発声練習

2009-02-22

[][] 価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない

卒業していく君へ。

卒業おめでとう。本当は面と向かって言ったほうが良いのだけど先生という立場だと私の発言が思った以上に重くなってしまうので直接君にはいえない。でも、君への言葉を一度形にしておかないと私の頭に一生こびりつきそうなのでここに書かせてもらうよ。

今年、君は卒論に苦しんだね。君が卒論に苦しんだ理由は自分でも分かっていると思うけど、常に外部に正解を求めたことにあるんだ。私が「どうして、それが正しいと思うの?その理由を教えて。」と聞くと、いつも君は表情を凍らせて黙ってしまったね。何度も何度も「研究には正解とか不正解とかない。誰も答えを知らないから研究になっているんだ。だから、自分の主張をとりあえず述べて、相手の反論が正しいと思えてから自分は間違っていたと考えれば良いんだよ。」と伝えたのだけど、最期最後まで君は自分の主張の正しさを自分の言葉で言えず、常に私の保証を求めたね。はっきり言ってそれが私にとっては本当につらかった。

君が雑談ならば私とも明るくおしゃべりできるのに、研究の話となった瞬間に凍り付いてしまうのは、雑談は自分の感情をベースに話せるので自信を持てる(自分の感情だもの、正しいも正しくないもない)のに対して、研究の話は自信がないからだよ。

どうして、自信がなかったのかといえば、たぶん、間違うことに対して恐怖をいだいているからだと思うよ。何で間違うことに対して恐怖を抱いているのかというと、まだ君には精神的な背骨が育っていないからだと思う。君は、自分の価値判断の基準を外部に委ねており、自分の内部にそれがない。君が自分の価値判断の基準だと思っているのは、外部に依存した「優等生な自分」「良くできる自分」という役に立たない基準なんだ。

もちろん、「良く出来る自分」というものをきっちりと咀嚼し、自分の精神的な背骨にしている人は大勢いる。でも、君のは、「他人が君をどう思うか」という基準なんだ。精神的な背骨として使えるのは「自分が自分をどう思うか」というものなんだ。ざっくり言えば、他人が君のことをかっこ悪いと思っていても自分が自分のことをかっこよいと思っていれば動じないというもの。何をもってかっこよいとするかは、親の見方、彼女の見方、友達の見方、小説内の見方、アニメの中での見方など何に由来していてもかまわないのだけど、自分が咀嚼しているのが重要。自分が咀嚼しているならば、周りの環境が急に変わっても、自分の背骨は急には不安定にならない。

私の判断基準の基礎は両親が作った。その基準をベースに、読んだ本、小学校・中学校・高校の素敵なあるいは面白い、個性的な先生達、見たテレビ番組、体験したいろいろなことをミックスして私の背骨はできている。大学での私の指導教員の発言や考え、教えも今や立派に私の背骨の一部だ。いまでは、自分が研究を進めるとき指導教員の声が聞こえてくるくらいだ。「それは何の意味があるの?」「それの定義は何?」とか。私の美醜の基準は、明らかにいままで読んだ小説や漫画に由来しているよ。

精神的な背骨がある人は、自分が間違えることをだいたい許容できる。自分の判断基準からしてどうでも良いことならば、間違えたって直してより良いものにしていけば良いだけだから。自分の判断基準からして重要な間違いならば凹むかもしれないけどね。でも、一度背骨を作り上げている人ならば、背骨自体を強化したり、変更したりできるので案外タフだ。

一方、精神的な背骨が無い人は、いかなる間違いも許容できない。なぜならば、判断基準は外にあるためどの間違いが自分に致命的でどの間違いが自分に致命的でないかが判断できないから。だって、判断するのは他人。完璧に振舞いたいのだけど、どう振舞えば完璧かわからなくなり、自信が無くなり、自分が嫌いになる。まるで、プライドを殻にした甲殻類みたいになるんだ。判断基準は外にあるので、自分が取れる選択肢は「他人に嫌われないようにする」「他人にかっこ悪いと思われないようにする」「他人にできない奴とみられないようにする」というものしかない。強化も変更もできないんだ。

価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない。その表現の仕方が研究だろうと、スピーチだろうと、絵画だろうと、価値の判断基準は常に自分の内部にあり、その基準に基づいて自分の考えや思いを外に問うのが表現だ。価値の判断基準が外にある人間は、自分の内部にあるものが外に問うだけのクオリティに達しているかを常に悩んでしまい表現を外に出せない。外に出せない限り、いかなる人間も表現者とはなりえないんだ。

表現者は、外の世界に自分の考えや思いを問うのがその存在意義だ。外に問うということは反論を食らうということなので、皮膚は破れ、肉は断たれる。でも、骨は守る。傷を癒し、身のこなしを鍛え、骨を強化し、場合によっては骨を入れ替え、再び世の中に自分の考えや思いを問う。考えや思いを外に問わなければ何も始まらないから、ただ、そうする。

だから、君がもし表現者になりたいのだとしたら、精神的な背骨を手に入れる必要がある。それはどんなものでも良い。私が君をどう思うかではなく、君が君をどう思うかそれが重要だ。君は私じゃないし、私は君じゃない。究極的には、私が君をどう思おうが君はそれに左右される筋合いはない。

君が背骨を手に入れる手助けをしきれなかったことに悔いが残るが、この研究室で卒論をやった経験が数年後に役にたつことを祈っている。君が新たな場所で新たな師匠に立派に鍛えてもらえますように。さようなら、お元気で。

追記

追記2

みなさまに様々な読み方をしていただいて、本当にありがたく思っております。ただ、一点訂正させていただきたいことがあります。私は「教授」でなく「助教」です。

准教授や教授はもっと経験を積んでいますので、さまざまな技を持っております。私の考えや発言は大学教員の中の比較的若造のものであるということをお含みおきください。

追記3

自分なりの価値基準を作り上げて元気にやっているようでした。よかった。

Hry00x451-0a_a1Hry00x451-0a_a1 2009/02/23 17:50 何か間違いを恐れずに語ってみてよ.

next49next49 2009/02/23 19:12 >Hry00x451-0a_a1 さん

間違いを恐れずに語った結果の置き場所がこのブログです。
反論を読んで、納得して私の行動を変えたことは何度もあります。

180180 2009/02/23 20:38 興味深く読ませていただきました。
一つお聞きしたいのですが、価値の判断基準が自分の外にある人間の「利点」は何だと思われますか?
長所と短所は背中合わせと言うくらいですから、逆に精神的な背骨のある人には出来ない事があるのではと感じたのです。

こへこへ 2009/02/23 20:58 おっしゃる通りだお思いました。
自分の省みるとまだまだだなと思います。
大学行ってサラリーマンになって。
この道を歩んだのも、自分で考えてではなく、世間一般にそうだからです。

ほとんどの人が、いい大学目指す。
大学行くことが目的。
なぜなら、みんなそうしてるし、親からも先生からもそうすることが良いことだとされて。
その先の話はあまりしない。
大学入って、まぁ、大学性だし研究でもしてみようかな。
おそらく、そういう人が多いんでしょうね。僕らの世代は。
語りかけてる相手が、そういう方では無かったら申し訳ないですが。

next49next49 2009/02/23 21:14 >180さん

価値判断の基準が自分の外にある人の利点ってなんでしょうね?
他人の望むことが分かっており、かつ、自分がその望まれていること
ができるときに、双方ともに幸せになれることでしょうか。

next49next49 2009/02/23 21:32 >こへさん

> ほとんどの人が、いい大学目指す。
> 大学行くことが目的。
> なぜなら、みんなそうしてるし、親からも先生からもそうすることが
> 良いことだとされて。
> その先の話はあまりしない。

私も基本的にそうですよ。大学に進んだのは大学卒業しないと
給料が安いと親に何度も言われたからです。大学院修士課程に
進んだのも同じ理由です。もう、理工系の学生の半分は大学院に
進むのが当たり前と思っていましたので。

卒業研究をしたのも、それが必修単位だったからです。

なので、別に大学に目的無く入ることは悪いとは思いませんし、
研究に熱意が無くても別に悪いとは思いません(残念とは
思いますが)。

ただ、間違えても良い環境なのに、間違えるのが怖くて
発言できないのは残念だったなぁと思っただけなんです。

akihitoakihito 2009/02/23 23:36 大変興味深く読ませていただきました。

著書の中で自己主張を明確には打ち出さず、インタビューや複数の文献をパッチワークのようにつなげてストーリーを作っていく方たちがいますが、そういったタイプの表現者(?)についてnext49さまはどのようなお考えをお持ちですか?例えば立花隆さんがこういったタイプだと思っています。

next49next49 2009/02/23 23:58 >akihitoさん

私はそういう本や論文を読みたくありませんが、いろいろな
表現があって良いのではないかと思います。私が気にしているのは
自分の考えを表に出すか出さないかという点だけですので。

外に出した表現が良いか悪いか好きか嫌いかはまた別の話だと思います。

価値の判断基準が自分の外にある人価値の判断基準が自分の外にある人 2009/02/24 00:39 はじめまして
耳に痛いお話でしたが、興味深かったです。

思いつく利点は
・価値基準構築の手間を省ける
・失敗に感じる責任は軽く感じる
・価値基準の衝突が無いため、外部との摩擦は少ない
・明らかに相手が間違っていても、葛藤に悩まされる事は少ない

文字にして気が付きましたが
自己防衛的ですね

外部が求める答えを提供する事が成功への道
と言う環境に適応させすぎ
他の環境への柔軟性を失った結果かもしれません


間違える事への恐怖を取り除くために
正解は求めていないと明言するか
間違えや失敗を求めている事を明確にする
と言うのはどうでしょう?

next49next49 2009/02/24 01:02 自分の中の価値判断の基準を誰か特定の人を
想定して作るというのは、案外、基本なのかもしれません。
「これをやったらお母さんやお父さんは怒るかな?」
というのは子どものころの私の重要な価値判断の基準でした。

> 間違える事への恐怖を取り除くために
> 正解は求めていないと明言するか
> 間違えや失敗を求めている事を明確にする
> と言うのはどうでしょう?

