も死ねば霊的肉体のうちに復活します。

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「信じるものは永遠の命を持つ。」


これがキリスト教の大きな誤りの一つになっていて
一方ではキリスト教の布教にも役立っている意識だと思います。


ところで詳細にもっと突っ込みを入れれば
イエスを神だと信じるのか
イエスの言っていることを信じるのかと言う
そんな分かれ道にもなっているようです。


いずれにしても信じれば救われるのですから、
文字通り解釈すれば、それまでどんな行為をしていようが
その行為は懺悔で容易に許されて


イエスを信じることで天国にいけると言うことになります。


それを踏襲しているのか
死刑囚の死の間際にも神父がやってきては
キリスト教への信仰を求めていますが


死刑になるような大罪を犯した人間が
死の間際にいきなり覚醒に進むわけもなく


それまで犯した罪は心からの反省により
すべてが浄化されるわけもなく、
魂に刻まれた状態によって転生の法則を受ける事になるはずです。


そうでなければこの世は真の意味での悪人天国となります。


死ぬ間際まで好き勝手に犯罪を犯し続け
最後の最後にイエスを信じればよいからです。


イエスが救おうとした”悪人”とは
自分が心無い人間で、罪ばかりを犯しているということを
認めることができる人間であり、


私達はどんな人間でも常に創造主の意識とかけ離れ
心の暴走に従っているということを理解できる人間の事だと思います。


この社会の善人というのは、
自分が山ほどの罪を日々犯していることに気がつかず


自らが人間の作り上げた戒律に従ってそれを守って生きている事で
自分を罪のない人間であると勘違いしている人達を言います。


真の意味で言えば”義人は一人もいない”というのが実態なのです。
(聖人イエスでさえ、罪を犯しています)


ブラザーズが触れていたように
創造主の意志にそぐわない行為全般が
生命の科学を学んでいる私達にとっての本当の罪です。


しかしそれではろくに魂の囁きを感じることのできない私達は
罪ばかり犯していることになってしまいますから、


別の言い方をすれば


道徳を除いて、自分の感じている魂の価値観に従わない行為をすることが
私達の罪だということになると思います。
(道徳を破ることは言うまでもなく罪ですから)


少し前に食事に関して触れたことがあります。


【あなたの持っている信仰は、神の御前でそれを自分の信仰として保ちなさい。
自分が、良いと認めていることによって、さばかれない人は幸福です。】


【しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。
なぜなら、それが信仰から出ていないからです。
信仰から出ていないことは、みな罪です。】


私達は何が自分にとって正しくて、何が誤っているかを
社会の中での成長に伴い親族からも学びますし


道徳や良心という形で
生まれ持っていて備えていると思いますが


それが時には魂のひらめきとして与えられることになります。


そして自分がそのことこそが正しいと認識しながら
それと反する行為をする時にはそれは罪とされるわけです。


【自分が良いと認めていること】と言う内容ですが、


ローマ人への手紙は、
パウロがイエスの奥義を知っている自分の弟子達に対しての
アドバイスですから


ここでは”自分が正しい、もしくは悪くはないと認識していること”
と言う意味で


その印象は勿論魂から与えられるものの事だと思います。


ここでの例えは”肉食”に関してでしたが
自分で肉食が精神の進化のために悪いと感じていながら、


もしくはそんな印象を受けていながら、
それを実行すると言う事になれば、


その行為が”自らの信仰”に伴っていないから罪であると
パウロが触れているのです。


パウロ自体は精神を感じる資質を保つにも
肉食が妨害になるとは感じていなかったようですが


弟子達に躓きを与えないために
自らも肉食をしないと宣言していました。


私達が心で持つべき神の戒律を、
イエスの奥義、魂からの閃き、精霊のささやきとして例えると
理解が難しいのであれば


”自分の良心に照らしてそれが誤っていると判断されることを
実行することが罪だ”と理解していただければ良いと思います。


つまりはその行動が心の良心にとって
後ろめたさを感じることになるような行為は
全てが罪だと言うことです。


最近は誰もが良心や道徳を持っているわけではないので
この例えも有効ではありませんが


生命の科学やイエスの奥義を実践している人間は
聖書の戒律、そして道徳とも別に
更なる戒律を自らに課し続けることになります。


「当初は何も戒律はない」とアダムスキーは語っていましたし
「それをリラックスしてすればよい」とも言っていました。


しかし生命の科学を理解できるような人間は元々が
道徳なるものを備えた人間だと思いますし、


細かく言えば戒律はすでに持っているのです。


聖書の記述などなくしてです。


それが前提で、更に私達は個々に自らの精神の進化のための戒律を
自らの魂の印象から一つずつ増やしていくことになります。


これは勿論、人それぞれによって
重視される順番が違ってくると思います。


精神の進化の妨げになっているものが
個人によって区々だからです。


ただ、一旦それを戒律であると認識した人間が
それと異なる行為をした時には


私達はそれを自らの魂に反する行為、
つまりは創造主の意志に反する行為として罪とされるわけです。


パウロが「信仰から出ていないことは皆罪です。」
と言っているのは


その行動が自分が正しいと感じている事と
異なる事を実践する事は皆罪ですと言う意味だと思います。


つまり自分にとってこれは良くない事であるという印象を持ちながら、
その行為を行うことが罪であり


一方では自分が良いと認めている事によって
裁かれない事を幸いであるとパウロは触れています。


本当は人それぞれその資質や環境や
魂の状態で受け止めることになる戒律は異なるから
それで他人を計ってはいけないと
パウロは言いたかったのではないでしょうか。

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この社会の大きな間違いは
イエスや創造主の意志が他人を裁くことを認めていないのに
それを平然とやっていて罰まで与えるような人間達が
野放しにされていることだと思います。


彼らにとっての正義や善の基準は一体何なのか?


