気を許したわけでも、信頼したわけでもなかった。敵意を感じないその態度と雰囲気にただただ戸惑ってしまった。家から出てきたのはエルフではなく、どうやら人間のようだった。遠目から見かけたことはあるが、こんなに近くで、しかも喋りかけられたことなど当然初めてのことだった。そして目の前の男はいきなり自分に「友達になりたい」などと言い始めた。この“悪魔の使い”である自分に対してだ。
――人間は無知なのか?
黒い毛並の意味を知っていれば、そのようなふざけたことなど言わないであろう。ただひたすら嫌悪し、攻撃を加えてくるに違いないのだ。生まれたころからそうやって生きてきたケンタウロスにとってそれは、全ての種族に共通の定理だったのである。
男が自分に手を伸ばしてきた。もはや彼に逃げるだけの脚は残っていない。何の治療もしなければ、血が流れ過ぎてそのうち死ぬだろう。もはや彼には、この男を受け入れるか戦って死ぬかの選択肢しか残されていなかった。そして彼は、前者を選んだのであった。
………………
…………
……
ジャン一人で住むには広すぎるといっても良いほど立派なアトリエも、2m半はあろうかというケンタウロスが入ればいささか手狭に感じてしまった。そうは言っても、普段の作業スペースを片づけてやればかなりのスペースは確保できる。玄関の扉という難関さえクリア出来れば、ケンタウロスを招くことはどうやら可能であった。
「とりやえずこいつを抜いてやる。痛いだろうけど……我慢しろよ?」
――仕方のないことだ。よろしく頼む。
ジャンの言葉はケンタウロスに伝わるが、ケンタウロスの“言葉”はジャンに伝わることはない。内心では矢を抜くときの痛みでケンタウロスが怒るのではないかという不安を抱えるジャンであったが、ケンタウロスの静かな黒い瞳をみて彼を信頼することを決めた。
「いくぞ?……ふんっ!」
「グッ……!」
矢を抜く痛みにわずかに声が漏れるものの、ケンタウロスは暴れることなくそれに耐えた。深く刺さった矢は周囲の肉を抉り、大きな傷跡を残していた。清潔な布で血を拭ってやり、ジャンはその傷口に手をかざす。
「『回復』……」
傷口を淡い光が包む。弱弱しいその光は、傷口をわずかに癒したものの、それを完全に塞ぐまでには至らなかった。
「悪いな……『回復』はそんなに得意じゃないんだ」
そう言いながらジャンは洗ってあった自らの赤い服を切って、それを包帯替わりに巻いてやった。そんな作業などほとんどやったことが無かったため、かなり不格好になってしまったがこれはこれで仕方ないだろう。
「とりあえずはこれで様子を見よう。ゆっくり休めばすぐに傷も塞がるだろうよ」
「ブルルッ……」
「はは、どういたしまして」
なんとなく礼を言われたように感じたジャンは、ケンタウロスの胸を軽く叩きながら答えた。
「だけど……お前さんいい加減に横になったらどうだ?別にずっと立ってなきゃいけないってこともないんだろう?」
ケンタウロスは家に入ってからもずっと立ったままだった。矢を抜き血が噴き出しても、彼が膝を折ることは無かったのだった。
「全く……誇りたけぇこった。……よし!お前さんの名前は“❘Stolze(誇り高き) ❘Night(闇夜)”に決まりだ。お前さんのキレイな黒い毛並の色もばっちり入ってて完璧じゃねえか。これからは“ナイト”って呼ぶからな?」
彼を立たせていたのは、誇りなどという格好のよいものではなかった。彼はただ怖かったのである。目の前にいる人間が自分の矢を抜き治療をしてくれた人であっても、いつ攻撃されるかと不安だったのである。どのみち攻撃されれば逃げることなど出来ないことは彼にも分かっていた。それでも彼は、心を許しこの男の前で膝を折ることが出来なかっただけなのである。
――名前……か。
彼にも母がつけてくれた名前があった。生まれてから一度も名乗ることのなかった名前ではあるが、それでも彼にとっては大事な形見のようなものであった。しかし今、この目の前の男に自らの本当の名前を伝えることは出来ない。人間にケンタウロスの“言葉”は通じない。
「俺の名前はジャンパオロ・カペッロだ。ジャンでいいぜ?」
初めて「友達になりたい」と言ってくれた男。自分の命を救い治療をしてくれた男。言葉の通じないケンタウロスに馬鹿丁寧に自己紹介までしてくる男。そして、自分の黒い毛並を見ても襲ってこず、それをキレイだと言った男。