これを試みてはいるのですが、どうも信用してもらえないのです。
難しいですよね。

hirokamehirokame 2009/02/24 04:10 そうですね。Man of Common Sence,常識の人? この場合、その人の中心とでも言うべき、真ん中、であり、まわりが何をいおうが関係ない。だからこそ、歴史に名を残したわけですしね。でも、これは、欧米流。日本では、バリ島では、表現とは、人と人との間にうまく入り込んで、少しずれして声を出すこと。

ディートリヒディートリヒ 2009/02/24 08:49 去年、新卒入社したものです。
「あとで新聞」よりやって参りました。

私の先輩も「何でも質問してくれ」というわりに
何だその質問は?質問の仕方、タイミングってものがあるだろう?
などと注意されます。
そこで「○○だと思っているのですが、そのようでよろしいでしょうか?」
と質問したところ、「そう思うのならそうしたらいい」と返ってきたので自分が思ったようにやっていたら自然と質問することもなくりました…。

ある日、自分の思うようにしていたら失敗していることに気付き先輩に相談したところ、「自分が一番正しいと思ってるから質問しないんだろ?」とか「あれほど質問に来ていいっていっただろ!」いきなり怒り狂ってます。

そこで積極的に質問しにいったところ、「お前は答えを求めすぎている」「会社は計算ドリルの答えじゃない」とか言われるようになりました。
なお、90分おきに中間報告がありましたがそれすらも無意味だった気がします。

こんなクソと思えるヤツが自称・教育担当だなんて…
一緒に仕事なんかしてられないので春から転職します。

質問を受ける側は
・ある程度質問される内容を把握する
・質問者と同じ目線(考え方・価値観)に立ってみる
・ある程度の愚問は覚悟、スルーする

このような先輩なら質問も苦ではありません。
質問する側からしたら「それ、前にも聞いた質問だ」と言われても同じような質問と同じ質問とは全く違う意味だと思うんです。

長文失礼しました。

いち教育担当いち教育担当 2009/02/24 10:40 >ディートリヒさん

最低でもその先輩と同じレベルまで仕事が出来るようになってみないと、
その先輩が言いたかった事は分からないと思いますよ。
少なくとも一年では、自分の上に立つ人の出来不出来など判断できないように思えます。

私は所謂大会社で新人研修を行っていますが、
質問の仕方を自分で修正していける人は間違いなく伸びます。
一方でディートリヒさんのようにミスコミュニケーションの理由を相手に求めるケースは、
しばしば伸び悩んでしまうようです。

参考になれば。

青島青島 2009/02/24 11:55 卒論とか、学校は、疑似体験であって、経験ではありませんよ。研究の分野で言えば、大学を卒業して、大学の職員として研究者として報酬を受け取ることになって、初めて経験です。教育に問題が残ってしまうのは、常に疑似体験しか子供たちにさせないからです。シュミレーションしかできないから、壁にぶつかる。自分の外に答えを求める以前に、外での経験がないのですから、永遠に無理な話で、突然変異で適者適存したものだけが、サバイバルできるようになります。だいたい、人生を教えることはできません。ライオンの逸話のようにするしかないのではありませんか。甘すぎます、この記事は。学生が気の毒です。

a-kubotaa-kubota 2009/02/24 13:03 私見ですが、大学には言語レベルと政治レベルがあって、「表現する」と「評価する」ということがつきまとうのだと思います。
どちらがより根本にあるかと言えば言語・表現ですが(人は言ったことやったことを評価するものだし)、それでも政治・評価も当然無視できない。両方兼ね揃えて初めて大学で通用する(本当はもっといろんな要素があるだろうけど)。
その人は後者しか見てなくて、「表現しろっつったって結局評価されなきゃ意味ないよね」と考えていたのだと思います。それはそれで正しいのだけど、「表現しないで評価されようというのがそもそも無意味」なので、無意味な正しさだということを伝えるべきだったのではないかと思います。
まあ前者しか見てなくて、評価されないで表現してるだけだとただの自分勝手にすぎず、そんなもん大学では生き残れないと思いますが、nullよりはfalseである方がまだ評価はしやすいものなのかな。

kuchinkekuchinke 2009/02/24 13:21 教授になるような方でも、入口は同じなのですね。
ちょっと安心(?)。
でも、そこからどう抜け出すかなんでしょうね。
失敗を恐れて何もできないままだと、私のようなとりえもなく保守的なサラリーマンになってしまうのですね。
少し反省です。
もう学生ではないですが、こんな話が聞けて良かったです。

u1u1 2009/02/24 13:59 GIGAZINEの記事からやってまいりました。
仰るとおりだと思います。

また、表現することと、それを自ら修正していくことというのは両方が成り立って始めて意味をなすのでしょうね。
要は主観と客観のバランスということでしょうか。
年を取ってくると、徐々に「自分の意見を持っていてしかも絶対にそれを曲げない」タイプの人が増えてくる気がします。

ちょうど今読んでいる本(”世界は感情で動く”)に書いてあってなるほどと思ったのですが、人間は主観と客観をきちんと分けられないもの、だそうです。
自分がミスしたのは環境のせい・相手がミスしたのは能力がないから、という思考回路が防衛本能として出来ているのだとか。

そう考えると、真の表現者たる事というのは非常に奥が深いモノだとおもいます。

gunshisanadagunshisanada 2009/02/24 19:54 はじめまして。
この記事、非常に興味深かったです。

まあ、自分の価値観を過信すると独善に陥ってしまうわけですが、
それが問題になるのは、あくまで「精神的背骨」を確立した後の話であって、
「精神的背骨」自体がないのでは話にならないわけですし。
私は管理人氏の主張に賛同します。

neginegi 2009/02/24 22:03 あなたを軽蔑します。

人を教える立場なら、ブログに書かず、
なぜその生徒に気付かせるように、出来なかったのでしょうか?
彼が卒業してからブログに書いてなんの意味があるのでしょうか?

とても不快です。

あなた自身の後悔が文章では感じ取れません。
むしろ、その彼に対しての嫌悪感が感じ取れます。

>私は君じゃないし、君は私じゃない

かなり、ムカツキました。
あったりめーだろ!

人を教えるという立場ならもう少し自分の立っている地位、
仕事に対して責任感を持ってください。
これは要求ではなく、お願いです。
宜しくお願い致します。

しめすへんしめすへん 2009/02/24 22:52 基本的には同意します。ですが殆どの日本人が答えだけ覚えさせるような教育を受けている現状では背骨のある人間など期待するのは無謀だと思います。義務教育レベルで変えていかないと。

next49next49 2009/02/24 23:07 >negiさん

一年間いろいろやったのですが、力及ばずでした。

ブログに書いたのは、まず自分の気持ちと考えを整理を
したかったからです。

後悔が文章から感じられないという仰せですが、
後悔していなければそもそもこのエントリーを書いておりません。

私が苦悩している様子が文章から受け取りにくい理由は、
私なりにできることをやっているという自負があるからでしょう。

ここまで直接的な言い方ではありませんが、
もう少しオブラートに包んだ形で似たようなことを何度も伝えて
いますが、効果があったかどうかわかりません。

このエントリーの最期に書いたとおり10年後か20年後くらいに
「ああ、あのときあの人が言っていたのはこういう意味か」と
思い出してもらえれば結構嬉しいです。

また、彼に対する嫌悪感が感じ取れるという仰せですが、
嫌悪感はありませんが徒労感や失望感があるのは否めません。

私もnegiさんと同じ普通の人間ですから、同じこと20回以上
繰り返し説明したり、わからないのでやり方を教えてくれ
といわれやり方を教えたのにそのやり方に従わないとか
あると疲れるわけです。まあ、相手は4年生で私は先生ですから
しょうがないですけど。

あと、negiさんは「私は君じゃないし、君は私じゃない」という
部分が不快だったようですが、こういうのが冗談抜きで
区別がついていない人がいるんです。自分が分かっていることは
他の人も分かっているとか、自分が大事に思っていることは、
他の人も大事に思っているとか。

