第36号(2011/6/1)●4-5面
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お寺が、住職が金で動く
「人々に寄り添って生きる」僧侶ら、
従業員全員が労働組合に加入、
宿坊の自主経営で闘う!

(労働プロジェクト取材) 




寺院財産を私物化する腐敗と
自助能力を持たない本山へ抗議


 4月17日、高野山真言宗、総本山金剛峯寺の聖地(和歌山県伊都郡高野町)奥の院から本山前までの約2キロを管理職ユニオン・関西の労働組合員と現地の高野山分会員ら70名でデモが行われた。沿道の観光客、商店の人々、僧侶にビラ配布しながら「名ばかり住職はやめろ」「2億円の使い道を明らかにせよ」「本山は名ばかり住職を辞めさせろ」「6年間も放置した本山の責任は重いぞ」「金剛峯寺は清浄心院問題の解決をはかれ」のシュプレヒコールがこだました。
 「金」でお寺と住職権を売る宗教界の腐敗現象、その氷山の一角が時たま週刊誌などで暴露されることがある。宗教界の密室性、宗教法人法下での住職の世襲化、寺の私有化など宗派に関わりなく腐敗現象は進行しているが、なかなか公にされず社会問題となっていない。
この闘いは、金と欲に生きる腐敗した僧侶(住職)、それを補完する自浄能力を失った本山機能・本山内局(執行部)と、腐敗を許さず思想に基づく「人々に寄り添って生きる」ことを説く僧侶との対決が、「住職」選出の正当性と「雇用と生活確保」を前面に出した協同組合的管理・経営をめざした闘いとなっている。

発端と経緯

 2003年、清浄心院の前住職が46才で急逝、後任住職が本山に登録されていなかった。寺院では、その寺の徒弟(弟子)が継承することになっている。ところが次期住職の晋山式(しんざんしき、住職のお披露目式)までの1年間を、長老の僧侶の一声で法類寺院のお寺から兼務住職が決められ、本山である金剛峯寺が間違った申請を受け入れ登録。1年後に徒弟に住職が移っていれば何の問題にもならなかったのだが。
 前住職死去後、住職業務は徒弟である僧侶が行っており、宿坊経営は前住職の母親が行っていた。1年が経過しても名ばかりの兼務住職は「まだ早い」「そのうち」と譲らず、数年後、立ち退き裁判や銀行口座の凍結を行い始める。裁判官による和解折衝の過程で、関係者周辺で2億〜数億との金が住職を譲る条件として流れる。併せて、役僧(住込みで寺院業務と宿坊業務を行っている僧侶)を含む従業員に「60日以内に退去せよ」と事実上の解雇通告まで行った。
 宿坊経営をしていた前住職の母親の入院を機に、名ばかり住職の横暴が本格化。兼務住職は、国宝のある立派なお寺の住職だが、口約束の1年で住職を譲らず、金欲がでてきた。
自らが住職である金剛三昧院(こんごうさんまんいん)という寺院業務と宿坊経営があり、兼務住職の清浄心院のことについては何もしていない。清浄心院財産2億円を、裁判を行って自らの手元に独り占めした。金剛三昧院に流用、あるいは個人的に使ったりすれば、横領や背任の犯罪となるが、その使途と保管は明かさない。今の裁判制度では、唯一、本山が申請を受け付けたことで、法的には資産を引き出す権利は名ばかり「住職」に認められる。
 争いはすでに6年、組合への組織化が始まり本格的な闘いから3年、今では役僧・従業員全員10名が組合加入し、組合と協力して宿坊経営している。この闘いを応援する本山勤務の僧侶もいる。