――それも悪くない。
ナイトは傷口に負担がかからないよう脚を器用に折りたたみ、傷口が上になるようにしてゆっくりと横になった。疲れていたのだろう。なぜだか急に眠たくなった。
「改めてよろしくな……ナイト!」
頭上から声が降ってくる。生まれて初めてナイトはなんの緊張もない眠りに包まれたのだった。
※
ナイトの怪我は予想していたよりも早く治った。つたないながらも毎日ジャンが回復の魔法をかけたことと、まともな食事を毎日食べることが出来たのがその要因であろう。パン、米、肉、魚、その全てが初めて食べる味であった。野菜すらも普段食べていた野草と比べて味が濃厚であり、ナイトは初めて食事の喜びを知ったのだった。
歩けるようになってからは、ジャンが絵を描きに行くのに着いていくことが増えた。草原をのんびりと散歩し、ジャンが絵を描いている間はその横でのんびりと寝そべって過ごす。川に入って魚を獲ったり、弓の練習をして狩りにも挑戦してみた。ただゆっくりと時間が過ぎていく、だけど必ず新しい発見がある。そんな毎日が続いていた。
ジャンはナイトに色々な話を聞かせてくれた。人間のこと、街のこと、そして自分のこと。「金持ち」の意味はよく分からなかったが、どうやらジャンは人間の中の実力者の一族の人間らしい。このアトリエの何倍、下手したら何十倍もあるような家に住んでいると聞いた時は、さすがにナイトも信じられなかった。実は今でも半信半疑なのだが、ジャンが人間の街の絵や自分の家の絵を描いて見せてからは、一度見てみたいという気持ちの方が強くなっていた。
また、ジャンは家族、特に妹の話をよくしていた。偉大な父と優秀な兄のことは勿論愛しているし尊敬もしているが、自分の心をさらけだすことが出来るのは妹だけだったと。その後で「今はもう一人本音で話せる奴が出来たけどな」などと言いながら背中を軽く叩いてきたので、頭で小突いてやったのはよい思い出である。ナイトにはもう家族と呼べる存在はいなかったが、不思議と寂しいという気持ちは無くなっていた。
ある日の夜のこと、ジャンは珍しく真剣な顔でナイトに語り掛けていた。
「お前さんに言っておかなければいけないことがある。ずっと言わなくちゃなとは思っていたんだが……言い出せなくてな」
――なんだ?
ナイトは目で問い返した。
「実はな……俺はどうやら……その…呪われているらしいんだ」
――はっ?
怪訝そうな顔をしたのがジャンにも伝わり、彼は苦笑いを浮かべていた。
「もう半年以上も前になるか。ここにふらっとエルフがやってきてな?そいつがここを出ていく時に『貴方は呪われています』なんて言い残していきやがったんだ」
そう言いながらジャンは、たった一晩の付き合いではあったが仲良くなったエルフの友人の顔を思い出していた。
「そいつが言うには俺の身体はだんだんと動かなくなっていくらしい。最終的には息も出来なくなってお陀仏するんだとよ」
――そのような呪い……聞いたことないがな。
ナイトの“言葉”がジャンに届くことは無い。ジャンは目を閉じ、軽く息を吐く。
「最初は俺もそんな馬鹿なことがあってたまるかって思ってたんだよ。呪いなんてあるはずがねぇってな」
ははっ、と空笑いが響く。
「けどな……だんだん手足が動かなくなってきやがったんだ。動けないってことはないんだが明らかに動きが悪いのが自分でも分かる。自分で自分を誤魔化すのもそろそろ限界みたいなんだわ」
そして、ジャンの目が一層真剣なものへと変わる。
「こっからが本題だ。そのエルフは、『呪いがうつらないとは言い切れない』と言ってやがった。あいつ自身も呪いのことを正確には理解できていない、って感じの話し方だったな。つまりだ……この呪いはお前さんにうつっちまうかもしれないってことだ」
そこまで言うとジャンは深々と頭を下げた。
「申し訳ねぇ。どうしても自分が呪われてるってことを認めるのが怖かったんだ。だからお前さんに言えなかった。手遅れになっちまうかもしれねぇってのに……本当にすまん」
そんなジャンの姿を、ナイトは優しさと悲しさの入り混じった目で見ていた。彼の痛みが自分には痛いほど分かる。自分も生まれた時から“黒い呪い”にかけられているのだから。
――呪いがどうした。俺は“悪魔の使い”だぞ?呪いごときにやられるわけないだろう?