自分が大事に思っていることが本当に他人も大事に思っているか
どうかを確かめるには、他人に問いかけてみるしか方法はありません。
私が彼に対して愚痴っているのはまさにこの部分です。

実際、私はこのエントリーで主張したことを大事に思っていますが
このエントリーにコメントくださった方々の中には、
「それは大事ではない。」あるいは「それはむしろ有害だ」と
主張される方もいます。

私はこういう意見によって「私が大事に思うことも人によっては
大事には思わない」ということを学ぶわけです。

negiさんが当たり前とおっしゃる「私は君じゃないし、君は私じゃない」
は、私にとって、学生に教えたいとても重要な考え方なんです。
私はこれは当たり前ではなく、ちょっとずつ学んでいかなければならない
ことだと考えています。

> 人を教えるという立場ならもう少し自分の立っている地位、
> 仕事に対して責任感を持ってください。

私がnegiさんの望むように振舞うかどうかを別にして、
ご忠告のとおり、自分の立場と地位を良く考えて仕事に
臨みたいと思います。

next49next49 2009/02/24 23:40 >hirokameさん

私が彼に求めたのは高々「どうして、それが正しいと思うの?その理由を教えて。」
に答えることができる彼なりの判断基準です。

世界の全てがお前の敵に回ろうと、お前はお前の基準で生きろという
わけではないんです(そんなもの私も持っていません)。

もちろん、歴史に名を残した人たちの多くはhirokameさんのおっしゃるとおり
常識すら打ち破る強い己の価値判断の基準を持っていたと思いますが、世の中の
全員がそこまで強い価値判断の基準を持つ必要はないと私は思います。

next49next49 2009/02/24 23:43 >ディートリヒさん

これはなかなか難しい話なのでコメントを簡単に書くことはできませんが、
こちらとそのリンク先を読んでみてはいかがでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/next49/20081022/p2

私としましては、このご時世ですし、そんなに簡単に転職しないほうが良いかと
思います。

next49next49 2009/02/24 23:45 >青島さん

コメントの主旨がちょっとわかりません。
最後の「甘すぎます、この記事は。学生が気の毒です。」の前までは
ほぼ、どう意見なのですが、なぜそこからこのようなご感想になるのかを
聞かせていただければ幸いです。

next49next49 2009/02/24 23:51 >a-kubota さん

> その人は後者しか見てなくて、「表現しろっつったって結局評価されなきゃ意味ないよね」と
> 考えていたのだと思います。それはそれで正しいのだけど、「表現しないで評価されようと
> いうのがそもそも無意味」なので、無意味な正しさだということを伝えるべきだったのでは
> ないかと思います。

伝える試みはしているのですが、なかなかうまくいかないというかできないというか。

> まあ前者しか見てなくて、評価されないで表現してるだけだとただの自分勝手にすぎず、
> そんなもん大学では生き残れないと思いますが、nullよりはfalseである方がまだ評価は
> しやすいものなのかな。

卒業研究・講義・演習と関係ない話であれば、別に評価されないで表現していても
別に自由なのですが、ことこれが卒業研究・講義・演習に関係するのであれば、評価
されることを常に考えていただかないとどうにもなりません。

評価の観点からすれば、trueのみが良い限り、nullだろうがfalseだろうが
どちらも不可ですが、教育の観点からすれば、falseとnullには大きな差があります。
null(何もない)では、何を梃子に教育してよいかわかりません。

next49next49 2009/02/24 23:55 >kuchinkeさん

すみません。まだ助教なので、教授に至るには長い長いながーい道のりがあるんです。

> でも、そこからどう抜け出すかなんでしょうね。

どうやれば良いんでしょうね。間違いなく人によって違うのが難しいところです。

> 失敗を恐れて何もできないままだと、私のようなとりえもなく
> 保守的なサラリーマンになってしまうのですね。
> 少し反省です。

保守的が悪いわけではありませんから、どうぞ卑下なさらず。
楽しく生きていれば勝ちですよ。お互い楽しくいきましょ!

> もう学生ではないですが、こんな話が聞けて良かったです。

ありがとうございます。そういっていただけるとこの話を
エントリーにして良かったと思います。

kuukigayomenaikuukigayomenai 2009/02/25 00:00 その子が悪いわけではないんですよね。
無意識のうちに身に着けていく無意識・・
これは、どうしようもないと思います。

確かに親御さんの影響が大きいと思います。
これが8割以上といってもいい気がします。

たとえば親自身の心が不安定な家庭で育った子に、
心の支えを作る余裕なんてないはずです。

なんだかんだ言っても、
今後は自分自身でそのことに気づいて、
どうにかしていくしかないと思いますが。。

next49next49 2009/02/25 00:03 >u1 さん

> また、表現することと、それを自ら修正していくことというのは両方が
> 成り立って始めて意味をなすのでしょうね。
> 要は主観と客観のバランスということでしょうか。
> 年を取ってくると、徐々に「自分の意見を持っていてしかも絶対にそれを曲げない」
> タイプの人が増えてくる気がします。

自分の中に価値判断基準を持てるようになった後に立ちはだかるのは
「いかに独善に陥るのを防ぐか」ですよね。これは価値判断基準をどう作るか
と同じかそれ以上に難しい問題です。

成功体験が自分の価値判断への信頼を高めてしまうので、価値判断基準を
更新しなくなってしまうんですよね。今のところこの問題に対する私の
アイデアは「謙虚なろう」以外思いつきません。

> ちょうど今読んでいる本(”世界は感情で動く”)に書いてあってなるほどと
> 思ったのですが、人間は主観と客観をきちんと分けられないもの、だそうです。
> 自分がミスしたのは環境のせい・相手がミスしたのは能力がないから、という
> 思考回路が防衛本能として出来ているのだとか。

よく分かります。このエントリーでも同様のことが起こっているかもしれません。
実際、このエントリーのコメントの中にはその点を指摘しているものもありますし。
だからこそ、他人の目が必要になるんですよね。

> そう考えると、真の表現者たる事というのは非常に奥が深いモノだとおもいます。

私の言葉で言えば「自分自身に誠実でかつ他人からも評価される表現者で
あり続けることは難しい」となります。私は、自分の思いや考えを何らかの方法で
述べられればそれでもう表現者と名乗ってよいと思っています。一方で、その表現が
どれくらい他の人に評価されるかどうかはその人が表現者かどうかと関係ないと
思っています。

自分に忠実に、でも、他人からも評価される表現というのは本当に
難しいと思いますし、それを続けることは本当に困難なことだと思います。
だからこそ、自分自身に誠実でかつ他人からも評価される表現者というのは
価値があり、われわれの社会に常にい続けて欲しい人材だと思っています。

next49next49 2009/02/25 00:04 >gunshisanada さん

> まあ、自分の価値観を過信すると独善に陥ってしまうわけですが、
> それが問題になるのは、あくまで「精神的背骨」を確立した後の話であって、
> 「精神的背骨」自体がないのでは話にならないわけですし。

はい、全くおっしゃるとおりです。私もそう思います。

> 私は管理人氏の主張に賛同します。

ありがとうございます。

next49next49 2009/02/25 00:14 >kuukigayomenaiさん

考え方の問題なので、ちょっとしたきっかけがあればガラリと
変わると思うのですが、そのきっかけが人によって違うので
うまく与えることができないんですよね。

next49next49 2009/02/25 00:20 >しめすへん さん

> 基本的には同意します。ですが殆どの日本人が答えだけ覚えさせるような教育を
> 受けている現状では背骨のある人間など期待するのは無謀だと思います。
> 義務教育レベルで変えていかないと。

私もそう思います。ただ、新しい学習指導要領で国語が変わるみたいですので
かなり期待しています。よろしければこちらもどうぞ。
http://d.hatena.ne.jp/next49/20081117/p1
http://d.hatena.ne.jp/next49/20070817/p1

akihitoakihito 2009/02/25 00:40 お答えいただきありがとうございます。(パッチワークのような文章についての質問に対して)

まず、「表現」には自身の判断基準が不可欠であることは大賛成です。

その上で、next49さんの文章から二つのことを感じました
1. とても影響力のある文章だなあ。すばらしいなあ。
2. でも、ちょっと独善的じゃないかな。

1というすばらしい要素があるのに、2が満たされていないばかりに他者(ここでは学生さん)に納得してもらう文章になっているかが疑問なのです。
独白であって、説得ではない、というか。