闘いの攻防

 清浄心院で働く役僧と従業員には、社会的に見て平均的な給与が決められ、社会保険・雇用保険にも加入している。高野山内の寺院では、役僧を修行と称して超低額で長時間こき使っていることが多い。労働基準法もあったものではない。慈悲を説く宗教に、生活の糧となる雇用の不安を覚える方々に寄り添い、お寺の住職をお金で売買することに異議を唱え、閉鎖社会と噂と村八分のなかで組合活動をする僧侶を組合は応援している。これは、大義を貫き、腐敗と闘う現代の宗教改革ではないか。
 三年後には、弘法大師が修禅の道場として高野山を開いてから千二百年になる。天下の総菩提所である高野山で、それを支える役僧を始め労働者に過度な負担がまかり通っている。
 今、本来なら住職になるべき徒弟に、寺院からの立ち退きと立ち入り禁止の裁判がかけられ、名ばかりの「住職」がお寺の全財産2億円を独り占めにし、宿坊経営の妨害、社会保険の未納の事態になっている。
 昨年5月29日の早朝、何の連絡もなく、清浄心院へ名ばかり「住職」と弁護士ら5名が突然きて、従業員を寺務所から追い出し、『令状なきガサ入れ』行為を強行。役僧・従業員かつ組合員の許可なく片っ端から机やロッカーを開けプライバシー侵害行為が行われた。
 昨年8月30日、この行為や2億円問題を議題とする団体交渉が金剛三昧院でもたれた。この場で『令状なきガサ入れ』・プライバシー侵害の事実確認と2億円強の使途・保管を示すよう求めたが、弁護士の「適法な行為」のオーム返しで何一つ明らかにされなかった。11月22日の団体交渉も同様で、同席した弁護士がまったく的外れの対応で、かえって交渉を妨害し続けた。その後、労働組合の団体交渉要求に対しては、特に「独り占めした2億円の使途、保管場所を明らかにせよ」は、協議議題にあらずとして拒否をし続けている。
現在、本来住職になるべき徒弟(本山勤務で金剛峯寺分会の組合員)が、清浄心院の寺の宗教業務を、宿坊経営は従来通り従業員が行い、労働組合も協力している。雇用確保・生活防衛の闘いが、結果的に従来通りの自主経営となっている。団体交渉拒否に対しては、大阪府労働委員会に不当労働行為と申立し争っている。高野山での住職の継承問題も絡んだ、労働争議は長期戦になりそうである。

4・28名古屋地裁判決
パナソニックエコシステムズの
派遣切りに損害賠償命じる


 愛知連帯ユニオン2名を原告としてパナソニックエコシステムズ社の派遣切りを争う裁判の判決が4月28日に名古屋地裁であり、地域の仲間20名が集まった。判決は「替りが見つかるや、だまし討ち的に派遣切りを行ったのは著しく信義に反する」、「職種を偽装して安定的な就労を期待させながら、違反が明らかになるや何の落ち度もない原告らを一方的に切ったのは不法行為」等、詳しく事実認定し、原告2名それぞれへの慰謝料100万円と30万円の支払いをパナソニックエコシステムズ社に命じた。EU規制の有害物質を検査していた仲間は、「君が休んだ時に困るから」と言われて正社員に仕事を教えた後、いきなり解雇された。換気扇の実験作業に従事していた仲間は「派遣契約書と実際の業務が違う」と再三申し出たが、職種を偽装して派遣期間に制限無しとされた。
 昨年末、滋賀県労働委員会と三重県労働委員会で、派遣労働者加入労組の派遣先への団体交渉権を認める命令が出たが、派遣先が派遣労働者を不当に切ったら損害賠償が発生するとした今回の判決によって、派遣労働者は損害賠償請求権と団交権というふたつの権利を手にしたと言える。
 一方、判決は、派遣先との黙示の労働契約について内容判断を回避、棄却した。09年12月のパナソニックPDP最高裁判決以来、派遣先の雇用責任については、司法による門前払いが続いている。
 原告の組合員は「事実が明らかになって満足した」、「ここまで言うなら派遣先に雇用責任を認めさせるべきだ」とそれぞれ感想を述べた。
 組合と共闘の仲間は、当日早速、パナソニックエコシステムズの正門に赴き、大音響で「さっさと慰謝料を支払え」と呼びかけたが、会社は即日控訴した。(愛知連帯ユニオン)

「連帯労組・鮮烈左翼」を掲げ
    8位当選で市議に復活!

. まずは各方面の方々からのご支援ご声援に厚く感謝。「世界革命派左翼・真剣議員」の戸田が2月号での予告通り、門真市議に復帰当選した!(2連続トップの知名度からして当選を確信した上で〜これは門真市民の共通認識、今回は議会改革を進める世論結集として「3000票上位当選」を狙ったが、前回から833票減の2126票で8位当選だったのは少し残念!)(定数22。公明党7人が1〜4位と12位までにズラリ!詳しくは戸田HPを)
 選挙戦術の独自性はピカ一で、支持者訪問も票押さえも電話かけもしない一方、★告示前も選挙期間中も「HPでの投票呼びかけ」更新を貫徹し(選管の警告はね除け今回で10年め、日本で唯一!)、★ポスターや広報に連帯労組ロゴと「鮮烈左翼」を明記し、★3種類のメッセージポスターを使い、★反原発を強烈に訴え、★橋下・大阪都構想を徹底批判し、★議会の録音撮影自由化や議員の活動実績評価制度などの議会改革を説き、★三井元検事を招いて検察マスコミ批判の街頭対談をした(橋下批判などは損を承知で)。
 連帯ユニオン議員ネット仲間は概ね順調で、特に石川県志賀町の反原発運動の闘士=堂下氏がトップ当選で復活し、杉並の新城さんも区議復活。ただ、門真・守口(三浦)と並んで「京阪沿線左翼議員同盟」にしようと思った寝屋川の新人・きむら氏(社民・全国連)が届かず、政令市になってしまった相模原市の西村綾子さんも届かなかったのは残念。
なお今選挙では、橋下維新の会が大勝利しただけでなく、維新市長を生んだ吹田市で、従軍慰安婦問題デモ襲撃一味で4/7戸田襲撃現場で戸田に罵を浴びせた「ハゲおやじ」=柿花が市議に超ブッチ切りトップで当選し、宝塚市や西宮市などでも親ザイトク議員が登場・増加した。こうした「自治体へのファシストの進駐」に対して、全ての活動家は猛烈な怒りと危機感を持って民衆に語り、反ファシズム闘争の先頭に立たねばならない。いざ!

