女優。東京府東京市大森区馬込(現東京都大田区)生まれ。おとめ座のO型。身長162cm 体重49kg。趣味は乗馬、手芸。特技はスキー。
「日本を代表するお母さん女優」として、不動の地位を築いた。
1942年宝塚歌劇団入団。清澄あきらという芸名で在籍も、第二次世界大戦により一度しか舞台に立つことなく1944年退団。終戦後改めて俳優座養成所で演技の勉強をしなおし1946年、俳優座入団、同年の「文化議員」で初舞台を踏む。1954年、同じ俳優座の準劇団員だった東恵美子、初井言栄らとともに劇団青年座を結成。その後、日活と専属契約を結び多くの映画に出演し、青年座創生期は屋台骨として、劇団を支える。以来、舞台をはじめ映像分野でも幅広く活躍する総合女優として活躍。
1956年、同じ青年座創立メンバーだった俳優・森塚敏と結婚するが、1971年に離婚し、青年座を退座。その後は終世独身を通す。
テレビドラマ初出演は、1953年、NHK「竜舌蘭の誓い」とされる。本名の山岡比佐乃での主演作であった。以後、脇役を中心に、多くのテレビドラマに出演する傍ら、契約が切れる1960年代中盤まで日活の映画にも数多く出演した。1966年には、主演映画「こころの山脈」も公開され、女優としてステップアップして行った。
山岡の女優としてのスタンスを決定付けた作品が、1970年の『ありがとう』であった。母娘役で水前寺清子と共演。1974年の第3部まで「母・山岡、娘・水前寺」のコンビで好評を博し視聴率50%を突破、怪物ドラマと呼ばれた。この作品により森光子や京塚昌子とともに「日本を代表するお母さん女優」として、不動の地位を確立。以後、多くのホームドラマで理想となる母親役を演じ続け、「日本のお母さん」として、絶大な人気を誇った。またその面倒見のよさから、数々の俳優・女優からも「お母さん」として慕われていた。
TBS・東芝日曜劇場には、多くの作品に出演した。杉村春子・山岡・奈良岡朋子の3女優が演じる3姉妹が経営する炉端焼「花舎」を舞台にした「おんなの家」は15作を数え、池内淳子主演で、山岡や長山藍子らが脇を固めた「女と味噌汁」も1965年から80年までの間に、36作が放映された。また、「三男三女婿一匹」、「あんたがたどこさ」、「夫婦は夫婦」など、森繁久彌とのコンビによる作品も多く製作された。
どちらかといえば準主役級の名脇役としての印象が強い山岡だが、「ありがとう」以降はテレビドラマの主演作も多い。1972年「みんなで7人」、1974年「家族あわせ」、1976年「いごこち満点」、1977年「晴れのち晴れ」、1978年「夫婦」、1981年「ちょっといい姉妹」などの連続ドラマではいずれも主演、前述の東芝日曜劇場でも主演作は数多かった。また、1983年「かあちゃんの黄色いトラック」、1986年「母の叫び」、1987年「嫁いびり姑三人旅」、1989年「別宅にて急逝」、1990年「お姑さんの登校拒否」など、80年代から90年代初頭は2時間ドラマでの主演作も存在する。特に橋田寿賀子が脚本を手がけたドラマや、石井ふく子がプロデュースしたドラマへの出演が多かったので、山岡は「橋田ファミリー(石井ファミリー)の看板女優」とみなされることが多かった。
また、「ミス・マープル」シリーズの吹き替えも好評で、山岡が新劇出身であることを改めて印象付けた。