コメント欄では書ききれないので、こちらに書きましたのでよかったらお読みいただきご意見いただければ幸いです。
http://akihito.s354.xrea.com/blog/archives/252

ojakiojaki 2009/02/25 01:02 初めまして。
分野は違いますが同じように大学で教えているものです。
基本的には同意するのですが、こういう言説を見ると違和感も感じるので
コメントさせていただきます。
それは「外部に正解を求める態度」を徹底的に人間としてダメととらえるような
枠組みに対する違和感です。
自分で、自分なりの正解を見つけようとする態度が重要なのは、これは成熟社会
特有の資質なのではないか、つまり基本的な衣食住が満たされた上で、なにか
おもしろいことをする(「イノベーション」と同義?)ために求められる資質なのでは
ないかと思うのです。
逆に「外部に正解を求める態度」は、受験教育の弊害とか、それ以前の問題として
生活必要物資も欠く貧乏社会に求められた資質に由来するものなのではないか?
つまりこのような態度がダメなのは、人として間違っているわけではなく、現代に
おいてすでに需要がないことにすぎないのではないか。
そうだとすると、それをダメ人間のような態度であると見ることには非常な
違和感があるのですが、どうでしょうか。
(念のために言っておきますが、「ダメ人間」といった覚えはない、とかそういう
ことではありません。こういう成熟社会特有の資質にすぎないものをあたかも
人間として普遍的に求められる資質のように、目上からいわれると、私が学生
だったらば、そうとう反発を感じてしまう、私が学生だったらばこのように
言い返してしまいたくなる、ということです。)

next49next49 2009/02/25 01:06 >akihitoさん

ご指摘ありがとうございます。このように分析していただき本当にありがたいです。

next49next49 2009/02/25 01:19 >ojakiさん

言わんとしていることはわからなくも無いのですが

> 念のために言っておきますが、「ダメ人間」といった覚えはない、
> とかそういうことではありません。こういう成熟社会特有の資質に
> すぎないものをあたかも人間として普遍的に求められる資質のように、
> 目上からいわれると、私が学生だったらば、そうとう反発を感じてしまう、
> 私が学生だったらばこのように言い返してしまいたくなる、ということです。

と逃げ道を塞がれてしまうと困ります。私が「大人になれない」ではなく
「表現者になれない」という言い方をした理由は、表現者にならないので
あれば、別に自分の中に価値判断の基準があるかどうかどうでも良いからです。

ただ、表現者になるのであれば絶対に価値判断の基準が自分の中になければ
ならないと思います。そうでなければ、エントリーでも書いたように自分の
思いや考えを外部に問えません。

正解かどうかわからないことについて自分の主張を述べられるというのは
私の中ではかなり高く評価される資質ですが、社会の構成員全員がこの
資質を持つべきかと言われれば答えはNoです。

物事は必ず良い面と悪い面がありますので、正解かどうかわからないことに
ついて自分の主張を述べる人間は、述べられる側から言うと面倒なヤツ、
うるさいヤツとみなされる恐れがあります。必ずしも誰もが賞賛する性質で
あるわけではありません。

ojakiojaki 2009/02/25 01:47 すばやく丁寧なお答えありがとうございます。
すいません、決して逃げ道をふさいで困らせてやろう、とかいう意図ではなかったのですが。

>「表現者になれない」

これはまさにその通りだと思います。

next49さんと、記事中の「君」のあいだでの固有の関係性に異を唱えるつもりはありませんでした。

ただ、そのような個別的な事象を越えて、(これだけのブックマークがあるところからも)
大学教育の問題点とか、そういう普遍的な問題の一断面としてもとらえられるのではないかと
思いましたし、私自身もそのような記事として読ませてもらったということでした。

そのためもしかしたら「君」の問題は、普遍性をはらんだ問題なのではなかったのかな、と想像した次第です。

つまり、私も大学でよくある話として、例えば卒論に入ったとたん(あるいはもっと前から)
不適応を起こしてしまう学生とか、そういうのでカウンセリングに言ったりとか、そういう学生の
話を聞いたり直接見たりしますが、そういう学生の抱える問題と「君」の問題は結構共通していたの
ではないかな?と思ったのです。そして私自身はその背景は、先に私が投稿したようなことがあるの
ではないか?と思ったのです。

KumekichiKumekichi 2009/02/25 13:25  大変いいものを読ませて戴きました。有難うございました。
 大学を卒業してから○十年が経ってしまいましたけれども、色々と考えさせられてしまいました。
 私は、もう少しいい加減な考え方かもしれません。

 まず、価値を自分の外に求めるか中に求めるか、それはきちんと分けられないものかもしれない、とも思います。
 ギターをいじっていていいリフが出来た、友達に「これカッコ良くない?」と聞く、これも立派に創造かもしれません。「カッコいい」というのは、価値が自分の外にありますけどね。多分ビートルズなんてそうやって曲を作っているうちに、自然にオリジナルに至ったんじゃないでしょうか。英語の cool という言葉もニュアンスはほぼ同じ。クリエイター系の人は大体そんな感じで仕事をしているような気がします。
 ギターとかクリエイター系とか、そういうチャラチャラのが例として下がりすぎなら… 数学でもそうですよね。ちょっとオリジナルな感じのアプローチが見つかったら、仲間に「これカッコ良くない?」って見せたり。
 考えてみればそれは当たり前の話で、藝術も科学も、自分の中にはオリジナルなものはごく僅かです。「これが自分」と思っていても、実態は様々な先人のまさに「パッチワーク」に過ぎない。
 ごく僅かなオリジナルがあることを信じて努力を続け、何とかそれを見つけて表現し、それが幸運にも世の中(外)に認められたとき、初めて業績となるのでしょうね。

 もう一つ、自信が無いことは武器かも知れない、とも思います。
 自信が無いからもっと練習する、もっと調べる、もっと考える… それで質が向上する訳ですから。根気良く続けていればどこかでブレイクする(外に認められる)でしょう。逆に、妙な自信を持ってしまうとそれで終わり、進歩は止まってしまう。
 未だに自信の持てない私は、そうやって日々自分を慰めつつ、牛の歩みを続けています。

shiroshiro 2009/02/25 18:09 このエントリについては全くその通りだと思います。
ただ、いきなり表現者として外の世界に身一つで対峙できる人はそうそういないので、安全な場所で表現する訓練が必要じゃなかろうか、そのようないわばnurseryを作るテクニックっていうのはどのくらい考えられているんだろうか、と最近思うところがあり、個人的なメモに書いてみました。
http://practical-scheme.net/wiliki/wiliki.cgi?Shiro の2/6「表現の訓練の場」の項です。(permalinkが貼れないので不便ですがすみません)
このメモ自体は初等教育を念頭に置いていて、大学ではもっと進んだ指導(表現について自分なりの必然性を説明できる、議論できる、など)ができてしかるべきだと思うのですが、高校までくらいに安心して表現できる経験をしていない場合、最初のところで躓いてしまうのも致し方ないことなのかもしれません。

orangeisseiorangeissei 2009/02/25 22:37 非常に興味深い記事なので,ちょくちょく見に戻ってきてしまいますが,賛否両論で驚きます.(うちの研究室が雰囲気がいいせいでしょうか?)

このコメントを残している方たちが,どのような経験をされて意見を仰られているのか.が非常に気になりますが,
私の視点から述べさせていただくと,この記事は非常に参考になります.
と,いうのは私もこの春に大学院を修了することになっていて,研究の疑似体験を経験したからです.

私自身もその学生の様に発表の場において話すことが出来ない学生でした.
それはnext49さんがおっしゃられている精神的背骨がなかったからにほかなりません.

自身がそれに気づき,これから先会社員として,研究生としてやっていく礎を築くことが先生方の役目であるからです.
巣立ってしまう一学生を育てることも一つ大事な事柄ですが,それ以上に大変な研究をされているのが教授,助教授と呼ばれている人たちだと思っています.
精神的背骨は,ドクターの先輩方や友人たちに助けられることで育ちました.
(では,先輩方や友人が居ない研究室はどうすればいいのやら・・・)



別の記事(アカハラについて)の記事でも教育現場の実態について軽く触れさせていただきましたが,
発表等意見・意思表明の経験をあまりさせない日本の教育に疑問を抱きます.
(特に大前研一著「知の衰退からいかに脱出するか」を読み,さらに教育・政府に疑問)
ですが,それは大学で教員職についてらっしゃる方たちの問題ではなく,義務教育や高校での問題だと思っています.

next49さんはこうして意思表明をされているわけで,とても立派だと思います.
できれば,本人に伝えてあげられれば・・・とも思いますが,やはりそれはとても重い言葉になってしまう.と懸念される事もわかります.
(卒業を機会に伝えられてみては?なんて考えも)


#ちなみに助手(現:助教)を必ずしも「先生」と呼ぶわけではない.と,助教の"先生"から指摘されました.
#助手は●●「さん」と,いう文化もあるのでそこら辺も誤解を生んでいるのかもしれませんね.