そんな“言葉”と共にナイトはジャンに歩み寄り、その頭を彼の肩に擦り付ける。ジャンは顔を上げ、震える声を出す。
「一緒にいてくれるか?情けなねぇけど……一人じゃどうしようもなく不安なんだ」
――当たり前だろう?俺はあんたの友達なんだ。
ジャンの目には、静かに佇む黒いケンタウロスが映っているだけである。それでもこの目の前のケンタウロスが、自分の傍にいると言ってくれているのが分かった。それが自分勝手な解釈ではないと確信出来たのは、ジャンがナイトのことを完全に信頼していたからであろう。
「本当にすまねぇな……。ありがとう」
暗い夜の闇の中でも灯りのともったアトリエは温かく、そして優しかった。
次の日、ジャンは二通の手紙を書いていた。一通は父と兄に宛てた、自らの現状とこれまでの感謝を綴った手紙、そしてもう一通は妹に宛てたものであった。大自然の中で今まで見たことのないようなものをたくさん見ることができたこと、それを絵に描いて過ごしたこと、森の中を冒険したこと、そして黒いケンタウロスと友達になったこと。呪いがうつるかもしれない以上、街に戻ることは出来ない。妹が楽しみにしていた土産話をジャンはこの手紙に込めた。手が動くうちはこれから起きる出来事についても書き足していこうと手紙をポケットに入れる。ちなみに書き終えた手紙は例の行商人に託すつもりにしている。もはや彼とも直接のやりとりをする気は無い。自分が描いた手紙すらも呪われているかもという懸念はあったが、家族に何も言わずに逝くことへの罪悪感と寂しさから打ち消した。
手紙を書き終えると、ジャンはナイトを連れて森に入った。しばらく歩くとナイトに自由にしてよいと伝え、彼をじっくりと観察する。この黒いケンタウロスと友人になってから、ジャンはまだ彼の姿を絵に描いたことがなかった。しかし自分があと何枚絵を描けるかということを考えた時、まずは彼を描こうと思ったのだった。
故郷である森に入ると、ナイトの雰囲気が鋭くなった。他者を寄せ付けないようなするどい雰囲気がジャンにも届く。これこそがケンタウロスの本当の姿なのだろう……、ジャンは感嘆した。偉大な自然の中でもしっかりとその存在を主張する肉体を、震える手を叱咤して描きあげていく。緻密さも繊細さも無い絵だったが、ジャンは満足していた。全霊を込めたこの絵からは、間違いなくナイトの誇り高さが伝わるはずであると。
三日目のことだった。
絵はほとんど完成しアトリエでの仕上げの段階に入っていた。集中しているジャンの視界の端で、伏せていたナイトがゆっくりと立ち上がり、警戒の声をあげた。
「……どうした?」
ジャンの言葉がまるで耳に入っていないかのように、ナイトは扉を凝視していた。
「……?」
――ズドォォンッ!
ジャンが首をかしげたのとその轟音が鳴り響いたのはほぼ同時だった。
「なんだぁ!?」
突然の衝撃にバランスを崩したジャンは狼狽していた。そんなジャンをよそ目にナイトは静かにドアへと近づき、そして勢いよくドアを開いた。
「……!?」
十数匹のケンタウロスの殺気に満ちた視線が飛んできた。
(まずい……怒らせるようなことをしたのか?)
人間に法律があるように、魔獣にも野生の動物にだってルールはある。そして人間は得てして他の種族のルールを気づかないうちに破ってしまうものである。視線は殺意に変わる。何頭かのケンタウロスは背中に背負った筒から矢を取りだし構えていた。それを見たジャンはある違和感を覚える。
(……!?こいつら……ナイトを狙ってやがる!?)
次の瞬間にも矢が飛んでくるかもしれない恐怖を感じながら、ジャンはナイトに視線を送る。寡黙な友人は、動じる様子を微塵も見せず、彼の同族達と向かいあっていた。
――こんなところにいたのか……“悪魔”め!
――あんたらもご苦労なことだ。わざわざこんな森の端までよく来るよ。
――ふん!貴様がこの森からとっとと出て行っていればそれで済んだのだ。近頃はその忌まわしい姿を見えなかったからやっとこの森から禍が去ったと思ったのにな。
――知ったことか。俺はただ毛が黒いだけのケンタウロスだ。あんたらに殺される理由もこの森を追い出される理由もない。
――うるさい!貴様は呪われた存在なんだ!大方そこの人間と結託して森に不幸を呼び込むつもりだったのだろうがそうはいかん。まとめてこの場で処分してやる!
――俺の友達に手を出したら……絶対に許さん!
