第36号(2011/6/1)●4-5面 HOMEへ |
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●産業組合法A 明治政府は、19世紀中頃に後発資本主義国としてのドイツ(当時は領邦国家の分立状態。しかし、1871年プロイセンを盟主にドイツ帝国として国家統合)が直面していた社会状況と日本の現状が似ており、その中で躍進していた信用協同組合の導入を図った。コモンズ23・24号「ドイツ協同組合運動の歴史」参照。 1876(明治9)年にドイツ留学から帰国した品川弥二郎や平田東助によって、シュルツェ系信用組合の適用が試行された。内務大臣となった品川は、1891(明治24)年、信用組合法案を議会上程する際に、「中産以下の人民の経済を改良」することが「我国経済の独立を維持」することになり、その任務を信用組合に課すと説明した。この法案(議決権の平等以外に協同組合の特質規定を持たなかったが)は、議会の解散によって成立しなかった。 彼らがシュルツェ系を選択したのは、彼らの滞欧時に急激に発展していたからであり、また、英仏の協同組合運動の自主的で社会主義的な政治性を嫌ったことによる。彼らはドイツの協同組合を範にとって、日本の農村への適用を図ろうとした。その過程で、在来の報徳社の持つ公益思想と小農思想(勤労や分をわきまえた道徳性を謳うが、一方で支配を受け入れる隷従性を伴う)を基礎においた共同事業を活用しようとし、市場経済に対応できる近代的協同組合への改組を期待した。しかし、報徳社側は、立社の精神を変えず独自の道を歩み続けた。 一方、ドイツに3年間留学し協同組合を研究して帰国した農商務省官僚の渡辺朔(はじめ)らは、信用組合法案に対し、この法案は都市商工業者に適するシュルツェ式に偏し、小農の金融には適当でない。我国の固有の習慣に基づきライファイゼン式の信用組合をつくるべきであり、かつ信用組合ばかりでなく生産および経済組合もあわせて認めるべきであるとした。また、その主務省を内務省よりも農商務省にするべきだと主張した。地縁的結合を重視したライファイゼン系の保守性を尊重した。 ●日本資本主義の発展 日本資本主義発展の特徴は、一方で軽工業における飛躍的発展と重化学工業化が進むという中で、資本制生産様式が拡大していき、近代的な労働者階級が成長してきたが、他方で就業人口の過半を占める農業において萌芽的な資本主義的経営を発展できずに、寄生地主制の下に小作農などを包摂する生産関係が主流となった。この矛盾の解決の一つが国家主導による統制的な協同組合運動であった。 ところで、明治政府は日清戦争(1994〜95年)に勝利した直後の三国干渉(フランス・ドイツ・ロシア)の衝撃を契機に、来るべき対露戦にそなえて、軍備拡張を至上命題とした。富国強兵と共に、軍拡を可能にする殖産興業・産業育成が重要な柱となった。官営八幡製鉄所の設立、鉄道・電話の拡張、勧銀・農工銀行法、航海奨励法、造船奨励法、耕地整理法、農会法、産業組合法などの一連の産業育成策や農業政策が打ち出された。 この一連の農業政策であるが、第1に、1899(明治32)年に公布された農会法は全国の農事改良などの組織としてあった系統農会(各市町村―郡―府県)を政府統制下に置いた。前田正名(まさな)らは自らが組織した農会の全国組織である全国農事会を中心に自主団体たろうとしたが退けられた。その後1910(明治43)年に法改正し、全国農事会を改組して帝国農会と改名、系統農会の中央組織とした。こうして「サーベル農政」に象徴される政府―地主―農民に至る統制農政が確立した。 第2に、同じく1899(明治32)年に耕地整理法が制定された。政府の農業政策の基本は食糧増産であり、地主には小作料の増加である。そのために不可欠なのが農業技術の向上であり、その要が耕地整理であり、農地の区画形状を直し、農道、農業水路を整備した。この事業のため、土地所有者を組合員とし、国から補助を受けた耕地整理組合が組織された。 第3が、渡辺朔らによる、ドイツの「産業及び経済組合法」を雛形とした産業組合法である。1897(明治30)年に帝国議会に提出されたが、時期尚早として審議未了となった。政府は修正して再び1900(明治33)年に提出し、ついに成立した。政策的なてこ入れによって、当初の21組合が、1910(明治43)年には7308組合、組合員数5万人。1920(大正9)年には1万3442組合、組合員数229万人。1930(昭和5)年には1万4082組合、組合員数474万人と飛躍的に拡大した。 |
東日本大震災と日米共同作戦 3月11日の東日本大震災後、自衛隊の東北地方に対する災害派遣は陸、海、空、合わせて10万人を超えた。 陸自は5個師団、4個旅団、3個施設団(工兵隊)、及び中央即応集団だ。首都圏及び大阪圏を除くほぼ全国動員。さらに即応予備自を中心に1万人が初めて大規模に召集される。 ちなみに阪神大震災のときは最大1万9千人だった。 これに米軍が海軍艦艇19隻を中心に1万8千人が「トモダチ」作戦というちょっと前にはやった漫画を髣髴させるような不気味なネーミングで参加している。つまり人員面だけを取れば自衛隊は約5倍、米軍は阪神大震災の自衛隊並みの動員だ。 最大の問題は災害派遣をするなということではなく、これまでの日米安保新定義や新ガイドラインに沿って解釈すればこの災害派遣作戦を誰が指揮しているのかという疑念をぬぐえないということだ。 自衛隊が展開するのを見て米軍が自発的に駆けつけたというのではなく、すべてはオートマティックに行われた。 震災発生直後、ガイドラインで言うところの日米共同調整所が防衛省のある市ヶ谷、在日米軍司令部のある横田、現地の仙台に設けられた。 米軍は震災を日本有事ととらえ前線司令部である「統合支援部隊」を横田に立ち上げた。米軍において戦時に編成される「統合任務部隊」とまったく同じものが名前だけを変えて作られたのである。指揮官は米太平洋艦隊司令官であり階級は大将である。自衛隊で大将に相当するのは陸将甲つまり各幕僚長、統幕議長クラスである。 市ヶ谷、仙台は日米ほぼ同数の将校によって立ち上げられ、横田には幕僚監部防衛部長(作戦立案部門のトップ)以下10名が派遣されている。 調整という言葉の本来の意味は、多国籍軍の間の調整という意味であり、陸上で言えばどの部隊がどの道路を使うとか、どの部隊がどの空域、海域を使うのかなど。 指揮官は誰なのか |
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