大学というスモールワールドがいけないのかなんなのか考えつつ〆

これからも素敵な記事と研究も頑張ってください.
助教という立場も2年(でしたっけ?)のうちに研究成果を出さなければならないなど大変ですね.

orangeisseiorangeissei 2009/02/25 23:24 よくよく考えなおしてみれば,「表現者」についてでしたね.
私自身の経験と重ねてしまった為に,自分の気持ちが前面に出てしまいました.(反省

orangeisseiorangeissei 2009/02/25 23:27 よくよく考えなおしてみれば,「表現者」についてでしたね.
私自身の経験と重ねてしまった為に,自分の気持ちが前面に出てしまいました.(反省

NIRONIRO 2009/02/26 11:09 初めまして。
とても興味深く読ませていただきました。
私自信も仕事をしている中で共感できる部分がたくさんありました。
私なりに感じた事を自分のブログでも書かせていただきました。
つたない文章ですが、読んでみてください。

next49next49 2009/02/26 14:39 >ojaki さん

> つまり、私も大学でよくある話として、例えば卒論に入ったとたん(あるいはもっと前から)
> 不適応を起こしてしまう学生とか、そういうのでカウンセリングに言ったりとか、そういう学生の
> 話を聞いたり直接見たりしますが、そういう学生の抱える問題と「君」の問題は結構共通していたの
> ではないかな?と思ったのです。

私もそう思います。

> そして私自身はその背景は、先に私が投稿したようなことがあるの
> ではないか?と思ったのです。

これは難しい話ですね。ojaki さんが提示された背景は、大学の意義と
卒業研究の意義を問うものですから、大学は問題発見能力を持った学生を社会へ
輩出すべきと考えている私からしますと、解決不能な問題と見えます。

本当は、自分で、自分なりの正解を見つけようとする態度を身につけたくない人間は
大学に進学するべきではないんですよね。

next49next49 2009/02/26 14:44 >Kumekichi さん

ギターの例は良いですね。私が今回のエントリーで背骨という言葉を使ったために
ちょっと高尚なイメージになったかも知れませんが、私は正解か不正解か分からない事柄
について主張するときに、その主張を口に出すのを後押ししてくれる基盤というか軸と
いうかそういう程度のことを考えていました。

ですから、その背骨が好き・嫌いでもよいと思っています(それが他人を納得させるかどうかは別の話)
あと、自信についても、行動してみなければ永遠に自信はつかないので鶏と卵の問題に
なってしまうのが悩ましいところです。

next49next49 2009/02/26 14:48 >shiroさん

ご提案の「表現者にとっての練習の場」はとても重要なポイントだと思います。
一度、何かの表現において段階を踏んで表現の作法を学べば、その後、別の
表現の場に移っても適用できると思います。

本当にどうにかしてそういう場を用意しないといけないんですよね。

next49next49 2009/02/26 14:51 >orangeissei さん

賛否両論なのは基本的に良いことですので歓迎したいと思っています
(まあ、否の方を受けるのはしんどいはしんどいですが、これを避けると成長がとまりますので)。

人にはそれぞれの学び方あり、私が知っているのは自分の見聞きした学び方だけですから
私のやり方が気にくわない人がいるのは当然です。ただ、できればどこが間違っているのか
自分ならばどうするのかを教えてくれるととてもうれしいのになぁと思います。

kobayasikobayasi 2009/02/26 23:26 はじめまして。
上のNIROさんと同じくとても興味深く、そして共感して読まさせていただきました。

自分の個人的な卒論体験をブログで書きましたので
公の場で宣伝めいた真似をさせていただいて恐縮ですが
「こういう生徒もいるんだな」「こういう指導の仕方もあるんだな」
といった気持ちで目を通していただけると嬉しいです。

よろしくお願いします。

KumekichiKumekichi 2009/02/26 23:54 >next49 さん

 ギターの例で言えば、とにかく音を出してみなければ何も始まらないですからね。ヘタでも陳腐でもいいから音を出してみて、初めて出発点に立てる訳で。出発点に立たなければ、牛の歩みも出来ません。
 研究で言えば、或る仮説を立ててみて、実験するなり実際のデータを入れてモデルを作るなりしてみて、結果「この仮説は成立しない」でも、一応研究にはなる訳です。誰もが考えそうなことをやってみて、「こりゃダメです」と示すだけでも、それなりの意義はありますよね。優れた研究とは言えないかもしれませんが。

 自信が鶏と卵、というのは、仰る通りだと思います。というか、「自信」には色々と種類やレベルがあるのではないでしょうか。そのうち二つを挙げるとすれば、「自分はこれが好き、やりたい」という、心の基底部にあるエネルギーのようなものと、「自分は専門家だ、第一人者だ」という「外」との関係において成立するものと、二つでしょうか。
 私が「自信が無いことは武器かもしれない」と書いたのは、後者の意味でした。以前、ダンスの巨匠と出会う機会があったのですが、「初心者はプロのように、プロは初心者のように、練習しなければならない」という言葉を聞き、以来座右の銘にしています。

 学生が前者の「自信」を無くしている場合、その道の先輩としてどうアドバイスするか、というのは難しい問題ですね。出来ることがあるかもしれないし、何も無いかもしれない。ひょっとしたら、冷たく突き放した方が学生のためになるかもしれない。
 私は教師ではないので、学生ではなくて後輩のことを考えるとですね… 年取ったせいか、ちょっと開き直っています。こちらとしては、基本的な愛情を持って接するだけ。その愛情を分かってくれる人も、分かってくれない人もいる、それはしょうがない、と。

next49next49 2009/02/27 12:48 >Kumekichi さん

何でもそうだと思いますが、ギターの例やご提示の研究の例のように、とりあえず一通りやってみて、やってみた経験を
次に生かすという漸進的手法(小さく始めて、何回も繰り替えして、手を動かしながら課題をはっきりさせ、ゴールにたどり着く)
をできる人がとにかく優秀です。卒業研究はこの漸進的手法を身につけるための練習という側面もあるので、
Kumekichi さんのおっしゃるとおり、「やってみました。だめでした」というのもOKなんです。
(失敗するのも立派な「ネガティブな事例を明らかにした」という業績だと言っているのですが)

> 私は教師ではないので、学生ではなくて後輩のことを考えるとですね… 年取ったせいか、ちょっと開き直っています。こちらとしては、
> 基本的な愛情を持って接するだけ。その愛情を分かってくれる人も、分かってくれない人もいる、それはしょうがない、と。

そうですよね。なるほど。

KumekichiKumekichi 2009/02/27 15:59 >next49 さん
 私もえらそうなことを書きましたけど、昔は私も「漸進的手法」というやつが出来なかったのです。書く前から「こりゃダメだ」と思ってしまい、何一つ書けなくなる。(実は今でも偶に、こういう状況に陥ることがあります。)でも結局、その泥沼から抜け出す方法というのは、自分で見つけるしかないんですね。
 ここが難しいところで、先生なり先輩なりの指導というのも、ケース・バイ・ケースでしょう。優しければ良いとは限りません。「お前なんか、もうやめちまえ」と言われることで、我に返ることもあります。でも、本当にやめちゃう子もいたりするからややこしい…
 だから、それはもう不可知なものとして開き直っているんです。自分に出来ることは、自分の仕事に対する愛情を語ることと、後輩に対して基本的な愛情を持って接することしかない、と割り切ってます。

next49next49 2009/03/02 00:39 >Kumekichi さん

私も同じく漸進的手法というものは最初はできませんでした。
これは明らかに訓練と経験が必要ですよね。

私は縁あって大学教員になったので、出来る限りさまざまな性質の学生に
研究の初歩を伝えたいと思っているのですがなかなか難しい限りです
(だから、毎年毎年学ぶことがあり面白いのですが)

shioyamashioyama 2009/03/02 12:40 next49さん

このエントリーを英語に翻訳して、グローバル・ボイス(www.globalvoicesonline.org)というサイトで紹介したいと思いますが、よろしいでしょうか?もちろんこの記事にリンクしたり、クレジットも付けます。

参考として、私の今までの記事はこちらでご覧いただきます。http://globalvoicesonline.org/author/chris-salzberg/

next49next49 2009/03/02 17:10 >shioyamaさん

> このエントリーを英語に翻訳して、グローバル・ボイス(www.globalvoicesonline.org)と
> いうサイトで紹介したいと思いますが、よろしいでしょうか?もちろんこの記事にリンク
> したり、クレジットも付けます。

ありがとうございます。どうぞ。

coco-bearcoco-bear 2009/03/27 11:54 共感出来る部分が多かったです。高校の国語の教科書に載ってた「相手依存の自己規定」という評論を思い出しました。日本人は相手の立場にたって「お母さん」とか「先生」と自身を呼ぶという様な部分が印象に残ってます。日本人に特に多い傾向なのかしら。私も母に人の身になって考えなさいと育てられ、良かった部分もありますが、弊害になった部分も確かにありますね。日本人の美しさと脆弱さと表裏一体の部分かな。そこを凛と切り分けられればカッコいいな。

next49next49 2009/03/28 17:23 >coco-bearさん

人の身になって考えるというのはとても重要だと思います。
しかしながら、この教えは常に相手の望むように振舞えという意味では
なく、少なくとも一度は相手の視点にたって自分が行おうとすることを
考えなさいという意味だと思います。

相手の視点にたって、自分の行おうとすることを考えた上で、
相手は望まなくても自分は行うべきであると自分が考えたならば
相手に非難されることは承知の上で、行うべきだと思います。