■追記

ファシズムの牙を剥いた橋下
君が代起立条例を断じて許さない


 原発事故で「支配の権威」が崩壊する一方の状況に危機を覚えた悪知恵才子=橋下が出してきたのが「君が代起立条例」だ。肩身が狭くなる一方だったウヨ連中と公安は天皇制暴力のお墨付きを得たとばかりに舞い上がり、橋下はツイッターを打ちまくって「橋下への反対者=公益の敵」という「橋下理論」の提供に余念がないが、本質は断末魔の悪あがきに過ぎない。「広範な大衆を啓発する機会到来」と闘志を燃やして現場闘争を強化しよう!

■連載(寄稿)

協同組合運動とは何か(30)
アジア・オセアニアの協同組合運動の歴史B

増田 幸伸(近畿生コン関連協同組合連合会専務理事)

産業組合法A

 明治政府は、19世紀中頃に後発資本主義国としてのドイツ(当時は領邦国家の分立状態。しかし、1871年プロイセンを盟主にドイツ帝国として国家統合)が直面していた社会状況と日本の現状が似ており、その中で躍進していた信用協同組合の導入を図った。コモンズ23・24号「ドイツ協同組合運動の歴史」参照。
 1876(明治9)年にドイツ留学から帰国した品川弥二郎や平田東助によって、シュルツェ系信用組合の適用が試行された。内務大臣となった品川は、1891(明治24)年、信用組合法案を議会上程する際に、「中産以下の人民の経済を改良」することが「我国経済の独立を維持」することになり、その任務を信用組合に課すと説明した。この法案(議決権の平等以外に協同組合の特質規定を持たなかったが)は、議会の解散によって成立しなかった。
 彼らがシュルツェ系を選択したのは、彼らの滞欧時に急激に発展していたからであり、また、英仏の協同組合運動の自主的で社会主義的な政治性を嫌ったことによる。彼らはドイツの協同組合を範にとって、日本の農村への適用を図ろうとした。その過程で、在来の報徳社の持つ公益思想と小農思想(勤労や分をわきまえた道徳性を謳うが、一方で支配を受け入れる隷従性を伴う)を基礎においた共同事業を活用しようとし、市場経済に対応できる近代的協同組合への改組を期待した。しかし、報徳社側は、立社の精神を変えず独自の道を歩み続けた。
 一方、ドイツに3年間留学し協同組合を研究して帰国した農商務省官僚の渡辺朔(はじめ)らは、信用組合法案に対し、この法案は都市商工業者に適するシュルツェ式に偏し、小農の金融には適当でない。我国の固有の習慣に基づきライファイゼン式の信用組合をつくるべきであり、かつ信用組合ばかりでなく生産および経済組合もあわせて認めるべきであるとした。また、その主務省を内務省よりも農商務省にするべきだと主張した。地縁的結合を重視したライファイゼン系の保守性を尊重した。