ナイトの身体から一気に殺気が噴き出し、同時に何本もの矢がナイトを襲う。ナイトは風の魔法を自分とジャンのまわりに展開させてその矢を弾き、同時に風の刃をケンタウロスに向けて発射する。何匹かのケンタウロスは傷を負ったものの、大勢は変わっていない。
「とっ……とりあえず逃げるぞ!?」
ジャンは大きな声でそう叫ぶと、基本の火の魔法『火玉』をケンタウロスに向けて発射する。森に棲む種族は火を嫌うものが多い。引火の危険はあるが、今は逃走が第一である。思った通りに火を嫌がったケンタウロスが陣形を崩し、包囲網がとける。どうやら敵の大将と思われるケンタウロスと睨みあい牽制しあっているナイトを呼ぼうとしたジャンの視線は、ナイトにたどり着くまえに“あるもの”を見てしまった。
(あの野郎か……昔ナイトを撃ったのは!?)
視線の先には弓を構えたケンタウロスがいた。それだけならば普通なのだが、そのケンタウロスの矢は風を纏っていた。無色透明なはずの空気が歪むほどの強風を纏う矢、あんなものが刺されば周辺の肉はごっそりと抉られるだろう。出会った時のナイトのように。
――ごぉぉぉう!!
まるで周囲の空気を取り込んでいるかのような音を発しながら、風を纏った矢が発射される。ナイトはようやくそれに反応するも、意識は敵の大将に向けていたため致命的に反応が遅れる。その矢は身体を深く貫き、肉を抉り、そして身体を貫通して落ちた。
「……ぐはっ!!」
腹に開いた風穴をおさえ、ジャンは膝をつく。それを見た瞬間、ナイトの理性が飛んだ。
――ぐっ……
――うあっ!
膨大な魔力が無数の風の刃となってケンタウロスの群れを襲う。ある者は一瞬で絶命し、ある者は脚を刻まれ血を流しながら倒れこむ。軽傷で済んだ者達はその一瞬の殺戮劇に怯み、硬直していた。 そんな同族達を尻目に、ナイトはジャンに身体をぶつけ、無理やり自分の背中に乗せると一気に駆け出した。
走った。必死になって走った。
何本かの矢が風邪を切り、風の魔法が土を穿ったがそれもすぐに無くなった。もはやどこをどのように走ったのかも分からなくなっていた。
「さすがだぜ……“❘Stolze(誇り高き) ❘Night(闇夜)”」
背中から聞こえてくる荒い息に飲まれそうな声に、ナイトは安堵と焦りを覚えた。まだ息はある、しかしそれは何時止まってもおかしくはなかった。
ナイトはゆっくりと膝を折り、ジャンを柔らかな草の上におろす。ジャンは自分の腹に開いた大きな穴を確認すると、乾いた声で笑った。
「いやぁ……死ぬときってのは……あっけないもんだな」
苦しそうに顔を歪めながらそんな弱気なことをのたまうジャンに、ナイトは苛立ちを覚える。
――何を言っている!?あんたが死ぬはずないだろう!
ナイトは今ほど自分の声がジャンに届くことを願ったことは無かった。今まさに命を落とそうとしている友人を励ますことも叱咤することも出来ない自分の無力さを恨んだ。ナイトは“何も言わず”ジャンのことを見つめていた。
「お前さんに……最後の頼みがある」
弱々しい声をあげながら、ジャンは胸の内ポケットに手を入れた。
「お前さんも知ってるだろう?こいつは俺の妹に宛てた手紙だ。……こいつを……届けてくれないか?」
その口から声と息と血を振り絞り、ジャンは続ける。
「ケンタウロスのお前さんにとっちゃあ……危険なことだ。断ってくれても……構わん。危なそうなら……人が通りそうな所に置いてきてくれればいい」
差し出された手紙をナイトは受け取る。
「届けてくれる……のか?」
――あんたがそれを望むなら。
その黒い瞳は言葉よりも雄弁にナイトの気持ちを表していた。
「…最後の最後まで……お前さんには我儘を言っちまうな。」
震える手がナイトの胸を撫でる。
「ありがとな……この世で一番キレイな“黒”を…俺に見せてくれて」
手が草の上に落ちた。
自分の耳に、自分の嘶きが聞こえる。頬を伝う涙を拭おうとすら思わなかった。
不吉な黒いケンタウロスなど誰もが蔑み迫害した。一生愛されることなど無いと思っていた。そんな自分をこの男は愛してくれた。そしてそれゆえ、この男は冷たくなった。
ナイトはその漆黒の顔をあげ、親友が書いた妹への手紙を握り締める。
――手紙は……確かに受け取った!
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