すっごく難しくて、私もできておりませんが。

usausa 2009/07/22 00:17 GIGAZINE→「質問する」のは後天的技能 からまいりました。
文章がやさしいなぁ、と思いました。

とても興味深く読ませていただき、苦笑しておりました。
というのも、私自身、もう10年ほど前院生時代を過ごし、まさにこの「君」のような状態だったからです。

就職してから、ここで言われる「背骨」ができましたが、今また、この背骨の再構築にあたり、
しばらく苦しんでおり、苦笑いしていた次第です。


間違いが怖い・・・これから抜け出したのは、社会人になってから、責任を担うことで構築されていったと思います。


おそらく、

失敗してもいい、という受容を周囲に感じられた(新人だから) 
+ 
何より、自分がやらねば仕事が進まん!(新人なのに、量・スピード・責任。忙しかったんです)

というコンビのたまものでした。


 もちろん、研究というものが、「自分でやる」ものだと理解もしていましたが、
「なんとかなる」くらいの甘い気持ちもあったものと思われます。
(仕事と研究では、やっていることは全然違うのですが、気持ちとして)


自分の意見が常に求められる場所から、全く求められない場所に至って、
初めて、その重要さ、求められない現実に対して、
自分の意見がまとまってくる、という体験でした。
そして転職しましたが…。


「君」は甘かったのかな、と思いました。
学生という身分をフルに活用できなかったことが、後になってわかるんだろうな、と。
そうだったらいいな、と思いました。
わかってからが、始まりだと気づけたら、回り道も捨てたもんじゃないですよね、たぶん。

next49next49 2009/07/22 09:50 >usaさん

私のエントリーがusaさんの振り返りにお役にたてたようでうれしく思います。
教育というのは不思議なもので教えられた直後に腑に落ちるのではなく、数ヶ月後、
あるいは数年後、場合によっては数十年後に急に「あのときの〜はこういうことだったんだ」
となることがあります。

ですから、usaさんのおっしゃるとおり、
「わかってからが、始まりだと気づけたら、回り道も捨てたもんじゃない」
と私も思います。何事も早くできれば良いというわけではないと思っていますので。


私が彼と過ごした時間が数年後あるいは数十年後に少しでも彼の役に立てればうれしいと
思います。少なくとも私は彼と過ごした時間からいろいろなものを学びましたので。

NagoNago 2009/10/12 04:52 学生のことを良く考えている方だと思いました。

ただ学生の気持ちもわかります。間違うのが怖いんです。
間違って、それを話のネタにされるのは恥ずかしいだけなんですが、
ディスカッションをしてくれる教官と学生から相手にされなくなることが一番怖いんです。
「できない奴」は孤立してしまいます。省かれます。

私の場合は指導教官から相手にされなくなってしまいました。

next49next49 2009/10/12 13:41 >Nagoさん

私も学生でしたし、どんな状況でも常に他人の評価を気にしないと
いうことはできませんから、間違うのが怖いのはとてもわかります。

こけももこけもも 2009/10/17 00:10 今の自分の向きあってるテーマと同じところの答えが書いてあり、
非常に興味深く読ませていただきました。

研究の世界も大学の世界も知りませんが、
価値基準を自分中心におくということは
やっぱり自分の幸せにつながるな〜と感じています。

自分が感じることがこの世の全てなんだもん。
外に価値を求め、自分をごまかしてなんも幸せなことってないです。

わかりながらも心がなかなか納得できないものなんですが。

素敵なブログを読めてよかったです☆

みなさんのコメントも多種多様の価値観があって、おもしろいな〜と感じました。

ほんとうにわかって欲しい言葉を伝えたとしても、
本人が気づかない限り、いくら伝えても伝わらないんですよね。
いつかわかってくれる時は絶対くると思うのです。

最近、悩みにぶつかったとき、
自分にとって耳の痛いことを言われたことの意味を考えたとき、
私のためを思ってゆってくれてたんだなとわかったときがあったのですが、
それと同時に、なぜ大切なことの本質を教えてくれなかったのだろう?
と思うことがあったのです。
でも、多分どこかで伝えてくれてた人がいてたのに、
そのときの自分ではわからなかったのです。

今になって、あのときゆってはったことの意味ってこーいうことかって
自分と向きあって初めてわかったというか。

絶対、生徒さんに伝えたこと、伝わる日がくると思いますよ。

next49next49 2009/10/19 10:55 >こけももさん

お褒めいただき、また、励ましの言葉をいただきありがとうございます。

> 価値基準を自分中心におくということは
> やっぱり自分の幸せにつながるな〜と感じています。

幸せにつながるかどうかは、ちょっとわかりませんが、
少なくとも後悔や自己卑下はしないで良いので、最終的には気分が
良いのではないかと私は思っています。

> でも、多分どこかで伝えてくれてた人がいてたのに、
> そのときの自分ではわからなかったのです。

そうなんですよね、相手の伝えてくれることを理解するためには
それなりの基盤が自分にないと理解できないんですよね。
なので、伝える側としては相手に届くかどうかは二の次にして
今の自分ができる最大限のわかりやすさで自分の伝えたいことを伝える
しかないんですよね。

johnny_shamanjohnny_shaman 2009/11/09 08:26  私は、価値基準を、比較的自分の外側においていなくて、
それで悩んだりすることもあるんですが…

 この記事のおかげで元気が出ました♪

 今後とも、よろしくお願いします。

next49next49 2009/11/09 11:40 >johnny_shamanさん

私のエントリーが何らかのお役にたてたならばうれしいです。

> 私は、価値基準を、比較的自分の外側においていなくて、
> それで悩んだりすることもあるんですが…

「主張を外側に出すこと」と「その主張が他人に受け入れられること」は
別々の話です。たぶん、johnny_shamanさんは「主張を外側に出すこと」は
問題なくでき、その後の「その主張が他人に受け入れられること」でお悩み
なんだと思います。

自分の主張を他人に受け入れてもらうためには、まず自分の主張を
理解してもらわないといけません。理解してもらうためには何らかの説明が必要です。
その説明の仕方は表現の分野ごとに違うでしょうが、その分野における技術や
文法を駆使して、相手に自分の主張を理解してもらう必要があります。

自分の主張を理解してもらったあと、その主張に賛同、もしくは、納得してもらえるか
は受け取り手の自由なので、主張者側からするとどうにもできませんが、
理解してもらうまでは、こちら側からいろいろと働きかけができます。

ぜひ、分野ごとの説明技術や文法を身につけて、相手に自分の主張を
理解してもらえるようになってください。

hamujijihamujiji 2009/12/07 11:23 初めまして

 教える立場の方の「思いと葛藤」が感じられて、好感もてる内容だと思います。

 価値の判断基準を自分の中に置くって難しいですよね。現在40代半ばになりますが、自分の考えに自信を持てないときなどは、根拠もなく外部の意見に頼ってしまうことはまだあります。そういった自分を省みる良い機会になりました。ありがとうございます。

next49next49 2009/12/07 15:51 >hamujijiさん

お褒めいただきありがとうございます。

> そういった自分を省みる良い機会になりました。

そういっていただけるとこのエントリーを書いたかいがあります。
こちらこそお礼を申し上げたいです。ありがとうございます。

maisonmaison 2010/01/29 01:54 とても良い内容ですね.

私も研究者なのですが学部生の頃は,やはり間違うことが怖く優等生であろうとするために背骨ができていなかったと思います.

修士になり,研究室を変わり,発言する場がとても増え,そして指導していただく教授にも恵まれ,背骨を作ることができたと思います.

教授は,分からないことは,はっきり分からないという方だったので自分で理論や定義を作るようになり,表現していくようになりました.もちろん反論されるのですが,それも一つの見解と考え,自分の中でどれくらい重要なことなのか考慮し,選択するようになりました.

しかし,わたしは,思うのですが,学部生では発表する場がなく,経験も少ないがために自分なりの基準を作るための期間は短いような気がします.

人によって背骨をもとから持っているような恵まれた人もいますが,私の経験的に学部生で持つのは少ないような気がします.

next49next49 2010/01/29 13:20 maison さん

お褒めいただきありがとうございます。

おっしゃるとおり、他人とのやりとりの中で自分の中の価値観というのは
明確になっていくものですから、他人とつっこんだやりとりをする経験が
少ない人は、自分の中の価値観を明確にできていないかもしれません。

paaachpaaach 2010/01/31 04:56 1年前のエントリーに今更ですが。

以前に、自分が職場で指摘されたことと全く同じことを「君」に伝えようとしていて、読みながら耳も胸も痛くなりました。

さて、今の自分は間違えを恐れずに下すことができる自分の価値判断を持つことができているか、外部の評価を気にしすぎていないだろうか?と自問してみました。残念なことに、多くの同僚や上司がその指摘をしてくれたにもかかわらず、いまだに自分は外に価値判断を求めている、間違いを恐れていると反省せざるを得ません。

利害関係の少ない状況において(嫌われても、馬鹿に思われてもかまわない状況)は、自分の価値判断で表現できるのですが、ひとたびこのような自分にとっての利害関係が生じると、外に外に意見を求めたり自己表現したりできなくなります。