おそらくはそれは彼らが自らの生活環境の中で
作り上げてきた人的戒律や慣習であり
それらは絶対的な真理ではないのです。


真理ではないものを尺度にして、
更には他人を裁くと言うことになれば
そんな人間達は二重の誤りを犯している事にもなります。


しかしパリサイ派の人間達がそうであったように、


聖書であっても刑法であってもそれを限定列挙的に解釈し
それ以外は何をしても罪にならないと考えている人間達は


自らは良心や道徳を破りながらも法規に触れていないと開き直り
自らの行動を正当化させることができるのです。


そしてそんな意識がますます創造主から
私達を引き離すことになっている。


だからこそイエスは旧約聖書の契約に換えて
新しい契約を主張したのだと思います。


そこで与えられる戒律は聖書でも出てくる
創造主の戒律であり、私達が魂から受け止めるもの。


イエスキリストや12使徒は
それを感じるだけではなくてそれを口に語って
延べ伝えました。

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話は飛びますが、
イエスを信じるものが”永遠の命を持つ”と言う意味も
私達には容易に理解できても、


今の肉体を持ったままで永遠を生きると信じている人間や、
霊界があり、そこで永遠を生きると信じている人間には
理解しがたい内容です。


私達にとっての永遠の命とは
魂の覚醒まで進んだ人間が人としての行き方に目覚めることで
記憶を持った転生へと進むことでした。


彼らが理解すべきは一つ目には
全ての人間が肉体を持って蘇り


その中で救われる人間は審判の後に永遠を生きるとすれば
一体彼らは人生の中のどの時点の姿で
永遠を生きることになるのかと言うこと。


死亡した時の姿で生きるのだとすれば
若々しくて亡くなった方のほうが
生き返ってからも人生を楽しめる事になりますし


大体がこの物質社会の中で
一切の老化や磨耗を避けて永遠を生きることができると
考えることが間違いなのです。


それを主張するからオカルト扱いされることにもなります。


私達は個々の死とともに
転生の法則と言う個別の審判を受けているのです。
(地球規模の大破局でも来れば
大勢の人間が一度に審判を受けることになりますが、、)


一方では霊界に行って霊的な存在となって永遠を生きるというのであれば、


私達は脳みそ含めてこの三次元社会でこそ
肉体的な進化を精神進化と並行して実践していると言う事実を
理解できていない事になります。


最近は宇宙空間に行きさえすれば、
今まで使用してなかった脳の領域含めて
100%の脳を使用できる様になると主張する人間がいますが


それ自体がそもそもの誤りです。


一朝一夕で全ての脳機能を使用できる状態まで進化できるほど
私達の肉体と脳は単純ではありません。


今現在未覚醒の人間が宇宙空間に出ることで覚醒が進み、
テレパシーを感じることで一気に覚醒を迎える事になる可能性は否定しませんが


それでも使用している脳の領域は
今までとさほど変化はないはずです。


全使用領域が50%を超えて、
同時使用領域が7%にでもなればすごい事だと思います。


天才と言われる人間がその程度の脳の状態だからです。


一方金星の兄弟は同時に25%の領域を使用可能だといいます。


それが彼らの多くの未知能力や
精神性の高さへと繋がっているのだといえます。


彼らは長い精神の進化の過程と、
その間繰り返された多くの転生によって
その脳を手に入れたのです。


霊界に行ってそこで修行すれば進化が進むという
誤った価値観に囚われている人間は


実はこの肉体こそが精神を鍛えるための
”大きな負荷”になっている事に気がつくべきなのです。


すべての脳の進化は、肉体を持った状態での
私達の経験に関わっていると言うこと。


魂だけの存在になれば創造主の意志を感じるのは当たり前でしょうし
その状態では進化などできるわけがないのです。


私達の肉体は、想念としての私達の魂の具現化したものです。


そしてその魂を進化させるのは
私達の肉体を持った状態での私達の経験こそが全てだと思います。


その状態で魂の覚醒を果たし、地道な精神の進化を遂げることで
今度はそれが私達の肉体としての脳への進化へと
つながる事になりますし


今まで使用していなかった脳の領域が徐々に目覚め
活性化し、更には細胞の数も増えるという話でした。


脳が進化することで、今度はテレパシーの発達などによって
ますます魂を意識することがで出来るようになりますし


そこで感じた意識により更なる生活向上が
更なる精神の進化を果たし、
それが更に脳の進化へと繋がっていく。


そして肉体が朽ち果てた時には、
その時の魂の資質にふさわしい肉体をもつ事のできる場所へと
魂が転生していくことになるのです。


アダムスキーやマスターが言っていた
太陽系の惑星は小学校、中学校という
地球の教育の過程に似ていると言う話は
そこでもそのまま理解できると思います。


私達は自分の人間としての実態をまずは正しく理解しなければ
正しい進化、しいては正しい聖書の解釈すらままならない
そんな小さな存在なのです。


【地球人の苦悩を光の前の暗黒のように消すために
宇宙の創造主を地球の道しるべにしよう】


正しい知識の蓄積による地道な理解が私たちを真理へと誘導し
そのことが私たちの魂の進化を進める事につながっていく。


私たちは半ば永遠の、地道な作業の入り口に
足を踏み出したばかりであることを忘れないで下さい
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

P.S.


宇宙に出れば、そして緊急時になれば
私たちの未使用の脳は100%活性化するという
誤った情報も流れているようですが


私たちの脳はそんな単純なものではないはずです。


そして私たちの肉体は魂と言う四次元的想念が
三次元で具現化されたものであることを考えれば


三次元社会で脳を無理やり活性化したとしても
それが長続きしないことも
明らかだと思います。

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