日本資本主義の発展

 日本資本主義発展の特徴は、一方で軽工業における飛躍的発展と重化学工業化が進むという中で、資本制生産様式が拡大していき、近代的な労働者階級が成長してきたが、他方で就業人口の過半を占める農業において萌芽的な資本主義的経営を発展できずに、寄生地主制の下に小作農などを包摂する生産関係が主流となった。この矛盾の解決の一つが国家主導による統制的な協同組合運動であった。
 ところで、明治政府は日清戦争(1994〜95年)に勝利した直後の三国干渉(フランス・ドイツ・ロシア)の衝撃を契機に、来るべき対露戦にそなえて、軍備拡張を至上命題とした。富国強兵と共に、軍拡を可能にする殖産興業・産業育成が重要な柱となった。官営八幡製鉄所の設立、鉄道・電話の拡張、勧銀・農工銀行法、航海奨励法、造船奨励法、耕地整理法、農会法、産業組合法などの一連の産業育成策や農業政策が打ち出された。
 この一連の農業政策であるが、第1に、1899(明治32)年に公布された農会法は全国の農事改良などの組織としてあった系統農会(各市町村―郡―府県)を政府統制下に置いた。前田正名(まさな)らは自らが組織した農会の全国組織である全国農事会を中心に自主団体たろうとしたが退けられた。その後1910(明治43)年に法改正し、全国農事会を改組して帝国農会と改名、系統農会の中央組織とした。こうして「サーベル農政」に象徴される政府―地主―農民に至る統制農政が確立した。
 第2に、同じく1899(明治32)年に耕地整理法が制定された。政府の農業政策の基本は食糧増産であり、地主には小作料の増加である。そのために不可欠なのが農業技術の向上であり、その要が耕地整理であり、農地の区画形状を直し、農道、農業水路を整備した。この事業のため、土地所有者を組合員とし、国から補助を受けた耕地整理組合が組織された。
 第3が、渡辺朔らによる、ドイツの「産業及び経済組合法」を雛形とした産業組合法である。1897(明治30)年に帝国議会に提出されたが、時期尚早として審議未了となった。政府は修正して再び1900(明治33)年に提出し、ついに成立した。政策的なてこ入れによって、当初の21組合が、1910(明治43)年には7308組合、組合員数5万人。1920(大正9)年には1万3442組合、組合員数229万人。1930(昭和5)年には1万4082組合、組合員数474万人と飛躍的に拡大した。



最終回
補論
東日本大震災と日米共同作戦

 
 3月11日の東日本大震災後、自衛隊の東北地方に対する災害派遣は陸、海、空、合わせて10万人を超えた。
 陸自は5個師団、4個旅団、3個施設団(工兵隊)、及び中央即応集団だ。首都圏及び大阪圏を除くほぼ全国動員。さらに即応予備自を中心に1万人が初めて大規模に召集される。
 ちなみに阪神大震災のときは最大1万9千人だった。
 これに米軍が海軍艦艇19隻を中心に1万8千人が「トモダチ」作戦というちょっと前にはやった漫画を髣髴させるような不気味なネーミングで参加している。つまり人員面だけを取れば自衛隊は約5倍、米軍は阪神大震災の自衛隊並みの動員だ。
 最大の問題は災害派遣をするなということではなく、これまでの日米安保新定義や新ガイドラインに沿って解釈すればこの災害派遣作戦を誰が指揮しているのかという疑念をぬぐえないということだ。
 自衛隊が展開するのを見て米軍が自発的に駆けつけたというのではなく、すべてはオートマティックに行われた。
 震災発生直後、ガイドラインで言うところの日米共同調整所が防衛省のある市ヶ谷、在日米軍司令部のある横田、現地の仙台に設けられた。
 米軍は震災を日本有事ととらえ前線司令部である「統合支援部隊」を横田に立ち上げた。米軍において戦時に編成される「統合任務部隊」とまったく同じものが名前だけを変えて作られたのである。指揮官は米太平洋艦隊司令官であり階級は大将である。自衛隊で大将に相当するのは陸将甲つまり各幕僚長、統幕議長クラスである。
 市ヶ谷、仙台は日米ほぼ同数の将校によって立ち上げられ、横田には幕僚監部防衛部長(作戦立案部門のトップ)以下10名が派遣されている。
 調整という言葉の本来の意味は、多国籍軍の間の調整という意味であり、陸上で言えばどの部隊がどの道路を使うとか、どの部隊がどの空域、海域を使うのかなど。

指揮官は誰なのか

 しかしこの日米調整所で行われることは明らかに日米両軍による作戦行動(災害支援の)計画・立案の共同作業である。「まさに日米合同で作戦を立案している感がある」(4/7付朝日新聞、陸自幹部)原発危機において一時米軍がイニシアティブをとったのは故なきことではない。
 震災に対し日米が協力して対処したのではなく、震災を有事と認定し日米連合軍として出兵しているのだ。戦争というに値する12万人に及ぶ日米連合軍が東北地方に実戦的に展開しているさまは日米共同演習の総仕上げというべき状態だ。
 そして冒頭の疑問に戻る。軍隊に二つの頭は要らない、日米共同調整所の指揮官は誰なのか、日米連合の軍事対応が明確化されていないだけではなく自衛隊と米軍の指揮を誰が取っているのかは明らかにされていないのだ。
 震災は日本の歴史に傷跡を残すことになるがここにたち現れたあまりにも露骨な日米連合軍の出現に対して私たちは監視と批判を強めなければならない。


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