どうしたら恐れなくなる、否定されてもへこたれない気持ちを持てるようになるのでしょう。

研究者ではありませんが、表現・自己の意見が求められる専門家として食っていきたいので、これはどうにかしないといけないと振りかえることができました。約10年ぶりに大学に戻り、修士課程を修めている最中ですが、残り期間をフル活用してこんなことも鍛えたいと思いました。感想でした。

next49next49 2010/01/31 20:35 paaachさん

> 1年前のエントリーに今更ですが。
コメントをいただけるのは常に嬉しいです。ありがとうございます。

> 利害関係の少ない状況において(嫌われても、馬鹿に思われてもかまわない状況)は、
> 自分の価値判断で表現できるのですが、ひとたびこのような自分にとっての利害関係が
> 生じると、外に外に意見を求めたり自己表現したりできなくなります。
>
> どうしたら恐れなくなる、否定されてもへこたれない気持ちを持てるようになるのでしょう。

このようなエントリーを書いておいてなんですが、私は、利害関係が生じるときでも常に
自分の判断基準のみに従って行動するのは無理だと思っています。利害関係の深刻さや、
その時の体調や精神状態によっては自分に自信がもてず外に助けや助言を求めるのは、
多くの人にとって当たり前のことだと思っています。

ただ、他者が自分の主張や表現をどうとらえるのかばかりを気にしていては、
自分の主張や表現を他者に問えないというのがこのエントリーの問題意識です。

私は「恐れなくなる、否定されてもへこたれない気持ちを持てるようになる」ときが
来るのを信じていません。私は私がそんな鋼のような人間になれると思っていません。

ビクビクおびえながら、発言する前に心の中で何度もためいきをつきながら、
自分の判断基準に基づき言わなきゃならないことを言ってみるというのを
続けるしかないと思っています。

大学や大学院というのは「自分はどれぐらいおびえるのか、どれぐらい傷つくのか、
どれぐらいで克服できるのか」というのを試行錯誤しつつ学ぶのに良い場だと思って
います。

seisei 2010/04/15 02:49 今更ですが、コメントさせていただきます。
このエントリを見て、ひどく衝撃を受けました。
まさに自分がこの状態です。
しかも、今、自分は学部4年です。
今まで自分は何をしてきたのだろうとひどく後悔しています。
今、そういったことで大学の保健センターに通っているのですが、イマイチ結果が芳しくありません。
やはり、もっと自分から行動しなければならないのでしょうか

next49next49 2010/04/16 03:10 seiさん

「気づく」ということと「出来る」ということは違う
のですが、気づかなければ絶対に出来るようになりませんから
seiさんは、出来るようになるための第一歩を既に踏み出せた
わけです。ぜひ、自分を追い込まないで、周りと比べたりしないで
ゆっくりと成りたい自分に向かって進んでください。

> 今、そういったことで大学の保健センターに通っているのですが、
> イマイチ結果が芳しくありません。
> やはり、もっと自分から行動しなければならないのでしょうか

体調が悪いのでしたら、まずは、体調を回復させるのが重要です。
カウンセラーの方の助言に従って、まずは体調を回復させましょう。

長い人生、半年〜2年ぐらいの休息ならばいくらでもどうにでも
できますから、まずは、休みましょう。

ゴールがない努力は単なる自己満足です。行動に移す前に
本当に努力すべき状況なのかどうかを見定めてください。

 努力しなければならないのに方法が分からない
 http://d.hatena.ne.jp/next49/20091113/p1

seisei 2010/04/18 01:09 ありがとうございました。
参考にさせていただきます。

next49next49 2010/05/31 10:48 JINさん = dryjinさん = Dryjinさん=パピプペポさん

コメントはこちらのエントリーにお願いします。
http://d.hatena.ne.jp/next49/20100523/p1

fugufugu 2010/11/11 01:20 初めまして。
tumblrの紹介で、こちらの記事にたどり着きました。

私は、ある宗教団体のサークルに身を置いていたことがあります。
後になって分かったことですが、
そこは、会員の精神的な背骨をことごとくへし折ってしまう場所だったんですね。

当時、私には、自分の背骨というものがありませんでした。
で、人生観から生活の仕方、ものの感じ方、言葉づかいに至るまで、
自分の判断基準はまるごと否定され、その団体流の判断基準をおぼえて過ごした結果
心を病んでしまい、大学を休学することになりました。(現在は復帰しています)

こういった経験があって、精神的な背骨を持つことの大切さは痛感しています。
こう言うと少し大げさすぎるかもしれませんが、
他人の背骨を折る行為は、間接的にその人を死に追いやることにも等しいと
個人的には考えています。

next49様のような認識が、ひとりでも多くの人に広がることを願っています。

next49next49 2010/11/14 20:14 fugaさん

洗脳の第一歩は価値観を崩すことですから。
精神的背骨ができていようがいまいが、洗脳のプロセスにはめられて
しまったら、誰でもやられてしまうと思います。

> 他人の背骨を折る行為は、間接的にその人を死に追いやることにも等しいと
> 個人的には考えています。
価値観を崩すことを目的にするのは良くないと思います。
しかし、価値観を戦わせた結果として、どちらかの価値観が変わるのは
普通のプロセスだと思います。

abcabc 2011/02/07 07:01 興味深い文章をありがとうございました。
コメント欄と合わせて、とても楽しませて頂いております。

さて、管理人様に突拍子もない質問です。

下記URLのサイトには「背骨」はありますか?
http://swinglike.ojaru.jp/

なんとなく思いついた気まぐれなのですが、お時間許されればお付き合いくださいませ。

next49next49 2011/02/07 11:27 abcさん

abcさんのご質問は、正解を他人に求めないと発言できない典型的な振る舞いだと思います。
私を権威代わりに使うのはおやめください。

kota2009kota2009 2011/02/08 07:44 日本の子供たちは、大学3年生までは(いわゆる勉強で)皆と同じことを言うと褒めてもらえる環境で育つため、大学4年生で研究室に入ると、みなと違ったことを言うことを求められることに戸惑う人も少なくないようです。会社に入ると、皆と違う意見を言うことを一層求められます。自分の中の価値基準がないと苦労するのは確かです。どうすると価値基準を形成させてあげられるか、悩ましいところです。

next49next49 2011/02/10 13:31 kota2009 さん

> 日本の子供たちは、大学3年生までは(いわゆる勉強で)皆と同じことを言うと褒めてもらえる環境で育つため、
> 大学4年生で研究室に入ると、みなと違ったことを言うことを求められることに戸惑う人も少なくないようです。
> 会社に入ると、皆と違う意見を言うことを一層求められます。

私もそう思います。

> 自分の中の価値基準がないと苦労するのは確かです。どうすると価値基準を形成させてあげられるか、悩ましいところです。

本来は、これは大学の役目でなく家庭の役目のはずなのですが、大学でやらないといけなく
なっていますよね。困ったことです。

すももすもも 2011/02/21 01:35 大学院を修了し、現在企業で研究職に就いている者です。
エントリーから2年も経ってますが、とても興味深く読ませていただきました。

入社してから数年が経っており、B4から数えると8年近く研究活動をしてきたわけですが、ここ2年ほど行き詰っているように感じ、さらにこの3ヶ月ほどでいよいよ抜き差しならない状態になってしまって、いろいろ悩んでいるうちにここに辿り着きました。

修論を書き終えたころ、「私は研究に向いていないのではないか」と思いつつも、会社には研究職として採用されることが決まっていたので、不安を抱えつつ入ったのですが、周囲の環境、私の教育を担当してくださった先輩の姿などを見ながら「もう一度、研究をがんばってみよう」という気になり、今までやってきました。
でも、なぜ学生時代に研究をやめたくなったかというところにきちんと向き合わないまま来てしまい、今になって仕事がうまく回せなくなり苦しい思いをしています。

具体的に何がうまくいっていないのか、考えがまとまりきっているとはいえないのですが、周りの人たちを見ていると、課題の抽出の仕方も、スケジュールの立て方も、私ばかりが見当違いで、どうしてこんな私が社会人を5年もやってこれたのか、それ以前にどうして理系で大学院までやってこれたのかすら疑わしく、自信喪失状態です。。。

next49さんが「君」に向けておっしゃっているような、自分なりの「背骨」を作っていなかった、ということも心当たりがあります。問題解決力もたぶん身につけてこれなかったんだと思います。学生時代は指導教官との関係も研究の面においては希薄で、修論は提出したものの、正直「提出しただけ」のようなもので、あれは研究と言えるものだったのかどうか、先生には申し訳なかったと思っています。
会社に入ってからも、社内の組織改変、自分自身の異動もあり、一つのテーマをきちんと一人の上司や先輩の指導を受けながら全うしたという経験を持てないまま今に至ってしまいました。ただ、そういう事情があったとしても、誰もちゃんと私の指導をしなかったわけではなく、きっと私がきちんと自分の課題として受け止めてこれなかったんだと思います。

next49さんの他のエントリーも拝読させていただきまして、私はなんて研究者として出遅れてしまったんだろう、と焦燥感を持ちました。同時に、研究をやっていく上ではやはり同じような壁にぶつかる人(学生さん)がいて、それをわかってくれる人がいるんだ、と思い涙が出ました。