1998年10月1日、晩年の代表作とも言える1990年から続いてきたドラマ「渡る世間は鬼ばかり」の主役・岡倉節子役を総胆管結石および肝機能障害を理由に降板。番組の顔とも言える山岡の突然の降板劇は、世間で数々の憶測を呼んだ。後になって、胆管ガンに伏していたことがわかったが、降板時は癌の公表はされていなかったため、脚本の橋田寿賀子との確執説が噂されるなど、ワイドショーや週刊誌を賑わした。表向きには、ガンによりパート4を降板したとされるが、元々パート3出演中の時点でパート4に出演の意思はなかった。石井ふく子の脱税騒動の際、自分の名前が勝手に使われていたことへの不満に加え、体調を崩したこともあり、今後は自分の好きな仕事だけをしていくと決めたためだったとされる(またこれと時を同じくして、東京にあった住まいを引き払い、愛知県豊田市に知人が開設する予定を立てていた老人ホームに「終の棲家」として入所することを決めており、すでにその引越しの準備をパート3が放送された時期には始めていたという)。
この降板劇はマスコミは総じて橋田/石井側に同情的で、山岡側に批判的だったが、同年12月15日に所属事務所を通じて
山岡が「70年突っ走ってきてそろそろゆっくり歩いて行こうかと思っていた矢先に『癌』という最悪のシナリオをいただいてしまいました。ただ、幸いなことに、このシナリオには結末が書いてありません。私が自由に演じていいことになっているんですね。力が入りますよ。もう少し時間がかかると思いますが、しばらくこの女優の底力を見守って下さい」というコメントを発表すると、一転して山岡の回復/復帰を祈る報道へ転じ、やがて橋田寿賀子バッシングへ発展していった。
1999年2月15日、胆管ガンによる心不全の為、親族や石井ふく子、長山藍子、池内淳子らに見取られ神奈川県川崎市の病院で逝去。享年74(72歳没)。同年7月8月に芸術座で予定されていた、念願の単独座長公演「月の光」の舞台を踏まぬままの、無念の死だった。山岡の代役は、親友の池内淳子が務めた(池内は「月の光」による演技により菊田一夫演劇大賞等を授賞)。
なお、山岡の死去は、各局のニュース速報でも流れ、連日のワイドショー等でも大きく報道された。一部スポーツ紙では、一面記事扱いにもなった。通夜・葬儀には「日本のお母さん」として慕われた山岡らしく、「これだけ大物俳優・女優が揃う通夜・葬儀は珍しい」と評されるほど多くの俳優仲間・後輩が訪れ、一般の参拝客も相当数訪れた。通夜・葬儀の演出は石井ふく子が担当し、棺の葬儀場入りの際は、棺を乗せた車が1時間をかけて明治座、帝国劇場、芸術座をまわり、沿道には1万人のファンが集まった。ただ「過剰演出」「あれでは渡鬼葬」との批判も一部ではあった。
同年2月19日にTBSが放送した追悼番組は18.6%の高視聴率を獲得した。
エピソード
仕事においては人一倍厳しく、江戸っ子らしい竹を割ったような性格であった。自分にも厳しい反面、他人にも厳しかったという。
「おかみ三代女の戦い」で共演した、当時人気絶頂のアイドル・高橋由美子の素行の悪さに激怒し、「このチンピラ!!」と一喝したことがある(このことをきっかけに、化けの皮が剥がれ、高橋は人気が低迷したと言われている)。ただ、この件については週刊誌等による後追い記事で大げさに報道された側面も大きい。実際には番組制作発表の際に山岡が「高橋(由美子)さんは演技では優等生だけど、もし私だったら、あんなチンピラに旅館の女将は任せない」という発言をした事が発端とされており、後に高橋由美子自身が「徹子の部屋」において「あれは女子高校生が旅館の女将に抜擢されるというドラマ設定を踏まえた発言で、実際の山岡さんは優しかった」と発言し、また生前山岡との親交が深かった黒柳徹子も「山岡さんは(本心で)そんな事をおっしゃる方ではない」と発言した。また山岡の使った「チンピラ」という言葉自体、元来「駆け出しの若輩者」といったニュアンスでも使われる事から、必ずしも高橋本人の素行の悪さを指摘した言葉であったかどうかは今となっては不明である。
以上、Wikipediaより。
他には、宮沢賢治(詩人)、マザー・テレサ(修道女)、田中星児(歌手)、渡部絵美(元フィギュアスケート選手)。