なんだかんだ言いましたが、私は今の研究が好きです。そんなに大したものではないですが、世の中に出したいと思っているものもあります。だからただ自信を失って悲観するだけではなく、何とか現状を変えたくて、もがきながらも起き上がらなくては、と思っているところです。

こんな私が偉そうに言えることではないのですが、研究のプロセスとか能力ってそのままどんな仕事にも通じるところがあると思います。会社に入ってしまうと、新人のころはともかく、ある程度の年数が経つと「そんなことできてるはず」という目で見られてしまうので、仕事を達成できなかった場合に「あなたならできるはずだ!」と厳しく鍛えてもらえればまだ幸いですが、「あなたには無理な仕事だったんだね」と切り捨てられないとも限りません(今、若干その状態に近い気がします…)。学生のうちにこういうことに気づいて、研究に、自分に向き合って、殻を破れればよかったな、と今更ながら思います。

以上、長文で恐縮ですが、どこかに今の考えをアウトプットして確認しておきたくて、人様のブログで大変失礼ですが書かせていただきました。

next49next49 2011/02/23 22:46 すももさん

気持ちや考えの整理にこの場が役に立てたのでしたら嬉しいです。

rinzorinzo 2012/04/17 01:16 初めまして。
私は今年からM1になったものです。その前は6年ほど就職しておりました。

色々考え進学を決意し、今に至ったわけですが早くも考えていた状況とギャップがあり、戸惑っております。

その要因はこのエントリーに書かれていることで、如何に今まで自分で考え行動していなかったのか、痛感しております。

まだ新人なので慣れていない部分があるとは思いますが、少しでも「背骨」を入れ、表現できるようにしたいと思っております。

何が言いたいのか分からない文章で恐縮ですが、これも拙い表現と思っていただければ、と思います。

next49next49 2012/04/19 18:53 rinzoさん

大学・大学院は失敗してなんぼの場所です。そこが会社との大きな違いです。
表現しつづけていれば、背骨は勝手にできあがるとおもうのでたくさん表現して
たくさん文句言われて、たくさん褒められてください。

ちまこちまこ 2012/06/05 15:47 今日はじめてnext49さんのブログを読みました、ちまこといいます。

この記事がすごくいまの自分が欲しかった言葉だったなあと思いました。
研究室も人間関係も恋愛もなんだかうまくいかなくて落ちこんでたけど、
まだまだわたしにはやることというか、やれることがあるのだとわかりました。

ありがとうございます。
また、おじゃまさせていただくと思います。

next49next49 2012/06/05 17:08 ちまこさん

このエントリーがなにがしかのお役にたてたのでしたら幸いです。

nn 2012/08/18 00:18 研究者のタマゴです。
またこのエントリに戻ってきました。
自分の中のもやもやが整理されました。

世の中、理不尽なダブルスタンダードに直面した時、
「背骨」があれば乗り切れます。

next49next49 2012/08/19 00:39 nさん

このエントリーがお役に立てたのならば幸いです。

scarletscarlet 2012/10/01 11:51 初めまして。現在学部4年生のものです。今日初めてnext49さんのエントリーを読み思うことがあったのでコメントさせていただきました。

私は自分で言うのも何ですが今、まさに「君」と同じ状態になっています。失敗するのが怖くて自分の行動に自信が持てず周りの人にばかり意見を求めてします・・・・自分で考えることを放棄してしまっている状態です。自分で考えても失敗したらどうしよう、相手求める行動と違ったらどうしようと不安ばかりに駆られて結局安易な道にはしってしまいます。

最近では研究に対し自信が持てなくなり、いえこれが原因ではないですね、自分に自信が持てなくなり指導教官の先生に臆病になってしまい精神病を患い1ヶ月ほど静養していました。情けない話です・・。

研究室配属前は大学院を志望していて就職活動はあまりしていなかったのですが、今になって自分の自信のなさに気づき、このまま大学院に進学しても同じようなことを繰り返すのではないかと不安ばかりが募ります・・・。

上記の大学院のことで考えているときこのエントリーと出会いました。この「君」はとても他人ごとには思えなくnext49さんの言葉が私自身にとても響きました。「背骨」を見つけて私もがんばって行きたいです!

長文失礼しました。

next49next49 2012/10/02 01:01 scarletさん

卒業研究から後ろとそれまでの学部3年生までは求められるものがいきなり変わるので
どうしても、面食らいますよね。このエントリーが少しでもお役にたつならばうれしいです。

NONMEM UserNONMEM User 2012/11/28 22:21 大学院を卒業して企業の研究職として働きもう10年以上になりますが、自分が経験からなんとなく感じていたことがこのエントリーで非常に精密に言語化されているように思え、大変に賛同を覚えました。
さすが大学の先生だけあって、思索を突き詰めていると思います、感嘆いたします。

現在の科学技術の発展と日本の教育体制では、明確な答えがあるような題材についてひたすら答えを出すことだけがトレーニングになってしまいます。そこに初めて、世界で誰も知らない、やったことがないようなことをテーマにして研究を進めるということは、それが疑似体験としか呼べぬものであっても、大事なことであると思います。本来の知の力は、そういう問題に自分なりの答えを出していくことを最大の強さとしていると思うからです。

企業というところもいろいろな環境がありますが、上司の好むような見解を作ることが「正解」として求められているような風潮もあります。同質性が強い階級構造を強く持った組織で起こる、人間的な問題です。

が、研究職である以上は扱っている研究対象はそういう人間社会の都合に支配されない存在ですから、個人としてちゃんと発言しなければいけない状況が多くなります。そういう背骨というか、自信を時間をかけて作っていけというエールであり、そのきっかけとなれなかったことの悔恨を、このエントリーからは強く感じます。

今後も様々な内容について、書いていっていただければと思い、応援しております。

next49next49 2012/11/28 23:47 NONMEM User さん

ありがとうございます。今後もどうぞよろしくお願いいたします。

kyusakukyusaku 2012/12/04 23:22 大学院修士2年で学んでいるものです。

私も多くのコメントしている方と同様、「君」に自分が容易に重なりましたし、非常にクリティカルな内容でした。

私の夢は、小さい頃から、研究者になる事で、当然のように理系大学院に進学しました。しかし、修士の就職活動を経て、それは実現されず、研究以外の職に就くことになりました(技術職ではありますが)
研究では、どのような課題設定で研究テーマを考えだし、また自分の行った研究にどのような意義、ストーリーを付けるかといったところで「背骨」が必要になってくると思いますが、この記事を読んで、研究職に縁がなかった結果が私自身の判断基準を持たない、あるいは弱い事が企業に見抜かれていたからではないかな、と今になって思います。

ですが本質を見抜かれて不採用となったならば、不採用であった結果も納得がいくというものです。逆に、内定を頂いた職場にはある程度の適合性や御縁があったということでそれを大切にしたいという気持ちが強くなりました。

もちろん、今の私は研究室の修士2年、研究者の立場でありますので、修士論文を仕上げるまでの残り少ない期間、少しでも自分なりの「背骨」を持って研究を纏める事が出来るように考えを改めたいと思います。

乱文となってしまいましたが、上記を乱暴に要約して「非常に興味深く読ませていただき、感じいる所が多々ありました。ありがとうございました」という感じでまとめさせていただきます。

next49next49 2012/12/05 01:34 kyusakuさん

このエントリーがお役に立てたのでしたらうれしいです。

研究者になる道は一本ではないですし、研究で求められる能力が活きるのも職業研究者という
職だけではないと思います。ご自身を卑下せず「今は」タイミングが合わなかったという
だけと考えて、前向きに進んでいきましょう。

せっかくの機会ですから修士研究を思いっきりやって、自分の能力をUPさせてください。

hulhulhulhul 2013/02/25 18:29 これですこれです。私には全く背骨がありません。
事あるごとに「自分のあらゆる知覚、判断は誤りなのではないか」という疑念が頭をもたげ、
己と他者だけでなく、あらゆる言葉や思想が信用できないでいます。

獲得を渇望している反面、己に判断基準を持っている(と思われる)人同士の不毛な争い……。
排斥、一方的な主観の押し付け、批判という名の罵倒とレッテル貼りなどにうんざりしていて、
自分も背骨を獲得することで、彼らと同化してしまうのではないか、という嫌悪感や恐怖もあります。

このように考えること自体、判断基準が無い事の現れなのでしょうね……。

明確な答えはまだ見えませんが、「背骨」というワードにより次のステップが見えた気がします。
ありがとうございました。

next49next49 2013/02/26 00:02 hulhulさん

私がこのエントリーで書いた「精神的背骨」は、行動する際の最初の一歩を
後押しする程度のもので、全世界を敵に回しても屈しないというすごい
ものを想定してはいませんでした。

自分の価値観があるからこそ、譲れないときがあることは否めませんが
「排斥、一方的な主観の押し付け、批判という名の罵倒とレッテル貼り」
と自分の価値観を持つ持たないは別々の話だと思います。

私の考える精神的背骨は、他者と独立に存在するものではなく、
自分の身の回りの人の価値観を自分の経験や考えの下で咀嚼し、
ちょっとずつ作っていくものだと思っています。

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